DEAR ROIに帰ろう

紫野楓

文字の大きさ
上 下
17 / 104

しおりを挟む



「いい香りがする」

 翔が僕の首筋に顔を寄せていった。息がそこに当たって体が跳ねる。

「甘い焼き菓子の香りと、ミントの香りが混ざってる」

 息を吸う音が耳のすぐ近くで聞こえて、鋭敏になった僕の感覚はそれに過剰なくらい感じてしまう。体に上手く力が入らない。

 顎を掴んでいた彼の手が、そのまま僕の右の頬に流れていく。

「真っ赤」

 翔がいたずらに言う。

 僕はなにも言えなかった。雨で濡れた髪を梳かれる。

 一瞬またツボを突かれるんじゃないかと身構えたけれど彼の手はコットンみたいに優しく僕の頬を包むだけだった。

 翔は僕をずっと見ていた。

 僕の右頬と耳の間をずっと見ていた。

「あ、あの……」

 僕は気まずくなって声を掛ける。言葉の続きはもちろん考えてない。

「この傷どうしたの」

 翔が神妙な顔で言った。

 僕の右側のこめかみには、雷みたいな模様の傷痕がある。古い傷だけれど、今も痕は薄く残っている。たぶんずっと消えない。普段は髪で若干隠れるから、そんなに指摘されたことはないし、遠目では分からないくらいだ。もはや僕の一部になっている。だから改めてこの傷のことを聞かれたことは、本当に久々か、初めてくらいのものだった。

 でもこんなに近付かれたら流石に気づかれてしまうのは仕方がない。

 なにも返事をしない僕に、彼は催促するようにもう一度、どうしたの、と囁いた。

 心の中を覗き込むような翔の瞳に、僕は言葉を詰まらせる。

 僕はどう言おうか、と熱っぽい頭で考えた。

 あんまり言いたくないけど、言いたくない、と言えない。言いづらくて、嫌な時は言ってね、とさっき彼は言ったけど、僕は嫌なことを嫌と言うのが得意な方ではない。さっきみたいに信じられないほど痛いことをされたら話は別だけどさ……いやでも、相手が違っていたら、あんなに怒ることは、できなかったかもしれない。

 翔になら怒ってもいいって、心のどこかで思っていたのかもしれない。

「小さい時に……」

 言葉に乗せると、紐解くように簡単に記憶が溢れてくる。僕は目を閉じた。やばい、と思って深く呼吸しようとする。上手くいかない。手に力が入る。

「小さい時についた傷なんだね」

 翔の声が真っ暗な視界の隅から聞こえてきた。どうして。波紋になって揺れる過去が僕の息を詰まらせる。あの時感じていた感情を言葉にするのは難しい。だって感情は言葉じゃないから。言葉でないものに形を与えると存在しているもののように思えて苦しい。

「……石に当たっ、て……」

 口は開くのに、声がなかなか出てこなかった。声を出そうと意識すると、言葉にしようと思っていたことを忘れていく。視界がぐらぐらした。

 僕は、この日のことを、今初めて、誰かに語ろうとしている。

「石に当たったんだ、痛かっただろうね」

「うん、痛かった……」

「自分から当たったの? それとも誰かが当てたの?」

「投げら、れた」

「酷いことをする人もいるんだね、じゃあ優月は石を投げられたんだ」

 苦しいのに、思い出したくないのに、翔が言葉を返してくれると、堰き止められていた気持ちが濁流みたいに押し寄せてくる。僕は、口を開かずにはいられなくなっていった。

「そう……気付いたら、血だら、けだっ、た」

 背中をさすられていた。あったかくて、冷えた体がぽかぽかして、なんか変な気持ちだった。吐きそうなのに、酷く安心する。怖いのに、もっと話したいって、心の隅で思わせられる感じがした。

 夏の日だったな。あの頃は、僕は一人で川辺に座っていたんだ。

 毎日毎日それの繰り返しだった。川と、祖母の家を、たった一人で往復していた。なにもすることもなく川のせせらぎと自然の匂いと空気を感じていた。それだけ。なにもなかった。

 僕は生まれてこなければよかったのにと実母に何回か言われたけれど、別に死にたいとは思っていなかった。

 でも生まれ変わりたいと思っていた。そればかり考えていた。

 もう一度お母さんのお腹の中からやり直したい。ワンピースや、長い髪が似合う子どもに生まれ変わりたい、って。そうしたら、お母さんも、お父さんも、きっと僕を捨てなかったって、ずっと思っていた。

