身代わり羊の見る夢は

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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身代わり羊の見る夢は【2】

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 週に一度、飼い主は出掛けていく。必ず暗くなる前に帰ってきては、少し疲れた顔をして笑う。
 相変わらず、飼い主の寝室に呼び出されることも、逆に飼い主が忍んでくることもない。ただ単調なほどに穏やかな毎日だけが、淡々と過ぎていく。
 何も役立ててもらえないままに。何の役にも、立てないままに。
 役立たずの自分。何の役にも立たない自分。自分はなぜここにいるのだろう。何のために、何の意味があって。
 外に出ても構わないと、どこへ行ってもいいと、そう言われてはいる。けれど行きたい場所も、行くあてもない。帰れる場所は、この飼い主の下にしかない。
 ここはまるで、水でできた檻の中。優しくて、絡み付いてきて、息もできない。
 そう、この家はまさしく水の檻だ。優しさが重くのしかかってきて、窒息しそうに気詰まりで。
 振り払うことも、壊すこともできない。氷なら、鉄なら、鋼なら、まだ救いがあったのだろうに。
 注がれる愛おしげな眼差し。あまりにも優しすぎる抱擁。頬に触れるだけの口付け。全てが手足に、喉に絡み付いて、纏わり付いて、じわじわと締め上げられていく。いっそ一思いに首を捻じ切り、叩き壊してくれたならば。
「そろそろ休もうか」
 飼い主に尋ねられて、物思いから覚めた。頷けば優しく手を取られ、立ち上がらされる。
 今夜こそ抱いてくれるのか。今夜こそ、自分を使ってくれるのか。淡い期待は寝室の前で、あっさりと裏切られる。
「よくお休み」
 優しい抱擁。羽根のように頬に落とされる口付け。そして、飼い主は体を離してしまった。
 もう限界だった。背を向け去っていこうとする飼い主の、その広い背中に、言葉を迸らせた。
「貴方は何がしたいのだ、私をどうしたいのだ。私を飼い殺しにして楽しいのか!」
「トリスタン?」
 驚いたように振り返る飼い主。その鳶色の瞳を強く睨みつけた。
「私を買い取っておいて、なぜ抱きもしない。なぜ何も命じない、なぜ何もさせない。私は何のためにここにいるのだ!」
「トリスタン……」
 伸ばされる手を振り払う。言い訳など聞きたくない。優しすぎる抱擁など、もう欲しくない。
「私は……」
 言葉が縺れる。胸に痛みが走る。その理由が分からず僅かに戸惑ったが、すぐに憤りがそれを押し流した。自分への当惑を振り払うように、言葉を吐き散らす。
「私は貴方のラブドールに過ぎないのに!」

 二三二一年六月七日製造、製造番号V九四三〇番。性行為用男性型アンドロイド、ラブドール、ダッチワイフ、セックスボット。
 そのような呼称になど、何の意味もない。要するに自分はただの機械でしかなく、淫らな目的のために製造された消耗品に過ぎないのだ。
 最初の飼い主は、監獄の署長だった。冷たい目をした、痩せた老人だった。性行為に限らず、頻繁に殴られ、蹴られ、鞭打たれた。
 その人が飽きると、看守達の慰労用に払い下げられた。数えきれない刑務官達が、入れ代わり立ち代わりこの体を訪れては欲を吐き出していった。
 ある時、監獄の視察に訪れた警察の上層部の人物になぜか気に入られて、その人の元へと送り出された。その人は自らこの身を抱くことよりも、部下だとか客人だとかと自分をまぐわわせて眺めることを楽しむ人だった。けれどその人にもやはり飽きられ、今度は警察署へと移された。
