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第四章
前回の弟マヌエル・ソードル1
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庭園に移ったエリージェ・ソードルが侍女ミーナ・ウォールの入れたお茶で喉を潤していると、領の侍女を取り仕切っている侍女長ブルーヌ・モリタが静かに側に寄ってきた。
彼女は政務官長マサジ・モリタの妻であり、騎士リョウ・モリタの母親であった。
長身の彼女はエリージェ・ソードルの足下をちらりと見た後、深々と頭を下げた。
「お嬢様、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。
この者は直ちにクビにします」
「不要よ」
と言いつつ、エリージェ・ソードルもちらりと視線を下げる。
そこには左頬を赤黒く腫らして白目を向く男が転がっていた。
その黄金色の長髪はさらさらと流れ、初夏を意識してか若草色の上着をしゃれた感じに着込んでいた。
そんな彼は数分前に、庭園にたどり着いたこの女を口説こうと近づき――女騎士ジェシー・レーマーに殴られたのであった。
彼の最大の不幸は、たまたま女騎士ジェシー・レーマーが視界から外れた位置にいたことだろう。
女騎士ジェシー・レーマーは苦笑する。
「いくら内密に訪問したとはいえ、お嬢様をナンパするとか……。
やはり、辞めさせた方が良いのでは?
そもそも、格好からして庭師にはとても見えませんし。
だいたい、まだ”お若い”お嬢様に対して……」
言葉を濁しているが、有り体に言えば”幼い”という事だろう。
侍女長ブルーヌ・モリタも苦笑する。
「彼の場合、女なら老若関わらず、こんな調子ですので」
「あら、ブルーヌ、あなたに対しても?」
「ええ」
「……剛胆ね」
「ただの馬鹿なのです、お嬢様」
そう言う、侍女長ブルーヌ・モリタの瞳には冷たいものは無い。
あの侍女長シンディ・モリタにすら『ややもすれば厳しすぎる』と評される彼女がこの通りであれば、おそらくこの庭師の彼には補うだけの人徳があるのだろう、とエリージェ・ソードルは思った。
「まあいいわ。
ブルーヌ、片づけて頂戴。
あと、クビにしなくて良いけど――」
そこで、クリスティーナの存在を思い出す。
「――わたくしがいる間は、謹慎させておいて」
「畏まりました」
「そういえば、ジンは元気にしているかしら?」
ジンとは老執事ジン・モリタのことだ。
彼はしばらく、王都の屋敷で療養していたのだが、この女が心配なのか何度も寝台から這い出ては、侍女長シンディ・モリタに戻されるを繰り返した。
そして、余りにもしつこいので、ついには公爵領にある政務官長マサジ・モリタの屋敷に静養という名の追放になっていた。
エリージェ・ソードルの問いに、侍女長ブルーヌ・モリタは苦笑する。
「体調の方は大分良さそうですが、お嬢様が公爵領に戻られると聞きつけ、落ち着きがなかったです」
エリージェ・ソードルも苦笑する。
「そう……。
まあいいわ。
近いうちに会いに行くと伝えておいて。
あと、マヌエルを呼んできて」
「畏まりました」
庭師が侍女長ブルーヌ・モリタに首根っこを掴まれ引きずられていく様子を眺めつつ、エリージェ・ソードルは少し考える。
(”あれ”が確か、マヌエルを命がけで守ったのよね)
その死に様は壮絶なものだったと聞いていた。
先ほど、軽薄な態度でこの女の手を取ろうとした男がだ。
(人間、見た目や言動だけでは分からないものね)
そこで、女騎士ジェシー・レーマーが訊ねてくる。
「お嬢様、マヌエル様にお会いになるのに、何故、このような物が必要になるんですか?」
視線を向けると、豪奢な庭園には場違いな巨大なタライが置かれていた。
その中にはタップリと水が張られ、初夏の陽光をキラキラと反射させていた。
普段は五、六人ほどの使用人達がシーツなどを洗うために使っている物で、先ほど、この女が準備させたものだ。
侍女ミーナ・ウォールも小首をひねっているので、同じ疑問を持っているのだろう。
エリージェ・ソードルは答える。
「それは、マヌエルを叩き込むためのものよ」
「はぁ?」
「えええ!?」
二人から別々の声が上がる。
侍女ミーナ・ウォールが慌てた感じで訊ねてきた。
「お嬢様!?
何故そのようなことが必要なのですか!?」
「必要なのよ……。
あの子、すっごく生意気だから、立場ってものを分からせるために、ね」
「いえいえ、お嬢様!
