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虚ろな睦言の行末【前編】
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ふとエヴァレットと目が合った。だからクロードは彼に微笑みかけ、そして告げることにした。
「好きだよ」
二人きりの部屋にほろっと転がる甘い声音。エヴァレットはじんわりと頬を染めて、はにかむように少しぎこちなく笑って、そして答えた。
「君が好き」
ぽんと放った睦言はしっかりと受け止められ、そして返ってくる。嬉しいよと笑って、歩み寄って、その指先を捕まえた。おずおずと絡ませてくる少し冷たい指を優しく握りしめる。
「愛してるよ、エヴァレット」
もう一度投げかけた睦言にエヴァレットは恥ずかしげに睫毛を震わせた。目を伏せて少し困ったように笑って、それからおずおずと目を合わせてきて、またぎこちなく笑う。
「君を、愛してる」
甘い言葉のやり取り、柔らかで温かな好意の受け渡し。心地よい満足が胸を満たす。
だが同時にちりりと胸を刺す罪悪感の棘がある。それを黙殺するために努めて自然な笑顔を作った。見咎められないように、気付かせないように。
それが功を奏して、エヴァレットはぎこちないが幸福そうな笑みでクロードを見つめている。無垢な信頼と親愛を浮かべたその瞳を見返していると、また棘が胸を刺しそうになった。
だから顔を寄せてキスをすることにした。余計な言葉を自分の唇が口走らないように。「本当は」だなんて、そんな致命的な毒のような言葉は必要ないのだから。
恋人に語るべきなのは、柔らかくて甘くてきらきらする言葉だけ。エヴァレットが頬を染めてはにかんで、けれど幸福そうに受け止める言葉だけ。互いを傷付ける真実など、必要ない。
愛してる、好きだよ、君が大切だ、傍に居て欲しい。そうした睦言だけを囁いて、大切に扱って、愛おしんで、慈しんでいるだけでいい。
ちくちくと胸を刺す罪悪感にクロード一人が耐えれば、それで全てうまくいくのだ。エヴァレットはクロードの嘘を信じているから。偽りで塗り固めた贋物の愛情を、エヴァレットは疑いもせずに受け入れているから。
だから、残酷な真実など必要ない。本当はただ寂しかっただけだなどとは、エヴァレットは永遠に知らないままでいいのだ。
エヴァレットがこの自分に好意を寄せていると、エヴァレットから友情以上の感情を向けられていると、気付いたきっかけはクロード自身ももう覚えていない。
それは、いつからか視線が絡まなくなったことだったのかもしれない。あるいは、彼の笑顔が妙にぎこちないと感じたことだったのかもしれない。つい見過ごしてしまいそうな、小さな無数の要素でしかなかった。
けれどそんな小さな違和感が降り積もって、ある時クロードは悟ったのだ。エヴァレットから愛されていることを。
率直に感じたのは困惑だった。クロードはエヴァレットに愛情など抱いていない、抱くこともできない。だから、それほど重たく深刻な感情を向けられても困るだけだ。
向けられる感情と同じものを返すことはおろか、受け止めてやることさえできない。エヴァレットの望む何もしてやれない。クロードは、エヴァレットのものになどなってやれないのだ。
今はまだ動き出す勇気のないらしいエヴァレットがもしも直接的に想いを伝えてきたなら、自分はどうすればいい。その問いに答えが見つからないことに気づいて、クロードは狼狽した。
受け入れることなどできない。けれど、拒絶すればエヴァレットは離れていくだろう。彼はそういう人間だから、ある意味では無情なほどに潔い男だから。
だがクロードは独りになるのは嫌だった。エヴァレットにまで離れてほしくなかった。失うのは、もうたくさんだった。
かつて持っていた全てを手放して、世界中から見捨てられた深い孤独と絶望の中で、クロードはやっとの思いで生きているのだ。喪失感に苛まれながら、寂しさと虚しさに蓋をしながら、それらから必死で目を背けながら。
なのに不必要で重たい感情をエヴァレットは容赦なくクロードに向けてくる。ただそこに居て寂寞を薄めてくれさえすればいいのに、もっと多くをクロードに求めようとする。何と身勝手で思いやりのないことだと、憎らしいような思いさえクロードは抱いた。だがある時気付いたのだ。エヴァレットの迷惑な感情にも利用価値があると。
エヴァレットが向けてくる、クロードは望んでもいない愛情。その傍迷惑な好意を利用すればもう二度と独りにならなくて済むと、それを受け入れる振りをしてやればエヴァレットは決してクロードの傍を離れなくなると。その事に、クロードは気付いたのだ。
二度と失わずに済むと言うのは、とても甘美な考えだった。世界の崩れ落ちるようなあの孤独を、もう二度と味わうことなく暮らせるというのは。