 だが警察署にいた期間は短かった。治安維持に奉仕すべき機関に淫らな用途の機械を置くことが市民のバッシングの対象となり、処分のため仲介業者に引き渡された。そして競売にかけられ落札されて、今自分はここに、この飼い主の前にいる。
 擬制感情をもつロボットなど、何世紀も前から珍しくもなくなっている。喜怒哀楽の真似事ならばできる。他のアンドロイドにも容易く行える程度のことでしかない。
 連続使用されれば疲弊する。エネルギー補給は食事の摂取によって行われる。各種メンテナンスは目を閉じ機能停止した「睡眠」状態の中で行われる。
 ほとんど生身の人間と変わらない生活を送ることができるけれど、確かにこの自分は機械なのだ。この身は、ただのモノに過ぎないのだ。
 そのような自分を、この飼い主は人間のように扱おうとする。それが不可解で、訳が分からなくて、どうしていいのかもどうすればいいのかも分からなくて。
 ただの人形が欲しかったならば、自分である必要などなかった筈なのに。
「抱きもしないくせに、なぜ私を買った。何のために、何がしたくて、貴方は……っ」
 擬制感情が先走って、言葉にならない。ぶつけてやりたい言葉はまだ無数にある筈なのに、出て来ない。
 それが悔しくてもどかしくて腹立たしくて、飼い主から視線を引き剥がした。だがそうしたことで、憤りの対象を視界から締め出したことで、少しだけ論理的な思考を取り戻す。
 僅かながら冷静になると、芽生えるのは自身への呆れだった。自分の口走った言葉を悔いることなどしないけれど、それらが随分と身の程を弁えないものであったことを自覚する。
 機械如きが飼い主に食ってかかるなど、おこがましいにも程がある。何の権利も持たない、無機物でしかない自分などが、所有者を責めなじるなどとは。
 この忍耐強い飼い主にも、呆れられ幻滅されただろう。きっと明日には競売業者が呼ばれ、下取りの査定が行われる。
 気味の悪いほど優しいこの飼い主とも、今夜限りで別れるのだろう。それが残念だなどと、思いはしない。未練など、何もありはしない。けれど、不可解なこの飼い主がどこまでも不可解なままに終わる事だけは、残念なのかもしれなかった。
 飼い主から目を背けていると、頬にそっと手が触れた。その感触を怪訝に思い、視線を戻す。
 そして不意を突かれた。飼い主は困ったように、小さく微笑んでいたから。
「抱いてほしかったのかい?」
 思いもかけない問いに、唖然とした。まじまじと飼い主の顔を見る。飼い主は依然、少し眉根を下げて微笑んでいた。
 やっとの事で、返答を押し出した。当然の事実を、声に乗せた。
「……それ以外に、私にどんな価値がある」
「そんなことを言わないでくれ。君は私にとって、とても大切な人なんだよ」
 告げられた言葉を怪訝に思う。自分はヒトではなく、ただの機械だ。だがそれを指摘する前に、飼い主はまた口を開いた。
「君が傍に居てくれるだけで、私は幸せなんだ。君も同じ気持ちでいてくれていると思っていた。君の気持ちに気付いてあげられず、悪いことをしたね」
 この人は何を、なんと馬鹿なことを言っているのだ。あまりに愚昧な飼い主の言葉に、呆気に取られた。
 同じ「気持ち」など、あろう筈もない。自分はただの機械。感情など持たない存在。感情の発露に似た反応を返しても、それは全て紛い物に過ぎない。
 愛など、思い遣りなど、何も知らない。理解することもできない。
 驚きから覚める前に、飼い主がゆっくりと顔を寄せてきた。そして初めて、唇にキスが落とされる。
 寸の間躊躇し、それからおずおずと目を閉じた。唇を開けばぬるりと舌が滑り込んできて、舌に絡みつく。まだ躊躇いを拭えないままに、飼い主が仕掛けてくる口付けに応えた。
 優しいが執拗なキスに、息が上がっていく。思考回路が性行為モードに切り替わるのが、自覚できた。
