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身代わり羊の見る夢は【1】
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檻に掛けられていた厚い覆い布が引き剥がされた。強烈な光が一気に降り注ぎ、束の間だけ視覚を喪失する。静かにどよめく声が眩んだ視界の向こうから湧き起こり、眼前の鉄格子をすり抜けて流れ込んできた。
このようなつまらぬ姿を見て、何をそれほど珍しがっている。呆れながら、そう考えた。
醒めた気分で進行係の口上を聞き流しながらも、前もって言い付けられた通りの動作をした。長い金の髪を見せ付けるように肩から払い、挑発的に笑んで客席を見渡す。生唾を飲む音が、幾方向からも聞こえた。
語り終えた進行係が、高らかに木槌を打ち鳴らす。その残響も消えぬうちに、そこかしこで札が我先に上がり始めた。
千、千百、千二百。この自分を買い取るための値段が、目まぐるしい速さで釣り上げられていく。奇特な好事家が随分と多い事だと、呆れながらそれを聞いていた。
「三千!」
破格とも言える飛び上がりにも、何も感じなかった。静まり返る会場、狼狽の響きのある進行係の声、そして落札の木槌。
ああ、私は買われたのだ。何の感慨もなく、そう考えた。
檻から引き出され、落札者に引き渡された。掛けられたままの手錠が、重い音を立てる。
向かい合ったその相手は、既に若くはない男性だった。この自分よりもやや背の低い、がっしりとした体付きの、豊かな銀髪の紳士だった。精悍な顔立ち、鳶色の穏やかな目。
この人物が、自分の新しい所有者となったのか。やはり何の感慨もなく思いながら、無言で軽い礼をした。
にこりと親しげに笑った紳士が、こちらに差し伸べかけた手をふと止めた。傍らの係員に視線を向ける。
「手錠も、もう外してあげてくれ」
「は……」
係員が戸惑いの声を上げる。自分も僅かに驚いて、両手首に嵌められた枷を見下ろした。黒光りする、冷たく重い金属を。
「しかし、Mr……」
「いいから」
係員はしばらくの間ごねていたが、穏やかだが引き下がらない態度の紳士に根負けをしたらしい。やがて渋々といった様子で、手錠の鍵を取り出した。
ほとんど体の一部と錯覚するほど長く嵌められていたその枷が、ごくあっさりと外れ落ちる。手錠が外された手を、紳士は優しげな手付きで取った。
「怖がらないで。君は自由だ」
「君をどう呼べばいいかな。名前はなんと言うんだい?」
柔らかに体重を受け止める、濃紺の絨毯の廊下。出口を目指して歩きながら、隣に並ぶ紳士は屈託のない様子で問い掛けてきた。
「名などありません」
単純な事実を、何の感慨もなく答えた。自分のような人間未満の存在にわざわざ呼び名を与える物好きなど、いた試しはない。ただ無機質な番号で呼ばれてきた。
「そうなのか」
紳士はなぜか、憐れみと喜びの入り混じったような奇妙な顔をした。その表情を僅かに怪訝に思ったが、尋ねるより先に明るい声が重ねられる。
「なら、トリスタンと呼んでもいいかな?」
突然提案されて瞬く。だが、新しい飼い主が望むならば、異論などあろう筈もない。
「お好きなように」
「敬語はいらないよ、トリスタン。もっと気軽に話してくれ」
「は……」
思いもかけない言葉に、寸の間唖然としてしまう。その時、建物の外に出た。
広い通りを、乗り物が行き交っている。その一台を、手を上げた紳士が呼び止めた。
「しかし……」
「頼むよ」
さあ乗って、と促される。釈然としない思いを抱えたまま、乗り物に足を踏み入れた。
「まだ、名乗っていなかったね。私はフィリップというんだ」
乗り物が走り出すと、当然のように隣に腰を落ち着けた紳士はそう名乗った。これから宜しく、と手を差し出される。寸の間躊躇してから、その手を握った。
なぜこの紳士は、こんなにも丁寧に自分を扱うのだ。まるで当たり前の人間を相手にしているかのように、この取るに足らぬ自分に人権でもあるかのように。新しい飼い主の不可解な言動に、当惑した。
「……宜しくお願い致します」
「ああ、また敬語を使う」
フィリップと名乗った紳士が苦笑した。その表情のまま、諭すように告げられる。
「敬語は使わないでくれ。君と私は対等なんだ」
この紳士は一体、何を言い出した。呆気に取られ、反論すら忘れた。
自分とこの人が、対等である筈がない。自分はこの人のもので、この人の所有物で、この人の奴隷で、ただのモノでしかない存在だ。歴とした人間であるこの飼い主と、自分が対等な筈もないではないか。そう反駁しようとした矢先、乗り物が速度を落とした。
「まずは入浴して、着替えておいで。それから夕食にしよう」
家に入ると、飼い主はそう微笑んだ。こっちだよと、廊下を先導される。
大きな邸宅ではないが、手入れの隅々まで行き届いた住宅だった。家具や調度の類は多くはないが、家の主人の磨かれた感性を窺わせる品々が慎ましやかに並んでいる。
案内され足を踏み入れた浴室は、広々としていた。質素な優美さを備えたバスタブも、ゆとりのある作りのものだ。揃って大柄な自分と飼い主が共に入浴したとしても、狭苦しさは感じないのだろう。
「使い方は分かるかい?」
それとも一緒に入ってあげようか。冗談めかしてそう言われるが、可笑しくも何ともない。
「お望みとあらば」
「え……」
淡々と答えると、飼い主は目に見えて狼狽した。ならば最初から、くだらぬ戯言など言わなければ良いものを。