取るに足りない男でも、居なくなるよりはずっといい。独りぼっちで永遠に明けない夜の中に取り残されるよりは、誰でもいいから傍に留めたかった。
純真な愛情を利用することを、ためらわなかったわけではない。無垢な親愛を踏み躙って、清らかな好意を利用して、ただ自分の都合の良いように扱うことを、躊躇しなかったわけではない。けれどエヴァレットを思いやる心を振り捨てたいほどに、その未来図は甘く幸福だった。
それにエヴァレットだって、その方がきっと幸せなのだ。片恋を抱え込んで悩み続けるよりも、結末を与えて着地させてやる方が、きっと。
ただエヴァレットに真実を気付かせないようにクロードが振る舞いさえすれば、何もかもうまくいくのだ。エヴァレットはクロードから愛されていると錯覚して幸福になり、クロードは孤独に怯えて暮らさずに済む。互いに利益があることだ。
エヴァレットは気付きはしない。その好意にクロードが気付いていることにも、クロードがそれを迷惑に思っていることにも、何一つ気付いていないのだから。きっとこれからも、エヴァレットは何一つ気付かない。
だからそれは過ちではない、何も間違っていない。そう結論付けて、クロードはエヴァレットに伝えたのだ。
『僕も、君を愛してるよ』
向かい合ってコーヒーを傾けながら、これでいいのだと自分に言い聞かせる。何も間違ってはいないのだと。
エヴァレットは残酷な真実にまだ気付いていない、今後も気付くことはない。クロードの嘘をエヴァレットが見抜く日など決して来ない。この先も、いつまでも。
クロードの振る舞いは完璧なものだ。エヴァレットに優しく笑いかけ、甘い言葉を囁き、思いやり深く包み込み、大切に慈しんでいる。さも愛おしく思っているかのように、さも心から愛しているかのように。それで互いに幸せなのだから、構わないのだ。
今はカップに向けられているエヴァレットの静かな瞳を眺めながら、平穏を噛み締める。自分の選択は正しかったと。何も、何一つとして、間違ってはいないのだと。
クロードに心から愛されていると思い込んでいるからこそ、エヴァレットはこうして安らいでいる。嘘を貫く限り彼が離れていくことはないと知っているから、クロードも安心していられる。互いに利益のある優しい嘘は、正しいものなのだ。
ふとエヴァレットが目を上げた。視線が絡み合う。だからクロードは不思議そうに見返す瞳に微笑みかけた。
「愛してるよ、エヴァレット」
望まれる「恋人らしい」振る舞いは板についたものだ。しっかりと目を見つめて、優しく微笑んで、睦言は投げやりになってしまわないように情感を込めた声で。
だからエヴァレットに真実を見抜かれる心配はない。今日もまた、彼は疑いもせずにクロードの嘘を信じた。はにかむように笑って、エヴァレットは答えた。
「君を愛してる」
軋みを、感じていた。本当はずっと。
心にもない睦言を囁くたびに、空虚で甘い嘘を吐くたびに、邪気に虚言を信じている瞳を見返すたびに。いつもいつも、クロードは罪の意識に責め苛まれていた。
胸を刺す罪悪感の棘は茨のように深々と根を下ろし、心臓に絡み付き、絶え間なく心に爪を立てる。小さいが無視できない痛みが絶えず胸を苛んでいた。
こんなことは間違っている、罪深い嘘で真心を踏み躙るなど、自分に都合のいいように心を弄ぶなど。そんな声なき声にいつも詰られている気がしていた。
茨など見えないふりをして、声など聞こえないふりをして、何食わぬ顔で過ごそうと努力する。けれどそれらは日に日に無視できない大きさになっていく。
心を責め苛む罪悪感の茨を引きちぎっては投げ捨てて、切り払っては焼き捨てる。けれど深く根を下ろしたそれは何度でも這い出てきて、心臓に絡み付いて、無数の引っ掻き傷を付けていく。
化膿した傷はじくじくと膿んで、腐って、内腑を腐敗させていく。体の内側から汚辱に塗れて、朽ちていく。後には何も残らない、空虚な皮人形だけが残されるのだ。
心にもない笑顔の仮面を被るたびに、幸福そうな笑顔を向けられるたびに、心のどこかが軋みを上げる。また一つ何かが壊れて落ちる。剥落したその何かはもう決して取り戻せないと、本当は知っている。
心の伴わない虚ろな睦言を吐けば吐くほど、自分も空虚になっていく。いつの間にか嘘に慣れて、呼吸するように嘘を吐いて、ふとした瞬間にそんな自分を嫌悪する。
いつまでもこのままではいられないと、漠然と予感している。けれどまだ続けていたいと、まだ続けていられると、自分に言い聞かせている。
だから今日も笑顔の仮面を取り繕う。心にもない甘い言葉を囁く。そして腐敗し剥落し空洞化していく自分を感じる。
それでも踏み止まることはできない、今更そんなことはできない。だからつい、口が滑ったのだ。
「今夜、泊まっていくかい?」
ひどく息苦しい夢から目覚めた。全身が嫌な汗で濡れている。