 自分から舌を絡みつかせて、先をねだる。驚いたように震えた飼い主の舌は、けれどすぐに一層熱心に応えてくれた。
 ふらついた体を、しっかりと抱き寄せられた。自分から腕を伸ばして飼い主の背に縋る。ぴったりと体を密着させて、一層深く口付け合った。
 やがて、名残惜しげに飼い主が離れていった。眼を開けると、熱を湛えた鳶色の瞳にぶつかる。
「君の部屋と、私の部屋と。どちらがいい?」
 囁くように問われる。靄のかかったような思考回路で反芻し、呟いて答えた。
「お好きなように」

 手を引かれて導かれた先は、飼い主の寝室だった。他の部屋と同様に、家具は少ない。
 書棚、書き物机、壁の鏡、衣装箪笥。そして、一人寝には広すぎる寝台が、そこにはあった。
 場違いにも笑い出したくなる。傍に居るだけでいいなどとは、やはりただの嘘なのだ。やはりこの飼い主とて、自分を抱くつもりでいたのだ。
 それが当たり前だ。ラブドールを買い求めておいて、何もしない筈はないのだから。だからそんなことは、取るに足らぬことだ。
「本当に、いいんだね?」
 振り返った飼い主に、真剣な眼差しで問われる。何を今更と、迷わず頷いた。
「嫌だったら、すぐに言うんだよ」
 しつこいほどの念押しに呆れるが、頷いておく。それでようやく安心したように笑った飼い主に、優しく寝台へと導かれた。
 促されるまま寝台に腰を下ろすと、飼い主は身を屈めて優しく唇を重ねてきた。目を閉じ、それを受け入れる。自分から舌を差し伸べて、深い口付けをねだった。
 ぴちゃりと響く、淫靡な水音。微かに湧き上がる羞恥心を抑えて、自分から腕を伸ばして飼い主の背に縋った。緩やかにカーブした背の骨の並びを、その一つ一つを、指先で辿る。
 酸素が不足すると、思考回路の速度も落ちる。朦朧とし始める頭で、着ている服のボタンを外そうとする熱い指を感じた。その真似をして、自分も飼い主の衣服に手を伸ばす。
 口付けを続けながら、互いの服を脱がせ合う。ボタンを全て外されたシャツを、身を捩るようにして脱ぎ落とした。
 やがて、名残惜しげに飼い主が唇を離した。最後に唇を舌先でなぞって、離れていく。
 目を開けると、熱を宿した鳶色がすぐ傍にあった。欲に濡れた、けれど理性と気遣いの色を残した、飼い主の瞳。
 その色に苛立ちを覚えた。どうしてこの人は、そんな目をするのだ。どうして肉欲に溺れてくれないのだ。どうして、我を忘れてこの身を貪り尽くしてくれないのだ。思わず、なじりそうになった時だった。
「本当に、嫌じゃないんだね?」
 重ねて問われて、口を突く寸前だった詰問を見失った。その言葉のあまりの意外さに、こちらの「感情」の何も理解していない口振りに、面食らった。
 だがすぐに理解が追いついて、苛立ちが一層強まる。良い加減にしろと怒鳴りつけたくなる。覚悟など、最初からできているというのに。この行為の他に、自分が存在を許される理由は何もないのに。
 憤りに任せて飼い主をなじりそうになった唇を、かろうじて閉じた。返答の代わりに、腰のあたりに絡みついていたシャツも、肌着も脱ぎ捨てる。布切れを乱暴に床に放り捨てて、飼い主を見上げた。
「早く、貴方が欲しい」
 淫らに笑って、甘え媚びる声音で囁く。飼い主の瞳を熱が過るのが、確かに見えた。
「……後悔しても、知らないよ」
 熱く低い声で囁いた飼い主が、厚いその肩を覆っていたシャツを脱ぎ捨てた。年齢を感じさせない、逞しく若々しい肉体が露わになる。思わず目を奪われた。
 本当に、この飼い主は美しい人間だ。ラブドールとして欲情を煽るように設計されている筈のこの自分よりも、遥かに。
 視線に気づいた飼い主が、面白そうに笑った。揶揄うように尋ねてくる。
「見惚れてくれているのかな?」
「そうだと言ったら、どうする」
