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夢魔の約束・ 5
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目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。
アグノエルは瞬きをして、横になったまま首を巡らせた。目を閉じたはずの場所とは、見慣れた警察署の仮眠室とは、明らかに違う。もっと広くて、殺風景で、白々とした部屋だった。
窓もない。調度の類もほとんどない。あるのは自分がいま横になっている寝台、脇机とそこに置かれた小瓶、そして。
「目が覚めたかい?」
「っ!?」
不意に顔を覗き込まれ、息を呑んだ。そこにいるのは、片時も忘れない相手。いつもこの心に留めている、いつもこの目を注いでいる、その人は。
「……カズヌーヴ、さん?」
「気分はどうかな?」
どう、とは。カズヌーヴの発した問いかけの意味を図りかね、アグノエルは眉を寄せた。
職務中に負傷でもして気絶した後の目覚めならば、そのような言葉も当然に掛けられるだろう。だが今日のアグノエルは、ただ仮眠室で休んでいただけだ。ここが仮眠室でないのは明らかであり、何故この男と共にここに居るのかも定かではないが、身を案じられる覚えがまるでない。
「……問題ありません」
「そうか」
ひとまず当たり障りのない返答をしながらアグノエルが起き上がると、カズヌーヴは安堵したように笑った。一見すると邪気のなさそうなその笑顔に、アグノエルの胸の片隅でじりりと熾火が燃える。
無害そうな、さも善良そうな、この人の様子。だがそれは偽りに違いないと、アグノエルは確信している。
忌むべき前科者でしかないこの男。その本質が善であるはずがない、その本性は邪悪なものでしかあり得ない。一度罪の道に踏み込んだ者は、善の道に戻ることなどできはしないのだ。
この手で化けの皮を剥いでやるまで、その正体を白日の下に暴いてやるまで、自分はこの人を監視することをやめないだろう。罪を背負う者を、決して逃さないように。
常に胸に刻んでいる決意を新たにしながら、アグノエルはカズヌーヴから目を逸らした。もう一度部屋を見渡し、思わず眉を寄せる。
「……この、部屋は?」
「私にも分からないんだ。家で休んでいた筈なのに、気付いたらここに居てね」
薄く予感していた通り、カズヌーヴの返答はなんの役にも立たないものだった。舌打ちを堪え、アグノエルはひとまず寝台を降りる。
ぐるりと見回しても、やはり何の手がかりも見当たらない。物の少ない、殺風景な部屋。
じわじわとアグノエルの胸に忍び寄る、不吉な予感があった。振り払おうとして失敗する。努めてその予感から意識を背けながら部屋を見回していたアグノエルに、カズヌーヴがまた言葉をかけてきた。
「君が起きる前に少し確かめたけれど、扉はびくともしなかった。……力には自信があるのだけれど」
「……そうですか」
ならば自分も試すことには、あまり意味がないのかもしれない。これが常のあの悪夢ならば尚更。そう考えながらまた不快な予感を振り払おうとしていたアグノエルに、カズヌーヴは何か言おうとして躊躇したらしかった。
「それと……」
「それと?」
言いにくそうに口籠られるので、僅かに怪訝に思いながら視線を向け促す。何故か少し顔を赤くして、カズヌーヴは目を逸らした。
「扉に、妙な貼り紙が」
「貼り紙?」
嫌な予感が強まった。常のあの悪夢に、この状況はあまりにも似通っている。
努めて気を落ち着けようとしながらアグノエルは扉に歩み寄り、指摘された貼り紙を見た。目を走らせながら目眩を覚える。
無機質な、印刷されたような文字で、黒々と書かれているのは。その、短い一文は。
『セックスしないと出られない部屋』
ああ、またか。アグノエルが真っ先に感じたのは、それだった。
また、あの悪夢。よりにもよって、この人と。忌まわしい前科者でしかない男と。
不快感と苛立ちを振り払う。どうしようもないと、何でもないことだと、自分を納得させようとする。
諦めるしかない。所詮はただの夢だ。そう自分に言い聞かせて、気付かれぬように一つ深呼吸して。
そうしてアグノエルは、覚悟を決めた。
* * *
「アグノエル警部、これは……」
混乱のあまり泣き出しそうな顔をしている部下から、アグノエルはさりげなく視線を逸らした。努めて淡々と言う。
「……早く済ませよう」
「……警部?」
「ただの悪夢だ。何も気に病むな」
何のことだか分からないと言いたげな部下に分からせるために、アグノエルは自分のクラヴァットを引き抜いた。息を呑む男ともう一度視線を合わせ、淫らに笑って見せる。
「……どちらが希望だ?」
初めは遠慮がちだった男は、すぐに躊躇を脱ぎ捨てた。全身を撫でさすられ、肌の隅々に口付けられる。その不快感に耐えながら、アグノエルはぼんやりと思考を巡らせていた。
この男で、何人目だったろう。分からない。知りたくもない。分かるのは、この忌まわしい部屋を後にするためには体を明け渡さねばならないという、その忌々しい事実だけだった。
顔を寄せてくる気配を感じ、さりげなく顔を背けた。男は気にする様子もなく耳の下に唇を押し当ててくる。熱っぽい声が囁いた。
「アグノエルさん……」
「……っ」
うっとりとした声に呼ばれて怖気が走る。余計なことをするなと突き放したいのを、早く済ませろと怒鳴りつけたいのを、アグノエルはやっとの思いで堪えた。
アグノエルの胸の内になど気付こうともしない男は、ひどく熱心な様子でアグノエルを「愛そう」とする。その熱心さの理由を、アグノエルは知っている。理解は全くできないものの、分かっている。