「……そのうちに、ね」
少し顔を赤くして、飼い主が笑った。感情を切り替えるように軽く頭を振り、そしてまた微笑む。
「着替えとタオルはここにあるよ。終わったら、さっき通った居間においで。ゆっくり入ってくれていいからね」
戸棚を軽く叩いて見せて、飼い主は出ていった。扉が閉まるのを見送って、小さく息を吐く。
あの新しい飼い主が自分を気に入ろうと気に入るまいと、自分には何の関わりもないことだ。気に入られなければまた売り払われると、ただそれだけのことだ。だから、緊張や気負いなどは全く浮かんでもこない。
だがひどく丁重に扱われることだけは、妙に気詰まりだった。この自分を人間と勘違いでもしているかのような、飼い主のあの不可解極まる態度は。
なぜ人間扱いなどするのだ。なぜ、この自分などに対して。困惑の思いが胸を満たす。
姿形こそ確かに人間に似ていても、決定的に違うというのに。致命的に、根本的に、自分は人間とは異なっているのに。
どこかの部屋の時計が遠くで鳴り、びくりと肩が跳ねた。些か長く、考えに耽ってしまっていたようだ。
飼い主をこれ以上に長く待たせるわけにはいかない。急いで服を脱ぎ捨てた。
埃を落として、髪を洗って、体を隅々まで洗って、バスタブを出た。体を拭いて、棚に用意されていた衣服を身につける。
真っ白で糊の効いたシャツ、ぴしりと折り目の入ったスラックス、そして落ち着いた色味の上着。どれも誂えたように、ぴたりと身に合った。
衣服を整え、長さのある金の髪を梳る。自分の姿が美しいなどとは全く思わないが、この髪だけはきっと悪くないのだろうとは考えている。
『そそる髪だな』
過去にこの体を通り過ぎていった男達の声が、聞こえた気がした。だが、何の感慨も湧かない。
櫛を置いて、改めて自分の姿を鏡に映す。光を跳ね返す金糸の髪だけは、さほど悪くないものなのだろう。だが、暗く無感動な眼は。無駄に高い背丈は。女のようなたおやかさとは対極にある、硬い体は。
このような姿のどこを、あの紳士は気に入ったのだろう。以前の飼い主達のようには、女にも男にも不自由などしないだろうに。全く理解できないまま、鏡に背を向けた。
浴室を出て廊下を歩く。そして教えられた居間に辿り着いて、その中を覗き込んだ。
「ゆっくりできたかい?」
足音に気付いていたのか、長椅子で本を開いていた飼い主は驚いた様子もなく顔を上げて笑った。目を細めてこちらを見つめ、満足そうにまた笑う。
「ああ。やっぱりよく似合う」
綺麗だよとさらりと言われても、何も感じなかった。何をどう繕ったとて、所詮は脱がせるために用意された衣服に過ぎない。
本を脇に置いた飼い主が立ち上がり、歩み寄ってきた。ごく自然な態度で手を取られる。
「夕飯にしようか」
夕餉は、質素だが品数が多かった。食器の類も、使い込まれてはいるが質の良い品々だ。
「君の口に合うかな」
優雅に食器を使いながら、少し自信のなさげな顔をして飼い主は笑った。その言葉を、僅かに怪訝に思う。
口に合うも合わないもない。食事はただの補給行為だ。だが、乏しい経験や知識と照らし合わせても、味は悪くないと思える。そう答えると、飼い主は安堵したように笑った。
「口に合わなければ、いつでも言ってくれ。調節するよ」
「これは貴方が、……作ったのか?」
驚きを覚え、思わず問い返した。敬語はやめろと再三に言われたから、少々不敬な口調を選ぶ。
「貴方、ね」
だがそれさえも、飼い主には不満であるらしかった。拗ねるような子供じみた表情で、わざとらしい親しげな様子で、こちらを軽く睨んでいる。
飼い主の不興の理由が分からず困惑するが、彼はこちらの質問にも答えてくれていない。誤魔化されたように感じられ、小さな不満を覚えた。
この自分とて、多少の料理をする能力はある。言い付けとあらば、調理法を調べて作ることとてできる。だというのにこの新しい飼い主は、わざわざ自分で食事の支度をしたのか。
「驚くこともないだろう? 一人暮らしが長いんだ。人を置くのは好きじゃなくてね」
さらりと明かした飼い主は、口元を品良く拭って立ち上がった。食卓を回ってこちらへやって来る。食べ終えている皿を見渡した飼い主が、親しげに微笑んだ。
「家の中は、明日案内するよ。今日はもう休もう」
「片付けくらいできる」
「いいから」
腕を取られて立ち上がらされ、案外に強い力で廊下にいざなわれる。飼い主に抗うこともできず、仕方なく導かれるままに足を進めた。
浴室で歯を磨き終えると、また当然のように腕を取られた。
腕を引かれるままに廊下を歩く。飼い主は一つの扉の前で足を止め、こちらを振り返って微笑んだ。
「ここが君の寝室だよ」
さあ、どうぞ。促されて、寸の間躊躇してから扉を開けた。
想定していたよりも、遥かに広い部屋だった。自分だけで使うには充分すぎるほど、自分などには大きすぎると言えるほどに。
書き物机がある。本の詰まった書棚がある。大きな衣装箪笥がある。そして、上背のある自分にも充分すぎるほど大きな、一つの寝台が置かれていた。
その寝台の幅や奥行きを目で測る。本当に大きい寝台だった。飼い主と自分が共寝に使うにも、多少詰め合えば充分に横になれるだろう。頑丈そうな作りをしているから、多少手荒い行為に至ったとしても問題はなさそうだ。
「気に入ってくれたかな?」
柔らかな声に振り返る。飼い主は微笑んでいた。
「この部屋にあるものは、全部君のものだよ。家の中のものも、何でも自由に使ってくれ」