マヌエル様はどちらかというと、物静かな方だったと思うんですけど?」
「そうね、わたくしもそう思ってたのだけれど……」
そこで、この女、ふと疑問に思う。
(そういえばあの子、何であんなにも反抗的なのかしら?)
そして少し、前を思い返した。
”前回”の事だ。
この女が十四歳になり、魔石鉱山の騒動がようやく収拾し、領内も多少なりとも落ち着きを取り戻しつつある日のことだ。
王都の屋敷にある執務室で、エリージェ・ソードルは侍女長シンディ・モリタからこのような進言を受けていた。
曰く、そろそろマヌエル様の婚約者を探されては如何でしょうか?
それに対して、エリージェ・ソードルは「そうね」と少し考えた。
当時のこの女、弟マヌエル・ソードルとほとんど顔を合わせていない。
たまに公爵領ですれ違うぐらいで、食事も執務室で書類を確認しつつ取っていたこともあり、言われてようやく思い出すぐらいの有様であった。
むろん、会話も数えるほどしか無く、そのほとんどが、事務的なことを一言二言伝える程度のものであった。
だが、それも仕方がないことだった。
この時のエリージェ・ソードルはとにかく様々な対応に忙殺されていた。
朝早くから夜遅くまで、常に何かしらの書類を手にしていて、第一王子ルードリッヒ・ハイセルからの訪問を受けて、ようやく、それを手放すといった有様だった。
それぐらい、当時の公爵領は危機を迎えていたのである。
だが、それもようやく落ち着き、改めて考えてみると、なるほど、弟マヌエル・ソードルも十三になる。
大貴族ともなれば、十五歳の成人前にめぼしい少女を押さえる意味でも早めに婚約するのが当たり前であった。
なので、遅すぎるとまでは行かないが、のんびり構えて良い時期は、そろそろ過ぎていた。
とはいえである。
この女、弟マヌエル・ソードルのことがよく分からないこともさることながら、仕事にかまけて社交界から遠ざかっていた。
故にこの女、同じぐらいの少女についてほとんど知らない。
唯一、それなりに話すカルリーヌ・トレー伯爵令嬢には、すでに婚約者がいた。
どうしたものかと、少し思案した。
「ねえシンディ、どんな子がいいのかしら?」
「……本来であれば、使用人風情がそのような大事にお答えすべきではないのでしょうが……」
と侍女長シンディ・モリタは前置きをした。
エリージェ・ソードルには、相談するべき相手がいないのだ。
彼女としては役割うんぬんで拒否するのは不誠実だと判断したのだろう。
端的に答えた。
「今後、お嬢様が殿下の元に嫁がれることを考えると、マヌエル様の後ろ盾になって下さるお家のご令嬢が良いと思います」
「後ろ盾、ね……。
本来であれば、ルマ家から来て貰えると助かるのだけれど……」
侍女長シンディ・モリタは困ったように眉を八の字にした。
「ルマ家はマルガレータ王妃以降、ご令嬢はいらっしゃいませんね」
「ええ……。
そうすると、他の侯爵か辺境泊か大公か……。
余り、後ろ盾になって欲しい家はないわね」
「皆様、なかなか癖のある方々でございます」
侍女長シンディ・モリタは苦笑する。
王国の歴史的に見て、王家ハイセルともっとも近くに寄り添ってきたのはソードル家だ。
立ち位置としては他の有力な貴族への抑えといっても間違っていない。
そう考えると、親戚で祖父マテウス・ルマを始めとする、ほとんどと気心がしれているルマ家ならともかく、ほかの大貴族を頼るのには問題があった。
「もしくは、リーヴスリー家ね」
リーヴスリー家は伯爵ではあるが、有能な騎士を排出し続けるこの家は、歴代当主の勲章が本来の身分を高くかさ上げしていた。
エリージェ・ソードルは続けた。
「後ろ盾という意味では十分ね。
確か、オーメには妹がいたはずだから」
オーメとは幼なじみオーメスト・リーヴスリーの事だ。
「それは良縁になりそうですね。
お幾つですか?」
「確か、五つだったような……」
「少しお若いですね……」
侍女長シンディ・モリタは渋い顔をした。
貴族であれば幼い妻など珍しくもない。
ただ、現状のソードル家の場合、少し問題があった。
「出来るだけ早く、嫡子を望まれるのであれば、むしろ少し上の方が良い気がします」
「そうね」とエリージェ・ソードルも同意した。
現在のソードル家には、この女と弟マヌエル・ソードルしかいない。
エリージェ・ソードルが数年後、王家に嫁ぐとなれば、たった一人になる。
大貴族で継承者が一人というのは非常に良くない。
