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Ⅲ
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しおりを挟む時間が止まったみたいだった。僕は呆然と彼の相貌を目に映していた。眼鏡を掛けていないと、本当に幼く見える。それなのに雰囲気が大人びているからすごく不思議な気分になった。彼の右頬にうっすら、僕のこめかみにあるのとおんなじような傷の痕がある。眼鏡で見えなかった。それがなおさら彼をやんちゃな印象にさせた。
僕は、なんだかやっぱり、彼の顔に見覚えがあるような気がした。彼の顔と、この胸のときめきは、昨日今日で初めて見たり感じたりしたものではないような気がする。気のせいかな。
マダムがシズクさんにそっくりだ、と言っていたことがふと脳裏を過ぎった。顔立ちは全然似ていないけど、マダムが惹かれる魅力が彼にあるというのはなんとなく納得できる。
シズクさんはマダムの旦那さんで、僕をここまで連れてきてくれた人だ。僕にとってシズクさんは恩人で、変わりたいと願う僕に別の世界へ繋がる扉を、開いてくれた人だ。僕はこの時も確かに同じようなときめきを感じた気がする。
既視感はこれなんだろうか。分からない。
「……優月、おはよう」
彼の声で突然現実に引き戻された。我に返って目を逸らす。
「おはよう……」
直視できなくて俯いていたら翔がう、と呻く声が聞こえた。
「ノエルには!」
ノエルの少しいじけたような声。顔を上げると、翔がノエルに背中から飛びかかられている。
「さっき言ったじゃん……おはよう……てかお前……ズボン履けよ、風邪引くぞ……」
背中にくっついているノエルを引き剥がしながら、彼は小さくあくびをして目を擦る。自然な手つきで枕元に置いてあった眼鏡を取ると、それを顔に掛けた。
なんだろうこの……月蝕が終わった後のような気分は……。
「ぼたんおわったら!」
「はあ? お前、ボタン一人でできんの?」
翔は迎え合わせになったノエルのブラウスを見下ろしている。
「うん」
「すご、朝から大層な仕事をしてますなぁ」
話をしながら、彼はさりげなくノエルの掛け違えたボタンを直していた。ノエルは話に夢中で気がついてないみたいだった。
「じゃあカケルのもやってあげようか?」
ノエル、すごく嬉しそうだ。
「あー……お願いしようかな、今度俺が……もうちょっと早く起きられた時にでも」
会話は途切れることなく進むのに、翔の手は忙しなくノエルの世話を焼いていた。ノエルがこれから履く予定のズボンや靴下や、セーターがノエルの周りに広げられている。ベッドの側にたたんで置いてあったものだ。どうしてわざわざ広げるんだろう、と思ったけど、後になって分かったんだ。
「きょうはねぼすけだから?」
「そうそう、ほら、最後の一個、頑張れ」
「これはおにいちゃんにやってもらうの、ノエルよんさいこどもだから」
「よんさいこどもは第一ボタン止められないのか」
「そうだよ!」
「そうだよじゃねえよ」
ノエルがずりずりと僕の側に寄ってくる。満面の笑みに釣られて笑いながら、僕はノエルの第一ボタンをとめた。ありがとう、とノエルは言う。どういたしまして、と言いながらも、なんだか僕も、ありがとうって気持ちになるんだった。
「つぎ、ずぼん!」
「履け履けー」
隣で、翔が片手で寝巻きのボタンを外して開襟シャツの袖に腕を通している。二十秒とかからない。服は多分シズクさんの服だと思う。ノエルの服は雰囲気から察するに、ノエルのお母さんのお下がりだ。シンプルなブラウスにかぼちゃパンツ……あからさまに可愛い。子どもしか着られないやつだ。
僕はなんとなく翔から目を逸らしながらノエルが服を着るようすをじっと見ていた。
翔が洋服を広げてあげた状態から、彼は導かれるように足を通したり、頭を通したりしていった。靴下の右と左も迷っていない。
「ねぼすけでごめんね」
ノエルが左足の靴下と奮闘しているところを見ていたら、身支度を終えた翔が僕の側に来て言った。僕は首を横に振る。
「全然構わないよ、うちでは7時にご飯なんだ、言ってなかったから、僕のほうこそごめんね」
「明日はちゃんと7時にノエルを連れて席につけるようにする、手間取らせてごめん、慣れたら朝飯作るのも手伝わせて」
何気なく時計を見たら、7時を2分くらい回っているところだった。
「いいよ、面白いし」
僕が笑いを含んだ調子で言うと、翔も少し笑ってノエルを見下ろす。
「……ずっと見てられるよね、癪だけど可愛いし」
僕は頷いた。昨日は緊張したけど、小さなことに一生懸命になっている姿は可愛いし、元気がなくてもノエルが笑っているだけで、自然と笑顔になってしまう。
ノエルは靴下と戦い続けている。もう少し引っ張れば履き終わる。頑張れ、と心の中でつぶやいた。
「俺、このくらいの歳の子結構好きなんだよね」
僕は笑った。
「……見てたら分かるよ」
「将来は子どもと関わる仕事がしたいって、なんとなく思ってる」
彼の顔を見上げると、彼は少し照れ臭そうに目を逸らしては僕を見ていた。
「素敵だね、君ならなれると思う」
一瞬見開かれた翔の瞳は、沈みかけの夕日が水平線に作る光の線みたいになって細まった。少し赤くなった彼の頬が、笑顔と一緒に持ち上がる。
「……ありがとう」
ノエルが靴下を履き終わった。
「ぜんぶひとりでできた!」
ノエルが僕らを見て言った。
「すごいじゃん、後ろも前もちゃんと合ってる。靴下も右と左ばっちりだよ。なにも言わなくても、ノエルは間違わないで一人で着替えできるんだ、お兄ちゃんだな」
違う。僕は思った。左右も後ろ前も上下も、ノエルが判断して間違いのないように着替えたんじゃない。翔が仕組んだんだ。ノエルが間違って着ないような環境を整えた。
さっき広げた洋服にはそういう意図があったんだ。ノエルの動きを見通して、全部を計算して、ノエルが間違わないで着られるように広げたんだ。
「もうごさいだもん!」
「よんさいこども終わるの早」
置き方一つで、子どもはこんなにも自信を持つことができるのか。僕は感心せずにはいられない。魔法みたいだと思った。
「リボンはこれでいい?」
翔が戸棚から取り出したのは、赤と黒のチェック模様のリボンタイだった。
「うん! きのうえらんだ! ノエル、ひとりでできるよ!」
ノエルは翔が持っているリボンへ手を伸ばす。ノエルの気持ちを尊重して、リボン結びに挑戦する彼を見守るとなると、10分や20分はかかってしまうかもしれない。
翔は急ぎたいはずだ。7時を過ぎているから。結んであげたいはずだ。翔が結べば、きっと十秒もかからない。
だけど、俺がやる方が早いから、って、そんなことを素直に言えばノエルはできる、と言い張って絶対に譲らないに違いない。
どう答えるんだろう、と彼の言葉かけが気になった。
「知ってる。昨日見せてもらったから」
翔はベッドに座るノエルの前で膝をついて目を合わせる。
「だから今度は、ノエルが見ていて」
セーターの内側に入っている襟を出しながら、翔は笑った。
「俺がちゃんと、リボン結びできるかどうかを」
翔って……すごく、素敵だ。
好きだなあ、って。
思ってしまった。
満足そうな二人の横顔を見ていた。
すごくどきどきした。こんなふうに、僕もなりたい、って。
思った。
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