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夢魔の約束・2
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絶えず降り注ぐ冷たい雨が流れて、目に沁みる。思わず手を止めたカズヌーヴが目元を拭うと、すかさず看守の叱責が飛んだ。
「五一〇八号、さぼるな!」
「……分かっている」
唸るように答えて、カズヌーヴは今度こそ材木を担ぎ上げた。足を滑らせないようにしっかりと一歩一歩を踏みしめながら運び始める。それでひとまずは満足したらしい看守が、今度はまた別の囚人を叱りつける声。
冷たい雨の降りしきるブレスト徒刑場での再びの労役は老年に近付いているカズヌーヴには相当の苦痛だったが、年齢を理由に容赦されるような場所では元よりない。それどころか、一度は警察内の「成功者」にまで上り詰めてしまったカズヌーヴへの看守達や他の囚人達の風当たりは、予想していた以上に強かった。
だがそんなことは、カズヌーヴにはどうでも良かった。一日も早くここを脱出しなければと、やっと見つけることができたその少年を早く迎えに行かなくてはと、そればかりを考える日々だった。
カズヌーヴに唯一残された血縁者であるその男の子は、彼の甥であった父を既に亡くしている。その妻である母親も病に倒れており、その命は風前の灯だという。
今まさに天涯孤独の身になろうとしているその少年は何をどう辿ってか大叔父であるカズヌーヴの存在を知り、近くの教会の神父を介して、助けを乞う手紙をくれた。だがカズヌーヴは彼を迎えにいく前に告発を受け、投獄されてしまった。
カズヌーヴの労役が明けるまで、あと八年。そんなにも待つわけにはいかない、寄るべを失おうとしている少年を待たせるわけにはいかない。幸いにもカズヌーヴには、頑健な体と人並み以上の体力がある。警察官の職を失った今となっても、働き口に困ることはないだろう。
決意を新たにし、まだ見ぬ哀れな又甥を思いながら、カズヌーヴは材木を地面に投げ出した。
* * *
目を覚ますと、白く殺風景な部屋で横になっていた。
驚きで瞬時に目を覚ましたカズヌーヴは慌てて身を起こし、そして隣で眠っている男に気付いて動揺した。遠く隔たっても決して忘れることなどできないその男アグノエルは、まだぐっすりと眠っているらしい。
もしやと思いながら、カズヌーヴはアグノエルを起こさないように寝台を降りた。静かに、だが急ぎ足に、部屋に一枚しかない扉に歩み寄る。扉に貼られていた貼り紙に目を走らせ、目眩を覚えた。
『セックスしないと出られない部屋』
いつかの淫夢と全く同じ文言、全く同じ部屋の状況、そしてあの時と同じ相手。戸惑い狼狽しながら、カズヌーヴは胸に湧く奇妙な高揚に気付いてもいた。
あの奇怪で淫らな夢の後にも、カズヌーヴとアグノエルの関係は全く変わらなかった。それも当然だ、あれは単なる夢だったのだから。「何か」を体験したのはカズヌーヴただ一人で、アグノエルにはそもそも何も起こらなかったのだから。
けれどカズヌーヴは、その夢を忘れることができなかった。肌の上に生々しく残るアグノエルの肌の熱さを、その体の震えを、苦しげに漏らされた吐息の切なさを、苦痛と苦悩に歪む表情を。
熱を持て余す夜に思い出すのは、決まってアグノエルのことだった。その肌の温度を、縋り付いてきた腕の力強さを思い返しながら、何度一人で果てただろう。その後には激しい自己嫌悪に苛まれることを知っていても、カズヌーヴはそれを止められなかった。
そのカズヌーヴの妄執が、この淫夢を再び招き寄せたのか。カズヌーヴの心の深層が、今もアグノエルに執着しているから。アグノエルを征服したいと、彼をあられもなく泣き善がらせたいと、カズヌーヴ自身が願っているから。
