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十いち。花の楽園のマダムフルール

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「失礼いたしました」

 ちいさな咳払いをして一言おっしゃったマダム。
 いつまでも笑いの発作に襲われていた彼女でしたが、ようやくその笑いにも終着点が訪れたようです。
 なんと言いましょうか……、マダムのわたくしを見る目が温かい気がします。
 気のせいだと思いたいのですが。

 ただ今わたくしたちは、人もまばらな薔薇園を並んで歩いています。はたから見たわたくしたちは、婦人がふたり、薔薇を楽しみながらゆったりと散策しているように見えるでしょう。

 それにしても。
 まさか王家からの密命のお手紙だと思われていたなんて。
 しかもわたくしの同封した小切手が、そう判断した決め手だったなんて。
 あの小切手は、巻き戻るまえに見た請求書の金額の倍……くらいの数字を書き込んだのだけど。どうやらちょうど依頼料くらいの金額だったみたいなのです。
 それに――。

「まさか浮気を疑っているとは思いもよりませんでしたわ。商家の奥方さまとか、下位貴族のご夫人などでなら、たまぁ……に、乗り込んで来られたこともございましたがねぇ……。
 先代の公爵閣下も一穴主義……あ、失礼、奥さまひとすじ……なお方でしたし、現公爵閣下も同じで、お店ではちっとも遊んでくれないと報告を受けておりましたのでね。そちらの可能性は微塵も浮かんできませんでしたの」

 ――と、マダムが穏やかにお話ししてくれます……。なんでしょう。このいたたまれない気持ち。

「先代さまもね、お仕事でよくお店にみえていらっしゃいましたがね、わたしたち【姫】の秋波など、どこ吹く風……みたいな状況でしたよ」

 親子とは似るものなのだと思っていましたよ。
 マダムは穏やかな声でそう語ってくれました。

 つまり、ジュリアンさまは浮気をしていない、ということでしょうか。
 娼館の経営者がその可能性をちらりとも思わなかったくらい、カタブツ人間だと認識されている……のだし。

 けれど、回帰するまえは確かにありましたわ。請求書が。
 でも、今は、ない。この差異ギャップはなんなのでしょう。

 違うことといえば……。
 わたくしの王都帰還の時期の違い、かしら。
 前回のわたくしは六ヶ月、領地に引き籠っていました。
 ジュリアンさまは六ヶ月、わたくしのいない王都邸宅で過ごしていたことになります。

 まだだった、ということかしら。まだコトに及んでいなかったと。
 本来なら、これから先の五ヶ月の間にコトに及んだ、と?
 今現在なら、未遂以前の架空の話……ということになってしまいます。

 だから。
 だから女神さまは、回帰する時間軸をになさったのかしら。ジュリアンさまがまだ浮気をしていない時点を……。



 暖かな陽射しの中、マダムの穏やかな声は続きます。

「ふふ……。もう時効かしら……奥さま、聞いてくださいな。じつはわたし、先代さまに迫ったことがございますのよ。あれはまだ、公爵家に嫡嗣がお生まれになっていない……と風の噂に聞いたときのことです。
 これはお情けをいただくチャンス! と思ってしまった当時のわたし、先代さまに直談判したんです。『わたしは口も固いし、丈夫で健康。閣下の望みどおりの結果を見事果たしてご覧にいれますわ!』と。つまり、お世継ぎを生んで差し上げます、という心持ちで迫ったのです。
 ふたりきりになった隙をついて。お膝の上に乗り上げて。自分史上最大の秋波を閣下に送りながら、ね。
 そうしたら、閣下ったら『本当に私の意のままに動くのか?』と念を押すじゃありませんか! これは脈あり! ……だと思ったのですがねぇ……」

「どう、なったのです?」

 なんというスキャンダラスな状況でしょう! 好奇心がうずうずしてしまいますわ!
 わたくしは逸る気持ちを必死に抑えて問い返したというのに、マダムはゆったりとした雰囲気のままのんびりとお応えくださいました。

「はい。いつのまにか身分を偽って、踊り子として、他国へ潜入しておりましたわ」

「え? 他国へ、潜入?」

「はい。つまり、女スパイとして派遣されました。先代さまとは艶っぽいことなんていっさいありませんでしたよ」

 なんということでしょう! 女スパイだなんて!
 そしてお義父さま! お膝の上にまで乗って迫った女性をあっさりとスパイとして派遣したのですか!

