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第七章
38.封印解除のキス
しおりを挟む【前半ルーカス:後半フォルトゥーナ】
「おねがいっ! どこにも行かないで! わたくしをおいていかないで!」
ルーカスは自分の耳を疑いながら、驚きのあまりポカンと口を開けた。
まさかフォルトゥーナがどこにも行くな自分をおいて行くな、などと言うとは!
聞いているルーカスも泣いてしまいそうな悲痛な声で彼女がそんなことを言うなんて、夢にも思っていなかったのだ。しかも、何度もお願いお願いと繰り返し言っているではないか!
これはいったいぜんたい、どういう事態なのだろう。
ルーカスにとって完全に理解の範囲を超えたものだった。
ルーカスの出奔はそんなに城の皆に迷惑をかけたのだろうか。
見たところ、フォルトゥーナはたったひとりで(精霊のサラもいたが)この樹海にいるようだがどうしてなのか。
彼女は辺境伯夫人になることを決めたのではない、のか。
もしかして彼女は、ルーカスを探すためにこの樹海に入ったのだろうか。
……彼女はルーカスがそばにいることを望んでいる……のだろうか。
(ぼくは……フォルトゥーナに望まれている、の?)
それはまるで、あの幼児退行していたときのフォルトゥーナ嬢のようではないか。
あのときは精神状態が幼児同然だったから、目について気に入ったルーカスにそばにいてほしがっていただけのはず。幼児がお気に入りのぬいぐるみを離さない行為と同じ……そう思っていたのに。
いまのフォルトゥーナ嬢も、それを望むというのか。
(ど、どうしよう……もしそうなら……嬉しい……)
いろいろな考えが脳内を駆け巡っているあいだ(呆けていたように傍目には見えただろう)に、こんどは怒られてしまった。
フォルトゥーナは眉間に皺を寄せて頬を真っ赤にして涙を浮かべながらぷんぷん怒っている。
(……かわいい……)
怒りながらも大きくて綺麗な瞳から涙がぽろぽろ零れているさまが愛らしく、でも見ているのは辛くて堪らない。
気軽に謝るのはだめだと怒っている。しかもルーカスは悪くない、自分が悪いのだとまで言っている。
(えーと。逆ギレ?)
顔には出さないまま、ルーカスはパニック状態になっていた。
目の前にいるフォルトゥーナが可愛すぎて悶絶している自分と、そのフォルトゥーナが涙を溢している現実に焦りまくっている自分が同時に主導権を握ろうとするから、かえって身動きがとれない。
それでもフォルトゥーナの涙が風に舞うのがうつくしすぎて、うっかりその行方を目で追ったりして慌てふためき、つい自分も声を荒らげてしまった。
「それでもっ! それでもフォルトゥーナが泣いているのなら、ぼくは万難を排さねばならない」
彼女の涙はルーカスの心臓に悪いのだ。
彼の息の根を一発で止めてしまう威力と破壊力があるのだ。
「なんでっ⁈」
悲鳴のような声で重ねて問いかけるフォルトゥーナが、逆ギレしてたって可愛いし大好きだし。
そう思ったから、ついうっかりそのまま叫んでいた。
「ぼくがっ、フォルトゥーナを好きだからっ! だいすきなきみが泣いているのを見たくないからっ!」
言わないでいようと決めた気持ちを。
この想いは心の奥深くのたいせつな場所にしまっておこうと思っていたことを忘れて。
「あ」
言って、しまった……。
『時止め』の魔法をかけたかのように、フォルトゥーナが動きを止めた。
その黒曜石の瞳をぱっちりと見開き、ぽかんと口を開けてただただルーカスの顔を穴が空くかと思うほど見つめ続ける。
彼女の右の瞳からぽろりと透明の雫が零れ。
それを合図にしたかのように、フォルトゥーナが笑顔を見せた。
いまかいまかと待ちわびた花が一斉に咲き誇るさまにも似たそれに、ルーカスは心臓を鷲掴みにされてしまった。
