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第六章
33.風の精霊、ゼフィー(side:辺境伯城)
しおりを挟むフォルトゥーナが辺境伯と話し合った日の翌日、城内からルーカスの姿が忽然と消えた。
前日の深夜に帰城したことは門番が確認している。
ルーカスは疲れたようすではあったが、いつもと変わりなく城内へ入ったと。
だが翌日の朝食の席にルーカスは姿を現さなかった。
西翼棟四階の彼の私室を確認したところ、寝台を使った形跡があり窓が開け放たれたままであったという。
「つまり……家出?」
「おそらくは」
いつもの強面をさらに凶悪に歪ませた辺境伯が問えば、老執事も似たような表情で頷いた。
このクエレブレ辺境伯城にルーカスを害しようとする不届き者はいない。
外部からのよそ者も入れない。
もし万が一、いや、億が一そんな不届きな輩がいたとしても、ルーカスなら返り討ちにできる。むざむざとやられたりはしない。
つまり、ルーカス本人の意思で出奔したとしか思えなかったのだ。
「なにがあって家出など」
辺境伯には息子の出奔理由に見当がつかなかった。
息子はなにに思い悩んでいたのだろうか、なぜ自分は気がつかなかったのだと己の頭を抱えたほどである。
◇
辺境伯と養女問題について話し合いをした夜、フォルトゥーナは伯に言われたとおりちゃんと一晩よく寝た。
一般的に、夜決めたことは時間をおいてから検討し直した方がよいという。
一晩寝て冷静になり、朝日を浴びもう一度考え直すと欠点や再考の余地が見つかるからだとか。
フォルトゥーナは爽やかな朝日を浴び、辺境伯のことばを思い出してもう一度よく考えてみた。
やはり自分の決断に迷いも悔いもしないと確信した。
しかしこの確信にはルーカスの意思確認が絶対条件として必要だった。彼ときちんと話し合いたい。ちゃんと告白したい。フォルトゥーナはそう思っていた。
朝食の席でルーカスに時間を貰おう、彼にきちんと告白しよう。
どうか自分を伴侶に選んでくれないか。
フォルトゥーナが表の辺境伯を務めるから、自分と共にいてくれないか。
なぜなら、フォルトゥーナはルーカスのことが好きだから。
好きだと気がついてしまったから。
自分と結婚してほしい。
彼女はそう提案しようとしていた。
だが。
フォルトゥーナが一大決心したその提案を聞くまえに、該当人物が家出してしまった。
城内は騒然となった。
もしや、ルーカスはすべてを知っていてフォルトゥーナとの話し合いを避けたのだろうかという疑念が湧いた。
なんせ彼は『風の噂』という彼独自の風魔法を使い、領内で起こるほとんどの事件や揉めごとを知ることができるのだ。
辺境伯とフォルトゥーナが次代の辺境伯位について語り合ったことすら知っていた可能性がある。
辺境伯と老執事はそう予想した。
そうでないなら彼の出奔理由の説明がつかないと考えたのだ。
ルーカスはフォルトゥーナに懐いていたと思っていたが、結婚相手には想定していなかったから避けたのか。あるいは、ルーカス本人が辺境伯位を継ぐつもりだったところに、よそから来た公爵令嬢に継がせようとしていたサルヴァドールに対して腹を立てたのか。
それらの予想は、当然ながらフォルトゥーナとも共有された。
ルーカスが出奔したくなるほど自分は彼に嫌われていたのだろうかと、フォルトゥーナはこれ以上ないほど落ち込んだ。
それが一日目。辺境伯や老執事たちとルーカスの家出理由を話し合い推測し、地にのめり込むほど落ち込んだ。
二日目。
外泊などしたことがないというルーカスの身が心配になった。彼はどこでなにをしているのだろうか。ちゃんと寝ているのか。食事はしているのか。心配事は尽きなかった。
三日目の朝。
フォルトゥーナは落ち着かないようすで自室をうろうろと歩き回っていた。
二日連続で睡眠不足の彼女は、歩き回りながらも聡明と評判の頭脳で考えを巡らせる。
いま彼女がなすべきことはなにか。
しなければならないことはなにか。
したいことはなんなのか。
フォルトゥーナの理性部分が考えごとをしていると同時に、感情の部分はある一点の思いが頂点に達していた。
丸二日はルーカスを心配していた。不安とともに心配し、それが反転すると苛立ちという感情に名を変えた。頂点に達した苛立ちは、やがて怒りという感情に名を改める。
こんなに人を心配させ振り回すなんて、ルーカスは“イケメン”だけのことはあると再認識した。このクエレブレ一の、いやアクエルド国一の、とんでもないイケメンなのだと!
