5 / 5
花の盛るを夢に見て5
しおりを挟む
終業時間を待ちかねて家に飛んで帰り、夕食も摂らずにパソコンを立ち上げた。メモとして残してあった物語の種子に眼を通し、ノートを広げて物語の構想を練る。
こうして物語の種子ときちんと向かい合うのは、思えばずいぶんと久しぶりのことだ。文芸部員として、文芸サークル会員として、部誌の締め切りに合わせて何とか完成させようとしていた頃は、一つ一つの種子をいつも真剣に吟味していた。中身のない殻だけの種子も、腐ってぶよぶよになっている種子も、どんなに花を咲かせる見込みのなさそうな種子でも、それが真実死んでいる種なのか、本当に咲かせる方法はないのかと、あらゆる角度からためつすがめつしていた。
咲かせる手立てを思いつけば、咲かせるために寝食を忘れて心血を注いだ。参考になりそうな本は、児童書でも古典文学でも学術書でも読んだ。取材が必要と思えば、時間とお金が許す限りどこへでも行った。大学の課題論文よりも、ひょっとすると卒業論文よりもはるかに真摯な態度で、私は種子たちを咲かせてやろうと取り組んでいた。
どうしても咲かせることが叶わないと諦めがつけば、ため息とともに死んだ種子を貯め続けている箱の蓋をそっと開ける。今の自分では咲かせられなくても、いつかの未来の自分ならば咲かせてやれるかもと思えば、死んだ種さえ捨てられなかった。もっとたくさんの本を読んで、もっと様々な場所へ行って、もっと多くの人々と出会って、もっといろいろな経験をして、そうして種子に注いでやるための水と養分を蓄えてくれば、遠い未来にはその種子が物語になることもできるかもしれないと。その来るかもしれない未来を祈って、いつか咲く花を夢見て、箱の蓋を私は何度閉じただろう。
ノートにペンを走らせるうちに構想が固まったので、本文の執筆に入った。仕事をするよりもずっと熱心にキーボードを叩いて、物語を紡いでいく。
年単位のブランクでうまく文章が出てこないのではないかという心配は杞憂に終わった。何かに導かれるように、文章はするすると頭に浮かび上がり、指先を通して白い画面を黒々と満たしていく。指の動きがもどかしいほどだった。
ふと気がつくと、既に日付が変わっていた。小説はまだまだ完成には程遠いが、明日の仕事もあるのでしぶしぶ中断することにする。文章を保存してパソコンの電源を切り、シャワーを浴びるために立ち上がった。
その日以来、私の就寝時間は着実に遅くなっていった。ついには、明け方までパソコンと向き合うようになった。
帰宅してはパソコンを立ち上げ、夕食もとらずにひたすら物語の続きを書き上げていく。文字通り寝食を忘れて狂ったようにキーボードを叩いては、少しだけ息をついた時に水をがぶ飲みする。栄養失調だとか水中毒だとか疲労蓄積だとか寝不足だとかについての苦言を呈してくれるような、親切で邪魔な同居人はここにはいない。それを幸いに、私は文字と水に溺れて夜を過ごした。
「ねえ、最近具合が悪そうだけど。どうかしたの?」
朦朧とする頭でデータ入力を続けていると、隣の席から先輩が声をかけてきた。特段に厚化粧の人ではないのだが、今日は身じろぎのたびに化粧品の匂いがやけに鼻につく。
「やー、なんだか最近、夜に眠れなくって。不眠症ってやつですかねー」
へらりと笑いながらそう答える。正確には「眠れない」のではなく「眠ろうとしていない」のだが、そんな細かいことはどうだっていい。先輩だって、その二つの違いなどどうでもいいだろう。
「笑い事じゃないよ、その顔色。病院には行ってるの?」
「いやあ、眠れないだけで熱も咳も何もないですし」
返答しながら、頭の中では小説の構想を思い返している。私はよほど酷い顔色をしているのか、先輩は深刻な表情で更に言葉を重ねてきた。
「少し痩せたみたいだけど」
「なんか食欲もないんですよねー」
「ちょっと、それ、本当に大丈夫?」
二人とも仕事の手を止めて話し込んでいると、通りかかったシブヤさんまでが話に割り込んできた。心配そうな表情で指摘される。
「お昼を食べてなかったみたいだけど、朝は食べてきてる?」
「えっと、実は、食べてません」
実は夜も食べてませんとは、必要がないので言わなかった。
「そのうち倒れるよ。早退して病院へ行ったほうがいいよ」
「でも、今日は仕事ありますし」
そんな会話をしているうちに電話が鳴ったので、お叱りが跳ぶ前に反射的に立ち上がって受話器へ手を伸ばした。
途端に、前触れもなく世界が白く明滅し始めた。同時に強い眩暈に襲われ、バランス感覚が喪われる。
どこか遠くに誰かの悲鳴を聞きながら頭に鈍痛を感じ、私の意識は闇に飲まれた。
気がつくと、私はいつものように荒野で夢の花と向き合っていた。嬉しさに顔が綻ぶ。
このところ睡眠時間が短いから、この花と向かい合う時間も少なくなっている。ここ最近はよく見ていなかったが、心なしかつぼみや茎の色艶が少しばかり褪せている気がする。小説の種を芽吹かせるために水と養分を注ぎ込みすぎて、この夢の花へは十分にいきわたっていないのだろうか。それとも単に、私が睡眠も栄養もほとんど取らずに過ごしているから、吸い上げるべき栄養が十分にないのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら花を眺めていると、私の手や足に絡みつく無数の根が、一層深く絡みついてきた。逃すまいと掴み直すように。どこへも行かないでと縋るように。
大丈夫、逃げないよ。
心の中でそう語りかけ、私は大地と同化したような手を、絡みつく根を断ち切ってしまわないように注意しながら持ち上げた。手を伸ばし、そっとなだめるように、私の夢の花の美しいつぼみを撫でる。
全部あげるから。水も命も、全部飲み干してくれていいから。だから、あと少しだけ待っていて。私の物語が書き上がるまで。
夢の花がわずかに震えた気がした。何かを怖れるように。
眼を開けると、薄緑色のカーテンで区切られた白い天井が眼に入った。とたんに、今までは気づかなかった消毒液のにおいがむんと鼻をつく。
ここはどこ?
