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Ⅴ
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しおりを挟む「今戻れば会えるかもしれませんよ」
慶秋さんは、僕をまっすぐ見据えて言った。言葉以上の願いをなんとなく感じ取る。この人は決して、僕を惑わそうと思ってそんなことを言ったのではない。誠実でまっすぐな慶秋さんの眼差しは、僕の気持ちを後押しするように力強かった。
翔に会いたい。最後に別れた時から今日までずっと会いたいと思い続けていた。
僕はずっと、翔に会いたかった。
ノエルに謝りたい。マダムに伝えたい。
僕はたまごの殻を壊してここに来ました、って。
ここから一歩踏み出せば、それが叶う気がする。
慶秋さんは僕の言葉を待っているようだった。
「……そ、うですか……」
口ごもる。慶秋さんはずっと僕を見ていた。瞳はずっとずっと若々しい。若々しくていろんな感情が見え隠れしている。それは心配だったり、期待だったり、落胆だったりした。そんな思いが伝わる瞳だった。
答えが出せない。
簡単なことでしょう、と慶秋さんの瞳が言っているような気がする。
僕はその瞳から逃げてしまいたい衝動に駆られた。
「樫崎くん、準備できたよ!」
扉の向こうから蕗ちゃんが僕を呼んでいる。
慶秋さんは彼女の声をきっかけに、いつもの雰囲気に戻ってしまった。まるで君と僕で話をする時間がここで終わってしまったとでもいうようだった。
僕は俯いて口ごもる。苦しさが漣のように身体中に染み渡っていった。
「今日は店を閉めますので、好きに使ってくださいね」
慶秋さんはそう言うと、僕から視線を外して出入り口のほうへ歩いていった。僕は礼を言って頭を下げる。僕らが台所を使ったとしても、使わなかったとしても、店を閉める必要があったような口ぶりだった。用事があったのかもしれない。なかったとしても、僕がそういうふうに感じ取ることで、僕の中の申し訳なさを緩めてくれるような配慮をしてくれているのは十分伝わってきた。慶秋さんはいい人だ。
だから、彼が先ほど僕に言ったことは、慰めやいたずらなんかではない。本当のことなのだ。翔は今、この街にいるんだ。
ため息が出た。
その後蕗ちゃんに呼ばれてキッチンへ行って、お菓子を作り始めた。自分が思い描いた以上にまるで身が入らない。僕の憂いと反比例して、蕗ちゃんはとても上機嫌で、彼女の機嫌に合わせなければと思えば思うほど焦ってしまっていろいろ上滑りしてしまった。
彼女は春を先取りしたような鮮やかで華やかなワンピースの上にフリルのついた純白のエプロンを着ている。似合うし可愛いと思う。もうちょっとスカートの裾が長くて、エプロンも落ち着いた色だったらマダムにも似合うんだろうなあと思う。そんなこと言ってしまったらいけない。思ってもいけない。彼女に言わせれば僕の思いは雰囲気に出てしまうみたいだから彼女に気づかれてはいけない。
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