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第五章
家庭教師との面談
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庭園の中央に設置された東屋にエリージェ・ソードルは移動した。
柔らかな色合いの花々に囲まれたそこは、エリージェ・ソードルの母、サーラ・ソードルの愛した場所で、彼女を慕う庭師達によって当時の状態が維持されている。
東屋の中央に置かれた大きな丸テーブルにエリージェ・ソードルは座った。
そのそばで、侍女ミーナ・ウォールがお茶の用意をし始めた。
弟マヌエル・ソードルとクリスティーナには勉強道具を取りに行かせている。
クリスティーナに関しては本来関係なかったのだが、文字の読み書きが苦手と知ったエリージェ・ソードルがこの際、教えることにした。
最初、めんどくさそうにしていたクリスティーナだったが、「本が読めるようになるわよ」というエリージェ・ソードルの言に、「なら頑張る!」と張り切っていた。
そんな様子を思い出して、エリージェ・ソードルは可愛らしいと笑みを漏らした。
ただ、そんな和やかな気持ちに水を差すような甲高い声が聞こえてきた。
「お嬢様、勝手なことをされては困ります!」
エリージェ・ソードルが視線を向けると、弟マヌエル・ソードルの家庭教師、クラウディア・コッホ伯爵夫人が近寄ってくるのが見えた。
クラウディア・コッホ伯爵夫人は、エリージェ・ソードルの前に立つと一礼する。
そして、丸眼鏡を人差し指で押し上げながら、眉間を険しくさせた。
「マヌエル様の貴族教育については、わたしが一任されています。
横やりを入れるのは止めて下さい!
このような――」
「そう、それは失礼しました」
エリージェ・ソードルは淡々と言うと、椅子を指した。
その態度に、クラウディア・コッホ伯爵夫人は顔を怒りに染めたが、何とかこらえたようで、丁寧な所作でそれに座った。
「少し聞きたいことがあります」
とエリージェ・ソードルは言う。
「先ほど、マヌエルに話を聞いたのですが、あの子、国歌が歌えないみたいです。
何故、教えないのですか?」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は一瞬、目を細めた。
そして、眉をハの字にして首を横に振った。
「マヌエル様にも困ったものです。
きちんと、執事に習うようにお伝えしたのですが……。
あの方は――このようなことを言うのはなんですが、人の話をきちんと聞いて下さらない時があります」
「そうなのですか?」
「ええ。
集中していないと言いますか、ぽーっとされていることがあるのです」
エリージェ・ソードルは顎に手をやり少し考えた。
「コッホ夫人、学習予定の一覧を持ってきて下さい」
「は?」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は少し間の抜けた声をあげた。
「集中できないのであれば、無理をしている部分があるのかもしれません。
確認します」
弟マヌエル・ソードルは姉に対して反抗的でめんどくさい部分はあるものの、勉強などに関しては生真面目である――というのがエリージェ・ソードルの評価であった。
意図的に指導を聞き流すなど、あの弟に限ってあり得ない。
であれば、そもそも予定そのものに無理があるのではないか?
エリージェ・ソードルはそう思ったのだ。
クラウディア・コッホ伯爵夫人はまたしても、眉を怒らせた。
「お嬢様!
先ほども言いましたが、横から口を挟むのは止めて下さい!
こちらには、こちらの予定が――」
エリージェ・ソードルはめんどくさそうにため息をついた。
「でも、出来て無いじゃないですか?」
「っ!?
それは、マヌエル様がこちらの指導を聞いていなかった事に――」
「……」
エリージェ・ソードルの瞳にヒンヤリしたものが混じる。
「何か勘違いをされているようなので訂正します。
”当家”があなたに依頼したのはマヌエルに一般教養を学ばせる事であって、伝わってもいないことをぺちゃくちゃ話して貰うということではありません」
「そ、それは!」
「そういうのはもう結構。
出来てないから確認する。
何か不都合でも?」
「っ!
