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鏡の国へようこそ
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アシルが玄関扉を叩くと、家奥から足音が駆けてきた。すぐに扉を開けてくれたクレマンが破顔する。
「来てくれて嬉しいよ、アシル」
「……邪魔する」
クレマンの屈託のない言葉と眩しいほどの笑顔にも、アシルはそんなつまらない言葉しか返すことができない。だがクレマンは全く気にする様子もなく、嬉しげにまた笑って招き入れてくれた。
「今日は冷えるね。熱いコーヒーをすぐ淹れるよ」
「別に、わざわざ……」
「僕が、君と飲みたいんだよ」
笑顔で言われてしまっては、それ以上に辞退することさえアシルにはできない。ひどくむず痒いような思いに耐えているアシルを居間に座らせて、クレマンはさっさと台所に消えた。
落ち着かない思いでアシルはクレマンの部屋を見回した。既に見慣れてしまった家具、さりげないが品の良いインテリア。観葉植物の鉢に目を向けながら、アシルはまた胸の中で嘆息した。
クレマンが投げかけてくれるあまりにも大きく温かい厚意と好意に、アシルは全く「正しく」振る舞うことができずにいる。自分には不相応だとしか思えないその優しい感情にアシルはいつでもうろたえさせられ、どのように振る舞うべきかを見失ってしまう。
このようなつまらない態度しか取ることができずにいては、きっといつかクレマンにも愛想を尽かされてしまうのだろう。慈愛に満ちた彼であっても、いつかアシルに呆れ、アシルを見限ってしまうのだろう。その確信に近い恐れに思わず身震いした時、クレマンの戻ってくる足音がした。
「……ありがとう」
「ああ、いや」
微笑んで答えてくれるクレマンはなぜか少しだけ浮かない顔をしていた。怪訝に思ったアシルがその理由を尋ねる前に、クレマンはカップを渡してくれながら困ったように口火を切った。
「来てくれたばかりで悪いんだけど、お菓子を買い忘れていたんだ。すぐに買ってくるから、待っててくれる?」
「なら、俺も一緒に……」
「いや、君は待っててくれるかな。僕が帰ってきた時に迎えてほしいから」
屈託なくそう乞われてしまっては、それ以上に食い下がることはやはりアシルにはできない。仕方なしに頷くと、ありがとうと微笑んだクレマンは当然のように顔を寄せてきた。
「っ、……」
「すぐ戻るよ」
「あ、ああ……気をつけて」
不意打ちの口付けに思わず息を呑みながらも、アシルは反射的にそれだけを答える。もう一度微笑んでくれたクレマンは「じゃあ行ってくるよ」とコートを手にした。
「寛いでてね。この部屋が退屈だったら、どこでも入って使ってくれて良いから」
居間に置かれていた本をなんとはなしに捲りながら、アシルはまた溜息を吐いた。内容など全く頭に入ってこない。
家主のいない家にいることが落ち着かない。クレマンのいないこの家は普段通りにアシルを受け入れてくれながらも、今はどこかうら寂しく寒々しいように感じられた。
伝えられなかった言葉が、言い出す機会を永遠に失った言葉が、まだ胸の奥につかえている。溜息と共に吐き出してしまえたならと思いながら、それさえできない。
『菓子なんてなくていい。お前と居られるなら、それでいい』
本当は、アシルはそうクレマンに伝えたかった。もう少しでそれを言えたはずだった。けれど今日も、不必要な羞恥心がその言葉を飲み飲ませてしまったのだ。
どうして自分はこんなにもつまらない、礼儀すら弁えない人間なのか。どうして自分はこんなにも、クレマンに愛されるに足る愛嬌や魅力のかけらもない男なのか。どうしてクレマンはこんな自分に対して、あんなにも優しく応対してくれるのか。
考えても考えても、答えは出ない。答えてくれる者もここにはいない。クレマンにこのような問いをぶつけることもアシルには到底できない。答えはどこにも見つからない。アシルがついまた溜息を漏らした、その時だった。
