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花の盛るを夢に見て4

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 荒野は夜の静かな闇に沈んでいた。空には爪の先ほどの儚い月が掛かり、藍色の夜空には砂金でもぶちまけたように無数の星が一面に散らばっている。今にもか弱げな月が自身を支えきれなくなって墜ちてきそうな、今にも星々が空に反旗を翻していちどきに地上を目指して降り注いできそうな、そんな空だった。
 星の降りそうな空の下で、私はひたすらに私の夢の花だけを見つめていた。
 起きている間は、今夜こそあの花を折ってしまわなければならないと思っている。手足に絡み付いている根を振り払い、引きちぎってしまおうと思っている。今日の夢でこそは花を折り取って赤茶けた大地に投げ捨ててしまおうと、眠りに就くまでは思っているのだ。
 なのにひとたび眠りに落ちて、赤い荒野で花と向かい合ってしまうと、私はもう何もできなくなる。ようやく綻び始めたつぼみから溢れる濃厚な香りに酔いしれて、まだ僅かに見えるばかりのあまりにも美しい色に目を奪われて、何も考えられなくなる。魂を抜かれでもしたかのようにただ陶然とそのつぼみと向かい合ったままに時を過ごして、夢見心地のままに朝を迎える。それを、もう何夜繰り返しただろう。
 花は私の目線の先で、満天の星空を背にして澄ましこんで立っている。星空を見るとも無しに眼に映しているうちに、サン・テグジュペリの『星の王子さま』を思い出した。小さな王子さまと、彼が愛し、彼の星に残して彼が旅立ち、そして最後にまた再会しただろう、彼のバラの花を思い出した。
 きっと星の王子さまが愛したバラの花にも劣らぬほど、今咲きかけているこの花は美しく馨しい。少なくとも、私にとっては。
 星の王子さまのバラは、彼にとってだけ特別な花。五千ものそっくり同じ色と香りのバラの花よりもなお、彼にとっては尊い一輪だけの花。王子さまが水をかけてやり、覆いガラスをかけてやり、ケムシを殺してやり、不平も自慢話も聞いてやり、黙っていればどうしたのかと聞き耳を立ててやった花。彼だけのもので、彼の星で芽吹き、彼だけのために花開き、彼だけのために彼の星を甘い香りで満たす花。
 まだ咲ききらぬこの花がこんなにも美しいのは、こんなにも私が心を惹かれるのは、この花は私にとっての「星の王子さまのバラの花」になれるから。私しかいない私の夢の荒野に芽吹き、私に根を絡ませ、私のなかの水を貪欲に吸い上げて、私だけのために咲こうとしている花だから。私だけの花として咲く花だから。
 モモの見た時間の花々のように、一瞬ごとにこの世のどんな花よりも美しくなり続ける。星の王子さまの愛したバラのように、私だけのために咲く。私の、私だけの、恐ろしくも愛おしい夢の花。
 深々と息を吸い込むと、濃厚で芳醇な香りが肺を満たす。脳の芯が蕩けるような甘美さにうっとりと浸りながら、未だ咲かない花を見つめる。
 そよりと遠慮深げな風が吹き、花は僅かに揺れた。開きかけたつぼみから、星屑のような花粉が僅かに零れた。

 目覚めても、夢の余韻は私を捉えて離さない。
 切実な喉の渇きを感じながらも、天井を映す目には夢の花の美しい色がちらつき、鼻の奥には夢の花の甘い濃厚な香りが残っている。それらは私の脳から、起き上がって生活に戻ろうとする気力を奪い、夢の荒野へ私を引き戻そうとする。
 遅刻寸前まで布団に包まって、夢の花をうっとりと思い出す日々が続く。結果として、私は毎朝朝食を抜いて出勤することが習慣化し始めた。
 にも拘らず、なぜか食欲は昼になっても沸かなかった。食堂に行ってみても油や香辛料の匂いがやけに鼻について、食べる前から吐きそうになる。仕方がないのでコンビニでおにぎりやパンを買ってもそもそと口に押し込むか、昼食自体も抜いてしまうかの二者択一になりつつある。 
 市役所の食堂へは、このところ足が遠のいている。水中毒の可能性をまた指摘されるのが怖くて、私はずっとフユナを避けている。
 食欲も空腹感もないのに渇きだけがますます酷くなる一方で、どれほど水を飲んでも満たされない。一時間に一度は席を立って給湯室へ向かい、ポット型浄水器から水を汲んでくる。ろくに食事をしていないせいか、立ち上がるたびに軽い立ちくらみがする。
 そのうち貧血で倒れそうだと思いながらも、どこから生活改善に着手すればよいのかさえ、私にはもはや分からなかった。
 破綻しそうな現実生活を送りながら、頭の片隅はいつも夢の荒野で咲く花を思い出していた。

