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身代わり羊の見る夢は【4】
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「行ってくる。夕方までには戻るよ」
そう言い置いて、微笑みと抱擁と口付けを残して、飼い主は今日も家を出ていった。
定期的なその外出の理由も行き先も、今は教えられている。彼の娘夫婦の墓参りだと言う。養女であったために彼の不死を受け継いではいなかった娘の死を、三百年もの長きにわたって悼み続けているのだと。
玄関先で飼い主を見送って、扉を施錠する。そして部屋に戻ろうと歩き出した時に、ふと思いついたことがあった。
どうして、今の今まで思い当たらなかったのだろう。自分に呆れながら居間へと駆け込んで、隅に置かれている電話機に歩み寄る。電話番号は、調べるまでもなく知っている。有事に備えてメモリに刻み込まれている、無愛想な数字の列。
だが受話器を取ろうとして、一瞬だけなぜか躊躇をした。そのことに自分で戸惑う。
何を、躊躇うことがある。これは飼い主のためにすることだ。所有者のために尽くすことは、機械の義務なのだ。
そう自分に言い聞かせて、小さく呼吸して、受話器を取る。タッチパネルに浮かび上がる数字に、指先で触れた。
受話器を置いて、思わず溜息を吐く。半ば想定していたことではあったが、やはり対応はにべもなかった。個人情報は漏らせない、の一点張り。
だが、あちらがその気ならば、こちらにも考えがある。思考を切り替えた。
書斎に入って、幾度か飼い主とともに扱っている情報端末を起動する。迷いなくネットワークに接続した。
自分も機械。クラッキングなど、容易いことだ。
「今日一日、出掛けても良いだろうか」
朝食の席で、勇気を振り絞ってそう言い出した。向かい合う飼い主が、邪気のない様子で瞬きをする。
「勿論構わないよ。珍しいね」
あっさりと許可されて安堵する。最初から、外でもどこへでも行っていいとは言われていたけれど。
「私も付いていこうか?」
「いや。自分だけで行きたい」
飼い主と分担しながら片付けを済ませ、外出のための身支度をする。だがいざ玄関へ向かおうとしたところで、呼び止められた。
「交通費が要るだろう。幾らあれば足りるかい?」
尋ねられたことで、ようやく気付く。そうだ、どこに行くにも金がかかるだろう。
慌ててメモリを呼び出したが、見もしなかった運賃の記録はどこにも保存されてはいない。狼狽していると、可笑しげに笑う飼い主の声が耳に入った。
「君はしっかり者のようで、少しうっかりしているね。そんなところも、ずっと変わらない」
可愛いよと甘く囁かれ、頬に唇を寄せられる。温かで柔らかな感触だった。
すぐに身を離した飼い主が、衣嚢に手を入れて使い込まれた財布を抜き出した。そのままそれを渡されて慌てる。
「何を……」
「好きに使ってくれて構わないよ。私は、今日は出掛けないから」
でも早く帰ってきてほしいな、君が居ないのは寂しいからね。甘やかな声でそう囁かれて、今度は唇に口付けられて、そしてにこりと微笑まれた。
「気を付けて行っておいで。楽しい一日を」
公共交通を幾つも乗り継いで、辿り着いたのは大きな病院だった。やや古びた外観だったが、足を踏み入れれば最新式の機械機器が目につく。
受付で確認を取り、教えられた病室へ向かった。長期入院患者のための病棟の、最も奥まった部屋。人の気配の少ない、虚ろで無機質な廊下を進んでいく。
病室の前で最後に躊躇して、それからノックをした。ややして入室を許可され、部屋に入る。
力無く寝台に横たわっている、その人間と視線が合う。病みやつれた男は、淡く微笑んだ。
「……お前が訪れるような、予感がしていた」
重い体を引きずるようにして、飼い主の家に戻った。朝から出掛けたというのに、とうに陽は没しきっている。ただ等間隔の街灯の光だけが、無神経な明るさで闇を引き裂いていた。
鍵を開けて家に入る。玄関を施錠していると、奥から足音が駆けてきた。
「おかえり、トリスタン」
遅いから心配したよ、疲れているだろう。食事にするかい、先に風呂にするかい。飼い主の優しい言葉が、上滑りしていく。
さも当然のような仕草で手を取られて、胸が軋む。その温かさに、向けられる微笑みの柔らかさに、責め立てられるようだった。
言いたくない。明かしたくない。そんな身勝手な望みが、胸を貫いた。
このまま知らぬ顔をして、何事もなかったかのように装って、この飼い主と暮らしていたい。あの男とて、きっとそれを許してくれる。
あの男自身からは、固く口止めをされているのだ。この飼い主に全てを明かすことこそが、あの男への背信なのだ。そう自分を言い包めようとしても、それが欺瞞であることも分かっていた。
それは許されないことだ。思考回路の理性的な部分は、無情な声で自分を断罪した。
自分は何を、馬鹿なことを考えている。きつく目を閉じた。
邪魔物は、紛い物は、自分の方だ。この自分には権利など、初めから何一つとして無い。ただ、あるべきことをあるべき場所に返すだけのことだ。
「Master……」
「フィリップ、だよ」
