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十はち。女神さまリターン!
しおりを挟む回帰するまえの人生で、わたくしは何度クリスティアナという名前を呼ばれたのかしら。
わたくしの名をはじめに呼んだのは、まず間違いなくわたくしを命名した両親。ついで兄。
伯爵家にいたころは、一番仲良しの侍女だったジャスミンでさえ、わたくしのことは『お嬢さま』と呼んでいました。ほかの使用人たちもそう。名前呼びなどされません。
公爵家に嫁ぐと『お嬢さま』から『奥さま』へと呼び方が変わりました。
子どもたちは当然のことながら、わたくしを呼ぶときは『お母さま』。あぁ、息子たちは長ずると『母上』と呼んでくれましたね。
王妃陛下を始めとする社交界で知り合ったひとたちからは『カレイジャス公爵夫人』と呼ばれました。
学園で知り合い、友と認識するほど親しくなった方たちからは、『クリス』と愛称で呼ばれるように。
つまり、わたくしの名を呼ぶひとは、年上の肉親か、わたくしととても近しく親密な友くらいしかいないということです。
肉親でもなく友でもない、けれどわたくしの名を呼ぶ権利のあるひとがたったひとり、います。
それはわたくしの伴侶、ジュリアン・カレイジャスさま。
夫ですもの。とうぜん、わたくしの名を呼べるひとです。
けれど、前回の旦那さまがわたくしの名を呼んだのは、たぶん数えるほど。婚約者だったときに数回あったことです。
しばらくは他人行儀に『ブリスベン伯爵令嬢』などと呼ばれ、やがて『クリスティアナ嬢』に変わったころに結婚しました。
結婚してから名を呼ばれた思い出は……あまりありません。
ジュリアン・カレイジャスというひとは、そんなひとでした。
そのひとが。
もうね。
一生分以上、わたくしの名を呼ぶのです。閨事のあいだ中。ずっと。
こちらが切なくなってしまうような、甘く掠れた声で。
無我夢中、といった感じで。
「あいしてる」ということばも時おり挟んで。
これは「馬鹿の一つ覚え」っていうものなのでは? と呆れつつ、なんだか嬉しいと思うわたくしもいつつ……。
もうね。なんて言ったらいいのか分かりませんが……、今まで我慢してきた(ご本人談)反動、とでもいうのでしょうかね。
わたくしの名前を何度も何度も何度も何度も、呼び続けてくださいましてね。
もうね、どうしたら良かったのでしょうか。
そんなこんな、あれやこれや、かくかくしかじか……がありまして。
ひさかたぶりにジュリアンさまの腕枕で寝入った、ちょっと幸せな悲鳴をあげた夜。
わたくしの意識は、いつの間にか【見知らぬ場所】にいました。
【見知らぬ場所】ですが、見覚えのある場所です!
ここは、あの女神さまとお会いした場所ではありませんかっ!
どうしてまたここに?
わたくし、また死んでしまったのでしょうか。
『どう? クーちゃん。エンジョイしてる?』
慌てて辺りを見渡すわたくしの耳に、聞き慣れない「クーちゃん」呼び。わたくしをこう呼ぶのは、後にも先にもたったおひとり(一柱?)しかいません!
こののんびりとしたお声はあの女神さまではありませんか!
姿を現した女神さまはやっぱり見上げるほど大きくて、なにやら発光していて……以前お会いしたときとお変わりないごようすです……。
「女神さま。わたくし、また死んでしまったのでしょうか」
死んでしまったから、またこの『女神の間』に召喚されたのでしょうか。
せっかく……せっかくジュリアンさまと仲直りしたというのに。
『あぁ違う違う。違うから、そんな泣きそうな顔しないで』
わたくし泣きそうな顔なんて……していましたの?
『あのね。あなたに謝らなければならない案件が発生したからその確認……というか、了承を取るため? に、もう一回召喚しちゃったの』
了承を取るためにもう一度召喚、ですか。どういうことでしょう?
『まえの人生ではね、あなたは医学界の聖人……女性だから聖女? 扱いだったのよ。歴史書にも載るような。あなたの娘の強烈なプロパガンダのおかげなんだけどね』
娘のプロパガンダ……。エリカがなにかやらかすと。
あの子なら、まああり得ますわね。それがなにか?
『やり直しの今生では、それがないの。ごめんなさいね』
それがない……とは? どういう意味なのでしょう。
『あなた、病気にならないのよ』
はい? 病気に、ならない?
『そう。もともとあなたの病状はストレスフルからくる胃潰瘍が悪性腫瘍に変異しリンパ腫になって身体中に転移して……ってな具合で進むのね。
でも今生でのあなたはね、このまま生活するとね、それほどストレス感じないで悠々自適に過ごすことになるのよね……』
悠々自適……?
あの痛みを、苦しみを、また味わうことはない、のですか……。
『あなた、孫の顔まで見れるどころか、夫の葬儀で喪主になるわ』
孫?
夫の葬儀で喪主に?
わたくし、長生きできるというのですか?