自己嫌悪に追いつかれそうになり、カズヌーヴは頭を振って思考を追い払った。どうしようもないことだと、自分に言い聞かせる。
そう、どうしようもないのだ。すでにことは始まっている。カズヌーヴとアグノエルは既にこの部屋に閉じ込められていて、脱出するには性交渉を行わねばならないのだ。その事実は、動かない。
そう自分を納得させて、寝台の脇に戻ったカズヌーヴはアグノエルの寝顔を覗き込んだ。眠っているときだけは僅かに穏やかな、その端正なかんばせ。静かで深い呼吸に耳を傾けながら、揺り起こすべきかと迷う。そして、その必要はないと結論づけた。
急ぐ必要はない。急いだところで、何も変わらない。むしろ、あの地獄のようなブレスト徒刑場から僅かでも離れていられるこの時間を、カズヌーヴは少しでも引き伸ばしたかった。だがそう思っている間にも、事態は動いた。
不意に、静かな寝息を立てていたアグノエルが小さな声を漏らした。小さく頭を動かし、僅かに身じろぐ。そしてゆっくりとその瞼が開いていく。咄嗟にカズヌーヴはアグノエルの視界にすぐには入らない場所へ移動して、彼の目覚めを見守った。
眠たげな動作で身を起こしたアグノエルが、ゆっくりと部屋を見回す。その目がカズヌーヴを捉えた。氷色の瞳が僅かに見開かれる。
だがカズヌーヴが予想したような激しい敵意は向けられなかった。アグノエルはただ、ひどく無関心な声で呟いた。
「……また、貴様か」
「……久しぶりだね」
冷めた声に驚かされながらも、言葉に迷ったカズヌーヴは愚にもつかない挨拶を唇に乗せる。少し目が覚めてきたのかアグノエルは皮肉げに唇を歪め、嫌味な口調で尋ねかけてきた。
「ブレストの居心地はどうだ」
「水には不自由しないよ、お陰様でね」
挑戦的な言葉を、カズヌーヴはさらりといなした。アグノエルならばそうした言葉をぶつけてくるだろうと当然に予想していたカズヌーヴには、その程度の言葉の棘は何の意味もなさない。
挑発に取り合わないカズヌーヴに、アグノエルは少しだけつまらなそうな顔をした。そんなアグノエルの髪にわざと馴れ馴れしく触れて、カズヌーヴは微笑みかける。
「触れるな」
「君は相変わらず忙しいんだろうね? ならば、手短に済ませようか」
カズヌーヴの手を冷たく払い除けたアグノエルは、カズヌーヴを見上げて意地の悪い目をした。皮肉げに笑って言う。
「私が貴様に抱かれてやる理由が、まだあるとでも?」
「……腕力で私に敵うと、君は思っているのかな?」
そう切り返されるとは思っていなかったカズヌーヴは少しだけ動揺したが、余裕のありげに笑って見せた。そして、皮肉げな笑みを深めたアグノエルが何か言う前にさらに続ける。
「それに君は、『下』の方が慣れてるんじゃないかな? 前回も随分と慣れた様子だった」
「くだらんことばかりを覚えている頭だな。まあ、もっと他のことに頭を使える男ならば、徒刑場送りにはそもそもなるまい」
カズヌーヴが投げ返した挑発に、アグノエルもまた取り合わなかった。また気軽な調子で挑発を返されるので、カズヌーヴも気軽に笑って答える。
「言ってくれるね。自分で私を追い出しておいて」
「だから訊いてやったろう、居心地はどうだと」
ふんと鼻で笑ったアグノエルは、だがそろそろ言葉遊びに飽きているらしかった。しなやかな動作で寝台の向こう側へ降りる。そして、見守っていたカズヌーヴにあっさりと命じた。
「座れ」
「うん?」
「早くしろ」
思いがけない命令を怪訝に思いながら、カズヌーヴは言われるがままに寝台に腰を下ろした。もし万一アグノエルがカズヌーヴを「抱こう」としてもすぐに応戦できるように、最大限の注意を払いながらではあったが。