間髪入れずに遮られても、呼べはしない。今となっては、尚更だった。
「聞いてほしい」
「何だい?」
勿論聞くとも、君の話を聞かせておくれ。優しい微笑みで促されて、また胸が軋みを立てる。
だが、言わなくてはならない。小さく息を吸って、言葉を押し出した。
「私は貴方の『トリスタン』ではない」
「……また、その話か」
少し眉を寄せて、飼い主は答えた。こちらに体を向け、諭すように言い聞かせてくる。
「何度も言っているだろう。君は確かに私のトリスタンなんだ。私が君を見間違えることなんて、絶対にあり得ない」
飼い主の鳶色の目が、ひたとこちらを見据えている。一欠片の疑いもなく、この自分を三百年の恋人と信じきっている瞳だった。
「君がなかなか思い出せないことは、以前もあったよ。それでも必ず、君も少しずつ思い出してくれた。私を、私との思い出を、いつだって」
飼い主の口調に熱が篭る。彼自身に言い聞かせるように。無意識の不安を、自ら押し殺すように。
「だから必ず、君だって思い出せる。ずっとそうだったんだ。今回だって必ず……」
「違う、そうではない」
堪らなくなり遮った。不意を突かれた様子の飼い主の目を、真っ直ぐに見返す。
言いたくない。
言わなければ。
小さく息を吸って、覚悟を決める。全てを終わらせるための言葉を、押し出した。
「確かめてきた。本物の『トリスタン』は、オリジナルは、別に居る」
「何を、言っている?」
掠れる声で飼い主が尋ねたのは、時計の秒針が一巡するほどの空隙の後だった。驚愕に見開かれた鳶色の瞳を見返して、言葉を噛み締めながら、伝えねばならない事実を声に乗せた。
「私のモデルとなった、私を造らせた発注者である、人間がいる。まだ生きている。彼は、本物の『トリスタン』は、貴方を覚えている」
「本、物?」
呆然とした声が繰り返したその単語が、胸に突き刺さって小さな痛みを訴える。あえて、自分から、その語彙を選んでおきながら。
だが、それは明白な事実なのだ。自分が紛い物であることは、自分があの人間の、『本物のトリスタン』の、不完全なレプリカでしかないことは。小さく呼吸して、己を奮い立たせて、もう一度声を押し出した。
「会ってやってほしい。彼も本心では、貴方を待っているのだから」
「……なら」
ようやく理解が追いつき始めたらしい飼い主が、口を開いた。常の理性的で落ち着いた態度も失い、飼い主は混乱した口調で問い掛けてきた。
「ならばどうして、その『彼』は私に会いに来てくれない。どうして、君と一緒に来てくれないんだ」
掴みかからんばかりの勢いで、ひたむきな必死さで、飼い主に詰め寄られる。飼い主から『トリスタン』に向かう深く強い感情を、改めて思い知らされる。
それほどまでに『彼』を思っている飼い主に告げるには、事実はあまりにも痛ましい。それでも、努めて事務的な口調でそれを告げるほかなかった。
「もう何年も前から、入院治療を受けている。末期に近い病状だ。到底出歩けない」
「っ!」
冷徹で無慈悲な真相に、飼い主が息を呑む。繋がれたままだった飼い主の手から力が抜け、重力に従って落ちる。人造皮膚に馴染んでいた飼い主の体温は、すぐに夜気に冷やされて消え去っていった。
「……だが、だが何で、彼は……ならば、君は……」
君は、一体何なんだ。かろうじて飲み込まれた言葉が、また胸に突き刺さった。
そうだ。『本物のトリスタン』の居るこの世界に自分が生まれてくる理由など、本当は存在しないのだ。自分が存在を許される理由など、初めから何ひとつ無いのだ。それを知らないのは、オリジナル自身だけなのだ。
「若い頃に事故に遭い、全身に酷い火傷と傷がある」
「だから?」
間髪入れずに問い返されて、場違いにも笑い出したくなる。滑稽なほどに理屈の通らないその理由では、この飼い主が納得する筈もないのだ。
「それが全てだ」
「理由になっていない」
そうだ。この飼い主ならば、必ずこう言うのだ。自分にさえ分かるその程度のことに、なぜオリジナルは気付かないのだ。腹立たしいような痛快なような擬制感情が、胸を埋め尽くした。
「そのような姿では、貴方に会えないと。貴方に嫌われることが、貴方に幻滅されることが、恐ろしいと。そう思って、オリジナルは私を作らせた。貴方が私を見つけることを祈って」
会いたい、会えない、会うのが怖いと、オリジナルは泣いていた。痛ましい無数の傷に覆われていても、その姿は美しかった。病みやつれた頬を伝い落ちた涙は、神聖なほどに清らかだった。
ああ、やはり自分は『トリスタン』ではないのだと。その涙を見て、改めて悟った。
紛い物の涙しか流せない、感情を持たない、思い遣りの心など持つこともできない、この自分。そんな自分は『あの人』に想われるのに足る存在ではないのだと、思い知らされた。
勝てない。敵わない。成り代わることなどできない。初めから無理なことだった。それは、あまりにも明瞭で厳然とした事実でしかなかった。
狼狽しながら涙を拭いてやろうとした手を、痩せ衰えた手が包み込んだ。必死に涙をこらえているのが明白な様子で、それでもオリジナルは壊れ物のような笑みを形作った。
『彼を、幸せにしてやってほしい。お前ならば、彼と添い遂げられるから。お前ならば、私のようには、すぐに彼を置いていくことはせずに済むだろうから』