穏やかな声音で告げながら、飼い主がおもむろに近づいてきた。優しく腕を取られ、寝台にいざなわれる。
ああ、抱かれるのか。頭の隅でそう思う。嫌だなどとは、思う資格はない。拒否する権利も、つもりもない。受け入れる用意は最初からできている。自分は、そうした存在なのだから。
だが寝台に腰掛けさせただけで、なぜか飼い主は体を離した。不可解に思って見上げると、また優しく微笑まれる。
「疲れているだろう、眠りたいだけ眠るといい。私も、明日はずっと家に居るから」
囁きかけながら、飼い主はその温かな手で頬に触れてきた。飼い主の顔が寄せられる。口付けられるのかと、従順に目を閉じた。
だがなぜか飼い主は、吐息のかかる距離で動きを止めてしまった。迷うような間を置いて、その唇が触れたのは頬だった。
驚きに思わず目を開けると、すぐに離れた飼い主と目が合う。少しばつが悪そうに微笑まれた。
「よくお休み、トリスタン」
囁いて、飼い主は体を離した。部屋を出ていってしまう。唖然とそれを見送って、ややして我に返った。
どうしたことだ。買い求めておきながら抱きもしないだなどと、あのような口付けとも呼べないキスだけを残して立ち去るなどと。理由が分からない。
抱くため以外の理由で、自分が買い取られた筈がない。自分はそのための存在なのだ、犯すためだけのモノなのだ。なのに、あの飼い主は、どうして。
必死で考えを巡らせて、ようやく一つの結論に達した。きっとそれが唯一の解だと思える、理屈の通った考えに至った。
おそらく飼い主本人も、競売に出掛けて疲れているのだろう。呼び出しは、きっと明日あるのだ。
ならば今日は言葉に甘えて、休むことにしよう。明日あるべき呼び出しに、正しく応じるためにも。
そう結論付けて、寝支度を始めた。枕の上に用意されていた夜着に着替えて、脱いだ衣服を畳んで、寝具に潜り込んだ。
柔らかに体を受け止める寝台に困惑する。自分には硬い床でも充分なのだがと考えながら、目を閉じる。すぐに意識は闇に溶けた。
六時間の睡眠の後、自動的に覚醒した。まだ見慣れない部屋と、柔らかな寝具。落ち着かない気分で起き上がる。
朝の光の差し込む明るい部屋で、着替えをする。衣装箪笥に収まっていた衣類は上質な手触りを伝え、そしてやはり誂えたようにぴたりと身に合った。
この衣服は一体、いつの間に揃えられていたのだろう。競売の商品目録によって自分を見知っていたとしても、元から買い取るつもりで用意をしていたとしても、これほどまで行き届いた準備が可能なものだろうか。
疑問を胸に抱えたまま髪を梳かし終え、部屋を出た。廊下を歩いていく。
飼い主の寝室だと昨夜教えられた部屋の扉は、開いていた。寸の間躊躇してから覗き込むが、中には誰もいない。
また廊下を通り過ぎ、居間へと辿り着く。最後に髪を撫でつけ直して、その部屋の中へ足を踏み入れた。
居間では飼い主が本を開いていた。顔を上げた飼い主が親しげに微笑む。
「おはよう、トリスタン。よく眠れたかい?」
本を閉じて脇に置いた飼い主が立ち上がった。歩み寄ってきて、気軽な仕草で腕を取られる。
「まずは朝食にしよう。用意できているよ」
向かい合って朝食をとっている間、飼い主はあれこれと話しかけてきた。よく休めたかい、今日は天気がいいね、このチーズの味は気にいるかな、などと。
当たり前の人間を相手にしているような態度にまた違和感を覚えながら、言葉少なに返事をした。元から、自分はそうした受け答えしかできない。会話を弾ませる能力の持ち合わせなどない。
飼い主はそんなつまらぬ態度を、気にする素振りも見せなかった。ただ嬉しげに、屈託無く、尽きない言葉を注ぎ続けた。
朝食を終え皿を運ぼうとすると、制された。食卓を回り込んできた飼い主に腕を取られる。
「家の中を案内しよう。おいで」
「片付けを」
「いいよ、気にしないで」
そうもいかない。何も言わず飼い主と見つめ合う。根負けするのは飼い主が先だった。
「じゃあ、後で一緒にやろうか。今は来てくれるかい」
飼い主に腕を引かれるまま、家の中を回る。昨夜も教えられた、浴室と各々の寝室。書斎。客間。消耗品などを入れているという幾つかの収納。
一枚の扉の前で、飼い主は立ち止まった。しっかりと閉ざされたそれの前で、こちらを振り返る。
「この部屋にだけは、入らないで欲しいんだ。他はどこでも、家の外でも、好きなところに好きな時に行ってくれて構わないから」
真剣な表情で紡がれた飼い主の言葉の、後半にこそ驚いた。禁止されることは構わない。理由を問う権利さえない。自分はこの人の所有物なのだから。ただのモノなのだから。
だが、家の外にすら行っても構わない、とは。一体どうした考えで、この飼い主はそのような許可を出すのか。
逃げ出すとは、思わないのだろうか。出ていったきり、二度と帰らないとは。
驚きのあまりに問うことさえできずにいると、眉根を下げた飼い主はばつが悪そうに微笑んだ。困ったような様子で、言葉を添えられる。
「すまないね。理由はいつか教えるよ」
じゃあ今度は、片付けをしようか。柔らかな笑みで、ごく自然に手を取られる。釈然としないままに頷いた。
その夜も、また次の夜も、そのまた次の夜も、飼い主に体を求められることはなかった。唇にキスをされることさえない。ただ「おやすみ」を告げられ、頬に優しく口付けられるばかりだった。
儀式のようなそれが済むと、飼い主はあの禁じられた部屋に一人で入っていく。横になったまま聞き耳を立てていれば、しばらくして部屋を出てくる足音が耳に届く。足音はこの自分の部屋の前で一瞬だけ立ち止まって、けれど中に入ってくることはせずに、飼い主自身の寝室へと吸い込まれていく。
