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十しち。ずっと願ってきたのです

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※この回、ちょっと長めです。申し訳ない。
 

「地方の田舎で育ったわたくしのもとに舞い込んだ婚約のお話は、まさかの公爵家からのものでした。
 同じ派閥でもない我が伯爵家になぜと、疑問に思ったものです。ですが、訪れた公子さまはとても凛々しくうつくしく、わたくしに愛のことばを囁いてくださいました。
 わたくしは愛されて嫁ぐのねと安堵いたしました」

 懐かしいですわ。まだ伯爵家の娘だったころの夢と希望しかないわたくしのこと。

「あのころの旦那さまは、マメにお手紙をくださいましたし、会うたびにお花やお菓子などといった可愛らしいお土産みやげもくださいました。
 大切な舞踏会のまえには、旦那さまの瞳と髪の色を使ったお衣装をしつらえてくださいましたし、もちろんお誕生日のプレゼントもいただきました。
 旦那さまのエスコートはとてもスマートで……田舎者のわたくしは、うっとりしてしまったものです。
 たくさんの可愛らしいものと綺麗なものを贈られて、心がほかほかと温かくなりました。
 それよりもさらに嬉しかったのが、なんども囁いてくださったおことばなのです」

 旦那さま。
 とっても意外そうなお顔をなさっていますね。

「……可愛いとか愛しているとか。
 やさしくわたくしの名前を呼んでくださるときの瞳とか。
 観劇に連れ出してくださったときも、庭園を散歩しているときも、いつも愛おしいと言わんばかりの瞳でわたくしを見てくださっていました。
 だから、わたくしはだいじょうぶだと思ってしまいました。嫁いでもだいじょうぶって。
 こんなにやさしい旦那さまがいらっしゃるのなら、愛される、幸せな公爵夫人になれるって。だからわたくしはそんな旦那さまの足を引っ張ることのない、立派な公爵夫人にならなければいけないと、一生懸命に励みました……。
 でも、結婚して子どもが生まれたら……。
 旦那さまはわたくしを見てくださらない。
 やさしいおことばも、贈り物も、なにも気にかけてはくださらなくなりました。
 世間一般では、こういう状態を『釣った魚に餌はやらない』というそうですよ?
 釣った魚は食べられて終わり。その後、生かす必要などないから……でしょう」

 先ほどまで真っ赤に染まっていた旦那さまの頬が、今は紙のように白くなってしまいました。
 わたくしの立場になって考えてくださった……のかしら。

「奥さまは、そんな生活を七年間も耐えてこられたのですね……」

 ポールがしみじみと溢したのだけれど。
 うっかり「いいえ二十年よ」と応えそうになりましたわ。
 いけない、いけない。
 回帰していることを話す訳にはいきませんものね。

「旦那さま。たしかにわたくしたちは神さまの御前で結婚式を挙げました。そこで神さまと参列してくださった皆さまに、わたくしたちの永遠の愛を誓いましたわ。
 けれど……お考えになって?
『愛溢れるひと』だと思い嫁いだのに、結婚後『わたくしを無視するひと』に変わってしまったら……それはもう、別人です。別人との結婚なんて、神への誓いすら破ったことになりませんか? わたくしの旦那さまへの思いも色褪せてしまう……そうは、思いませんか?」

「ちがうっ、そんなつもりは――」

 旦那さまは細かく首を振って否定しています。
 お顔、真っ青になってます。

「旦那さまがどんなおつもりだったのか。こうやってお話ししてくださらなければ、愚鈍なわたくしには分かりませんわ」

「クリスティアナ……」

「わたくしにしてみれば、旦那さまは急に冷たくなってしまったひとです。愛しているのおことばも嘘だったのねって、思っていました」

「嘘なんかじゃ――」

「わたくし、騙されていたのねって……」

「騙してなどいないっ!!」

 旦那さまは椅子を倒す勢いで立ち上がると、わたくしの前に回り込みました。
 そしてその大きな腕を広げて……二度三度、とその腕を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返しました。