クロードは身を起こし、汗に濡れた髪を掻き上げた。肺の空気を吐き切るほど深く息を吐く。
既に色褪せて散り散りになっている悪夢。けれど不快な気分がまだ胸の奥にこびりついている。口の中が苦い。
人の気配を感じて、無意識に目を逸らしていた傍らへとようやく目を向ける。思わずうろたえた。
隣でエヴァレットが眠っていた。一糸纏わぬその肌に罪深い赤い印を点々と散らして、彼は寝息を立てていた。
そうだ、と思い出す。自分は、この男とそうなったのだ。背徳の道へと足を踏み入れてしまったのだ。
この男がそれを求めていると、クロードにそれを期待していると、そうした気配を確かに感じたわけではなかった。けれど、そうするのが自然な成り行きなのだろうと思ったのだ。そうすべき頃合いだと感じたのだ。
恋人だという振りをしているのだから。これからも恋人らしい振る舞いを続けていくつもりなのだから。それがお互いにとって最善の道なのだから。
そうすべきだと思ったからクロード自身の判断で決断を下し、そして実行した。その判断は誤ってなどいないし、これは過ちなどでは決してない。これがあるべき形で、これが自然な形で、遅かれ早かれこの形に着地しなくてはならなかったのだ。
分かってはいても、総身が震えそうになる。罪悪感の茨は膨れ上がりながら心臓を締め付け、恐ろしい罪の意識が業火のように魂を責め苛む。
神に背く禁断の悪徳。それを想ってさえいない相手と犯してしまった。心から愛する相手とともに堕ちる地獄ならば、まだ諦めようもあるのに。
エヴァレットはまだ眠っている。胸を締め付け焼き焦がす罪悪感から目を逸らしたくて、クロードはエヴァレットの寝顔に意識を集中させた。
清らかな信頼と無垢な幸福に満たされた、満ち足りた、安心し切ったその寝顔。エヴァレットは安らかに眠っている。クロードを苛む罪業意識など全く知らない表情だった。気が狂いそうな魂の痛みにクロードだけが耐えていることなど、エヴァレットはこれからも決して知ることはない。
あどけないとさえ言えそうな寝顔を見下ろしていても、クロードの胸には温かで優しい感情など生まれる気配もない。愛おしさだとか恋しさだとか、愛着だとか庇護欲だとか、そんな柔らかな感情はどこからも湧き上がらない。それどころか不意に、思いもかけなかった暗くどす黒い感情が迫り上がった。
クロードの魂の苦痛など知りもせず、これから先も気付くことはなく、エヴァレットは眠っている。安らいで、満ち足りて、夢の園に遊ぶ。今までも、これからも。
そのことが、言いようもないほど不条理である気がした。理不尽で、不公平で、道理に合わないことであるように思えた。
今は眠っているこの男の独りよがりで傍迷惑な恋慕こそが、クロードの苦痛の元凶だというのに。この男がクロードを思慕したりなどしなければ、クロードはこんな苦悩も苦痛も味わわなくて良かったのに。
クロードを不幸の底に引き摺り落としておきながら、この男ばかりが幸福に満ちて、甘い夢を見て、安らかに眠る。それは、なんと不条理で道理の通らないことだろう。
いいや、初めから条理や道理などなかったのだ。こんな男の浅ましい恋心のために、クロードが不幸の道を選んでやる理由など、どこにも。こんな男に、そんな価値など本当はなかったのだ。
けれどクロードに残されているのは、世界にこの男ただ一人なのだ。こんな取るに足りない男だけが、クロードの世界に残された唯一のものなのだ。だからクロードは、この男の身勝手な望みを叶えてやらざるを得ないのだ。そのことで自分がどんな苦痛を受けても、その道の途上にも最果てにも待つのは地獄だけだと知っていても。
けれどそんなことは知りもせず、これから先も知ることもなく、この男一人が幸福な幻想に包まれて笑うのだ。この男のためにクロードが己を犠牲にして、血を吐くような思いで、作り保ってやる虚構の中で。
不条理な、ありうべからざる、あまりにも大きなアンフェア。目を背けていた事実に気付いてしまうと、もう耐えられなかった。
堪らなくこの男のことが憎らしくて、傷付けてやりたくなる。残酷な衝動が脈動し、拍動し、膨れ上がる。
いますぐにこの男を揺り起こし、真実を突きつけてやりたいと。クロードはこんな男など愛してはいないと、愛したことなどないと、愛してやる日など永遠にこないと、そういった何もかもを明かしてやりたいと。この胸を苛むのと同じだけの苦痛を、この男にも味合わせてやりたいと。そんな狂おしく激しい衝動が、クロードの胸を揺さぶった。
駄目だ。
我を忘れて揺り起こしてしまう前に、理性の微かな声をかろうじて聞き留めた。視線を引き剥がすようにして、眠る男から目を背ける。冷静になれと自分に言い聞かせる。
感情に任せては駄目だ。理性的に行動しなくては。激情に突き動かされれば、これまで積み重ねた全てを否定すれば、この男はクロードから離れていく。もう二度と、クロードの前に現れようともしなくなるだろう。