何もしない飼い主を薄気味悪く思いながらも、自分から求めるような行為でもない。そのような権利も資格も、自分には元よりない。不可解な思いを抱えたままに一週間が過ぎた日の、朝のことだった。
「今日は出掛けてくる。夕方までには戻るよ」
朝食の席で言われて、そうなのかと頷いた。好きにしてくれればいい。自分に断りを入れる必要すらないことだ。
食べ終えて、いつものように共に片付けを済ませる。何とは無しに居間で本を開いていると、外出着に着替えた飼い主が顔を覗かせた。
「夕食は一緒に取ろう。暗くなる前には帰るから」
そうかと頷いて本を置いた。見送りくらいはすべきだろうと、玄関まで着いていく。
玄関扉に手を掛けた飼い主が、思い直したように振り返った。にこりと笑んで、こちらへ腕を伸ばしてくる。
「行ってくるよ、トリスタン」
何を思う間も無く、抱きすくめられた。頬に口付けが落とされる。
唖然としている間に、飼い主は名残惜しげに身を離した。親しげな笑顔を残して、今度こそ出ていく。外から施錠される音。
その音で、ようやく我に返った。触れられた頬に、まだ柔らかな感触が残っている。その場所から痺れが広がっていくような錯覚を覚え、思わず自分の頬を撫でた。
ひどくむず痒いような気分がする。落ち着かない。頭を振って、思考を切り替えた。
飼い主の帰宅までは、何をして過ごしたものか。しばし考えを巡らせて、まずは掃除をしようと結論に達した。
とは言っても、普段は飼い主と共に行っている家事を自分だけで済ませるというだけのことだ。シーツの洗濯をしようにも、主人が不在の部屋に入ることも、自分のものだけ洗うことも気が引ける。
まずは簡単に掃除をして、かごに入っている洗濯物を洗って、飼い主の帰りまでに夕飯を作っておけばいい。そう決めて、家奥に足を向けた。
スープの味を見ていると、玄関の方向で物音がした。飼い主の帰宅だろうと、火を止めて玄関へ足を向ける。
玄関に着くと、ちょうど飼い主が施錠し直したところだった。少し疲れた顔をした飼い主は、それでも嬉しそうに微笑んでこちらを見た。
「ただいま、トリスタン」
腕が伸ばされ、また抱擁される。頬に口付けが落とされる。ひどくむず痒い思いがした。
「良い匂いがするね。何か作ってくれたのかい?」
「あ、ああ」
そうかと嬉しそうに笑った飼い主が、名残惜しげに離れた。当然のような態度で手を取られ、共に食堂へ向かう。
「家の中が綺麗になっているね。掃除までしてくれたのかい?」
「ああ」
「ありがとう。そんなことまで、してくれなくて良かったのに」
繋がれたままの手の甲を、擽るように親指で撫でられる。またしても、むず痒い思いが胸を掠めた。
貴方が私を使わないからだ。使ってもらえない以上、自分で仕事を見つける以外に仕方がないではないか。そう言い返したくて、けれど言えなくて、唇を閉ざした。
食事をそれぞれの皿に取り分け、向かい合って座った。食前の祈りを捧げ、そして匙をつける。一口食べた飼い主が、顔を上げ微笑んだ。
「とても美味しいよ。ありがとう、トリスタン」
なんと返答すべきなのかが分からず、そうかと愚鈍に応じて俯く。またしても、むず痒いような思いがした。
特段の何事もなく、食事を終えた。形成されつつある生活習慣の通り、分担しながら片付けを済ませる。
食事と片付けの後には共に居間に落ち着くことも、新しい習慣の一つとなっている。飼い主を無視して部屋に引きこもってしまうことも何とは無しに気が引けると、それだけの理由に過ぎない。
隣り合って腰を下ろしたところで、取り出すべき話題は何一つない。飼い主の側に何か自分に言い付けておきたいことでもあれば、本人から口を開くだろう。こちらから無作法にあれこれ尋ねるのは気が引ける。そもそもそのような話術の持ち合わせも、自分にはない。
飼い主は何も言わない。自分も何も言わない。時計の針の音だけが響いていた。
沈黙に耐えかねて、本を拾い上げた。読むともなしに頁を眺める。何百年も前に自害した小説家がその人生の最後に書き遺していった、今では古典と呼ばれる類の文学だった。
書物に集中しようとしても、並んで腰掛けた飼い主からの視線を感じて仕方がない。顔を上げ見返すと、飼い主はひどく優しい目をしてこちらを見つめていた。
「何か」
「いや、君は綺麗だと思ってね」
さらりと言われた言葉に、思わず返答さえ忘れた。相手を凝視する。
自分を美しいとは思わないが、自分の見た目がある程度「見られる」ことは知っている。それがある嗜好の男の劣情をそそるということも、理解している。だが、自分を抱こうともしないこの人が、なぜそれを言う。
綺麗だと、美しいと言うならば。少しでも欲を抱いているならば。そうならば、なぜこの飼い主はこの身を抱かない。
疑問が湧き上がる。けれど問う前に優しく頬に触れられて、何も言えなくなった。
「君はとても綺麗だ。この金糸の髪も、海より深いその眼も、薄い唇も、しっかりした肩も、細い腰も、長い脚も、気高い魂も。君は本当に美しい」
甘く囁かれる言葉の数々。そんなものに動かされはしない。そのような、口先だけの囁きになど。
むしろ反発すら湧き上がる。貴方が私の何を知っているのだ、と苛立った。
魂などない。そんな大層なものは、自分には宿っていない。自分は何も感じない、何をされようともどう扱われようとも何も感じない、ただのモノなのだから。