カズヌーヴの警戒には頓着しない様子で、寝台を回ってきたアグノエルはカズヌーヴの足元に膝をついた。カズヌーヴの着ているくたびれた囚人服から、迷いなくカズヌーヴの雄を引き出す。冷たく乾いた手だった。
「……アグノエル?」
「黙れ。大人しくしていろ」
面倒臭そうな調子で命じたアグノエルが、カズヌーヴの中心に顔を寄せる。そして躊躇いもせず、カズヌーヴの分身を口に含んだ。
「な、アグノエル!?」
アグノエルの思いがけない行動に、カズヌーヴは思わずうろたえて声を上げる。だがアグノエルは不機嫌そうな一瞥をよこしただけで、また目を伏せて口淫に戻っていった。
熱い口腔に包み込まれ、舌を絡められ、指で刺激され、軽く歯を立てられ吸い上げられる。その直接的な快感に、カズヌーヴは思わず呻きを漏らした。
禁欲的な常の佇まいからは意外なほどに、アグノエルの口淫は巧みだった。そのことに驚く余裕もない。強すぎる快感があっさりと思考を奪い去っていく。何も考えずに手を伸ばしてアグノエルの髪に触れると、煩わしげに振り払われた。
「ん……っ、ふ……」
「っ……アグノエル……」
見る間に力強く育ったカズヌーヴの雄に呼吸を阻害されているアグノエルの、少し苦しげな吐息。それにさえ熱を煽られ、カズヌーヴの欲は否応無しに昂っていく。
ぴちゃ、くちゅ、と湿った音。伏せがちなアグノエルの目元に睫毛が落とす影。大きく口を開けてカズヌーヴの欲望を咥え込んでいるアグノエルの姿は醜怪でありながらどこか清らかで、辱めに耐える殉教者を思わせた。
また苦しそうに息を漏らしたアグノエルが、おもむろに顔を離そうとする。カズヌーヴは思わず手を伸ばし、離れようとするアグノエルの頭を鷲掴みにした。驚いたように震えるそれを自分の腰に押し付けながら、腰を突き上げる。そして、アグノエルの口腔に精を吐き出した。
「っ、……!」
「う……っ」
低く呻きながら、カズヌーヴはアグノエルの顔を一層強く引き寄せた。寸の間抗おうとしたアグノエルが、諦めたのかすぐに大人しくなる。そしてアグノエルは、喉を動かしてカズヌーヴの精を嚥下し始めた。
こく、こく、と細い喉が動く。力を抜いたカズヌーヴの掌の下で、アグノエルはゆっくりとカズヌーヴの腰から顔を離した。一度達したもののまだ力を失っていないカズヌーヴの欲の印がずるりと姿を現す。その醜悪な眺めにカズヌーヴはうろたえ、思わず目を逸らした。
だが俯いたアグノエルが小さくむせこむので、カズヌーヴもようやく我に返る。なんということをしたのかと、やっと自分の行動に理解が追いついてきた。
「す、すまない、大丈夫か!?」
慌てて顔を上げさせようとするが、俯いて口元を拭っているアグノエルは嫌がった。おろおろとその髪を撫でながら、カズヌーヴは言葉を探す。
「本当にすまないことをした。だが、何も、飲んでくれなくとも……」
「……黙れ」
やっと顔を上げてくれたアグノエルの機嫌の悪い唸り声。同じく不機嫌な薄氷色の目がじろりと睨み上げてきた。
「馬鹿が。何のために勃たせたと思っている」
「あ……その」
「役立たずが」
吐き捨てたアグノエルが立ち上がった。カズヌーヴの肩を押して仰向けにさせようとするが、びくともしなかったカズヌーヴに不満げな顔をする。そのアグノエルの腰を抱き寄せ、カズヌーヴはひどく申し訳ないような思いで提案した。
「……扉がもう開いてはいないか、確かめてみるかい?」
「……『セックス』をしろとの指示なのだろう。この程度で開くものか」
面倒臭そうにアグノエルが切り捨てるので、カズヌーヴはまた申し訳ない気分になる。アグノエルの腹に顔を押し付けると「離れろ、気色の悪い」と冷たく言われてしまう。
「……もういい。黙って大人しくしていろ」