この男の目の奥に揺れていた欲に、本当はずっと気付いていた。知っていて、知らないふりを貫いていた。気付いていると悟られて、厄介ごとに巻き込まれるのは願い下げだった。
この悪夢の中で「本懐を遂げ」させてやったところで、何も変わりはしない。これまでの経験から、アグノエルはそれを知っていた。
悪夢のことなど何も覚えていないという態度をアグノエルが貫き通せば、相手はやがて諦める。これまでもずっとそうだった。今回も、アグノエルならばそうできる筈だ。
こんなものは所詮は夢。目覚めれば悪夢など散り散りになって消えていき、後には何も残らない。アグノエルはこんな淫夢ごときによっては、決して変わらない。
だから、早く終わらせたい。早く現実に帰りたい。それだけを願いながら、アグノエルは捩じ込まれる熱に耐えた。
* * *
「また、いつもの悪夢だよ」
「……見れば分かる」
気軽な口調で教える罪人に、仕方なくそれだけ答えた。まさしく「見れば分かる」程度のことをわざわざ伝えてくる男が煩わしい。
たびたび訪れる、淫らで忌まわしい悪夢。どれほど性悪の悪魔が考えた悪ふざけかと、呆れ苛立つことさえももうやめた。
体を明け渡すことになど、もう痛みも屈辱もない。少しの間だけ耐えれば済むことでしかない。目覚めた時の身体には疲れや痛みが残っていないことも、とうに分かっている。
そうだ、だから、気のせいに決まっているのだ。この部屋で「目覚めて」最初に見た男の姿に、こんな取るに足りない罪人などの顔に、安堵に似た思いが浮かんだなどと。そんなものは、錯覚に過ぎないのだ。
だから早く済ませて現実に帰ろうと、こんなことはただの手段に過ぎないと。そう自分に言い聞かせて、アグノエルは服を脱ぎ捨てた。耐えさえすればすぐに済むと自分に言い聞かせる。罪人の側でも、さっさと事を終えて立ち去ることを望んでいるようだった。
楽な相手だと、そう思っていた。この男は「優しく」、そして「優しくない」から。他の男たちと違って、手前勝手に貪り尽くすように、乱暴に快楽を追うことはしないから。必要以上にアグノエルを「愛でて」アグノエルの不快感を煽ることも、この男はしないから。
体にかかる負担が少ないから楽だと、義務的に淡々と事を終えてくれるから気楽だと、愚かにもアグノエルは思っていた。それが錯覚でしかなかったことには、全てが手遅れになるまで気付かなかった。
寝台に背中を戻したアグノエルに、罪人は覆い被さってきた。軽薄な口調で投げつけられた挑発になど何の価値もないから、一顧だにしなかった。罪人は取り合わないアグノエルに気分を害したようでもなかったが、思いがけない行動に出た。
何を思ったか、罪人が顔を寄せてくる。何を思う間も無く顎を取られる。そして、唇が重なった。
唇が触れ合った瞬間に、眩暈のするほどの歓喜が弾けた。そのことに、アグノエルは愕然とした。その得体の知れない感情に、それが生まれてしまったという事実に。
アグノエルが呆然としている間にも、口付けは続く。やんわりと唇を食まれ、舌先で唇をなぞられる。ぞくりと背筋を這い上がったのは、不快感ではなかった。そうであってほしかったのに。
嘘だ。胸の中で声が響いた。
嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
違う、そんな筈はない。アグノエルはこんな罪人を愛してなどいない。こんな、前科者の、汚らわしい、脱走徒刑囚など。必死でそう自分に言い聞かせても、あの異様な歓喜の残響はまだ胸の中に残っていて、消えゆく気配すらない。
思わず我を忘れた。罪人を突き飛ばし、その体の下から必死で逃れ出る。伸ばされる手を振り払う。枕を投げつける。
不意を突かれた様子だった罪人が苛立ちの表情になる。逃げる間も無く押さえつけられた。骨の軋むほどの痛み。喉を掴まれて息が苦しい。堪らず苦痛に歪むアグノエルの顔を見下ろして、罪人はひどく嗜虐的な笑みを浮かべた。
そして、決して聞きたくなかった言葉が、降ってきた。
優しく痛みを取り払ってくれたのと同じ、あの声で。穏やかにいたわってくれたのと同じ、あの声で。その全く同じ声で、罪人は笑いながらアグノエルを侮蔑した。「淫乱」と。
淫乱。
淫乱。淫乱。
投げかけられた言葉が、耳の奥に響いている。それをやっと理解した時の感情を、なんと名付ければいいのだろう。それは絶望にも歓喜にも似ていた。そして、何もかも何と滑稽なのだろうという思いが沸き上がった。
だから、その思いに任せて哄笑した。ひどく痛快な思いがした。目の前で驚愕している罪人の表情が愉快で、それでまた笑いが込み上げる。
本当に、なんと滑稽なのだろう。何もかも、なんと馬鹿馬鹿しいのだろう。
アグノエルのことをただの淫乱としか見ていないくせに、そのアグノエルの体を使わなければこの部屋を出ていくことさえできない、この男も。そんな男に対して、恋慕にも似た思いをいつのまにか育てていた自分自身も。全てはあまりにも滑稽で、あまりにもくだらない。
淫らな笑みを貼り付けて挑発すれば、男はあっさりと引っかかった。喰らい尽くすような口付けにも、アグノエルはもう何も感じなかった。
乱暴なほどの抽送に身を任せるのは堪らない快感だった。焼き尽くされるような熱と脳を灼き溶かすほどの悦楽に何も考えずに溺れるのは、気の触れそうな心地良さだった。
芽生え始めていた恋心が死んでいく声を、アグノエルは聞いていた。そんなことには、何の感慨も湧かない。
滑稽だ、滑稽だ。その思いだけが、ずっと胸の中に響いていた。
獣のような交わり。全てを奪い尽くし攫いとるように貪って、喰らい尽くしていく男。あまりの無様さに、また笑いが込み上げそうになる。
ああ、滑稽だ、本当に。他の男達と、何も違わない。何一つとして、変わるところなどない。