私は誰、と心の中で続けながら、とりあえずもそもそと起き上がってみる。すると衣擦れの音に気づいたのか、ぱたぱたと足音が近づいてきてカーテンが外から捲られた。
「あら、目が覚めた?」
現れたのは、薄水色の看護服を着たふっくらした女性だった。顔に見覚えはないが、彼女の服装と部屋の様子と夢に落ちる前の様子からして、どこかの病院の看護士だろう。
「あなた、貧血で倒れたのよ。最近ずっと寝不足で、食事もろくに摂ってなかったんですって? だめよ、そんな体調で仕事してちゃ」
子供を叱りつける母親のような調子で言う。今にも「そんなことしちゃ『めっ』よ!」とでも言いそうな口調と表情のまま、お母さん看護士はてきぱきと私に体温計を渡し、腕を伸ばさせて脈拍を測りながら、言葉を続けた。
「職場の方が、動けるようになったらそのままおうちに帰って休みなさいって。荷物も持ってきてくれてるからね」
言われて指し示されたほうを見ると、私の鞄と水筒が籠に入れておいてあった。
「ありがとうございます」
お礼を言ったところで体温計が電子音を立てた。引き抜いてみると平熱よりいささか低い。だがそのことは言わずに何食わぬ顔で体温計を返した。
「ちょっと低くない? いつもこのくらい?」
「はい、私の平熱って低いんです」
きっぱり言うと、お母さん看護士は怪しむことなく「そう?」と納得した。
「ふらついたりしない? 吐き気は?」
「はい、大丈夫です。ぐっすり寝たからもう元気です」
私の返事を聞いたお母さん看護士は満足げに頷くと、私の鞄を取って渡してくれた。
「ちょうど金曜日だし、おうちでゆっくりしなさいね?」
「はあい」
にこやかにいい子のお返事をしながら、私は頭の中では別のことを考えていた。
この午後が丸ごと空いたから、今週末で小説を完成させられるだろう。
帰宅してももちろん「ゆっくり」する私ではない。すぐさま小説を書くための、書き終えるための準備を始めた。
浄水ポットを通した水をペットボトルに十本以上用意し、座卓に置いたままのパソコンを起動する。パソコンに向かった私は、まず一つ深呼吸した。
そして、一心不乱にキーを叩き始めた。電子の世界へ潜っていくように。モニターに増えていく文字の海に溺れるように。
浴びるように水を飲みながらキーを叩き続け、手の届く範囲の水がなくなればしぶしぶパソコンとの戦いを中断して立ち上がる。浄水ポットを通した水をまた十本以上用意し終えると、また文字の海へと飛び込んでいく
その間に夕方が来て、夜が来て、夜が更けて朝になって、また昼が来た。私は眠りも食事もとらず、ただ水と文字の海を泳ぎ続けた。
やがて三度目の夕方が訪れた頃に、私の物語はついに完成した。
プリントアウトし、画面上では見落としがちな誤字脱字や構成の不備がないかを寝不足でふらつく頭で確かめる。そうしながらも、頭の片隅ではこれ以上手を加えるべき場所はないと確信していた。
小説がきちんと保存されていることを確認して、私はパソコンの電源を落とした。パスワードは私しか知らないから、誰もこのパソコンを起動させることはできない。私の最後で最大の小説に触れることは誰にもできない。それは十分に分かってはいたが、そのデータを消してしまうことはできなかった。
やるべきことを済ませてしまうと、急激に眠気が襲ってきた。重い体を引きずるようにしてベッドへ這いこむ。
何日も入浴していない姿で死体が発見されることになるが、どうでもよかった。とにかく今は一刻も早く、あの花の元へ行きたかった。
嬉しいことに、眠りはすぐに訪れた。
私はおなじみの夢の荒野にいた。乾ききった大地の広がる、草一本もない荒野に。
空は燃え盛るような夕焼けだった。生きとし生けるものをみな焼き尽くしてしまいそうな、この世の終わりのように凄絶な夕焼けだった。
なんと最期に相応しい空だろう。私の花が私の命の最後のひとしずくを飲み干すこの時に、なんと似合いの空だろう。
燃える空に心ゆくまで見惚れてから、私は私の花へと目を移した。いや、移そうとした。そこで、頭を殴られたようなショックに打たれた。
花がない。
ようやく咲ききって私を出迎えてくれるはずの私の夢の花も、それを取り巻く輝かしい宝石の花畑も、何一つない。
その時になってようやく、今まで気づかなかったのが不思議なほど大きな誤謬に気づいて、私は愕然とした。
私はあの夢の花に出会う前と同じように、見渡す限り何もない荒野に立っていた。私に絡みついて水分や養分をねだっていたはずの夢の花の根もなければ、私の全身に積もって私を泥人形に変えていた赤土もない。私は現実の私と同じように皮膚に覆われ、何ものにも捕らえられる事なく立ち尽くしていた。
あの夢の花を、それを取り巻いているはずの宝石の花畑を求めて、私は前後左右をおろおろと見回した。そして遥か遠くに弱々しい光を認めるやいなや、そこへ向かって走り出していた。
もどかしいほど、自分の動きが遅く感じた。ずっとずっと座り込んでいて全身が凝り固まってしまっているように。命を吹き込まれたばかりの、生を得て動く事を知ったばかりの木偶人形のように。きっと傍目にはひどく不恰好な走り方で、私は必死になって光のもとへと走って行った。
走っている間にも無情に日は暮れてゆき、じわじわと空気が薄青く染まっていく。私は水の中を走るように、手で空気をかけ分けるようにして滅茶苦茶に走り続けた。その間にも、目指す光はどんどん弱まっていくようだった。
ようやく弱々しい光のもとへとたどり着いた時には、空は既に夕闇に支配されていた。薄青い空気の中のかすかな光を頼りにようやくたどり着いた場所で、私は言葉を失った。
