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許して欲しい
しおりを挟む解離とは、通常感じるべきあらゆる感覚や意識がそこに無い状態をいう。
例えば友達に声を掛けた時にああごめんボーッとしてたと言うあれだ。
それが一定の期間に連続して起こっていて、その間他の自我が目覚めている状態を解離性同一症(二重人格)という。
雪乃は今この状態にあるのだろう。
そして雪乃の自我が解離している間、彼女の人格が身体を支配している。
彼女こそ本物であるならば、彼女の意識が戻るまでの間、雪乃の人格が身体を借りていたことになる。
その別人格は例え外見は同じでも口調や筆跡、性別までも異なる場合があるそうだ。
熟読していた二重人格に関する記述が映し出された14インチのノートPCをパタンと閉じた。
あの日、体育倉庫で彼女が話した内容を全て信じたわけではないけれど、調べた記述の内容と照らし合わせると彼女の話や行動と合致する点が多い。
少なくとも4年間は雪乃に身体を預けていた彼女は何故今になって現れたのだろう。
この症状にはまだ不明な点も多く、明確な治療法や発症の原因は人それぞれで異なり研究途上らしく、もし彼女と雪乃の間に4~数年の交代スパンのようなものが存在するのであれば、もしかしたらまた何年か先で雪乃に会えるかもしれない。
しかしその否定として、彼女は雪乃が完全に自我を放棄してると言っていた。
結局彼女の話を信じる他ないけれど、彼女が"放棄した"という言葉を使ったのにはそこに雪乃の意思があるということなのだろう。
もし適当な嘘を吐くのだとしたら眠ってるという一言だけで十分なはずだ。
つまりこの入れ替わりは雪乃の意思でもあるということなのだろうか。
冷静になって考えてみれば彼女には訊きたいことが沢山思い浮かんでくる。この間は動揺していて気付かなかった。
可能なら花菜と沙織にも助けを求めたいところだけど、さすがに人の心の病を勝手に喋るのはマナー違反だろう。
それは彼女が話したい時に話したい相手にすべき問題で、そこに私の意思が介入する余地はない。
明日にでも彼女に訊いてみたいけれど、デリケートな問題だろうしどうも訊きづらい。
* * * * *
「雪乃が買い弁なんて珍しいじゃん。どしたの?」
「んー? 気分」
「お母さんの気分?」
「そうとも言う!」
沙織と雪乃がテンポよく会話している。
お昼休み、いつものように花菜達と4人でお弁当を食べようとした時、雪乃が普段母親に作ってもらっている栄養バランスの良い色彩豊かなお弁当が今日は無く、コンビニの菓子パンと紙パックの野菜ジュースを鞄から取り出していた。
「お母さん具合悪いの?」
「んーまあそんな感じ」
美味しそうに菓子パンを頬張った口元にホイップクリームが付いている。野菜ジュースとの相性はあまり想像したくない。
「クリーム付いてるよ。」
私がそう指摘すると彼女はクリームが付いてる側とは逆の口元を拭おうとした。
見兼ねた私は親指でクリームを拭ってあげようと彼女の口元に伸ばし、手が触れた瞬間、その柔らかさに以前の体育倉庫での出来事がフラッシュバックした。
心臓の鼓動が徐々に早まっていく。
一度触れた私の指はもう後戻り出来ず、口元に付いたクリームをしっかりと拭ってやると、クリームの付いた親指をティッシュで拭った。
平静を保とうとすればするほどそれを拒否するように心臓が騒ぎ出す。
彼女があんな事をしたせいで最近まともに"雪乃の目"を見ることも出来なくなった。
それが雪乃ではないと頭では分かっていても、私が犯してしまったのは紛れもなく大切な親友の身体なわけで、その罪悪感が私の中に蔓延っている。
すると昼食を摂り終わった頃、突然彼女が頭痛がすると言って文字通り頭を抱え始めた。
「大丈夫? 保健室行く?」
「気分悪い。明里連れてって」
「うん。歩ける?」
花菜と沙織に見送られながら保健室を目指した。
渡り廊下を使って保健室のある西棟に入ると、ホームルーム教室がある東棟とは違い生徒の人影はほとんど無かった。
突き当たりを曲がると保健室という所で、もたれ掛かるように私の肩に置いていた彼女の手が離れると突然私の身体に抱きついてきた。
「……どうしたの?」
「明里っていい匂い。何のシャンプー使ってるの?」
肩に顔を埋めている彼女の台詞になんだか嫌な予感がする。
「……ねえ。何か変なことする気じゃないよね?」
「変なことって?」
「こないだみたいな……。」
「キスのこと? 期待してるの?」
「してない。」
「私は期待してるよ」
すると顔を上げた彼女はあの目をしていた。
少し色素が薄く茶色いその瞳はうっとりと潤み、光を反射して宝石のようにきらきらと輝いている。
本当に吸い込まれてしまいそうなほど澄んだその瞳に釘付けになってしまう。
後退りする私に釣られるように彼女の足も進み、私の背中が壁にぶつかった。
そして彼女の目が私の口元を確認した瞬間、次に起こる行為を連想させた。
「だめ!」
グッと彼女の身体を引き剥がした。
「どうして?」
「もうだめ。もうしない。」
「なんで? 前はあんなに情熱的に求めてくれたじゃない。私初めてだったのにめちゃくちゃハマっちゃった」
そう言う彼女は、清楚な見た目からは想像もつかないほど妖艶な雰囲気を漂わせている。
「あれは……流れというか勢いというか……。」
「勢いがあれば誰とでもしちゃうんだ?」
「違う!あの時は雪乃だと思ってたから……。」
「私雪乃だけど」
「……あなたとは、しない。」
その瞬間、彼女からふっと笑みが消えた。
「明里はどうしても私のこと雪乃って呼んでくれないんだね。私は明里を信頼して二重人格のこと話したのに明里は私を受け入れてくれないんだ」
「ごめん……。でも受け入れないとかそういうことじゃないよ?」
「いいよもう別に。明里とのキスは気持ち良かったけど、私別に明里じゃなくていいから」
「え……? それってどういう……。」
「F組の新川くんとかどうかな。サッカー部でちょっといいなって思ってるんだよね。あ、A組の吉崎くんとかもいいよね!」
「ちょっと……。」
「私ならいけると思うんだよね! とりあえず連絡先訊いて、休日にデートして……ちょっと際どい服買っちゃおうかな。あ~どうしようキスだけじゃ済まなかったら!」
「やめて!!」
叫び声が他に誰もいない廊下にこだました。
離れていく。雪乃ではない。けれど確かにそこにいる雪乃が私の傍から離れていく。
気が付くと彼女の腕を掴んでいた。
「キス……していいから。」
「?」
「していいから! だからそんなこと言うのやめて……。」
彼女の腕を握り締めていた私の手が丁寧に剥がされていく。
そして私を見て優しく微笑んだ。
「まだ勘違いしてるようだけど、私は明里じゃなくていいから。なのにどうしてしていいだなんて嫌々言われてしなくちゃいけないの?」
表情は笑っているのにとても冷たい声色だった。
どうしたら気を引くことができる?