私の代わりに、どうか。軋るような祈りが込められた、涙に濡れた瞳。骨と皮だけのようなその手には、不釣り合いなほどの力。
頷くことしかできなかった。他にどうすることもできなかった。オリジナルは涙に濡れた目で微かに微笑んで、一つの古い都市の名前を呟いた。その音声入力が自分のシステムに眠っていた小さなロックを解除したのを、確かに感じた。
「何を、勝手な……!」
飼い主が呻くように呟いた。苦しげに顔を歪め、きつく拳を握りしめている。
「私がどれだけ、どんな想いで、彼を待っていたと思ってるんだ。どんな姿でも、何も関係ない。私がどれほど彼を……っ!」
「……貴方なら、そう言ってくれると思っていた」
呟くように言いながら、胸が小さく鋭く痛むのを感じた。
そうだ、この人が求めているのは『彼』なのだ、本物の『トリスタン』なのだ。紛い物でしかない、こんな自分ではなくて。
「もう長くない。どうか会ってやってほしい。せめて最期に、一目だけでも」
「何だって?」
顔色を変えた飼い主に、借りた財布と病院所在地のメモを押し付ける。面会時間など、知ったことではない。
「早く」
促すと、釣り込まれるように頷いた飼い主が身を翻した。家奥に駆け込んで、取るものも取り敢えず身支度をしている音。
慌ただしく外套を羽織りながら廊下を駆けてきた飼い主が、玄関扉に手をかける。だがなぜか、出ていかんばかりにする飼い主はこちらを振り返った。
「君は?」
「何?」
思いもよらぬ言葉に虚を突かれる。飼い主は焦燥を目に浮かべ、けれどひたとこちらを見つめた。
その瞳のあまりの真っ直ぐさに、清らかな光に、射抜かれる。耐えきれずに視線を逸らした。
その強い瞳に、認めたくない、知りたくもない本音を暴き出されそうになる。オリジナルの存在を隠そうとした浅ましい本心まで、きっとこの飼い主は見透かしている。
小さく呼吸して、言葉を押し出した。努めてそっけない声を取り繕う。
「邪魔はしたくない」
「邪魔だなんて……」
「恋人達の再会に、機械は必要ない」
思いの外に、強い語調になった。気圧されたように黙り込む、飼い主の気配。
「……じゃあ。行ってくるよ」
迷うような間をおいてそう言った飼い主に、もう一度目を向けた。先ほどと変わらない真っ直ぐな瞳に、見つめ返される。
普段の外出のように抱きしめてくれようとした腕が、中空で躊躇した。迷うような一瞬を置いて、所在なさげに降ろされる。また、小さく胸が痛んだ。
「先に休んでいてくれ。いつ帰れるか分からないから」
その言葉だけを残して、飼い主は家を飛び出していった。舗道を蹴り駆け去っていく靴の音が、遠ざかる。
飼い主の足音の残響さえ聞こえなくなってから、玄関扉に歩み寄った。空々しい音を響かせて、扉を施錠する。
飼い主の居ない家奥に戻る意欲が湧かず、玄関扉に背を預けた。崩れ落ちるように、その場に座り込む。硬い床の冷淡な温度がスラックス越しに染み込み、胸の奥のメインギアを冷やした。
これで良いのだ。これで正しいのだ。
きっと間に合う。まだ息をしているオリジナルと、あの飼い主は必ず目を見交わし語り合う事ができる。そうに決まっている。そうでなければならない。
願わくば、奇跡が起きてくれたなら。愛する男と再会できた喜びが、オリジナルを蝕む病魔を追い払ってくれたなら。
そうなれば、自分などは用済みだ。寝室に呼ばれることもきっとなくなる。優しく微笑みかけてもらうことも、愛しげに頬を撫でてもらうことも、力強い腕に抱きしめてもらうことも、そっと口付けてもらうことも、大切そうに見つめてもらうことも。もう、二度と。
その全ては、あの飼い主の微笑みも手も腕も唇も眼差しも声も、全てはオリジナルだけのものなのだから。
あの人は、あの飼い主は、フィリップは、初めから自分などの手に入る存在ではなかったのだ。機械風情が人間に愛されようなどと、願うこと自体がおこがましかったのだ。自嘲の笑みを漏らした、その時だった。
眦から、水が滴り落ちた。
驚きに瞬きすら忘れた目から、人造の眼球から、水はとめどなく溢れ落ちていく。混乱してから、ようやく思い当たった。
これは、涙だ。性行為を盛り上げるために搭載された人工の涙腺が、前触れもなく作動して水を放出し始めているのだ。
だが、どうして。なぜ。性行為の最中でもないのに。今ここには、偽涙で欺くべき相手など居ないのに。
この誤作動は、どうしたことだ。修理は可能な故障だろうか。止まらぬ涙を乱暴に拭った時、もうひとつの大きな不具合を自覚した。
締め付けられるような痛みが、胸を苛んでいる。呼吸機関が機能停止しているのにも似た激痛が、胸部を覆い尽くしている。息苦しいようなその苦痛に、声も出せず喘いだ。
自分は、このまま壊れていくのだろうか。
終焉を予期しても、恐怖など生まれなかった。形ある全てのものには、滅びが訪れるのだから。遅かれ早かれ、自分もスクラップになる宿命ではあったのだから。
いつか飼い主がこの家に戻ってきた時、彼は自分の残骸を目にして、何を思うだろう。少しでも、惜しんでくれるだろうか。二度と作動しないこの身を、もう一度だけでもその腕に抱いてくれるだろうか。