このイケメン、どうしてくれよう。
答えは決まっている。
捕まえてみせる!
フォルトゥーナは自分の胸元を飾るネックレスの赤い石を握りしめた。
フォルトゥーナの優秀な頭脳がはじき出した“彼女がやらねばならないこと”と、この二日間で胸に抱いた滾るような熱い“怒り”の感情。
それらに後押しされるように決意を固めると自室を出た。
目指すは辺境伯閣下の執務室、東翼棟だ。
辺境伯と老執事が、三日前からそこに詰めたままになっている。
そこで提案するのだ。ルーカス捜索隊を組み、彼を探そうと。なんならフォルトゥーナが陣頭指揮を執ってもいい。いや、執らせてくれと。
◇
フォルトゥーナが辺境伯閣下の執務室のドアを開き、お話がありますっと叫んだちょうどそのとき。
カタカタと小刻みに揺れていた執務室のガラス窓が、凄まじい突風に襲われ弾け飛ぶように勢いよく開いた。もしかしたら蝶番が壊れたかもしれない。
室内は轟音を伴った突風に占領され、書類が舞い上がり什器すら散乱するようなめちゃめちゃな惨状になった。
そんな一陣の風が止み、静けさが戻ったその場に立っていたのはひとりの青年。
銀色に光る長い髪。空の色を落としたような青い瞳。びっくりするほど秀麗な顔。薄衣を纏ったその姿は宙に浮き、彼の向こう側にあるものが透けて見えるせいで、只人ではないとすぐに理解できた。
(もしかして精霊? こんな大きな人型の精霊なんて……あら? 彼、ルーカスさまとよくいっしょにいる、あの大きな風の精霊?)
「ゼフィー殿!」
フォルトゥーナがその精霊を凝視しているあいだに、辺境伯が驚いたような声で呼び掛けた。
ふだんは光の塊にしか見えない精霊であるが、今いる薄衣を纏った彼だけは別格なのか青年の姿に視えるのだ。
それに辺境伯にとっては、この精霊との付き合いは長い。
ルーカスを引き取ると決めたとき目の前に顕現し驚いた記憶も新しい。
「ゼフィー殿! ルーカスが……!」
ルーカスの不在を告げようとした辺境伯であったが、そんな彼をうつくしい笑顔で制したゼフィー。辺境伯の目の前に自分の握っていた右手を差しだし開いてみせた。
すると
【ぼくはだいじょうぶなので、父上も心配しないでください。納得がいったら帰ります】
というルーカスの肉声が聞こえた。
「『風の便り』か……! いまルーカスはどこに」
ゼフィーは黙って死の山へ視線を向けた。
「死の山の向こうに、いるのですか」
辺境伯はホッと息をついた。息子の居場所を知ることができ少しだけ安堵したのだ。
この風の精霊が常に控えているのだから、ルーカスの身は安全であろう。
「ゼフィー殿? わたくしはフォルトゥーナと申します。お見知りおきを。唐突でごめんなさい、ルーカスさまはいつお戻りになるのか教えて」
フォルトゥーナが呼びかけると、風の精霊ゼフィーはその青い瞳を興味深そうに彼女へ向けた。
「わたくし、ルーカスさまにお話ししたいことがありますの! とてもたいせつなお話が……!」
精霊の伸ばした指先がフォルトゥーナの顎先を軽く持ち上げたせいで、彼女は押し黙った。そのまま真正面から精霊の青い瞳に見つめられ、身動きひとつ取れなくなった。
その青い瞳は空の青だとフォルトゥーナは感じた。
彼女が毎朝見上げる空と同じ色。
もう見慣れてしまったクエレブレの空と、同じ……。
精霊は無表情のまま、穴が開くのではと思うほどじっくりとフォルトゥーナを見つめる。その視線は彼女の両耳にあるイヤーカフとその胸元に光るネックレスの宝石にも移動する。
それを見た精霊は満足げに頷いた。うんうんと二度。
そして息を呑むほどに鮮やかでうつくしい笑顔をみせた。
『火の加護を受けし人の子。我はそなたを気にいった』
風のうなりのような、鈴の音のような不思議な音声で話しかけられた。
彼女の顎先に触れていた指は離れ、その手は彼女の頭をポンポンとやさしく撫でる。
唖然としたままのフォルトゥーナの目の前で、精霊は疾風となって消えてしまった。
あとに残されたのは……破壊された窓と、書類が舞い、文房具が散らばり、椅子が散乱し机がずれ、隅に用意されていた茶器が床で粉々に割れているという……つまり目も当てられないほど荒らされた室内の惨状のなか、呆然と立ち竦む人間たちであった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
※このあと、お掃除と整理整頓に時間をさくはめになりました。
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