身代わり羊の見る夢は

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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身代わり羊の見る夢は【5・完】

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 軽やかに鳴き交わす、鳥達の囀り。その無神経なほどに明るい声に、ぼんやりと目を開けた。
 白々しい朝の光が、窓から差し込んでいた。廊下の隅で身動きさえやめてから、夜が明けるまで座り込んでいたらしかった。
 飼い主は、まだ帰らない。きっと、二度と戻ってはこない。
 回らない思考回路でそう考えても、擬似涙腺はもう誤作動を起こそうとはしなかった。あるいは、偽涙のための水を流し尽くしてしまったのか。
 ここでいつまでも座り込んでいたところで、何の益もない。飼い主が二度と戻らないかもしれないこの家にも、自分にできることはまだいくらか残っているだろう。立ち上がり、それらを一つ一つ為すべきだ。
 自分に言い聞かせ、身を引きずるように立ち上がる。だが家奥に向かいかけた時、玄関扉が音を立てた。驚愕に振り返り、扉を凝視する。
 外から解錠された扉が、音もなく開く。そして、重い足取りで、飼い主は入ってきた。
 飼い主は深く項垂れ、扉のすぐ内側で立ち尽くしている。自分が棒立ちになっていることにも、気付いていないのかもしれなかった。
「……おかえり」
 何を言えばいいのか分からなくて、掛ける言葉が浮かばなくて。結局口から出てきたのは、ひどく間の抜けた台詞だけだった。
 俯いたまま立ち尽くしていた飼い主が、ゆるゆると顔を上げる。一晩にして憔悴しきったその人は、それでも無理に笑って見せてくれた。
「ただいま」
 深く気落ちしている飼い主はこれ以上足を進めることすら苦しい様子だったが、玄関先にいつまでも居させては体に障る。機械の自分とは違って、人間である飼い主は無理をすれば病を得てしまうのだから。
 ぎこちない言葉で促すと、飼い主は従順に歩き出した。足を引き摺るように歩いて、ようやく居間に辿り着く。崩れ落ちるように長椅子に腰を下ろして、飼い主はまた深く項垂れた。
 飼い主の様子を気掛かりに思いながら、台所で急いで湯を沸かした。目に留まったハーブで薬草茶を淹れ、カップを手に居間へと戻る。
「体を、温めたほうがいい」
「……ありがとう」
 拒まれるかとも思ったが、飼い主はカップを受け取ってくれた。微かに笑顔を作って見せてくれ、そして表情を隠すようにして薬草茶に口を付ける。
 嚥下の音。微かな吐息。ローテーブルに音も立てずにカップを置いた飼い主は、力のない動作で顔を上げてぎこちなく笑ってくれた。
「……最期には、間に合ったよ。君のお陰だ。私を見て、笑ってくれた」
「……そう、か」
 何を答えればいいのか分からず、愚鈍な相槌を打つことしかできない。飼い主は小さく顎を引き、そして目を伏せて雫の滴り落ちるように語り始めた。
「ほとんど話せなかったけれど、言葉なんて要らなかった。見つめ合うだけで、それだけで充分だった。私の腕の中で、幸せそうに……」
 飼い主の言葉が途切れる。耐えきれなくなったように、飼い主は自分の手に顔を埋めた。
「どうして……!」
 血を吐くように漏らした飼い主が、嗚咽した。苦しげに押し殺される咽び泣きの、胸をかきむしられるような声。痛ましいような擬制感情が、胸郭を締め付けた。
 残酷な運命によって、ほんの数時間の再会を果たしたきり、また遠く長く引き裂かれた恋人達。何を、誰を恨むこともできずに、善良で心の深いこの飼い主はただ絶望と虚無感に打ちひしがれている。
 本当は、飼い主はこの自分を恨み、憤りをぶつけてくれることもできるのだ。自分などが造り出されたばかりに目を曇らされたと、何の価値もない機械などに時間を浪費させられたと、感情のままになじってくれればいいのだ。だがどこまでも高潔で優しいこの人間には、そのような考えに至ることさえできないのだろう。