それでは駄目なのだ。この男まで失えば、絶望的な孤独の中に取り残されるほかないのだから。こんな取るに足りない男でも、寂寞をほんの僅かだけ薄めることには役立つのだから。この男にはまだ、僅かだが確かな利用価値があるのだから。
だから、今はこの男から離れよう。衝動的になりかけている今、この男の近くにいてはいけない。頭を冷やさなければ。理性的かつ合理的に考えられる余裕を、優しく慈しみ深い振る舞いができる寛大さを、この男が眠っている間に取り戻さなければ。
自分にそう言い聞かせ、クロードは音を立てないようにしながら寝台を降りた。ふしだらに床に放り捨てられていた衣服を拾い集める。静かに、だが急いで。
身に付けるのはこの部屋を出てからでいい。今は早くこの男から距離を取らなければ。そう結論づけて、音を立てないようにドアノブを回す。だが。
「……クロード?」
掠れる声に呼ばれて、肩が震えるのが分かった。聞こえなかった振りさえできないほどに。
冷静になれ、感情を抑えろ。自分にそう言い聞かせて、深く息を吐いて、クロードはゆっくりと振り返った。
クロードの動く気配で目を覚ましたらしいエヴァレットは、気だるげに身を起こすところだった。まだ覚め切っていないらしいぼやけた眼差しをクロードに向けて、嬉しげに微笑む。幸福そうな、安心しきった笑顔だった。
「……起きたんだね」
自分でも驚くほどの、冷え切った声が出た。愛情深い演技をやめた、無関心を隠しもしない、氷の刃のような声。
そんなことにさえ気付かないのか、エヴァレットの笑顔は揺れることさえしなかった。甘え媚びた眼をして、クロードがいつものように睦言を与えてやるのを待っている。
愚直な親愛、無神経な信頼。それらが無性に癇に障った。不条理だという思いが、また破裂しそうに膨れ上がった。
こんなにもクロードを苦しめておきながら、この男はこんなにも幸福そうに笑う。クロードが自分の魂を切り刻みながら与えてやる甘やかな囁きが今日もまた与えられると、この男は疑いもせずに信じている。期待を裏切られるとも傷付けられるとも思ってもみないで、甘く幸福な幻想はいつまでも続くのだと信じきって、エヴァレットは愚直にクロードの言葉を待っている。
その期待を裏切ってやったなら、信じ込んでいる世界を打ち砕いてやったなら、この男はどれだけ深く絶望するだろう。その痛みはどれほどの大きさだろう。どんな無様な顔をして泣くだろう。あるいは、泣くことさえ忘れて自失するだろうか。
想像しただけで、目も眩むほどの満足が胸に湧き上がった。久しく感じなかった、ずっと忘れていた、明るく晴れ晴れとした思いがした。この男に偽りの愛を語ってやった瞬間からクロードの魂を飛び去って戻らなかった、その輝くような感情。
それはこの男の絶望を目にすることで初めて完璧なものとなるのだ。この男の夢の世界を崩落させることで、やっと実現するのだ。ならば、そうしない理由はどこにもない。
駄目だと、理性がまた弱々しく囁いた。けれど、我にかえるのには間に合わなかった。
「君は、僕が好きかい?」
捕まえる前に滑り落ちた問いかけ、崩壊への序曲。そうと知っているのはまだクロードだけだが、すぐにこの愚かな男も悟るだろう。
不思議そうに、愚蒙な男は瞬きをした。それから嬉しげにまた笑う。
「君が好き」
あどけない笑顔は、それが通い合っている感情だと信じて疑っていない。クロードに愛されているのだと思い込んで、クロードが己の魂を削りながら見せてやっている夢を疑いもなく信じ込んで、幸福そうに笑う。
その愚昧な笑顔に、無神経に投げかけられる親愛に、また憎悪に近い憤懣がせり上がった。押し留めようもない激情の奔流がクロードの胸に溢れた。
まだ立ち止まれると、まだ取り返しはつくと、まだどうとでも取り繕えると。そう弱々しく囁いていた理性の声も、もう聞こえない。
今はただ、この男を傷つけてやりたい。この男に真実を突きつけ、この男の幻想を打ち砕き、この男を夢の花園から引き摺り出してやりたい。それしか考えられなかった。だから残酷な衝動に突き動かされるままに、クロードは笑みを浮かべて吐き捨てた。
「僕は、君が嫌いだよ」
クロードがそう言い捨てると、きょとんとした瞳でエヴァレットは瞬きをした。理解が追いついていないらしい、その愚かしい瞳。それさえも怒りを煽る。
だから吐いてしまった言葉で我にかえる暇さえ、クロードにはなかった。駄目押しの言葉を投げつけてやる。激情のままに残酷な真実を告げる。これまでこの男のせいで受け続けた傷を、この男にも刻んでやるために。
「全部嘘だよ」
「クロード?」
まだ理解できていないらしいどこまでも愚かな男が、不思議そうな声で呼びかけてくる。厭わしいその声を遮るように、クロードは言葉を突き刺した。