……いえ、今からお持ちします」
一瞬、顔をゆがめたクラウディア・コッホ伯爵夫人であったが、すぐに体裁を整え、侍女の一人に指示を出した。
エリージェ・ソードルはため息を一つ吐き出すと、紅茶を一口飲んだ。
すると、横から誰かが近づいてくる気配を感じた。
視線をそちらに向けると、騎士リョウ・モリタが近づいてくるのが見えた。
「ご歓談中、失礼します」
騎士リョウ・モリタは椅子に座るエリージェ・ソードルにあわせるよう片膝をつき、頭を下げた。
「どうしたの?」
問いに、騎士リョウ・モリタはクラウディア・コッホ伯爵夫人を一瞬気にした。
そして、このように答えた。
「騎士団長からの伝言です。
お屋敷にある”入れ物”だと彼らだけで終わってしまうので少々心許ない、とのことです。
よければ、兵舎にあるものも使いたいとのことです」
要するに、元騎士を入れるための牢屋の事を言っているのだ。
ただ、クラウディア・コッホ伯爵夫人に聞かれるのは余り良くないとのことで、このような婉曲な物言いになったのだろう。
(配慮は正しいけど、指示を仰ぐのに万が一にも誤った解釈をされる可能性がある方法は良くないわね)
などと思いながらも、エリージェ・ソードルは頷いた。
「かまわないわ。
ミーナ、指示書を持ってきて」
「かしこまりました」
侍女ミーナ・ウォールがお盆に指示書の束と万年筆を持ってくる。
エリージェ・ソードルは指示書を一枚取ると、その上に万年筆の先を滑らせた。
覚え書きとして、先ほどの問題点も書き添えておく。
そこに、声がかかった。
「お嬢様、その万年筆は……」
「?
ああ、これは学会に貰ったものですよ」
エリージェ・ソードルは国王オリバーの勧めもあり、王立経済学会にエリージェ式について纏めた論文を提出している。
忙しい合間を縫っての事もあり簡素なものとなったが、学会の役員達からは『非常にわかりやすい!』と好評だった。
そして、年間優秀論文という表彰を受けることとなったのである。
賞金があるわけでもない、ただ名誉なだけの賞で、エリージェ・ソードルとしては無駄に時間を浪費したと内心不満であったが、賞品として渡されたこの万年筆の書き心地に関しては気に入っていた。
エリージェ・ソードルは視線を下に戻すと、再度、筆先を紙に落とした。
すると、またしても声がかかる。
「”お嬢様”式指示書ですか?
お嬢様、それの致命的欠点についてご理解頂けていますか?」
「何でしょう?」
そう言いながら、騎士リョウ・モリタに指示書を渡した。
騎士リョウ・モリタは恭しく頭を下げると、その場を退出した。
クラウディア・コッホ伯爵夫人が話を続ける。
「確かに紙に書いて渡せば失敗は減りますし、漏れも無くなるでしょう。
ただ、それに頼り切った使用人はどうでしょう?
それなくして何も出来ない、無能に成り下がるのではないですか?
貴族の――まして大貴族の使用人です。
主の指示ぐらい、一文一句全て暗記するのは当たり前です」
そこまで言うと、クラウディア・コッホ伯爵夫人は立ち上がり、エリージェ・ソードルの側に寄る。
そして、不出来な生徒に向かうような態度で、テーブルを右手の平で叩いた。
「指示書で甘やかす事でお嬢様、彼らの成長を阻害しているのです。
その辺り、お分かり頂けていますか?」
余りにも上からの物言いであった。
エリージェ・ソードルは別に、クラウディア・コッホ伯爵夫人の生徒ではない。
公爵代行であり、現在ではむしろ雇う立場である。
エリージェ・ソードルがまだ十歳であることを加味しても、誉められた態度ではなかった。
実際、近くにいた女騎士ジェシー・レーマーは顔をしかめた。
ところがである。
エリージェ・ソードルは気にしない。
どころか、「確かにそうですね」と同意すると、腰につけた鞄から紙の束を取り出す。
そして、その中の一枚を抜き取ると、そこにさらさらと書き込み始めた。
「現状を変えるのは――取りあえず止めておきましょう。
人手が足りない中、彼らに負担をかけるのは良くないものね。
ただ、成長を促すために何かしらする必要があるわね……」
「っ!」
この女、エリージェ・ソードルは知らない。
故に気づかない。
自身の態度がどれだけ、クラウディア・コッホ伯爵夫人を苛立たせているのか、知らない。
無理もない、この女は公爵家令嬢であり、公爵代理である。
”前回”も”今回”もだ。
だから知らない。
どちらが上かどうかを躍起になって示そうとする人間の心理など、知らない。
当たり前である。
大貴族の中の最高位である公爵家を背負い、その上の王族にいるのは敬愛する人間がそろっている女にとって多くの場合、競うべき相手ではない。
何かを示す必要がない。
自身が上なのは”当たり前”なのだ。
まして、たかだか伯爵家夫人など、この女にとっては取るに足りない人間である。
どちらが上なのかは明確なので、そこを争うことなど、無い。
そして、だからこそと言うべきかこの女、有能な人間に対して簡単に敬意を示す。
例えば、医師ベルトナ・ブレーメであり、例えば、クラウディア・コッホ伯爵夫人である。
両者共に、エリージェ・ソードルには無い知恵があり、技術がある。
故に、誤りを糾弾されれば頭を下げ、多少の無礼も目を瞑る。
中途半端な貴族なら体裁を無理に取り繕いたいが為に素直に受け入れることが出来ないことを、簡単に認める。
そうすることで、より力を借りることが出来るのならと、簡単に頭も下げるのだ。
それは、卑屈から遠い、むしろ余裕から生まれた態度であった。
そして、聡いクラウディア・コッホ伯爵夫人はそれを正しく理解していた。
故に苛立つのだった。
だが、エリージェ・ソードルは気づかない。
クラウディア・コッホ伯爵夫人の気持ちをそのままに、別の話をし始めた。
「そうそうコッホ夫人、夫人がマヌエルを指導している間、横でクリスって女の子に文字を教えていますから。
気になるでしょうけど、よろしくお願いしますね」
「クリス? というご令嬢はどのような方なのですか?」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は眉をひそめながら訊ねた。
それに対して、エリージェ・ソードルは頷きながら答える。
「ご令嬢ではありません。
平民の、使用人の娘です」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は露骨に顔を顰めた。
「お嬢様、何故そのようなことが必要なのですか!?