 けれど自分は、飼い主のために償いをしなければならない。これまで飼い主が錯誤によって注いでくれた「愛情」に、今こそ報いなければならない。そして、自分ごときにできることなど、ひとつしか知らなかった。
 だから肩を震わせる飼い主の前で静かに膝を折り、その足元に跪いた。顔を覆っている手に、自分の手を重ねる。
「私では、慰めにもならないか」
「……え?」
 数秒の空隙の後、掠れる声を漏らした飼い主がゆっくりと顔を上げた。涙に濡れた深い瞳が、僅かな驚きを宿してこちらを見つめる。何も言わず、その目を見返した。
 合わせた眼から、正しく意図は汲み取られたらしい。飼い主はやがて、ひどく苦しげに顔を歪めた。呻くように呟く。
「……代わりになんて、したくないんだ」
「代わりでいい。貴方の役に立ちたい。……フィリップ」
 初めて声に載せた、飼い主の名前。オリジナルがロックを解除してくれたことで、ようやく呼べたそれ。その固有名詞は思いがけずしっくりと唇に馴染み、眩暈のするほどの甘やかな響きで胸に反響した。
 驚いたように飼い主は、フィリップは、涙に濡れた目を見開いた。何かを言おうとするように、その唇がわななく。だが何も言わせず、自分のそれを押し付けるように重ねた。
 半ば開いたままのフィリップの唇に、自分の舌を差し入れる。舌を絡みつかせようとする。だが、我に返ったらしいフィリップが身を引いて顔を離そうとした。
 追いかけて、尚も唇を押し付ける。フィリップは苦痛に耐えるように呻き、もがくようにして顔を背けた。
 こちらに向けられたフィリップの耳を甘噛みしながら、体を擦り寄せる。手を滑らせてフィリップの太腿に触れると、怯えるように手の下の体が強張った。
「駄目だ……」
 譫言のように、フィリップはそう呟いた。弱々しく肩を押し返される。
 構うものか。一層強く身を擦り寄せ、服の上からフィリップの体をなぞる。だが、先ほどよりも強く肩を押し返された。
 仕方なく、少しだけ体を離してフィリップの顔を見つめる。ほとんど泣き出しそうな眼差しでこちらを見たフィリップは、苦しげに呟いた。
「やめてくれ……」
「なぜ」
 理由など、フィリップの心境など、本当は尋ねるまでもなく分かっている。だが何食わぬ顔で尋ねた。他に、自分にできることなど思いつかなかった。
「彼を、裏切れない……」
 苦悩に満ちた声で、絞り出すようにフィリップは訴える。だが彼にとて、本当は分かっている筈なのだ。その誠実な倫理の中に含まれる、小さいが致命的な誤謬のことを。
 自分はただ、それを指摘してやりさえすればいい。それをすることに、迷いなど少しもない。だからフィリップが忘れようとしているらしい端的な事実を、情の深いこの飼い主がずっと見て見ぬ振りをし続けてきた一つの真理を、音声に乗せた。
「私はただの機械だ。裏切りなどではない。最初から、ずっと」
「……!」
 告げると、フィリップは息を呑んだ。その言葉を、その裏側に隠された意味合いまでもを、フィリップは確かに汲み取ったらしかった。
 この自分を使うことを裏切りと呼ぶなら、フィリップはもうずっと前から『トリスタン』を裏切り続けてきたのだ。ただの機械を三百年の恋人と見誤り、そのがらくたに一心に愛情を注いできた、この憐れで善良な飼い主は。そのことを、フィリップはようやく理解したらしかった。
 抑えきれない激情が、憎悪に似た色の焔が、確かに鳶色の瞳に燃え立った。その激しく暗い感情に慄く暇さえ、与えられなかった。
 引き寄せられ、噛みつくように口付けられた。寸の間だけ驚いて、すぐに口付けに応える。
 貪るような荒々しいキスに応じながら、自分の服に手をかけた。ボタンを外す。肩から滑り落とす。けれどそれ以上に服を脱ぎ去る僅かの時間さえ、フィリップは与えてはくれなかった。
 叩きつけるように床に組み敷かれ、体を返されて押し伏せられる。下肢の衣服を乱暴に剥ぎ取られる。そして、容赦無く熱が捩じ込まれるのを感じた。