けれど飼い主の愛おしげな眼差しを見返していると、何も言えなくなる。ただ、その鳶色の瞳を見つめていることしかできない。
とても綺麗だよ。飼い主が、また囁いた。
このようなつまらぬ姿を見て、何をそれほど珍しがっている。呆れながら、そう考えた。
醒めた気分で進行係の口上を聞き流しながらも、前もって言い付けられた通りの動作をした。長い金の髪を見せ付けるように肩から払い、挑発的に笑んで客席を見渡す。生唾を飲む音が、幾方向からも聞こえた。
語り終えた進行係が、高らかに木槌を打ち鳴らす。その残響も消えぬうちに、そこかしこで札が我先に上がり始めた。
千、千百、千二百。この自分を買い取るための値段が、目まぐるしい速さで釣り上げられていく。奇特な好事家が随分と多い事だと、呆れながらそれを聞いていた。
「三千!」
破格とも言える飛び上がりにも、何も感じなかった。静まり返る会場、狼狽の響きのある進行係の声、そして落札の木槌。
ああ、私は買われたのだ。何の感慨もなく、そう考えた。
檻から引き出され、落札者に引き渡された。掛けられたままの手錠が、重い音を立てる。
向かい合ったその相手は、既に若くはない男性だった。この自分よりもやや背の低い、がっしりとした体付きの、豊かな銀髪の紳士だった。精悍な顔立ち、鳶色の穏やかな目。
この人物が、自分の新しい所有者となったのか。やはり何の感慨もなく思いながら、無言で軽い礼をした。
にこりと親しげに笑った紳士が、こちらに差し伸べかけた手をふと止めた。傍らの係員に視線を向ける。
「手錠も、もう外してあげてくれ」
「は……」
係員が戸惑いの声を上げる。自分も僅かに驚いて、両手首に嵌められた枷を見下ろした。黒光りする、冷たく重い金属を。
「しかし、Mr……」
「いいから」
係員はしばらくの間ごねていたが、穏やかだが引き下がらない態度の紳士に根負けをしたらしい。やがて渋々といった様子で、手錠の鍵を取り出した。
ほとんど体の一部と錯覚するほど長く嵌められていたその枷が、ごくあっさりと外れ落ちる。手錠が外された手を、紳士は優しげな手付きで取った。
「怖がらないで。君は自由だ」
「君をどう呼べばいいかな。名前はなんと言うんだい?」
柔らかに体重を受け止める、濃紺の絨毯の廊下。出口を目指して歩きながら、隣に並ぶ紳士は屈託のない様子で問い掛けてきた。
「名などありません」
単純な事実を、何の感慨もなく答えた。自分のような人間未満の存在にわざわざ呼び名を与える物好きなど、いた試しはない。ただ無機質な番号で呼ばれてきた。
「そうなのか」
紳士はなぜか、憐れみと喜びの入り混じったような奇妙な顔をした。その表情を僅かに怪訝に思ったが、尋ねるより先に明るい声が重ねられる。
「なら、トリスタンと呼んでもいいかな?」
突然提案されて瞬く。だが、新しい飼い主が望むならば、異論などあろう筈もない。
「お好きなように」
「敬語はいらないよ、トリスタン。もっと気軽に話してくれ」
「は……」
思いもかけない言葉に、寸の間唖然としてしまう。その時、建物の外に出た。
広い通りを、乗り物が行き交っている。その一台を、手を上げた紳士が呼び止めた。
「しかし……」
「頼むよ」
さあ乗って、と促される。釈然としない思いを抱えたまま、乗り物に足を踏み入れた。
「まだ、名乗っていなかったね。私はフィリップというんだ」
乗り物が走り出すと、当然のように隣に腰を落ち着けた紳士はそう名乗った。これから宜しく、と手を差し出される。寸の間躊躇してから、その手を握った。
なぜこの紳士は、こんなにも丁寧に自分を扱うのだ。まるで当たり前の人間を相手にしているかのように、この取るに足らぬ自分に人権でもあるかのように。新しい飼い主の不可解な言動に、当惑した。
「……宜しくお願い致します」
「ああ、また敬語を使う」
フィリップと名乗った紳士が苦笑した。その表情のまま、諭すように告げられる。
「敬語は使わないでくれ。君と私は対等なんだ」
この紳士は一体、何を言い出した。呆気に取られ、反論すら忘れた。
自分とこの人が、対等である筈がない。自分はこの人のもので、この人の所有物で、この人の奴隷で、ただのモノでしかない存在だ。歴とした人間であるこの飼い主と、自分が対等な筈もないではないか。そう反駁しようとした矢先、乗り物が速度を落とした。
「まずは入浴して、着替えておいで。それから夕食にしよう」
家に入ると、飼い主はそう微笑んだ。こっちだよと、廊下を先導される。
大きな邸宅ではないが、手入れの隅々まで行き届いた住宅だった。家具や調度の類は多くはないが、家の主人の磨かれた感性を窺わせる品々が慎ましやかに並んでいる。
案内され足を踏み入れた浴室は、広々としていた。質素な優美さを備えたバスタブも、ゆとりのある作りのものだ。揃って大柄な自分と飼い主が共に入浴したとしても、狭苦しさは感じないのだろう。
「使い方は分かるかい?」
それとも一緒に入ってあげようか。冗談めかしてそう言われるが、可笑しくも何ともない。
「お望みとあらば」
「え……」
淡々と答えると、飼い主は目に見えて狼狽した。ならば最初から、くだらぬ戯言など言わなければ良いものを。
「……そのうちに、ね」
少し顔を赤くして、飼い主が笑った。感情を切り替えるように軽く頭を振り、そしてまた微笑む。
「着替えとタオルはここにあるよ。終わったら、さっき通った居間においで。ゆっくり入ってくれていいからね」
戸棚を軽く叩いて見せて、飼い主は出ていった。扉が閉まるのを見送って、小さく息を吐く。