 荒野は静かな夕闇に包まれていた。薄紫色をした音のない大気が、荒野中を満たしている。
 私の花は前の夜よりも少しだけつぼみを開き、けれども満開には程遠い。それでもなお、その形は、色は、香りは、この世のどんな花よりも美しかった。
 ふと見下ろすと、私の全身は赤茶けた砂に塗れていた。きっと、顔も髪も同じだろう。拭い落とそうとも振り払おうとも思わず、ただ腕をまじまじと見た。地面と全く同じ色になったその腕は、どこまでが服でどこからが素肌なのかも分からない。
 この砂の層の下に私の皮膚があり、肉があり、骨があるだなどと、到底信じられない。私の腕は、体は、この砂の皮膜の下で、この赤い大地と同化してしまったのではないだろうか。私の全身はもう赤く乾いた土の人形になっているのではないだろうか。ためしに拳で地面を叩いてみれば、ぼろりと手首から欠けて落ちるのではないだろうか。
 まじまじと見ていた腕からふと地面に視線を落として、私は目を瞠った。
 まだ咲ききらぬ花から零れ出る色が、輝きが、芳香が、赤い大地の上で凝って小さな光の粒となっていた。腕に絡まる根を切らないように気をつけながら、きらきら光る粒をいくつか指先に押し付けて拾い上げた。
 それは砂粒のように小さな宝石に見えた。それも、ただの破片のように無骨に尖っていたり、アクセサリーにするために研磨された美しくも無機質な楕円形や多角形をしてはいない。私の花から生まれた無数の光の粒も、やはり一つ一つが花だった。雪の結晶ほどに小さく透明で、けれどそんな薄くて幾何学的な花ではない。きらきらと輝く花の一つ一つが、百合だとか薔薇だとか、睡蓮だとか桜だとか、そのほかにも私が名前を知らない数多の花々の形をしていた。
 アクアマリンの石楠花が、ガーネットの勿忘草が、エメラルドの菫が、サファイアの梅が、ほろりほろりと赤い大地の上に結晶していく。現実には存在しない色をした花々が、少しずつ少しずつ増えていく。降り注ぐ光を浴びて、きらきらと煌めきながら。
 また少しだけつぼみを開いた私の花へと、私は視線を戻した。その間にも、その後もずっと、視界の片隅で、宝石の花は絶え間なく増え続けていた。

 起きていても、ふとした拍子に思いはあの夢の花へと飛んでいく。
 嫌で嫌で仕方がなかった電話対応の間でさえも、応対が長引けば心はいつしか、あの夢の荒野に飛んでいる。脳裏には美しいつぼみが揺れて、その芳醇な香りを胸に吸い込んでいる。
機械的に「申し訳ありません」や「大変心苦しいのですが、お力になれません」や「大変恐縮ですが、ご要望にはお応えできかねます」やそれに類する数々の言葉を使い分けているうちに、相手は『もう良いよ!』と言って電話を叩き切るか、『上司に代われ!』と怒鳴りつけてくれる。
 今日もまた『お前じゃ駄目だ、上司に代われ!』と怒鳴りつけてくれた電話を保留にし、私はメモを片手に上司の机へ歩み寄った。以前ならば総身がぶるぶる震えて止まらなくなるほどのショックを感じただろう罵言だったが、今日はあっさりと右から左へ抜けていった。
 申し訳ありませんがと断って、電話の内容を要約して上司に伝える。煩わしげに眉を寄せながら聞いていた上司は、電話へ手を伸ばしながら叱りつけるように苦言を下さった。
「今日は仕方がないから代わるけどね。君、最近妙に上の空じゃないか。ちゃんとやってもらわないと困るよ」
 周りから見て分かるほど夢の花に意識を奪われていたのかと驚いたが、罪悪感はどこからも沸いてこなかった。保留になっている電話の向こうでお怒りのお客様にも伝わってしまったのかもしれないと思ったが、お客様に対しても、上司に対しても、胸のどこを探しても申し訳なさは出てこなかった。
 申し訳ありませんと謝罪してみせながらも、頭の片隅ではあの美しいつぼみの幻影がちらついている。それを見透かしているのだろう、上司が聞こえよがしなため息をついた。