宝石の花畑は跡形もなく消えていた。
遠くから光と見えたのは、粉々に砕けた宝石の花たちだった。
無数の小さな宝石の花たちは無残に割れて、砕けて、赤茶けた砂にまみれて地面に散らばっている。私が呆然と見ている間にも、それらは水が地面にしみこむように、氷が日差しの下で溶けゆくように、みるみるその煌めきを失って、跡形もなくなった。あとにはただ、乾いてひび割れた赤い大地だけが、元から美しいものなど何一つとしてなかったような顔をして広がっていた。
そして、ようやく盛りに至り、燦然と輝いて咲き誇っているはずの私の夢の花は、いまや茶褐色に萎れて枯れ落ちていた。私はそれを、惚けたように立ち尽くして唖然と見つめていた。
やがて、夢の花が枯れてしまったのだという事実が、じわりじわりと頭に染み込んできた。それに伴うようにして、私の胸は今まで経験したこともなく、これからたとえ何百年生きたとしても経験することのないような感情に埋め尽くされていった。
それは悲しいとか惜しいとか、そういったありふれた言葉では括れない思いだった。絶望だとか喪失感だとか、そんな現実の言葉では到底言い表すことのできない感情だった。
自分の手足を失くしても、家族を喪っても、親友に裏切られても、恋人が誰かに殺されても。そうした全ての悲劇がいちどきに襲ってきたとしても、その悲哀は今この夢の中で私の胸を貫いている痛みほどには、きっと私を苦しめることはできない。
全身から力が抜けて、私はいつの間にかその場にへたり込んでいた。へたり込んで、涙を流して泣いていた。
私の涙は乾いた大地の上で水溜りを作り、いつの間にか『不思議の国のアリス』のように池になっていた。気づいたときには涙の池は、この枯れてしまった夢の花が作り上げた宝石の泉と同じくらいの大きさになっていた。
けれど泉の中心で誇らかに咲く私の花は、もう世界中のすべての夢と現実をくまなく探してもどこにもない。私の水と命とを糧に、私だけのために咲くあの花は、散ってしまってもう取り戻せない。涙の池の只中に座り込んで、私はただ泣き続ける事しかできなかった。
夕闇が夜の暗闇に取って代わられ、月のない夜が頭上に広がっても、私の涙は涸れる事を知らなかった。泣いても泣いても止まらない涙を流しながら、私はひたすら泣き続けていた。
そうやって、どれほどのあいだ座り込んでいただろう。止まらない涙をこする手に、ふっと何か、肌でも髪でもないものが触れた。
何だろう。
泣いて泣いて涙も涸れ果てよと泣いてぼうっと熱くなっている頭に、疑問だけがあぶくのようにぽかりと浮かび上がった。私は何も考えずに、ただその疑念が導くままに、のろのろと自分を取り巻く涙の池を覗き込んだ。
ちょうど耳の上に花飾りを挿したような具合で、私の左耳の上で一輪の花が咲いていた。
いつの間に、こんな花が?
驚いた拍子に涙も止まった。涙の池に両手をつき、顔を水面に寄せてまじまじと覗き込む。呼吸が水面を揺らしてしまわないように息をつめて、私はじっとその花を見つめた。
散ってしまった夢の花の百分の一も美しくない、現実のありふれた花ほども美しくない、ただ花弁が多いばかりがとりえのような花だった。なのに、なぜか心を惹きつけられるような気がして、目が離せなくなった。
花から指で茎をたどっていくと、その花は私の右耳の裏辺りから生えていて、頭に沿って茎を伸ばしてきているようだった。
目を真っ赤に泣き腫らし、何日も入浴していないべたつく髪をした私には似合いの、みすぼらしいとすら言えるような一輪の花。けれど、それはなぜか酷く愛おしかった。こんな花がなぜこんなにも愛おしいのかと自分でも不思議で、水鏡に映った自分と花とをまじまじと見た。そして、気づいた。
椿のような薔薇のような、幾重にも花弁の重なり合った花。その花弁の一つ一つに、私のこれまで生きてきた人生と、私のこれまでに書いてきた小説が映っていた。
ある花弁では、まだ小学校に上がったばかりの私が砂場で泥団子作りに熱中していた。また別の花弁では、私の小説の主人公が人のいない砂浜で凪いだ海を眺めていた。また別の花弁では、まだ仕事への熱意と希望に満ちていた新入社員の私が張り切った表情で研修に臨んでいた。また別の花弁では、私の小説の主人公が真っ赤なドラゴンの背中で心地よさそうに風を浴びていた。また別の花弁では、大学生の私が自分の小説を大いにけなした先輩に食って掛かっていた。また別の花弁では私が幼い頃に住んでいた社宅がそびえていて、また別の花弁では私の小説の登場人物が小劇団の開演をわくわくと待ち望んでいて、私が一人で旅した温泉が湯煙を上げていて、登場人物が暮らす寄宿学校で少女が笑いながら振り向いて、私の訪れた文学館や美術館がいくつも浮かんでは消えて、登場人物ががらんとした水族館で募金箱に千円札を押し込んだ。その花の中に、私の経験と記憶と想像が全て写し取られていた。
今ここに一輪だけ咲いているこの花は、私の中から生まれた、私の人生の全てを注がれて咲いた、私にしか咲かせられなかった花だった。これが、私が咲かせた、私の夢の花を見捨ててまで私が咲かせた、私の小説の種子だった。
そうか、だからこんなに愛おしいんだ。
ゴルフボールがカップに落ちるように、私はすとんと納得した。それはあまりにも単純で、明快な答えだった。
枯れてしまった夢の花は私の理想の具現のような、美の結晶のように美しい存在だったから、それゆえに私はあの花に惹きつけられた。眩しい光に吸い寄せられる蛾のように、甘い蜜に招きよせられる蝶のように。それが生まれ落ちることに私はちっとも関与していなくて、私はただその花に養分を与えるだけの存在だった。