『……さん』
「……?」
誰かに呼びかけられたように感じ、アシルは顔を上げた。部屋の中を見回す。だが、誰もいない。
『……ル、さん』
同じ声が、まだ呼んだ。窓の外だろうかとアシルは立ち上がりかけたが、もう一度響いた声は窓とは逆の方向から聞こえた。
『……シル、さん』
「誰だ。どこにいるんだ」
問い質しながらアシルは部屋を見回す。そして、それまではなぜか見落としていたらしい「それ」に気付いた。
部屋の隅に鎮座している大きな姿見があった。仰々しい装飾はないが、さりげない彫刻の施された美しい品だった。見覚えのないそれはきっと、アシルが無沙汰をした間にクレマンが買い求めたものなのだろう。
『アシル、さん』
今までになくはっきりと響いた声は、確かにその鏡の方から聞こえていた。その裏側の壁との隙間に誰かが隠れているのだろうか。そう考え、アシルは鏡に歩み寄る。
だが、その狭い隙間を覗き込んでも誰もいない。ならば鏡に何か仕掛けでもあるのか。そう考えながら鏡面を覗き込んで、アシルはあまりにも大きな違和感に息を呑んだ。
クレマンの暖かな部屋を映し出すその鏡には、なぜかアシル自身だけが写っていなかった。アシルの立っている場所は、鏡の中ではただ床が写っている。
この奇妙な鏡はなんなのだ。それがクレマンが気に入って買い求めた理由なのか。そう考えながら、もっとよく確かめようとアシルは鏡に顔を寄せた。鏡面にそっと手を添える。その指があっさりと沈み込んだ。
「っ!?」
反射的に手を離そうとしたが、その暇さえなかった。鏡面はまるで湖のようにするするとアシルの手を、腕を飲み込む。驚く暇もあればこそ、アシルは鏡の中へ引き込まれていた。
『ようこそ、「鏡の国」へ』
小鳥のような声が、耳元でそうさえずった。
勢い余って床に倒れ込みそうになり、アシルはなんとか手を突いてそれを回避した。
「……?」
立ち上がりながら室内を見回す。クレマンの部屋をまさしく「鏡写し」にしたような、その部屋を。
家具や置物の全てはアシルにも見覚えのある色形をしているが、その全ての模様や配置が左右逆転している。小さいが強烈な違和感に眩暈を感じながら、アシルは自分が「通った」鏡を振り向こうとした。
だがそこには、あの鏡はすでになかった。ただ壁だけが澄ました様子でのっぺりと広がっている。小さく息を吐き、アシルはひとまず他の部屋を調べようと扉に近寄った。
だが開けた扉の先は、もはや見慣れたクレマンの部屋ではなかった。屋内ですらない。花壇が設えられた、光のあふれる庭が広がっている。
珍妙な作りの家だと呆れながら、アシルは庭に足を踏み入れる。途端に声を掛けてくる何者かがいた。
「あら、こんにちは」
「……? こんにちは」
女の声に反射的に応じながら、アシルは声のした方を向く。だがそこに人影はなく、ただ様々な花の植わっている花壇だけがあった。
「……?」
「どこを見ていらっしゃるの?」
「あたしたちはここよ。こ、こ」
見回していると、更に声がする。怪訝に思いながら視線を落としたアシルは、思わず目を瞠った。
花壇に植えられている花々は、よく見ればそれぞれが目鼻口を備えていた。その「顔のある花」達がアシルを見上げ、風もないのに身を揺らしながらまた口を開く。
「ああ、やっとこっちを見てくださったのね」
「あなた外国のお方でしょう。どちらからいらしたの?」
「……オルレアンから」
面食らいながら反射的にアシルが答えると、花々はぱちぱちと瞬きをした。顔を見合わせて囁き交わす。
「オルレアンですって。あなたご存知?」
「いいえ、わたくしも存じませんわ」
「きっととても遠いお国ね! 暖かいお国ですの?」
「……季節による……よります」
顔を上げて尋ね掛けてきた白薔薇にアシルが答えると「それはそうね」と花々が頷き合う。次に問いかけてきたのはラベンダーだった。
「遠いお国からどうやっていらしたの? 鳥か蝶に運んでもらって?」
「それとも風に乗ってかしら。ボウエキフウ、というのもあるのよね!」