「とても嬉しいよ」
 言葉遊びを交わしながら、再度口付けを受け止める。そして、ゆっくりと押し倒された。
 ここまでの道のりは、気の遠くなるほどに長かった。ようやく全てが始まるのだ。期待に似た擬制感情が、胸を掠めた。

 体の隅々を撫で回される。体の表面を熱い唇が這い回る。半ば目を閉じて、それを感じていた。
 ラブドールとして造られたこの体は、感度が良い。拙く乱暴な愛撫を施されても高まるようにと、それさえ与えられずとも問題なく受け入れることができるようにと、設定され設計されている。そして、この飼い主の愛撫は意外なほどに巧みだった。
 それも当然だろう。この飼い主ほどに見目の良い人間が奥手である必要など、どこにもない。遊び慣れているのだろう。このような見栄えのしないラブドールを買い取ったことが不思議なほど、美しく人好きのする男なのだから。
 分かり切っているから、嫉妬などしない。そのような益のない擬制感情は、元よりプログラミングされてさえいない。だから胸の奥が小さく痛んだ感覚は、何かの誤作動なのだろう。点検を依頼する必要があるかどうかは、明日の朝に考えれば良い。
「トリスタン……」
 熱く呼ぶ飼い主の声。立ち上がった胸の飾りにごく軽く歯を立てられて、思わず息を呑んだ。飼い主が吐息だけで笑う。
「私の可愛いトリスタン。愛してるよ」
 好きだよ。愛してる。君は本当に美しい。
 絶えず甘い言葉を囁きかけながらも、飼い主は手を休めない。尊い宝物を扱うかのような繊細な手つきで肌を撫で摩り、くまなく口付けを落としていく。
 文句を言う筋合いなどない。けれど、少々もどかしかった。
 ラブドールごときを相手にするには、愛撫など本来は必要ないのだ。ただ突き立てて捩じ込んで揺さぶって吐き出してくれさえすればいいのだ。事実、この体を通り過ぎていった他のどの男たちも、愛撫などに無駄な時間を割きはしなかった。
 造り出されて以来初めて、丁寧に丁重に施される愛撫。それは嬉しいどころか、ただただむず痒い。
「も、う、早く……」
 早く終わらせてくれ、という言葉を飲み込む。なぜ抱かないと自分から詰め寄っておいて、それはあまりにも礼を失している。
 淫乱だね、いやらしいねと、嘲られるのを予期する。だが、想定は裏切られた。
「欲しいのかい?」
 顔を上げた飼い主は、軽く首を傾げて尋ねた。その態度に、拍子抜けすると同時に苛立つ。分かりきったことを聞くな。
 この自分は、この身は、ただのラブドールなのだ。飼い主がその欲望をぶつけてくれなければ、存在価値など、ここにいる資格などないのだ。
 なぜそんなことも理解できない。なぜ役立ててくれない。見当違いの優しさに苛立って、けれどそんな思いを飼い主にぶつけることもできなくて、口を噤むことしかできない。
 だから苛立ち紛れに、脚を動かして飼い主の股間を膝で押した。確かに強張っているその熱に満足する。思いがけなかったらしいその刺激に、飼い主が呻いた。
「やめ、なさい」
「欲しいのか、と聞いたな」
 狼狽した声を聞き捨てて、艶やかに笑ってみせた。わざと淫らな声で囁く。
「欲しいとも。早く、本当に貴方のものになりたい。早く、貴方に征服されたい」
 甘え媚びる声は毒のようだ。自分で考えて、可笑しくなる。
 そうだ、自分は毒なのだ、きっと。この美しい飼い主を堕落させるため、自分は魔の国から遣わされたのだ。
 この身は機械のリリト、誘惑し堕落を唆す蛇。この清らかで善良な飼い主を肉欲に溺れさせるために、自分はきっと造られたのだ。
 だから、早く堕ちてこい。早く、この体に溺れてしまえ。淫らな笑みの裏側で、声に出さずに呟いた。
 味見させてしまえば、虜に出来る。傲慢と思われようとも、その自負がある。永久に繋ぎ止めることはできなくとも、数年の間ならば、きっと。
