上 下
1 / 126
第一部 第一章

プロローグ

しおりを挟む
 青白い雷光が室内を照らし、轟音がそれを追う。
 一度、二度、三度、威嚇するように泣き叫ぶようにそれは繰り返される。
 だが女は――動かない。
 小さく形の良い顔も、肩から流れる黄金色の髪も、豊満な胸から下に向かってすらりと引き締まった上半身も、長椅子に沈む程良く丸みのある臀部も、長スカート越しにも分かるその細い足も、全く動かさない。
 それに苛立つように雷鳴が、豪雨が、砕かれた窓ガラスを越えて、王立学院生徒会の応接間になだれ込んでくる。
 それでもなお、動かない。

 この女、エリージェ・ソードルという。

 名門公爵であるソードル家の長女であり、亡き父の代わりに公爵代理を務めている。
 ただ現在は、その高き身分にふさわしい豪奢なドレスではなく、品は良いものの素朴な学園の制服を身につけていた。

 エリージェ・ソードルという女、およそ愛想というものを持ち合わせていない。

 この女を知るものの大半が、彼女の微笑すら見たことがない。
 想像すら出来ない。
 無愛想――ある程度のものなら達観を連想する。
 エリージェ・ソードルとはそういう女であった。

 だが、そんな女が今、笑みを浮かべた。

 口元を綻ばす機能が失われているとまで言われたこの女が――満面にそれを満ちあふれさせた。
 そればかりか、熱い吐息すら漏らしている。
 この女を知るものが見たら驚愕し、目を疑い、妖艶なその表情に、男女ともに顔を赤めることだろう。

 エリージェ・ソードルは、”完全”に手に入れた。

 エリージェ・ソードルは完全に手に入れた。
 欲しいものを手に入れた。
 もう、何もいらない。
 それ以上は冗長となる。
 いらない。
 いらない。
 エリージェ・ソードルは完全に満たされたのである。

 エリージェ・ソードルは視線を右隣にいる人間に移す。
 そして、その頬を優しく撫でた。

 その男、ルードリッヒ・ハイセルという。

 オールマ王国第一王子”だった”。
 その黄金色の瞳は柔らかく、エリージェ・ソードルをいつも見つめていた。
 今は、目を閉じているので残念ながらそれを見ることが出来ない。
 それでも構わない。
 ただ、いてくれるだけで構わない。
 その頬は冷えてきていたが、エリージェ・ソードルは構わなかった。

 エリージェ・ソードルは視線を左隣にいる人間に移す。

 その男、オーメスト・リーヴスリーという。

 武勇に優れた一族、リーヴスリー伯爵の嫡子で現大将軍の息子で”あった”。
 その紅の瞳は炎のように熱く、装っている軽薄さとは裏腹なその負けん気を表しているようだった。
 今は、目を閉じ、”粗相”で胸元を赤く濡らしたまま、眠っている。
 エリージェ・ソードルはそれが残念であったが、仕方が無くも、思う。
 そう、それで構わない。
 構わないのだ。

 エリージェ・ソードルは視線を右下にいる、女の足にしなだれるようにもたれ掛かる人間に移す。

 その男、マヌエル・ソードルという。

 エリージェ・ソードルの異母弟で”あった”。
 その若草色の瞳はいつも挑発するように輝いていたが、彼のその声音はエリージェ・ソードルの心を落ち着かせてくれた。
 だが、今はその目も、その口も、閉じられている。
 それは残念であったが、仕方が無くも思う。
 そう、それで構わないのだ。
 次にエリージェ・ソードルは視線を左に移す。

 その男、アールシェ・ルビド・カーンという。

 南東にある国インディール王国第二王子――。

 空気を揺する鈍い音にエリージェ・ソードルは視線を戸に移した。
 両開きの扉が激しく揺れ、外から男達の怒声が聞こえてきた。
 エリージェ・ソードルは眉間を強ばらせ、白い奥歯を強く噛みしめた。

 ここはエリージェ・ソードルがようやく、ようやく、ようやく、作り出した楽園なのだ。

 楽園で”なければ”ならない場所なのだ。

 エリージェ・ソードルのしなやかな体から、モヤりと黒い物が沸き上がった。

 人々はそれを”黒い霧”と呼ぶ。

 現状、エリージェ・ソードルのみが体現できる、魔力の霧だ。
 それが、雪原を滑る雪崩のように扉へ殺到する。
 そして、わずかな隙間からするりと外に出た。

 怒声が悲鳴となる。

 激しく物がぶつかり合う音がドア越しに聞こえてきた。
 煩わしい。
 本当に煩わしい。
 この楽園に比べたら、外界のなんと煩わしいことか。
 だが、それもすぐに終わる。
 エリージェ・ソードルの口元が再び柔らかく綻びる。
 その視線は温かく、微かな熱さを含めて、愛しい人たちへと注がれた。

「やめてください!」
 突然、男達の中に、若い女性の声が混ざった。
「お嬢様は!
 お嬢様は、本当はお優しい方なのです!」

 え?