「いえ……歩いて」
「歩いて!」
驚いたように声を揃えられ、アシルはまた面食らう。「まあそうなの」「そうだったのね」と花々はまた頷き合っていたが、代表したように黄色の百合がアシルをふり仰いだ。
「つまりあなた、花ではいらっしゃらなかったのね?」
「ええ」
「まあそうなの、とても綺麗な花びらをしてらっしゃるから、てっきり。ごめんなさいましね」
「……いえ」
花びらとはもしや髪のことかと考えながら、アシルは首を横に振った。そうなのねそうなのねと花々はまた頷きあっていたが、今度は三色菫が口火を切った。
「じゃああなた、『動物』なのね? 虫や鳥ではないご様子だから、リス? あ、分かったわ、ウサギでしょう!」
「いや……人間です」
「ニンゲン! まあ、私たち、ニンゲンのかたとお近づきになるのは初めてだわ!」
「……そう、ですか」
人間が全くいないとは珍しい庭だと思いながら、アシルは頷く。興奮したように花々は何やら囁き合っていたが、不意にマーガレットが「ああ、そうだわ!」と叫んだ。
「何か?」
「あのね、あたし達ね、ニンゲンさんとお会いするのは初めてよ。でもね、あなたにちょっと似ている動物なら知ってるわ」
「……へえ」
人間に似ているが人間ではないとは何者だろう。頭の隅で考え巡らせながらアシルが先を促すと、うんうんと頷きあった花々が口々に言い始める。
「ニンゲンさんみたいに、根っこが二つに分かれていて、それで『歩いて』いるかたよ」
「葉っぱも同じように2枚しかないわ。その葉っぱを使って、雨が足りないときには私達に水をくださるの」
「でも花びらの色は違うわねえ。もっと茶色いわ」
「そうね、それに、大きさも少し違うかしら。ニンゲンさんのほうが少し小さいみたい」
「……そのかたは、どこに?」
それは人間以外の何者なのかと考えながらアシルは尋ねる。花々は身をよじるようにして庭の左奥を示し、そしてまた振り向いて答えた。
「いつもあっちの方からいらっしゃるわ」
「最後にお見かけした時もそっちへ『歩いて』いらしたから、きっとまだそこよ」
「……ありがとうございます。じゃあ、俺はこれで」
ひとまずその何者かの話を聞いてみようと決め、アシルは花々に挨拶をした。名残惜しげに葉を揺らす花々の横を通り過ぎ、示された方へと向かう。その時、マーガレットらしき声がした。
「ああ、そうそう。そのかたはね、『カルマン』さんておっしゃるのよ!」
花達に教えられた方向へ進んでいると、花壇の代わりに木々が立ち現れる。その木々にも話しかけられるのではとアシルは危ぶんだが、どうやらそれらは眠っているようだった。
やがて現れたのは一軒の小屋だった。庭師小屋のようにも見える。アシルはその扉を軽く叩いたが、すぐに返された声の響きに不意を突かれた。
「はい」
「……!」
「さて、どなたかな。……ああ。あなたか」
扉を開けたあまりにも思いがけない相手に、アシルは思わず目を瞠る。呆然と相手の名を呟いた。
「……クレマン?」
「人違いでは? 私はカルマン。『鏡の国』の庭師です」
さらりとした返答にアシルはまた不意を突かれ、そしてそれが真実らしいことを同時に悟った。「カルマン」と名乗ったその男の笑みが、クレマンは決して浮かべない皮肉めいたものだったから。
「…….失礼しました。友人に、似ていたから」
「恋人ではなく?」
「っ!?」
居た堪れなさに思わず目を逸らしながらアシルは謝罪したが、あっさりとした口調で問われて思わず視線を戻してしまう。凝視するアシルの視線を受け止め、カルマンはまた皮肉げに笑った。
「隠すことはない。あなたのことはよく知っているから」
「…‥.どうして」
「さあね、どうしてだと思う?」
同じ皮肉な笑みでさらりとはぐらかし、カルマンは小屋から出てきて扉を後ろ手に閉めた。当然のようにアシルの腕を取りながら、気軽な口調で言う。
「では、早速出発しようか」
「どこへ? ……気安く触るな」