あの新しい飼い主が自分を気に入ろうと気に入るまいと、自分には何の関わりもないことだ。気に入られなければまた売り払われると、ただそれだけのことだ。だから、緊張や気負いなどは全く浮かんでもこない。
だがひどく丁重に扱われることだけは、妙に気詰まりだった。この自分を人間と勘違いでもしているかのような、飼い主のあの不可解極まる態度は。
なぜ人間扱いなどするのだ。なぜ、この自分などに対して。困惑の思いが胸を満たす。
姿形こそ確かに人間に似ていても、決定的に違うというのに。致命的に、根本的に、自分は人間とは異なっているのに。
どこかの部屋の時計が遠くで鳴り、びくりと肩が跳ねた。些か長く、考えに耽ってしまっていたようだ。
飼い主をこれ以上に長く待たせるわけにはいかない。急いで服を脱ぎ捨てた。
埃を落として、髪を洗って、体を隅々まで洗って、バスタブを出た。体を拭いて、棚に用意されていた衣服を身につける。
真っ白で糊の効いたシャツ、ぴしりと折り目の入ったスラックス、そして落ち着いた色味の上着。どれも誂えたように、ぴたりと身に合った。
衣服を整え、長さのある金の髪を梳る。自分の姿が美しいなどとは全く思わないが、この髪だけはきっと悪くないのだろうとは考えている。
『そそる髪だな』
過去にこの体を通り過ぎていった男達の声が、聞こえた気がした。だが、何の感慨も湧かない。
櫛を置いて、改めて自分の姿を鏡に映す。光を跳ね返す金糸の髪だけは、さほど悪くないものなのだろう。だが、暗く無感動な眼は。無駄に高い背丈は。女のようなたおやかさとは対極にある、硬い体は。
このような姿のどこを、あの紳士は気に入ったのだろう。以前の飼い主達のようには、女にも男にも不自由などしないだろうに。全く理解できないまま、鏡に背を向けた。
浴室を出て廊下を歩く。そして教えられた居間に辿り着いて、その中を覗き込んだ。
「ゆっくりできたかい?」
足音に気付いていたのか、長椅子で本を開いていた飼い主は驚いた様子もなく顔を上げて笑った。目を細めてこちらを見つめ、満足そうにまた笑う。
「ああ。やっぱりよく似合う」
綺麗だよとさらりと言われても、何も感じなかった。何をどう繕ったとて、所詮は脱がせるために用意された衣服に過ぎない。
本を脇に置いた飼い主が立ち上がり、歩み寄ってきた。ごく自然な態度で手を取られる。
「夕飯にしようか」
夕餉は、質素だが品数が多かった。食器の類も、使い込まれてはいるが質の良い品々だ。
「君の口に合うかな」
優雅に食器を使いながら、少し自信のなさげな顔をして飼い主は笑った。その言葉を、僅かに怪訝に思う。
口に合うも合わないもない。食事はただの補給行為だ。だが、乏しい経験や知識と照らし合わせても、味は悪くないと思える。そう答えると、飼い主は安堵したように笑った。
「口に合わなければ、いつでも言ってくれ。調節するよ」
「これは貴方が、……作ったのか?」
驚きを覚え、思わず問い返した。敬語はやめろと再三に言われたから、少々不敬な口調を選ぶ。
「貴方、ね」
だがそれさえも、飼い主には不満であるらしかった。拗ねるような子供じみた表情で、わざとらしい親しげな様子で、こちらを軽く睨んでいる。
飼い主の不興の理由が分からず困惑するが、彼はこちらの質問にも答えてくれていない。誤魔化されたように感じられ、小さな不満を覚えた。
この自分とて、多少の料理をする能力はある。言い付けとあらば、調理法を調べて作ることとてできる。だというのにこの新しい飼い主は、わざわざ自分で食事の支度をしたのか。
「驚くこともないだろう? 一人暮らしが長いんだ。人を置くのは好きじゃなくてね」
さらりと明かした飼い主は、口元を品良く拭って立ち上がった。食卓を回ってこちらへやって来る。食べ終えている皿を見渡した飼い主が、親しげに微笑んだ。
「家の中は、明日案内するよ。今日はもう休もう」
「片付けくらいできる」
「いいから」
腕を取られて立ち上がらされ、案外に強い力で廊下にいざなわれる。飼い主に抗うこともできず、仕方なく導かれるままに足を進めた。
浴室で歯を磨き終えると、また当然のように腕を取られた。
腕を引かれるままに廊下を歩く。飼い主は一つの扉の前で足を止め、こちらを振り返って微笑んだ。
「ここが君の寝室だよ」
さあ、どうぞ。促されて、寸の間躊躇してから扉を開けた。
想定していたよりも、遥かに広い部屋だった。自分だけで使うには充分すぎるほど、自分などには大きすぎると言えるほどに。
書き物机がある。本の詰まった書棚がある。大きな衣装箪笥がある。そして、上背のある自分にも充分すぎるほど大きな、一つの寝台が置かれていた。
その寝台の幅や奥行きを目で測る。本当に大きい寝台だった。飼い主と自分が共寝に使うにも、多少詰め合えば充分に横になれるだろう。頑丈そうな作りをしているから、多少手荒い行為に至ったとしても問題はなさそうだ。
「気に入ってくれたかな?」
柔らかな声に振り返る。飼い主は微笑んでいた。
「この部屋にあるものは、全部君のものだよ。家の中のものも、何でも自由に使ってくれ」
穏やかな声音で告げながら、飼い主がおもむろに近づいてきた。優しく腕を取られ、寝台にいざなわれる。
ああ、抱かれるのか。頭の隅でそう思う。嫌だなどとは、思う資格はない。拒否する権利も、つもりもない。受け入れる用意は最初からできている。自分は、そうした存在なのだから。
