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56.たとえ、死したのちも
しおりを挟む「リラ。リラジェンマ。落ち着いて。落ち着いて息を吐いて、ゆっくりでいいから」
背後から温かいなにかがリラジェンマを包み込んだ。
それは優しい金色に光っていた。
「落ち着いて。だいじょうぶだから。僕の声を聞いて」
右の耳から優しい声。
背後から大きく温かな気配。
腹の上に置かれた大きな手からリラジェンマのそれとは違う力が流れ込む。
「息を吐いて……ゆっくり……」
声に合わせ、ため息のように深く、ゆっくりと息を吐く。
「息を吸って……ゆっくり……柱から手を離そうか」
声に合わせて息を吸う。掌に感じていた冷たい感触から解放された。同時に右手が温かく大きな手に包み込まれる。
「もう一度……息を吐いて……そう、上手」
ウィルフレードが静かな声で指示する動作に合わせ、それを繰り返すうちに耳鳴りが治まった。
煩いほどだった動悸も徐々に治まっていき。
リラジェンマは急激な寒さを感じ震えた。
「大丈夫。大丈夫だよ、リラジェンマ。急に力を解放させた反動が来ているだけだから。大丈夫、落ち着いて」
ウィルフレードの甘く落ち着いた声で囁かれる“だいじょうぶ”という響きは、リラジェンマの鼓膜を揺するたびに胸の奥に何かを積み上げていく。
だいじょうぶ
だいじょうぶ
だいじょうぶ
何度も何度も繰り返される声に甘え、背後にある温かい胸に凭れた。
リラジェンマは軽く意識を無くしていたかもしれない。
すっかり心拍数も元に戻り、呼吸も普通に出来るようになり、頭痛も治まったころ。
目を瞑ったままだったリラジェンマは、ふと自分の体勢に気がついた。
確か、鉄柱に向かって立っていたはずだ。
それが今、脚を投げ出して地面に腰を下ろしている。背後にある温かい何かを背もたれにして。
(わたくしが寄り掛かっているモノって……もしかしたらウィルかしら)
脚を投げ出して座り、自分の右肩に温かい『なにか』が乗っている。同時に、自分の右頬に温かい『なにか』が触れている……。
自分の胴体には後ろからがっしりとした腕が回され固定されている。右手は『なにか』に包まれたまま、持ち上げられて『なにか』に触れている。
(いやいや。『なにか』じゃないわよ。ウィルね。ウィルが背後からわたくしの頬に自分の頬を重ねているのね。で、わたくしの右手はウィルの右頬を触っている、そういうことなのね)
いつの間にこんな体勢になったのだろう。
(あー、目を開けるのが怖い気がする……)
とはいえ。
体勢に疑問は感じるが、リラジェンマは決してそれが嫌なわけではない。
突然のあの体調不良には驚いたが、ウィルフレードの助言に従ったお陰で早々に回復できた気がするのだ。
(背中、温かいし……気持ちいいわ……)
「リラ。目、覚めた?」
耳元で囁かれるウィルフレードの声は、相変わらず甘い。
「頭痛いのは、治った?」
声にまで甘やかされている。そんな気がした。
「力を解放して精霊たちに与えると、一時的にだけど、身動きが取れなくなるんだ。先に言って置けばよかったね……チュッ」
(ん? 『チュッ?』)
もしかして、もしかすると、いや、もしかしなくても。
(耳を、吸われた?)
「特にリラは初めて祭祀をしたわけだし……あぁ、リラ。目を開けて?」
ウィルフレードの声に、リラジェンマの身体は素直に反応した。つまり、ぱっちりと目を開けた。
すると――!
闇の中、白くぼぅっと浮かび上がるように淡く光る人の形の精霊が、目の前にいた。
そして、その顔は――
「おかあ、さま……」
リラジェンマの母、ウナグロッサ王国先代女王の姿が、そこにあった。
長く光るプラチナブロンドの髪と翠の瞳はそのまま、だが生前の姿より幾分若く幼いような印象の精霊の姿。
その母の形をした精霊は穏やかな笑顔で手を伸ばし、リラジェンマの左の頬を撫でていた。
その口がなにか言っているが、リラジェンマには聞こえない。
しかし口の動きで言いたいことは分かった。
『よ く が ん ば り ま し た。 さ す が、わ た く し の い と し い む す め』
「おかあさま……」
精霊は優しく、とても優しくリラジェンマの頬を撫でる。
何度も。
何度も。
精霊に触れられている左の頬は温かく、特別な力が注ぎ込まれているのを感じた。
「良かった。もう泣いてないんだね」
ウィルフレードが精霊に向けて言葉を発する。
精霊はうつくしく微笑むと、やがて消えて視えなくなった。
「おかあさまっ!」
目頭が熱くなった。
いつの間にか涙が溢れ、頬に零れ落ちる。
「泣きながらリラの助命嘆願したあの精霊、やっぱりリラのお母上だったんだね」
「おかあさま……わたくしを、助けてと、ウィルにお願いした、の?」
生前の母は、リラジェンマに冷淡だったのに。あんなに優しく微笑んで貰った記憶などないのに。
「始祖霊に、なったのに、わたくしについて、来ちゃった、の?」
いつもいつも、女王としてリラジェンマの前にいた人。国を憂い民を思い、それに生涯を捧げた人。
なのに。
「精霊になってしまうと、もともと自分が持っていた欲望から逃れることはできないらしいからね。本当にやりたかったことをやる。リラのお母上は、君が心配で仕方なかったのだろう」
「……お、おかあさまぁぁぁぁぁぁぁ」
リラジェンマは母が死んで以来、初めて声をあげて泣いた。幼い子どものように。
ウィルフレードがずっと、そんな彼女の頭を優しく撫で続けた。
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(こぼれ話)
ウナグロッサの前女王、リラジェンマのお母さんは、自分を厳しく律し母であるより女王である自分を選んだ人。他人にも自分にも厳しい人でした。
リラジェンマより格段に高い能力を持っていた彼女は、自分の夫の不貞を早々に察知。
仮面夫婦になったお陰でリラジェンマの弟妹は生まれませんでした。
離婚を選択しなかった理由は、ウナグロッサ王家の人間は離婚を認めないという法律があったせい。もし、リラジェンマが出来る前に王配の不貞が発覚していたら、離婚ではなく女王の側室(男)が増えていたことでしょう。
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