反射的に尋ねてから、アシルは慌てて手を振り払う。「つれないな」と笑ったカルマンはそれを気にかけるそぶりもなく答えた。
「視察に、だよ。『鏡の国』へようこそ、アシル」
「来てくれて嬉しいよ、アシル」
「……邪魔する」
クレマンの屈託のない言葉と眩しいほどの笑顔にも、アシルはそんなつまらない言葉しか返すことができない。だがクレマンは全く気にする様子もなく、嬉しげにまた笑って招き入れてくれた。
「今日は冷えるね。熱いコーヒーをすぐ淹れるよ」
「別に、わざわざ……」
「僕が、君と飲みたいんだよ」
笑顔で言われてしまっては、それ以上に辞退することさえアシルにはできない。ひどくむず痒いような思いに耐えているアシルを居間に座らせて、クレマンはさっさと台所に消えた。
落ち着かない思いでアシルはクレマンの部屋を見回した。既に見慣れてしまった家具、さりげないが品の良いインテリア。観葉植物の鉢に目を向けながら、アシルはまた胸の中で嘆息した。
クレマンが投げかけてくれるあまりにも大きく温かい厚意と好意に、アシルは全く「正しく」振る舞うことができずにいる。自分には不相応だとしか思えないその優しい感情にアシルはいつでもうろたえさせられ、どのように振る舞うべきかを見失ってしまう。
このようなつまらない態度しか取ることができずにいては、きっといつかクレマンにも愛想を尽かされてしまうのだろう。慈愛に満ちた彼であっても、いつかアシルに呆れ、アシルを見限ってしまうのだろう。その確信に近い恐れに思わず身震いした時、クレマンの戻ってくる足音がした。
「……ありがとう」
「ああ、いや」
微笑んで答えてくれるクレマンはなぜか少しだけ浮かない顔をしていた。怪訝に思ったアシルがその理由を尋ねる前に、クレマンはカップを渡してくれながら困ったように口火を切った。
「来てくれたばかりで悪いんだけど、お菓子を買い忘れていたんだ。すぐに買ってくるから、待っててくれる?」
「なら、俺も一緒に……」
「いや、君は待っててくれるかな。僕が帰ってきた時に迎えてほしいから」
屈託なくそう乞われてしまっては、それ以上に食い下がることはやはりアシルにはできない。仕方なしに頷くと、ありがとうと微笑んだクレマンは当然のように顔を寄せてきた。
「っ、……」
「すぐ戻るよ」
「あ、ああ……気をつけて」
不意打ちの口付けに思わず息を呑みながらも、アシルは反射的にそれだけを答える。もう一度微笑んでくれたクレマンは「じゃあ行ってくるよ」とコートを手にした。
「寛いでてね。この部屋が退屈だったら、どこでも入って使ってくれて良いから」
居間に置かれていた本をなんとはなしに捲りながら、アシルはまた溜息を吐いた。内容など全く頭に入ってこない。
家主のいない家にいることが落ち着かない。クレマンのいないこの家は普段通りにアシルを受け入れてくれながらも、今はどこかうら寂しく寒々しいように感じられた。
伝えられなかった言葉が、言い出す機会を永遠に失った言葉が、まだ胸の奥につかえている。溜息と共に吐き出してしまえたならと思いながら、それさえできない。
『菓子なんてなくていい。お前と居られるなら、それでいい』
本当は、アシルはそうクレマンに伝えたかった。もう少しでそれを言えたはずだった。けれど今日も、不必要な羞恥心がその言葉を飲み飲ませてしまったのだ。
どうして自分はこんなにもつまらない、礼儀すら弁えない人間なのか。どうして自分はこんなにも、クレマンに愛されるに足る愛嬌や魅力のかけらもない男なのか。どうしてクレマンはこんな自分に対して、あんなにも優しく応対してくれるのか。
考えても考えても、答えは出ない。答えてくれる者もここにはいない。クレマンにこのような問いをぶつけることもアシルには到底できない。答えはどこにも見つからない。アシルがついまた溜息を漏らした、その時だった。
『……さん』
「……?」
誰かに呼びかけられたように感じ、アシルは顔を上げた。部屋の中を見回す。だが、誰もいない。
『……ル、さん』
同じ声が、まだ呼んだ。窓の外だろうかとアシルは立ち上がりかけたが、もう一度響いた声は窓とは逆の方向から聞こえた。