けれど今ここにあるこの花は、私から生まれた私自身の一部だ。私が私自身を決して赦せないほど嫌いになるまでは、私はこの花を憎めない。私が私を憎むまで、私は自分の意思にかかわらずこの花を愛し続けてしまう。
それは仕方のないことなのだ。私の夢の花が枯れてしまったのも、私が夢の花を枯らしてしまうほど私の小説の花に全てを注ぎ込んでしまったのも、私の小説の花を私が引きちぎってしまえないのも、私の夢の花が二度と取り戻せないのも。
全ては泣いても喚いてもどうしようもない、詮無いことなのだ。
夢を見ながら本当に泣いていたらしく、枕は日干しの最中に通り雨にあってしまったかのようにぐっしょりと濡れていた。
まだ涙の残る潤んだ眼でそれを見下ろし、大泣きに泣いた後の熱を持った頭をぼんやりとめぐらせる。見るとも無しに時計を見て、カレンダーを見て、やっと今日が平日の月曜日だと思い出した。
とたんにはっきりし始めた頭で、慌ててもう一度時計を見る。デジタルのそっけない文字は無情にも、始業時間まであと十五分もないことを突きつけてくる。
どうあがいても間に合わないので、諦めて半休を取ろうと気持ちを切り替えた。とりあえず顔を洗おうと、のそのそとベッドから這い出す。寝起きのせいかまともに食事していないせいか、足元がふらついた。
ふらふらと洗面所に辿り着き、鏡を見る前にまず深呼吸をする。努めて心を落ち着けてから、私は覚悟を決めて鏡を覗き込んだ。
「うっわ」
入念な心の準備にもかかわらず、思わずうめき声を上げてしまった。それほどすさまじい、この世のものとも思えない面相が、鏡の中から愕然として私を見返していた。
連日の寝不足でできた隈はまだ取れていない上に、目は泣き腫れて真っ赤になっている。ついでに、ろくに食事を取っていなかったので髪と肌には艶がない。総括して言えば、これまでに見てきたありとあらゆる鏡像の中でも群を抜いて化け物じみた私が、鏡に映っている。今後何十年生きてどんな目にあっても、記録更新は難しいだろう。少し痩せたかもしれないのは、ダイエットに成功したのだと思い込めば唯一の吉報だ。
しばし愕然と鏡に見入ってから、始業時間が近いのを思い出して慌てて顔を洗う。一口水を飲んで喉を潤してから、職場に電話をかけた。
泣きに泣いたためか掠れる声で体調不良による午前中の有給休暇を願い出ると、上司は即答で「少なくとも、今日は一日休みなさい」と返してくる。金曜日の貧血が、かなり強い印象を残したらしい。
ありがたく丸一日の休暇を頂いた私は、まず何をしようかとしばし思い悩んだ。そして、とりあえず久々に感じた空腹感をなだめようと、冷蔵庫を開けた。
もう、喉の渇きは収まっていた。
食事をして入浴して、久しぶりに夢を見ずに泥のように眠った。目覚めてみると、疲労がさっぱりと拭われていた。おそるおそる鏡を覗いたが、隈や顔色もだいぶましになっている。
火曜日から私は出勤した。「金曜日はご迷惑をおかけしました」とセンター中に謝罪行脚し、そのたびに「これからは自己管理をしっかりね」といったお叱りのような気遣いのような言葉を頂いて頭を下げ、カスタマーセンターの職員全員にそれを済ませたところでちょうど始業のベルが鳴った。
私は無気力になるでもなく、自暴自棄になるでもなく、体を壊すわけでもなく、ただ淡々と日常へ戻っていった。花が盛りに近づいていくのを見つめ続ける夢を見始める前の、朝には起きて、出勤して、仕事をして、時には上司や先輩やお客様に叱られたり怒鳴られたりして、夜には家に帰って、食事をして、入浴をして、眠りにつく生活へ。
夢の花と引き換えのように咲いた私の物語は、文学賞に応募されるでもなく、誰かに読んで批評してもらうでもなく、ただ私のパソコンと机の中で眠っている。
ただ、丸きり以前のままかというと、そういうわけでもなかった。
職場でばたんと倒れたのが思う以上に課の面々に衝撃を与えたらしく、前ほどには「さっさと電話を取りなさい」「だって貴女はどうせ暇でしょう?」という圧力が掛からなくなった。いや、もしかしたら控えめながらも圧力は掛かっているのかもしれないが、それを気にせずにいられる図太さを、風に揺れる柳のようにしれっと受け流すしたたかさを、私が身につけたようにも思える。
以前のようには、電話で罵倒されようが嫌味をねちねちと言われようが気にならなくなった。それゆえにわざわざ落ち込んで事務作業の能率が落ちることもなく、以前ほど頻繁には気分直しの休憩を必要としなくなった。おかげで朝に頼まれた仕事を午前中に仕上げることも容易くなり、上司からは「倒れて心配したけど、おかげで自分のペースが固まったみたいじゃないか」とお褒めの言葉らしきものを頂戴した。
本当は「倒れたために」自分の限界やペースを把握できたのではないことは、私だけが知っている。本当の理由は別にあるのだということは、世界中で私一人が知っている。
罵倒されているとき、嫌味を言われているとき、叱られているとき。表面上は殊勝気にしおれている私の脳裏には、いつも二輪の花が揺れているのだ。枯れてしまった美しい夢の花が、私の全てを受け止めて咲いた私の小説の花が、確かに私の記憶の中にあるから、今日も私は生きていられる。
受話器を置いて、私はすがすがしい気分で水筒に手を伸ばした。ほうじ茶を一気に飲み干したが、まだ渇きが収まらない。給湯室へ行くため、私は席を立った。