平民など、文字を覚える必要など無いではありませんか!
まして、あなたが教えるなど――」
「コッホ夫人」
エリージェ・ソードルは冷たく言い放つ。
「出すぎです」
ビクリとしたクラウディア・コッホ伯爵夫人だったが、その後、ガクガクと震え始めた。
「お嬢様は……。
お嬢様は身分で区別することがどれほど大切なのか、お分かりになっていらっしゃりません。
平民だろうが、”下位貴族”だろうが、大貴族の者に触れさせるなど、増長させるだけなのです!」
エリージェ・ソードルの眉が一瞬上がった。
そして、女の目がすっと細くなり、漆黒の瞳がクラウディア・コッホ伯爵夫人に向いた。
クラウディア・コッホ伯爵夫人はそれを傲然と受け止める。
そして、顔をエリージェ・ソードルに近づけるとゆがんだ口元のまま呟いた。
「公爵家に混ざりものなど不要です。
高貴なる血脈こそ相応しい。
そう思いませんか?」
「……なるほど」
エリージェ・ソードルは視線を右手に向けた。
先ほど使用したままの万年筆、その先が陽光に照らされて黄金色に輝いていた。
柔らかな色合いの花々に囲まれたそこは、エリージェ・ソードルの母、サーラ・ソードルの愛した場所で、彼女を慕う庭師達によって当時の状態が維持されている。
東屋の中央に置かれた大きな丸テーブルにエリージェ・ソードルは座った。
そのそばで、侍女ミーナ・ウォールがお茶の用意をし始めた。
弟マヌエル・ソードルとクリスティーナには勉強道具を取りに行かせている。
クリスティーナに関しては本来関係なかったのだが、文字の読み書きが苦手と知ったエリージェ・ソードルがこの際、教えることにした。
最初、めんどくさそうにしていたクリスティーナだったが、「本が読めるようになるわよ」というエリージェ・ソードルの言に、「なら頑張る!」と張り切っていた。
そんな様子を思い出して、エリージェ・ソードルは可愛らしいと笑みを漏らした。
ただ、そんな和やかな気持ちに水を差すような甲高い声が聞こえてきた。
「お嬢様、勝手なことをされては困ります!」
エリージェ・ソードルが視線を向けると、弟マヌエル・ソードルの家庭教師、クラウディア・コッホ伯爵夫人が近寄ってくるのが見えた。
クラウディア・コッホ伯爵夫人は、エリージェ・ソードルの前に立つと一礼する。
そして、丸眼鏡を人差し指で押し上げながら、眉間を険しくさせた。
「マヌエル様の貴族教育については、わたしが一任されています。
横やりを入れるのは止めて下さい!
このような――」
「そう、それは失礼しました」
エリージェ・ソードルは淡々と言うと、椅子を指した。
その態度に、クラウディア・コッホ伯爵夫人は顔を怒りに染めたが、何とかこらえたようで、丁寧な所作でそれに座った。
「少し聞きたいことがあります」
とエリージェ・ソードルは言う。
「先ほど、マヌエルに話を聞いたのですが、あの子、国歌が歌えないみたいです。
何故、教えないのですか?」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は一瞬、目を細めた。
そして、眉をハの字にして首を横に振った。
「マヌエル様にも困ったものです。
きちんと、執事に習うようにお伝えしたのですが……。
あの方は――このようなことを言うのはなんですが、人の話をきちんと聞いて下さらない時があります」
「そうなのですか?」
「ええ。
集中していないと言いますか、ぽーっとされていることがあるのです」
エリージェ・ソードルは顎に手をやり少し考えた。
「コッホ夫人、学習予定の一覧を持ってきて下さい」
「は?」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は少し間の抜けた声をあげた。
「集中できないのであれば、無理をしている部分があるのかもしれません。
確認します」
弟マヌエル・ソードルは姉に対して反抗的でめんどくさい部分はあるものの、勉強などに関しては生真面目である――というのがエリージェ・ソードルの評価であった。
意図的に指導を聞き流すなど、あの弟に限ってあり得ない。
であれば、そもそも予定そのものに無理があるのではないか?