 もちろん、スパイとしてきちんと教育を受けたわけではないそうです。
 ただ旅の踊り子として振る舞い、酒場で踊る。見張り役兼護衛の者が付けられ、その人からこっそり指定された他国の高官とお話しして、彼からお仕事の愚痴を聞けばいい。その場で語られたことを覚えて見張りに伝えるだけの簡単な任務だったとマダムは語ってくれました。

 それは、本当に簡単なのでしょうか。お仕事の愚痴なんて、ジュリアンさまはちっとも仰らないけれど……。マダムにとっては簡単なんですね。すごいです。


「旅の踊り子という設定は伊達ではありませんでしたわ。あちこち放浪して十年弱、いつのまにか経っていましたねぇ。でもすべての任務を終え帰国したらね、高額な報酬をいただきましたのよ。今現在、館のオーナーなのは、報酬の一部。あとは……そうね。スパイとして使えそうな【姫】を育成する立場になりましたわねぇ」

 マダムはしみじみと語ってくれました。
 帰国してからは、【姫】としてお客さまの接待をすることはなくなったのだとか。『踊り子』としてのマダムを見知っている人と会う機会を無くすための措置なのでしょうと。

 そしてわたくし、気がついてしまいました!
 十くらいうえかしら……なんて思っていたマダムだったけど、わたくしのお母さまより年上かもしれません!

 だってさっき言ってましたよ。先代さまに嫡嗣がいなかったときに、先代さまに迫ったって。嫡嗣って、ジュリアンさまのことです。彼はひとりっ子です。今は亡きお義母さまから、結婚してからだいぶ経ってもお子に恵まれず辛かった……と聞いたことがあります。ジュリアンさまは、そんな公爵夫妻の許に生まれた待望の嫡嗣だったのですけど……。
 ジュリアンさま、いま、三十三歳……。それより以前のお話を聞いてしまったということですものね……。三十三年前……わたくし、まだ生まれていません……。
 人に歴史あり、ですわ。

「もうひとつ学校の運営をしていましてね。ご存じありませんか? マダムフルール・カレッジ」

 びっくりです!
 知っているもなにも! マダムフルール・カレッジといえば乳幼児保育ケアと教育の専門職養成のための高等職業教育機関乳母ナニー養成学校のことではありませんか!
 たとえ平民であったとしても、その養成学校の卒業証書を持っていれば貴族家にも勤められる……いいえ、高位貴族の家でも引く手あまたの立場になるのだとか。
 それに、『マダムフルール』というお名前は有名なのです。いつも代理人の姿しか見せない、謎の投資家として。さらに毎年孤児院へ多額の寄付をしているのだとか。

「マダムは……」

 先代公爵をお好きだったのでしょうか。
 ご結婚はなさったのでしょうか。
 お子さまは生んだのでしょうか。
 ナニー養成学校を設立したり、孤児院へ寄付をしているなんて……なにかあったとしか思えませんが……今は、幸せなのでしょうか。

 聞きたいことは山のようにありましたけど、そう親しくもないわたくしが尋ねていいお話ではありませんね。好奇心は猫をも殺すといいますし、余計な詮索など野暮やぼというものでしょう。

「――マダムは、波乱万丈な人生を送っていらっしゃいますのね」

 マダムは、そう言ったわたくしの顔をしげしげと見やったあと、こう仰いました。
 晴れやかな笑顔とともに。

「えぇ。人生は一度きりですもの。後悔のないよう、やりたいことはなんでもやるようにしておりますわ。ですから……」

 マダムが黒いレースの日傘をくるりと回しました。

「奥さまの行動、わたし、賛同しますわ。まことに勝手ながら……とても好意を抱いてしまいましたもの」

 後悔のないよう、やりたいことはなんでもやる……。
 それはとてもステキな考え方ですわ。今のわたくしの心境にぴったりです。

 わたくしも、マダムフルールのことが大好きになってしまいました。






※作者からの蛇足。
 若かりし頃のマダムが「公爵家に世継ぎがいない」と聞いたのは、前公爵夫妻が結婚してから三年後のこと。前公爵夫妻のもとに嫡嗣が生まれたのは、結婚後十年が経過してからのことであります……。
 マダム、還暦越えています。
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