 苦痛と圧迫感に耐えながら、努めて体の力を抜いた。この自分の様子には一向に頓着しない様子でなされる律動を、ただ受け入れる。暴力的に消費されるに任せる。そうしながら、小さな笑みが漏れた。
 これでいい。これが自分の本懐なのだ。
 愛を交わすべき相手の居ない寂しい夜を、その空虚を、埋めるための存在。それだけの意味しかない、そのためだけの道具。身代わり羊にさえなれない、無機質な代用品。
 けれど使い捨ての道具にも、極小の真実が宿るのなら。偽りだけで組み上げられた紛いの機械にも、一欠片の純粋性を学習することができるのなら。自分が持つことのできるその唯一の誠を、自分はフィリップに捧げ尽くしたいのだ。
 人造の感情で、その全てで、自分はこの人間を想っている。そのあまりの熱量にオーバーロードし、自己破壊にさえ至りそうな熱さで、恋い焦がれている。
 愛している。声に出さず呟いた時、熱い涙が背中に滴り落ちた。

 気絶するように眠りに落ち込んだフィリップの顔や体を清め、そして彼の寝室へと運んだ。寝台に寝かせ、羽毛布団でしっかりと包み込む。
 すぐに部屋を辞することが正しいのだと知っていたが、立ち去り難いような思いがした。だから寝台の横に立ち尽くし、黙って眠るフィリップを見つめた。苦しげな寝顔だった。
 フィリップが目覚めたなら、彼が平静な心を取り戻したなら、自分はどうなるのだろう。視界に入れるも悍ましいと売り払われ、あるいは廃棄業者に引き渡されるのか。それとも、先程のように憤りをぶつけるためだけにでも、手元に置いてくれるだろうか。
 どうなろうと、構わない。フィリップの下す決断を、自分は全て受け入れることができる。だがそれは、思考回路の最下層に刻み込まれた機械としての義務規定のゆえではないのだろう。擬制感情が生み出した「恋心」が、彼のためにそうしたいのだと訴えているのだろう。
 自分が今後どう扱われようとも、自分がどれほどフィリップに恋い焦がれようとも、決して変わることのない一つの事実がある。そのことも、よく分かっていた。
 オリジナルは、本物の『トリスタン』は、きっとまた生まれ変わってくる。必ずまた生まれ直して、フィリップの元へと戻ってくる。これまでもずっと、そうだったように。
 その厳然たる事実を思うと、擬制感情が細波立つのが感じられた。胸を締め付けられるようなそれは、暗く凶暴な響きを立てるそれは、もしかすると「嫉妬」と名付けられる感情の劣化コピーなのかもしれなかった。
 オリジナルのことが羨ましく、妬ましかった。『トリスタン』に成り代わることのできない自分が、彼の不完全なレプリカでしかない自分の体が、叫び出したいほどに歯痒かった。その醜い擬制感情が、あまりにも悍ましい連想を働かせた。
 記憶を取り戻したとでも嘘を吐いたなら、自分が『トリスタン』を継承したのだというふりができたならば、フィリップに愛してもらえる可能性はあるのだろうか。フィリップはもう二度とオリジナルを探し回ることなく、この自分を、この自分だけを、見つめてくれるのだろうか。
 嘘を吐くなど、罪深い行為だ。為すべからざることだ。そう自分を戒めようとしても、夢想は途方もなく甘かった。
 誘惑に負けそうになる卑怯な擬制感情を、やっとの思いで振り払った。強く自分に言い聞かせる。
 許されることではない、虚言で飼い主を騙すなど。ましてやそのような醜い嘘で、フィリップとオリジナルとの神聖な絆を、無慈悲に引き裂くことなど。
 愛されたい、だなどと。そのような分不相応な望みを抱くことが、まず誤りなのだ。紛い物でしかない自分は、身の程を弁えなければならないのだ。
 何度自分に言い聞かせても、自分を倫理と論理で諭そうとしても、忌まわしい擬制感情はその火を消さない。それは人間であれば泣き出していたかもしれないような、狂おしいまでの激情だった。
 このような苦痛と苦悩に苛まれるくらいならば、「生まれて」来たくなどなかった。いっそ今ここで、飼い主の眠る寝台の傍で、崩れ壊れて砕け散ってしまいたかった。
