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一章 双望の少年

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 少年は朝起きたとき、別の人間になっていた。
 そのあまりの衝撃に吐いた。
 まだ僅かに熱ぽい身体。
 それを蠕動させて、空っぽの胃から酸っぱい液体が口を刺激して涙目になる。
 自らが吐いた吐瀉物に汚れたシーツを少年は茫然と見ていた。
―――何処だ、ここは? 俺は一体誰だ?
 そう目を見開き、シーツを凝視しながら自分に問いかける。
 答えはすぐに思い浮かべることができた。
 ただし、その答えは二つあった。
 一つは、ルーン王国の最東辺境の領地であるリーンフェルト家の嫡男、ゼン・リーンフェルト。歳は数えで九歳。
 もう一つは、地球の日本に暮らす高校生、禅・ラインフォルト。
 ゼンとしてならこの状況は何も不思議ではなかった。三日三晩、体調が悪く高熱でうなされようやく熱が引いたところだ。
 だが、禅としてはこの異常事態に、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。警鐘をならしつつも静かに視線を上げる。
 部屋は穏やかな春の陽気に溢れていた。
 窓があった。しかし、禅が知っている窓ガラスではなく、木製の枠に扉が付いたようなよろい戸。いまは半開きになって、温かな日差しが入り込んでくる。そこから見える光景は森に囲まれた広い庭。農村の大きな屋敷のようだった。
 窓の反対には木の椅子があり、その上に自分を看病していた形跡が残っている。平べったい陶器の水盆、その縁に折りたたまれた濡れた布。
 気づくと、自分のシーツの上には濡れた布が落ちていた。
 それに禅には見たことがない服を着ていた。大きな布を二つに折り、脇の部分だけを縫い合わせた簡易な洋服。中世でよく見られる羊毛のチェニックだ。分厚い羊毛は蒸れて、裏地が肌にチクチクする。それを腰元のベルトで留めて、麻のズボンを履いていた。
 部屋の様子、窓ガラスがないこと、自分の服装。
 それらを考え合わせると、禅は自分の世界ではないと断定する。
 一方、ゼンの記憶としては、熱を出したために給仕長が温かいチェニックを着させてくれた。それは本当にただの日常。
 一人の男の中で、この非日常と日常が相対して存在していた。
 その実感はどれも現実的であり、ぶつかり合って自我が消えてしまいそうな状態に陥っていた。自我の喪失、自分が消え去る感覚に男は、喚く。
「一体俺は何なんだ!」
 鋭い声が響いた。
 禅は茫然とそれが自分の声でないことを察した。
 第一、この声はまだ声変わりをしていない。
 高く柔らかな子供の声。
 それに自分が知っている言語でもない。だが、ゼンの感覚が無意識のうちに言葉を操っている。
 無意識に。それがまた男を驚かせる。
 禅が知りもしない言葉を、ゼンが無意識に使う。身体は正常でも、精神に異常が起きている表れ。まるでゼンにとっては夢のような日本の、地球の記憶に目眩がした。
「俺は、禅だ」
 と男は日本語で呟き。
「ぼくは、ゼンだよ」
 ゼンの国の言葉、アーベルン語で呟いた。
 一点、同じとするならば禅もゼンも発音は一緒であった。異なる言語であったが、その二音は全くの同一。それがまた奇妙に、恐ろしく感じた。
―――落ち着け。こいうときは状況を見極めろ。些細なことも見逃さず、ただ状況を受け入れ水のごとく・・・・溶け込め。
 禅の記憶の中から、状況に即した教えが浮かび上がる。
 その教えを与えてくれた尊敬する祖父の顔を思い出し彼は自らの胸を押さえつつ、深呼吸する。
 一拍子、二拍子、三拍子。
 リズムよく深呼吸をして頭を切り換える。
 水のごとく、宮本武蔵が五輪書で書いた水の巻第一節。
『兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ』
 平常心。ここでの平常心とは、自らの置かれた危機的状況の中ですらも変幻自在の水のごとくそれを受け入れ、ただ心のあるがままに、心が揺れるのを感じ取り、己が内に潜む答えを見つけ出す。
 黙考し、自らの心の内へと沈んでいくと、彼は一人呟く。
「いまはまだゼンとして生き、観察する」
 それが彼が出した答えだった。
 彼の心の中では今もなお時化しける。大波と豪風が吹き荒れて難破しそうな小舟のように揺れている。
 それはゼンが叫んでいることだった。
―――助けて!