こうして物語の種子ときちんと向かい合うのは、思えばずいぶんと久しぶりのことだ。文芸部員として、文芸サークル会員として、部誌の締め切りに合わせて何とか完成させようとしていた頃は、一つ一つの種子をいつも真剣に吟味していた。中身のない殻だけの種子も、腐ってぶよぶよになっている種子も、どんなに花を咲かせる見込みのなさそうな種子でも、それが真実死んでいる種なのか、本当に咲かせる方法はないのかと、あらゆる角度からためつすがめつしていた。
咲かせる手立てを思いつけば、咲かせるために寝食を忘れて心血を注いだ。参考になりそうな本は、児童書でも古典文学でも学術書でも読んだ。取材が必要と思えば、時間とお金が許す限りどこへでも行った。大学の課題論文よりも、ひょっとすると卒業論文よりもはるかに真摯な態度で、私は種子たちを咲かせてやろうと取り組んでいた。
どうしても咲かせることが叶わないと諦めがつけば、ため息とともに死んだ種子を貯め続けている箱の蓋をそっと開ける。今の自分では咲かせられなくても、いつかの未来の自分ならば咲かせてやれるかもと思えば、死んだ種さえ捨てられなかった。もっとたくさんの本を読んで、もっと様々な場所へ行って、もっと多くの人々と出会って、もっといろいろな経験をして、そうして種子に注いでやるための水と養分を蓄えてくれば、遠い未来にはその種子が物語になることもできるかもしれないと。その来るかもしれない未来を祈って、いつか咲く花を夢見て、箱の蓋を私は何度閉じただろう。
ノートにペンを走らせるうちに構想が固まったので、本文の執筆に入った。仕事をするよりもずっと熱心にキーボードを叩いて、物語を紡いでいく。
年単位のブランクでうまく文章が出てこないのではないかという心配は杞憂に終わった。何かに導かれるように、文章はするすると頭に浮かび上がり、指先を通して白い画面を黒々と満たしていく。指の動きがもどかしいほどだった。
ふと気がつくと、既に日付が変わっていた。小説はまだまだ完成には程遠いが、明日の仕事もあるのでしぶしぶ中断することにする。文章を保存してパソコンの電源を切り、シャワーを浴びるために立ち上がった。
その日以来、私の就寝時間は着実に遅くなっていった。ついには、明け方までパソコンと向き合うようになった。
帰宅してはパソコンを立ち上げ、夕食もとらずにひたすら物語の続きを書き上げていく。文字通り寝食を忘れて狂ったようにキーボードを叩いては、少しだけ息をついた時に水をがぶ飲みする。栄養失調だとか水中毒だとか疲労蓄積だとか寝不足だとかについての苦言を呈してくれるような、親切で邪魔な同居人はここにはいない。それを幸いに、私は文字と水に溺れて夜を過ごした。
「ねえ、最近具合が悪そうだけど。どうかしたの?」
朦朧とする頭でデータ入力を続けていると、隣の席から先輩が声をかけてきた。特段に厚化粧の人ではないのだが、今日は身じろぎのたびに化粧品の匂いがやけに鼻につく。
「やー、なんだか最近、夜に眠れなくって。不眠症ってやつですかねー」
へらりと笑いながらそう答える。正確には「眠れない」のではなく「眠ろうとしていない」のだが、そんな細かいことはどうだっていい。先輩だって、その二つの違いなどどうでもいいだろう。
「笑い事じゃないよ、その顔色。病院には行ってるの?」
「いやあ、眠れないだけで熱も咳も何もないですし」
返答しながら、頭の中では小説の構想を思い返している。私はよほど酷い顔色をしているのか、先輩は深刻な表情で更に言葉を重ねてきた。
「少し痩せたみたいだけど」
「なんか食欲もないんですよねー」
「ちょっと、それ、本当に大丈夫?」
二人とも仕事の手を止めて話し込んでいると、通りかかったシブヤさんまでが話に割り込んできた。心配そうな表情で指摘される。
「お昼を食べてなかったみたいだけど、朝は食べてきてる?」
「えっと、実は、食べてません」
実は夜も食べてませんとは、必要がないので言わなかった。
「そのうち倒れるよ。早退して病院へ行ったほうがいいよ」
「でも、今日は仕事ありますし」
そんな会話をしているうちに電話が鳴ったので、お叱りが跳ぶ前に反射的に立ち上がって受話器へ手を伸ばした。
途端に、前触れもなく世界が白く明滅し始めた。同時に強い眩暈に襲われ、バランス感覚が喪われる。
どこか遠くに誰かの悲鳴を聞きながら頭に鈍痛を感じ、私の意識は闇に飲まれた。
気がつくと、私はいつものように荒野で夢の花と向き合っていた。嬉しさに顔が綻ぶ。
このところ睡眠時間が短いから、この花と向かい合う時間も少なくなっている。ここ最近はよく見ていなかったが、心なしかつぼみや茎の色艶が少しばかり褪せている気がする。小説の種を芽吹かせるために水と養分を注ぎ込みすぎて、この夢の花へは十分にいきわたっていないのだろうか。それとも単に、私が睡眠も栄養もほとんど取らずに過ごしているから、吸い上げるべき栄養が十分にないのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら花を眺めていると、私の手や足に絡みつく無数の根が、一層深く絡みついてきた。逃すまいと掴み直すように。どこへも行かないでと縋るように。
大丈夫、逃げないよ。
心の中でそう語りかけ、私は大地と同化したような手を、絡みつく根を断ち切ってしまわないように注意しながら持ち上げた。手を伸ばし、そっとなだめるように、私の夢の花の美しいつぼみを撫でる。
全部あげるから。水も命も、全部飲み干してくれていいから。だから、あと少しだけ待っていて。私の物語が書き上がるまで。
夢の花がわずかに震えた気がした。何かを怖れるように。
眼を開けると、薄緑色のカーテンで区切られた白い天井が眼に入った。とたんに、今までは気づかなかった消毒液のにおいがむんと鼻をつく。
ここはどこ?