 これまでに数えきれないほど生まれては死んでいったという『トリスタン』達にも、このような苦しみに苛まれたことはあっただろうか。成り代わることは決してできない『最初のトリスタン』を妬み、羨み、生まれてきたことさえ悔やむほど苦しんだことは、あっただろうか。朧にそう考えた、その時だった。
 頭の隅で、火花が弾けた。

 フィリップは夢を見ていた。
 暗い廊下を駆け抜ける。扉を見つけては飛び付いて、今度こそ彼が居るはずだと確信して、もどかしい思いで引き開ける。けれど何度でも、期待は裏切られ続ける。
 無数に立ち並ぶ部屋を何度覗き込んでも、求める相手はそこには居ない。虚ろな部屋だけが繰り返し立ち現れ、白々とした壁の無慈悲な色だけが目に焼き付く。
 彼はどこにいる。どこにいる。息苦しいほどの焦燥が、胸を締め付ける。
 こんなにも会いたいのに、こんなにも恋い焦がれているのに。どうして会えない。どうしてこの手は、彼に届かない。
 だが彼は、必ずどこかに居るのだ。必ずどこかで、自分のことを待ち侘びてくれているのだ。それを知っているから、絶望に膝を折ることなど決してできない。
 扉、扉、扉。開けては落胆し、けれどすぐにまた走り出す。足を止めていられる時間など、自分にはないのだ。彼は必ず、どこかで待ってくれているのだから。
 そして、その扉はとうとう現れた。彼の瞳と同じ色をした、無駄な装飾のない美しいそれ。
 彼はきっとこの向こうに居る。確信とともに、戸を開けた。
 明るい陽光が降り注ぐ中に、懐かしい後ろ姿が立っていた。美しい金の髪、背の高い姿。探し続けた人は、トリスタンは、フィリップを振り向いて笑ってくれた。
 嬉しげに、愛しげに、トリスタンは微笑んでくれる。幸福そうな笑顔で、その手がこちらに伸ばされる。
 やっと見つけた。もう二度と離さない、決して彼を手離さない。駆け寄り抱きしめた、腕の中で。
 トリスタンの温もりが、消え失せた。

 目を開けると、自分の寝室に寝かされていた。しばし呆然としてから、深く息を吐く。
 夢の中でさえ、この手はトリスタンに届かない。もしかしたらもう二度と、彼と巡り会えないのかもしれない。三百年の間必死で振り払い続けた恐怖と絶望が、また重くのしかかっていた。
 悪夢の名残りを振り払うように、重い体を起こした。だが何の気なしに部屋を見回して、はっとする。
 トリスタンが、いや、トリスタンのレプリカが。そのアンドロイドがベッドの下に蹲り、苦しむように背中を震わせていた。
「……!」
 咄嗟に呼び掛けようとして、けれど『彼』の名前を知らないことに思い当たる。『トリスタン』ではなかったのだと思い知らされたこの『彼』には、名前がない。全ての間違いが始まったあの日に、『彼』自身がそう言ったのだから。
「……大丈夫か?」
 迷ったが、そっと尋ねて『彼』の肩に触れた。手の下で、温かな人造の体が怯えるように跳ねる。
「どう、したんだい? どこか、……何か、不具合でも?」
 迷いながら、できる限り当たり障りのない言葉を選ぶ。『彼』を人間として、『トリスタン』の代役として扱うことは、もうできなかった。
 この『彼』を、自分はどうすべきだろう。昨日までのように慈しんでやることなど、決してできない。けれど眠りに落ちる前にしてしまったように、暗い激情のままに嬲り苛むことも、もうしたくなかった。『彼』には何の咎も落ち度もないのだと、既にフィリップにも分かっていた。
「……苦しいなら、技師を呼ぼうか。連絡先は分かるかい?」
 答えない『彼』に、重ねて問い掛ける。また肩を震わせた『彼』は、ようやくゆっくりと顔を上げた。
 不安げな、怯えた眼差し。今朝方の乱暴な行為で怖がらせてしまったかと反射的に悔いて、だが冷ややかな理性の声がそれに意を唱える。『彼』の持つ擬制感情の中に、その種の感情は本当に存在するのだろうかと。