  荒野は晴れ渡った青空の下に広がっていた。雲ひとつない空は明るいのに、なぜか太陽の姿は影も形もない。地上では私の夢の花が、地上の太陽のように誇らしげに背筋を伸ばしている。
 まだ咲ききっていないにもかかわらず、これ以上美しい花はまたとないと思える。これ以上美しい色や形に咲くことなどできはしないと。今見ているこの姿こそが具現化した究極の美の形なのだと。
 なのに夜が来てこうして夢で花と向かい合えば、それが昨夜よりもほんの少しだけ花弁を広げ、より一層輝くような美しさと香りの甘さを増していることに気づかされる。
 誇らかに咲ききるとき、この花はどれほど美しいのだろう。どんなに甘い香りがこの荒野を満たすのだろう。
 私の花から生れ落ちる無数の宝石の小花は、いつのまにか赤茶けた地面を覆い隠すほど降り積もり、私と花の足元にも周囲にも広がって、煌めく円形の舞台となっていた。
 それはまるで、細波一つなく凪いだ静かな泉のようだった。
 もしもこの私だけの荒野に迷い込んだ者がいて、私がこの花を求めて幾夜もさまよい歩いたように、渇きに取り憑かれ水に飢えてさまよっていたら。その人が地平のかなたにこの宝石の泉を見たら、きっと疲れも忘れてよろめく足で駆け寄ってくるだろう。天上のしずくのように甘美な水を、浴びるほど飲めるのだと歓喜して。
 自分も癒えない渇きを抱えたまま、私はそんなことを考えていた。私にとっては、渇きはもはや他人事でしかなかった。私にはもう、この花があるから。渇きに耐えるだけの価値のある、何を犠牲にしてもかまわないものがここにあるから。切望し渇望したものを、ここで見つけたから。
 宝石の泉には、温順な獣のようにうずくまって顔だけをもたげている、私の黒ずんだ影がぼんやりと映っている。そしてその傍に、私の花の美しい姿が、そっくりそのままの美しさで映りこんでいる。宝石の泉の水底に、もう一輪の同じ花があるかのように。
 自分の美しさを確認するために、鏡が欲しかったのか。それとも空から振る光だけでは物足りず、地面からも照り返す光を余さず受けたかったのか。なんと不遜で、貪欲で、傲慢なことだろう。この美しく愛しい私の花は。

 朝が来ても夢の余韻に心を奪われたまま、私の体は動かなかった。切実な喉の渇きに急かされてようやくずるずるとベッドから這い出し、体を引きずるようにして台所へ向かった。
 水をがぶがぶと飲んでも、渇きはやはり収まらない。コップに四杯目の水を飲み干したところで諦めた。
 珍しく少しだけ時間の余裕があった。朝食にヨーグルトをわずかに食べ、ふらふらと出勤の途につく。
 人ごみに揉まれながら出勤して、うまく働かない頭で仕事をする。何度も入力ミスをしては打ち直しながら、鳴り響く電話に機械的に応答しながら、頭の中ではずっと夢の花のことばかりを考えている。
 いつの間にか終業時間になっていたことに、ベルの音でようやく気づかされる。のろのろと片づけをして、また人波に揉まれながら帰宅した。
 このところ、料理をする気力が沸かない。おまけにコンビニやスーパーの弁当を一人分食べるほどの食欲もないので、夕飯はもっぱら生野菜とヨーグルトという簡素なメニューに固定されてきている。今日もまた、トマトと果物だけを買って帰宅した。 
 もそもそと食事を終えてから、テレビも点けていなかったことに気づいた。今になって点ける気にもなれなかったので、ただ窓の外からもれ聞こえる隣室のテレビの音に聞くとも無しに耳を傾ける。
 シャワーを浴び、髪を乾かすと、九時台だったが布団に入った。一秒でも早くあの夢の荒野へ戻りたかった。朝が無情に訪れる前に、一秒でも長く私の夢の花を見つめて痛かった。
 なかなかやってこない眠りをいらいらと待ち受ける。呼吸を数えることに集中しているうちに眠りが忍び寄ってきて、いつの間にか眠っていた。