何か利益を求めて近寄ってくるものも増えるだろうし、他国からの謀略の標的にもなりえる。
そうなると、婚姻相手には速やかに子供を産んで貰わなくてはならないのだ。
「後ろ盾はこの際、諦めましょう。
最悪、わたくしがなるわ」
「そうですね」
順調にいけば、エリージェ・ソードルは王太子妃、そして、王妃になるのだ。
動きは多少制限されるものの、大貴族相手でもはねのけることは出来る。
「伯爵家以上で少し年上の令嬢――こんな所で良いかしら?」
「はい。
そうなると、他家に持って行かれる前に急いだ方が良いかもしれません」
「そうね。
お爺様にお願いして探して貰いましょう」
もしここで、そのまま祖父マテウス・ルマに話が行っていたとしたら、そもそも問題は起きなかったかもしれない。
ただ、この時のこの女、珍しく時間に余裕があった。
切迫感から解放されたこの女、普段は適材適所を旨としているにも関わらず、ふと考えた。
(ここ最近、お爺様に頼りっきりだったし、これぐらいは自分で何とかするべきかしら)
そこでこの女、まずは独自に動き始めた。
「年上で、子供を沢山産みそうな女性、ですか?」
エリージェ・ソードルの自室で、女騎士ジェシー・レーマーが訊ね返した。
「ええそうよ、ジェシー。
せっかくだし、出来ればマヌエルが喜びそうな美しい女性が良いわね」
女騎士ジェシー・レーマーは困ったように眉をハの字にした。
「正直、わたしも社交界から外れている女ですから、ご令嬢の知り合い自体少ないですし、独身ともなればなおのこといないですね」
「そう……。
あなたが伯爵令嬢なら良かったのにね」
「え、わたしですか!?」
「気心しれているし、ね」
「いえ年も離れていますし……。
あ、妾ならわたしでも役に立てるかも」
との答えに、エリージェ・ソードルはきっぱりと言う。
「駄目よ、何を言っているの?
そんなこと、お爺様に面目が立たないわよ。
それだったら、公爵夫人にするわ」
「いえ、それはご勘弁を。
ただ、少しでもお役に立てられればと思っただけで……」
エリージェ・ソードルは小首をひねった。
「何を言っているの?
今だって十分に助けられているわ。
……何かあったの?」
「いえ、何でもありません!」
「……そう?」
この女、少し気になったが、もう一人に話を振ってみる。
「リョウは……いなさそうね」
「ええ」
騎士リョウ・モリタは無表情ながらも、はっきりと答えた。
彼は堅物でその名が知られた騎士で、容姿や身分のために、幾人かの女性が近づいてはいたが、すべてはねのけていた。
そんな彼が、女性を紹介する様子は、少々想像ができない。
「困ったわね。
せめて、殿方がどのような女性を求めているかぐらいは教えて貰いたいのだけど」
エリージェ・ソードルが覗き込むように見つめると、騎士リョウ・モリタは困った様に眉を曲げる。
そこへ、助け船を出すように女騎士ジェシー・レーマーが答えた。
「お嬢様、男性の”そういった”話は、お嬢様のようなご令嬢相手にはなかなか出来ませんよ」
「そんなもの?
……こんな時にラースが居てくれたら、何かしらの答えはくれたでしょうに」
執事ラース・ベンダーは所用で公爵領にいる。
本来であれば、数日中には戻ってくるので、待てばよいのだが、この女、とかく性急に物事を進めたがる。
無駄かと思いつつも、いろんな人間に訊ねて回った。
そこで、興味深い話を聞くこととなった。
「良い嫁の条件、ですか?
よくぞ聞いて下さった!」
などと、意気揚々と語り始めたのは御者ニコ・ベルナーであった。
彼は中年をそろそろ過ぎる年齢故か、それとも、もの怖じしないその性格故か、普段から主であるエリージェ・ソードルに対しても、明け透けに話す。
この時も、ご令嬢に対して、いささか不適切な内容を話し始めた。
「良い嫁の条件、それはまず、お尻が大きいことです!」
「お尻が?」
「はい!」
と御者ニコ・ベルナーは大きく頷いた。
「子供を無事生むための土台がしっかりしていることもそうですが、何よりも、男は大きいお尻が大好きです!」
「そうなの?」と答えつつ、エリージェ・ソードルは少し考えた。
もしそうなら、嫡子を望むソードル家にとっても最善でありながら、弟マヌエル・ソードルが喜ぶという意味でも最高ではないか?
そう思った。
(そういえば、義母ミザラ・ソードルの尻も大きかったわね)
性格と頭はともかく、沢山の男を惹き付けた女だ。
この女は、非常に説得力のある話だと思った。
「次に声が大きい事です!
