ICHIKAのトルソーとハニーレモンフレーバーの夜想曲

４

小夜

　見捨てようかと思った。

　今までの自分なら絶対に知らないふりして通り過ぎる。勇気もないし。でもすっかりそうしようと思ってしまうには少し引っかかることがあった。

　一つ目は困っている人が小夜であるということ。そしてもう一つは、なんとなく放っておけないって思ってしまったから。本当に困窮している時に誰かが助けてくれるというのは、すごく温かいことだって知ってしまったから。

「や、やめて、くだ、さい」

　小夜さよが言っている。裏道の隅っこで。なんでこんなところに来てしまったんだろう、と春人は思った。ここは小夜が来るような場所ではない。僕みたいな人が……。

　ため息。

　小夜を囲っている男は二人。声が違うから見ないでも分かった。声はよく分かる。喋り方も。感情は顔に出る。本性は目に出る。育ちは喋り方に出る。二人の男の口調は荒っぽくて、舌足らずのような感じで、裕福な育ちって感じはしなかった。まだ昼間なのに酒を煽ったか、薬をやっているかなんかだと思う。

　裕福な人は本当に言葉が違う。春人は自分がそうでないから嫌というほど実感する。小夜の言葉は丁寧だ。裕福な人のそれだ。

　同じ部活だから本当にいい育ちなんだということは知っている。それくらいの個人情報を知っているくらいには顔見知りだった。誰にでも当たり障りなく、広く浅く接する春人にとって彼女はクラスで一番馴染みのある生徒かもしれなかった。

　というか、彼女はたった一人の、友達といってもいい人だった。もし彼女がそう言うことを許してくれるのならばの話だけれど。

「こんなの、おかしい……間違っていると思います……」

　馬鹿だ。こんな人たちに真摯に対応したって無駄なのに。分からないんだ。話せば分かるって思っているんだ。そして彼女は今の今までそういう世界に生きていたはずだった。なんでこちらに踏み込んでしまったんだろう。蜘蛛の糸に引っかかった蝶は、相当な幸運がない限りもう食べられるしか道はない。

　このまま小夜は近場のホテルに連れ込まれるのが運の尽きだろうな、と漠然と感じる。

　いや、ホテルだったらまだマシな方、人目につかない廃墟ビルなんてこのあたりには探せばいくらでもある。Ｉ区は治安が悪い。治安が悪い区で有名だ。すぐ隣の区に春人の通っている高校があるということは、もしかしたら昔はそうでもなかったのかもしれない。

　荒れ果てた様を見るたび、この区は犠牲になったんだ、って、春人は思うようにしている。この区が穢れているから他の区が美しいんだ。だから醜くなくてはいけない。これがこの場所のあるべき姿なんだと思う。