朦朧とそう考えた時、飼い主の温かな笑顔の記憶を呼び起こした時、一際激しい痛みが胸を刺し貫いた。思わず服の上から左胸を掴んだ時、唐突に自覚する。
これは、悲しみという感情なのだ。自分は今、悲しんでいるのだ。
だが、なぜ。何を、自分は悲しんでいるのだ。悲しむべき事柄など、何があるというのだ。
偽涙が流れるに任せたまま、困惑する。自分の思考回路の履歴を辿ろうとするが、混乱した回路は正常に働こうとしなかった。
ただ飼い主の笑顔の映像記憶だけが、明滅するように視界にちらついている。それに呼応するように、生命が脈動するかのように、悲しみは膨れ上がっていく。
『トリスタン』
優しい声が、自分のものではなかった名を呼ぶ愛しげな声が、その聴覚記憶が、人工内耳に蘇る。その幻の響きにまた貫くような痛みを感じた時、ようやく理解した。
悲しいのは、苦しいのは、飼い主がこの自分を愛さないという事実だ。飼い主の心が永遠に自分には向かないという当然の事柄が、この悲哀の原因なのだ。
自分は『トリスタン』ではない。決して『トリスタン』にはなれない。どれほど強く願っても、永遠に叶わない。紛い物でしかない自分の手は、『あの人』には届かない。
あるいは絶望と名付けることもできるのかも知れない、悲痛な擬制感情。その苦しみに喘ぎながら、ただ偽涙を落とし続けることしかできなかった。
擬似涙腺の誤作動は、いつの間にか収束していた。
目元が熱を帯びている。その部位を鏡に映せば赤く色付き少しの腫れを見せてもいるのだろうと、これまでの経験から知っている。この機械の身には、忌々しいまでのリアリティが追求されているから。
まだ正常に機能しない思考回路でしばし考え、そして身を引きずるように立ち上がった。いつまでも玄関先に座り込んでいたところで、なんの利益もないのだから。
だが家奥に向かおうとして、結局はそれを諦めてしまった。数歩だけ進んだ廊下でまた腰を下ろし、努めて思考回路を働かせようとする。
擬似涙腺の誤作動が作り出した目元の変化は、自分の意思で取り除くことができる。見せる相手もいないそのような異常は、早く直してしまうに限るものだ。だから早々に修復システムを作動させ、デフォルトの状態を取り戻した。
目元に指で触れて原状が回復されたことを確かめ、小さく息を吐いた。暗い天井を見上げ、まだ完全な機能を取り戻さない思考回路を働かせようとする。けれどそれは、上手くいかなかった。
まるで何かの埋め合わせのように、唐突にメモリの奥底から蘇ってきた声があった。いつか飼い主の囁いた、甘い毒のような言葉。
『一緒に死のうか』
幻のその響きに、恐怖が背筋を伝い降りた。それはその言葉によって呼び起こされた感情の記憶などではなく、唐突で不吉な予測が今まさに生み出したものだった。
飼い主は、オリジナルと共に死ぬつもりなのではないだろうか。この家を出ていった時にはそのつもりはなくとも、命の灯火の消えかけているオリジナルの姿を目にして、心が動くのではないだろうか。病み衰えたオリジナルを抱きかかえて暗い廊下を駆け抜ける飼い主の姿が、ありありと思い描けた。
残酷なほど明るい満月に照らされる、病院の屋上へと辿り着いて。邪魔者が入って来られないように、外から鍵をかけて。そして長い影を引きずりながら、オリジナルを腕に抱いた飼い主は屋上の縁へと歩いていく。扉を叩く音も制止の声も聞き捨てて、決して振り返ることなく、迷うこともせずに。
愛しているよ、これでずっと一緒だ、もう二度と離さない。甘く優しく囁いてオリジナルの額に唇を寄せる、あの飼い主。もう目も開けられないほどに弱りきったオリジナルは、それでも幸福そうに微笑むだろう。そんなオリジナルを飼い主は愛おしげに見つめて、しっかりと抱き直して、そして身軽にフェンスを乗り越えて。
「嫌だ!」
迸った自分の声に驚く。聞かせる相手も居ない無意味な声を発した自分に、そのあまりにも自分本位な内容に。だが、それが確かに自分の本心であることも、分かっていた。
あの飼い主が二度とこの家に戻らないかもしれないという仮説は、自分が飼い主に決して愛されないという事実以上の絶望だった。あの善良で美しい人間が物言わぬ骸と成り果て、その声も温度も笑顔も何もかもがメモリの中にだけ刻み込まれ、宝石のようなその記憶だけが形見となることには、耐え難かった。
飼い主に、生きていてほしかった。もう二度と優しく呼び掛けてはくれぬ人だと、その手は二度と自分に触れることはないと、その笑顔は決して自分のものにはならないと、確かに知っていても。
けれど彼らにとっては、共に死ぬ事ことこそが最良の幸福なのかもしれない。また、永い別離に引き裂かれるよりも。もう二度と巡り会えないかもしれない恋人と、また遠く隔てられるよりも。
生き続ける事こそが飼い主の絶望であるなら、それを邪魔立てする権利のある者など居ない。広い世界のどこにも、そしてきっと天の上にさえ。
何の権利も能力も持たない、飼い主の暗く深い悲嘆を薄めてやることさえできない自分には、尚更その資格はない。それを理解していても、飼い主を喪うかもしれないという恐怖はあまりにも大きかった。