 ?……腕の体操かしら。

「きみを、抱きしめたいのだが……許してもらえるだろうか」

 喉の奥から絞り出すような、苦しそうなお声。
 旦那さまは今も、わたくしを抱きたいのにダメだと思って苦しんでいらっしゃるの?
 困ったひとね。

「……どうしてそんなこと、お尋ねになりますの?」

「いま、きみを抱きしめたら……たぶん、離せない。もうずっと、きみを抱きしめて……こうしてきみの顔を覗きこんで……きみに触れたいと……切望し続けてきたから……」

 ああ!
 ひさしぶりに旦那さまの……ジュリアンさまのお顔を間近で見つめています。
 ジュリアンさまの困惑と恐れと……それらの影にチラチラ見える歓喜の入り混じった、ちょっと複雑な表情が手の届く距離にあるなんて。
 そしてわたくしも見つめられています……!
 ジュリアンさまの深い藍色の瞳の中に、わたくしの姿が映っています……。
 嬉しい……!

 胸の奥にあった冷えたなにかが解けていきます。そして温かいなにかが一気に溢れ出しました。

「——クリスティアナ! お願いだ、泣かないでくれ。どうして泣くのだ」

 いつの間にかわたくしの頬を伝うものが……熱い涙が零れ落ちていました。

「……うれしいから、です」

 声も震えてしまいます。みっともなくないかしら。

「嬉しいと、泣くのか?」

「とくべつにうれしいと、泣けてしまうのです」

「きみはいま、特別に……嬉しい状態……なのか?」

「はい。ジュリアンさまが、ちゃんと、わたくしを、みてくださる、から……」

 ずっと。

 ずっと願ってきたのです。

 旦那さま、わたくしを見て。

 いまのわたくしを見て……と。

 その願いが叶ったのです。嬉しくないはずがありません。

 まばたきをすると、いくらでも涙が溢れてしまいます。
 涙の膜の向こう側で、旦那さまがゆらゆらと滲んで見えます。その旦那さまは、なんだか困った顔をしています。

「きみの涙はどうしたら止まるのだ? これ以上、私を困らせないでくれ」

「わたくしが泣くと、ジュリアンさまはお困りになりますの?」

「困る。これ以上ないほど困っている。どうしたらいいのだ?」

 視界の隅で、旦那さまが腕を伸ばしたり引っ込めたりするのが映ります。
 まだやっていたのですね、腕の体操。もしくは創作ダンス?

「たぶん、わたくしを抱きしめる温かな腕があれば……よろしいかと」

 その無駄に振っている腕、わたくしの背に回せばよろしいのに。
 そしてわたくしを抱き寄せればいいのに。

「その腕の持ち主は……私でいいのか?」

 まったく!
 ふだんはあんなに威風堂々とした態度で生活している公爵閣下が、なぜわたくしの前ではそんなに萎縮してしまうのですか?

「あなた以外はお断りします!」

 じれったくなったわたくしは、自分から旦那さまの腕の中へ飛び込みました。
 わたくしの身体を難なく受け止めた旦那さまの喉元から、ひゅっと息を呑む音が聞こえました。

「クリスティアナ……先ほど私が言ったことを覚えているか?」

「抱きしめたら、もう離せないというお話ですね」

 忘れるわけないじゃありませんか。
 ちょっと不埒な発言の数々も、覚えていますわよ?
 わたくしの応えを聞いた旦那さまの喉がごくりと音を立てました。

「クリスティアナ……」

 とても苦しそうにわたくしの名を呼び続ける旦那さま。
 その呼吸がとても熱く、わたくしの耳朶を擽ります。
 旦那さまの腕も、胸も、とても熱いです。
 わたくしもこの抱擁を待ち望んでいたのですけど……あとでちゃんと伝えなければいけませんね。

