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花の盛るを夢に見て2

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 今夜の荒野は夕焼けだった。「あかねいろ」などという優しげな呼び方では到底言い表せない、もっと陰惨で凄絶な色が、見渡す限りに満ちている。前を向いても、くるりとその場で一周してみても、どこを向いても世界はひたすらに赤かった。夕陽はぱっくりと口を開けた生々しい傷のように鮮烈に赤く、止まらない血が溢れるように赤光が空と大地を染め上げる。
 探さなくちゃ。
 世界の終わりのようなその光景に圧倒されて立ち尽くしていると、頭の片隅で理性のようなものが囁いた。いや、何を探しているのかも分からないまま歩いているのだから、そんな非合理的なことを命ずるのだから、それはむしろ本能の声なのかもしれない。
 どちらにせよ、私のするべきことは、できることは変わらない。私はまた、ちょうど自分が向いていたほうへと歩き始めた。
 何かを探すために。何なのか分からない、色も形も大きさも分からない、本当に存在するかも分からない、けれど生き延びるために水を求めるような、そんな切実さで求めているものを探すために。

「私、今週も土曜出勤なんだあ。これで三週連続だよ~」
 無意識にか些かの自慢げな響きを伴って、総務課に所属するハルカが言った。肉野菜炒めがメインのB定食を前に割り箸を割る表情には、言葉の内容とは裏腹にさしたる翳りはない。
「うちも、うちも。課総出で、仲良く土曜出勤。出かける約束、日曜にしといてよかったよ」
 同じような調子で、法務課所属のナツミが言った。こちらはたぬきそばの丼を前に、テーブルの端の七味唐辛子の小瓶へ手を伸ばしている。彼女もやはり、多忙を誇るようなまなざしをしている。二人とも浪人も留年もしていないので、年齢も私と同じだ。
 二人の視線が集中し、私は渋々口を開いた。
「うちの部署は、土日の出勤はないかなー」
「へー、いいねー。残業してる?」
 間髪入れずに問いかけが返ってくる。この後の話の流れがよく分かっている私は、内心辟易しながらもおとなしく返事を返した。
「時々、八時くらいまで」
「ええ、それだけー? うちなんか毎日十時までが基本だよ?」
「うちの課もそうだよー。八時までなんて残業のうちに入らないってー」
 ねー? と「多忙な課コンビ」は顔を見合わせて笑い合う。これほどに多忙を極める部署へ入社して早々に配属された自分たちは将来有望と期待されているのだと、疑いなく信じ込んでいる笑みだった。
 社内食堂で偶然一緒になってしまったからこうして共に食卓を囲んでいるが、私はこの二人の同期達のことが苦手だ。嫌いとまでは言い切れないが、あまり好きではないとは言える。さすがに本人たちを前にはおくびにも出さないし、社内の誰にも洩らしはしないが。
 彼女たち二人の所属している課はいずれも会社経営の根幹を為す、重要な部署ではあるだろう。裁量が大きく責任の重い、将来を嘱望される職員なら一度は経験するような部署ではあるだろう。特に今は両方の課の繁忙期と重なっていているから、毎晩の残業や毎週の土曜出勤が恒例となるほど忙しくもあるだろう。
 だが、ハルカとナツミの感じているであろう疲労と私の疲労とは、全く別種のものなのだ。私を日々打ちのめし疲弊させているのは、彼女らがやっているような多量の事務業務や法律・制度との頭脳戦ではない。製品を購入し使用した結果生じた不満をぶつけてくる、顔の見えない無数の「お客様」の方々の心無いお言葉なのだ。
「いいよねー、残業も少なくて土日にもちゃんと休めるところは。私も次の異動先、カスタマーセンターがいいなあ」
「本当よねー。今の課って自分の時間取れなくてさあ。あー、やだやだ。秋の異動希望調査で、カスタマーセンターって書いて出そうかなあ」
 私の物思いには気づかず、誇らかな声で二人は笑いさざめいている。本人たちも気づいていない、無意識的な心地よい優越感に浸りながら。
『お好きにどうぞ。配属されてから泣いても知らないよ』
 そんな底意地の悪い本音は胸の奥にしまいこみ、私は顔でだけはニコニコと薄っぺらく笑っていた。そんな私に興味をなくしたように、ナツミが不意に声のトーンを落とした。