 荒野は朝靄に包まれていた。朝の白々とした光が、赤く乾いた大地を照らしている。朝の日差しの中で私の夢の花は淑やかに立ち、その周りでは宝石の花々が舞台装置のようにきらきらと光っている。
 私の夢の花から生まれた宝石の花たちは、いつのまにか互いに結びつき、繋がりあい、空へと伸び上がり始めていた。私の夢の花ほどではないながらも、大きく美しい花々になり始めていた。
 様々な色が混ざり、透き通ってきらきら煌く花々は、私が立ち上がればその腰ぐらいまでは高さがあるだろう。座りこんだままの私の頭より少し上で、硬質な花弁は揺らぐこともなくじっと私を見下ろしている。
 私と私の夢の花を、宝石の花々が十重二十重に取り囲んでいる。私というたった一人の観客だけを擁する、丸い劇場のように。私という唯一の獲物を逃がさない為の、美しく輝く檻のように。
 美しい檻の中で、私はただ私の夢の花だけを見つめていた。副産物でしかない宝石の花園などはどうだってよかった。私にとって重要なのは、なかなか咲ききった姿を見せようとしてくれない、この意地悪くも美しい、たった一輪の花だけだった。
香りを持たない宝石の花が無数に咲き乱れる只中で、私の花の芳醇な香りに肺を満たして、私は夜が明けるまで私の夢の花と向かい合っていた。

 宝石の花畑が花盛りを迎えても、私の花はまだ咲ききらない。どのように咲こうかと勿体をつけているように。花自身も、自分の最も美しい姿を決めかねているように。
 いったいいつまで待てば、あの花は咲ききるのだろう。私は果たして、あの花の咲ききるのを見届けることができるのだろうか。
 機械的に事務作業に打ち込みながら、私は私の夢の花のことばかりを考えていた。打ち間違えてばかりいるので作業は遅々として進まないが、どうでもよかった。もうずっと喉に張り付いている渇きさえ、気にもならなかった。
 あの花が咲くのを見るためになら、この渇きにも耐えられる。私の中の水をひとしずくも余さず夢の花に吸い尽くされて、ミイラのように、あの荒野のように乾ききってしまっても、そのために死んでしまうとしても、惜しくはない。
 自殺願望など私にはないはずだけれど、ひたすら日常を繰り返して、成功だとか失敗だとか、昇進だとか転職だとか、恋愛だとか結婚だとか、そうしたものを通過したり掠りもしなかったりしながら、ただ漫然と年を重ねていくよりは、あの花の苗床となって今死んでしまうのも悪くない。そうしたライフステージの数々を切り捨てても、これまで漠然と描いていた人生設計を棒に振っても、あの花にはそれだけの価値があると今の私には思えた。
 私の命を吸い尽くして、私の中の荒野に花開く、私だけの、私のためだけの花。美しい死神のようなあの花に、私は全てを奉げて永い眠りに就くのだ。
 そんな美しい破滅の夢に、私はうっとりと浸っていた。だが不意に、心残りの片鱗のようなものが一つだけあることに気づいた。
 昔から読書が好きだった私の、かつて憧れた職業は小説家だった。高校では文芸部に入部し、拙い小説や詩を書き散らしていた。大学でも文芸サークルに所属しはしたが、自分に職業作家になるだけの文才がないことには気づいていた。だからほかの大多数の学生と同じように就職活動をして、就職して、今に至っている。
 書くことをやめた今でも、時折小説の構想が心に浮かぶことがある。けれど物語の種子とも呼べるようなそれらを育て、一つの完成した物語として咲かせてやるための水も栄養も、私には到底足りない。咲くことはおろか芽生えることすらできなかった無数の種子は、私の頭の片隅の小さな部屋で少しずつ少しずつ増え続けている。私では咲かせてやれないそれらの種子を捨ててしまうことも咲かせてくれそうな人に託すこともどちらもできないのは、諦めた夢への一抹の未練のためだろうか。
 そんな無数の種子が芽吹くことさえできずに眠り続けている中で、たった一つだけ、小さな小さな芽を出して葉を広げ始めている種子がある。私の中のありったけの水と養分を注いでその若葉を育てたところで、それを咲かせてやれるかなんてわからない。たとえ何とか咲かせてやれたとしても、それはあの夢の花の千分の一どころか億分の一も美しくはない、不恰好でみすぼらしい花だろう。
 けれども、数年ぶりに咲くことのできそうな種子に気づいたとき、その咲ききった姿を見たいと思ってしまったのだ。それはあの美しい夢の花を見たいという渇望と同じくらい強く、そして激しい望みだった。
 今まで忘れていたのが、忘れていられたのが不思議なほど、その種子の存在を思い出してしまうといてもたってもいられなくなった。その種子を残したままでこの世を去ることは耐え難いと、それは何よりもひどい冒涜だという気がした。
 いつの間にか止まっていた事務作業の手を注意される前に再開しながら、私は心に誓った。
 あの物語の種子を咲かせるまで、私は死ねない。
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