言い捨てたアグノエルがカズヌーヴから離れて、思いがけないほど迷いない様子で服を脱ぎ始めた。その様子にカズヌーヴは少し不意を突かれる。だが「忙しい」アグノエルにはおそらく、早くこの部屋から出て取り掛かりたい仕事でもあるのだろう。
カズヌーヴがそんなことを考えていると、服を脱ぎ捨てたアグノエルが寝台に戻ってきた。何故かカズヌーヴから離れてシーツに座る。そして目で追ったカズヌーヴを睨みつけ、「見るな」と吐き捨てた。
「どうして?」
「私は見せ物ではない。貴様の穢らわしい目で必要以上に見られることも不快だ。……他にも理由が必要か?」
「……つれないな」
「黙れ」
人馴れしない猫のような態度に苦笑して、カズヌーヴは望まれた通り背を向けてやる。しばらくカズヌーヴの背中を睨んでいたらしいアグノエルが小さく息を吐く声。そしてまたしばらくの間の後、思いがけないほど甘やかな声が耳に届いた。
「……っ、ん……」
「っ!?」
「……見るなと、言っている」
思わず振り向いたカズヌーヴは、薄く涙を浮かべる目に睨まれて慌ててまた背を向け直す。だが、見てしまった光景はくっきりと脳裏に焼き付いていた。
すんなりと長い脚の間で動いていたアグノエルの手。きっとあの熱く狭い場所に指を差し入れて、慣らそうとしていた動き。その秘められた場所に押し包まれる快感が蘇り、思わず喉が鳴った。その間も、アグノエルは手を休めてはいないらしかった。
「ん……っ、は、ぁ……」
アグノエルの悩ましい吐息、湿った水音。聴覚からの刺激がカズヌーヴを否応無しに昂らせる。腰の奥で罪深い欲が疼く。あの薔薇の香油の香りがしていた。
堪らなくなって、カズヌーヴは静かにアグノエルへと向き直った。半ば目を閉じて作業に没頭しているアグノエルは、まだ気づかない。だが音を立てないように近付いたカズヌーヴの落とす影で、彼もやっと気付いたらしかった。
「っ、見るな、と……」
「手伝ってあげるよ」
文句も聞かずに宣言して、カズヌーヴはアグノエルの脚の間に手を伸ばした。突然のことに驚いているらしいアグノエルの秘所に指を滑らせる。そしてアグノエル自身の指を咥え込んでいるその場所に、おもむろに自分の指を差し入れた。
「ぃ……!」
「痛くはないだろう? 慣れてるんだから」
上がった苦痛の声には構わず、さらに深く指を埋め込む。だがはっきりと苦痛に顔を歪めたアグノエルに思わぬ強さで胸を押された。涙を浮かべた彼が訴える。
「痛、い、やめ……!」
「アグノエル?」
思いがけない抵抗に面食らう。だがアグノエルが切れ切れに吐き出した言葉で、遅まきながら理由を悟った。
「せめて、濡らせ、馬鹿が……!」
「っ、す、すまない!」
「痛……!」
慌てたカズヌーヴが指を引き抜くと、その刺激にまたアグノエルの苦痛の声が上がる。だがカズヌーヴが謝罪の言葉を探している間に、喘ぐように呼吸したアグノエルは少しの余裕を取り戻したらしい。何度か呼吸を整えたアグノエルが、薄く涙を浮かべている目でカズヌーヴを睨んだ。
「……する気が、あるならば、早くやれ」
「……もう、痛くしないようにするよ」
「当然だ」
吐き捨てたアグノエルが指を抜くので、カズヌーヴは香油の瓶を拾って中身を手に垂らした。香油を絡ませた指を、アグノエルの中にゆっくりと埋め込む。できる限り穏やかに指を動かしながら尋ねる。
「痛くないね?」
「早く、済ませろ、馬鹿が……」
力無い罵倒に少し安堵しながら、カズヌーヴは努めて丁寧にアグノエルの秘所を解きほぐした。眉根を寄せて目を閉じているアグノエルの表情を確かめながら、また指を増やす。抜き差しし、掻き回し、慎重に拡げてみる。
「……も、う、いい」
「アグノエル」
「……早く、済ませろ」
