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Ⅰ
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しおりを挟む正直言って困惑した。正直言って、子どもを相手にすることに慣れていない。同年代の人とだって折り合いをつけるのにわりと苦労するほうなのに、子どもなんて尚更だ。
「とどかないの」
男の子が指差す先には飲み物の自動販売機がある。緊張しながらなるほど、と僕は思った。確かにこの子の身長じゃあ一番下の段しか届かないだろう。いや……一番下だって怪しいかもしれない。
「ノエルのかわりにおして……おしてください!」
この子はノエルって名前なんだ、と思った。手を引かれながらあたりを見回す。自分のことを自分の名前で呼ぶの、ちょっと可愛い。保護者らしき人はどこにもいない。彼に握られた右手にむずがゆさを覚えながら、彼の後ろをぎこちなく歩いていった。手を引く彼の小さな手には遠慮がなくて、たった今初めて会った僕をめいっぱい信用している力強さがある。
本当はあまり気が乗らなかった。だけど……こんな小さな子が僕にお願いをしているのに自分が嫌だから、不慣れだからって、たったそれだけの理由で無視して通り過ぎるほど自分勝手の臆病者では……いたくないって思う。
それにノエルのこの強引さは嫌いではないなと思った。懐かしさすら感じる。よく分からないけど、昔出会った「あの子」に、ほんの少し似ている気がした。僕はあまり、自分が先頭に立って物事を進めることが得意ではないから……よく誰かに引っ張られてしまう。それを後ろめたいと思う時もあれば、こんな風に、心地いいなと思う時もあった。
小さな子の歩幅は狭い。ノエルの三歩がようやく僕の一歩だった。せわしなく歩く度に、彼の小さな背中にぴったりの小さなリュックがカタカタ鳴りながら跳ねる。
そのリュックの中にはノエルの身長の三分の一くらいの大きさの黒うさぎのぬいぐるみが丁寧に入れられている。入りきらずに顔だけが飛び出ていて、これならリュックじゃなくてうさぎのぬいぐるみにおんぶ紐をつけたほうが、ぬいぐるみにとってずっと開放的な気がした。お気に入りのぬいぐるみなのかなあ、と漠然と思う。少し持ち主に似ていた。
それにしたって、ノエルはよく誰かに話しかけられたなあ、と思う。仮にもし僕がこの子くらいの年頃だったとしたら同じことはできないだろう。販売機の前で泣くだけ。それか何も得ずに帰ってしまうだろう。
自動販売機の前に立つと、彼は僕の手を離した。ちょっとほっとする。それでちょっと寂しくもなった。ぽかぽかの熱が外の空気に一瞬で蒸発していく。彼と手を繋いでいたという感覚はあっけなく消えていった。
なにをするんだろう、と思っていたら、ノエルはリュックを下ろして黒うさぎのぬいぐるみと向き合うと抱きかかえた。黒うさぎは、ノエルのリボン帯と同じ色の小さいポシェットを斜めがけしている。ノエルはそのポシェットから五百円玉を取り出して、さっきと同じように黒うさぎを背負った。なるほど、財布番の黒うさぎか、すいぶん目立つな。ノエルは取り出した五百円玉を、背伸びをしてなんとか自動販売機に投入した。なんてしっかりしてるんだ、とため息が出そうになる。自分が後ろめたくなるくらい、この子はすごい。
「どれに……しますか」
僕はちょっと緊張してたから、ぎこちない敬語になってしまった。彼はそんな僕の心持ちなんて吹き飛ばしてしまうような、純白の花みたいに屈託のない笑顔で僕に言う。
「いちご!」
僕は上段の紙パックに入ったいちご牛乳を指差してノエルに尋ねた。
「これ?」
すると、ノエルがちょっと怒ったふうに地団駄を踏んで僕を見上げる。可愛い。風がノエルの長くて細くて柔らかそうな襟足を揺らす。耳を隠す髪がノエルの口の中に入ったけどノエルは少しも気にしないで頬を余計に紅くさせて言った。
「みえない!」
僕はひやりとした。確かにノエルの身長じゃあ見えない。僕は子どもが見ている世界のことなんて少しも考えられてなかった。気まずいな。そんな気持ちなんて少しも気にしない様子でノエルが僕に向かって両手を伸ばしてくる。なにを求められているのか理解するのに少し時間がかかった。でもやるしかない。できるかな。
僕は恐る恐るノエルの脇に手を入れて、彼をそっと抱き上げる。思ったより軽い。柔らかい。あったかいし……それに小さい……! 同じ人間なんだろうか? 野いちごの花のような香りと一緒に、小さな子どもの甘い香りがしてなんだか胸がこそばゆい。ぽかぽかする。ノエルは当然のように僕の首に片方の小さな腕を絡ませて自動販売機のほうを向く。
「これ?」
仕切りなおして、同じように指をさした。
「い、ち、ご……なに? ここ!」
ノエルはなぞるように文字を言葉にすると、「いちご」の上の修飾語を指差す。ひらがな読めるんだ。すごいな。僕はできるだけはっきり発声するように心がけながら言った。
「練乳」
「れんにゅう」
「『練乳いちご牛乳、果肉入り』」
「牛乳じゃなくてノエルが飲みたいのはいちご」
なるほど。
その間にもノエルの頬はトマトみたいに膨れていった。ノエルはいちごがいいと言ってきかない。僕は本当に困ってしまった。最早いちごってなに? って感じ。ぐずって泣いてしまうほどノエルは幼くはないはずだけれど、機嫌の悪い子どもをどう扱っていいのか分かりかねた。
「ノエル!」
大きな声が横から聞こえてくる。すごくよく通るのに、どこか柔らかい、さわやかな男の人の声だった。僕らは一緒になって声のほうを見る。
今日はなんだかいろんな人に会う。
全力でスケートボードをやってそうなこざっぱりしたウルフカットの青年が僕のほうへ全速力で向かっている。反射的に逃げてしまいそうになるくらい血相を変えていたので僕はたまらず抱いているノエルをかばうように後ろに下がってしまった。近づいてくる彼は僕と同じくらいの歳のように見える。
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