 遠くから聞こえる声に、エリージェ・ソードルは少し目を見開く。
 聞き覚えのある声だったからだ。
 ミーナ・ウォール――幼い頃、エリージェ・ソードルの侍女をしていた女性だ。

 何故、ミーナが? 

 その思考の隙間――それを抜けるように、ドアが破れた。

 !?

 エリージェ・ソードルが反応するより前に、白い何かがスルリと迫ってきた。
 胸へ強い衝撃、次の瞬間、後頭部に鈍い痛みが走った。
「あ、あ?」
 火花が散るような衝撃の後、エリージェ・ソードルの視線に写ったのは、己のふくよかな左胸に刺さる銀色の刃――そして、そこから噴き上がる赤いしぶきだった。
 目の前には騎士がいた。
 白い全身鎧姿のため、兜で顔は見えない。
 ただ、無遠慮に大剣を女の胸に突き立てていた。
 喉から何かが湧き出てきて、令嬢としてあるまじき事に、それを吐き出してしまう。

 それは真っ赤に染まっていた。
 エリージェ・ソードルはそれを呆然と見つめた。

「殿下!
 殿下!」
「まさか亡くなって……」

 白騎士越しに、目の前に先ほど座っていた長椅子が見える。
 その時、エリージェ・ソードルはようやく、自分が剣を突き立てられたまま、壁まで押し貫かれた事に気づく。
「っ!?
 何を……してるぅぅぅ!」
 エリージェ・ソードルは目を見開き、叫んだ。
 それは自分に剣を突き立てていることを訊ねたのではない。
 目の前の騎士と同じ鎧を着た男達が、”勝手に”自分の愛しい人たちに触っている事をいっているのだ。

 ”それは”、わたくしのだ!
 わたくしのものだぁぁぁ!

「ひぃ!?」
 その禍々しい気配に気づいたのか、男達が慌てて、剣をこちらに向ける。
 エリージェ・ソードルの体から、黒い霧が穴の開いた壷からこぼれる水のように、ゴボゴボと溢れ床を覆い始める。

 許さない……絶対に許さない。

 この女、すでに心臓が潰されている。
 それでもなお動くのは、この女の恐るべき魔力が死を押し返しているからだ。

 だが、それでも――じきに死ぬ。

 黒い霧は男達一人一人に取り付いていく。
 足から膝へ、膝から腰へ、腰から腕へ首へ……。
 男達の声が震え上がるように高く上がる。

 誰一人逃さない。
 誰一人として許さない。

 苦痛と恐怖の声で埋め尽くされる部屋の中、ただの一人のみ静かにエリージェ・ソードルを見つめていた。
 この女の胸に、未だに剣を突き立てている男だ。
「お嬢様……」
 男は呟くように言った。
 小さく、それでもエリージェ・ソードルの耳には届いた。
 その声に、そして、兜の隙間から覗く瞳から、エリージェ・ソードルは気づいた。
 エリージェ・ソードルの目が大きく見開かれる。
「あなた……。
 リョウ、なの?」
 かつて、自分に仕えた男の名を呟く。
「お嬢様……」
 エリージェ・ソードルは騎士リョウ・モリタが自分を見る目に狂気じみたものを感じた。
 愛憎入り交えたというべきか、この女はそんなものをかつての使用人に感じた。
「お嬢様ぁぁぁ!」
 騎士リョウ・モリタはエリージェ・ソードルの胸から剣を乱暴に抜いた。
 エリージェ・ソードルの体が前のめりに倒れて行く。

 なぜ?
 だが、その答えは出ない。

 その代わりに、エリージェ・ソードルの視界に飛び込んだのは――一つの指輪だった。
 公爵家の――黄金こがね色に輝く指輪印である。
 普段から胸元に肌身離さず付けていたそれが、弾みで鎖が切れて飛び出てしまったのである。