掠れる声でアグノエルが言うので、カズヌーヴも気掛かりに感じながら指を抜くほかない。今更のように慌ただしく服を脱ぎ捨てるカズヌーヴをちらりと見たアグノエルは、何も言わずに寝台に伏せた。のろのろと尻を持ち上げ、四つ這いのような姿勢になる。
その背中に覆いかぶさろうとして、カズヌーヴはまた僅かにためらった。見透かしたように、顔を伏せていたアグノエルがじろりと睨み上げてくる。
「早くしろ」
「アグノエル」
「時間の無駄だ」
切り捨てるように言ったアグノエルが、また顔を伏せてしまう。反論も宥める言葉も見つけられなかったカズヌーヴはもう何も言えなくなって、黙ってアグノエルの腰を掴んだ。そして小さく息を整え、ぐっと割り入る。
「っ……!」
苦しげな呻きを漏らして、アグノエルが背筋を震わせた。顔を伏せている彼の表情は分からないが、強張った肩や背中が彼の苦痛をありありと伝えている。それでもカズヌーヴは、止まることはもうできなかった。
アグノエルが「早く済ませろ」と言うからだ。望んだのは彼の方だ。自分はもっとゆっくりと事を運ぼうと努力したのだ。胸の中でそう言い訳をしながらも、カズヌーヴは腰を進める動きを止めることができない。淫らに震えて絡みついてくる粘膜に、抗えない。
全身から拒絶を迸らせているアグノエルの様子とは裏腹に、彼の内側は確かにカズヌーヴの侵入を歓迎していた。熱く柔らかな場所は悦びに震えながらカズヌーヴを受け入れ、奥へ奥へと誘い込んでいた。すぐにでも達してしまいそうな自分を努めて鎮めながらカズヌーヴは腰を進め、そしてアグノエルの中に全てを埋め込んだ。
「っ、は……アグノエル」
「ぁ……っ、……」
「大丈夫か?」
興奮に掠れる声で囁きかけながら、カズヌーヴはアグノエルの背中に体を寄せた。体重をかけないようにしながら肌を寄せ、俯いたままのアグノエルの後頭部や耳にキスをする。だが、絞り出された返答は冷淡だった。
「は、やく、済ませろ……」
「君は、そればかりだな」
思わず苦笑しながら身を起こし、汗に滑る手でアグノエルの腰を掴み直す。思わずといった様子で小さく身を震わせたアグノエルに、カズヌーヴは宣言した。
「動くぞ」
「早く、しろと……っ、――!」
返事を待たずに抽送を開始すると、アグノエルが声を噛み殺した。シーツに噛み付いて声を殺しているのか、それきり声が聞こえなくなる。それを残念に思いながら、カズヌーヴは容赦なくアグノエルを揺さぶった。
ぎりぎりまで引き抜いては突き刺し、突き上げ、深々と貫く。肉のぶつかり合う音、熱く絡みついてくる粘膜の感触。押し殺されるアグノエルの切れ切れの喘ぎが耳に心地良い。
また一層深く貫くたびに、アグノエルの白い背中がはっきりと震える。短く苦しげな吐息が、カズヌーヴの律動と共に押し出される。その呼吸に聞くとはなしに耳を傾けながら、カズヌーヴはほとんど夢中になって快楽を追った。だが、ふと、それに気付いた。
関節の色が白くなるほど力の入ったアグノエルの指が、耐えるようにシーツを握りしめている。それに気付いたとき、カズヌーヴの胸は奇妙な感情に埋め尽くされた。その感情は憐れみにも、愛おしさにも似ていた。
何か言葉をかけなければいけないような気がして、けれど言葉が見つからない。何も言えずに背骨の上にキスをすると、触れる唇の下で綺麗に並んだ骨が震えた。
アグノエルの背中に身を寄せたまま、尚も腰を揺さぶり立てる。そうしながら、カズヌーヴは手を伸ばしてアグノエルの口元を探った。
「っ!」
「声を聞かせてくれ」
囁きながら口を開けさせようとしても、アグノエルはカズヌーヴの手を嫌がった。むずかる幼子のように首を振って、カズヌーヴの手から逃れようとする。そうもされては、カズヌーヴも意地になろうというものだ。