「ね、ね。それよりさ。知ってる? 開発部のカツシカ主任と、広報課のアラカワ先輩のこと」
「え、アラカワさんって、去年まで開発部だった人でしょ? 何々、どうしたの?」
 食いついたのはもちろん私ではなくハルカだ。早くもゴシップの気配を感じて、眼が爛々と光っている。
「言わなくても分かるでしょ? してるんだって」
「だってカツシカ主任て、奥さんも子供さんもいるじゃない。しかも社内結婚」
「だ、か、ら。そこは察してよ。だからさあ……」
 ふ・り・ん。とナツミが口の動きだけで言った。それに応えて、きゃあ、と言ったのはもちろんハルカ。
「うっそー、冗談でしょ?」
「ほんと、ほんと。なんたって、うちの課のナカノ先輩が見ちゃったんだもんね」
 入社五年目の先輩から仕入れたと言う目撃談、腕を組んで仲睦まじげにホテル街へ向かっていたと言う話を興味津々で聞いているハルカの横で、私は曖昧な笑みを貼り付けたままお茶を飲んだ。話題のせいか気分のせいか、妙に苦く喉に粘りつくような味がした。
 いつもこういった話題になるから、私はこの二人のことも、同期入社の社員たちのほとんどのことも苦手だった。
 前回昼食を共にしたときの話題は、今年のある新入社員についてだった。彼女はショートヘアを入社一年目の職員にしてはいささか明るすぎるような茶色に染め、ミニスカートや豹柄のタイツといった少しばかり派手な服装で出勤してくることで、社内ではそこそこ有名人でもある。彼女の服装について、「あれ、人事の人はどう思ってるんだろうねー?」「上司から注意されてないのかなあ?」という語形を取りながら、ハルカとナツミが抱いている「社会人らしくない」という印象を語り合っていた。
 その更に前の話題は、私やハルカやナツミと同じ年に入社した、いわゆる「肉食系女子」のアキノの悪口だった。同期・先輩を含めた四人に同時にアタックをかけているらしい、と言って笑っていた。そんなんじゃ誰にも相手にされるわけないよねえ、と嘲笑っていた。けれど当のアキノが食堂に姿を見せると、それまでの会話なんてなかったような顔をして「アキノちゃーん、こっちこっち」と呼び寄せた。オセロの駒をひっくり返すよりも簡単に、彼女たちの態度は軽やかに豹変する。
 そのまた前には、ハルカとまた別の同期が、ナツミの悪口を肴に昼食を摂っていた。また別のとき、ハルカがいなかった日には、ナツミと別の誰かがハルカを「口が軽い」「何でもすぐに人に話しちゃう」と散々にこき下ろしていた。
 彼女たちとの昼食は、いつでもゴシップや悪口に塗れている。それを同意も否定もせずに聞いている私も、否応無しにその共犯者だ。けれどもきっと、私のいないところでは私も「ノリが悪い」だとか「自分の思ってることを言わない」だとか、そういった悪口の対象になっている。それは彼女たちたちにとっては、呼吸するのと同じくらい自然なことだ。もしかしたら、世の中の人の大部分にとって。
 だから私は昔から、人と話すことを楽しめなかった。
 食堂の隅に据え付けられたテレビでは、どこかの土地の特産の農作物とその農法が紹介されていた。水をあまり遣らない新時代の農法で、枯れないための最低限しか水を与えないことで、野菜や果実は甘く育ち、花は鮮やかに咲くという。
 ならば、あの乾ききった夢の荒野で咲く花があったならば、その花はどれだけ美しく咲くだろう。最低限の水しか得ることのできない花は、乾燥に耐えることでどれほど美しく、鮮やかに咲くのだろうか。
 ハルカとナツミの会話から逃げるように、私はそんなことを考えていた。

 その夜の荒野は明け方だった。
 まだ夜の気配が色濃く残っていて、辺りは青みを帯びた薄闇につつまれている。けれど地平線の果てには太陽がほんの僅かに顔を見せており、空にはしらじらとした光が立ち込め始めていた。
 探さなくちゃ。
 頭の中の声が囁く前に、私はもう歩き始めていた。行く当てもないままに、ただ闇雲な歩みを、今夜も進め始めていた。 
 歩いているうちに、夜はどんどん明けていく。太陽が昇るにつれて辺りはどんどん明るさを増し、乾ききった地面のひび割れの一つ一つさえ見えるようになっていった。
 そうして歩いているうちに、行く手の先に何かが見えた。細くて頼りなげな、ごくちっぽけなものが。
 あれは?