きっと、帰ってきてはくれない。再び玄関扉を開けるのはきっと、訃報を携えた役人か警察官なのだ。きっと、そうなるのだ。絶望的に考えながら、瞼を閉じて項垂れた。
そう言い置いて、微笑みと抱擁と口付けを残して、飼い主は今日も家を出ていった。
定期的なその外出の理由も行き先も、今は教えられている。彼の娘夫婦の墓参りだと言う。養女であったために彼の不死を受け継いではいなかった娘の死を、三百年もの長きにわたって悼み続けているのだと。
玄関先で飼い主を見送って、扉を施錠する。そして部屋に戻ろうと歩き出した時に、ふと思いついたことがあった。
どうして、今の今まで思い当たらなかったのだろう。自分に呆れながら居間へと駆け込んで、隅に置かれている電話機に歩み寄る。電話番号は、調べるまでもなく知っている。有事に備えてメモリに刻み込まれている、無愛想な数字の列。
だが受話器を取ろうとして、一瞬だけなぜか躊躇をした。そのことに自分で戸惑う。
何を、躊躇うことがある。これは飼い主のためにすることだ。所有者のために尽くすことは、機械の義務なのだ。
そう自分に言い聞かせて、小さく呼吸して、受話器を取る。タッチパネルに浮かび上がる数字に、指先で触れた。
受話器を置いて、思わず溜息を吐く。半ば想定していたことではあったが、やはり対応はにべもなかった。個人情報は漏らせない、の一点張り。
だが、あちらがその気ならば、こちらにも考えがある。思考を切り替えた。
書斎に入って、幾度か飼い主とともに扱っている情報端末を起動する。迷いなくネットワークに接続した。
自分も機械。クラッキングなど、容易いことだ。
「今日一日、出掛けても良いだろうか」
朝食の席で、勇気を振り絞ってそう言い出した。向かい合う飼い主が、邪気のない様子で瞬きをする。
「勿論構わないよ。珍しいね」
あっさりと許可されて安堵する。最初から、外でもどこへでも行っていいとは言われていたけれど。
「私も付いていこうか?」
「いや。自分だけで行きたい」
飼い主と分担しながら片付けを済ませ、外出のための身支度をする。だがいざ玄関へ向かおうとしたところで、呼び止められた。
「交通費が要るだろう。幾らあれば足りるかい?」
尋ねられたことで、ようやく気付く。そうだ、どこに行くにも金がかかるだろう。
慌ててメモリを呼び出したが、見もしなかった運賃の記録はどこにも保存されてはいない。狼狽していると、可笑しげに笑う飼い主の声が耳に入った。
「君はしっかり者のようで、少しうっかりしているね。そんなところも、ずっと変わらない」
可愛いよと甘く囁かれ、頬に唇を寄せられる。温かで柔らかな感触だった。
すぐに身を離した飼い主が、衣嚢に手を入れて使い込まれた財布を抜き出した。そのままそれを渡されて慌てる。
「何を……」
「好きに使ってくれて構わないよ。私は、今日は出掛けないから」
でも早く帰ってきてほしいな、君が居ないのは寂しいからね。甘やかな声でそう囁かれて、今度は唇に口付けられて、そしてにこりと微笑まれた。
「気を付けて行っておいで。楽しい一日を」
公共交通を幾つも乗り継いで、辿り着いたのは大きな病院だった。やや古びた外観だったが、足を踏み入れれば最新式の機械機器が目につく。
受付で確認を取り、教えられた病室へ向かった。長期入院患者のための病棟の、最も奥まった部屋。人の気配の少ない、虚ろで無機質な廊下を進んでいく。
病室の前で最後に躊躇して、それからノックをした。ややして入室を許可され、部屋に入る。
力無く寝台に横たわっている、その人間と視線が合う。病みやつれた男は、淡く微笑んだ。
「……お前が訪れるような、予感がしていた」
重い体を引きずるようにして、飼い主の家に戻った。朝から出掛けたというのに、とうに陽は没しきっている。ただ等間隔の街灯の光だけが、無神経な明るさで闇を引き裂いていた。
鍵を開けて家に入る。玄関を施錠していると、奥から足音が駆けてきた。
「おかえり、トリスタン」
遅いから心配したよ、疲れているだろう。食事にするかい、先に風呂にするかい。飼い主の優しい言葉が、上滑りしていく。
さも当然のような仕草で手を取られて、胸が軋む。その温かさに、向けられる微笑みの柔らかさに、責め立てられるようだった。
言いたくない。明かしたくない。そんな身勝手な望みが、胸を貫いた。
このまま知らぬ顔をして、何事もなかったかのように装って、この飼い主と暮らしていたい。あの男とて、きっとそれを許してくれる。
あの男自身からは、固く口止めをされているのだ。この飼い主に全てを明かすことこそが、あの男への背信なのだ。そう自分を言い包めようとしても、それが欺瞞であることも分かっていた。
それは許されないことだ。思考回路の理性的な部分は、無情な声で自分を断罪した。
自分は何を、馬鹿なことを考えている。きつく目を閉じた。
邪魔物は、紛い物は、自分の方だ。この自分には権利など、初めから何一つとして無い。ただ、あるべきことをあるべき場所に返すだけのことだ。
「Master……」
「フィリップ、だよ」
間髪入れずに遮られても、呼べはしない。今となっては、尚更だった。
「聞いてほしい」
「何だい?」
勿論聞くとも、君の話を聞かせておくれ。優しい微笑みで促されて、また胸が軋みを立てる。