『……シル、さん』
「誰だ。どこにいるんだ」
問い質しながらアシルは部屋を見回す。そして、それまではなぜか見落としていたらしい「それ」に気付いた。
部屋の隅に鎮座している大きな姿見があった。仰々しい装飾はないが、さりげない彫刻の施された美しい品だった。見覚えのないそれはきっと、アシルが無沙汰をした間にクレマンが買い求めたものなのだろう。
『アシル、さん』
今までになくはっきりと響いた声は、確かにその鏡の方から聞こえていた。その裏側の壁との隙間に誰かが隠れているのだろうか。そう考え、アシルは鏡に歩み寄る。
だが、その狭い隙間を覗き込んでも誰もいない。ならば鏡に何か仕掛けでもあるのか。そう考えながら鏡面を覗き込んで、アシルはあまりにも大きな違和感に息を呑んだ。
クレマンの暖かな部屋を映し出すその鏡には、なぜかアシル自身だけが写っていなかった。アシルの立っている場所は、鏡の中ではただ床が写っている。
この奇妙な鏡はなんなのだ。それがクレマンが気に入って買い求めた理由なのか。そう考えながら、もっとよく確かめようとアシルは鏡に顔を寄せた。鏡面にそっと手を添える。その指があっさりと沈み込んだ。
「っ!?」
反射的に手を離そうとしたが、その暇さえなかった。鏡面はまるで湖のようにするするとアシルの手を、腕を飲み込む。驚く暇もあればこそ、アシルは鏡の中へ引き込まれていた。
『ようこそ、「鏡の国」へ』
小鳥のような声が、耳元でそうさえずった。
勢い余って床に倒れ込みそうになり、アシルはなんとか手を突いてそれを回避した。
「……?」
立ち上がりながら室内を見回す。クレマンの部屋をまさしく「鏡写し」にしたような、その部屋を。
家具や置物の全てはアシルにも見覚えのある色形をしているが、その全ての模様や配置が左右逆転している。小さいが強烈な違和感に眩暈を感じながら、アシルは自分が「通った」鏡を振り向こうとした。
だがそこには、あの鏡はすでになかった。ただ壁だけが澄ました様子でのっぺりと広がっている。小さく息を吐き、アシルはひとまず他の部屋を調べようと扉に近寄った。
だが開けた扉の先は、もはや見慣れたクレマンの部屋ではなかった。屋内ですらない。花壇が設えられた、光のあふれる庭が広がっている。
珍妙な作りの家だと呆れながら、アシルは庭に足を踏み入れる。途端に声を掛けてくる何者かがいた。
「あら、こんにちは」
「……? こんにちは」
女の声に反射的に応じながら、アシルは声のした方を向く。だがそこに人影はなく、ただ様々な花の植わっている花壇だけがあった。
「……?」
「どこを見ていらっしゃるの?」
「あたしたちはここよ。こ、こ」
見回していると、更に声がする。怪訝に思いながら視線を落としたアシルは、思わず目を瞠った。
花壇に植えられている花々は、よく見ればそれぞれが目鼻口を備えていた。その「顔のある花」達がアシルを見上げ、風もないのに身を揺らしながらまた口を開く。
「ああ、やっとこっちを見てくださったのね」
「あなた外国のお方でしょう。どちらからいらしたの?」
「……オルレアンから」
面食らいながら反射的にアシルが答えると、花々はぱちぱちと瞬きをした。顔を見合わせて囁き交わす。
「オルレアンですって。あなたご存知?」
「いいえ、わたくしも存じませんわ」
「きっととても遠いお国ね! 暖かいお国ですの?」
「……季節による……よります」
顔を上げて尋ね掛けてきた白薔薇にアシルが答えると「それはそうね」と花々が頷き合う。次に問いかけてきたのはラベンダーだった。
「遠いお国からどうやっていらしたの? 鳥か蝶に運んでもらって?」
「それとも風に乗ってかしら。ボウエキフウ、というのもあるのよね!」
「いえ……歩いて」
「歩いて!」
驚いたように声を揃えられ、アシルはまた面食らう。「まあそうなの」「そうだったのね」と花々はまた頷き合っていたが、代表したように黄色の百合がアシルをふり仰いだ。