 あっ……。

 エリージェ・ソードルはそれに手を伸ばした。
 楽園を壊した男達方への復讐よりも、掠れていく自身の命よりも、”それに”向けて必死に手を伸ばした。
 その姿は見苦しく、そして、愚かしかった。

 だがしかし、楽園を狂おしいほど求めてしまった公爵令嬢――その最後は実に、この女”らしい”ものでもあった。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された私は、処刑台へ送られるそうです

秋月乃衣
恋愛
ある日システィーナは婚約者であるイデオンの王子クロードから、王宮敷地内に存在する聖堂へと呼び出される。 そこで聖女への非道な行いを咎められ、婚約破棄を言い渡された挙句投獄されることとなる。 いわれの無い罪を否定する機会すら与えられず、寒く冷たい牢の中で断頭台に登るその時を待つシスティーナだったが── 他サイト様でも掲載しております。

私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜

AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。 そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。 さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。 しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。 それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。 だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。 そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。

キャラ交換で大商人を目指します

杵築しゅん
ファンタジー
捨て子のアコルは、元Aランク冒険者の両親にスパルタ式で育てられ、少しばかり常識外れに育ってしまった。9歳で父を亡くし商団で働くことになり、早く商売を覚えて一人前になろうと頑張る。母親の言い付けで、自分の本当の力を隠し、別人格のキャラで地味に生きていく。が、しかし、何故かぽろぽろと地が出てしまい苦労する。天才的頭脳と魔法の力で、こっそりのはずが大胆に、アコルは成り上がっていく。そして王立高学院で、運命の出会いをしてしまう。

強制力がなくなった世界に残されたものは

りりん
ファンタジー
一人の令嬢が処刑によってこの世を去った 令嬢を虐げていた者達、処刑に狂喜乱舞した者達、そして最愛の娘であったはずの令嬢を冷たく切り捨てた家族達 世界の強制力が解けたその瞬間、その世界はどうなるのか その世界を狂わせたものは

【完結】聖女が性格良いと誰が決めたの?

仲村 嘉高
ファンタジー
子供の頃から、出来の良い姉と可愛い妹ばかりを優遇していた両親。 そしてそれを当たり前だと、主人公を蔑んでいた姉と妹。 「出来の悪い妹で恥ずかしい」 「姉だと知られたくないから、外では声を掛けないで」 そう言ってましたよね? ある日、聖王国に神のお告げがあった。 この世界のどこかに聖女が誕生していたと。 「うちの娘のどちらかに違いない」 喜ぶ両親と姉妹。 しかし教会へ行くと、両親や姉妹の予想と違い、聖女だと選ばれたのは「出来損ない」の次女で……。 因果応報なお話(笑) 今回は、一人称です。

政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~

つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。 政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。 他サイトにも公開中。

【完結】目覚めたらギロチンで処刑された悪役令嬢の中にいました

桃月とと
恋愛
 娼婦のミケーラは流行り病で死んでしまう。 (あーあ。贅沢な生活してみたかったな……)  そんな最期の想いが何をどうして伝わったのか、暗闇の中に現れたのは、王都で話題になっていた悪女レティシア。  そこで提案されたのは、レティシアとして贅沢な生活が送れる代わりに、彼女を陥れた王太子ライルと聖女パミラへの復讐することだった。 「復讐って、どうやって?」 「やり方は任せるわ」 「丸投げ!?」 「代わりにもう一度生き返って贅沢な暮らしが出来るわよ?」   と言うわけで、ミケーラは死んだはずのレティシアとして生き直すことになった。  しかし復讐と言われても、ミケーラに作戦など何もない。  流されるままレティシアとして生活を送るが、周りが勝手に大騒ぎをしてどんどん復讐は進んでいく。 「そりゃあ落ちた首がくっついたら皆ビックリするわよね」  これはミケーラがただレティシアとして生きただけで勝手に復讐が完了した話。

契約破棄された聖女は帰りますけど

基本二度寝
恋愛
「聖女エルディーナ!あなたとの婚約を破棄する」 「…かしこまりました」 王太子から婚約破棄を宣言され、聖女は自身の従者と目を合わせ、頷く。 では、と身を翻す聖女を訝しげに王太子は見つめた。 「…何故理由を聞かない」 ※短編(勢い)

処理中です...