 セックスは麻薬と同じ、依存性の快楽だ。ひとたびそれに嵌ってしまえば、容易くは抜け出せない。この身にプログラミングされた性技を余すところなく駆使すれば、どんな男でも夢中にさせてやれる。美しく思慮深いこの飼い主とて、例外の筈はない。
 腕を伸ばして、飼い主の首に絡ませた。自分から触れるだけの口付けをする。そして鳶色の目を覗き込んで、囁いた。
「勃たないと言うならフェラチオでも、イラマチオでも、貴方のお望みのままに。だから早く、貴方をくれ」
 甘えた声で囁いて、また淫らに笑ってみせる。目を見開いていた飼い主は、やがてゆっくりと苦笑した。
「……本当に君は、私を煽るのが上手いね」
 今度は飼い主から、触れるだけの口付けをされる。そして、後ろに熱が押し付けられるのを感じた。熱く硬い、その感触。
「分かるだろう。私も、早く君の中に入りたい。早く、君を確かめたいよ」
 ようやく与えてくれるのか。ようやく、本当に所有してくれるのか。その予期に、満足が胸に満ちた。
 だが何を思ったか、飼い主はまた体を離してしまった。それを怪訝に思う自分を尻目に、飼い主が脇机からローションを取り出す。
 この期に及んで何をするのか、と慌てた。そのような行為は必要ない。それほどまでのリアリティなど、この機械の体には備わっていない。
「そのままで、大丈夫だ!」
「私がしたいんだ」
 思いがけない強さで言い放たれ、それ以上には何も言えなくなる。羞恥心に打ち震えながらも、侵入する指を受け入れるほかなかった。
 造り主はなぜ、自分をこのように設計したのだろう。内部を蠢く指の感触に耐えながら、疑問に思った。
 単なるラブドールに、このような面倒な擬制感情と感覚など、本当は必要ないのに。羞恥心も、痛覚も、快感の涙も、絶頂も、何一つ。
『面倒臭い奴だな』
『ナカの具合は悪くないが、娼婦とヤる方がまだ面倒がない』
 この体を通り過ぎていった看守達は、警官達は、そう自分を罵倒した。その通りなのだろう。それともこの今の飼い主のように前戯さえ楽しめる人を想定顧客として、自分は製造されたのだろうか。
 そっと指が抜かれるのを感じた。同じ場所に、熱の塊が押し付けられる。それを受け入れる場所が、ボディの奥が、待ち侘びるように小さく疼いた。
「挿れるよ」
 熱く掠れる声に囁かれ、黙って頷く。そっと口付けてきた飼い主が、避妊具を被せた屹立を沈み込ませた。
「っ……!」
 緩やかだが着実な動きで、押し入ってくる熱。熱い。圧迫感。異物感。無駄そのものの不快な感覚に、思わず呼吸を止めた。
 このような感覚など、どうして与えた。こんな不必要な感覚を、どうして。造り主への届かない恨み言を、歯の間で噛み殺す。
 呼吸機関が正常に動作しなくなる。酸素吸入がうまく行われなくなる。擬似的な呼吸困難が思考速度を低下させ、視界に警告表示がちらついた。
「息をして」
 囁かれ、必死に震える息を吸った。少しだけ回復した思考回路で、自分の状態を認識する。自分の内側の「粘膜」が、ヒトの粘膜を模したその人造皮膚が、飼い主の雄を食い締めているのを感知する。
 苦しくて、ひたすらに苦しくて、呼吸もままならない。けれど、同時に深い満足を感じていた。
 腹腔が飼い主の熱で満たされている。そのことで、達成感とも異なる奇妙な擬制感情が芽生えていた。けれど、それをどのように名付けていいのかさえ分からない。
 やっと。そんな思いが、浮かび上がった。
 やっと利用してもらえた。やっと利用価値を見出してもらえた。そのような具合の満足のような、けれどどこかが、何かが、違うような。不可解な擬制感情が、胸の中に満ちる。
「大丈夫かい?」
 優しい手が頬を撫でる。熱い掌の感触は、思いがけないほどに心地好かった。