動けなくなった。目が離せない。きっとルーカスの瞳孔は開ききっている。
これこそが『時止め』の魔法だと思ったのはつかのま。
フォルトゥーナの白く嫋やかな両の手が、やさしくルーカスの頬を包み込んだ。
笑顔のフォルトゥーナが顔を近づけた。
「わたくしも、ルーカス、だいすき」
たいせつな内緒話をするような声がそっと鼓膜を擽ったと思った次の瞬間。
ルーカスの唇は、フォルトゥーナのそれに塞がれていた。
目を瞑ることすらできなかったルーカスは見た。
間近にあったフォルトゥーナの長い睫毛が伏せられたと同時に、コロンと涙が零れるさまを。
零れた温かい涙はルーカスの頬を伝って唇の端に辿り着いた。
◇
好きだと言われ一瞬すべての脳内活動が停止したフォルトゥーナであったが、その後一気に舞い上がった。
心が震えるのがよく分かった。
「好き」と言われたそのことばだけで、身体中の血流がとんでもない速さで巡っているのではと錯覚が起きた。
視界が一気に広がるような。けれどそれらすべてがルーカスへ向かい集束するような。
自分はこの世で一番の存在なのだと言われた気がした。
無敵だと。
最強なのだと。
ルーカスに言われた気がしたのだ。
ルーカスがフォルトゥーナの涙を止めたいわけは、彼が自分を好きだからだと。その事実が飛び跳ねたいくらい嬉しいものなのだと実感したフォルトゥーナは、衝動的に目の前にあったルーカスの頬に手を伸ばした。
「わたくしも、ルーカス、だいすき」
口から出たことばは、嘘偽りのない本心。ずっとずっと言いたかったことば。つい気持ちが高ぶって辺境伯閣下へさきに吐露してしまったけど、本当はまっさきにルーカスに言いたかったことばだ。
もうほかの人には聞かせない。
語るのはルーカス本人にだけ。だからそっと囁いた。
言い終わると同時に彼の唇を奪ってしまった。
しつこく彼女の脳内に居座っていた“冷静な理性”は姿をくらませたらしい。
いまのフォルトゥーナは感情のまま衝動的に行動している。
ルーカスの唇は少しカサついてて、潤してあげなくちゃなんて考えがふいに浮かんだのでぺろりと舐めた。なぜか涙の味がした。
(あ。キス、しちゃったわ)
衝動的にしでかした行為に、フォルトゥーナ自身が驚いていると。
そんな彼女の目の前で、ボンっという軽い音とともに煙が発生しルーカスが閃光に包まれた。
そのあまりの眩しさにルーカスの姿がはっきりと見えなくなり焦った。
けれど。
彼女の手が触れていたルーカスの頬が。
子どもらしいやわらかさと丸みを帯びていた頬が。
あっという間に発達した顎となめし皮のような弾力のある頬に変化した。
(な……に……?)
閃光の中で長い髪が揺れているのが分かった。
ビリビリと布地が裂ける音が耳に届いた。
フォルトゥーナの肩に回されていたルーカスの腕がぐんぐんと伸びて、背中を覆った。それは力強くおおきな手に変わった。
「ルーカス?」
煙と光が収まったそこにいたのは……。
白に近い淡い金髪が長く伸び表情を覆い隠している。
ちらりと見える口元と顎のラインがうつくしいが、まちがいなく男性のそれ。
太く長い首とのどぼとけ。
はっきりとわかる肩甲骨から続く逞しい肩と、そこからほどよい筋肉をつけた腕が伸びフォルトゥーナを抱え込んでいる。
肩甲骨から下の胸元も鍛えられた逞しい男のそれで。
閃光の中でもフォルトゥーナは、ずっとルーカスの頬に手を添えていた。そうでなければ信じられなかっただろう。
彼女の目の前にいる人物がすっかりおとなの男に変化したルーカスだという事実に。
震える手でその長い前髪を寄せてみると、眉目秀麗な偉丈夫が現れた。
見慣れない、初めてみる男の人。
けれど、あの愛らしい少年だったルーカスの面影がたしかにそこここにある。
淡い色の金髪も。
その瞳は見慣れた紅玉色。フォルトゥーナが見間違いようのない、ルーカスの瞳!
