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32.リラジェンマとウィルフレードと佑霊と
しおりを挟む「ところでリラ。君の方から執務室まで来たのは何故? 僕に話でもあった?」
ウィルフレードにそう尋ねられ、リラジェンマは躊躇した。
自分がこれから守り慈しむべきはこのグランデヌエベの国民たちなのだ。そんな義務をもつ自分が、ウナグロッサの心配をするなどマズイのではなかろうか。
脳裏に過ぎるのは、城内で明るく会釈してくれた使用人や、騎士たち。皆、リラジェンマを未来の王妃として敬ってくれている。
リラジェンマの僅かな逡巡をウィルフレードは汲んでくれた。
バラデスたち侍従や警護の騎士たちを人払いし、ふたりだけとなって改めてウィルフレードは彼女に尋ねた。
「リラ。人前では言えないことを、僕に相談しに来てくれたんだね?」
ソファの隣に座るとリラジェンマの手を優しく掬うウィルフレード。覗き込む黄水晶の瞳は、リラジェンマを真摯に心配している。
少しの躊躇いのあと、リラジェンマは彼に話した。
母国ウナグロッサの噂話を聞いたこと。
長雨が続いているとき、母国では母である女王が大神殿に赴き祭祀を執り行っていたこと。
その祭祀のやりかたはまだ教わっておらず、今のリラジェンマには解らないこと。
もし、万が一でいいのだが、ここから祈りを捧げて祭祀を行うことは可能かということ。
話しながらリラジェンマは少なからず後悔し始めた。
(こんなこと聞かれても、ウィルにだってどうしようもないわ)
なぜ、相談しようなどと思ったのだろう。
始祖霊に祈りを捧げるのは国王の大事な仕事の一つだ。それを他国の人間にお願いしているのも同然の行為。
間違いなく内政干渉の越権行為に他ならない。
そもそも、国王の仕事なのだから、まだ王太子にすぎない彼にはどうにもならないはずだ。
話し終え、自分とウィルフレードの重ねられた手を見ながらリラジェンマが溜息をついたと同時に、彼女の頭に温かい手が乗った。何度か軽く撫でられるそれは、ウィルフレードのもうひとつの手で。
「相談してくれてありがとう、リラ」
囁くような言葉は思っていたより近くに顔を寄せていたウィルフレードから齎された。
またしても不可思議な胸の鼓動を感じ、リラジェンマは内心狼狽える。
「そうだね。ウナグロッサが雨続きという情報は僕の元にも届いている。これは恐らく……だが待てよ……」
そう呟いたウィルフレードは顔を上げ、視線を空中に飛ばした。
辺りをキョロキョロと眺め、何かを懸命に聞き取ろうとしている。
(もしかして、精霊の声を聴こうとしているの?)
リラジェンマが見つめる前で、ウィルフレードが頭を振った。
「いや、すまない。君といると精霊たちが静かすぎるんだ。だれもかれも見守るばかりで干渉しようとしない」
「静かすぎる? わたくしといると?」
リラジェンマを迎えに行ったときは、一斉に話されて耳鳴りがしたと言っていたのだが。
「そう。これは珍しいことでね。僕がこの力に目覚めてからこんなに静寂を満喫できたことはないんだ」
どこか晴れ晴れとした顔で語るウィルフレードだが、リラジェンマはひとつの懸念に思い当たった。
「それは……わたくしが精霊たちに嫌われているせい?」
ウィルフレードは精霊の加護をふんだんに受ける存在だと聞いた。その妻になる自分は精霊の声など聞き取れない。疎まれても仕方ないのではと、思えたのだ。
だがウィルフレードはあっさりと否定した。
「あぁ、違う違う。逆だよ。君が好かれ過ぎているせいだ。彼らは君を僕のお嫁さんと認めているから、僕との時間を邪魔しようとしないんだ。みんな遠巻きに離れた場所にいて、ニヤニヤと見守っている感じ」
「ニヤニヤと?」