私は誰、と心の中で続けながら、とりあえずもそもそと起き上がってみる。すると衣擦れの音に気づいたのか、ぱたぱたと足音が近づいてきてカーテンが外から捲られた。
「あら、目が覚めた?」
現れたのは、薄水色の看護服を着たふっくらした女性だった。顔に見覚えはないが、彼女の服装と部屋の様子と夢に落ちる前の様子からして、どこかの病院の看護士だろう。
「あなた、貧血で倒れたのよ。最近ずっと寝不足で、食事もろくに摂ってなかったんですって? だめよ、そんな体調で仕事してちゃ」
子供を叱りつける母親のような調子で言う。今にも「そんなことしちゃ『めっ』よ!」とでも言いそうな口調と表情のまま、お母さん看護士はてきぱきと私に体温計を渡し、腕を伸ばさせて脈拍を測りながら、言葉を続けた。
「職場の方が、動けるようになったらそのままおうちに帰って休みなさいって。荷物も持ってきてくれてるからね」
言われて指し示されたほうを見ると、私の鞄と水筒が籠に入れておいてあった。
「ありがとうございます」
お礼を言ったところで体温計が電子音を立てた。引き抜いてみると平熱よりいささか低い。だがそのことは言わずに何食わぬ顔で体温計を返した。
「ちょっと低くない? いつもこのくらい?」
「はい、私の平熱って低いんです」
きっぱり言うと、お母さん看護士は怪しむことなく「そう?」と納得した。
「ふらついたりしない? 吐き気は?」
「はい、大丈夫です。ぐっすり寝たからもう元気です」
私の返事を聞いたお母さん看護士は満足げに頷くと、私の鞄を取って渡してくれた。
「ちょうど金曜日だし、おうちでゆっくりしなさいね?」
「はあい」
にこやかにいい子のお返事をしながら、私は頭の中では別のことを考えていた。
この午後が丸ごと空いたから、今週末で小説を完成させられるだろう。
帰宅してももちろん「ゆっくり」する私ではない。すぐさま小説を書くための、書き終えるための準備を始めた。
浄水ポットを通した水をペットボトルに十本以上用意し、座卓に置いたままのパソコンを起動する。パソコンに向かった私は、まず一つ深呼吸した。
そして、一心不乱にキーを叩き始めた。電子の世界へ潜っていくように。モニターに増えていく文字の海に溺れるように。
浴びるように水を飲みながらキーを叩き続け、手の届く範囲の水がなくなればしぶしぶパソコンとの戦いを中断して立ち上がる。浄水ポットを通した水をまた十本以上用意し終えると、また文字の海へと飛び込んでいく
その間に夕方が来て、夜が来て、夜が更けて朝になって、また昼が来た。私は眠りも食事もとらず、ただ水と文字の海を泳ぎ続けた。
やがて三度目の夕方が訪れた頃に、私の物語はついに完成した。
プリントアウトし、画面上では見落としがちな誤字脱字や構成の不備がないかを寝不足でふらつく頭で確かめる。そうしながらも、頭の片隅ではこれ以上手を加えるべき場所はないと確信していた。
小説がきちんと保存されていることを確認して、私はパソコンの電源を落とした。パスワードは私しか知らないから、誰もこのパソコンを起動させることはできない。私の最後で最大の小説に触れることは誰にもできない。それは十分に分かってはいたが、そのデータを消してしまうことはできなかった。
やるべきことを済ませてしまうと、急激に眠気が襲ってきた。重い体を引きずるようにしてベッドへ這いこむ。
何日も入浴していない姿で死体が発見されることになるが、どうでもよかった。とにかく今は一刻も早く、あの花の元へ行きたかった。
嬉しいことに、眠りはすぐに訪れた。
私はおなじみの夢の荒野にいた。乾ききった大地の広がる、草一本もない荒野に。
空は燃え盛るような夕焼けだった。生きとし生けるものをみな焼き尽くしてしまいそうな、この世の終わりのように凄絶な夕焼けだった。
なんと最期に相応しい空だろう。私の花が私の命の最後のひとしずくを飲み干すこの時に、なんと似合いの空だろう。
燃える空に心ゆくまで見惚れてから、私は私の花へと目を移した。いや、移そうとした。そこで、頭を殴られたようなショックに打たれた。
花がない。
ようやく咲ききって私を出迎えてくれるはずの私の夢の花も、それを取り巻く輝かしい宝石の花畑も、何一つない。
その時になってようやく、今まで気づかなかったのが不思議なほど大きな誤謬に気づいて、私は愕然とした。
私はあの夢の花に出会う前と同じように、見渡す限り何もない荒野に立っていた。私に絡みついて水分や養分をねだっていたはずの夢の花の根もなければ、私の全身に積もって私を泥人形に変えていた赤土もない。私は現実の私と同じように皮膚に覆われ、何ものにも捕らえられる事なく立ち尽くしていた。
あの夢の花を、それを取り巻いているはずの宝石の花畑を求めて、私は前後左右をおろおろと見回した。そして遥か遠くに弱々しい光を認めるやいなや、そこへ向かって走り出していた。
もどかしいほど、自分の動きが遅く感じた。ずっとずっと座り込んでいて全身が凝り固まってしまっているように。命を吹き込まれたばかりの、生を得て動く事を知ったばかりの木偶人形のように。きっと傍目にはひどく不恰好な走り方で、私は必死になって光のもとへと走って行った。
走っている間にも無情に日は暮れてゆき、じわじわと空気が薄青く染まっていく。私は水の中を走るように、手で空気をかけ分けるようにして滅茶苦茶に走り続けた。その間にも、目指す光はどんどん弱まっていくようだった。
ようやく弱々しい光のもとへとたどり着いた時には、空は既に夕闇に支配されていた。薄青い空気の中のかすかな光を頼りにようやくたどり着いた場所で、私は言葉を失った。
宝石の花畑は跡形もなく消えていた。
遠くから光と見えたのは、粉々に砕けた宝石の花たちだった。
無数の小さな宝石の花たちは無残に割れて、砕けて、赤茶けた砂にまみれて地面に散らばっている。私が呆然と見ている間にも、それらは水が地面にしみこむように、氷が日差しの下で溶けゆくように、みるみるその煌めきを失って、跡形もなくなった。あとにはただ、乾いてひび割れた赤い大地だけが、元から美しいものなど何一つとしてなかったような顔をして広がっていた。