自分は、何を夢見ていたのだろう。この程度の男に、こんな取るに足らないただの男に。何者でもない、ただの汚らわしい罪人風情に。
淫乱と、呼ぶならば呼べばいい。そのようになってやろうではないか。痛快な思いで、アグノエルはわざと淫らに声を上げ、自分を犯す男にしがみつき、あられもなく善がってみせた。相手が容易くそれに乗せられ、一層乱暴にアグノエルを犯そうとするのが、ますます愉快だった。
このまま殺してくれないだろうか。アグノエルが息絶えるまで犯し尽くしてくれはしないだろうか。アグノエルは熱と快感に蕩ける脳髄でそう願ったが、罪を背負う男はアグノエルの願いを叶えてさえくれなかった。
やっと我に返ったらしい罪人が、自分の所業を恐れでもするかのように寝台から逃げ出していく。手遅れだと胸の中で嘲笑いながら、アグノエルは背を向けた。もう話すことはないとの意思を示したつもりだった。
顔を見たくなかった。声さえ聞きたくなかった。だというのに、罪人はやはりアグノエルの意思には気付こうともしなかった。
「すまないことをした。傷付けるつもりじゃなかったんだ」
苦渋に満ちた声に、アグノエルは苛立った。アグノエルは傷付いてなどいない、こんな男に傷付けられなどしない。この程度の男に何をされたところで、アグノエルは決して傷付かない。
自分にも言い聞かせながら反論しても、罪人は苦しげな顔をやめない。慚愧の念に満ちたその顔を見上げていると、死に絶えた筈の恋心がまた未練がましくさざめいた。そのことに自分で苛立つ。
全ては、もう終わったのだ。何もかも、今になってはどうにもならないのだ。アグノエルがそう自分に言い聞かせていた時、罪人が馴れ馴れしく肩に触れてきた。振り払う前に、思いがけないことを言い出す。
「……私が、自首すればいいのか。そうすれば、君は満足できるか?」
その言葉にアグノエルは、自分でも驚くほどに激昂した。憤りに任せて言葉を叩きつける。体が動くものならば、いっそ絞め殺してやりたかった。アグノエルの勢いにか驚いた顔をしていた罪人は、やがて微かに微笑んだ。
「……君が捕まえてくれるのを、いつまででも待っている」
囁くように言った男が、また馴れ馴れしく髪に触れてくる。その手を払い除けながら、不意に涙が滲みそうになった。だがそれを悟られまいと必死に堪える。
すぐにでも「息子」のもとへ帰っていくくせに。伸ばした手の先をすり抜けて、逃げていくくせに。アグノエルに捕まるのを待つつもりなど、全くないくせに。欺瞞に満ちた男は、その場凌ぎの誤魔化しでアグノエルを宥めようとしているだけなのに。
なのにどうしてそのような声で、そのような指先で、そのような眼差しで。まるで、愛しい者でも見るかのように。
罪人の立ち去った部屋で、アグノエルはまたぼんやりと寝台に身を預けていた。こんな忌まわしい部屋にはもう用はない筈なのに、身支度をする気にもなれなかった。
何でもないことだと、早く起き上がれと、自分を叱咤する。なのに、まだ体が動かない。
そうだ、何でもないことだ。アグノエルはあんな罪人風情のことなど、何とも思っていないのだ。ただ積み重ねた悪夢が心を汚して、心を狂わせて、心を壊しただけだ。ただそれだけのことなのだ。
あんな男を愛してなどいない。愛したことなどない。愛など知らない、理解もできない。理解しようとも思わない。
それなのにどうして、胸が軋むのだろう。自分自身のことだというのに、アグノエルには分からなかった。
手足に絡みつく絶望。身動きをする気力もない。こんな忌々しい部屋など早く後にしてしまいたいのに、立ち上がることすらできない。
どうしてこのまま、夢に囚われたまま、死んでしまえないのだろう。どうしてこんな思いを繰り返しながら、まだおめおめと生きていかなければならないのだろう。そんな思いが、ふと胸に浮かび上がった。それはもしかしたら、ずっと胸の奥にあったのかも知れなかった。
目覚めさえしなければ、再びこの部屋に閉じ込められることもなくなるのか。もう二度と誰にも脚を開き体を明け渡すことをせずに、ひとりきりで静かに過ごすことができるのか。だが揺らいでいたアグノエルの胸に、ふと浮かび上がる声があった。
『約束してくれ。必ずこの部屋から出て、また私と会ってくれると』
カズヌーヴの、あの罪人の声。遠い悪夢の中でそう囁きかけてきた男の、驚くほど真摯な光を宿していた瞳。それを思い出してももう胸には切ないほどの甘さなど生まれようともしないが、小さな意志の焔が揺らめくのが感じられた。
言われるまでもない。確認されるまでもない。あの男を捕まえるのは、アグノエルでなければならないのだから。他の誰でもなくアグノエルが、それを成し遂げるべきなのだから。
そう決意しながら身を起こして、驚くほど軽やかに起き上がることができたと気付く。だが、そんなことはどうでもよかった。寝台を降りながら、独り呟く。
「……首を洗って待っているがいい。私は決して、貴様を逃さない」
* * *
「何を、考えているんだい?」
「っ……」
甘やかな声と共に軽く鼻先に噛みつかれ、アグノエルは物思いから覚めた。慌てて見上げた先では、カズヌーヴが微笑んでいる。
精悍な面差し、力強く優しい眼差し。その瞳に燃える熱っぽい光に見惚れてから、ひどく気恥ずかしくなって視線を逸らした。
「……すまない」
言い訳も思いつかずに謝罪を押し出す。苦笑したカズヌーヴに抱き直された。燃えるような熱を帯びる肌が触れ合う。それはあまりにも心地良かった。
「私を見て。私のことだけを考えるんだ」
「……ポール」
「他の何も考えなくていい。……考えるんじゃない」
優しい命令に、反論もできず頷く。何も言えないまま腕を伸ばし、恋い慕う男に縋りついた。カズヌーヴもしっかりと抱き返してくれる。
彼はきっと、全てを見透かしている。けれど尋ねずにいてくれるのが、彼の思いやりに違いなかった。
尋ねられるのが怖かった。アグノエルが「覚えている」ことを、確認されたくなかった。彼に対して嘘を貫ける自信がなかったから。
あの悪夢が「本当」のものだと、認めたくなかった。彼ではない男達に平然と脚を開いてきた自分を、「本当」だと認めたくなかった。生まれて初めて愛した男に軽蔑され、見捨てられるのが怖かった。
だからどうか、尋ねずにいてくれ。あの悪夢のことなど忘れていてくれ。私が忘れることをも許してくれ。祈るようにそう願いながら、アグノエルはカズヌーヴに口付けた。
* * *
薔薇の香りがしていた。不快な記憶と結びついているその香りが、「目覚める」前から不吉な思いを胸に掻き立てていた。
目を開けたくなかった。眼前に広がるだろう「あの部屋」を見るのが怖かった。けれど、目を開けないことはできない。先送りにしたところで、何も変わらない。
どうかそこにいるのは、彼であってくれ。そう祈りながらゆっくりと目を開ける。そして絶望とともに、理解した。
悪夢は、決して終わらない。
隣で眠っている男は、まだ目覚めない。なるべくその男から距離をとりながら、アグノエルは必死で心を鎮めようとした。だがそれも功を奏さない。
舌を噛んで死んでしまおうか、と思った。それでもう一人の「被害者」が永遠にこの悪夢に閉じ込められるとしても、アグノエルの知ったことではない。
辱めに耐えておめおめと「現実」に戻ったとしても、きっとカズヌーヴはアグノエルを許してはくれない。アグノエルの裏切りに激昂し、アグノエルを責めなじり、そしてアグノエルを見限ってしまうのだろう。そうに決まっている。
カズヌーヴに見捨てられれば、アグノエルは生きていけない。ならばこのまま、カズヌーヴに忠実な体のまま、死んでしまう方がいい。だが、そう決めて舌を噛み切ろうとしたときになって、胸に蘇ってきた声があった。
『約束してくれ。必ずこの部屋から出て、また私と会ってくれると』
真摯な響きを思いだすと、涙が溢れそうになった。彼に会いたいという想いが、胸を貫いた。
カズヌーヴに会いたい。再会の先には別れしかないと分かりきっていても、もう一度だけ彼の声が聞きたい。その願いは、驚くほどの強さでアグノエルの胸を締め付けた。
許されざる裏切りを犯してでも、アグノエルは現実に帰りたかった。もう一度だけカズヌーヴに会いたかった。別れるために再会するのだと、こんなにも知っていても。
寝台の軋む音。もう一人の男が目覚めたらしい。そっと呼吸を整え、アグノエルはゆっくりと振り向いた。
* * *
優しい温もりに、しっかりと抱き寄せられている。まだ覚め切らない意識で頬を擦り寄せると、温かな手が髪を撫でた。
「……目が覚めたかい?」
思いがけないほど穏やかな声に驚いて、目を開ける。ひどく憔悴した様子のカズヌーヴは、それでも優しく微笑みかけてくれた。
胸に抱き寄せてくれていたカズヌーヴの腕から何も言えずに抜け出して、アグノエルはもたもたとシーツの上に座った。言おうとした言葉をためらう。言葉に迷って、そしてアグノエルは言わなければならない言葉を押し出した。
「……すまない……」
「謝らないでくれ。君は何も悪くない」
毅然とした声で謝罪を封じられて、アグノエルはまた驚いた。尋ねることも忘れてカズヌーヴを見つめる。ひどく悲しげな眼で視線を受け止めてくれたカズヌーヴの顔が、苦しげに歪んだ。
「謝るなら、私の方だ」
「ポール……?」
「私は君を、夢魔の手から守ることもできない。君に、君のために、何もすることができない……!」
血を吐くように言葉を吐き出したカズヌーヴが項垂れる。震える肩から彼の苦悩が伝わってくる。アグノエルが驚かされたことに、カズヌーヴは確かにその言葉を本気で言ってくれているらしかった。
許されざる裏切りを犯しておめおめと戻ったアグノエルを責めることさえせず、それどころか深く自責して、カズヌーヴは苦しんでいる。その理由がアグノエルには理解できなかったが、カズヌーヴの苦悩を黙って見ていることはできなかった。
ためらってから、アグノエルは恐る恐る手を伸ばした。俯いて拳を震わせているカズヌーヴを、ぎこちなく抱きしめた。腕の中の逞しい体が驚いたように震える。
「……ジョルジュ?」
「……君に、会いたかった」
何を言うべきか迷う前に、言葉が零れ落ちていた。本当は目覚めて最初に言いたかったその言葉が、何を考える前に溢れ出した。
「……舌を噛んで死のうかとも思った。君への操を守ったまま死ねばいいと、そうすれば君を裏切らずに済むと」
「……!」
「だが、できなかった。君を裏切ってでも、君に見限られると分かっていても。もう一度、君に会いたかった」
語りながら涙が零れそうになる。そのようなことはできない。憐れみを乞うような、そんな卑劣なことは、してはいけないのだから。
自分に言い聞かせて必死で涙を飲み込んでいると、温かい腕に力強く抱き返された。髪に口付けられる。涙の響きのある声が囁いた。
「君が目を覚ましてくれて嬉しい。……ありがとう、ジョルジュ」
何も解決してはいないことに、本当は二人ともが気付いている。きっとまた何度でもアグノエルはあの悪夢に呼び寄せられるのだし、その白々とした部屋にカズヌーヴはいないのだろう。アグノエルはカズヌーヴを愛する限り彼を裏切り続けることしかできず、カズヌーヴも確かにそれを知っている。
カズヌーヴがアグノエルの裏切りを看過できなくなれば、全ては瓦解する。今にも崩れ落ちそうな乾き切った砂の城で、二人は寄り添い合おうとしている。
けれど今だけでも、カズヌーヴに完全に見限られるまでのごく僅かな期間だけでも、この温もりに甘えていたい。軋るように願いながら、アグノエルはカズヌーヴの口付けを受け止めた。
アグノエルは瞬きをして、横になったまま首を巡らせた。目を閉じたはずの場所とは、見慣れた警察署の仮眠室とは、明らかに違う。もっと広くて、殺風景で、白々とした部屋だった。
窓もない。調度の類もほとんどない。あるのは自分がいま横になっている寝台、脇机とそこに置かれた小瓶、そして。
「目が覚めたかい?」
「っ!?」
不意に顔を覗き込まれ、息を呑んだ。そこにいるのは、片時も忘れない相手。いつもこの心に留めている、いつもこの目を注いでいる、その人は。
「……カズヌーヴ、さん?」
「気分はどうかな?」
どう、とは。カズヌーヴの発した問いかけの意味を図りかね、アグノエルは眉を寄せた。
職務中に負傷でもして気絶した後の目覚めならば、そのような言葉も当然に掛けられるだろう。だが今日のアグノエルは、ただ仮眠室で休んでいただけだ。ここが仮眠室でないのは明らかであり、何故この男と共にここに居るのかも定かではないが、身を案じられる覚えがまるでない。
「……問題ありません」
「そうか」
ひとまず当たり障りのない返答をしながらアグノエルが起き上がると、カズヌーヴは安堵したように笑った。一見すると邪気のなさそうなその笑顔に、アグノエルの胸の片隅でじりりと熾火が燃える。
無害そうな、さも善良そうな、この人の様子。だがそれは偽りに違いないと、アグノエルは確信している。
忌むべき前科者でしかないこの男。その本質が善であるはずがない、その本性は邪悪なものでしかあり得ない。一度罪の道に踏み込んだ者は、善の道に戻ることなどできはしないのだ。
この手で化けの皮を剥いでやるまで、その正体を白日の下に暴いてやるまで、自分はこの人を監視することをやめないだろう。罪を背負う者を、決して逃さないように。
常に胸に刻んでいる決意を新たにしながら、アグノエルはカズヌーヴから目を逸らした。もう一度部屋を見渡し、思わず眉を寄せる。
「……この、部屋は?」
「私にも分からないんだ。家で休んでいた筈なのに、気付いたらここに居てね」
薄く予感していた通り、カズヌーヴの返答はなんの役にも立たないものだった。舌打ちを堪え、アグノエルはひとまず寝台を降りる。
ぐるりと見回しても、やはり何の手がかりも見当たらない。物の少ない、殺風景な部屋。
じわじわとアグノエルの胸に忍び寄る、不吉な予感があった。振り払おうとして失敗する。努めてその予感から意識を背けながら部屋を見回していたアグノエルに、カズヌーヴがまた言葉をかけてきた。
「君が起きる前に少し確かめたけれど、扉はびくともしなかった。……力には自信があるのだけれど」
「……そうですか」
ならば自分も試すことには、あまり意味がないのかもしれない。これが常のあの悪夢ならば尚更。そう考えながらまた不快な予感を振り払おうとしていたアグノエルに、カズヌーヴは何か言おうとして躊躇したらしかった。
「それと……」
「それと?」
言いにくそうに口籠られるので、僅かに怪訝に思いながら視線を向け促す。何故か少し顔を赤くして、カズヌーヴは目を逸らした。
「扉に、妙な貼り紙が」
「貼り紙?」
嫌な予感が強まった。常のあの悪夢に、この状況はあまりにも似通っている。
努めて気を落ち着けようとしながらアグノエルは扉に歩み寄り、指摘された貼り紙を見た。目を走らせながら目眩を覚える。
無機質な、印刷されたような文字で、黒々と書かれているのは。その、短い一文は。
『セックスしないと出られない部屋』
ああ、またか。アグノエルが真っ先に感じたのは、それだった。
また、あの悪夢。よりにもよって、この人と。忌まわしい前科者でしかない男と。
不快感と苛立ちを振り払う。どうしようもないと、何でもないことだと、自分を納得させようとする。
諦めるしかない。所詮はただの夢だ。そう自分に言い聞かせて、気付かれぬように一つ深呼吸して。
そうしてアグノエルは、覚悟を決めた。
* * *
「アグノエル警部、これは……」
混乱のあまり泣き出しそうな顔をしている部下から、アグノエルはさりげなく視線を逸らした。努めて淡々と言う。
「……早く済ませよう」
「……警部?」
「ただの悪夢だ。何も気に病むな」
何のことだか分からないと言いたげな部下に分からせるために、アグノエルは自分のクラヴァットを引き抜いた。息を呑む男ともう一度視線を合わせ、淫らに笑って見せる。
「……どちらが希望だ?」
初めは遠慮がちだった男は、すぐに躊躇を脱ぎ捨てた。全身を撫でさすられ、肌の隅々に口付けられる。その不快感に耐えながら、アグノエルはぼんやりと思考を巡らせていた。
この男で、何人目だったろう。分からない。知りたくもない。分かるのは、この忌まわしい部屋を後にするためには体を明け渡さねばならないという、その忌々しい事実だけだった。
顔を寄せてくる気配を感じ、さりげなく顔を背けた。男は気にする様子もなく耳の下に唇を押し当ててくる。熱っぽい声が囁いた。
「アグノエルさん……」
「……っ」
うっとりとした声に呼ばれて怖気が走る。余計なことをするなと突き放したいのを、早く済ませろと怒鳴りつけたいのを、アグノエルはやっとの思いで堪えた。
アグノエルの胸の内になど気付こうともしない男は、ひどく熱心な様子でアグノエルを「愛そう」とする。その熱心さの理由を、アグノエルは知っている。理解は全くできないものの、分かっている。
この男の目の奥に揺れていた欲に、本当はずっと気付いていた。知っていて、知らないふりを貫いていた。気付いていると悟られて、厄介ごとに巻き込まれるのは願い下げだった。
この悪夢の中で「本懐を遂げ」させてやったところで、何も変わりはしない。これまでの経験から、アグノエルはそれを知っていた。
悪夢のことなど何も覚えていないという態度をアグノエルが貫き通せば、相手はやがて諦める。これまでもずっとそうだった。今回も、アグノエルならばそうできる筈だ。
こんなものは所詮は夢。目覚めれば悪夢など散り散りになって消えていき、後には何も残らない。アグノエルはこんな淫夢ごときによっては、決して変わらない。
だから、早く終わらせたい。早く現実に帰りたい。それだけを願いながら、アグノエルは捩じ込まれる熱に耐えた。
* * *
「また、いつもの悪夢だよ」
「……見れば分かる」
気軽な口調で教える罪人に、仕方なくそれだけ答えた。まさしく「見れば分かる」程度のことをわざわざ伝えてくる男が煩わしい。
たびたび訪れる、淫らで忌まわしい悪夢。どれほど性悪の悪魔が考えた悪ふざけかと、呆れ苛立つことさえももうやめた。
体を明け渡すことになど、もう痛みも屈辱もない。少しの間だけ耐えれば済むことでしかない。目覚めた時の身体には疲れや痛みが残っていないことも、とうに分かっている。
そうだ、だから、気のせいに決まっているのだ。この部屋で「目覚めて」最初に見た男の姿に、こんな取るに足りない罪人などの顔に、安堵に似た思いが浮かんだなどと。そんなものは、錯覚に過ぎないのだ。
だから早く済ませて現実に帰ろうと、こんなことはただの手段に過ぎないと。そう自分に言い聞かせて、アグノエルは服を脱ぎ捨てた。耐えさえすればすぐに済むと自分に言い聞かせる。罪人の側でも、さっさと事を終えて立ち去ることを望んでいるようだった。
楽な相手だと、そう思っていた。この男は「優しく」、そして「優しくない」から。他の男たちと違って、手前勝手に貪り尽くすように、乱暴に快楽を追うことはしないから。必要以上にアグノエルを「愛でて」アグノエルの不快感を煽ることも、この男はしないから。
体にかかる負担が少ないから楽だと、義務的に淡々と事を終えてくれるから気楽だと、愚かにもアグノエルは思っていた。それが錯覚でしかなかったことには、全てが手遅れになるまで気付かなかった。
寝台に背中を戻したアグノエルに、罪人は覆い被さってきた。軽薄な口調で投げつけられた挑発になど何の価値もないから、一顧だにしなかった。罪人は取り合わないアグノエルに気分を害したようでもなかったが、思いがけない行動に出た。
何を思ったか、罪人が顔を寄せてくる。何を思う間も無く顎を取られる。そして、唇が重なった。
唇が触れ合った瞬間に、眩暈のするほどの歓喜が弾けた。そのことに、アグノエルは愕然とした。その得体の知れない感情に、それが生まれてしまったという事実に。
アグノエルが呆然としている間にも、口付けは続く。やんわりと唇を食まれ、舌先で唇をなぞられる。ぞくりと背筋を這い上がったのは、不快感ではなかった。そうであってほしかったのに。
嘘だ。胸の中で声が響いた。
嘘だ。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
違う、そんな筈はない。アグノエルはこんな罪人を愛してなどいない。こんな、前科者の、汚らわしい、脱走徒刑囚など。必死でそう自分に言い聞かせても、あの異様な歓喜の残響はまだ胸の中に残っていて、消えゆく気配すらない。
思わず我を忘れた。罪人を突き飛ばし、その体の下から必死で逃れ出る。伸ばされる手を振り払う。枕を投げつける。
不意を突かれた様子だった罪人が苛立ちの表情になる。逃げる間も無く押さえつけられた。骨の軋むほどの痛み。喉を掴まれて息が苦しい。堪らず苦痛に歪むアグノエルの顔を見下ろして、罪人はひどく嗜虐的な笑みを浮かべた。
そして、決して聞きたくなかった言葉が、降ってきた。
優しく痛みを取り払ってくれたのと同じ、あの声で。穏やかにいたわってくれたのと同じ、あの声で。その全く同じ声で、罪人は笑いながらアグノエルを侮蔑した。「淫乱」と。
淫乱。
淫乱。淫乱。
投げかけられた言葉が、耳の奥に響いている。それをやっと理解した時の感情を、なんと名付ければいいのだろう。それは絶望にも歓喜にも似ていた。そして、何もかも何と滑稽なのだろうという思いが沸き上がった。
だから、その思いに任せて哄笑した。ひどく痛快な思いがした。目の前で驚愕している罪人の表情が愉快で、それでまた笑いが込み上げる。
本当に、なんと滑稽なのだろう。何もかも、なんと馬鹿馬鹿しいのだろう。
アグノエルのことをただの淫乱としか見ていないくせに、そのアグノエルの体を使わなければこの部屋を出ていくことさえできない、この男も。そんな男に対して、恋慕にも似た思いをいつのまにか育てていた自分自身も。全てはあまりにも滑稽で、あまりにもくだらない。
淫らな笑みを貼り付けて挑発すれば、男はあっさりと引っかかった。喰らい尽くすような口付けにも、アグノエルはもう何も感じなかった。
乱暴なほどの抽送に身を任せるのは堪らない快感だった。焼き尽くされるような熱と脳を灼き溶かすほどの悦楽に何も考えずに溺れるのは、気の触れそうな心地良さだった。
芽生え始めていた恋心が死んでいく声を、アグノエルは聞いていた。そんなことには、何の感慨も湧かない。
滑稽だ、滑稽だ。その思いだけが、ずっと胸の中に響いていた。
獣のような交わり。全てを奪い尽くし攫いとるように貪って、喰らい尽くしていく男。あまりの無様さに、また笑いが込み上げそうになる。
ああ、滑稽だ、本当に。他の男達と、何も違わない。何一つとして、変わるところなどない。
自分は、何を夢見ていたのだろう。この程度の男に、こんな取るに足らないただの男に。何者でもない、ただの汚らわしい罪人風情に。
淫乱と、呼ぶならば呼べばいい。そのようになってやろうではないか。痛快な思いで、アグノエルはわざと淫らに声を上げ、自分を犯す男にしがみつき、あられもなく善がってみせた。相手が容易くそれに乗せられ、一層乱暴にアグノエルを犯そうとするのが、ますます愉快だった。
このまま殺してくれないだろうか。アグノエルが息絶えるまで犯し尽くしてくれはしないだろうか。アグノエルは熱と快感に蕩ける脳髄でそう願ったが、罪を背負う男はアグノエルの願いを叶えてさえくれなかった。
やっと我に返ったらしい罪人が、自分の所業を恐れでもするかのように寝台から逃げ出していく。手遅れだと胸の中で嘲笑いながら、アグノエルは背を向けた。もう話すことはないとの意思を示したつもりだった。
顔を見たくなかった。声さえ聞きたくなかった。だというのに、罪人はやはりアグノエルの意思には気付こうともしなかった。
「すまないことをした。傷付けるつもりじゃなかったんだ」
苦渋に満ちた声に、アグノエルは苛立った。アグノエルは傷付いてなどいない、こんな男に傷付けられなどしない。この程度の男に何をされたところで、アグノエルは決して傷付かない。
自分にも言い聞かせながら反論しても、罪人は苦しげな顔をやめない。慚愧の念に満ちたその顔を見上げていると、死に絶えた筈の恋心がまた未練がましくさざめいた。そのことに自分で苛立つ。
全ては、もう終わったのだ。何もかも、今になってはどうにもならないのだ。アグノエルがそう自分に言い聞かせていた時、罪人が馴れ馴れしく肩に触れてきた。振り払う前に、思いがけないことを言い出す。
「……私が、自首すればいいのか。そうすれば、君は満足できるか?」
その言葉にアグノエルは、自分でも驚くほどに激昂した。憤りに任せて言葉を叩きつける。体が動くものならば、いっそ絞め殺してやりたかった。アグノエルの勢いにか驚いた顔をしていた罪人は、やがて微かに微笑んだ。
「……君が捕まえてくれるのを、いつまででも待っている」
囁くように言った男が、また馴れ馴れしく髪に触れてくる。その手を払い除けながら、不意に涙が滲みそうになった。だがそれを悟られまいと必死に堪える。
すぐにでも「息子」のもとへ帰っていくくせに。伸ばした手の先をすり抜けて、逃げていくくせに。アグノエルに捕まるのを待つつもりなど、全くないくせに。欺瞞に満ちた男は、その場凌ぎの誤魔化しでアグノエルを宥めようとしているだけなのに。
なのにどうしてそのような声で、そのような指先で、そのような眼差しで。まるで、愛しい者でも見るかのように。
罪人の立ち去った部屋で、アグノエルはまたぼんやりと寝台に身を預けていた。こんな忌まわしい部屋にはもう用はない筈なのに、身支度をする気にもなれなかった。
何でもないことだと、早く起き上がれと、自分を叱咤する。なのに、まだ体が動かない。
そうだ、何でもないことだ。アグノエルはあんな罪人風情のことなど、何とも思っていないのだ。ただ積み重ねた悪夢が心を汚して、心を狂わせて、心を壊しただけだ。ただそれだけのことなのだ。
あんな男を愛してなどいない。愛したことなどない。愛など知らない、理解もできない。理解しようとも思わない。
それなのにどうして、胸が軋むのだろう。自分自身のことだというのに、アグノエルには分からなかった。
手足に絡みつく絶望。身動きをする気力もない。こんな忌々しい部屋など早く後にしてしまいたいのに、立ち上がることすらできない。
どうしてこのまま、夢に囚われたまま、死んでしまえないのだろう。どうしてこんな思いを繰り返しながら、まだおめおめと生きていかなければならないのだろう。そんな思いが、ふと胸に浮かび上がった。それはもしかしたら、ずっと胸の奥にあったのかも知れなかった。
目覚めさえしなければ、再びこの部屋に閉じ込められることもなくなるのか。もう二度と誰にも脚を開き体を明け渡すことをせずに、ひとりきりで静かに過ごすことができるのか。だが揺らいでいたアグノエルの胸に、ふと浮かび上がる声があった。
『約束してくれ。必ずこの部屋から出て、また私と会ってくれると』
カズヌーヴの、あの罪人の声。遠い悪夢の中でそう囁きかけてきた男の、驚くほど真摯な光を宿していた瞳。それを思い出してももう胸には切ないほどの甘さなど生まれようともしないが、小さな意志の焔が揺らめくのが感じられた。
言われるまでもない。確認されるまでもない。あの男を捕まえるのは、アグノエルでなければならないのだから。他の誰でもなくアグノエルが、それを成し遂げるべきなのだから。
そう決意しながら身を起こして、驚くほど軽やかに起き上がることができたと気付く。だが、そんなことはどうでもよかった。寝台を降りながら、独り呟く。
「……首を洗って待っているがいい。私は決して、貴様を逃さない」
* * *
「何を、考えているんだい?」
「っ……」
甘やかな声と共に軽く鼻先に噛みつかれ、アグノエルは物思いから覚めた。慌てて見上げた先では、カズヌーヴが微笑んでいる。
精悍な面差し、力強く優しい眼差し。その瞳に燃える熱っぽい光に見惚れてから、ひどく気恥ずかしくなって視線を逸らした。
「……すまない」
言い訳も思いつかずに謝罪を押し出す。苦笑したカズヌーヴに抱き直された。燃えるような熱を帯びる肌が触れ合う。それはあまりにも心地良かった。
「私を見て。私のことだけを考えるんだ」
「……ポール」
「他の何も考えなくていい。……考えるんじゃない」
優しい命令に、反論もできず頷く。何も言えないまま腕を伸ばし、恋い慕う男に縋りついた。カズヌーヴもしっかりと抱き返してくれる。
彼はきっと、全てを見透かしている。けれど尋ねずにいてくれるのが、彼の思いやりに違いなかった。
尋ねられるのが怖かった。アグノエルが「覚えている」ことを、確認されたくなかった。彼に対して嘘を貫ける自信がなかったから。
あの悪夢が「本当」のものだと、認めたくなかった。彼ではない男達に平然と脚を開いてきた自分を、「本当」だと認めたくなかった。生まれて初めて愛した男に軽蔑され、見捨てられるのが怖かった。
だからどうか、尋ねずにいてくれ。あの悪夢のことなど忘れていてくれ。私が忘れることをも許してくれ。祈るようにそう願いながら、アグノエルはカズヌーヴに口付けた。
* * *
薔薇の香りがしていた。不快な記憶と結びついているその香りが、「目覚める」前から不吉な思いを胸に掻き立てていた。
目を開けたくなかった。眼前に広がるだろう「あの部屋」を見るのが怖かった。けれど、目を開けないことはできない。先送りにしたところで、何も変わらない。
どうかそこにいるのは、彼であってくれ。そう祈りながらゆっくりと目を開ける。そして絶望とともに、理解した。
悪夢は、決して終わらない。
隣で眠っている男は、まだ目覚めない。なるべくその男から距離をとりながら、アグノエルは必死で心を鎮めようとした。だがそれも功を奏さない。
舌を噛んで死んでしまおうか、と思った。それでもう一人の「被害者」が永遠にこの悪夢に閉じ込められるとしても、アグノエルの知ったことではない。
辱めに耐えておめおめと「現実」に戻ったとしても、きっとカズヌーヴはアグノエルを許してはくれない。アグノエルの裏切りに激昂し、アグノエルを責めなじり、そしてアグノエルを見限ってしまうのだろう。そうに決まっている。
カズヌーヴに見捨てられれば、アグノエルは生きていけない。ならばこのまま、カズヌーヴに忠実な体のまま、死んでしまう方がいい。だが、そう決めて舌を噛み切ろうとしたときになって、胸に蘇ってきた声があった。
『約束してくれ。必ずこの部屋から出て、また私と会ってくれると』
真摯な響きを思いだすと、涙が溢れそうになった。彼に会いたいという想いが、胸を貫いた。
カズヌーヴに会いたい。再会の先には別れしかないと分かりきっていても、もう一度だけ彼の声が聞きたい。その願いは、驚くほどの強さでアグノエルの胸を締め付けた。
許されざる裏切りを犯してでも、アグノエルは現実に帰りたかった。もう一度だけカズヌーヴに会いたかった。別れるために再会するのだと、こんなにも知っていても。
寝台の軋む音。もう一人の男が目覚めたらしい。そっと呼吸を整え、アグノエルはゆっくりと振り向いた。
* * *
優しい温もりに、しっかりと抱き寄せられている。まだ覚め切らない意識で頬を擦り寄せると、温かな手が髪を撫でた。
「……目が覚めたかい?」
思いがけないほど穏やかな声に驚いて、目を開ける。ひどく憔悴した様子のカズヌーヴは、それでも優しく微笑みかけてくれた。
胸に抱き寄せてくれていたカズヌーヴの腕から何も言えずに抜け出して、アグノエルはもたもたとシーツの上に座った。言おうとした言葉をためらう。言葉に迷って、そしてアグノエルは言わなければならない言葉を押し出した。
「……すまない……」
「謝らないでくれ。君は何も悪くない」
毅然とした声で謝罪を封じられて、アグノエルはまた驚いた。尋ねることも忘れてカズヌーヴを見つめる。ひどく悲しげな眼で視線を受け止めてくれたカズヌーヴの顔が、苦しげに歪んだ。
「謝るなら、私の方だ」
「ポール……?」
「私は君を、夢魔の手から守ることもできない。君に、君のために、何もすることができない……!」
血を吐くように言葉を吐き出したカズヌーヴが項垂れる。震える肩から彼の苦悩が伝わってくる。アグノエルが驚かされたことに、カズヌーヴは確かにその言葉を本気で言ってくれているらしかった。
許されざる裏切りを犯しておめおめと戻ったアグノエルを責めることさえせず、それどころか深く自責して、カズヌーヴは苦しんでいる。その理由がアグノエルには理解できなかったが、カズヌーヴの苦悩を黙って見ていることはできなかった。
ためらってから、アグノエルは恐る恐る手を伸ばした。俯いて拳を震わせているカズヌーヴを、ぎこちなく抱きしめた。腕の中の逞しい体が驚いたように震える。
「……ジョルジュ?」
「……君に、会いたかった」
何を言うべきか迷う前に、言葉が零れ落ちていた。本当は目覚めて最初に言いたかったその言葉が、何を考える前に溢れ出した。
「……舌を噛んで死のうかとも思った。君への操を守ったまま死ねばいいと、そうすれば君を裏切らずに済むと」
「……!」
「だが、できなかった。君を裏切ってでも、君に見限られると分かっていても。もう一度、君に会いたかった」
語りながら涙が零れそうになる。そのようなことはできない。憐れみを乞うような、そんな卑劣なことは、してはいけないのだから。
自分に言い聞かせて必死で涙を飲み込んでいると、温かい腕に力強く抱き返された。髪に口付けられる。涙の響きのある声が囁いた。
「君が目を覚ましてくれて嬉しい。……ありがとう、ジョルジュ」
何も解決してはいないことに、本当は二人ともが気付いている。きっとまた何度でもアグノエルはあの悪夢に呼び寄せられるのだし、その白々とした部屋にカズヌーヴはいないのだろう。アグノエルはカズヌーヴを愛する限り彼を裏切り続けることしかできず、カズヌーヴも確かにそれを知っている。
カズヌーヴがアグノエルの裏切りを看過できなくなれば、全ては瓦解する。今にも崩れ落ちそうな乾き切った砂の城で、二人は寄り添い合おうとしている。
けれど今だけでも、カズヌーヴに完全に見限られるまでのごく僅かな期間だけでも、この温もりに甘えていたい。軋るように願いながら、アグノエルはカズヌーヴの口付けを受け止めた。
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