「返答は?」

 ……旦那様は、その場の雰囲気とか流れとかを理解なさらない方なのね。
 どうしても言質を取りたいということかしら。
 律儀というか……馬鹿正直というべきかしら。

「望むところでございます」

 わたくしの返答を聞いた旦那さまは、いとも簡単にわたくしの身体を抱き上げてしまいました。
 そのまま向かうのは……旦那さまの寝室かしら。
 執務室からはだいぶ距離があるはずだけど、このまま移動するおつもりなのでしょうか。

「これからは、不満や不備があったら余すことなく教えてくれ」

「かしこまりました」

 夜の廊下に旦那さまの足音だけが響いています。
 だいじょうぶかしら。わたくし、重くはありませんか?

「クリスティアナ……ひとつ、聞きたいのだが」

「なんなりと」

「あの騎士とは、なにもなかった……のだよな? その……、私への思いはまだ色褪せていない……のだよな?」

 え? 騎士? だれのこと?

「あの騎士とは、だれのことでしょう」

 旦那さまのお顔を見れば、また眉間に皺を寄せていらっしゃる……。
 やっぱり不機嫌そうに見えますね。

「きみがここへ帰還したときに……きみを抱き上げて運んだあの騎士のことだ。見慣れぬブルネットの短髪の……」

 ああ! あの子! 領地邸宅付きの騎士!
 こちらへ向かう道中、わたくしを気遣ってくれたやさしい子です。

「あの子はわたくしより十歳も若いのですよ?」

「歳など関係ない」

「名前はアビゲイル。有能な女性騎士です」

「――っ」

 旦那さまの歩みが止まってしまいました。
 ぽかんとしたお顔でわたくしを見て……、ぼぼっと音がする勢いで旦那さまの頬が真っ赤に染まりました。

 王都への強行帰還をまえに、急遽ジャスミンが用意した騎士は三名。
 三名のうち二名が女性騎士でした。
 そのうちのひとりがとても若くて、年をきいたら十八歳という返事。息子たちと同い年ね……と思ったら、一気に親近感が湧きましたわ。
 とても気遣いができるしやさしい子でしたから、エリカの専属護衛に抜擢しようかと思っています。


「――そうか」

「はい。そうです」

 しばらく呆けていた旦那さまでしたが、また歩みを再開しました。
 廊下にその足音が響きます。
 彼の眉間の皺が、ちょっとだけ薄くなったように見えますが……気のせいかしら。

「これからは、きみの意見を最優先する。些細なことでもいい、私に教えてくれ。そして……私に今までの愚行を返上する機会チャンスを、くれないか」

 旦那さまの、ちいさなちいさなお声。

「……承知しました」

 わたくしもちいさな声で返答しました。






 わたくしの心配をよそに、旦那さまの靴の踵が奏でる足音は一定のリズムを刻んでいました。
 そして到着したのは旦那さまの私室。その奥の間にある寝室でした。

「今日は、その……危険日、とやらなのか?」

「どちらかといえば安全日です」

 わたくしをベッドにそっと下ろした旦那さまが、囁くようにお尋ねになりました。
 先ほどポールが言ったことばをちゃんとご記憶していたのね。

「暴走しそうだ……」

 わたくしの頬をそっと撫でた旦那さまがそんな物騒なことを呟きました。

「ならばわたくしが、遠慮なく踏みますし蹴ります」

 わたくしが笑顔でそう返すと、一片の迷いのない笑顔で

「是非もない」

 との、お応え。
 いえ、ですからね。是非は問うてほしいところですが……どこを蹴られるのか、旦那さまはご理解していらっしゃるのかしらね。








※作者からの蛇足。
ポールは空気を読めますので、公爵が椅子を蹴倒して夫人の前に立ったあたりで、そっと退室しています。
良かったぁ~と、胸を撫で下ろしながら。

ポール退室のくだりを本分中に入れたかったのですが、主人公ふたりがお互い以外を視界からシャットアウトしていたので、語れませんでした。無念。




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