そして、ようやく盛りに至り、燦然と輝いて咲き誇っているはずの私の夢の花は、いまや茶褐色に萎れて枯れ落ちていた。私はそれを、惚けたように立ち尽くして唖然と見つめていた。
やがて、夢の花が枯れてしまったのだという事実が、じわりじわりと頭に染み込んできた。それに伴うようにして、私の胸は今まで経験したこともなく、これからたとえ何百年生きたとしても経験することのないような感情に埋め尽くされていった。
それは悲しいとか惜しいとか、そういったありふれた言葉では括れない思いだった。絶望だとか喪失感だとか、そんな現実の言葉では到底言い表すことのできない感情だった。
自分の手足を失くしても、家族を喪っても、親友に裏切られても、恋人が誰かに殺されても。そうした全ての悲劇がいちどきに襲ってきたとしても、その悲哀は今この夢の中で私の胸を貫いている痛みほどには、きっと私を苦しめることはできない。
全身から力が抜けて、私はいつの間にかその場にへたり込んでいた。へたり込んで、涙を流して泣いていた。
私の涙は乾いた大地の上で水溜りを作り、いつの間にか『不思議の国のアリス』のように池になっていた。気づいたときには涙の池は、この枯れてしまった夢の花が作り上げた宝石の泉と同じくらいの大きさになっていた。
けれど泉の中心で誇らかに咲く私の花は、もう世界中のすべての夢と現実をくまなく探してもどこにもない。私の水と命とを糧に、私だけのために咲くあの花は、散ってしまってもう取り戻せない。涙の池の只中に座り込んで、私はただ泣き続ける事しかできなかった。
夕闇が夜の暗闇に取って代わられ、月のない夜が頭上に広がっても、私の涙は涸れる事を知らなかった。泣いても泣いても止まらない涙を流しながら、私はひたすら泣き続けていた。
そうやって、どれほどのあいだ座り込んでいただろう。止まらない涙をこする手に、ふっと何か、肌でも髪でもないものが触れた。
何だろう。
泣いて泣いて涙も涸れ果てよと泣いてぼうっと熱くなっている頭に、疑問だけがあぶくのようにぽかりと浮かび上がった。私は何も考えずに、ただその疑念が導くままに、のろのろと自分を取り巻く涙の池を覗き込んだ。
ちょうど耳の上に花飾りを挿したような具合で、私の左耳の上で一輪の花が咲いていた。
いつの間に、こんな花が?
驚いた拍子に涙も止まった。涙の池に両手をつき、顔を水面に寄せてまじまじと覗き込む。呼吸が水面を揺らしてしまわないように息をつめて、私はじっとその花を見つめた。
散ってしまった夢の花の百分の一も美しくない、現実のありふれた花ほども美しくない、ただ花弁が多いばかりがとりえのような花だった。なのに、なぜか心を惹きつけられるような気がして、目が離せなくなった。
花から指で茎をたどっていくと、その花は私の右耳の裏辺りから生えていて、頭に沿って茎を伸ばしてきているようだった。
目を真っ赤に泣き腫らし、何日も入浴していないべたつく髪をした私には似合いの、みすぼらしいとすら言えるような一輪の花。けれど、それはなぜか酷く愛おしかった。こんな花がなぜこんなにも愛おしいのかと自分でも不思議で、水鏡に映った自分と花とをまじまじと見た。そして、気づいた。
椿のような薔薇のような、幾重にも花弁の重なり合った花。その花弁の一つ一つに、私のこれまで生きてきた人生と、私のこれまでに書いてきた小説が映っていた。
ある花弁では、まだ小学校に上がったばかりの私が砂場で泥団子作りに熱中していた。また別の花弁では、私の小説の主人公が人のいない砂浜で凪いだ海を眺めていた。また別の花弁では、まだ仕事への熱意と希望に満ちていた新入社員の私が張り切った表情で研修に臨んでいた。また別の花弁では、私の小説の主人公が真っ赤なドラゴンの背中で心地よさそうに風を浴びていた。また別の花弁では、大学生の私が自分の小説を大いにけなした先輩に食って掛かっていた。また別の花弁では私が幼い頃に住んでいた社宅がそびえていて、また別の花弁では私の小説の登場人物が小劇団の開演をわくわくと待ち望んでいて、私が一人で旅した温泉が湯煙を上げていて、登場人物が暮らす寄宿学校で少女が笑いながら振り向いて、私の訪れた文学館や美術館がいくつも浮かんでは消えて、登場人物ががらんとした水族館で募金箱に千円札を押し込んだ。その花の中に、私の経験と記憶と想像が全て写し取られていた。
今ここに一輪だけ咲いているこの花は、私の中から生まれた、私の人生の全てを注がれて咲いた、私にしか咲かせられなかった花だった。これが、私が咲かせた、私の夢の花を見捨ててまで私が咲かせた、私の小説の種子だった。
そうか、だからこんなに愛おしいんだ。
ゴルフボールがカップに落ちるように、私はすとんと納得した。それはあまりにも単純で、明快な答えだった。
枯れてしまった夢の花は私の理想の具現のような、美の結晶のように美しい存在だったから、それゆえに私はあの花に惹きつけられた。眩しい光に吸い寄せられる蛾のように、甘い蜜に招きよせられる蝶のように。それが生まれ落ちることに私はちっとも関与していなくて、私はただその花に養分を与えるだけの存在だった。
けれど今ここにあるこの花は、私から生まれた私自身の一部だ。私が私自身を決して赦せないほど嫌いになるまでは、私はこの花を憎めない。私が私を憎むまで、私は自分の意思にかかわらずこの花を愛し続けてしまう。
それは仕方のないことなのだ。私の夢の花が枯れてしまったのも、私が夢の花を枯らしてしまうほど私の小説の花に全てを注ぎ込んでしまったのも、私の小説の花を私が引きちぎってしまえないのも、私の夢の花が二度と取り戻せないのも。
全ては泣いても喚いてもどうしようもない、詮無いことなのだ。
夢を見ながら本当に泣いていたらしく、枕は日干しの最中に通り雨にあってしまったかのようにぐっしょりと濡れていた。