ニヤニヤと見守る精霊って、どんな図だろう。こればかりは精霊を視る能力のないリラジェンマには想定外である。彼女の脳裏は疑問符だらけになった。
「そう。……おぉぅ……」
笑顔だったウィルフレードの眉間に皺が寄り、塩辛いものでも食べたような表情になった。
「なに?」
「あー……。いま、佑霊が来て……喋った。『温かく見守っていると言え』だと。……どうもこの話し口調はおじいさまっぽいんだよなぁ……」
普通の人が聴こえない声が聴こえるとは、なかなか気苦労が絶えないのだなぁとリラジェンマは思う。
視えないものが視える自分だからこそ。
リラジェンマは、視たくないモノが多すぎるせいで、いつも人をぼんやりとしか見ない癖がついている。
だが『聴こえる』という現象は、意識的に避けることも難しそうだ。
「第一神殿に行ってみようか。あそこならもっと精霊たちの声がはっきり聴こえるし君の佑霊が来るかもしれない。なにか助言も貰えるかも」
一度二度と、頭を振ったウィルフレードが提案する。リラジェンマの頭を撫でていた彼の手は、今は彼女の長い髪を一房とってくるくると指に絡めている。
「わたくしの、佑霊?」
(個人を守る精霊、ということ?)
「うん。初めてリラと第一神殿に行ったとき驚いたんだ。ウナグロッサで君を助けてと泣いて訴えてきた佑霊が、君の傍を嬉しそうに舞っていたから。あぁ付いて来ちゃったなぁって」
そういえば。
あのときのウィルフレードは、芝生に足を踏み入れたリラジェンマを引き攣ったような笑みで見詰めていた。
彼には視えていたのだ。リラジェンマの傍にいた佑霊の姿を。
(わたくしの助命を願った佑霊……もしかして、もしかしたら……お母さま?)
いつも冷淡だった母。でももしかしたらリラジェンマの身を案じていたのかもしれない。死したのちにも記憶を残し助命のために隣国の王太子のもとまで訪れるほど。
「いつもは視えないの? 神殿に居ると視えるということ?」
「うーん。ここではちょっと説明しづらい」
勢い込んで尋ねたリラジェンマに、ウィルフレードは困ったような顔をした。
(そういえば、結界外では口にしないよう言われていたわ)
「ごめんなさい。あれこれ聞いてばかりで……」
「いや。なんだかリラに頼られているみたいで、僕としては大歓迎だよ」
もうすでに見慣れてしまったウィルフレードの笑顔。
この二か月、リラジェンマは何度も彼のこんな微笑みを見てきた。彼の笑みは日に日に甘くなっているような気がしてならない。
その黄水晶の瞳がトロリと蕩けるようで、それを目にする度にリラジェンマはドキドキが増して落ち着かない心地になる。
(返答に窮するなんて……わたくしの脳内はどうなってしまったのかしら)
王女としての作法なら理解している。
王太女として、国の代表として振る舞うようしっかりと学んできた。
そんなリラジェンマなのに、いまは狼狽え微動だにできない。
認知できるのは体温の上昇と、それに比例して感じる発汗。
心拍数の増加とこうして無駄なことばかり考えてしまう思考現状。
こんなに優しい瞳で見詰められたことなどないから。
年頃の異性にこんな至近距離で頭を撫でられたこともないから。
どう振る舞えばいいのか、どう返事をすればいいのか。
最適解が見つからないのだ。
だから。
黙ったまま魅入られたようにその黄水晶の瞳を見つめるだけ。
リラジェンマの髪をいじっていた手が、ゆっくりと頬に触れるのを享受するだけ。
ウィルフレードの大きくて温かな手は、優しくリラジェンマの頬に触れる。そっと、なにかを確かめるように触れられると、なぜかそれにうっとりとしてしまい、リラジェンマは瞳を閉じる。
「……リラ。ここで目を閉じたら、僕の思う壺だよ?」
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