上 下
3 / 5

花の盛るを夢に見て3

しおりを挟む
 ようやく一週間が終わり、金曜日の夜になった。
 私は職場から二十分で帰れる自宅のアパートではなく、一時間半ほどを要する実家へ向かって電車に揺られていた。今日帰ることは先週のうちから決めて伝えてあったので、「あと三十分くらいで着きます」とだけメールを母に入れる。
 携帯電話をしまうと同時に文庫本を取り出したが、眼を活字の上に落としながらも頭では違うことを考えていた。何の気なしに「ようやく」一週間が終わったと考えている自分に気づいて、毎週末の恒例となりつつある自己嫌悪に襲われたからだ。
 一週間が終わった事に安堵している自分を発見し、恐怖する。何もしないまま、仕事と家事と息抜きだけに忙殺されて五日間が終わった。現状維持しかしていない。一歩も先に進んでいない。もしかしたら、退化すらしているのかもしれない。
 私はこのままずっと一週間ずつを重ねながら年を取って、何者にもなれずに死んでいくのだろうか。そう考えて、ぞっと背筋が寒くなった。
 それくらいならやはり、荒野で花の苗床になるほうが良いのではないだろうか。私よりは価値のある何かのために私を捧げることのほうが、このまま緩やかに死に向かっていくよりも。電車の中で人ごみに揉まれながら、電車を下りて歩きながら、そんな自殺願望に似た夢想を振り払うことができずにいた。
 月に一度は実家に顔を出している身だが、体裁上は一人暮らしをしている手前、実家の門を潜るに際して「ただいま」とも言いにくい。かといって、「お邪魔します」というにはこの家を知りすぎている。幾たびもの内なる葛藤の結果として、私の実家での第一声は非常に無難なものに落ち着いた。
「こんちはー」
「おかえりー」 
 私の内なる葛藤を知らない母は、ごくあっさりと返答を返してくれる。内心苦笑しながら「ただいま」と答えたところで、もう癒すことは諦めた渇きをまた自覚した。
 勝手を知り尽くしている台所を覗き込むと、麦茶専用になっている使い古した薬缶がコンロに掛かっている。アパートへは持っていかなかった自分のマグカップを食器棚から取り出し、氷をざらざらと入れて麦茶を流し込む。みるみるうちに氷が解け、氷に閉じ込められていた空気がしゅわしゅわとカップの表面に泡を浮かせる。
 氷が解けきるのを待たず、茶色に透き通った生ぬるい液体を喉に流し込んだ。味わいもせずに一気に半分以上を飲んで、ふうっと息を吐く。途端、喉元に突き上がるような不快感が胸を焼いた。
 舌に異様な味が突き刺さった。黴くさいような錆び付いたような、およそ麦茶とは思えない、得体の知れない異常な味がした。反射的に吐き戻しかけて無理に飲み込んだが、口の中にも喉にも粘りつくような不快な味がまとわりついている。
 慌てて水道でコップをゆすぎ、水道水を汲んで一息に飲み干した。いささか塩素臭い水道水はそれでも、液体の水晶のような清らかさで喉を流れ落ち、麦茶の奇妙で不快な後味を洗い流してくれた。
「なに、どうしたの水道水なんか飲んで。麦茶がそこにあるじゃない」
 見咎めた母が問いかけてくるが、それどころではない。私は逆に薬缶を指差して問い返した。
「この麦茶、いつ沸かしたの? 変な味がするよ」
「えー? さっき沸かしたばっかりよ?」
 母はそういうが、とてもそうは思えない味だった。腐った麦茶を飲んだことはないが、きっと今さっき感じたような味がするに違いない。だが、母は嘘を吐いているようには見えないし、嘘を吐く理由もない。ならばと私は問い返した。
「じゃあ、茶葉が古いんじゃないの?」
「今日開けたばっかりなのに? そんなに変な味だった?」
「そうだよ。すごい変な味」
「なに騒いでんの? 変って何が?」
 割り込んだのは二階から降りてきたらしい妹だった。怪訝そうに私と母を見比べ、首を傾げる。