「ルーカス……よね?」
「はい」
律儀に応える声まで初めて聞くそれだった。
ルーカス自身もそれに驚いたように自身の喉に触れる。その自分の手を不思議そうな顔で見つめる。
「ぼく……まさか、おとなに、なってる?」
「えぇ、なってるわ。二十歳くらい? に見えるわ」
ルーカスが不思議そうな顔のまま、自分の長い髪や頬にペタペタと触れる。そして
「ぼく、髭が生えないひとなのかな」
と途方に暮れたように言うからフォルトゥーナは可笑しく思った。
「髭、気になるの?」
フォルトゥーナが問うと、ルーカスはこっくりと頷いた。
「父は気にしていました。老けて見えるから髭は生やしたくないって」
「あら」
そういえば、ラミレス公爵を始め壮年の男性はたいがい髭を生やしていたなぁと思い出すフォルトゥーナである。この辺境でも、執事長が白い立派な口ひげを蓄えていた。
伯はその執事長殿と同じ年だと聞いていたが、老けて見られたくなかったとは驚きであった。
「フォルトゥーナはどっちが好き? 髭がないと子どもっぽいと思う?」
小首を傾げながら尋ねるルーカスがなんだか愛らしく見えてしまい、フォルトゥーナの顔に笑みが浮かぶ。
「ルーカスならどっちでもいいわ」
「ぼく、なら?」
「えぇ、ルーカスなら。髭があってもなくても。おとなでもこどもでも。ルーカスなら、いいの」
フォルトゥーナがそう答えたとたん、ルーカスがホッとしたように微笑んだ。
紅玉の瞳がやわらかく光り、なんだか潤んでいるようにも見える。
(そう。ルーカスなら……どっちでもいい)
ルーカスの穏やかな表情を見ていると、なんとも言えず胸がいっぱいになってしまう。
フォルトゥーナが初めて見たときから心惹かれたこの瞳。
ずっと、ひとりじめしたかった。
この思いが……気持ちが、あとからあとから溢れてきて息苦しいほどになる。
どうしたらいいのか分からなくなったフォルトゥーナが笑いながら視線を下に向け、はっと気がつき慌ててそっぼを向いた。
とてもまずいことになっている!
どうすればいいのか。
「フォルトゥーナ?」
焦って視線を逸らせたのが間違いだったのか、ルーカスが不審そうな声で彼女を呼んだ。
「どうしたの?」
「動いてはだめよ!」
「どうして?」
「だってルーカス、は、はは裸だからっ!」
さきほど煙と閃光が辺りを支配していたとき、たしかに布地が裂けるような音がした。
どうやらルーカスの着ていた衣服が、突然の成長に耐えきれず破れてしまったらしい。
へたり込んでいたフォルトゥーナを抱きしめたルーカス(子どもVer.)は立っていたけれど、現在の手足の伸びたルーカス(おとなVer.)は両膝をついてしゃがんでいる。
真っ裸でしゃがんだ姿勢のルーカスがとっても近くに……彼女はその両膝の間に、抱きしめられる距離に、いるのだ。
淑女が見てはイケナイ姿の青年が。
わざわざ視線を向けなければ見ずに済む。でも近い。近すぎるのが問題である。
「え? あ」
自分の状況に気がついたらしいルーカスが失礼、と言って後ろを向いた。
離れてしまった彼の体温に寂しさを感じる……と思ったフォルトゥーナはすぐに自分のその考えを振り払った。
(やだわ。目のやり場に困るってこのことなのね)
フォルトゥーナの視線から逃れるように背中を向けてくれたが、それでも裸は裸なのだ。
背中を向け立ち上がったルーカスの逞しい僧帽筋、広背筋、細く締まった腰、形のよい大殿筋……
それはまるで、腕の良い彫刻家が丹精込めて作りあげた青年像のような……
(だめよっ! こっそり盗み見るなんて、はしたなくてよ! フォルトゥーナ!)
男のひとのはだかをこっそり見て頬を赤らめているなんて痴女か! 自分は痴女なのかとひとり煩悶する。
見てはいけない。
どんなにあの姿が魅力的であろうとも心惹かれようとも、見てはいけないのだ。
これはあれよ、人として越えてはいけないだいじな矜持なのよと両手で顔を隠していると、聞き慣れない声がクスクスと笑っている。
「なに笑ってるの?」
「ん? だって裸なのはぼくなのに、なんでフォルトゥーナが恥ずかしがっているのかなって思って」
それが美声なのでドキリとした。
耳に新しいおとなのルーカスの声は、高からず低からず心地良い穏やかな声だった。
しかもその美声がフォルトゥーナを敬称なしで呼ぶから、またよけいに胸が高鳴った。
※作者の内緒のひとりごと※
このイチャイチャ回、ちゃんと甘い?
あと、王子さまのキスで呪いが解けるのは定番。
ですよね?
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