DEAR ROIに帰ろう

紫野楓

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 翔はいっときノエルのようすを見て眼を細めていたけれど、すぐに僕の方に向き直った。

「うーん、と……とりあえず、ノエルの目的はばあさんに会いに行くことで、ばあさんは優月の帰る場所にいるってことだよね」

「そうだね」

「じゃあ俺とノエルは、どっちにしろ優月と一緒に、その喫茶店に行かなければならない、だよな? 例えノエルが、飲みたいって駄々こねた飲み物の話を忘れていたとしても」

 いたずらに言う翔に僕も釣られて笑って言う。そうだね、と。

 なんだか長いお使いだった。

 こんなに疲れたお使いは、初めてかもしれない。

 〈DEAR ROI〉へ帰ろう。

 僕はマダムから受け取っていた財布の中身の全てを慶秋さんに渡した。代わりに、頼んだ品々と、慶秋さんがくれた美味しそうなマドレーヌの袋を受け取る。

 その間際、慶秋さんが僕を見てちょっとだけ微笑んだ。その時の慶萩さんは、歳の離れた友人という雰囲気だった。

「木のものを触ってご覧」

 僕にしか聞こえない声で慶秋さんが囁く。

 戸惑う僕を導くように、慶秋さんはレジカウンターの台をコンコン、と拳で叩いた。

 確かにレジカウンターは木でできている。

 僕は戸惑いながら台を手で触れた。

 慶秋さんは一つこくりと頷くとウィンクをする。

 初老のパティシエのウィンクとは思えないくらい子どもっぽくて、それなのに上品で素敵だった。

「この幸福がずっと続きますように」

 慶秋さんは僕に耳打ちして、その後すぐに秋のお菓子屋の店主に戻ってしまった。

 僕は狐につままれたような気持ちになったけれど、このおかしな店主を言及する時間的な余裕は、とんでもないくらいお転婆な少年を連れている僕らにはないと分かっている。

 と、僕はふと、お菓子の甘い香りの隙間からささやかに主張してくる、独特のしっとりとした香りを感じ取った。

 ああ、この匂いは。

 だいぶ間に合わなかった。

 出入口の前では、翔がノエルに帰路の注意事項を、五歳の子供にも分かるように丁寧に教えていた。走らずに歩くこと、前をよく見ること、ケーキの入った小さな紙箱を、絶対に振り回さないこと。果たしてその約束を、ノエルはどれだけの時間守ることができるのか。想像するとおかしくなった。

「よし、じゃあ行くぞ」

「おー!」

 意気勇んだノエルが四苦八苦でお店の扉を引く。

「待って、外は……」

 僕は届かないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。

 信じられないくらいの土砂降りだ。

 翔が眼を瞬かせて、ぽかん、としている。

「さっきまであんなに晴れてたのに……」

 翔がぽつりと呟いた。店先に雨の香りが入り込んできて、僕はまた少し頭が重くなるのを感じる。気圧の変化に体が付いていっていないような感じだ。動くのが少し億劫に思ってしまうけど、ずっとここに留まっているわけにはいかない。

 僕たちは帰らなければならない。

 マダムに、聞きたいことだってたくさんある。

 もやもやとした空気を、夏の晴れの日みたいな少年の声が引き裂いた。

「うわー! すごい雨だー!」

 大はしゃぎになったノエルはそのまま突進するように店の外へ出て行った。

「ノエル!」

「ノエルくん!」

 呼び声も虚しく、ノエルは雨の中にすうっと溶け込んでいく。

 困惑する僕を尻目に、翔が大笑いしていた。

「ダメだ、あいつはアホだ! 最高傑作のアホだ! もうケーキ台無しじゃねえか! 三分ももってねえよ!」

 言葉と語調が全然合ってない。翔はすごく楽しそうだった。困惑している僕が誤りで、面白がっている翔が正しいみたいに思えてくる。

 手になにかが触れた。

 僕は見る前に分かった。

 翔が僕の手を掴んだんだった。

 僕の心臓は水溜りに落ちる雨粒みたいに跳ねた。

「追いかけるぞ」

 翔はやっぱり笑ってる。眼鏡越しの瞳が僕を見る。

 あのさ。

 どんな気持ちで、僕の手を握ってるの?

「慶秋さん、また来るね!」

「う、わぁッ」

 扉と雨音の向こうで、慶秋さんが、お待ちしてます、と言った声が聞こえた気がした。雨粒は大きくてすごく痛い。そして冷たい。走るたびにブーツが雨だった水と地面を弾いて変な音を奏でたけれど大半が雨の音にかき消される。だけど前を走る翔の笑い声ははっきりと聞こえてくる。握られている手だけが、春が来たみたいに温かかった。

 数メートル先にノエルの背中が見える。

 僕らはノエルの名前を呼んだ。

 僕の手はノエルを捕まえた後も翔に握られたままだった。









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