『そうよ。でもその反動なのかしらねぇ……聖女どころか悪妻の汚名を被ることになるんだけど……』
あらまあ。悪妻? 聖女とは対極の存在ですわね。
わたくしがそれになる、と?
『うん、そう。夫を意のままに操る悪妻として、社交界で賛否両論。とくに年上のご婦人から大ブーイングを受けるわ。年若い夫人や令嬢からは逆に大絶賛されるけど』
あらまあ。それは賛否両論……ですね。
『でも笑って旦那蹴りながら生活できるのよね。胃薬要らずの。心の広いクーちゃんなら、汚名のひとつやふたつ聞き流してくれるわよね?』
女神さまの、どこかこちらを窺うような……心配するような……そんな気配が伝わってきます。
女神さまったら。意外と心配性なのかもしれません。
聖女か悪妻か。比べるまでもありませんわね。
「ええ、女神さま。死したのち聖女に列せられる栄誉よりも、やりたいことをやる人生のほうが、わたくしには尊いと思いますわ」
病のあの痛みと辛さ、苦しみを味わうことなく長生きできるなんて、素晴らしいじゃありませんか!
子どもたちやジャスミンを悲しませることもないのでしょう?
最高だわ!
わたくしがそう答えると、女神さまの軽やかな笑い声が聞こえてきました。
『あははは。そうだよね~。良かったぁ、エンジョイしてくれてるみたいだからいいとは思ったんだけど、それだけがちょいと気がかりでね~。つい、確認したくなっちゃったの。ゴメンネ、お邪魔して』
お邪魔だなんて……
『ついでに、あの子に悪夢をプレゼントしておいたから。飴のあとにはムチ。ムチの次に飴ってことで。フォロー、よろしくね』
はい? 女神さまが“あの子”と称するのは、まさかジュリアンさまのことでしょうか。
あら?
女神さまのお姿が見えなくなりました。
『つぎに会うときは、クーちゃんが天寿をまっとうしたときかなぁ~』
お姿は見えないのに、お声だけが微かに聞こえてきます。
女神さま。駄女神、だなんて思って申し訳ありませんでした……。
『あとね~、早いとこ領地へ行って、ひと仕事済ませてしまいなさいね~』
――はい?
どういうことでしょうか。
そこでわたくしは目を覚ましたのです。どうやら夢の中で女神さまと会談していた……ようです。
気がつけば見慣れぬ寝台で寝ていました。
わたくしよりも長身の男のひとの身体に凭れて……。
え。
だれっ?!
一瞬、驚いて悲鳴をあげかけてしまったけれど、わたくしの横で寝ていたのは、わたくしの旦那さま。ジュリアン・カレイジャス公爵閣下でした。
あまりにもひさしぶりに同衾したからとはいえ、隣にだれかがいるという現状に違和感を抱いてしまうなんて。起き抜けとはいえ、恥ずかしいこと。
とはいえ、わたくしとしてはこんな状況、ほぼ二十年ぶりなのです。
驚いてしまっても、仕方ないわよね。それこそ『是非もなし』ですわよ、旦那さま。
あら?
その旦那さまのようすが変です……寝ながらも苦悩なさっている、のかしら。
眉間に皺を寄せて……唸りながら……涙を溢しています……。
汗もたくさんかいています……。
とても……とても苦しそうです。
どうなさったのかしら。
そのとき、ふいに夢の中で女神さまからいただいたひとことを思い出しました。
『ついでに、あの子に悪夢をプレゼントしておいたから。フォロー、よろしくね』
悪夢?!
たしか悪夢とおっしゃっていました。
「旦那さま? ジュリアンさま! だいじょうぶですか?!」
大変です。
夢の中とはいえ、泣くほどのことがあるなんて!
それもこんなに苦しそうなお顔で!
悪夢とはいえ、夢は夢です。覚めてしまえばいいのです。
わたくしは旦那さまのお身体を揺すり、早く目覚めるよう何度も呼びかけました。
ほどなくして旦那さまは目を覚ましました。
が。
荒い息をつきながら、しばらく目を泳がせていた旦那さまが、わたくしに視線を合わせたかと思った途端。
その藍色の瞳がおおきく見開かれて。
「クリスティアナ!!!!」
わたくしの名を呼ぶと、ものすごい勢いでわたくしを抱きしめて。
「クリスティアナ! クリスティアナ!! くりすてぃあなあああぁぁっあああああああぁああああああああっ!!!!!」
大声をあげて泣き続けたのでした……。
女神さま。旦那さまに、いったいどんな悪夢を授けられたのですか?!?!?!
※作者からの蛇足※
◇悪夢……たぶん、察しのよい皆さまなら解っちゃうアレw
◇この話では端折った『そんなこんな、あれやこれや、かくかくしかじか』ですが。
一部暴露するとクーちゃんの
「そんなに天国だったのですか……わたくしとしては…(ため息)…いいえ、出産時の痛みに比べればたいしたことありませんわ」
という、ジュリアンにとっての爆弾発言がありました。
その後のジュリアンは教本を引っ張り出して鋭意努力、誠心誠意、妻の意見を尊重しつつご奉仕にがんばります。
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