 疑念の赴くままに、ただ歩いていたはずの私は自然と大股歩きになり、早足になり、いつしか走り出していた。
 比較するものが何もないので、距離の感覚がつかめない。もどかしいほど自分の動きが遅く、のろく感じられた。永遠にも感じられる時間をかけて、私はそこへ辿り着いた。
 たった一輪だけ、朝の日差しの中に立っている花がそこにあった。
 葉の一枚もない、まだ咲いていないたった一つの大きなつぼみをつけているだけの、異様なほどすっきりとした花だった。茎が細く、掴むどころか指先でつつくだけでほろりと折れてしまいそうな、儚げな花だった。弱々しい見た目にもかかわらず、その細い茎は重たげなつぼみを難なく支えてすっと背筋を伸ばしていた。
 頭の中の声に確かめるまでもなかった。ようやく探し物を見つけたのだと分かった。私はずっと、この花を探し求めて荒野をさまよっていたのだと。
 私は乾ききって干からびた地面に膝を抱えて座り、その花に向かいあった。座り込むと、ちょうどそのつぼみが私の目の前に来る。
 まだ咲いてもいないたった一輪の花と向かい合いながら、私は酷く矛盾した二つの思いを抱いていた。
 一方では、私はこの花が咲くのを見るために生まれてきたのだと、この花が私の人生の意味なのだと、はっきりと確信していた。それは疑念を挟む余地のない、確固たる真実に思えた。
 しかしその一方で、この儚くさえある花が、なぜかたまらないほどに恐ろしくも感じた。小さな棘一つもない、私の指先で触れただけで折れてしまいそうなこの花が、本当は恐ろしい魔物の化けた姿だと、頭の隅では確信しているように。
 この花は不吉だと、今すぐに折り捨ててしまえと、頭の半分は警鐘を鳴らしている。けれど頭のもう半分はこの花にすっかり心を奪われていて、ただこの花の開くのが待ち遠しいとばかり思っている。
 二つの相反する思いのどちらに加担して良いのか見当がつかず、私は結局何もせずにそこに座り続けていた。
 いつの間にかつぼみがほんの僅かに綻んで、甘い濃厚な香りが漂い始めていた。その香りを吸い込んだだけで、これまでにどんなにおいしいお酒を呑んでほろほろと酔った時よりも遥かに心地よい、うっとりとする酩酊が頭の芯を蕩かした。
 ほんの僅かに覗く花びらの色は、私のこれまでに見たどんな花とも違い、どんな花よりも美しかった。何色とも言い難い、ありとあらゆる美しい色が溶け合わずに混ざり合っているような、見たこともない色合いをしていた。
 回る万華鏡のように、美しい色合いが緩やかに変わっていく。一瞬前よりもさらに美しく、さらに艶やかに、さらに輝かしく。
 目覚めるまでずっと、私はただその美しい花に見惚れていた。

 目覚めてまず感じたのは、やはり切実な喉の渇きだった。
 だがいつもとは違って、私はすぐに跳ね起きることができなかった。まぶたにはまだあの花の美しい色がちらついていて、鼻腔にはまだあの花の芳醇な香りが残っているようで、うっとりと夢見心地のままでしばらくのあいだ横たわっていた。
 十分ほど経ってようやく起き上がり、水を飲むことができた。その朝は、いつもよりあわただしく支度をして出勤することになった。

 思うに電話という機械には、電話口の向こうにも血の通った人間がいることを都合よく忘れさせる効果を発生させる装置が密かに組み込まれているのではなかろうか。
 そんな馬鹿なことを私に思わせてしまうほど、私の受ける電話にはいわゆる「ハズレ」が多い。より分かりやすくいうと、「何でそんな勝手なことしか言えないんだ!」とヒステリックに怒鳴り散らされるか「どうせ貴方には他人事だものね、そうよね」とねちねちねちねちと言われ続ける電話の頻度が先輩方よりも高いのだ。
 カスタマーセンターへ電話をかけてくる時点で相手はある程度苛立っているのだから、ハズレが多いのも当然かもしれない。だが、私が四十分にわたる電話につかまっている間に渋々電話に出て下さる先輩諸氏は皆、長くても十分程度で電話を終わらせて事務作業に戻っていく。ハズレの中の大ハズレを、妙に私だけが一身に引き受けているような気がしてならない。