どうしてやろうかと少し考え、そしてカズヌーヴはもう一方の手をアグノエルの下肢に伸ばした。気付かれる前にアグノエルの中心を探りあて、そして握り込む。
「ひ、ぁ!?」
「やっと声を出したな」
思わずと言った様子で声を上げたアグノエルに笑って指摘しながら、その口が閉じる前に指をねじ込む。慌てた様子で口を閉じようとするのを許さず、無理にアグノエルの口をこじ開ける。そうしながら、一旦休止していた腰の動きを再開した。
「ふ、ぁ、ゃ、めろ……っ!」
「何を言っているのか分からないな。もっと可愛い声で鳴いてくれないのか?」
不明瞭な抗議を笑って聞き流し、なおも腰を揺さぶる。強引に口を閉じようとするアグノエルの歯が指に食い込む痛みさえ、堪らなく胸に甘い。差し入れた指で悪戯にアグノエルの口腔を探りながら、カズヌーヴは喉の奥で笑った。
熱く濡れたアグノエルの口の中の感触を指先で楽しむ。柔らかな頬の内側をつつき、整然と並んだ歯の列に指を滑らせる。舌を軽く引っ掻いてやると、声を抑えられずにいるアグノエルがまた声を漏らした。
アグノエルが飲み込めずにいる唾液がカズヌーヴの手を伝って滴り落ちる。その生ぬるい感触にさえまた昂っている自分を感じながら、カズヌーヴはアグノエルの腰を掴み直した。強く引きつけながら囁きかける。
「出すぞ」
「っ、……、……!」
宣言に、アグノエルの背中がまたびりりと震えた。それを返事と解釈し、カズヌーヴは腰の動きを一層激しくする。そして一際大きく腰を叩きつけながら、アグノエルの中に欲望を吐き出した。
その刺激で達したらしいアグノエルの声にならない悲鳴。アグノエルの腹の下から、シーツに白濁が広がっていく。がくがくと震えるアグノエルの体を、カズヌーヴは一層強く引き寄せた。
長く息を吐いたアグノエルが、ぐったりとシーツに身を投げた。
「……大丈夫か?」
「……黙れ」
気遣っても、痛ましく掠れる声は刺々しい言葉しか投げ返してこない。労ってやるべきか、そうしないことが「優しさ」となるかとカズヌーヴは迷ったが、結局は意地の悪い調子を選んでアグノエルの弱みを指摘することにした。
「中に出されてイくなんて、女の子のようだね。やはり君には『女役』の方が向いているようだ」
「……黙れ」
面倒臭そうに呟くアグノエルの声には羞らいの響きさえない。それをつまらなく思うと同時にまた意地の悪い感情を刺激されて、カズヌーヴは再度毒を含んだ言葉を投げつける。
「図星かな? こんな情けない体で私を抱こうなどと、よく言えたものだね。さっきのように、雌犬のように腰を振ってよがり狂っている方が、ずっとお似合いだ」
「……不粋な男だ。少しは口を閉じられんのか」
やはり面倒臭そうに答えたアグノエルが、おそらくは彼自身の唾液でべたべたになっていた口元を拭ってから、やっとカズヌーヴを振り返った。久しぶりにその顔を覗き込んで、カズヌーヴは胸を打たれる。
絶頂の余韻にか、アグノエルの精一杯険しくしているらしい顔はまだ甘やかに蕩けていた。赤く色付いた唇、ぽうっと上気した頬。しっとりと潤んだ瞳が不満げにカズヌーヴを睨み上げている。
「アグノエル……」
「退け」
冷ややかな声で遮ったアグノエルが身を捩り、そっけなくカズヌーヴの胸を押し返した。思わず怯むと、その間にアグノエルがさっさと身を剥がしてしまう。
未練もなさげに寝台を降りようとするアグノエルをカズヌーヴは束の間呆然と見ていたが、何を考える前にその腕を掴んでいた。引き戻して組み敷く。
「……何だ」
「まだ、良いだろう?」
「……何?」
迷惑そうに尋ねたアグノエルは、カズヌーヴの言葉に眉根を寄せた。そんな様子には構わず、カズヌーヴは再度アグノエルの脚を開かせながら囁きかける。
