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第58話 悪い二人ぼっち
しおりを挟む「今日も暑いなあ」
とある高級マンションの一角。
俺は一人机に向かって勉強していた。
半年も机に向かえば、覚えの悪い自分の体でもどのように勉強すればいいか分かってきていた。
今まで勉強を全くしてこなかった自分が、中学二年生向けの数学の参考書とにらめっこしていたのは、単にこの部屋を貸してくれる人との約束だから。
根を詰めてずっとやってたからか、集中力が切れてしまう。朝起きて勉強してから、既に4時間経過していた。
「ううっ、目が痛いなあ」
丸まっていた身体をぐーっと背伸びをして、後ろに伸ばせば、バキバキと関節が音を鳴らした。
これは既に身体が休みを求めているよう。
休むついでにと、自分の部屋の窓から外を眺める。六本木の街並みが広がり、澄んだ青空が広がっていた。
日差しが入る窓辺が真夏の暑さを感じており、思えば自分の体が汗でじっとりと濡れていた。
ふと、窓辺の上にあるクーラーに目を向ける。
自運転中を教えるはずのランプが赤くなっていた。
多分ボタンを押し間違えたせいで時間設定にしてしまったよう、自動的に止まってしまっているよう。
机の側にあったリモコンで、ピッとクーラーを起動させる。
そして、部屋の壁にある時計を何気なく見た。
「ご飯、頼まなきゃ」
昼前の11時。
この家には包丁等凶器がないため、宅配アプリでご飯を頼むしかない。
日本に来てから新しくしたスマートフォンからアプリを起動して、適当にご飯を頼む。
正直、ご飯を作りたいのだけれど、今は勉強が優先というのと、まだ雇い主から信頼を得られてないから仕方ない。
少しでも早く、雇い主から認められるようにと、勉強を進めている。
ただ、小学校も中学校もまともに勉強していなかった俺のため、最初は小学生のドリルから始めた。
それが、どうにか中二まで来れたのはつい最近のことである。
あと、この勉強と同じくして、通信高校にも通っている。偶にあるスクーリング以外はこの部屋から出ることはないけど、同じクラスの人達と言葉をかわすのはとても楽しい。
アイドルを辞めようとしてから、半年。
意外と、今までを取り戻すために必死だった時間だ。
ちなみに事務所での俺の扱いは、精神的な事情による無期限活動休止。そして、落ち着いた頃に脱退と発表することになるだろう。
他のメンバーは先月新しい曲を出した。タイトルは、勿論、ジウの曲だ。
相変わらず、彼の曲は大好きだ。彼は俺を嫌っているだろうけど。
よく考えると、俺のことで褒めてくれたのは料理とか家事くらいで、アイドルとしては褒めてくれることは殆ど無かった。悲しいことにメンバーとして認められていないかったのかもしれない。
ただ、それでもメンバーたちがまだアイドルをしている姿は、眩しくもあり、嬉しくもあった。
ピンポーン
チャイムが鳴り響いた。
あれ?もうご飯が届いた?
慌ててスマートフォンを確認するが、まだ調理中となっている。
それでは宅配だろうか。
何か買っただろうかと悩んでいると、もう一度チャイムが鳴った。待たせては悪いと思い、小走りで自分の部屋からリビングに向かい、ドアホンを起動する。
ドアホンには、一人の男性が映っていた。
そして、俺はその相手の顔を見て、驚いた。
何せ、もう会うことがないと思った人だったから。慌てて、エントランスのカギを開ける。
暫くして、今度は扉のインターホンが鳴った。一度だけドアスコープを覗いて確認し、
「久しぶり」
「ひ、ひさ、久しぶりですね、お元気でしたか?」
久しぶりに使った韓国語は、少しばかりたどたどしい。半年前は日本語の方が大変だったのに。
「元気では……ないかな」
そうやってため息をつくように笑ったのは、相当草臥れたスーツを着たジノ兄さんだった。
「ここが、よくわかりましたね」
リビングに案内しソファに座ってもらった。彼の前によく冷えた麦茶を出すと、彼は戸惑いなく麦茶を一口飲んだ。通販で買ったお徳用麦茶ではあるが、少しばかり砂糖が入っている。遠い昔、思い出の味。
「マシューさんに教えてもらった」
「そう、なんですね」
マシューさん。
このマンションの部屋の持ち主であり、俺をハウスキーパーとして雇ってくれている雇い主の名前だ。
あの日、仁川国際空港に向かった俺に旅券を手配してくれたのは彼だった。
そこから、あれよあれよとこの部屋までキてしまったのだ。
マシューさん自体には直接は会っていない。最初は正直ここまでしていただくのはと固辞したが、マシューさん曰く「使わない別荘が勿体ないからハウスキーピングしてくれ」と丸め込まれて、今に至る。
(どこから、俺が出ていくのが漏れたのかはわからないけど、正直全て有り難い)
勉強することも彼から雇用条件の一つであり、それを忠実に守ってきた。
恩人が彼を招待したのだから、それなりの意味があるのかと思う。
俺はジノ兄さんからテーブルを挟んで向かい側のソファに腰を掛けた。
「もう、会えないと思っていました」
「正直言うと、私も会えないと思っていたよ」
ため息交じりの言葉から、まさにこうなるとはお互い思っていなかった。いつぞやに着けたピアスはすでに外しており、ピアスホールも小さな小さな痕だけを残して、塞がってしまった。
もう、あの時を示すものは何もない。
「シグレ、もう戻らないのか?」
その問いかけに、俺は微笑んで返す。
「戻らないと思います」
マシューさんにも何度も尋ねられ、自分でも数えきれないくらい問うた言葉。
韓国でアイドルを目指すことは15歳から目指し続けた夢だった。様々なことを犠牲にして、戻れる場所なんてどこにもないから足掻き続けた時間。そして、その頑張りを自分で台無しにしたのだから。
幸せを上回る辛さしかないのを、俺がよく知っている。
「穏やかな生活をしたいんです。飲食店とかでアルバイトして、調理系の仕事に就きたいと思ってて……」
ぽつぽつと考えていた今後の展望を話していると、ジノ兄さんがそっと俺に手を伸ばしてきた。俺はその手をそっと掴み、ジノ兄さんのお茶が置かれたグラスへと押し返した。
「シグレ」
「ジノ兄さん、『赤ちゃんができちゃいます』からね」
ジノ兄さんは目を見開いた後、震える口元を開いた。
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