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第一章

憤怒

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サンクラム城、その内の一室にてシンプルながらも見事な造型の机にて狼の姿をした人が書類と向かい合っている。
いくつか束になって山になってはいるが、おおよそ半数が目を通して片付けてあるものばかりなので、見た目ほど量は多くなかった。
とはいえ一人で対応するにしてもまだまだ終わらないため、ロドスは黙々と作業をしていく。
そこへ扉を丁寧にノックしてから静かに入室してくるのは、メイド服を纏った犬人の女性がテーブルワゴンを引いて現れた。

「殿下、お茶が入りました」
「ありがとう、そこへ置いてくれ」
「そろそろ休憩をなさいませんか? 朝からかかりきりではないですか。 休むのも仕事ですよ」
「そう言われてもな、ニーシャから明日までにこれを片付けてくれと言われてるんだ」
「はぁっ、もうあの子ときたら……」
「良いんだよミュシェ、無理を言ってるのはこちらだから気にしないさ」

穏やかな声に反応して耳こそ動かすが、視線はそのまま、手に持つペンを書類に走らせつつロドスは答える。
ミュシェと呼ばれた女性が休息を促すよう提案すれど、仕事から逃げるわけにはいかないと従者に頼まれた業務の期日を思い出した。
明日まで、というのはさすがに無理があるのはロドスもメイドもため息が出るのだが、あながち間違っていないので強くも出れない。
とはいえいい加減疲れも出てきたので、そっと差し出されたティーソーサーを取り、カップの持ち手を掴んで優雅に口へと運んだ。
程よく温かい紅茶の香りと、ほんの少し加えた蜜の甘さが狼の身体に染み渡っていく。

「……ふぅっ。 そういえばミュシェのお茶も久しぶりだな」
「そうですね。 まさかこれほど長期に渡るとは思いませんでしたし、思えばもう10年近く経ちましたね」
「あぁっ、長かった。 本当に、長かった……」
「ディブロ様にはもうお話に?」
「いやっまだだ。 話すタイミングがな、近々伝えるつもりではいるんだ」
「なるほど。 諸々の準備もありますが、やはり戸惑われるのは必然ですね。 私もできうる限り助力いたします」
「あぁっそうしてくれ」

王族と従僕という立場にはあるものの、ロドスとミュシェにはそういった壁は際立っているようには見えず話をしている。
ふと、共に窓の外へ視線を向けると感慨深く浸りながらお互いに決心をした時だ。
ノック音が数回響いてから扉を開けて現れたのは、見慣れた従者が入室する。

「失礼します」
「ニーシャ。 案内は終わったのか?」
「……はい」
「ニーシャ、なんですかその態度は! 殿下の問いにはキチンとーー」
「ミュシェ、良いんだ」
「しっしかし……」
「ーーさて我が従者よ、何があったのかな?」
「……その前にひとつ、怒らないと誓ってくれますよね?」
「俺が認める前提で話を進めようとするな。 内容次第だ、ほらっ報告しろ」

スタスタと机の前まで歩いてきた猫人の顔はいつになく憮然とした表情を浮かべ、明らかに従者のするべき態度ではない。
先達として諌めるミュシェの怒りを遮り、ロドスは柔らかく促すのは、この時の態度が明らかにマズいことがあったときと分かっているためだ。
ニーシャも主がよく分かっているので、前置きとばかりお叱りはしないと要求している厚かましさはあるも、さほど気にせず言葉を求められる。
そっとため息をつき、先ほどまで何があったのかをしずしずと報告するのだった。


「ーー以上です。 今は客間にお連れして安静にしてもらっています」
「……ニーシャ、冗談も大概になさい?」
「いえっ全くもって呆れてものが言えないですが、事実です。 ミュシェ統括長」
「何故そんなことになったのです!? 一歩間違えば大事になっていたこと、分かっているのですか!?」
「……申し訳ありません」
「謝って済む問題ではーー!」
「ミュシェ、ちょっと黙ってくれ。 ニーシャ、それで未遂に終わったんだな」
「なんとか辛うじて。 刻印も現れる兆候がありませんので、問題ないかと」
「……はぁっ、やれやれ。 外出させない方が良かったか、失態だな」

経緯全て説明するニーシャの態度は変わらずだが、正面にて座る主は表情が固まり、傍らのメイドは頭を抱えてしまう。
嘘であってほしいと願うも、あっさりすぎるほどに現実と告げられたので、ミュシェは思わず怒鳴り声をあげた。
問題を引き起こした罪悪感はニーシャ自身も抱いているらしく、伏し目がちに謝罪する。
収まらない憤怒に荒ぶる犬人の女性に、威厳を垣間見せながらロドスは彼女の行動を止めた。
ともあれ一番重要な点について、問題がないか改めて確認したところで、狼はホッとしたように息をつく。

「ミュシェ、まずニーシャに非はない。 元々外出について反対していたところに、私が許可したんだ」
「ですがーー!」
「良いんだ、ふざけるなと張り倒されても意見を曲げなかった私にも非がある」
「ちょっと待ってください、今朝物々しかったのはそんなことがあったのですか?」
「それはそれだ。 ともあれ、助かったぞニーシャ。 阻止できたのは僥倖だ」
「……大丈夫だろうと思った私にも問題があります。 申し訳ありませんでした」

ロドスの心から安心したような態度の中に、迂闊な許可を出したことへの後悔が生まれていた。
ミュシェからすれば何から何まで聞いていない上に、ニーシャの主人に対する不敬まで発覚したため、眼光鋭く睨み付ける。
知らぬ存ぜぬの態度をしつつも、傍にいなかった点については従者としてあるまじき失態としてこちらはこちらできちんと反省していた。
煮え返られない場の空気にメイドだけが悶々とするも、自分が悩んでも始まらないと彼女も考えることをやめる。

「それでは、ディブロ様と今晩にも?」
「あぁっ、きちんと説明してから始めたかったが、その余裕はないだろうな。 ニーシャ、頼んでいたものは?」
「こちらに」
「ーーよし。 では今宵一晩任せるぞ」
「かしこまりました、殿下」
「ロドス様、ひとつお尋ねしても?」
「なんだいミュシェ?」
「……剣を持ってどちらへ行かれようとしているのです?」
「はっはっはっ、決まっているじゃないか。 人様の番に手を出した不届き者を粛清しに行くのさ」
「その点についてはご安心を。 あれについてはこれから私が赴いて地獄を見せるつもりですから」
「ニーシャ、貴方は貴方で程々にしておきなさい……」

最悪の事態こそ免れたものの、段取りを大幅に早めなければならない展開になったため、ロドスはこの場にいる従者達に指示を出し、動き出そうとする。
ただその前にちょっと、と言わん風に机から少し離れたところに立てかけていた愛用の剣を持ち、仄暗い顔を浮かべる狼の姿にメイドは制止を促す。
本来なら側近が行うべきことだが、猫は猫で手を鳴らして殴り足りないと言わんばかりに覇気を醸し出しているため、ミュシェは止められないと諦めるしかなかった。
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