エリージェ・ソードルはそう思ったのだ。
クラウディア・コッホ伯爵夫人はまたしても、眉を怒らせた。
「お嬢様!
先ほども言いましたが、横から口を挟むのは止めて下さい!
こちらには、こちらの予定が――」
エリージェ・ソードルはめんどくさそうにため息をついた。
「でも、出来て無いじゃないですか?」
「っ!?
それは、マヌエル様がこちらの指導を聞いていなかった事に――」
「……」
エリージェ・ソードルの瞳にヒンヤリしたものが混じる。
「何か勘違いをされているようなので訂正します。
”当家”があなたに依頼したのはマヌエルに一般教養を学ばせる事であって、伝わってもいないことをぺちゃくちゃ話して貰うということではありません」
「そ、それは!」
「そういうのはもう結構。
出来てないから確認する。
何か不都合でも?」
「っ!
……いえ、今からお持ちします」
一瞬、顔をゆがめたクラウディア・コッホ伯爵夫人であったが、すぐに体裁を整え、侍女の一人に指示を出した。
エリージェ・ソードルはため息を一つ吐き出すと、紅茶を一口飲んだ。
すると、横から誰かが近づいてくる気配を感じた。
視線をそちらに向けると、騎士リョウ・モリタが近づいてくるのが見えた。
「ご歓談中、失礼します」
騎士リョウ・モリタは椅子に座るエリージェ・ソードルにあわせるよう片膝をつき、頭を下げた。
「どうしたの?」
問いに、騎士リョウ・モリタはクラウディア・コッホ伯爵夫人を一瞬気にした。
そして、このように答えた。
「騎士団長からの伝言です。
お屋敷にある”入れ物”だと彼らだけで終わってしまうので少々心許ない、とのことです。
よければ、兵舎にあるものも使いたいとのことです」
要するに、元騎士を入れるための牢屋の事を言っているのだ。
ただ、クラウディア・コッホ伯爵夫人に聞かれるのは余り良くないとのことで、このような婉曲な物言いになったのだろう。
(配慮は正しいけど、指示を仰ぐのに万が一にも誤った解釈をされる可能性がある方法は良くないわね)
などと思いながらも、エリージェ・ソードルは頷いた。
「かまわないわ。
ミーナ、指示書を持ってきて」
「かしこまりました」
侍女ミーナ・ウォールがお盆に指示書の束と万年筆を持ってくる。
エリージェ・ソードルは指示書を一枚取ると、その上に万年筆の先を滑らせた。
覚え書きとして、先ほどの問題点も書き添えておく。
そこに、声がかかった。
「お嬢様、その万年筆は……」
「?
ああ、これは学会に貰ったものですよ」
エリージェ・ソードルは国王オリバーの勧めもあり、王立経済学会にエリージェ式について纏めた論文を提出している。
忙しい合間を縫っての事もあり簡素なものとなったが、学会の役員達からは『非常にわかりやすい!』と好評だった。
そして、年間優秀論文という表彰を受けることとなったのである。
賞金があるわけでもない、ただ名誉なだけの賞で、エリージェ・ソードルとしては無駄に時間を浪費したと内心不満であったが、賞品として渡されたこの万年筆の書き心地に関しては気に入っていた。
エリージェ・ソードルは視線を下に戻すと、再度、筆先を紙に落とした。
すると、またしても声がかかる。
「”お嬢様”式指示書ですか?
お嬢様、それの致命的欠点についてご理解頂けていますか?」
「何でしょう?」
そう言いながら、騎士リョウ・モリタに指示書を渡した。
騎士リョウ・モリタは恭しく頭を下げると、その場を退出した。
クラウディア・コッホ伯爵夫人が話を続ける。
「確かに紙に書いて渡せば失敗は減りますし、漏れも無くなるでしょう。
ただ、それに頼り切った使用人はどうでしょう?
それなくして何も出来ない、無能に成り下がるのではないですか?