「溜まっているんだよ、君のお陰でね。……だから、私の気が済むまで、付き合ってもらうよ」
「……猿め」
面倒くさそうに悪態を吐いたアグノエルは、カズヌーヴの予想に反して抵抗らしい抵抗をしなかった。不機嫌に睨み上げてきながらそっけなく言う。
「……するならば、早くやれ。私は貴様と違って忙しい」
「そうさせてもらうよ」
わざと親しげに微笑みかけて頬を撫でると、嫌そうに顔を背けられる。つれない猫の反抗に似た態度にカズヌーヴは笑い、そしてアグノエルの体に沈み込んだ。
* * *
冷たく固い寝棚で、カズヌーヴは目を覚ました。朝の遠い真夜中の気配が、暗い部屋に重苦しく立ち込めていた。
他の囚人達のいびき、遠く響いている看守の足音。耳を澄ませながら、カズヌーヴは目の前に自分の手をかざしてみた。窓からの乏しい星明かりの中で目を凝らす。
アグノエルの口をこじ開けて強く歯を立てられた筈の手には、その歯列の跡など全く残っていなかった。そのことに、自分でも驚くほどに落胆する。
それも当然なのだ、と自分に言い聞かせようとする。全ては夢、朝の光とともに儚く消える幻。分かっていた、最初から。
けれど、期待してしまったのだ。夢の中のアグノエルは、「前回」のことを覚えていたから。パリでのあの淫夢と、この夜のそれは確かに地続きであったから。
忘れてしまえ、朝までにもう一眠りしろと、自分に再度言い聞かせる。けれどアグノエルの口腔の熱さを、カズヌーヴの手ははっきりと覚えている。思わず手を握り締めた。
「五一〇八号、さぼるな!」
「……分かっている」
唸るように答えて、カズヌーヴは今度こそ材木を担ぎ上げた。足を滑らせないようにしっかりと一歩一歩を踏みしめながら運び始める。それでひとまずは満足したらしい看守が、今度はまた別の囚人を叱りつける声。
冷たい雨の降りしきるブレスト徒刑場での再びの労役は老年に近付いているカズヌーヴには相当の苦痛だったが、年齢を理由に容赦されるような場所では元よりない。それどころか、一度は警察内の「成功者」にまで上り詰めてしまったカズヌーヴへの看守達や他の囚人達の風当たりは、予想していた以上に強かった。
だがそんなことは、カズヌーヴにはどうでも良かった。一日も早くここを脱出しなければと、やっと見つけることができたその少年を早く迎えに行かなくてはと、そればかりを考える日々だった。
カズヌーヴに唯一残された血縁者であるその男の子は、彼の甥であった父を既に亡くしている。その妻である母親も病に倒れており、その命は風前の灯だという。
今まさに天涯孤独の身になろうとしているその少年は何をどう辿ってか大叔父であるカズヌーヴの存在を知り、近くの教会の神父を介して、助けを乞う手紙をくれた。だがカズヌーヴは彼を迎えにいく前に告発を受け、投獄されてしまった。
カズヌーヴの労役が明けるまで、あと八年。そんなにも待つわけにはいかない、寄るべを失おうとしている少年を待たせるわけにはいかない。幸いにもカズヌーヴには、頑健な体と人並み以上の体力がある。警察官の職を失った今となっても、働き口に困ることはないだろう。
決意を新たにし、まだ見ぬ哀れな又甥を思いながら、カズヌーヴは材木を地面に投げ出した。
* * *
目を覚ますと、白く殺風景な部屋で横になっていた。
驚きで瞬時に目を覚ましたカズヌーヴは慌てて身を起こし、そして隣で眠っている男に気付いて動揺した。遠く隔たっても決して忘れることなどできないその男アグノエルは、まだぐっすりと眠っているらしい。
もしやと思いながら、カズヌーヴはアグノエルを起こさないように寝台を降りた。静かに、だが急ぎ足に、部屋に一枚しかない扉に歩み寄る。扉に貼られていた貼り紙に目を走らせ、目眩を覚えた。