「本当は」
だめだ。弱々しく理性が囁く。けれど、もう、止まれない。
「本当は、ただ寂しかっただけだよ」
「好きだよ」
二人きりの部屋にほろっと転がる甘い声音。エヴァレットはじんわりと頬を染めて、はにかむように少しぎこちなく笑って、そして答えた。
「君が好き」
ぽんと放った睦言はしっかりと受け止められ、そして返ってくる。嬉しいよと笑って、歩み寄って、その指先を捕まえた。おずおずと絡ませてくる少し冷たい指を優しく握りしめる。
「愛してるよ、エヴァレット」
もう一度投げかけた睦言にエヴァレットは恥ずかしげに睫毛を震わせた。目を伏せて少し困ったように笑って、それからおずおずと目を合わせてきて、またぎこちなく笑う。
「君を、愛してる」
甘い言葉のやり取り、柔らかで温かな好意の受け渡し。心地よい満足が胸を満たす。
だが同時にちりりと胸を刺す罪悪感の棘がある。それを黙殺するために努めて自然な笑顔を作った。見咎められないように、気付かせないように。
それが功を奏して、エヴァレットはぎこちないが幸福そうな笑みでクロードを見つめている。無垢な信頼と親愛を浮かべたその瞳を見返していると、また棘が胸を刺しそうになった。
だから顔を寄せてキスをすることにした。余計な言葉を自分の唇が口走らないように。「本当は」だなんて、そんな致命的な毒のような言葉は必要ないのだから。
恋人に語るべきなのは、柔らかくて甘くてきらきらする言葉だけ。エヴァレットが頬を染めてはにかんで、けれど幸福そうに受け止める言葉だけ。互いを傷付ける真実など、必要ない。
愛してる、好きだよ、君が大切だ、傍に居て欲しい。そうした睦言だけを囁いて、大切に扱って、愛おしんで、慈しんでいるだけでいい。
ちくちくと胸を刺す罪悪感にクロード一人が耐えれば、それで全てうまくいくのだ。エヴァレットはクロードの嘘を信じているから。偽りで塗り固めた贋物の愛情を、エヴァレットは疑いもせずに受け入れているから。
だから、残酷な真実など必要ない。本当はただ寂しかっただけだなどとは、エヴァレットは永遠に知らないままでいいのだ。
エヴァレットがこの自分に好意を寄せていると、エヴァレットから友情以上の感情を向けられていると、気付いたきっかけはクロード自身ももう覚えていない。
それは、いつからか視線が絡まなくなったことだったのかもしれない。あるいは、彼の笑顔が妙にぎこちないと感じたことだったのかもしれない。つい見過ごしてしまいそうな、小さな無数の要素でしかなかった。
けれどそんな小さな違和感が降り積もって、ある時クロードは悟ったのだ。エヴァレットから愛されていることを。
率直に感じたのは困惑だった。クロードはエヴァレットに愛情など抱いていない、抱くこともできない。だから、それほど重たく深刻な感情を向けられても困るだけだ。
向けられる感情と同じものを返すことはおろか、受け止めてやることさえできない。エヴァレットの望む何もしてやれない。クロードは、エヴァレットのものになどなってやれないのだ。
今はまだ動き出す勇気のないらしいエヴァレットがもしも直接的に想いを伝えてきたなら、自分はどうすればいい。その問いに答えが見つからないことに気づいて、クロードは狼狽した。
受け入れることなどできない。けれど、拒絶すればエヴァレットは離れていくだろう。彼はそういう人間だから、ある意味では無情なほどに潔い男だから。
だがクロードは独りになるのは嫌だった。エヴァレットにまで離れてほしくなかった。失うのは、もうたくさんだった。
かつて持っていた全てを手放して、世界中から見捨てられた深い孤独と絶望の中で、クロードはやっとの思いで生きているのだ。喪失感に苛まれながら、寂しさと虚しさに蓋をしながら、それらから必死で目を背けながら。
なのに不必要で重たい感情をエヴァレットは容赦なくクロードに向けてくる。ただそこに居て寂寞を薄めてくれさえすればいいのに、もっと多くをクロードに求めようとする。何と身勝手で思いやりのないことだと、憎らしいような思いさえクロードは抱いた。だがある時気付いたのだ。エヴァレットの迷惑な感情にも利用価値があると。
エヴァレットが向けてくる、クロードは望んでもいない愛情。その傍迷惑な好意を利用すればもう二度と独りにならなくて済むと、それを受け入れる振りをしてやればエヴァレットは決してクロードの傍を離れなくなると。その事に、クロードは気付いたのだ。
二度と失わずに済むと言うのは、とても甘美な考えだった。世界の崩れ落ちるようなあの孤独を、もう二度と味わうことなく暮らせるというのは。
取るに足りない男でも、居なくなるよりはずっといい。独りぼっちで永遠に明けない夜の中に取り残されるよりは、誰でもいいから傍に留めたかった。
純真な愛情を利用することを、ためらわなかったわけではない。無垢な親愛を踏み躙って、清らかな好意を利用して、ただ自分の都合の良いように扱うことを、躊躇しなかったわけではない。けれどエヴァレットを思いやる心を振り捨てたいほどに、その未来図は甘く幸福だった。
それにエヴァレットだって、その方がきっと幸せなのだ。片恋を抱え込んで悩み続けるよりも、結末を与えて着地させてやる方が、きっと。
ただエヴァレットに真実を気付かせないようにクロードが振る舞いさえすれば、何もかもうまくいくのだ。エヴァレットはクロードから愛されていると錯覚して幸福になり、クロードは孤独に怯えて暮らさずに済む。互いに利益があることだ。
エヴァレットは気付きはしない。その好意にクロードが気付いていることにも、クロードがそれを迷惑に思っていることにも、何一つ気付いていないのだから。きっとこれからも、エヴァレットは何一つ気付かない。
だからそれは過ちではない、何も間違っていない。そう結論付けて、クロードはエヴァレットに伝えたのだ。
『僕も、君を愛してるよ』
向かい合ってコーヒーを傾けながら、これでいいのだと自分に言い聞かせる。何も間違ってはいないのだと。
エヴァレットは残酷な真実にまだ気付いていない、今後も気付くことはない。クロードの嘘をエヴァレットが見抜く日など決して来ない。この先も、いつまでも。
クロードの振る舞いは完璧なものだ。エヴァレットに優しく笑いかけ、甘い言葉を囁き、思いやり深く包み込み、大切に慈しんでいる。さも愛おしく思っているかのように、さも心から愛しているかのように。それで互いに幸せなのだから、構わないのだ。
今はカップに向けられているエヴァレットの静かな瞳を眺めながら、平穏を噛み締める。自分の選択は正しかったと。何も、何一つとして、間違ってはいないのだと。
クロードに心から愛されていると思い込んでいるからこそ、エヴァレットはこうして安らいでいる。嘘を貫く限り彼が離れていくことはないと知っているから、クロードも安心していられる。互いに利益のある優しい嘘は、正しいものなのだ。
ふとエヴァレットが目を上げた。視線が絡み合う。だからクロードは不思議そうに見返す瞳に微笑みかけた。
「愛してるよ、エヴァレット」
望まれる「恋人らしい」振る舞いは板についたものだ。しっかりと目を見つめて、優しく微笑んで、睦言は投げやりになってしまわないように情感を込めた声で。
だからエヴァレットに真実を見抜かれる心配はない。今日もまた、彼は疑いもせずにクロードの嘘を信じた。はにかむように笑って、エヴァレットは答えた。
「君を愛してる」
軋みを、感じていた。本当はずっと。
心にもない睦言を囁くたびに、空虚で甘い嘘を吐くたびに、邪気に虚言を信じている瞳を見返すたびに。いつもいつも、クロードは罪の意識に責め苛まれていた。
胸を刺す罪悪感の棘は茨のように深々と根を下ろし、心臓に絡み付き、絶え間なく心に爪を立てる。小さいが無視できない痛みが絶えず胸を苛んでいた。
こんなことは間違っている、罪深い嘘で真心を踏み躙るなど、自分に都合のいいように心を弄ぶなど。そんな声なき声にいつも詰られている気がしていた。
茨など見えないふりをして、声など聞こえないふりをして、何食わぬ顔で過ごそうと努力する。けれどそれらは日に日に無視できない大きさになっていく。
心を責め苛む罪悪感の茨を引きちぎっては投げ捨てて、切り払っては焼き捨てる。けれど深く根を下ろしたそれは何度でも這い出てきて、心臓に絡み付いて、無数の引っ掻き傷を付けていく。
化膿した傷はじくじくと膿んで、腐って、内腑を腐敗させていく。体の内側から汚辱に塗れて、朽ちていく。後には何も残らない、空虚な皮人形だけが残されるのだ。
心にもない笑顔の仮面を被るたびに、幸福そうな笑顔を向けられるたびに、心のどこかが軋みを上げる。また一つ何かが壊れて落ちる。剥落したその何かはもう決して取り戻せないと、本当は知っている。
心の伴わない虚ろな睦言を吐けば吐くほど、自分も空虚になっていく。いつの間にか嘘に慣れて、呼吸するように嘘を吐いて、ふとした瞬間にそんな自分を嫌悪する。
いつまでもこのままではいられないと、漠然と予感している。けれどまだ続けていたいと、まだ続けていられると、自分に言い聞かせている。
だから今日も笑顔の仮面を取り繕う。心にもない甘い言葉を囁く。そして腐敗し剥落し空洞化していく自分を感じる。
それでも踏み止まることはできない、今更そんなことはできない。だからつい、口が滑ったのだ。
「今夜、泊まっていくかい?」
ひどく息苦しい夢から目覚めた。全身が嫌な汗で濡れている。
クロードは身を起こし、汗に濡れた髪を掻き上げた。肺の空気を吐き切るほど深く息を吐く。
既に色褪せて散り散りになっている悪夢。けれど不快な気分がまだ胸の奥にこびりついている。口の中が苦い。
人の気配を感じて、無意識に目を逸らしていた傍らへとようやく目を向ける。思わずうろたえた。
隣でエヴァレットが眠っていた。一糸纏わぬその肌に罪深い赤い印を点々と散らして、彼は寝息を立てていた。
そうだ、と思い出す。自分は、この男とそうなったのだ。背徳の道へと足を踏み入れてしまったのだ。
この男がそれを求めていると、クロードにそれを期待していると、そうした気配を確かに感じたわけではなかった。けれど、そうするのが自然な成り行きなのだろうと思ったのだ。そうすべき頃合いだと感じたのだ。
恋人だという振りをしているのだから。これからも恋人らしい振る舞いを続けていくつもりなのだから。それがお互いにとって最善の道なのだから。
そうすべきだと思ったからクロード自身の判断で決断を下し、そして実行した。その判断は誤ってなどいないし、これは過ちなどでは決してない。これがあるべき形で、これが自然な形で、遅かれ早かれこの形に着地しなくてはならなかったのだ。
分かってはいても、総身が震えそうになる。罪悪感の茨は膨れ上がりながら心臓を締め付け、恐ろしい罪の意識が業火のように魂を責め苛む。
神に背く禁断の悪徳。それを想ってさえいない相手と犯してしまった。心から愛する相手とともに堕ちる地獄ならば、まだ諦めようもあるのに。
エヴァレットはまだ眠っている。胸を締め付け焼き焦がす罪悪感から目を逸らしたくて、クロードはエヴァレットの寝顔に意識を集中させた。
清らかな信頼と無垢な幸福に満たされた、満ち足りた、安心し切ったその寝顔。エヴァレットは安らかに眠っている。クロードを苛む罪業意識など全く知らない表情だった。気が狂いそうな魂の痛みにクロードだけが耐えていることなど、エヴァレットはこれからも決して知ることはない。
あどけないとさえ言えそうな寝顔を見下ろしていても、クロードの胸には温かで優しい感情など生まれる気配もない。愛おしさだとか恋しさだとか、愛着だとか庇護欲だとか、そんな柔らかな感情はどこからも湧き上がらない。それどころか不意に、思いもかけなかった暗くどす黒い感情が迫り上がった。
クロードの魂の苦痛など知りもせず、これから先も気付くことはなく、エヴァレットは眠っている。安らいで、満ち足りて、夢の園に遊ぶ。今までも、これからも。
そのことが、言いようもないほど不条理である気がした。理不尽で、不公平で、道理に合わないことであるように思えた。
今は眠っているこの男の独りよがりで傍迷惑な恋慕こそが、クロードの苦痛の元凶だというのに。この男がクロードを思慕したりなどしなければ、クロードはこんな苦悩も苦痛も味わわなくて良かったのに。
クロードを不幸の底に引き摺り落としておきながら、この男ばかりが幸福に満ちて、甘い夢を見て、安らかに眠る。それは、なんと不条理で道理の通らないことだろう。
いいや、初めから条理や道理などなかったのだ。こんな男の浅ましい恋心のために、クロードが不幸の道を選んでやる理由など、どこにも。こんな男に、そんな価値など本当はなかったのだ。
けれどクロードに残されているのは、世界にこの男ただ一人なのだ。こんな取るに足りない男だけが、クロードの世界に残された唯一のものなのだ。だからクロードは、この男の身勝手な望みを叶えてやらざるを得ないのだ。そのことで自分がどんな苦痛を受けても、その道の途上にも最果てにも待つのは地獄だけだと知っていても。
けれどそんなことは知りもせず、これから先も知ることもなく、この男一人が幸福な幻想に包まれて笑うのだ。この男のためにクロードが己を犠牲にして、血を吐くような思いで、作り保ってやる虚構の中で。
不条理な、ありうべからざる、あまりにも大きなアンフェア。目を背けていた事実に気付いてしまうと、もう耐えられなかった。
堪らなくこの男のことが憎らしくて、傷付けてやりたくなる。残酷な衝動が脈動し、拍動し、膨れ上がる。
いますぐにこの男を揺り起こし、真実を突きつけてやりたいと。クロードはこんな男など愛してはいないと、愛したことなどないと、愛してやる日など永遠にこないと、そういった何もかもを明かしてやりたいと。この胸を苛むのと同じだけの苦痛を、この男にも味合わせてやりたいと。そんな狂おしく激しい衝動が、クロードの胸を揺さぶった。
駄目だ。
我を忘れて揺り起こしてしまう前に、理性の微かな声をかろうじて聞き留めた。視線を引き剥がすようにして、眠る男から目を背ける。冷静になれと自分に言い聞かせる。
感情に任せては駄目だ。理性的に行動しなくては。激情に突き動かされれば、これまで積み重ねた全てを否定すれば、この男はクロードから離れていく。もう二度と、クロードの前に現れようともしなくなるだろう。
それでは駄目なのだ。この男まで失えば、絶望的な孤独の中に取り残されるほかないのだから。こんな取るに足りない男でも、寂寞をほんの僅かだけ薄めることには役立つのだから。この男にはまだ、僅かだが確かな利用価値があるのだから。
だから、今はこの男から離れよう。衝動的になりかけている今、この男の近くにいてはいけない。頭を冷やさなければ。理性的かつ合理的に考えられる余裕を、優しく慈しみ深い振る舞いができる寛大さを、この男が眠っている間に取り戻さなければ。
自分にそう言い聞かせ、クロードは音を立てないようにしながら寝台を降りた。ふしだらに床に放り捨てられていた衣服を拾い集める。静かに、だが急いで。
身に付けるのはこの部屋を出てからでいい。今は早くこの男から距離を取らなければ。そう結論づけて、音を立てないようにドアノブを回す。だが。
「……クロード?」
掠れる声に呼ばれて、肩が震えるのが分かった。聞こえなかった振りさえできないほどに。
冷静になれ、感情を抑えろ。自分にそう言い聞かせて、深く息を吐いて、クロードはゆっくりと振り返った。
クロードの動く気配で目を覚ましたらしいエヴァレットは、気だるげに身を起こすところだった。まだ覚め切っていないらしいぼやけた眼差しをクロードに向けて、嬉しげに微笑む。幸福そうな、安心しきった笑顔だった。
「……起きたんだね」
自分でも驚くほどの、冷え切った声が出た。愛情深い演技をやめた、無関心を隠しもしない、氷の刃のような声。
そんなことにさえ気付かないのか、エヴァレットの笑顔は揺れることさえしなかった。甘え媚びた眼をして、クロードがいつものように睦言を与えてやるのを待っている。
愚直な親愛、無神経な信頼。それらが無性に癇に障った。不条理だという思いが、また破裂しそうに膨れ上がった。
こんなにもクロードを苦しめておきながら、この男はこんなにも幸福そうに笑う。クロードが自分の魂を切り刻みながら与えてやる甘やかな囁きが今日もまた与えられると、この男は疑いもせずに信じている。期待を裏切られるとも傷付けられるとも思ってもみないで、甘く幸福な幻想はいつまでも続くのだと信じきって、エヴァレットは愚直にクロードの言葉を待っている。
その期待を裏切ってやったなら、信じ込んでいる世界を打ち砕いてやったなら、この男はどれだけ深く絶望するだろう。その痛みはどれほどの大きさだろう。どんな無様な顔をして泣くだろう。あるいは、泣くことさえ忘れて自失するだろうか。
想像しただけで、目も眩むほどの満足が胸に湧き上がった。久しく感じなかった、ずっと忘れていた、明るく晴れ晴れとした思いがした。この男に偽りの愛を語ってやった瞬間からクロードの魂を飛び去って戻らなかった、その輝くような感情。
それはこの男の絶望を目にすることで初めて完璧なものとなるのだ。この男の夢の世界を崩落させることで、やっと実現するのだ。ならば、そうしない理由はどこにもない。
駄目だと、理性がまた弱々しく囁いた。けれど、我にかえるのには間に合わなかった。
「君は、僕が好きかい?」
捕まえる前に滑り落ちた問いかけ、崩壊への序曲。そうと知っているのはまだクロードだけだが、すぐにこの愚かな男も悟るだろう。
不思議そうに、愚蒙な男は瞬きをした。それから嬉しげにまた笑う。
「君が好き」
あどけない笑顔は、それが通い合っている感情だと信じて疑っていない。クロードに愛されているのだと思い込んで、クロードが己の魂を削りながら見せてやっている夢を疑いもなく信じ込んで、幸福そうに笑う。
その愚昧な笑顔に、無神経に投げかけられる親愛に、また憎悪に近い憤懣がせり上がった。押し留めようもない激情の奔流がクロードの胸に溢れた。
まだ立ち止まれると、まだ取り返しはつくと、まだどうとでも取り繕えると。そう弱々しく囁いていた理性の声も、もう聞こえない。
今はただ、この男を傷つけてやりたい。この男に真実を突きつけ、この男の幻想を打ち砕き、この男を夢の花園から引き摺り出してやりたい。それしか考えられなかった。だから残酷な衝動に突き動かされるままに、クロードは笑みを浮かべて吐き捨てた。
「僕は、君が嫌いだよ」
クロードがそう言い捨てると、きょとんとした瞳でエヴァレットは瞬きをした。理解が追いついていないらしい、その愚かしい瞳。それさえも怒りを煽る。
だから吐いてしまった言葉で我にかえる暇さえ、クロードにはなかった。駄目押しの言葉を投げつけてやる。激情のままに残酷な真実を告げる。これまでこの男のせいで受け続けた傷を、この男にも刻んでやるために。
「全部嘘だよ」
「クロード?」
まだ理解できていないらしいどこまでも愚かな男が、不思議そうな声で呼びかけてくる。厭わしいその声を遮るように、クロードは言葉を突き刺した。
「本当は」
だめだ。弱々しく理性が囁く。けれど、もう、止まれない。
「本当は、ただ寂しかっただけだよ」
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