 今日も今日とてそうだった。電話交換台から回されてきたので出てみると、第一声が「さっきの方にも詳しく言ったんだけど、聞いていないの?」という不満げなお言葉だった。察するに、交換台のスタッフへ詳細に不具合の様子をご説明くださったのだろう。それをうまく遮って早々にここカスタマーセンターへ繋いでくれなかった交換手の手腕不足にももちろん非はあるが、最初から顧客担当窓口につながったと信じ込んで疑わないお客様にも非がないとは言い切れないと思う。
 とにかくのっけから不機嫌なお客様に、私はまず繰り返し説明をさせることを詫びてご機嫌を取り結ぶところから始めなければならなかった。そしてようやく聞き出したお客様の訴えは製品についての具体的な説明を求めており、カスタマーセンターの人間が説明できる類のものではなかった。そのことを伝え、主訴は伝えるので営業部へ電話を回す許可を求めると、相手の声はまた一気に不機嫌になった。
『何よ、それ。同じような説明を三回もさせるつもりなの?』
 お怒りは誠にごもっともなのだが、少なくとも初回はお客様ご自身の責任も大いにあるとは思う。
 そんな本音は胸に秘めて、このカスタマーセンターは一旦お客様からのお問い合わせを取りまとめる部署であること、今回のように具体的な使用方法や修理方法については製品について熟知している営業課やその他の部署に電話を回す場合もあること、今回のお問い合わせについてもカスタマーセンターでお答えできる職員がいないので電話を回さざるを得ないことを、できる限り相手を刺激しないように丁重に丁寧にご説明し申しあげたところ、ますます不機嫌になった声でお客様は仰せになった。
『そんなのはそちらの勝手じゃないの。こちらがそんなこと、知るわけがないでしょう。だったら最初からその営業部へ回させなさいよ。何回も同じ説明をさせられるこっちの身にもなってみたらどうなの』
 あ、つい最近も似たようなフレーズを聞いたなあ。
 頭の隅でそう思いながら私はひたすら謝罪し、ねちねち繰り返される嫌味に耐えた。十分近い謝罪タイムの末に、『もういいわ、時間ももったいないし。いいからその営業とやらに回してちょうだい』と言って頂けた瞬間には、危うく声が明るく弾んでしまわないように大いに気を使った。欲を言えば、もっと早く「時は金なり」という箴言を思い出して下さった方が嬉しかったが、贅沢は言えない。
 とにもかくにもようやく「ねちねちバージョンの大ハズレ」から解放され、私はやれやれと受話器を置いた。総所要時間は三十分と先日の電話には及ばなかったが、私としては充分すぎると感じられるほど長い。首を回しながら水筒へ手を伸ばし、渇いた喉を潤そうとごくごくと飲む。飲んでしまってからはっと気づいて水筒の中を確認するが時既に遅く、昼休みに淹れなおしてなみなみと入っていたはずのお茶はもう一滴も残っていなかった。それにも拘らず、喉にはまだ渇きが張り付いている。一気に飲んでしまったせいなのかもしれないが、少しばかり妙な気がした。
 また給湯室へ行って水道水で良いから飲みたいところだったが、今は急ぎのデータ入力作業がある。午前中に上司から頼まれたものだが、電話に次ぐ電話で何度も中断していたため、半分も終わっていないのだ。私が電話に時間を取られている間に親切に事務仕事を進めてくれる「靴屋の小人さん」は、残念ながらこの会社にはいないらしい。
 電話で中断されていた作業に戻りながらも、頭はまだ「電話対応」という業務についての考えにとらわれていた。
 まだ入社して半年ほどの頃に「貴女じゃ駄目! 他の人に代わって!」と全存在を否定するようなお叱りを受けたときには、涙をぼろぼろ流して凹んだものだ。だが、最近のようにひたすら一人で罵声や嫌味に耐えていると、あの時のように頭ごなしに能力不足と決め付けられた方がましなような気もしてくる。「上司に代われ!」と言われないのは、電話対応が堂に入ってきて「事態処理能力のあるキャリアガール」との印象を与えられるようになったからかもしれないのだが、ちっとも嬉しくない。
 ひょっとすると私の電話応対の仕方に問題があるのかもしれないが、横で私の受け答えを素知らぬ顔で聞いている先輩は、何の指摘もしてはくれない。見よう見まねで技術を学ぼうにも、他の誰かが渋々電話に出ている間は、私も別の電話につかまっている。残念ながら聖徳太子としては生まれてこられなかった私には、受話器と先輩の両方の言っていることを同時に理解する超人的な耳がない。