「お姉ちゃん、この麦茶が変な味だって言うの。今日開けた茶葉で、さっき沸かしたばかりなのに」
「麦茶ぁ?」
 首をかしげた妹がコップを二つ取り出してきた。薬缶に手を伸ばし、少しずつ注いで一つを母に渡し、もう一つに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。そして、また首をかしげて少し口に含んだ。
 口の中で麦茶を転がしていた妹はやがてごくんと飲み下し、同じようにしていた母と顔を見合わせた。
「別に普通じゃない」
「ねえ」
 頷きあう母と妹を横目に見ながら、私はもう一度水道水を飲み干した。そんな私に母が眉をひそめる。
「お姉ちゃん、大丈夫? ろくなもの食べてなくて、舌がおかしくなってるんじゃない?」
「失礼な、ちゃんと肉も野菜も魚もバランスよく食べてるよ!」
 そんなやり取りをしたのが金曜の夕方だった。その週末の間中、私は麦茶以外の何なら飲めるのかを確かめることに、時間と手間を費やしては挫折した。
 ほうじ茶は炭のような匂いと、焦げついたような酷い苦味がした。緑茶は青臭くて野草でも噛んでいるかのようだった。紅茶はまるで泥水のようだった。元から苦手なコーヒーは試す気も起こらなかった。
 ハーブティーは一番酷かった。まるで人間の血でも混ざっているような、えもいわれぬ鉄くささとえぐみが舌を突き刺した。同時に共食いをしているような嫌悪感と背徳感が喉元から競りあがり、堪らず水道へかけていって吐き出した。
 牛乳もジュース類も、粘液のように喉にへばりついて息ができなくなりそうだった。実際に呼吸困難になりかけて、慌てて塩素臭い水道水を一気に飲み干して粘つく不快感を洗い流した。
 ミネラルウォーターが一番ましだった。それでも、砂利でも混ざっていたかのようなざらついた違和感が、口の中にずっと残っていた。

 週末の間中、夢の荒野はずっと青空だった。
 ひりひりと焦げ付くような陽光の中で、か弱げな花は強い光にも物怖じせずに立っていた。私はつぼみから零れる甘い香りを吸い込みながら、ただうっとりとその美しい姿を見つめていた。
 荒野は乾ききっていて、最近では夢の中でも感じるようになっている渇きがひりひりと喉を締め付けている。それも気にならないほどに、その花の色は、香りは美しかった。
 まだ少しだけしか開いていないつぼみからは、目の覚めるような美しい色が垣間見える。どんな美酒よりも頭の芯を蕩けさせる馨しい香りが、あたり一面に漂っていた。
『これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です!』
 眠りに落ちる前に読むとも無しに読んでいた、ミヒャエル・エンデの『モモ』のその一節が、頭の片隅でふわふわとゆれていた。
 モモがマイスター・ホラの不思議な館で見た「時間の花」たちは、艶やかで馨しい花が咲いては散り、同時により美しい花がまた花開く。それをきっと永遠に繰り返す。
 だがこの荒野で咲くこの私の花は、たった一輪で、まだ咲ききってもいないというのに、きっとどの「時間の花」よりも美しい。一秒ごとに美しく、艶やかに、華やかに、その姿を変えていく。
 その奇跡の花を自分だけが見つめているのだという満足感が、その花が私の独占に甘んじているのだという喜びが、甘い甘い香りとともに私に心地よい酩酊を与えてくれていた。
 何かが足先に触れたような気がしたが、初めは気にも留めなかった。だがだんだんとくすぐったい様な感触が強まっていき、私はしぶしぶ視線を花から引き剥がして足元を見た。
 膝を抱えて座る私のはだしの足に、地面から延びてきた細い糸のようなものが絡みつき始めていた。茶色い、乾いた、枝分かれした、細い細い糸だった。
 何だろう?