 だけど僕のこめかみに傷がついた日から、なにかが変わっていったんだって、今になって思う。

 この日がなかったら、僕は『あの子』と出会うことはなかったと思うから。

 『あの子』がくれたありふれた日々を、僕は過ごしていきたい。

「優月」

 抱きすくめられた。温かい。目を開けられた。彼の肩口が視界いっぱいに広がる。

 気付いたら、目から生暖かい水みたいなのが、ぼろぼろ流れていた。

「続きはまた今度、聞かせて……苦しいのに、教えてくれてありがとう、優月」

 ありがとう、と彼が喋る。振動が伝わる。呼吸に合わせて穏やかに揺れる体を感じた。体の緊張がみるみる弛緩していく。

 ここは、僕の部屋だと分かる。

 もっと喋りたい。聞いて欲しい。助けて欲しい。って。

 思うのに。

 僕の、口は。

 動かない。

 僕はこんなことをするために生きてるんじゃない。

 だけど、体が動かない。動きたくない。

 彼の胸の中に、ずっといたいって思っちゃったよ。

 こんなのは違う。こんなのは。

 こんなのは『あの子』がくれた『ありきたりな日常』とは程遠い。

 僕たちって普通じゃないよ。なんで出会ってすぐの素性も知らない男の人に、こんな事話して泣かなければならないのか。

 僕が、弱虫だからだ。情けない。

 嫌だ、嫌だこんな僕は。
 
 こんな僕は嫌だ。




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

後輩に嫌われたと思った先輩と その先輩から突然ブロックされた後輩との、その後の話し…

まゆゆ
BL
澄 真広 (スミ マヒロ) は、高校三年の卒業式の日から。 5年に渡って拗らせた恋を抱えていた。 相手は、後輩の久元 朱 (クモト シュウ) 5年前の卒業式の日、想いを告げるか迷いながら待って居たが、シュウは現れず。振られたと思い込む。 一方で、シュウは、澄が急に自分をブロックしてきた事にショックを受ける。 唯一自分を、励ましてくれた先輩からのブロックを時折思い出しては、辛くなっていた。 それは、澄も同じであの日、来てくれたら今とは違っていたはずで仮に振られたとしても、ここまで拗らせることもなかったと考えていた。 そんな5年後の今、シュウは住み込み先で失敗して追い出された途方に暮れていた。 そこへ社会人となっていた澄と再会する。 果たして5年越しの恋は、動き出すのか? 表紙のイラストは、Daysさんで作らせていただきました。

悩める文官のひとりごと

きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。 そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。 エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。 ムーンライト様にも掲載しております。 

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

某国の皇子、冒険者となる

くー
BL
俺が転生したのは、とある帝国という国の皇子だった。 転生してから10年、19歳になった俺は、兄の反対を無視して従者とともに城を抜け出すことにした。 俺の本当の望み、冒険者になる夢を叶えるために…… 異世界転生主人公がみんなから愛され、冒険を繰り広げ、成長していく物語です。 主人公は魔法使いとして、仲間と力をあわせて魔物や敵と戦います。 ※ BL要素は控えめです。 2020年1月30日(木)完結しました。

心からの愛してる

マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。 全寮制男子校 嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります ※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

【完結】薄幸文官志望は嘘をつく

七咲陸
BL
サシャ=ジルヴァールは伯爵家の長男として産まれるが、紫の瞳のせいで両親に疎まれ、弟からも蔑まれる日々を送っていた。 忌々しい紫眼と言う両親に幼い頃からサシャに魔道具の眼鏡を強要する。認識阻害がかかったメガネをかけている間は、サシャの顔や瞳、髪色までまるで別人だった。 学園に入学しても、サシャはあらぬ噂をされてどこにも居場所がない毎日。そんな中でもサシャのことを好きだと言ってくれたクラークと言う茶色の瞳を持つ騎士学生に惹かれ、お付き合いをする事に。 しかし、クラークにキスをせがまれ恥ずかしくて逃げ出したサシャは、アーヴィン=イブリックという翠眼を持つ騎士学生にぶつかってしまい、メガネが外れてしまったーーー… 認識阻害魔道具メガネのせいで2人の騎士の間で別人を演じることになった文官学生の恋の話。 全17話 2/28 番外編を更新しました

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

学園の俺様と、辺境地の僕

そらうみ
BL
この国の三大貴族の一つであるルーン・ホワイトが、何故か僕に構ってくる。学園生活を平穏に過ごしたいだけなのに、ルーンのせいで僕は皆の注目の的となってしまった。卒業すれば関わることもなくなるのに、ルーンは一体…何を考えているんだ? 【全12話になります。よろしくお願いします。】

処理中です...