「ちょっといい?」
 不意に横合いから声をかけられて、私は文字通り飛び上がりそうになった。声のほうに体を向けると、いつの間にか直属の上司が腕を組んで傍に立っていた。
「はいっ、何でしょう?」
「今朝頼んだまとめ、終わってる?」
 言われて反射的に机を見るが、そこには朝に渡された資料が二つの山に分かれて積まれているばかりだった。より正確に言えば、入力済みの山と未入力の山だ。さっきから電話という代物について考えながら入力を続けていたため、進捗状況は宜しくない。
 なので、私はできる限りしおらしい顔をしてこう答えるしかなかった。
「あ、すみません、まだ半分しか」
 しょんぼりと俯いて見せていると、頭上から苛立ったため息が降ってきた。
「前から言おうと思ってたけど、君は仕事が遅すぎる。こんなの半日あればできるだろう。そのくせ昼休憩は時間通り取るし、ちょくちょく席を立つし、今みたいに集中してないときも多いし。給料をもらってる以上、もっと真面目にやりなさい」
「はい。すみません」
『お言葉を返すようですけれど、センターにかかってくる電話は私がほとんど全部取ってるんです。その合間に仕事しているんですから、遅れたってしょうがないじゃないですか。しかも四十分も怒鳴り散らされたり、三十分もねちねち嫌味を聞かされる電話がすごく多いんです。休憩くらい入れないと、ストレスで会社に来られなくなっちゃいますよ。お疑いなら、他の方にも私くらいの頻度で電話を取るように指導してくださいよ。そうすれば私だってもっと早く事務仕事が終わるし、休憩だって取らなくて済むんですから』
 そんな感情的だが理屈は通っているはずの反論は胸のうちに留め、私は「以後気をつけます」と殊勝に頭を下げた。上司はまだ言い足りなそうな目つきをしていたが、一応は満足したのかご自身の席へとお戻りくださった。
 真面目に事務作業に戻っていきながらも、私の頭の半分はまだやり場のない思いにとらわれていた。
 取らざるを得ない電話では、十回に一回は怒鳴り通されるか、あるいはねちねちと嫌味を言われる。電話に時間を取られて自分の仕事が進まずにいると、上司から「仕事が遅い」と叱られる。教育担当の先輩には「前にも教えたんだから、一人で対応できるでしょう?」と相談にも乗ってもらえない。他の先輩・上役方には「一番下っ端なんだから暇でしょう?」と無言の圧力を受ける。そして同期入社の面々からは「残業が少ないんだから楽なものでしょ?」と言われ、愚痴も聞いてもらえない。
 できるものならば、残業の多寡と業務の過酷さは連動しないのだと力説してやりたいが、その点に理解を求めようとする努力すらも面倒だった。いや、それ以前に、お互いの悪口や社内のゴシップや噂話で盛り上がる口さがない同期たちに、私は真情を吐露できるほどなじめずにいる。
 私が電話の内容をいちいち気にしすぎるから、今所属している部署が辛いのかもしれない。同部署の先輩方や、ほかの同期たちであれば、怒鳴り声も嫌味も聞き流して気楽に過ごしていられるのかもしれない。
 けれどこの二四年間で形成された私の性格は、もはや凝り固まって変えようにも変えられない。どんなに「気にすることじゃない」と自分に言い聞かせても、「相手の虫の居所が悪かったんだ」「私の対応が悪かったわけじゃない」と言葉を変えながら自分を説得しようとしても、どうしても「私は無能だ」「私は無価値だ」という思いが胸の奥でいつも反響している。
 機械的にキーボードを叩いてデータを打ち込みながら、私はずっともやもやとした感情に苛まれていた。
 こんな風にして自分にも周りにも責められながら定年までを勤め続けるくらいならば、いっそあの夢の荒野のような場所へ行って遭難死してしまおうかと、半ば自棄になって考えていた。
 そうすればもしかしたら、風が種を運んできて、花が私の屍を苗床にして咲くかもしれない。あの夢の花ほど美しくはなくとも、私は私よりも美しいものの糧になれるのかもしれない。
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