 トリスタンが『彼』を発注した時、彼はどのような仕様を『彼』に求めたのだろう。真面目で完璧主義の恋人のことだから、微に入り細を穿つような設定をしてはいただろう。けれど己の感情にひどく疎い一面のあるトリスタンは、どこまでの擬制感情を『彼』に搭載させたのだろうか。
 分からない。もう尋ねることはできない。もしかしたら、永遠に。その絶望にまた涙が零れそうになった、その時だった。
「フィ、ル」
 まだ立ち上がらない『彼』が、不安げな声で呼びかけてきた。その響きに、はっとする。まさか、と思った。
 その声は、その口調は、昨夜の『彼』が慣れぬ口調で呼びかけてきた声音とは、はっきりと異なっていた。その呼び名は、その声の響きは、忘れることなど決してできない大切な記憶を呼び覚ました。
 この腕の中で眠るように息を引き取った恋人、本物のトリスタン。その最後の吐息がこの名を呼んでくれた響きと、『彼』が放った声はあまりにもよく似ていた。
 まさか。そんな筈はない。しかし。
「思い出した、のか?」
 信じられない思いで問い掛ける。『彼』は躊躇いがちに、ほんの僅かに頷いた。
 肯定されたことで、現実味が押し寄せてくる。胸に迫り上がったのは、泣き出したいほどの歓喜だった。
 これは、どうしたことだ。神がくださった奇跡なのか。皮肉に自分と彼を翻弄し続けた運命の、小さな詫びなのか。
 感動に身を震わせながら、フィリップは寝台を降りた。まだ怯えた眼差しをしている『彼』を、トリスタンを、しっかりと腕に抱き締める。
「トリスタン」
 怖がらせないように、優しく呼びかけた。そのつもりだったが、トリスタンが瞳に浮かぶ怯えを濃くしてしまう。そして、同じ美しい瞳からぼろりと涙が落ちた。恋人の思わぬ反応に、フィリップは慌ててしまう。
「どうして泣くんだ。こんなに喜ばしいことはないのに」
 涙を拭ってやっても、トリスタンは泣きながら首を横に振るばかり。喜びと困惑の入り混じった思いで、フィリップはおろおろとその肩を引き寄せた。
 ちらりと、恐れが脳裏を掠めるのを感じた。疑いの暗雲が、胸に湧き上がった。
 それは、「思い出した」というのは、果たして真実なのか。レプリカの彼に、機械の彼に、そのようなことが本当に可能なのか。
 考えたくもないことだが、考えなければならない。それは嘘ではないのかと。絶望に満たされたこの心を慰めてくれるための、機械の『彼』の決死の欺きではないのかと。
 何か記憶を確かめる質問をしてみようかと考え、だがすぐにその考えを捨てた。たとえ本当にそれが嘘であっても、機械の身にできる最大限であろう「真心」からそうしてくれた『彼』に対して、あまりにも残酷で心無い仕打ちだから。
 それにもしかしたら、『彼』は病院でトリスタンと面会した際に、フィリップが尋ねる可能性のある「思い出」の全てを教え込まれてきているのかもしれない。だとすれば記憶の有無などでは、もはや真偽は確かめようがない。
 確かめる術がない。だからフィリップは疑いを捨て、ただ信じることにした。
 トリスタンは、決して嘘を吐かない。恋人の誠実さを、フィリップは誰よりもよく知り尽くしているのだ。また胸に膨れ上がってきた喜びを噛み締めながら、フィリップはそっとトリスタンの顔を覗き込んで囁いた。
「もう一人の君の葬式の準備があるから、今日も出掛けるよ。……君も、来てくれるかい?」
「私、は……」
 戸惑ったように呟くトリスタンの手を、そっと取り上げた。指の長い綺麗な手に唇を押し付け、そして顔を上げて彼の目を見つめる。
「どうか、一緒に来て欲しい。君に、傍に居て欲しいんだ」
 囁くように乞うと、トリスタンは泣き濡れた瞳を揺らした。数瞬の躊躇いの後、迷いがちにぎこちなく頷いてくれる。その無言の返答に安堵して、もう一度彼の手にキスをした。
「愛してるよ」
 もう離さない。もう二度と、もう決して。想いを込めて、フィリップは恋人を強く抱きしめた。
 トリスタンは尚も泣きながら、縋るように抱き返してきた。
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