だが、言わなくてはならない。小さく息を吸って、言葉を押し出した。
「私は貴方の『トリスタン』ではない」
「……また、その話か」
少し眉を寄せて、飼い主は答えた。こちらに体を向け、諭すように言い聞かせてくる。
「何度も言っているだろう。君は確かに私のトリスタンなんだ。私が君を見間違えることなんて、絶対にあり得ない」
飼い主の鳶色の目が、ひたとこちらを見据えている。一欠片の疑いもなく、この自分を三百年の恋人と信じきっている瞳だった。
「君がなかなか思い出せないことは、以前もあったよ。それでも必ず、君も少しずつ思い出してくれた。私を、私との思い出を、いつだって」
飼い主の口調に熱が篭る。彼自身に言い聞かせるように。無意識の不安を、自ら押し殺すように。
「だから必ず、君だって思い出せる。ずっとそうだったんだ。今回だって必ず……」
「違う、そうではない」
堪らなくなり遮った。不意を突かれた様子の飼い主の目を、真っ直ぐに見返す。
言いたくない。
言わなければ。
小さく息を吸って、覚悟を決める。全てを終わらせるための言葉を、押し出した。
「確かめてきた。本物の『トリスタン』は、オリジナルは、別に居る」
「何を、言っている?」
掠れる声で飼い主が尋ねたのは、時計の秒針が一巡するほどの空隙の後だった。驚愕に見開かれた鳶色の瞳を見返して、言葉を噛み締めながら、伝えねばならない事実を声に乗せた。
「私のモデルとなった、私を造らせた発注者である、人間がいる。まだ生きている。彼は、本物の『トリスタン』は、貴方を覚えている」
「本、物?」
呆然とした声が繰り返したその単語が、胸に突き刺さって小さな痛みを訴える。あえて、自分から、その語彙を選んでおきながら。
だが、それは明白な事実なのだ。自分が紛い物であることは、自分があの人間の、『本物のトリスタン』の、不完全なレプリカでしかないことは。小さく呼吸して、己を奮い立たせて、もう一度声を押し出した。
「会ってやってほしい。彼も本心では、貴方を待っているのだから」
「……なら」
ようやく理解が追いつき始めたらしい飼い主が、口を開いた。常の理性的で落ち着いた態度も失い、飼い主は混乱した口調で問い掛けてきた。
「ならばどうして、その『彼』は私に会いに来てくれない。どうして、君と一緒に来てくれないんだ」
掴みかからんばかりの勢いで、ひたむきな必死さで、飼い主に詰め寄られる。飼い主から『トリスタン』に向かう深く強い感情を、改めて思い知らされる。
それほどまでに『彼』を思っている飼い主に告げるには、事実はあまりにも痛ましい。それでも、努めて事務的な口調でそれを告げるほかなかった。
「もう何年も前から、入院治療を受けている。末期に近い病状だ。到底出歩けない」
「っ!」
冷徹で無慈悲な真相に、飼い主が息を呑む。繋がれたままだった飼い主の手から力が抜け、重力に従って落ちる。人造皮膚に馴染んでいた飼い主の体温は、すぐに夜気に冷やされて消え去っていった。
「……だが、だが何で、彼は……ならば、君は……」
君は、一体何なんだ。かろうじて飲み込まれた言葉が、また胸に突き刺さった。
そうだ。『本物のトリスタン』の居るこの世界に自分が生まれてくる理由など、本当は存在しないのだ。自分が存在を許される理由など、初めから何ひとつ無いのだ。それを知らないのは、オリジナル自身だけなのだ。
「若い頃に事故に遭い、全身に酷い火傷と傷がある」
「だから?」
間髪入れずに問い返されて、場違いにも笑い出したくなる。滑稽なほどに理屈の通らないその理由では、この飼い主が納得する筈もないのだ。
「それが全てだ」
「理由になっていない」
そうだ。この飼い主ならば、必ずこう言うのだ。自分にさえ分かるその程度のことに、なぜオリジナルは気付かないのだ。腹立たしいような痛快なような擬制感情が、胸を埋め尽くした。
「そのような姿では、貴方に会えないと。貴方に嫌われることが、貴方に幻滅されることが、恐ろしいと。そう思って、オリジナルは私を作らせた。貴方が私を見つけることを祈って」
会いたい、会えない、会うのが怖いと、オリジナルは泣いていた。痛ましい無数の傷に覆われていても、その姿は美しかった。病みやつれた頬を伝い落ちた涙は、神聖なほどに清らかだった。
ああ、やはり自分は『トリスタン』ではないのだと。その涙を見て、改めて悟った。
紛い物の涙しか流せない、感情を持たない、思い遣りの心など持つこともできない、この自分。そんな自分は『あの人』に想われるのに足る存在ではないのだと、思い知らされた。
勝てない。敵わない。成り代わることなどできない。初めから無理なことだった。それは、あまりにも明瞭で厳然とした事実でしかなかった。
狼狽しながら涙を拭いてやろうとした手を、痩せ衰えた手が包み込んだ。必死に涙をこらえているのが明白な様子で、それでもオリジナルは壊れ物のような笑みを形作った。
『彼を、幸せにしてやってほしい。お前ならば、彼と添い遂げられるから。お前ならば、私のようには、すぐに彼を置いていくことはせずに済むだろうから』
私の代わりに、どうか。軋るような祈りが込められた、涙に濡れた瞳。骨と皮だけのようなその手には、不釣り合いなほどの力。