大きさだけではなく、物事をはっきりと述べることができる、そんな女です!
男は結局の所、そういう女性を求めているのです」
「声が大きい……」
エリージェ・ソードルは少し考えた。
令嬢の中には気弱なため、非常に小さな声でしか話すことが出来ない女性もいた。
特に、エリージェ・ソードルのような大貴族の前に立つと、不明瞭なことをボソボソと言うだけの女性もままいた。
木っ端貴族ならともかく、公爵夫人でそれは心許ない、と思えた。
(そういえば、王妃陛下も涼やかでありながら、とてもよく響く声でお話になるわね)
エリージェ・ソードルはうんうんと頷いた。
その様子に気を良くしたのか、御者ニコ・ベルナーは得意げな顔をしてさらに続けた。
「最後に、これは非常に重要な事です。
それは、出来るだけふくよかな女性が良いということです!」
「……ふくよか?」
「はい!
その通りです!」
これにはエリージェ・ソードル、小首をひねる。
オールマ王国の一般的美的感覚で言えば、腹部は細ければ細いほど良いとされていた。
なので、多くの令嬢は少しでもそう見えるように、固定するための装具を付けるぐらいだった。
この女とて礼装となれば、装具まではいかないまでも、腰が少し締まるようなものを選ぶ。
そんなことを考えていると、御者ニコ・ベルナーはなぜだか得意げな顔になった。
「お嬢様、男性と女性との感覚のずれについて、ご存じでしょうか?」
「なんのことかしら?」
「女性が美しい、または、かわいらしいと思う物に対して、男性が同じように感じるとは限らない、ということです」
「そうなの?」
とこの女にしては珍しく、目を少し見開いた。
御者ニコ・ベルナーはそれに気を良くしたのか「そうなのです!」と満面の笑みで続ける。
「多くのご令嬢は、いかに細くなるかについて心血を注いでいらっしゃいますが、男性に求められるという意味では多くの場合、無意味です。
男という生き物は、”多少”丸みがあった方が良いのです。
それを、多くのご令嬢はお分かりになっていないのです!」
熱弁する御者ニコ・ベルナーを眺めながら、なるほどと思った。
(そういえば、ウルフも似たようなことを言っていたわね)
もっとも、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンは仕事にかまけて食事を疎かにするこの女に対して、促す意味で言ったのだが、そのあたりは頭がさほど良くないエリージェ・ソードルは分かっていない。
だから、御者ニコ・ベルナーの言葉が裏付けられた気になった。
なので訊ねた。
「ねえニコ、具体的にどれぐらいが良いの?」
この時の、『どれぐらいが良い』は”一般的な男性”の好みを訊ねたのだが、熱の入っていた御者ニコ・ベルナーは迂闊にも、”自分”の事を聞かれたと勘違いをした。
だから、御者ニコ・ベルナーは力一杯答えた。
「具体的にはそうですねぇ~
お腹であれば顔が埋まるぐらいでしょうか?」
「顔が、埋まる……」
エリージェ・ソードルは自身の腹部に手を置いた。
顔どころか、指の先もほとんど埋まらない。
さらに、他の令嬢について思い出してみる。
数が少ないこともあるが――該当する人間はいないように思えた。
(装具で絞めていることもあるでしょうけど、皆、引き締まっていたような……。
あ!)
そこで、この女、一人の令嬢を思い出す。
リリー・ペルリンガー伯爵令嬢だ。
花という意味の名を持つ彼女は、カルリーヌ・トレー伯爵令嬢の取り巻きの一人から、『オールマのまん丸な花』と呼ばれていた。
とにかく、甘やかされて育った彼女は、臀部も腹部もはちきれんばかりに贅肉が詰まっていた。
さらに、礼儀作法もろくに学んでいないらしく、しゃべり方も下品な上、声が大きかった。
また、美男子がたまらなく好きで、美しい少年を見つけたら誰彼かまわず声をかけるので、社交場では鼻つまみ者であった。
だが、それでも追い出されないのは、ペルリンガー家が名門トレー家にも匹敵する名家だからであった。
(あら、あの子ってひょっとすると理想的な令嬢になるのかしら)
……弟マヌエル・ソードルにとって不幸なことは、御者ニコ・ベルナーのあげた全てを、リリー・ペルリンガー伯爵令嬢が網羅してしまっていたこともさることながら、迂闊な姉がリリー・ペルリンガー伯爵令嬢についてあれこれ考えていて、御者ニコ・ベルナーの「まあ、これは最近の個人的な好みで、若い頃はほっそりした子が好きでしたよ」という言葉を聞き逃したことであった。
彼女は政務官長マサジ・モリタの妻であり、騎士リョウ・モリタの母親であった。
長身の彼女はエリージェ・ソードルの足下をちらりと見た後、深々と頭を下げた。
「お嬢様、ご不快な思いをさせてしまい申し訳ございません。
この者は直ちにクビにします」
「不要よ」
と言いつつ、エリージェ・ソードルもちらりと視線を下げる。
そこには左頬を赤黒く腫らして白目を向く男が転がっていた。
その黄金色の長髪はさらさらと流れ、初夏を意識してか若草色の上着をしゃれた感じに着込んでいた。
そんな彼は数分前に、庭園にたどり着いたこの女を口説こうと近づき――女騎士ジェシー・レーマーに殴られたのであった。
彼の最大の不幸は、たまたま女騎士ジェシー・レーマーが視界から外れた位置にいたことだろう。
女騎士ジェシー・レーマーは苦笑する。
「いくら内密に訪問したとはいえ、お嬢様をナンパするとか……。
やはり、辞めさせた方が良いのでは?