どうしたら傍にいてくれる?
彼女を引き留めるための言葉が見つからない。
――――『どこにもいかないで。嫌いにならないで』
それはいつか雪乃が言った台詞。あの時の雪乃もこんな気持ちだったのだろうか。
「……明里はさ。自分が何を言ってるのか分かってるの?」
「え?」
「今日は拒否しといてあの日キスを許したのは雪乃だと思ってたからだなんて。明里は雪乃に友達面しておいてあんな欲情してあんな風に求めちゃうんだ」
「そんなんじゃ……」
「三枝明里は女の子に欲情する同性愛者だってみんなが知ったらどう思うかな。今まで信頼してた友達が実はずっと自分達のことをいやらしい目で見てたって考えたら気持ち悪いよね。もう誰も明里の前で着替えないし、気安く触らせないし、飲み物もシェアしない。部活の合宿なんかでもお風呂は別々かな。興奮されてると思うと夜も安心して眠れないね。これからみんなはずっと明里の目を気にして生活していかなきゃいけないんだ」
「……。」
「男子は女好きの明里に興味無いし、女子は明里に気を使わなくちゃいけないし、もし私がいなくなったら明里友達いなくなっちゃうね!」
「やめてよ……。」
「4年間の思い出が脳に残ってるから友達だと思ってたけど、よく考えたら私は別に明里である必要ないんだよね。私も友達やめよっかな。キスして本気になられても困るし」
溢れる涙が零れ落ちていく。胸が張り裂ける。
雪乃の顔で雪乃の声が私を否定しているのが堪えられない。
もう話していたくない。この場にいたくない。そう思って逃げ出そうとした足を踏み出した。
「また逃げるんだ」
その言葉に身体が固まった。
「また友達を見捨てて自分だけ逃げるの?」
「なんのこと……?」
「雪乃は逃げなかったよ。どれだけクラスメイトにレズだとか噂されて冷やかされて後ろ指差されていてもずっと明里のことだけを考えて心配してた。明里に迷惑をかけまいと必死だった。雪乃は今明里が感じてるものを全て一人で抱え込みながら、それでも覚悟を持って明里の傍にいたいと願って悩んでた。嫌な思いをしたのか?まさか雪乃が心のないAIか何かだと思ってたわけじゃないでしょう?」
「あなたに雪乃の何が……気持ちは分からないはずでしょ。」
「分からないよ。でも理解できちゃうの。私達は結局ひとつの人間なんだよ」
涙でぼやけた視界で、彼女の上履きの足音が私に向かって小さくコツコツと響かせて来る。
ふわっと甘い香りがすると、身体が優しい温もりに包まれた。
「明里……。今、明里の中にある雪乃への気持ちから逃げないで。ちゃんと向き合って」
耳元で聞いたそれは諭すような声色だった。
「それでももし雪乃への気持ちを諦めないのなら、さっき私が言ったことが全て明里の身の回りで起きるのを覚悟して。周りから疎まれ避けられて独りになるのを覚悟して。自分の人生を犠牲にして、ご両親の期待を裏切って、友達の気持ちを裏切って、それでも雪乃を求める覚悟がないのなら、もう雪乃を追うのはやめて」
私の中にある雪乃への気持ち。
それはきっと心のどこかで気付いて、必死に抑え込んでいたひとつの感情。
ヤキモチを焼くなんて生温い、そんなものただの断片に過ぎなかった。
「明里。私を見て」
彼女の視線が真っ直ぐ私の目を見ている。
逸らしては戻し、また逸らしては目線を戻すの繰り返し。
「逃げないで。ちゃんと見て」
とても美しい瞳に吸い込まれる。
これほどこの瞳に心を奪われるのはきっと、私はもう後戻りが出来ない所まで来ているからなのだろう。
「明里がまだ気付かないなら、私が教えてあげる」
彼女の目線が私の口元に移動する。
白い肌が、長いまつ毛が、綺麗なさらさらの髪が近付いてくる。
私はもう気付いている。
だってこんなにも心臓が教えてくれている。
今だけ。今回だけ。まだ少し逃げ続ける私を、あなたではない貴女に甘えてしまうことを許して欲しい。
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