 指先で触ってみる。と、目の前の花が風もないのに揺らいで香りと花粉を振り零した。ぶわりと強まった香りにまたうっとりとしながら、私はそれが何なのかを理解した。
 これは根だ。
 この細い糸のようなものは、この花の根の先なのだ。この乾ききった大地にはない水分と養分を私から得るために、地面を通ってこの花が差し伸べてきた根なのだ。
 引きちぎってしまうこともできたが、なぜだかその気にはなれなかった。私は根から手を離すと、また膝を抱えなおして、再び花に見とれ始めた。
 そんな私の足をまた少しだけ、糸のように細い根が這い上がってきた。

 喉の渇きが一向に収まらない。
 週明けに出勤し、事務仕事に打ち込みながら、私は人知れず渇きと戦っていた。水を飲んでも飲んでも渇きが収まらないので、いっそ限界まで飲まずに耐えてみる作戦だ。
 それでもとうとう渇きに白旗を挙げることにし、水筒に手を伸ばした。このところほうじ茶に異様な味を感じるので、中身は湯冷ましだ。
 一気に水筒の中身を飲み干してしまったが、渇きは相変わらず喉に張り付いている。諦めの念とともに、水筒を持って給湯室へ向かった。
 いつものように電気ポットからお湯をもらうつもりだったが、給湯室には見慣れないものがおかれていた。誰が持ってきたのか、ポット型の浄水器だ。ご丁寧に「全課共用」とマジックで書いてくれてある。
 いつものように水道水でもよかったが、せっかくなので浄水器を使わせてもらうことにした。水道から水を汲み、浄水されているのを待つ間に水筒を洗う。ポット内部の漏斗状の浄水装置を通った水を水筒に移し変えた。
 渇きが癒えることは期待せずに一口飲む。そして驚いた。
 いつだったか家族旅行で訪れた北海道の利尻島では、「甘露泉水」と呼ばれる湧き水を数箇所で汲み、飲むことができた。日本の名水百選にも指定されているというこの湧き水がテレビ番組で紹介されたときには、口に入れた芸能人が「シロップみたい!」と感嘆していた。それほどまでに透き通ってまろやかで、微かに甘いような、甘露の名にふさわしい水だったことを覚えている。
 ただ浄水ポットを通しただけの水道水のはずのこの水は、その甘露泉水もかくやというほどの甘美さで私を潤した。ここ数日の間ずっと、癒えることなく私にまとわりついて離れなかった渇きが、お湯に浮かべた氷が瞬く間に解けるようにすうっと消えていく。
 久々に渇きから解放された私は、足取りも軽く仕事に戻った。帰りに同じ浄水ポットを買って帰ろうと心に決めて席に戻ってみると、パソコンのスクリーンセイバーが起動していた。黒い画面に花のような線状の模様が踊っている。
 それを見て、また夢の花を思い出した。この世のどんな花より美しく馨しい、あの花を。
 事務仕事に戻っていきながらも、頭の半分は夢の花にとらわれたままだった。そのせいで電話が鳴っているのに気づくのが遅れてしまい、しぶしぶ電話に手を伸ばしている先輩の背中を見てやっと電話の音に気づいた。
「はい、カスタマーセンターのシブヤです」
 慌てて私も電話に手を伸ばすが時既に遅く、入社十年目のその先輩は滑らかな口調で話し始めていた。電話にかけていた手を戻すと、隣に座る教育担当の先輩からすかさず注意という名の苦言が飛んできた。
「ねえ、もっと早く電話に出ようね。シブヤさんは忙しいんだから」
 うっかりして他の人に電話に出てもらうたびに言われる、耳にとっくにたこができているような言葉。私は殊勝に頷いてみせながら、いつもと違って何の感情も浮かんでこない自分を発見して驚いていた。
 いつもならば口や態度には出さずとも、『じゃあ、シブヤさんよりは暇なあなたが出れば良いのに』と内心で苛立っている。もっと気分が落ち込んでいるときならば、見せ掛けばかりではなく心から自分の注意力不足を反省してしまい、よりいっそう落ち込んでいる。それが今日は、先輩の苦言はそよ風のようにするりと通り過ぎた。脳裏をちらつく夢の花に、意識を取られているためだろうか。
 風と言えば、あの花を見つけて以来、あの夢の荒野には風らしい風が吹いていない。私の夢の花が咲く荒野はいつだってそよ風一つなく、時が止まったように動かない。まるで空気さえもあの花に遠慮し、間違っても傷つけてしまわないように神経を尖らせているかのように。
「まあ、そまで落ち込まなくても良いけど。次から気をつけてね。」
 じっと書類に眼を落としたまま動かない、より正確には夢の花のことを考えたまま動かない私の姿をどう解釈したものか、先輩は珍しくフォローらしき言葉をかけてくれた。顔を上げて「ありがとうございます」と気弱げに笑って見せながら、私はまた夢に咲く美しい花を思い出していた。

 午前の業務の終了を知らせるチャイムが鳴り渡り、私はため息をつきながら伸びをした。午前中に出た電話には「大ハズレ」がなかったので書類仕事が実に捗ったが、その分だけ少々肩が凝った。
 今日の昼食は、どうしようかとしばし考えたが、結局すぐ近くの市役所の食堂で摂ることにした。