だが寝台に腰掛けさせただけで、なぜか飼い主は体を離した。不可解に思って見上げると、また優しく微笑まれる。
「疲れているだろう、眠りたいだけ眠るといい。私も、明日はずっと家に居るから」
囁きかけながら、飼い主はその温かな手で頬に触れてきた。飼い主の顔が寄せられる。口付けられるのかと、従順に目を閉じた。
だがなぜか飼い主は、吐息のかかる距離で動きを止めてしまった。迷うような間を置いて、その唇が触れたのは頬だった。
驚きに思わず目を開けると、すぐに離れた飼い主と目が合う。少しばつが悪そうに微笑まれた。
「よくお休み、トリスタン」
囁いて、飼い主は体を離した。部屋を出ていってしまう。唖然とそれを見送って、ややして我に返った。
どうしたことだ。買い求めておきながら抱きもしないだなどと、あのような口付けとも呼べないキスだけを残して立ち去るなどと。理由が分からない。
抱くため以外の理由で、自分が買い取られた筈がない。自分はそのための存在なのだ、犯すためだけのモノなのだ。なのに、あの飼い主は、どうして。
必死で考えを巡らせて、ようやく一つの結論に達した。きっとそれが唯一の解だと思える、理屈の通った考えに至った。
おそらく飼い主本人も、競売に出掛けて疲れているのだろう。呼び出しは、きっと明日あるのだ。
ならば今日は言葉に甘えて、休むことにしよう。明日あるべき呼び出しに、正しく応じるためにも。
そう結論付けて、寝支度を始めた。枕の上に用意されていた夜着に着替えて、脱いだ衣服を畳んで、寝具に潜り込んだ。
柔らかに体を受け止める寝台に困惑する。自分には硬い床でも充分なのだがと考えながら、目を閉じる。すぐに意識は闇に溶けた。
六時間の睡眠の後、自動的に覚醒した。まだ見慣れない部屋と、柔らかな寝具。落ち着かない気分で起き上がる。
朝の光の差し込む明るい部屋で、着替えをする。衣装箪笥に収まっていた衣類は上質な手触りを伝え、そしてやはり誂えたようにぴたりと身に合った。
この衣服は一体、いつの間に揃えられていたのだろう。競売の商品目録によって自分を見知っていたとしても、元から買い取るつもりで用意をしていたとしても、これほどまで行き届いた準備が可能なものだろうか。
疑問を胸に抱えたまま髪を梳かし終え、部屋を出た。廊下を歩いていく。
飼い主の寝室だと昨夜教えられた部屋の扉は、開いていた。寸の間躊躇してから覗き込むが、中には誰もいない。
また廊下を通り過ぎ、居間へと辿り着く。最後に髪を撫でつけ直して、その部屋の中へ足を踏み入れた。
居間では飼い主が本を開いていた。顔を上げた飼い主が親しげに微笑む。
「おはよう、トリスタン。よく眠れたかい?」
本を閉じて脇に置いた飼い主が立ち上がった。歩み寄ってきて、気軽な仕草で腕を取られる。
「まずは朝食にしよう。用意できているよ」
向かい合って朝食をとっている間、飼い主はあれこれと話しかけてきた。よく休めたかい、今日は天気がいいね、このチーズの味は気にいるかな、などと。
当たり前の人間を相手にしているような態度にまた違和感を覚えながら、言葉少なに返事をした。元から、自分はそうした受け答えしかできない。会話を弾ませる能力の持ち合わせなどない。
飼い主はそんなつまらぬ態度を、気にする素振りも見せなかった。ただ嬉しげに、屈託無く、尽きない言葉を注ぎ続けた。
朝食を終え皿を運ぼうとすると、制された。食卓を回り込んできた飼い主に腕を取られる。
「家の中を案内しよう。おいで」
「片付けを」
「いいよ、気にしないで」
そうもいかない。何も言わず飼い主と見つめ合う。根負けするのは飼い主が先だった。
「じゃあ、後で一緒にやろうか。今は来てくれるかい」
飼い主に腕を引かれるまま、家の中を回る。昨夜も教えられた、浴室と各々の寝室。書斎。客間。消耗品などを入れているという幾つかの収納。
一枚の扉の前で、飼い主は立ち止まった。しっかりと閉ざされたそれの前で、こちらを振り返る。
「この部屋にだけは、入らないで欲しいんだ。他はどこでも、家の外でも、好きなところに好きな時に行ってくれて構わないから」
真剣な表情で紡がれた飼い主の言葉の、後半にこそ驚いた。禁止されることは構わない。理由を問う権利さえない。自分はこの人の所有物なのだから。ただのモノなのだから。
だが、家の外にすら行っても構わない、とは。一体どうした考えで、この飼い主はそのような許可を出すのか。
逃げ出すとは、思わないのだろうか。出ていったきり、二度と帰らないとは。
驚きのあまりに問うことさえできずにいると、眉根を下げた飼い主はばつが悪そうに微笑んだ。困ったような様子で、言葉を添えられる。
「すまないね。理由はいつか教えるよ」
じゃあ今度は、片付けをしようか。柔らかな笑みで、ごく自然に手を取られる。釈然としないままに頷いた。
その夜も、また次の夜も、そのまた次の夜も、飼い主に体を求められることはなかった。唇にキスをされることさえない。ただ「おやすみ」を告げられ、頬に優しく口付けられるばかりだった。
儀式のようなそれが済むと、飼い主はあの禁じられた部屋に一人で入っていく。横になったまま聞き耳を立てていれば、しばらくして部屋を出てくる足音が耳に届く。足音はこの自分の部屋の前で一瞬だけ立ち止まって、けれど中に入ってくることはせずに、飼い主自身の寝室へと吸い込まれていく。
何もしない飼い主を薄気味悪く思いながらも、自分から求めるような行為でもない。そのような権利も資格も、自分には元よりない。不可解な思いを抱えたままに一週間が過ぎた日の、朝のことだった。