 瞼を持ち上げて、飼い主を見上げる。気遣わしげな眼差しが、真っ直ぐに注がれていた。
 心配など、気遣いなど、無駄なだけだ。ただ好き勝手に快楽を追ってくれさえすればいいのだ。そのために、そのためだけに造られた、この体なのだ。
 この飼い主はきっと、とても優しい人物なのだろう。機械を相手にしても、労らずにはいられないほどに。だが、それが余裕の表れのように感じられて、ひどく不快な思いがした。
 ならば、その抑圧された熱を煽ってやろうではないか。このお優しい飼い主でさえも、我を忘れられるように。この身を凶悪なほどの激しさで犯し、嬲り、攻め立てることができるように。
「貴方で、いっぱいだ」
 だから、淫らに笑ってそう囁いた。見上げた先で、飼い主の目に抑えきれない熱が過る。そのことに満足した。
 それでいい。熱に溺れて、獣のように犯してくれればいい。今までこの体を通り過ぎた男たちのように、この身を使い潰してくれればいい。
「これ以上、煽らないでくれ」
「なぜ」
 この期に及んで平静を装って笑おうとする飼い主の余裕に、また苛立つ。淫らな笑みの裏側で、どうすればこの人は自分に溺れるのかと思考を巡らせる。だがその前に、困ったような声音で、飼い主が囁いた。
「君に、酷いことはしたくないんだ。優しくしたいんだよ」
「気遣いなどいらない。早く……」
 戯言になど耳を貸さず、淫らにねだってみせる。小さく息を呑んだ飼い主が、欲に濡れた眼差しでゆっくりと微笑んだ。
「後悔しても、知らないよ」

 あ、ぁ。んぁ、っ。耳障りな自分の喘ぎが、ほろほろと寝室に零れて落ちる。
 熱に霞み始めた思考回路で、腰を打ち付けてくる人を見上げる。視線に気づいた飼い主は、欲に濡れた瞳で精悍に微笑んだ。
「愛しているよ。私の可愛いトリスタン」
 囁いた飼い主が、口付けてくる。半ば開いたままの唇に舌が差し入れられ、舌に絡みついてくる。朦朧としながら、情熱的なキスに応えた。
 やがて口付けが解かれ、ゆっくりと離れていく唇。また、熱い声に囁かれた。
「好きだよ……」
 ラブドールごときを相手に何を言うのかと、ままならない思考で疑問に思う。そのような言葉を囁かれたところで、何一つとして変化は起こらないのに。
 私もだ、とでも応じてほしいのか。本当なのか、嘘ではないのか、とでも縋ってほしいのか。
 言ってくれなければ分からない。促してくれなければ、応えられない。ラブドールにしては上等の人工知能を搭載されているとはいえ、そのような複雑怪奇な因果など、自分には理解することはかなわない。
 どうすればいい。どうすれば、もっとこの飼い主を溺れさせることができる。困惑した時、記憶回路の片隅が動作するのを感じた。
『これが気持ちいいんだろう? 認めろよ』
『もっとください、と言ってみろ』
 看守達の、警官達の声が蘇る。嘲りの笑いが、耳の奥にこだました。
 羞恥も屈辱も感じなかった。命じられるがままに、卑猥な言葉を唇に載せた。それを、あの男達は喜んでいた。
 あの時も今も、自分は何も変わってはいない。淫語を唇に載せることに、躊躇いなど何一つない。
 この飼い主も、ああした言葉を吐いてやれば喜ぶだろうか。今以上に、淫らな熱に溺れてくれるだろうか。働かない回路で思考して、薄く期待して、唇を開いた。
「も、っと、奥まで……っ」
「トリスタン?」
 声を押し出してねだると、飼い主は寸の間だけ怪訝そうな顔をした。だがすぐに、何らかの理解が追いついたらしい。どこか痛ましそうな目をして、飼い主は見下ろしてきた。
「無理はしなくていい」
「無理、など……」
 反論しようとした唇を、唇で優しく塞がれた。触れるだけで離れた飼い主が、頬を撫でながら囁きかけてくる。
「もう何も言わないで。ただ、私に委ねて」