 どこに席を取ろうかとうろうろしていると、聞き覚えのある声に呼ばれた。振り返ると、同じ会社の同期で営業部に所属するフユナが、二つ先のテーブルについて控えめに手を挙げている。
「ここでお昼?」
「うん。よかったら一緒に食べようよ」
 かなり込み合っている食堂で、フユナの申し出はありがたかった。お言葉に甘えて、フユナの前に腰を下ろす。
「最近営業部はどう?」
「まあまあかな。残業はあまりしないで帰れてるよ」
「あ、うちも同じだ。」
 そんなとりとめのない会話をしながら、各テーブルに置かれているポットを引き寄せてコップに水を注ぐ。フユナにもすすめたが、「ううん、ありがとう。」と断られた。
 フユナは営業部と言ってもセールスに直接携わっているわけではなく、セールスやPRのための資料作成をする営業支援課に所属している。私から営業部へ電話を回す時には大抵フユナが電話口に出るので、他の同期入社社員達よりも声を聞く機会は多かった。
 フユナも私もお世辞にも話し上手なタイプでも弁の立つほうでもないので、ふと話が途切れるとそのまま私たちの間には沈黙が下りてしまう。けれどなぜかその沈黙が気詰まりではなく、むしろほっとするような雰囲気をフユナは持っていた。
「……ねえ、さっきから水の飲みすぎだよ。ミズチュウドクになっちゃうよ?」
 もう八回目のおかわりをしようとポットに手を伸ばしたところで、フユナが控えめに言った。
「ミズチュウドク? って何?」
「私もあんまり詳しくないけど、水の飲みすぎでなる急性の病気だって。体の中で塩分と水分のバランスが取れなくなると起こる症状で、痙攣したり気絶したり」 
 詳しくないと断りながら、十分すぎるほど詳しい気がする。そんな思いが顔に出たのか、フユナは言い訳がましく「大学の保健体育みたいな授業でちらっと聞いたの。それだけ」と補足した。
「そんなのあるんだね。知らなかった」
「目安がどのくらいかは覚えてないから、気にしすぎかもしれないけど。その調子で一日中飲んでたら、危ないかも」
 はい、飲んでます。などと、馬鹿正直に答えるわけもいかない。私の何食わぬ笑顔が引きつりそうになったところで、フユナが時計を見た。
「そろそろ戻ろうか」
「あー、そうだね」
 フユナと連れ立って会社へ戻り、歯磨きは自分のフロアでするという彼女とは階段で別れた。持ってきていた歯磨きセットで歯を磨いてからカスタマーセンターへ戻る。
 水筒に水を補充してきても、午後の始業時刻まで数分あった。パソコンを見るとも無しに眺めているうちにふと思いつき、なぜかずっと頭の隅に引っかかっている「ミズチュウドク」という言葉を検索してみる。
 キーボードを叩いて「みずちゅうどく」と打ち込み変換すると、「水中毒」の字が画面に表示された。字面だけ見るとつい「すいちゅうどく」と読んで、大洋汚染関連の用語かと思ってしまいそうだ。
 検索をかけ、一番最初に出てきた検索結果を開いてざっと読む。
 フユナの言ったとおり、過剰の水分摂取によって生じる急性の症状だと書かれていた。人間の腎臓が持つ利尿速度を超えて水分を摂取することにより、体内の水分が過剰になって細胞が膨らみ、低ナトリウム血症や痙攣を引き起こすという。
 精神疾患に対して出される薬によくある副作用として喉の渇きがあり、そのため精神障害のある人が引き起こしやすい症状だとあった。そういえば、フユナの大学での専攻は障害者支援だったと聞いたことがある。おそらく授業で聞いた以外にも、卒業論文の関連文献で読みでもしたのだろう。
 深く考えるのが怖いので、自分の飲水量を量ってみる気にはなれなかった。折りしも午後の始業を知らせるベルが鳴ったので、これ幸いと仕事に頭を切り替えた。そのつもりだった。
 読んでいた記事を閉じようとしたところで、画面の端にあった広告に眼がいった。桜色をした花の写真だった。いつもならそこで夢の花を思い出してうっとりとするはずだったが、今日はそうはならなかった。代わりに、雷に打たれたような衝撃とともにある考えが閃いた。
 この渇きは、あの夢の花のせいなのではないのか?
 夢の花に根を巻きつけられ、水分と養分を奪われ続けているから、あの花が寄生植物のように私から水を奪っているから。だから、水中毒になりそうなほど水を飲んでも渇いて渇いて仕方がないのではないだろうか。
 まさかそんな非現実的なことはあるまいと、笑い飛ばそうとする私がいる。けれど一方では、それが真実だと確信している私がいた。
 確かめるのは、簡単だ。
 今夜もきっと、私は夢の中であの花と向かい合う。そのときに、いまや足から這い上がって膝や腕にも巻きついている根を引き千切ってしまえばいいのだ。あの脆弱な根は、私が立ち上がるか、身を捻るかしただけで容易くぶちぶちと切れてしまうだろう。いや、いっそ夢の花に手を伸ばし、あの細い茎を折ってしまってもいい。
 それで渇きが収まればよし。収まらなくても、たかが夢の中のことだ。現実には何の影響もないことだ。ごく簡単なことだ。
 そう。簡単なことのはずだったのだ。
しおりを挟む

処理中です...