「今日は出掛けてくる。夕方までには戻るよ」
朝食の席で言われて、そうなのかと頷いた。好きにしてくれればいい。自分に断りを入れる必要すらないことだ。
食べ終えて、いつものように共に片付けを済ませる。何とは無しに居間で本を開いていると、外出着に着替えた飼い主が顔を覗かせた。
「夕食は一緒に取ろう。暗くなる前には帰るから」
そうかと頷いて本を置いた。見送りくらいはすべきだろうと、玄関まで着いていく。
玄関扉に手を掛けた飼い主が、思い直したように振り返った。にこりと笑んで、こちらへ腕を伸ばしてくる。
「行ってくるよ、トリスタン」
何を思う間も無く、抱きすくめられた。頬に口付けが落とされる。
唖然としている間に、飼い主は名残惜しげに身を離した。親しげな笑顔を残して、今度こそ出ていく。外から施錠される音。
その音で、ようやく我に返った。触れられた頬に、まだ柔らかな感触が残っている。その場所から痺れが広がっていくような錯覚を覚え、思わず自分の頬を撫でた。
ひどくむず痒いような気分がする。落ち着かない。頭を振って、思考を切り替えた。
飼い主の帰宅までは、何をして過ごしたものか。しばし考えを巡らせて、まずは掃除をしようと結論に達した。
とは言っても、普段は飼い主と共に行っている家事を自分だけで済ませるというだけのことだ。シーツの洗濯をしようにも、主人が不在の部屋に入ることも、自分のものだけ洗うことも気が引ける。
まずは簡単に掃除をして、かごに入っている洗濯物を洗って、飼い主の帰りまでに夕飯を作っておけばいい。そう決めて、家奥に足を向けた。
スープの味を見ていると、玄関の方向で物音がした。飼い主の帰宅だろうと、火を止めて玄関へ足を向ける。
玄関に着くと、ちょうど飼い主が施錠し直したところだった。少し疲れた顔をした飼い主は、それでも嬉しそうに微笑んでこちらを見た。
「ただいま、トリスタン」
腕が伸ばされ、また抱擁される。頬に口付けが落とされる。ひどくむず痒い思いがした。
「良い匂いがするね。何か作ってくれたのかい?」
「あ、ああ」
そうかと嬉しそうに笑った飼い主が、名残惜しげに離れた。当然のような態度で手を取られ、共に食堂へ向かう。
「家の中が綺麗になっているね。掃除までしてくれたのかい?」
「ああ」
「ありがとう。そんなことまで、してくれなくて良かったのに」
繋がれたままの手の甲を、擽るように親指で撫でられる。またしても、むず痒い思いが胸を掠めた。
貴方が私を使わないからだ。使ってもらえない以上、自分で仕事を見つける以外に仕方がないではないか。そう言い返したくて、けれど言えなくて、唇を閉ざした。
食事をそれぞれの皿に取り分け、向かい合って座った。食前の祈りを捧げ、そして匙をつける。一口食べた飼い主が、顔を上げ微笑んだ。
「とても美味しいよ。ありがとう、トリスタン」
なんと返答すべきなのかが分からず、そうかと愚鈍に応じて俯く。またしても、むず痒いような思いがした。
特段の何事もなく、食事を終えた。形成されつつある生活習慣の通り、分担しながら片付けを済ませる。
食事と片付けの後には共に居間に落ち着くことも、新しい習慣の一つとなっている。飼い主を無視して部屋に引きこもってしまうことも何とは無しに気が引けると、それだけの理由に過ぎない。
隣り合って腰を下ろしたところで、取り出すべき話題は何一つない。飼い主の側に何か自分に言い付けておきたいことでもあれば、本人から口を開くだろう。こちらから無作法にあれこれ尋ねるのは気が引ける。そもそもそのような話術の持ち合わせも、自分にはない。
飼い主は何も言わない。自分も何も言わない。時計の針の音だけが響いていた。
沈黙に耐えかねて、本を拾い上げた。読むともなしに頁を眺める。何百年も前に自害した小説家がその人生の最後に書き遺していった、今では古典と呼ばれる類の文学だった。
書物に集中しようとしても、並んで腰掛けた飼い主からの視線を感じて仕方がない。顔を上げ見返すと、飼い主はひどく優しい目をしてこちらを見つめていた。
「何か」
「いや、君は綺麗だと思ってね」
さらりと言われた言葉に、思わず返答さえ忘れた。相手を凝視する。
自分を美しいとは思わないが、自分の見た目がある程度「見られる」ことは知っている。それがある嗜好の男の劣情をそそるということも、理解している。だが、自分を抱こうともしないこの人が、なぜそれを言う。
綺麗だと、美しいと言うならば。少しでも欲を抱いているならば。そうならば、なぜこの飼い主はこの身を抱かない。
疑問が湧き上がる。けれど問う前に優しく頬に触れられて、何も言えなくなった。
「君はとても綺麗だ。この金糸の髪も、海より深いその眼も、薄い唇も、しっかりした肩も、細い腰も、長い脚も、気高い魂も。君は本当に美しい」
甘く囁かれる言葉の数々。そんなものに動かされはしない。そのような、口先だけの囁きになど。
むしろ反発すら湧き上がる。貴方が私の何を知っているのだ、と苛立った。
魂などない。そんな大層なものは、自分には宿っていない。自分は何も感じない、何をされようともどう扱われようとも何も感じない、ただのモノなのだから。
けれど飼い主の愛おしげな眼差しを見返していると、何も言えなくなる。ただ、その鳶色の瞳を見つめていることしかできない。
とても綺麗だよ。飼い主が、また囁いた。
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