頷くことしかできなかった。他にどうすることもできなかった。オリジナルは涙に濡れた目で微かに微笑んで、一つの古い都市の名前を呟いた。その音声入力が自分のシステムに眠っていた小さなロックを解除したのを、確かに感じた。
「何を、勝手な……!」
飼い主が呻くように呟いた。苦しげに顔を歪め、きつく拳を握りしめている。
「私がどれだけ、どんな想いで、彼を待っていたと思ってるんだ。どんな姿でも、何も関係ない。私がどれほど彼を……っ!」
「……貴方なら、そう言ってくれると思っていた」
呟くように言いながら、胸が小さく鋭く痛むのを感じた。
そうだ、この人が求めているのは『彼』なのだ、本物の『トリスタン』なのだ。紛い物でしかない、こんな自分ではなくて。
「もう長くない。どうか会ってやってほしい。せめて最期に、一目だけでも」
「何だって?」
顔色を変えた飼い主に、借りた財布と病院所在地のメモを押し付ける。面会時間など、知ったことではない。
「早く」
促すと、釣り込まれるように頷いた飼い主が身を翻した。家奥に駆け込んで、取るものも取り敢えず身支度をしている音。
慌ただしく外套を羽織りながら廊下を駆けてきた飼い主が、玄関扉に手をかける。だがなぜか、出ていかんばかりにする飼い主はこちらを振り返った。
「君は?」
「何?」
思いもよらぬ言葉に虚を突かれる。飼い主は焦燥を目に浮かべ、けれどひたとこちらを見つめた。
その瞳のあまりの真っ直ぐさに、清らかな光に、射抜かれる。耐えきれずに視線を逸らした。
その強い瞳に、認めたくない、知りたくもない本音を暴き出されそうになる。オリジナルの存在を隠そうとした浅ましい本心まで、きっとこの飼い主は見透かしている。
小さく呼吸して、言葉を押し出した。努めてそっけない声を取り繕う。
「邪魔はしたくない」
「邪魔だなんて……」
「恋人達の再会に、機械は必要ない」
思いの外に、強い語調になった。気圧されたように黙り込む、飼い主の気配。
「……じゃあ。行ってくるよ」
迷うような間をおいてそう言った飼い主に、もう一度目を向けた。先ほどと変わらない真っ直ぐな瞳に、見つめ返される。
普段の外出のように抱きしめてくれようとした腕が、中空で躊躇した。迷うような一瞬を置いて、所在なさげに降ろされる。また、小さく胸が痛んだ。
「先に休んでいてくれ。いつ帰れるか分からないから」
その言葉だけを残して、飼い主は家を飛び出していった。舗道を蹴り駆け去っていく靴の音が、遠ざかる。
飼い主の足音の残響さえ聞こえなくなってから、玄関扉に歩み寄った。空々しい音を響かせて、扉を施錠する。
飼い主の居ない家奥に戻る意欲が湧かず、玄関扉に背を預けた。崩れ落ちるように、その場に座り込む。硬い床の冷淡な温度がスラックス越しに染み込み、胸の奥のメインギアを冷やした。
これで良いのだ。これで正しいのだ。
きっと間に合う。まだ息をしているオリジナルと、あの飼い主は必ず目を見交わし語り合う事ができる。そうに決まっている。そうでなければならない。
願わくば、奇跡が起きてくれたなら。愛する男と再会できた喜びが、オリジナルを蝕む病魔を追い払ってくれたなら。
そうなれば、自分などは用済みだ。寝室に呼ばれることもきっとなくなる。優しく微笑みかけてもらうことも、愛しげに頬を撫でてもらうことも、力強い腕に抱きしめてもらうことも、そっと口付けてもらうことも、大切そうに見つめてもらうことも。もう、二度と。
その全ては、あの飼い主の微笑みも手も腕も唇も眼差しも声も、全てはオリジナルだけのものなのだから。
あの人は、あの飼い主は、フィリップは、初めから自分などの手に入る存在ではなかったのだ。機械風情が人間に愛されようなどと、願うこと自体がおこがましかったのだ。自嘲の笑みを漏らした、その時だった。
眦から、水が滴り落ちた。
驚きに瞬きすら忘れた目から、人造の眼球から、水はとめどなく溢れ落ちていく。混乱してから、ようやく思い当たった。
これは、涙だ。性行為を盛り上げるために搭載された人工の涙腺が、前触れもなく作動して水を放出し始めているのだ。
だが、どうして。なぜ。性行為の最中でもないのに。今ここには、偽涙で欺くべき相手など居ないのに。
この誤作動は、どうしたことだ。修理は可能な故障だろうか。止まらぬ涙を乱暴に拭った時、もうひとつの大きな不具合を自覚した。
締め付けられるような痛みが、胸を苛んでいる。呼吸機関が機能停止しているのにも似た激痛が、胸部を覆い尽くしている。息苦しいようなその苦痛に、声も出せず喘いだ。
自分は、このまま壊れていくのだろうか。
終焉を予期しても、恐怖など生まれなかった。形ある全てのものには、滅びが訪れるのだから。遅かれ早かれ、自分もスクラップになる宿命ではあったのだから。
いつか飼い主がこの家に戻ってきた時、彼は自分の残骸を目にして、何を思うだろう。少しでも、惜しんでくれるだろうか。二度と作動しないこの身を、もう一度だけでもその腕に抱いてくれるだろうか。
朦朧とそう考えた時、飼い主の温かな笑顔の記憶を呼び起こした時、一際激しい痛みが胸を刺し貫いた。思わず服の上から左胸を掴んだ時、唐突に自覚する。
これは、悲しみという感情なのだ。自分は今、悲しんでいるのだ。
だが、なぜ。何を、自分は悲しんでいるのだ。悲しむべき事柄など、何があるというのだ。
偽涙が流れるに任せたまま、困惑する。自分の思考回路の履歴を辿ろうとするが、混乱した回路は正常に働こうとしなかった。
ただ飼い主の笑顔の映像記憶だけが、明滅するように視界にちらついている。それに呼応するように、生命が脈動するかのように、悲しみは膨れ上がっていく。
『トリスタン』
優しい声が、自分のものではなかった名を呼ぶ愛しげな声が、その聴覚記憶が、人工内耳に蘇る。その幻の響きにまた貫くような痛みを感じた時、ようやく理解した。
悲しいのは、苦しいのは、飼い主がこの自分を愛さないという事実だ。飼い主の心が永遠に自分には向かないという当然の事柄が、この悲哀の原因なのだ。
自分は『トリスタン』ではない。決して『トリスタン』にはなれない。どれほど強く願っても、永遠に叶わない。紛い物でしかない自分の手は、『あの人』には届かない。
あるいは絶望と名付けることもできるのかも知れない、悲痛な擬制感情。その苦しみに喘ぎながら、ただ偽涙を落とし続けることしかできなかった。
擬似涙腺の誤作動は、いつの間にか収束していた。
目元が熱を帯びている。その部位を鏡に映せば赤く色付き少しの腫れを見せてもいるのだろうと、これまでの経験から知っている。この機械の身には、忌々しいまでのリアリティが追求されているから。
まだ正常に機能しない思考回路でしばし考え、そして身を引きずるように立ち上がった。いつまでも玄関先に座り込んでいたところで、なんの利益もないのだから。
だが家奥に向かおうとして、結局はそれを諦めてしまった。数歩だけ進んだ廊下でまた腰を下ろし、努めて思考回路を働かせようとする。
擬似涙腺の誤作動が作り出した目元の変化は、自分の意思で取り除くことができる。見せる相手もいないそのような異常は、早く直してしまうに限るものだ。だから早々に修復システムを作動させ、デフォルトの状態を取り戻した。
目元に指で触れて原状が回復されたことを確かめ、小さく息を吐いた。暗い天井を見上げ、まだ完全な機能を取り戻さない思考回路を働かせようとする。けれどそれは、上手くいかなかった。
まるで何かの埋め合わせのように、唐突にメモリの奥底から蘇ってきた声があった。いつか飼い主の囁いた、甘い毒のような言葉。
『一緒に死のうか』
幻のその響きに、恐怖が背筋を伝い降りた。それはその言葉によって呼び起こされた感情の記憶などではなく、唐突で不吉な予測が今まさに生み出したものだった。
飼い主は、オリジナルと共に死ぬつもりなのではないだろうか。この家を出ていった時にはそのつもりはなくとも、命の灯火の消えかけているオリジナルの姿を目にして、心が動くのではないだろうか。病み衰えたオリジナルを抱きかかえて暗い廊下を駆け抜ける飼い主の姿が、ありありと思い描けた。
残酷なほど明るい満月に照らされる、病院の屋上へと辿り着いて。邪魔者が入って来られないように、外から鍵をかけて。そして長い影を引きずりながら、オリジナルを腕に抱いた飼い主は屋上の縁へと歩いていく。扉を叩く音も制止の声も聞き捨てて、決して振り返ることなく、迷うこともせずに。
愛しているよ、これでずっと一緒だ、もう二度と離さない。甘く優しく囁いてオリジナルの額に唇を寄せる、あの飼い主。もう目も開けられないほどに弱りきったオリジナルは、それでも幸福そうに微笑むだろう。そんなオリジナルを飼い主は愛おしげに見つめて、しっかりと抱き直して、そして身軽にフェンスを乗り越えて。
「嫌だ!」
迸った自分の声に驚く。聞かせる相手も居ない無意味な声を発した自分に、そのあまりにも自分本位な内容に。だが、それが確かに自分の本心であることも、分かっていた。
あの飼い主が二度とこの家に戻らないかもしれないという仮説は、自分が飼い主に決して愛されないという事実以上の絶望だった。あの善良で美しい人間が物言わぬ骸と成り果て、その声も温度も笑顔も何もかもがメモリの中にだけ刻み込まれ、宝石のようなその記憶だけが形見となることには、耐え難かった。
飼い主に、生きていてほしかった。もう二度と優しく呼び掛けてはくれぬ人だと、その手は二度と自分に触れることはないと、その笑顔は決して自分のものにはならないと、確かに知っていても。
けれど彼らにとっては、共に死ぬ事ことこそが最良の幸福なのかもしれない。また、永い別離に引き裂かれるよりも。もう二度と巡り会えないかもしれない恋人と、また遠く隔てられるよりも。
生き続ける事こそが飼い主の絶望であるなら、それを邪魔立てする権利のある者など居ない。広い世界のどこにも、そしてきっと天の上にさえ。
何の権利も能力も持たない、飼い主の暗く深い悲嘆を薄めてやることさえできない自分には、尚更その資格はない。それを理解していても、飼い主を喪うかもしれないという恐怖はあまりにも大きかった。
きっと、帰ってきてはくれない。再び玄関扉を開けるのはきっと、訃報を携えた役人か警察官なのだ。きっと、そうなるのだ。絶望的に考えながら、瞼を閉じて項垂れた。
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