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第六章
34.探しに行きましょう(side:辺境伯城)
しおりを挟む清掃を終えたメイドたちがつぎつぎと一礼し、執務室を辞する。
風の精霊が部屋を荒らしたのは何年ぶりであろうかと懐かしく思いながら、老執事は本を本棚に戻した。
かれこれ十年以上はご無沙汰であったかと。
まだ幼かったルーカスが風の精霊を御しきれず、好きなように部屋を荒らされてしまったことが何度もあったのだ。
おもに荒らされたのはルーカスの私室で、辺境伯の執務室が荒らされたのは初めてのことやもしれぬ。
(そういう経緯があったせいか、いまでもルーカスの部屋は寝台と机と椅子だけで、飾りや物が少なくすぐに清掃ができるようになっている)
しみじみと懐かしく思い出した自分の考えを主へ告げようと辺境伯を見れば。
老執事が見た辺境伯は、なにやら機嫌が良さそうであった。
「嬉しそうですね閣下」
「分かるか。さすがセルバンテスだな」
ルーカスの行方を取り敢えずとはいえ知れたこと、ルーカス本人の声を聞けたこと、それらの要因で憂いが少しばかり晴れたらしい。
「さきほどのルーカスの声を聞いただろう? なにか納得がいかないことがあるらしいが、帰ると言っていた。あれがそう言ったからには必ず帰るであろう。私はその日を楽しみに待つと決めた。それにな、」
「それに?」
辺境伯はおかしくてたまらないと笑みをみせた。
「あの声……フッ。まったくなにがあったのやら。楽しみが増えたなぁ」
「……なにがですか?」
老執事は主の言いたいことが分からないので首を捻る。
「気がつかなかったか? 私を呼んだ声を。あの発音。舌足らずではないきちんとした発音で私を呼んでいたではないか」
「そう、でしたか?」
老執事はふだんのルーカスの発音など気にしていなかった。だから判別がつかなかったのだが、辺境伯は気にしていた事柄だったのですぐに聞き分けた。
そもそもルーカスはふつうに会話ができる。
彼が舌足らずになるのは辺境伯を呼ぶときだけなのだ。
「楽しみだ。あれはおとなになって帰ってくる。必ず」
ルーカスが竜の封印を受けてから今まで、サルヴァドールはルーカスの将来についてだれにも言及したことがなかった。たとえそれが信頼している老執事にでさえも。
そんな彼がはっきりと口にしたのだから、なにかしらの確信があってのことであろう。
老執事はしばらく自分の脳内で辺境伯の言ったことばの意味を考えた。
「閣下……“おとなになって帰ってくる”というのは、下ネタ的な意味で言ったわけではありませんよね?」
「下ネタ的な意味?」
にやりと笑った老執事のことばをしばらく吟味した辺境伯は。
真っ赤になって「バカもーーーーんっ! あれにそういうことはまだ早いわっ!!!」と怒鳴った。
老執事は執務室を追い出されてしまった。
ルーカスが大人になっても親が子離れできないのでは、また別の問題になるだろうと考えながら。
◇
突然登場した風の精霊に度肝を抜かれたフォルトゥーナは、散らばった書類をまとめたあと自分の部屋に戻ることになってしまった。
辺境伯たちへろくな相談もできずに。
相談ごとがあるからと執務室へ出向いたはずなのに。
まぁ、ありていにいえば追い出されてしまったのだ。
フォルトゥーナは室内清掃においてろくな戦力にならないからだ。
「あらお嬢さま。なんだか気の抜けたお顔になってますね。どうなさいましたか?」
クラシオン夫人がおだやかな声で問いかけると、フォルトゥーナはお気に入りのクッションを抱き締めながら自分の乳母に説明した。
辺境伯閣下の執務室でルーカスが契約している風の精霊に会ったこと。
それはだれの目にも視えるほどの高位の精霊で、青年の姿をしていたこと。
その風の精霊に声をかけられたこと。
ルーカスの声を聞いたこと。
「わたくしね、辺境伯閣下にルーカスさまを探しに行きましょうと提案するつもりだったの。騎士団の皆さんにも声をかけて有志を募って捜索隊を組みましょうと。でもあのゼフィー殿に会ったら……なんだかそんな気が失せてしまって……閣下も心配するのをやめてしまったみたいで……なぜかしらね」
「すごいですねぇ。『風の便り』という魔法なのですか。離れた場所にいてもお声をそのままお届けできるなんて……やはり、直接お声を聞いたから落ちついた、ということなのでしょうかねぇ。閣下も、お嬢さまも」
老眼鏡をかけたクラシオン夫人が、のんびりとレース編みをしながら応える。
「わたくしも、落ち着いたと?」
フォルトゥーナが問いかければ、クラシオン夫人は老眼鏡越しではない裸眼の視線をちろりと上げ令嬢を見やる。
「お嬢様の眉間の皺、とれてますしねぇ。安堵なさった証でしょう」
白い糸をなんどか撫でた夫人は、また視線を自分の手元に戻した。