「つまりあなた、花ではいらっしゃらなかったのね?」
「ええ」
「まあそうなの、とても綺麗な花びらをしてらっしゃるから、てっきり。ごめんなさいましね」
「……いえ」
花びらとはもしや髪のことかと考えながら、アシルは首を横に振った。そうなのねそうなのねと花々はまた頷きあっていたが、今度は三色菫が口火を切った。
「じゃああなた、『動物』なのね? 虫や鳥ではないご様子だから、リス? あ、分かったわ、ウサギでしょう!」
「いや……人間です」
「ニンゲン! まあ、私たち、ニンゲンのかたとお近づきになるのは初めてだわ!」
「……そう、ですか」
人間が全くいないとは珍しい庭だと思いながら、アシルは頷く。興奮したように花々は何やら囁き合っていたが、不意にマーガレットが「ああ、そうだわ!」と叫んだ。
「何か?」
「あのね、あたし達ね、ニンゲンさんとお会いするのは初めてよ。でもね、あなたにちょっと似ている動物なら知ってるわ」
「……へえ」
人間に似ているが人間ではないとは何者だろう。頭の隅で考え巡らせながらアシルが先を促すと、うんうんと頷きあった花々が口々に言い始める。
「ニンゲンさんみたいに、根っこが二つに分かれていて、それで『歩いて』いるかたよ」
「葉っぱも同じように2枚しかないわ。その葉っぱを使って、雨が足りないときには私達に水をくださるの」
「でも花びらの色は違うわねえ。もっと茶色いわ」
「そうね、それに、大きさも少し違うかしら。ニンゲンさんのほうが少し小さいみたい」
「……そのかたは、どこに?」
それは人間以外の何者なのかと考えながらアシルは尋ねる。花々は身をよじるようにして庭の左奥を示し、そしてまた振り向いて答えた。
「いつもあっちの方からいらっしゃるわ」
「最後にお見かけした時もそっちへ『歩いて』いらしたから、きっとまだそこよ」
「……ありがとうございます。じゃあ、俺はこれで」
ひとまずその何者かの話を聞いてみようと決め、アシルは花々に挨拶をした。名残惜しげに葉を揺らす花々の横を通り過ぎ、示された方へと向かう。その時、マーガレットらしき声がした。
「ああ、そうそう。そのかたはね、『カルマン』さんておっしゃるのよ!」
花達に教えられた方向へ進んでいると、花壇の代わりに木々が立ち現れる。その木々にも話しかけられるのではとアシルは危ぶんだが、どうやらそれらは眠っているようだった。
やがて現れたのは一軒の小屋だった。庭師小屋のようにも見える。アシルはその扉を軽く叩いたが、すぐに返された声の響きに不意を突かれた。
「はい」
「……!」
「さて、どなたかな。……ああ。あなたか」
扉を開けたあまりにも思いがけない相手に、アシルは思わず目を瞠る。呆然と相手の名を呟いた。
「……クレマン?」
「人違いでは? 私はカルマン。『鏡の国』の庭師です」
さらりとした返答にアシルはまた不意を突かれ、そしてそれが真実らしいことを同時に悟った。「カルマン」と名乗ったその男の笑みが、クレマンは決して浮かべない皮肉めいたものだったから。
「…….失礼しました。友人に、似ていたから」
「恋人ではなく?」
「っ!?」
居た堪れなさに思わず目を逸らしながらアシルは謝罪したが、あっさりとした口調で問われて思わず視線を戻してしまう。凝視するアシルの視線を受け止め、カルマンはまた皮肉げに笑った。
「隠すことはない。あなたのことはよく知っているから」
「…‥.どうして」
「さあね、どうしてだと思う?」
同じ皮肉な笑みでさらりとはぐらかし、カルマンは小屋から出てきて扉を後ろ手に閉めた。当然のようにアシルの腕を取りながら、気軽な口調で言う。
「では、早速出発しようか」
「どこへ? ……気安く触るな」
反射的に尋ねてから、アシルは慌てて手を振り払う。「つれないな」と笑ったカルマンはそれを気にかけるそぶりもなく答えた。
「視察に、だよ。『鏡の国』へようこそ、アシル」
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