そもそも、格好からして庭師にはとても見えませんし。
だいたい、まだ”お若い”お嬢様に対して……」
言葉を濁しているが、有り体に言えば”幼い”という事だろう。
侍女長ブルーヌ・モリタも苦笑する。
「彼の場合、女なら老若関わらず、こんな調子ですので」
「あら、ブルーヌ、あなたに対しても?」
「ええ」
「……剛胆ね」
「ただの馬鹿なのです、お嬢様」
そう言う、侍女長ブルーヌ・モリタの瞳には冷たいものは無い。
あの侍女長シンディ・モリタにすら『ややもすれば厳しすぎる』と評される彼女がこの通りであれば、おそらくこの庭師の彼には補うだけの人徳があるのだろう、とエリージェ・ソードルは思った。
「まあいいわ。
ブルーヌ、片づけて頂戴。
あと、クビにしなくて良いけど――」
そこで、クリスティーナの存在を思い出す。
「――わたくしがいる間は、謹慎させておいて」
「畏まりました」
「そういえば、ジンは元気にしているかしら?」
ジンとは老執事ジン・モリタのことだ。
彼はしばらく、王都の屋敷で療養していたのだが、この女が心配なのか何度も寝台から這い出ては、侍女長シンディ・モリタに戻されるを繰り返した。
そして、余りにもしつこいので、ついには公爵領にある政務官長マサジ・モリタの屋敷に静養という名の追放になっていた。
エリージェ・ソードルの問いに、侍女長ブルーヌ・モリタは苦笑する。
「体調の方は大分良さそうですが、お嬢様が公爵領に戻られると聞きつけ、落ち着きがなかったです」
エリージェ・ソードルも苦笑する。
「そう……。
まあいいわ。
近いうちに会いに行くと伝えておいて。
あと、マヌエルを呼んできて」
「畏まりました」
庭師が侍女長ブルーヌ・モリタに首根っこを掴まれ引きずられていく様子を眺めつつ、エリージェ・ソードルは少し考える。
(”あれ”が確か、マヌエルを命がけで守ったのよね)
その死に様は壮絶なものだったと聞いていた。
先ほど、軽薄な態度でこの女の手を取ろうとした男がだ。
(人間、見た目や言動だけでは分からないものね)
そこで、女騎士ジェシー・レーマーが訊ねてくる。
「お嬢様、マヌエル様にお会いになるのに、何故、このような物が必要になるんですか?」
視線を向けると、豪奢な庭園には場違いな巨大なタライが置かれていた。
その中にはタップリと水が張られ、初夏の陽光をキラキラと反射させていた。
普段は五、六人ほどの使用人達がシーツなどを洗うために使っている物で、先ほど、この女が準備させたものだ。
侍女ミーナ・ウォールも小首をひねっているので、同じ疑問を持っているのだろう。
エリージェ・ソードルは答える。
「それは、マヌエルを叩き込むためのものよ」
「はぁ?」
「えええ!?」
二人から別々の声が上がる。
侍女ミーナ・ウォールが慌てた感じで訊ねてきた。
「お嬢様!?
何故そのようなことが必要なのですか!?」
「必要なのよ……。
あの子、すっごく生意気だから、立場ってものを分からせるために、ね」
「いえいえ、お嬢様!
マヌエル様はどちらかというと、物静かな方だったと思うんですけど?」
「そうね、わたくしもそう思ってたのだけれど……」
そこで、この女、ふと疑問に思う。
(そういえばあの子、何であんなにも反抗的なのかしら?)