「安堵したというか……怒りがね、収まったの。わたくし、とっても怒っていたのよ。もう、ものすごくイライラしていたの。それが……お声を聞いて……その怒りが落ち着いたというか……余計に……」
「余計に?」
クラシオン夫人は編み目を整えながら質問を繰り返す。
フォルトゥーナは、いいえなんでもないわと応えクッションを抱えたまま長椅子へ寝転んだ。
(ばあやにも言えないわ)
ルーカスの肉声を聞き、いったん怒りは収まった。
安心したのも確か。
けれど、余計に寂しくなってしまったのだ。
ルーカスがこの城の中にいないことが。
フォルトゥーナの目の届かないところに行ってしまったことが。
いま、彼のあの紅玉のような瞳を見られないことが。
とても。
寂しいのだ。
(会いたい)
クッションに顔を埋めていたフォルトゥーナであったが、鈴がなるような音にふと顔を上げた。
だれかがフォルトゥーナに話しかけていた。必死に。切実に。
声ではなかったが、自分が呼ばれているということは理解できた。
りりりりとちいさな鈴が鳴るような、愛らしいこの音は……
「……もしかして……サラ?」
フォルトゥーナの囁くような声に応え、彼女の契約精霊がポンっと姿を現した。
ちいさな火の精霊、サラ。フォルトゥーナにはちろちろと揺れる炎を纏った少女の形に視える。
手の平に乗るくらいのちいさな火の精霊。
サラという名前はこの精霊と契約を交わしたときにフォルトゥーナがつけた名前である。どうやらほかの人には赤い光源にしか見えないと気がついたときから、人前でサラと話すことはなかったのだが。
「どうしたの? わたくしを呼んでいたの?」
精霊召喚の詠唱をせずとも現れたのは初めてだった。こんなこともあるのかと驚いた。
サラはフォルトゥーナの目の前で懸命になにかを伝えようと、身振り手振りを繰り返す。相変わらず話していることばは鈴の音が鳴るようにしか聞こえず理解できない。
だが、フォルトゥーナの指を握り引っ張り上げるような身振りは、彼女をどこかへ連れていこうとしているようだった。
「どうしたの? なにかわたくしに見せたいの?」
好奇心に駆られたフォルトゥーナは、彼女の契約精霊に導かれるまま部屋を出た。
サラは嬉しそうにフォルトゥーナの少しまえを飛んでいる。あっちへ行くの! とでも言いたげに指を差して胸を張るその姿が可愛くて、フォルトゥーナはなあに? なんなの? と言いながら精霊のあとを追いかけた。
そうしてフォルトゥーナが気がついたときには、いつの間にか城から出ていた。城壁からも出てしまった。
辺りは田園風景の中で、どういうわけか誰にも見咎められない。
「サラ? お城から出ちゃったけど、なにがあるの?」
サラはあいかわらずいい笑顔を見せながら、進み続ける。
ときおりフォルトゥーナを振り返り、早く来て、こっちよと言いたげな仕草をする。
「サラ……あなたもしかして、わたくしを山に、死の山へ連れていこうとしているの?」
田園を抜けた先には死の山があった。
精霊の話しことばは分からないのに、なぜか急に理解できるような気がした。
サラはその鈴の音のような声で言っている。
“るーかす! あっち! るーかす! あっちよ!”
「サラ……あなた、わたくしをルーカスさまのもとへ連れていこうとしているの?」
サラがちいさな頭をなんども縦に振った。
“いこう! あっち! るーかす いる!”
理性は帰ろうとフォルトゥーナに囁いた。
だれにも行き先を告げずに城から出てしまった。
今の彼女は簡素なワンピース姿で、室内でくつろぐ用の靴を履いている。山歩きに適した装いではない。
しかも、そばにいるのはちいさな契約精霊だけ。
護衛の騎士も、お付きの侍女もいない。
“公爵令嬢フォルトゥーナ”はひとりでフラフラと出歩けるような軽い身分ではないのだ。
もし外歩きをするのなら、それなりの通達をすべきだ。許可を取り人員を配し万全の準備のうえで行動する。それが常であったのだ。
理性ではわかっていた。
それなのに。
感情が。
フォルトゥーナが感じていた“寂しい”という思いが。
彼女の後押しをしてしまった。
(だって……サラが案内してくれるんでしょ?)
山へ向かって一歩を踏み出した。二歩目も、三歩目も。
一歩一歩、地面を踏みしめて歩くたびになんだかお腹の奥から湧き上がる感情、これはなんなのか。
ドキドキと、わくわくと。会いたくて堪らないだれかに会うために歩を進める喜びと。
この感情は既に知っている。
忘れていただけで、フォルトゥーナはこの感情を覚えているのだ!
(まえにも……こんな気持ちでサラに案内されて……だれかを探したこと、あったような……)
「ねぇサラ」
フォルトゥーナの少し先を嬉しそうに飛んでいる精霊に呼びかける。
「いつもこうして案内してくれてた?」
サラはひときわ嬉しそうに笑うと大きく頷いた。
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