貴族の――まして大貴族の使用人です。
主の指示ぐらい、一文一句全て暗記するのは当たり前です」
そこまで言うと、クラウディア・コッホ伯爵夫人は立ち上がり、エリージェ・ソードルの側に寄る。
そして、不出来な生徒に向かうような態度で、テーブルを右手の平で叩いた。
「指示書で甘やかす事でお嬢様、彼らの成長を阻害しているのです。
その辺り、お分かり頂けていますか?」
余りにも上からの物言いであった。
エリージェ・ソードルは別に、クラウディア・コッホ伯爵夫人の生徒ではない。
公爵代行であり、現在ではむしろ雇う立場である。
エリージェ・ソードルがまだ十歳であることを加味しても、誉められた態度ではなかった。
実際、近くにいた女騎士ジェシー・レーマーは顔をしかめた。
ところがである。
エリージェ・ソードルは気にしない。
どころか、「確かにそうですね」と同意すると、腰につけた鞄から紙の束を取り出す。
そして、その中の一枚を抜き取ると、そこにさらさらと書き込み始めた。
「現状を変えるのは――取りあえず止めておきましょう。
人手が足りない中、彼らに負担をかけるのは良くないものね。
ただ、成長を促すために何かしらする必要があるわね……」
「っ!」
この女、エリージェ・ソードルは知らない。
故に気づかない。
自身の態度がどれだけ、クラウディア・コッホ伯爵夫人を苛立たせているのか、知らない。
無理もない、この女は公爵家令嬢であり、公爵代理である。
”前回”も”今回”もだ。
だから知らない。
どちらが上かどうかを躍起になって示そうとする人間の心理など、知らない。
当たり前である。
大貴族の中の最高位である公爵家を背負い、その上の王族にいるのは敬愛する人間がそろっている女にとって多くの場合、競うべき相手ではない。
何かを示す必要がない。
自身が上なのは”当たり前”なのだ。
まして、たかだか伯爵家夫人など、この女にとっては取るに足りない人間である。
どちらが上なのかは明確なので、そこを争うことなど、無い。
そして、だからこそと言うべきかこの女、有能な人間に対して簡単に敬意を示す。
例えば、医師ベルトナ・ブレーメであり、例えば、クラウディア・コッホ伯爵夫人である。
両者共に、エリージェ・ソードルには無い知恵があり、技術がある。
故に、誤りを糾弾されれば頭を下げ、多少の無礼も目を瞑る。
中途半端な貴族なら体裁を無理に取り繕いたいが為に素直に受け入れることが出来ないことを、簡単に認める。
そうすることで、より力を借りることが出来るのならと、簡単に頭も下げるのだ。
それは、卑屈から遠い、むしろ余裕から生まれた態度であった。
そして、聡いクラウディア・コッホ伯爵夫人はそれを正しく理解していた。
故に苛立つのだった。
だが、エリージェ・ソードルは気づかない。
クラウディア・コッホ伯爵夫人の気持ちをそのままに、別の話をし始めた。
「そうそうコッホ夫人、夫人がマヌエルを指導している間、横でクリスって女の子に文字を教えていますから。
気になるでしょうけど、よろしくお願いしますね」
「クリス? というご令嬢はどのような方なのですか?」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は眉をひそめながら訊ねた。
それに対して、エリージェ・ソードルは頷きながら答える。
「ご令嬢ではありません。
平民の、使用人の娘です」
クラウディア・コッホ伯爵夫人は露骨に顔を顰めた。
「お嬢様、何故そのようなことが必要なのですか!?
平民など、文字を覚える必要など無いではありませんか!
まして、あなたが教えるなど――」
「コッホ夫人」
エリージェ・ソードルは冷たく言い放つ。
「出すぎです」
ビクリとしたクラウディア・コッホ伯爵夫人だったが、その後、ガクガクと震え始めた。
「お嬢様は……。
お嬢様は身分で区別することがどれほど大切なのか、お分かりになっていらっしゃりません。
平民だろうが、”下位貴族”だろうが、大貴族の者に触れさせるなど、増長させるだけなのです!」
エリージェ・ソードルの眉が一瞬上がった。
そして、女の目がすっと細くなり、漆黒の瞳がクラウディア・コッホ伯爵夫人に向いた。
クラウディア・コッホ伯爵夫人はそれを傲然と受け止める。
そして、顔をエリージェ・ソードルに近づけるとゆがんだ口元のまま呟いた。
「公爵家に混ざりものなど不要です。
高貴なる血脈こそ相応しい。
そう思いませんか?」
「……なるほど」
エリージェ・ソードルは視線を右手に向けた。
先ほど使用したままの万年筆、その先が陽光に照らされて黄金色に輝いていた。
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