そして少し、前を思い返した。
”前回”の事だ。
この女が十四歳になり、魔石鉱山の騒動がようやく収拾し、領内も多少なりとも落ち着きを取り戻しつつある日のことだ。
王都の屋敷にある執務室で、エリージェ・ソードルは侍女長シンディ・モリタからこのような進言を受けていた。
曰く、そろそろマヌエル様の婚約者を探されては如何でしょうか?
それに対して、エリージェ・ソードルは「そうね」と少し考えた。
当時のこの女、弟マヌエル・ソードルとほとんど顔を合わせていない。
たまに公爵領ですれ違うぐらいで、食事も執務室で書類を確認しつつ取っていたこともあり、言われてようやく思い出すぐらいの有様であった。
むろん、会話も数えるほどしか無く、そのほとんどが、事務的なことを一言二言伝える程度のものであった。
だが、それも仕方がないことだった。
この時のエリージェ・ソードルはとにかく様々な対応に忙殺されていた。
朝早くから夜遅くまで、常に何かしらの書類を手にしていて、第一王子ルードリッヒ・ハイセルからの訪問を受けて、ようやく、それを手放すといった有様だった。
それぐらい、当時の公爵領は危機を迎えていたのである。
だが、それもようやく落ち着き、改めて考えてみると、なるほど、弟マヌエル・ソードルも十三になる。
大貴族ともなれば、十五歳の成人前にめぼしい少女を押さえる意味でも早めに婚約するのが当たり前であった。
なので、遅すぎるとまでは行かないが、のんびり構えて良い時期は、そろそろ過ぎていた。
とはいえである。
この女、弟マヌエル・ソードルのことがよく分からないこともさることながら、仕事にかまけて社交界から遠ざかっていた。
故にこの女、同じぐらいの少女についてほとんど知らない。
唯一、それなりに話すカルリーヌ・トレー伯爵令嬢には、すでに婚約者がいた。
どうしたものかと、少し思案した。
「ねえシンディ、どんな子がいいのかしら?」
「……本来であれば、使用人風情がそのような大事にお答えすべきではないのでしょうが……」
と侍女長シンディ・モリタは前置きをした。
エリージェ・ソードルには、相談するべき相手がいないのだ。
彼女としては役割うんぬんで拒否するのは不誠実だと判断したのだろう。
端的に答えた。
「今後、お嬢様が殿下の元に嫁がれることを考えると、マヌエル様の後ろ盾になって下さるお家のご令嬢が良いと思います」
「後ろ盾、ね……。
本来であれば、ルマ家から来て貰えると助かるのだけれど……」
侍女長シンディ・モリタは困ったように眉を八の字にした。
「ルマ家はマルガレータ王妃以降、ご令嬢はいらっしゃいませんね」
「ええ……。
そうすると、他の侯爵か辺境泊か大公か……。
余り、後ろ盾になって欲しい家はないわね」
「皆様、なかなか癖のある方々でございます」
侍女長シンディ・モリタは苦笑する。
王国の歴史的に見て、王家ハイセルともっとも近くに寄り添ってきたのはソードル家だ。
立ち位置としては他の有力な貴族への抑えといっても間違っていない。
そう考えると、親戚で祖父マテウス・ルマを始めとする、ほとんどと気心がしれているルマ家ならともかく、ほかの大貴族を頼るのには問題があった。
「もしくは、リーヴスリー家ね」
リーヴスリー家は伯爵ではあるが、有能な騎士を排出し続けるこの家は、歴代当主の勲章が本来の身分を高くかさ上げしていた。
エリージェ・ソードルは続けた。
「後ろ盾という意味では十分ね。
確か、オーメには妹がいたはずだから」
オーメとは幼なじみオーメスト・リーヴスリーの事だ。
「それは良縁になりそうですね。
お幾つですか?」
「確か、五つだったような……」
「少しお若いですね……」
侍女長シンディ・モリタは渋い顔をした。
貴族であれば幼い妻など珍しくもない。
ただ、現状のソードル家の場合、少し問題があった。
「出来るだけ早く、嫡子を望まれるのであれば、むしろ少し上の方が良い気がします」
「そうね」とエリージェ・ソードルも同意した。
現在のソードル家には、この女と弟マヌエル・ソードルしかいない。
エリージェ・ソードルが数年後、王家に嫁ぐとなれば、たった一人になる。
大貴族で継承者が一人というのは非常に良くない。
何か利益を求めて近寄ってくるものも増えるだろうし、他国からの謀略の標的にもなりえる。
そうなると、婚姻相手には速やかに子供を産んで貰わなくてはならないのだ。
「後ろ盾はこの際、諦めましょう。
最悪、わたくしがなるわ」
「そうですね」
順調にいけば、エリージェ・ソードルは王太子妃、そして、王妃になるのだ。
動きは多少制限されるものの、大貴族相手でもはねのけることは出来る。
「伯爵家以上で少し年上の令嬢――こんな所で良いかしら?」
「はい。
そうなると、他家に持って行かれる前に急いだ方が良いかもしれません」
「そうね。
お爺様にお願いして探して貰いましょう」
もしここで、そのまま祖父マテウス・ルマに話が行っていたとしたら、そもそも問題は起きなかったかもしれない。
ただ、この時のこの女、珍しく時間に余裕があった。
切迫感から解放されたこの女、普段は適材適所を旨としているにも関わらず、ふと考えた。
(ここ最近、お爺様に頼りっきりだったし、これぐらいは自分で何とかするべきかしら)
そこでこの女、まずは独自に動き始めた。
「年上で、子供を沢山産みそうな女性、ですか?」
エリージェ・ソードルの自室で、女騎士ジェシー・レーマーが訊ね返した。
「ええそうよ、ジェシー。
せっかくだし、出来ればマヌエルが喜びそうな美しい女性が良いわね」
女騎士ジェシー・レーマーは困ったように眉をハの字にした。
「正直、わたしも社交界から外れている女ですから、ご令嬢の知り合い自体少ないですし、独身ともなればなおのこといないですね」
「そう……。
あなたが伯爵令嬢なら良かったのにね」
「え、わたしですか!?」
「気心しれているし、ね」
「いえ年も離れていますし……。
あ、妾ならわたしでも役に立てるかも」
との答えに、エリージェ・ソードルはきっぱりと言う。
「駄目よ、何を言っているの?
そんなこと、お爺様に面目が立たないわよ。
それだったら、公爵夫人にするわ」
「いえ、それはご勘弁を。
ただ、少しでもお役に立てられればと思っただけで……」
エリージェ・ソードルは小首をひねった。
「何を言っているの?
今だって十分に助けられているわ。
……何かあったの?」
「いえ、何でもありません!」
「……そう?」
この女、少し気になったが、もう一人に話を振ってみる。
「リョウは……いなさそうね」
「ええ」
騎士リョウ・モリタは無表情ながらも、はっきりと答えた。
彼は堅物でその名が知られた騎士で、容姿や身分のために、幾人かの女性が近づいてはいたが、すべてはねのけていた。
そんな彼が、女性を紹介する様子は、少々想像ができない。
「困ったわね。
せめて、殿方がどのような女性を求めているかぐらいは教えて貰いたいのだけど」
エリージェ・ソードルが覗き込むように見つめると、騎士リョウ・モリタは困った様に眉を曲げる。
そこへ、助け船を出すように女騎士ジェシー・レーマーが答えた。
「お嬢様、男性の”そういった”話は、お嬢様のようなご令嬢相手にはなかなか出来ませんよ」
「そんなもの?
……こんな時にラースが居てくれたら、何かしらの答えはくれたでしょうに」
執事ラース・ベンダーは所用で公爵領にいる。
本来であれば、数日中には戻ってくるので、待てばよいのだが、この女、とかく性急に物事を進めたがる。
無駄かと思いつつも、いろんな人間に訊ねて回った。
そこで、興味深い話を聞くこととなった。
「良い嫁の条件、ですか?
よくぞ聞いて下さった!」
などと、意気揚々と語り始めたのは御者ニコ・ベルナーであった。
彼は中年をそろそろ過ぎる年齢故か、それとも、もの怖じしないその性格故か、普段から主であるエリージェ・ソードルに対しても、明け透けに話す。
この時も、ご令嬢に対して、いささか不適切な内容を話し始めた。
「良い嫁の条件、それはまず、お尻が大きいことです!」
「お尻が?」
「はい!」
と御者ニコ・ベルナーは大きく頷いた。
「子供を無事生むための土台がしっかりしていることもそうですが、何よりも、男は大きいお尻が大好きです!」
「そうなの?」と答えつつ、エリージェ・ソードルは少し考えた。
もしそうなら、嫡子を望むソードル家にとっても最善でありながら、弟マヌエル・ソードルが喜ぶという意味でも最高ではないか?
そう思った。
(そういえば、義母ミザラ・ソードルの尻も大きかったわね)
性格と頭はともかく、沢山の男を惹き付けた女だ。
この女は、非常に説得力のある話だと思った。
「次に声が大きい事です!
大きさだけではなく、物事をはっきりと述べることができる、そんな女です!
男は結局の所、そういう女性を求めているのです」
「声が大きい……」
エリージェ・ソードルは少し考えた。
令嬢の中には気弱なため、非常に小さな声でしか話すことが出来ない女性もいた。
特に、エリージェ・ソードルのような大貴族の前に立つと、不明瞭なことをボソボソと言うだけの女性もままいた。
木っ端貴族ならともかく、公爵夫人でそれは心許ない、と思えた。
(そういえば、王妃陛下も涼やかでありながら、とてもよく響く声でお話になるわね)
エリージェ・ソードルはうんうんと頷いた。
その様子に気を良くしたのか、御者ニコ・ベルナーは得意げな顔をしてさらに続けた。
「最後に、これは非常に重要な事です。
それは、出来るだけふくよかな女性が良いということです!」
「……ふくよか?」
「はい!
その通りです!」
これにはエリージェ・ソードル、小首をひねる。
オールマ王国の一般的美的感覚で言えば、腹部は細ければ細いほど良いとされていた。
なので、多くの令嬢は少しでもそう見えるように、固定するための装具を付けるぐらいだった。
この女とて礼装となれば、装具まではいかないまでも、腰が少し締まるようなものを選ぶ。
そんなことを考えていると、御者ニコ・ベルナーはなぜだか得意げな顔になった。
「お嬢様、男性と女性との感覚のずれについて、ご存じでしょうか?」
「なんのことかしら?」
「女性が美しい、または、かわいらしいと思う物に対して、男性が同じように感じるとは限らない、ということです」
「そうなの?」
とこの女にしては珍しく、目を少し見開いた。
御者ニコ・ベルナーはそれに気を良くしたのか「そうなのです!」と満面の笑みで続ける。
「多くのご令嬢は、いかに細くなるかについて心血を注いでいらっしゃいますが、男性に求められるという意味では多くの場合、無意味です。
男という生き物は、”多少”丸みがあった方が良いのです。
それを、多くのご令嬢はお分かりになっていないのです!」
熱弁する御者ニコ・ベルナーを眺めながら、なるほどと思った。
(そういえば、ウルフも似たようなことを言っていたわね)
もっとも、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンは仕事にかまけて食事を疎かにするこの女に対して、促す意味で言ったのだが、そのあたりは頭がさほど良くないエリージェ・ソードルは分かっていない。
だから、御者ニコ・ベルナーの言葉が裏付けられた気になった。
なので訊ねた。
「ねえニコ、具体的にどれぐらいが良いの?」
この時の、『どれぐらいが良い』は”一般的な男性”の好みを訊ねたのだが、熱の入っていた御者ニコ・ベルナーは迂闊にも、”自分”の事を聞かれたと勘違いをした。
だから、御者ニコ・ベルナーは力一杯答えた。
「具体的にはそうですねぇ~
お腹であれば顔が埋まるぐらいでしょうか?」
「顔が、埋まる……」
エリージェ・ソードルは自身の腹部に手を置いた。
顔どころか、指の先もほとんど埋まらない。
さらに、他の令嬢について思い出してみる。
数が少ないこともあるが――該当する人間はいないように思えた。
(装具で絞めていることもあるでしょうけど、皆、引き締まっていたような……。
あ!)
そこで、この女、一人の令嬢を思い出す。
リリー・ペルリンガー伯爵令嬢だ。
花という意味の名を持つ彼女は、カルリーヌ・トレー伯爵令嬢の取り巻きの一人から、『オールマのまん丸な花』と呼ばれていた。
とにかく、甘やかされて育った彼女は、臀部も腹部もはちきれんばかりに贅肉が詰まっていた。
さらに、礼儀作法もろくに学んでいないらしく、しゃべり方も下品な上、声が大きかった。
また、美男子がたまらなく好きで、美しい少年を見つけたら誰彼かまわず声をかけるので、社交場では鼻つまみ者であった。
だが、それでも追い出されないのは、ペルリンガー家が名門トレー家にも匹敵する名家だからであった。
(あら、あの子ってひょっとすると理想的な令嬢になるのかしら)
……弟マヌエル・ソードルにとって不幸なことは、御者ニコ・ベルナーのあげた全てを、リリー・ペルリンガー伯爵令嬢が網羅してしまっていたこともさることながら、迂闊な姉がリリー・ペルリンガー伯爵令嬢についてあれこれ考えていて、御者ニコ・ベルナーの「まあ、これは最近の個人的な好みで、若い頃はほっそりした子が好きでしたよ」という言葉を聞き逃したことであった。
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