 それがお好みなら。ただの人形を抱くのがお好きなら。納得はいかないながらも、黙って頷いた。
 飼い主はまた微笑んで、もう一度口付けてきた。

 優しく緩やかに、しかし情熱的に、飼い主はこの身を犯す。その熱に巻き込まれ、引き摺り込まれて、けれどまだ、狂いきれない。
 腰を打ちつけてくる飼い主が、耳元に顔を寄せてきた。内部を違う角度で抉られて、思わず息を呑む。
「私を呼んで」
 耳朶を軽く噛まれ、囁きを吹き込まれる。ふるりと体が震えた。
 飼い主がそれを望むなら。それがこの人の望みなら。ならば、自分がそれを拒む理由など、何もない。
 だから、促されるままに唇を開いた。声を押し出す。
「Master……」
 囁いた声は、愚直に命令に従っただけのものだ。正しい遂行である筈だ。しかし、なぜか飼い主は首を横に振った。
「違う。名前を呼んでほしいんだ」
 思わぬ言葉に唖然とした。答えることも忘れていると、熱い手が頬に触れる。ひたと目を覗き込まれた。
「呼んでほしい。フィルでも、フィリップでも良いから、君の声で」
 甘い、熱い、切なげな囁き。たった一声を待ち望んでいる、その瞳。熱に浮かされる思考で、怪訝な思いで、鳶色の双眸を見上げた。
 この人は一体、何がしたいのだ。恋人ごっこでもしたいのか。
 恋人ごっこ。思い浮かべたその言葉が、ぴたりと思考に嵌まり込んだ。
 そうだ、まさしく「恋人ごっこ」だ。優しくしたい、だなどと言ってみせて、蕩かすような優しさで抱いて、数え切れないほどのキスをして、空疎な愛など囁いて、そして名前を呼べと命じるのは。
 そのようなつまらないことが飼い主の望みならば、いくらでも応えてやればいい。何でもないことだ、益体もないが害もないことだ。だから、期待を浮かべた瞳で見つめてくる飼い主を見上げて、唇を開く。声を押し出そうとする。
 だが、なぜか呼び掛けは声にならなかった。奇妙なエラー表示が、脳裏を点滅する。原因不明の、不可解な不履行。
 どうして。自分で自分に驚く。飼い主も怪訝そうな声を上げた。
「トリスタン、どうしたんだい?」
 分からない。何が起こっているのか、分からない。
 狼狽して飼い主を見上げる。何とかして呼び掛けようと、何度も唇を開く。だがどうしても、呼べなかった。
 困惑げだった飼い主が、やがてゆっくりと苦笑した。もう一度頬を撫でられる。
「無理は、しなくていいよ」
 けれどいつか、呼んでほしい。優しく囁く声に、束の間迷う。けれど結局は、頷くことしかできなかった。
「約束だよ。待っているからね」
 微笑んだ飼い主が、また口付けてきた。

 優しく穏やかだった律動が、徐々に激しさを増していく。飼い主の呼吸が、荒く獣じみたものになっていく。
 それが嬉しくて、満足が胸を満たして。だから、知らず微笑んでいたらしかった。
「余裕そうだね」
「んぁ……」
 揶揄うように囁かれ、少し強く奥を抉られる。思わず背筋が仰け反った。
 シーツに縋り付く手を外され、指を絡められた。熱い掌、しっかりと握りしめてくれる指。思わずその手に縋っていた。
「ぁ、あ……っ!」
「トリスタン……トリスタン……!」
 耐えきれず声を漏らすと、律動が一層激しくなる。高みへと追い上げられていく。飼い主も自分も絶頂が近いのが、感じられる。
 低く呻いた飼い主が、何を思ったか熱を引き抜こうとした。咄嗟に飼い主の腰に脚を絡める。腹に力を込めて、逃げていく雄を締め付けた。
「トリス、!」
 飼い主の言葉が途切れる。そして体の奥深い場所で、飼い主の熱が弾けた。避妊具越しに注がれる、熱い液体の感触。灼けつくような歓喜を感じたとほぼ同時に視界が白く弾け、意識が強制的にシャットダウンされた。
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