 ゼンとしての本能の叫び。禅は異常なまでに鍛え込まれた男だった。だからこそ、鋼のような自我を持ち、思考はほとんどぶれない。冷徹で達観した兵法者。それが禅の目指した究極点。だが、ゼンはただの貴族の嫡男である。特に目立った特徴はなく、読書が好きな子供だ。
 その子供の思考は、泣き叫ぶ。
 禅の鋼のような思考に喰われないかと。
 彼はゆっくりと目を閉じた。心で吹き荒れるゼンの声をなだめ、落ち着くのを待つように無言だった。
 そうすると、すぐに階段を上る足音がして、彼は自分が吐いたシーツを隠くす。
 その人物は部屋の扉まで来るとコンコンと二度ノックをした。
「ゼン様、どうされましたか?」
 ゼンの叫びで少し慌てているが、彼女はなるべく取り繕った落ち着いた声を上げる。
「大丈夫だよ、エンリ。入って来て」
 彼はそうその人物に言うと、扉が開かれる。
 それはリーンフェルト家の給仕長、エンリエッタ。ブラウンの長い髪をスカーフのよな大きめの布で隠し、紺色の地味な給仕服に身を包んでいる。野暮ったくもあるが、切れ長で鋭い瞳と涼やかな氷のような白い美貌が美しい美人だった。冷静で近寄りがたい才女。それが彼女の印象だ。
 エンリエッタは、礼を一つするとすかさず男に近づき額に手を当てて熱を測る。
「熱は下がったようですね、ゼン様。奥様をお呼びしてまいります。何か、お持ちしましょうか?」
「エンリ…ありがとう、できればパイスの入った水がいいな」
 彼は微笑みながらゼンの記憶にあるパイスという果物、日本ではオレンジやミカンにあたる果物のジュースが欲しいと口にした。
 ちくりと、彼の心には自分が演技をしているような空々しさが心に刺す。その揺れを自分で眺めながら、自分が何を思ったかを心に留めた。
「畏まりました。少々お待ちください」
 恭しく答えると、エンリエッタは一礼して部屋を後にした。
 階段が降りる音を聞きながらそれが途中で止まるのを彼は耳にする。そして、二人の人物が一緒に階段を上がってくる音。
 今度はノックもなしに、扉から人影が躍り込んでくる。
「ゼン! 熱が引いたのね!」
 心から良かったと、ひまわりのような笑みを浮かべる美人がそこにいた。エンリエッタも美人ではあるが、その人物はもう一段上だった。彼女はエンリエッタとは逆。エンリエッタが月ならば、その人物は太陽だった。
 まさにリーンフェルト家の太陽、ゼンの母であるアイリ・リーンフェルト。
 輝く黄金の豊かな髪を豊穣の女神のごとくウェーブさせて、スカイブルーの瞳は蒼天を閉じ込めたように明るく輝いていた。僅かに垂れた大きな瞳が彼女の印象を何処までも柔らかくする。アイリ、その名はアーベルン語で虹。太陽と恵みの雨がもたらす神々の名をいただいた太陽と豊穣の申し子のような人だ。
 アイリは勢いよくゼンの寝台へと飛び込むと彼を抱きしめて頬ずりをする。
「…母上、苦しいです………」
 抱え込まれた彼はなんとか声を上げることが出来た。
 彼の胸中は、荒れていた。
 禅が動揺しているのだ。禅は祖父に育てられ、父と母という存在を知らない。例え、それがゼンの母親だと理解していても、ゼンの記憶では母である。その親しみ、家族の愛が溢れた顔を見て、平常心と決めていた心は狼狽えていた。唖然として、そのぬくもりがくすぐったくてフラフラと現実感がなくなる。
「ふふ、照れているのね。お父さんも来週には帰ってくるからゼンの元気な姿を見せてあげてね」
 アイリは上機嫌でニコニコしながら、彼を離すと今度は頭を優しく撫でた。
 慈愛に満ちた母の顔。
 それを茫然と彼は眺めつつ、自分の心が揺らぐ原因を静かに探した。
 そして、すとんと納得する。
―――これが…安心感なのか?
 答えに迷わず辿りついたのはゼンの感情からだった。母を見た瞬間に、ゼンは思わずその胸に飛び込みたい、と感じた。そうすれば、何もかもがゆっくりと癒やされる。
 ゼンの記憶を辿ると、この家は全てアイリの慈愛によって回っていた。彼女のお日様のような笑顔がこの屋敷に笑顔をもたらす。
 それが安心感なのかと、彼は胸中で思った。
 不思議ではない。だが、不思議な相反する感情。
 知っていて知らない。
 それはゼンと禅が持つ感情だった。彼にとってはその両方から影響を受けて、先ほどの冷徹な思考が揺らぐ。
 母上を不安がらせたくない。
 兵法の理、それらを忘れてしまいそうになるほどの衝撃だった。
《お前の母と父は死んだ。故に私が育ている》
 禅の記憶の彼方に、何故自分には両親がいないのかと聞いたとき、祖父が言った言葉。それ以後、禅は祖父から両親の写真や思い出さえも教えられなかった。
 自分の両親はいない。彼らは死んでしまった。もう永遠に。
 そして、祖父もまた永遠に自分の元から去ってしまった。
 天涯孤独の身であった禅にとって家族という存在は、何ものにも代えがたいものだった。
 だからこそ、彼の奥底で黒々とした何かが鎌首をもたげ、舌を出す。
―――お前はゼンではない。お前は何者だ?
 その問いに、彼は答えられなかった。
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