まだ涙の残る潤んだ眼でそれを見下ろし、大泣きに泣いた後の熱を持った頭をぼんやりとめぐらせる。見るとも無しに時計を見て、カレンダーを見て、やっと今日が平日の月曜日だと思い出した。
とたんにはっきりし始めた頭で、慌ててもう一度時計を見る。デジタルのそっけない文字は無情にも、始業時間まであと十五分もないことを突きつけてくる。
どうあがいても間に合わないので、諦めて半休を取ろうと気持ちを切り替えた。とりあえず顔を洗おうと、のそのそとベッドから這い出す。寝起きのせいかまともに食事していないせいか、足元がふらついた。
ふらふらと洗面所に辿り着き、鏡を見る前にまず深呼吸をする。努めて心を落ち着けてから、私は覚悟を決めて鏡を覗き込んだ。
「うっわ」
入念な心の準備にもかかわらず、思わずうめき声を上げてしまった。それほどすさまじい、この世のものとも思えない面相が、鏡の中から愕然として私を見返していた。
連日の寝不足でできた隈はまだ取れていない上に、目は泣き腫れて真っ赤になっている。ついでに、ろくに食事を取っていなかったので髪と肌には艶がない。総括して言えば、これまでに見てきたありとあらゆる鏡像の中でも群を抜いて化け物じみた私が、鏡に映っている。今後何十年生きてどんな目にあっても、記録更新は難しいだろう。少し痩せたかもしれないのは、ダイエットに成功したのだと思い込めば唯一の吉報だ。
しばし愕然と鏡に見入ってから、始業時間が近いのを思い出して慌てて顔を洗う。一口水を飲んで喉を潤してから、職場に電話をかけた。
泣きに泣いたためか掠れる声で体調不良による午前中の有給休暇を願い出ると、上司は即答で「少なくとも、今日は一日休みなさい」と返してくる。金曜日の貧血が、かなり強い印象を残したらしい。
ありがたく丸一日の休暇を頂いた私は、まず何をしようかとしばし思い悩んだ。そして、とりあえず久々に感じた空腹感をなだめようと、冷蔵庫を開けた。
もう、喉の渇きは収まっていた。
食事をして入浴して、久しぶりに夢を見ずに泥のように眠った。目覚めてみると、疲労がさっぱりと拭われていた。おそるおそる鏡を覗いたが、隈や顔色もだいぶましになっている。
火曜日から私は出勤した。「金曜日はご迷惑をおかけしました」とセンター中に謝罪行脚し、そのたびに「これからは自己管理をしっかりね」といったお叱りのような気遣いのような言葉を頂いて頭を下げ、カスタマーセンターの職員全員にそれを済ませたところでちょうど始業のベルが鳴った。
私は無気力になるでもなく、自暴自棄になるでもなく、体を壊すわけでもなく、ただ淡々と日常へ戻っていった。花が盛りに近づいていくのを見つめ続ける夢を見始める前の、朝には起きて、出勤して、仕事をして、時には上司や先輩やお客様に叱られたり怒鳴られたりして、夜には家に帰って、食事をして、入浴をして、眠りにつく生活へ。
夢の花と引き換えのように咲いた私の物語は、文学賞に応募されるでもなく、誰かに読んで批評してもらうでもなく、ただ私のパソコンと机の中で眠っている。
ただ、丸きり以前のままかというと、そういうわけでもなかった。
職場でばたんと倒れたのが思う以上に課の面々に衝撃を与えたらしく、前ほどには「さっさと電話を取りなさい」「だって貴女はどうせ暇でしょう?」という圧力が掛からなくなった。いや、もしかしたら控えめながらも圧力は掛かっているのかもしれないが、それを気にせずにいられる図太さを、風に揺れる柳のようにしれっと受け流すしたたかさを、私が身につけたようにも思える。
以前のようには、電話で罵倒されようが嫌味をねちねちと言われようが気にならなくなった。それゆえにわざわざ落ち込んで事務作業の能率が落ちることもなく、以前ほど頻繁には気分直しの休憩を必要としなくなった。おかげで朝に頼まれた仕事を午前中に仕上げることも容易くなり、上司からは「倒れて心配したけど、おかげで自分のペースが固まったみたいじゃないか」とお褒めの言葉らしきものを頂戴した。
本当は「倒れたために」自分の限界やペースを把握できたのではないことは、私だけが知っている。本当の理由は別にあるのだということは、世界中で私一人が知っている。
罵倒されているとき、嫌味を言われているとき、叱られているとき。表面上は殊勝気にしおれている私の脳裏には、いつも二輪の花が揺れているのだ。枯れてしまった美しい夢の花が、私の全てを受け止めて咲いた私の小説の花が、確かに私の記憶の中にあるから、今日も私は生きていられる。
受話器を置いて、私はすがすがしい気分で水筒に手を伸ばした。ほうじ茶を一気に飲み干したが、まだ渇きが収まらない。給湯室へ行くため、私は席を立った。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
紺碧の眠り
水笛流羽(みずぶえ・るう)
ライト文芸
・現代舞台
・社会人女性の視点
・男女恋愛の要素あり
・メリーバッドエンド
遠距離交際を七年近く続けた恋人と別れた「私」は今、その後すぐに見合いで出会った相手と結婚の準備を進めている。そのことにうっすらと罪悪感を覚えながらも、以前と変わらない日常を送り続けることしか「私」にはできない。そんな「私」が折に触れて見る、紺碧の海の不思議な夢の物語。
アルカトラズの花束
水笛流羽(みずぶえ・るう)
ライト文芸
・男女恋愛(モラハラ)の要素あり
・社会人女性の視点
・現代舞台(日常描写少なめ)
・夢の話がメイン
・解釈の分かれる結末
アメリカ旅行から帰国して以来、「私」は監獄アルカトラズにまつわる夢を繰り返し見ている。心地良いとは言えないその夢も、それ以前に見続けてた悪夢よりはだいぶマシだと「私」には思えていた。やがて悪夢の中で虜囚としてアルカトラズに囚われても、それは「私」にとっては悪夢ではなかった。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる