夢魔の約束

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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夢魔の約束・3

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 カズヌーヴが一日の仕事を終えて印刷所を出ると、アンリはすぐに駆け寄ってきた。嬉しそうに手にしがみついてくる。
「お父さん、お疲れ様!」
「ああ、ありがとう。待たせたね」
「大丈夫だよ、勉強の復習をしてたらすぐだったよ!」
 屈託のない笑顔でそう言ってくれる又甥と手を繋いで家路につきながら、今は別の名を名乗っているカズヌーヴは平穏を噛み締めていた。家族とはこんなにも温かいものだなどとは、カズヌーヴはアンリに教えられるまで知らなかった。
 徒刑場からの脱獄に成功し、やっとアンリを迎えに行けたのは、もう五年も前のことだ。母親を亡くしたばかりで塞ぎ込んでいたアンリは初めはカズヌーヴに遠慮し打ち解けない様子を見せていたが、少しずつ心を開いてくれた。アンリが初めて「お父さん」と呼んでくれた日のことを、カズヌーヴは生涯忘れないだろう。
 心を許して甘えてくれる少年のことがひたすらに愛おしい。もう十一歳になったアンリは反抗期の影さえ見せず、素直で健気な「息子」としてカズヌーヴに懐いてくれている。
 息を潜めるようにして送る日々の中でも、二人の生活は確かに輝いていた。最初の服役の時に他の囚人達から教えられていた人脈を頼ってカズヌーヴは別人の名前を手に入れ、何食わぬ顔で印刷工として働けている。細々とした収入だが、アンリと二人で倹しく暮らし、少しずつでも蓄えをしていくには充分だった。
 パリを離れて暮らしている今は、正体に勘付かれるおそれもほとんどない。この幸せはきっといつまでも続くだろうと、そうであってほしいと、カズヌーヴは祈るように信じていた。

      *      *      *

 また、この夢か。うんざりとした思いでカズヌーヴは息を吐いた。一応の確認のため、寝台を降りて扉に歩み寄る。そこにはやはりあの貼り紙があった。
『セックスしないと出られない部屋』
 また同じ文言、また同じような部屋。だが前回までとは決定的に違う事情が、今のカズヌーヴにはあるのだ。
 一刻も早く現実に帰りたい。又甥の無事を確かめたい。大切に預かっているあの少年には何事も起きていないことを確かめなければ、居ても立っても居られない。
 だが「セックス」をする相手に起きてもらわないことには、始めることもできない。苛立ちに似た思いに胸を刺されながら、カズヌーヴは寝台の脇に戻った。
 寝台の上で眠っているのは、またいつもと同じ男だった。その男アグノエルは、短い髪を枕に乱して静かな寝息を立てている。
 焦り苛立ちながらも心のどこかではほっとしている自分を、カズヌーヴは感じていた。アグノエルはいつも、驚くほど協力的だから。これまでと同じように事務的に終わらせて、そしてさっさと目覚めることができると、始める前から信じられるから。
 だから、今回も彼が相手でよかった。そればかりが不幸中の幸いだと思いながら、目覚めないアグノエルの顔をカズヌーヴは眺めた。年齢よりも幼い寝顔、意外に長い睫。
 ほとんど無意識に手を伸ばして、けれど触れる直前にためらった。迷ってから、手を握り込んで引っ込める。
 触れて、そして、どうするのだ。そんなふうに「可愛がり」「愛でて」やるような、そんな関係では最初からない。アグノエルとて、そんな「慣れ合い」など望んでいない筈だ。
 眠っている体を押し開くことだけはしないのが、最低限の礼儀。それ以上の感慨も優しさも思いやりも、何ひとつとして必要ない。その筈だ、その筈なのだ。
 なのになぜか、ちくりと胸が痛んだ。その理由は、カズヌーヴ自身にも分からない。
 アグノエルはまだ目を覚まさない。静かな吐息を漏らしている形の良い唇。肉の薄いそれを眺めながら、カズヌーヴはふと気付いた。何度も体を重ねたにもかかわらず、その唇の味をまだ知らないという事実に。
 その唇は甘いだろうか。口付けたなら、この男はどんな顔をするだろう。嬉しそうな顔などはまずされはしないが、ひどく迷惑がられもしないだろう。馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻で笑われるのか、それとも何でもないとばなりにいなされるのか。カズヌーヴがつらつらとそう考えていた時だった。
「…………ん」
 不意に、眠っていた男が小さく呻いた。カズヌーヴもはっとして目を向ける。
 固唾を飲んで見守っていると、秀麗な眉が寄った。もぞりと身動ぎをする。そして、アグノエルは目を開けた。
 気だるげに首を巡らせて周りを確認していたアグノエルの目が、カズヌーヴを捉える。僅かに見開かれた薄氷色の瞳は、すぐに興味を失ったように逸された。
「今日は寝坊だね、アグノエル」
 何も言わないアグノエルに、カズヌーヴはごく気軽な調子を選んで笑いかけた。それに対しても、アグノエルは何の反応を示さない。カズヌーヴも特に気にかけることなく、ごく気軽に教えた。
「また、いつもの悪夢だよ」
「……見れば分かる」
 やっと口を開いたアグノエルは、面倒臭そうにそれだけ言った。億劫げに身を起こし、前髪をかき上げる。その気だるげな手つきを見ながら、カズヌーヴはあえて気軽に提案した。
「早く済ませよう。少々急いでいてね」
 努めて何でもないようにそう言う。わざと軽やかに笑ってみせる。事実こんなことは何でもないのだと、これはただの手段にすぎないことなのだと、自分にも言い聞かせながら。
 アグノエルはあからさまに嫌そうな顔をしたが、黙って自身の服に手をかけた。ためらわず脱ぎ落とし始める。それを横目に見ながら、カズヌーヴも服を脱ぎ始めた。
 衣擦れの音だけが部屋に響く。二人とも押し黙ったまま肌を晒していくさまは傍目にはさぞ滑稽だろうと考えながら、カズヌーヴは最後のシャツを床に放った。
 やはり脱ぎ去った服を床に投げ出したアグノエルが、何も言わずに寝台へと背中を戻す。カズヌーヴも寝台を軋ませながらそこに乗り上がり、横たわるアグノエルの上に覆いかぶさった。
「今日はごねないんだね。やはり『女役』の方が性に合っていたのかな?」
「早く済ませろ」
 軽い挑発への返答はそっけなかった。相変わらず野良猫のようにつれない態度が、いっそ可愛らしい。カズヌーヴは少し笑ってアグノエルの顎を捉え、顔を寄せた。
 本当に何の気なしに、カズヌーヴはそれをした。ただの挨拶のようなごく軽い気持ちで、カズヌーヴはアグノエルの薄い唇に口付けた。
 触れ合わせて、軽く食んで、舌先で軽くなぞってやって、そして離れる。また軽い挑発をぶつけてやろうかと顔を覗き込む。だがその時、ようやくカズヌーヴは異変に気付いた。
 見開かれた瞳。震える唇。アグノエルは、何も言わずに硬直していた。
「アグノエル?」
 異様な様子に思わず呼びかける。それさえ聞こえていないかのように、アグノエルは何の反応も示さなかった。目を見開いて、瞬きさえしない。
「どうした。大丈夫か?」
 尋ねかけながら肩を掴む。ごく軽く肩を揺さぶる。それでようやく我に返ったらしいアグノエルがはっと瞬きをした。氷の色の瞳に動揺が走る。そして怪訝に思ったカズヌーヴが尋ねるより早く、それは起きた。
「嫌だ、放せ……放せっ!」
「アグノエル?」
 急に暴れ出したアグノエルに驚いていると、思い切り突き退けられた。思いがけない強い力に、寝台から転げ落ちそうになる。
 アグノエルはもがくようにしてカズヌーヴの体の下から抜け出た。ヘッドボードに背中を押し付け、怯えたような、錯乱したような目をしてあちこちを見回す。ありもしない逃げ場でも探すように。
「アグノエル、一体どうし……」
「っ、触るな!」
 伸ばした手は振り払われた。ほとんど恐慌に近いアグノエルの様子に、カズヌーヴは困惑しながらもう一度手を伸ばそうとする。だが、今度は枕を投げつけられた。
「近寄るな!」
「アグノエル」
「うるさい、呼ぶな、私に触るな!」
 叫び散らすアグノエルは、何かに怯えているようにも見えた。怯えて縮こまりながら、身を守るために攻撃的になっているようにも見えた。困惑しながら見つめていたカズヌーヴは、だが胸に沸き起こる不愉快な思いを突然自覚する。
 何故、今日に限って。一瞬一秒を惜しみたいこんな時に限って。そんなどす黒い怒りがじわりと沸き上がった。その思いのままに手を伸ばす。
「っ、触るなと……!」
「駄々を捏ねるんじゃない」
 耳を貸さずに肩を掴んだ。力任せに寝台に引き倒し、のし掛かって体で押さえつける。痛みに歪む端正な顔を見下ろす。努めて冷静に言い聞かせた。
「大人しくしてくれ。私は、早く息子のもとに帰らないといけないんだ」
「知ったことか、触るな、私に触れるな!」
 叫びもがくアグノエルを体で押さえ込みながら、カズヌーヴは苛立ちの溜息を飲み込んだ。できる限り穏やかに諭そうと努力をする。
「他に方法がないのは、君だってよく知っているだろう。君が協力してくれないと、私も君も現実に帰れないんだよ」
「いま貴様に犯されるくらいならば、永劫に閉じ込められている方がいくらかましだ! 放せ!」
 聞き分ける様子のないアグノエルに、また苛立ちが燃える。強く喉を掴んで押さえつけ、苦しげに歪む顔に低く言い聞かせた。
「君はそれで良くても、私が良くない。私は急いでいるんだ、何度も言わせるんじゃない」
「知った、ことか……放せ……!」
 呼吸を阻害されている苦しげな声で、アグノエルはまだそんな事を言って譲らない。呆れ返りながら、カズヌーヴはふと疑問に思った。一体何がアグノエルをここまで恐慌させているのかと。
 何がそんなに気に障ったのだ。いつもと何が違うと言うのだ。考え巡らせて、そしてふと思い至った。「いつも」と「今」の、唯一の違いに。
 ああ、そうか。何と愚かしい、何と馬鹿馬鹿しい。自分の唇に、嘲りの笑みが浮かぶのが分かった。
 本当に、何と愚かしいのだろう。何とつまらないことで、この男は大袈裟に騒いでいるのだろう。あまりにもくだらないという思いのままに、カズヌーヴは口を開いた。アグノエルの胸の内など、少しも慮ろうとはせずに。
「……セックスはできても、キスは許さないとでも言うのかい。君のような淫乱にも、そんなお綺麗な心が残っていたとはね」
 酷薄に笑って吐き捨てた瞬間に、それは起きた。カズヌーヴが嘲笑とともに言い捨てたその一瞬に、その変化はアグノエルを襲った。
 薄氷色の瞳が、ひび割れた。砕け散る音さえ聞こえそうに、はっきりと。だがそのことを、カズヌーヴは気に掛けもしなかった。
 死に物狂いにもがいていたアグノエルの手足から、ふっと力が抜ける。それを怪訝に思う余裕さえも、カズヌーヴには既になかった。
 力の抜けた脚を、これ幸いと割り開く。秘められた場所に指を忍ばせる。いつのまにかシーツに転がっていた小瓶から指に香油を絡め取り、同じ場所へと押し込む。絡みつく粘膜を指で暴いていく。
 痛みがない筈はないのに、アグノエルは何ら反応を示さなかった。それを良い事に、少しだけ緩んだ場所にもう一本指を押し込む。薔薇の香油の香りがまとわりついていた。
 ぬちゅぬちゅと響く卑猥な水音。指に絡みつく熱い粘膜。それに押し包まれる快感を思い出して、腰の奥で欲が蠢いた。
 早くこの男の中に入りたい。あの熱く狭い場所に包み込まれたい。必死で噛み殺される甘い吐息を聞きたい。思うがままにこの男を揺さぶって、快感に歪む顔を見下ろして、共に上り詰めて、共に果てて。
 欲望のままに、乱暴なほどの勢いで指を動かす。だが、アグノエルは声一つ立てなかった。身じろぎさえしなかった。
 人間を、自分と同じように意思を持っている存在を相手にしていることさえ、カズヌーヴは半ば忘れていた。ただその熱く狭い器官に押し入りたくて、その内側に欲を吐き出したくて、かろうじての義務として指を動かした。
 指を引き抜いて、長い脚を抱え上げる。そして痛いほどに張り詰めた熱を、同じ場所に押し付けた。アグノエルはまだ、呆然としているようだった。それを幸いと、言葉もかけずに腰を進める。
 アグノエルはやはり、反応を示さない。苦痛に耐える様子すらない。むしろ、余分な力の抜けている体はカズヌーヴの侵入を歓迎しているようでさえあった。
 怒張を収めきって、カズヌーヴは息を吐いた。手を伸ばしてアグノエルの前髪を払い除けながら、気軽に尋ねる。
「……どうした? 随分と大人しいね」
 声をかけても、アグノエルはやはり何の反応も示さない。カズヌーヴを見上げることさえしない。それをカズヌーヴは少しだけ怪訝に思ったが、自分が気にすることではないと思い直した。早く用を済ませてこの部屋を後にしようと、アグノエルの腰を掴み直す。その時出し抜けに、前触れもなく、それは起きた。
「……ふ、ははっ、あははははははははっ!」
「アグノエル!?」
 突然狂ったように笑い出したアグノエルに、カズヌーヴはぎょっとして手を止めた。それにさえ気づかない様子で、アグノエルは笑い続けている。
 笑いやまないアグノエルの体の振動が、繋がりあった部分から直接的に響く。アグノエルの内側の蠕動が、すぐにでも達してしまいそうな激烈な快感となってカズヌーヴを苛む。奥歯に力を入れて耐えながら、カズヌーヴは困惑してアグノエルを見下ろした。
 心底愉しげに、けれど虚ろに、アグノエルは嗤い続ける。乾いた、痛々しい、悲痛な笑い声だった。
「はは、あはは、あはははははは! は、はは、は……っ」
 ようやく笑い止んだアグノエルは、肩で息をしながら目を開けた。その瞳の色に、カズヌーヴは息を飲んだ。
 毒々しいまでに艶やかな、媚を孕んだ眼差し。理性の光の消えた、肉欲に濡れた瞳。貪婪で獣じみた目をして、アグノエルは毒々しいほど淫らな声で囁いた。
「どうした、カズヌーヴ。しないのか」
「え……」
「早くここから出たいのだろう。さっさと終わらせたいのだろう」
 戸惑っていると、するりと首筋に絡みつく腕。引き寄せられ、耳元に顔を寄せられた。
「そうだ、私は淫乱だ。誰にでも股を開く男娼だ」
 やや強く、耳朶に噛みつかれる。小さく甘いその痛み。カズヌーヴが思わず身震いすると、アグノエルが声を立てずに笑った。
「私の初めての男になったとでも、思っていたかったか? 生憎だったな」
 生温かい舌が、刻まれたばかりの小さな傷を這う。傷をこじ開けるように、傷口から毒を注ぎ込むように。そして粘つくような甘い声が、耳に吹き込まれた。
「私がこの悪夢に閉じ込められるのは、貴様とが初めてではない」
 蕩けるように甘い囁きを、カズヌーヴは最初は理解できなかった。理解したくなかったのかもしれない。だが、徐々に言葉が頭に染み込んでくる。理解が追いついてしまう。
「な、にを、言って……」
 声が喉に引っかかる。言葉が出てこない。そんなカズヌーヴを面白がるように見上げて、アグノエルはまた口を開いた。淫らな声が薄い唇から流れ出る。
「少なくとも月に一度。酷いときには眠りにつくたび。私は気が付けばこの部屋にいて、誰か男と二人きりで、扉にはいつもあの忌々しい貼り紙がある。書いてある言葉はいつも同じだ。……貴様も、知っているだろう?」
「……!」
『セックスしないと出られない部屋』
 唇の動きだけで囁いて、アグノエルが淫らに微笑む。三日月のような笑みは、今にも耳まで裂けていきそうだった。
 頭を殴られたような衝撃に、カズヌーヴは呼吸さえ忘れた。アグノエルが何でもないことのように語った言葉が、信じられない。
 胸のどこかで、疑っていた。最初からあまりにもあっさりと、アグノエルは状況を受け入れていたから。けれど信じたくなかった、考えたくもなかった、考えないようにしていた。それなのに、今になって、アグノエルは。
「君、は……」
「セックスさえすれば出られると、とうに分かっているのだ。無駄に思い悩む必要がどこにある」
 恥じ入りも悪びれもせず、アグノエルはそう言って笑った。また言葉を失ったカズヌーヴを見上げて、カズヌーヴの驚きを楽しむようにまた笑う。
「愚かしい。たかだかセックスひとつに、何をそれほど悩めと言う?」
 くすくすと淫らに笑ったアグノエルが、ふと優しげに目を細めた。甘やかすような声音が囁く。
「……貴様も、気の毒なことだな。このような使い古しの、食べ残しが相手で」
 違う。そんなことが言いたいんじゃない。訴えたいのに言葉にならない。言葉が出てこない。何も言えないカズヌーヴを見上げ、アグノエルは小さく首を傾げた。蕩かすような甘やかさで囁く。
「キスしてくれないのか」
 甘い毒のような声がねだる。赤い舌が、誘うように薄い唇を舐める。呆然とその鮮烈な赤を目で追って、カズヌーヴはひどく渇いていることを自覚した。
 思わず喉が鳴る。また迷って、躊躇して、けれど抗い難い渇きに急き立てられる。だからカズヌーヴは、恐る恐る顔を寄せてアグノエルの唇に口付けた。
 アグノエルは嬉々としてカズヌーヴを受け入れた。自ら進んで唇を開き、蜜のように甘い舌を一心に絡みつかせてくる。カズヌーヴは思わず夢中になって、その甘美な果実を貪った。
「はぁ、あ……ん……」
「っは、……アグノエ、……っ」
 口付けの合間に囁こうとした名前は、唇に噛みつかれて行き場を失った。甘い舌が自分から滑り込んできて、カズヌーヴの舌に絡みつく。蜜のようなその甘味に、カズヌーヴは夢中になった。
 舌を絡ませ、唾液を啜る。熱っぽく淫らな口付けを繰り返す。やがてどちらからともなく顔を離す頃には、互いに息が上がっていた。
 呼吸を整えながら見下ろしていると、頬を紅潮させたアグノエルもゆっくりと目を開けた。熱っぽく蕩けた、その氷色の瞳。濡れた唇が開き、ゆっくりと動く。
「欲しい」
 その甘ったるい声音に、あまりにも淫らなその響きに、カズヌーヴは思わず身震いをした。恐れに似た感情が胸に浮かびあがろうとする。カズヌーヴの恐怖を楽しむかのようにアグノエルはまた笑って、カズヌーヴの首に絡めていた腕を緩めた。カズヌーヴの腕をなぞり、そして当然のようにカズヌーヴの手に指を絡ませてきた。
 そのままアグノエルの下肢に手を導かれ、中心に触れさせられる。熱い蜜を滴らせて切なげに震えている、熱の塊。
「っ!?」
「分かるだろう。もう待てない」
 驚いて手を引っ込めようとしたカズヌーヴの手にまた指を絡ませ、アグノエルが甘く囁く。またカズヌーヴの首に腕を絡ませながら欲の象徴をカズヌーヴの腹に擦り付けるようにして、アグノエルは甘やかにねだった。
「早く」
「っ……」
 ためらいながら、カズヌーヴはぎこちなくアグノエルの腰に手を添えた。おそるおそる手に力を込め、壊れ物のようなその腰を掴む。
 おかしげにアグノエルが笑う。その瞳が、まるで慈しむかのように細められた。
「喰らい尽くすがいい。存分に」
「っ、ーー……!」
 粘りつくような甘い声に、カズヌーヴは我を忘れた。上背のわりに細い腰を掴んで、乱暴に突き上げる。
「あ、ぁ、あぁあああああああっ!」
 背をしならせたアグノエルが歓喜の声を上げる。カズヌーヴはその壊れ物のような腰を強く押さえ込み、無我夢中でがずがずと犯した。
 アグノエルは、抵抗しなかった。「いつも」のように快感に耐えることさえ、しようともしなかった。ただ素直に快感に溺れ、甘い嬌声を上げ、身悶えるアグノエル。これまで見たこともない、想像すらできなかった、淫らな姿。
 その痴態に、カズヌーヴの理性はあっけなく灼け落ちた。ただ夢中になって腰を突き上げる。相手への気遣いなど忘れて、ひたすらに自分の快感を追う。
「っ、随分と、気持ち、良さそうだね……!」
「い、ぃ、きもちいぃっ、もっと、もっと……!」
 うわ言のように呟く薄い唇に噛み付いた。合わせた唇の合間から切れ切れの嬌声が漏れる。腰の動きは止めないままに舌を差し入れると、震える甘い舌が拙く絡みついてくる。
 ぐちゃぐちゃの口付けを交わしながら、組み敷いた体を滅茶苦茶に犯す。乱暴なほどのカズヌーヴの抽送をアグノエルは嫌がらない。むしろそれに快感を煽られてでもいるかのように、なりふり構わない様子で絡みついてくる。
 首に絡む腕の、腰を挟み込む脚の、驚くほどの力強さ。皮膚の下で震えている筋肉のしなやかな感触。こんなにも強く逞しい男を征服しているのだという自覚が、たまらなく甘美な麻薬となってカズヌーヴの脳を蕩けさせ、理性を焦げ付かせてしまう。
「っは……本当に、君は、淫乱だね……」
 キスを解いて嘲笑うと、熱に蕩けたアグノエルの瞳の底で理性の光が揺れた。刺すような冷たい光が、カズヌーヴをまっすぐに射抜いた。
「……何が、悪い」
 その凍るような光に貫かれて、呼吸さえ忘れる。言葉を失ったカズヌーヴに、アグノエルは唇だけで笑ってみせた。
「愉しんで、何が悪い。どうせこの忌々しい部屋から出るには、同じコトをせねばならないのだ」
 粘りつくように甘い声で囁くアグノエルの瞳は、声とは裏腹にひどく冷めている。諦めさえもない口調で、達観ですらない無関心さで、アグノエルは薄っぺらで淫らな笑みを浮かべた。
「するコトが同じならば、愉しみたい。当然だろう」
 くすくすと笑ったアグノエルが、カズヌーヴの首に絡ませていた腕を軽く引いた。抗うことを忘れていたカズヌーヴを引き寄せて、顎の下に唇を寄せる。その薄い皮膚に軽く歯を立てたアグノエルは、唇を触れさせたままでもう一度笑った。
「泣き喚いて抵抗する者を、力で捩じ伏せるほうが好みか? ……そうではなかろう、『善良な』カズヌーヴさん?」
 ゆっくりと顔を上げたアグノエルは揶揄のこもった響きで指摘して、また笑う。淫らに光る目をして、アグノエルは甘く誘惑した。
「もっと私を愉しませてみろ。できるだろう?」
「っ、……!」
 声を飲んだカズヌーヴの雄を軽く締め付けて、アグノエルが声を立てずに笑う。呆然と見下ろしていたカズヌーヴは、腹の底から迫り上がる欲に唐突に気付いた。
 もっと乱してやりたい。何も分からないほどに善がり狂わせてやりたい。これまで彼が体を明け渡してきた他のどんな男も与えてやれなかったほどの快楽の深みに、突き落としてやりたい。そうした仄暗い欲求が、自分でも驚くほどの強さでカズヌーヴの胸を覆った。
「……後悔しても、知らないよ」
 興奮に掠れる声で言いながら、アグノエルの腰を掴み直した。満足げに笑む唇にキスを落として、吐息の混ざる距離で宣言する。
「……お望み通り、愉しませてあげよう。気が狂うほど」

「あ、ぁっ、あぁあ、んぁ、っ!」
「はは、イイ声だね。他のカレ達も、さぞ気に入ったんだろう」
 絶えず零される嬌声を嘲笑っても、熱に溺れているアグノエルは何も答えない。聞こえてさえいないのかもしれない。それを気にかけることもなく、カズヌーヴは笑って命じた。
「もっと啼くんだ。声が枯れるほど、喉が裂けるほど」
 アグノエルの乱れた嬌声を聴いているのはひどく気分が良くて、そして同時に苛立ちを呼び起こすことだった。何故だろうと考えて、そして気付く。
 カズヌーヴが指摘した通り、この甘やかな嬌声をきっとアグノエルは、他の男達にも聴かせたに違いないのだ。いまカズヌーヴの体の下でしているように他の男の体の下でも、乱れ狂って、善がり狂って、何も分からないほど悦楽に溺れたに違いないのだ。その事実を思い出してまた苛立ったカズヌーヴは、憤りを残酷な言葉に変えて嘲笑と共に吐き捨てた。
「淫乱」
 アグノエルはやはり答えない。カズヌーヴの声など、きっともう届いていないのだろう。
 深く深く快感に溺れて、あられもなく乱れ善がっているアグノエル。羞恥心もなく、恥も外聞も何もなく、ただ熱に浸り切っているその姿。
 むらりと湧き上がったのは、加虐心だった。そのことを意外に思うことも、その罪深い感情を恥じ入り消し去ることさえも、カズヌーヴは既に忘れていた。
 この男を傷つけてやりたい。傷付いた瞳が見たい。ただその欲求だけに、カズヌーヴは突き動かされた。
 何と言って嬲ってやろうか、どのようにしていたぶってやろうか。考えを巡らせて、そしてとても良い言葉を思いついた。
 そうだ、それがいい。それを囁きかけてやれば、きっとこの淫らな男だって、我に返って恥じ入るに違いない。愕然とした表情を浮かべるに違いない。そして、ぼろぼろと涙を流すに違いない。
 自分は、そんな表情が見たいのだ。この男の泣き顔が見たいのだ。真珠のような涙の味を知りたいのだ。
 だから、傷付けてやろう。カズヌーヴはそう心に決めて、アグノエルの顎を掴んだ。顔を自分の方にねじむけさせる。
 それでようやく我に返ったらしいアグノエルが、ゆるりと眼球を動かして見上げてくる。熱と悦に蕩けたその瞳を覗き込んで、残忍な欲望のままに、カズヌーヴは残酷な言葉を唇に乗せた。
「……こんな君を、君の部下が見たら、どう思うだろうね?」
「ひぁ!?」
「ねえ、お綺麗な警部殿」
 甘く甘くなじりながら、また一層深くを抉ってやる。反射的に目を閉じて快感に浸っていたアグノエルの睫毛が、ふるふると震えるのが見えた。億劫げに目を開け、見上げてくる。
 何の感情もない瞳に見上げられる。深遠なのに硝子玉のような眼がカズヌーヴを映す。そしてふと、アグノエルは笑った。
「部下とも寝た」
「……え?」
 思わぬ言葉に意表を突かれる。アグノエルはそんなカズヌーヴを見上げ、面白がるように笑った。
 けれど、その氷色の眼は笑っていない。どこか虚ろにカズヌーヴを見据えて、アグノエルは甘く冷えた声で囁いた。
「ほとんど皆。部下とも、同僚とも、上官とも。……犯罪者とも、市民とも。顔を合わせた男で、私を『抱いて』いない者の方が少ない」
 むしろそれを誇るかのように語って、アグノエルは笑う。だがその瞳は、やはり笑っていない。底冷えのする薄氷色は、冷ややかにカズヌーヴを射抜いている。
「私を傷付けたいか。私に泣いてほしいのか。生憎だったな。貴様ごときに語れる言葉で、私は傷付かない。……誰のどんな言葉にも、私が傷付くことはない」
 嘲るように言って、アグノエルは笑う。その嘲笑は彼自身にも向けられているように、カズヌーヴには思えた。アグノエルの言葉の刃は確かに、彼自身へと向けられていた。
「……誰も彼も同じだ。けだもののように貪るばかり。手前勝手に己の快楽を追うばかり。どれほど、上辺を繕っていても」
 いっそ甘くさえある声音で語りながら、唇に淫らな笑みを浮かべながら、アグノエルの瞳はやはり冷えている。その蕩けた瞳の底に、絶望の暗闇を見た気がした。
「……自分は違うとでも、言いたそうだな」
 馬鹿にするように笑ったアグノエルが、カズヌーヴの首に絡んだままだった腕を引く。抗うこともできずに身を寄せたカズヌーヴに自分からキスをして、アグノエルは淫らな笑みを浮かべた。
「証明してみろ。できるものなら」
「っ、……!」
 侮蔑の籠った声音に我に返った。反射的にアグノエルの腰を掴み直す。止めていた腰の動きを、断りも入れずに再開した。
「ぁ、っ!?」
「……随分なご高説だね。自分の身の程も知らないで」
 甘い悲鳴を上げたアグノエルを容赦なく攻め立てながら、カズヌーヴは優しげな声で囁きかけた。きゅっと閉じられた目元に唇を寄せ、滲む快感の涙を舐めとってやって、そしてまた甘く囁きかける。
「どんなふうにされてもイイんだろう? 乱暴にされればされるほど、気持ち良いんだろう? 淫乱な君には、気遣いなんてそもそも必要ないんだよ」
 言い切ってやり、返事も待たずに一層激しく抽送する。だがアグノエルは、乱れる嬌声の下でおかしげに笑った。切れ切れに呟く。
「はっ、貴様、こそ、随分だな……っん、まともな抱き方も、できぬ自分を、反省するがいい……」
「はは、『まともじゃない』抱き方をされて善がり狂っている君には、言われたくないな……!」
 余裕めかして嘲笑いながらも、限界に至ろうとしている自分をカズヌーヴは感じていた。だから骨が軋むほど強くアグノエルの腰を掴んで引き寄せ、びくびくと体を震わせる彼に低く囁いた。
「……っ、出すよ……しっかり、味わうといい……!」
「ぁ、欲し、い、早く、早く……っ」
 うわ言のようにアグノエルがねだる。淫らな期待に蕩けた瞳が一心にカズヌーヴを見上げる。その唇に噛みつきながら、カズヌーヴは組み敷いた男の中にどくどくと欲を吐き出した。
 歓喜の声を上げて、体の下の男もまた果てた。熱い飛沫が腹を汚していくのを感じる。背中に爪を立てられる甘い痛み。
「……っ、は……」
「は……あ、ぁ……」
 キスを解いて深く息を吐き、カズヌーヴは体の下のアグノエルを見下ろした。くたりと脱力して体を痙攣させている男を、その力無く閉じられた瞼を、何の感慨もなく見下ろした。
 扉はきっと、開いている。けれど何故か、カズヌーヴは起き上がる気になれなかった。まだ体の熱が冷めない。腕に抱いた男を、まだ手放したくなかった。
「……まだ足りない、という顔だな」
 カズヌーヴの未練を見透かしたように、いつの間にか目を開けていたアグノエルが嗤った。シーツに落ちていた腕を重たげに持ち上げて、またカズヌーヴの首に絡ませてくる。カズヌーヴを引き寄せて、間近で目を覗き込んで、また笑い声を立てる。
「私も足りない。もっとよこせ。もっと私を犯せ」
 淫らに笑って誘惑するアグノエルは、さながら伝承のサキュバスだった。男の精を一滴残らず搾り取る、堕落の夢魔。そのあまりにも甘美な毒に、カズヌーヴは抵抗することさえできない。毒が回って、猛毒に侵されて、もう何も考えられない。ただ耽溺することしかできない。
「……淫乱」
「貴様のせいだ」
 思わず呟いた侮蔑にも、アグノエルは傷付いた顔も見せず笑った。淫らな笑みでカズヌーヴを見上げ、甘い声でなじる。
「貴様が、私を狂わせる。……責任を取れ」
 笑うアグノエルの赤い舌が、誘うように薄い唇を舐めた。その鮮やかな色に、カズヌーヴの理性の箍はあっけなく弾け飛ぶ。
 食らいつくように口付ける。そうしながら、まだ繋がったままだった腰を突き上げた。思わずといった様子で仰け反るのを追いかけ、吐息を奪うように口付ける。甘い唇を貪る。
 震える甘い舌は驚くほど熱心に応えてくる。自らカズヌーヴの舌に絡みつき、カズヌーヴの性感を刺激しようとする。その淫らな舌技に、カズヌーヴは否応なしに煽られてしまう。一層深く溺れていく。もう何も考えられない。
 時間も忘れ、獣のようにただ求め合った。

 幾度目かの欲望を放った時、すうっと意識が明瞭になるのを感じた。守るべき少年の存在を、カズヌーヴはようやく思い出した。
 はっとして、組み敷いたままだった相手を見下ろす。目を背けたくなるほどの光景がそこにあった。
 体の下のアグノエルはぐったりと手足を投げ出し、目を閉じている。肌に残る無数の咬み傷は血を滲ませているものさえある。どれほど彼を責めたてたのかさえ、カズヌーヴには思い出せなかった。
 すっと血の気くのが分かる。彼の名を呼ぼうとして、声が喉に引っかかった。
 埋め込んだままだった欲望を思い出して、慌てて身を離した。アグノエルが小さく呻く。けれど、目を開ける力さえ残っていないらしかった。
 自分はなんということを。恐ろしい自己嫌悪がようやく追いついてきて、思わず強く目を閉じる。その時、甘やかなアグノエルの声が響いた。
「……何だ。もう、終わりか」
 甘く掠れる声に挑発されても、既に脳を溶かすほどの熱は冷めてしまっていた。アグノエルにも、それは分かったのだろう。
 つまらなそうに鼻を鳴らして、アグノエルは丸まっていた掛布を手繰り寄せた。億劫げに寝返りを打って、こちらに背を向けてしまう。
 謝らなければと、何かを言うべきだと、分かっている。けれど言葉が出てこない。だからカズヌーヴは沈黙に耐えきれず、黙って寝台を降りた。言葉を探しながら衣服を拾い上げ、身につけていく。けれどのろのろと続けていた身支度が終わっても、言葉はひとつも見つからなかった。
 ごくりと唾を飲んで、カズヌーヴはゆっくりと寝台の脇に戻った。横向きに寝転んで掛布にくるまっているアグノエルを覗き込む。影が落ちてカズヌーヴに気付いている筈のアグノエルは、何も言わず目も開けなかった。
 おそるおそるその頬を撫でると、煩わしげに振り払われた。仕方なさげに目を開けたアグノエルが、億劫そうにカズヌーヴを見上げる。薄い唇が開いた。
「……何だ。用は済んだだろう」
 乾いて冷え切った声に、すっと心臓が冷えた。緊張に掠れる声で名前を呼ぼうとする。だが、そっけなく遮られた。
「その……」
「出ていけ」
「アグノエル……」
「失せろ」
 静かだが突き刺すような語調に、また伸ばしかけた手が止まる。言葉も出ないカズヌーヴを、アグノエルは険しく睨み上げた。
 深く傷ついたその瞳。必死で敵意を築き上げて、睨み付けてくる彼。手負いの獣のような眼差しに、罪悪感がまた深々と胸を刺した。
「……すまないことをした」
 声が喉に引っかかる。声が震えそうになる。小さく息を吸って、もう一度囁きかけた。
「……傷付けるつもりじゃなかったんだ」
「傷付きなどするものか。こんなことで、貴様などのために、今更。自惚れるな」
 荒んだ瞳で強がるのが、ひどく痛々しい。また何も言えなくなって、カズヌーヴは口を閉じるほかない。憐れみに似た感情が込み上げるのを感じた。
 心身への最低の暴力に傷付くことさえ、アグノエルは自身に許さない。その「強さ」が痛ましかった。
 後悔が胸を覆い尽くす。謝って済むことではない。彼の足元に平伏して許しを乞うことさえ、きっとおこがましい。また唾を飲んで、カズヌーヴは力無く尋ねた。
「……どうすれば、赦してくれる」
「何だ。私の赦しが欲しいのか」
 せせら笑うアグノエルの目を、カズヌーヴはじっと見下ろした。挑発的な態度に取り合わないカズヌーヴに、アグノエルがつまらなそうな表情になる。興味もなさげに目を逸らされた。
「……己で考えるが良い。貴様ごときに関わり合うほど、私は暇ではない」
 面倒臭そうにそれだけ言って、アグノエルがまた背を向けてしまおうとする。その肩に手を添えて、カズヌーヴは選び取った言葉を差し出した。
「……私が、自首すればいいのか。そうすれば、君は満足できるか?」
 囁くように尋ねながら、カズヌーヴは罪悪感に苛まれていた。自分で言い出しておきながらすぐにそれを実行する勇気さえない自分に、反吐が出そうだった。
 もしもそれがアグノエルの傷を宥めるためにカズヌーヴが選べる唯一の道だとしても、今すぐにそれを実践することはカズヌーヴにはできない。守るべき少年を放り出してしまうことはできない。彼の新たなる拠り所を見つけ出さないことには、カズヌーヴは出頭することさえできない。
 けれどもしもアグノエルの望みがそれならば、カズヌーヴに他の選択肢はない。目覚めたならばすぐに、又甥を託せる誰かを探しに行かなくては。
 そう考えながらアグノエルの目を見下ろして、カズヌーヴは不意を突かれた。何を言われたのか分からないとでも言うような、あどけなくさえある瞳がそこにあった。
「……アグノエル?」
「っ、……!」
 呼びかけると、はっと我に返ったようにアグノエルが瞬きをする。そして激しい感情が氷の色の瞳に燃え上がるのを、カズヌーヴは見た。
 見る間に激昂の表情になったアグノエルが跳ねるように起き上がる。散々にカズヌーヴに攻め立てられた腰が痛んだのか、短い苦痛の声が上がった。
「アグノエル、急に動いては……」
「ふざけるな!」
 宥めようと伸ばした手は、放たれた怒号に竦んで中空に止まった。言葉も出ないカズヌーヴを睨み付けて、アグノエルが呪うように宣言する。
「自首などしてみろ、殺してやる」
「アグノエル……」
「貴様は私が捕まえる。どこまでも追いかけて、追いつめて、捕らえてやる。どこまで逃げても、どこに隠れても。自首など許さん、そのようなつまらぬ幕引きは許さん!」
 殆ど殺意に近い激しい憎悪が、アグノエルの目に燃えている。だが呪詛のようなその声はどこか必死で、縋り付くようだった。そのことに不意を突かれてから、カズヌーヴもようやく理解した。
 アグノエルの負った傷は、カズヌーヴの自首ごときで癒せるものではないのだ。アグノエル自身の手でカズヌーヴを牢獄送りにすることでしか、彼の傷は癒されないのだ。
 カズヌーヴによって、そして他のすべての男達によって負わされた屈辱、怒り、無力感、自己嫌悪、絶望。そうした全ての痛みをただ一つの憎悪に変えなければ、アグノエルはきっと壊れてしまう。それほど強く誰かを憎まなければ立っていられないほどに、アグノエルは傷付き苦しんでいるのだ。カズヌーヴはアグノエルに、それだけのことをしたのだ。
「……分かったよ」
 囁くように諭しながら、カズヌーヴは胸にじわりと浮かび上がる諦めに気付いていた。その奇妙な感情に自分で驚き、理由を探ろうとしながら、なおもアグノエルに語りかける。
「……君なら必ず、私に辿り着くだろうね。私がどこに隠れても、どこまで逃げ延びても。だから、手掛かりは教えないよ。君自身の手で、見つけてくれるように」
 語りかけながら不意に気付いた。胸に浮かんだ奇妙な諦念の理由に。それが「自分はアグノエルを癒すことができない」という絶望のゆえだったことに。
 この手であれほど傷付けておきながら、カズヌーヴはアグノエルの傷をいたわってさえやれない。謝罪を受け入れてももらえない。カズヌーヴがアグノエルに赦されることは、永遠にない。そのことはカズヌーヴにとって、驚くほどに深い絶望だった。
 あれほど傷付け苛んでおいて、あまりにもおこがましい感情。だがそれは確かに、カズヌーヴの「本心」だった。そのことに場違いにも苦笑しそうになりながら、カズヌーヴはそっと囁いた。
「……君が捕まえてくれるのを、いつまででも待っている」

     *     *     *

 目覚めると、カズヌーヴは見慣れた自分の寝室にいた。
 耳を澄ませて、隣室で眠っている又甥の寝息を聞き取ろうとする。そうしながら、速い鼓動を鎮めようとした。
 三度目の淫夢のことも、これまでの二回のことも、カズヌーヴははっきりと覚えている。アグノエルの肌の温度、氷色の瞳に燃えた激情、その薄い唇が叫び散らした言葉、その全てを。
 アグノエルは、今回こそ覚えていてくれるだろうか。今度もやはり忘れてしまうのだろうか。だが彼と約束した以上は、「捕まえてくれるのをいつまででも待っている」と誓った以上は、カズヌーヴには自首することさえできない。この手で蹂躙したアグノエルへの罪悪感を抱きながら、いつ来てくれるとも分からない彼を待つことしかできない。
「……君は、約束を守ってくれた。今度は私の番だ」
 空気を震わせない程度の声で囁き、カズヌーヴは目を閉じた。激情に燃える薄氷色の瞳がいつまでも瞼にちらついていた。
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