『セックスしないと出られない部屋』
いつかの淫夢と全く同じ文言、全く同じ部屋の状況、そしてあの時と同じ相手。戸惑い狼狽しながら、カズヌーヴは胸に湧く奇妙な高揚に気付いてもいた。
あの奇怪で淫らな夢の後にも、カズヌーヴとアグノエルの関係は全く変わらなかった。それも当然だ、あれは単なる夢だったのだから。「何か」を体験したのはカズヌーヴただ一人で、アグノエルにはそもそも何も起こらなかったのだから。
けれどカズヌーヴは、その夢を忘れることができなかった。肌の上に生々しく残るアグノエルの肌の熱さを、その体の震えを、苦しげに漏らされた吐息の切なさを、苦痛と苦悩に歪む表情を。
熱を持て余す夜に思い出すのは、決まってアグノエルのことだった。その肌の温度を、縋り付いてきた腕の力強さを思い返しながら、何度一人で果てただろう。その後には激しい自己嫌悪に苛まれることを知っていても、カズヌーヴはそれを止められなかった。
そのカズヌーヴの妄執が、この淫夢を再び招き寄せたのか。カズヌーヴの心の深層が、今もアグノエルに執着しているから。アグノエルを征服したいと、彼をあられもなく泣き善がらせたいと、カズヌーヴ自身が願っているから。
自己嫌悪に追いつかれそうになり、カズヌーヴは頭を振って思考を追い払った。どうしようもないことだと、自分に言い聞かせる。
そう、どうしようもないのだ。すでにことは始まっている。カズヌーヴとアグノエルは既にこの部屋に閉じ込められていて、脱出するには性交渉を行わねばならないのだ。その事実は、動かない。
そう自分を納得させて、寝台の脇に戻ったカズヌーヴはアグノエルの寝顔を覗き込んだ。眠っているときだけは僅かに穏やかな、その端正なかんばせ。静かで深い呼吸に耳を傾けながら、揺り起こすべきかと迷う。そして、その必要はないと結論づけた。
急ぐ必要はない。急いだところで、何も変わらない。むしろ、あの地獄のようなブレスト徒刑場から僅かでも離れていられるこの時間を、カズヌーヴは少しでも引き伸ばしたかった。だがそう思っている間にも、事態は動いた。
不意に、静かな寝息を立てていたアグノエルが小さな声を漏らした。小さく頭を動かし、僅かに身じろぐ。そしてゆっくりとその瞼が開いていく。咄嗟にカズヌーヴはアグノエルの視界にすぐには入らない場所へ移動して、彼の目覚めを見守った。
眠たげな動作で身を起こしたアグノエルが、ゆっくりと部屋を見回す。その目がカズヌーヴを捉えた。氷色の瞳が僅かに見開かれる。
だがカズヌーヴが予想したような激しい敵意は向けられなかった。アグノエルはただ、ひどく無関心な声で呟いた。
「……また、貴様か」
「……久しぶりだね」
冷めた声に驚かされながらも、言葉に迷ったカズヌーヴは愚にもつかない挨拶を唇に乗せる。少し目が覚めてきたのかアグノエルは皮肉げに唇を歪め、嫌味な口調で尋ねかけてきた。
「ブレストの居心地はどうだ」
「水には不自由しないよ、お陰様でね」
挑戦的な言葉を、カズヌーヴはさらりといなした。アグノエルならばそうした言葉をぶつけてくるだろうと当然に予想していたカズヌーヴには、その程度の言葉の棘は何の意味もなさない。
挑発に取り合わないカズヌーヴに、アグノエルは少しだけつまらなそうな顔をした。そんなアグノエルの髪にわざと馴れ馴れしく触れて、カズヌーヴは微笑みかける。
「触れるな」
「君は相変わらず忙しいんだろうね? ならば、手短に済ませようか」
カズヌーヴの手を冷たく払い除けたアグノエルは、カズヌーヴを見上げて意地の悪い目をした。皮肉げに笑って言う。
「私が貴様に抱かれてやる理由が、まだあるとでも?」
「……腕力で私に敵うと、君は思っているのかな?」
そう切り返されるとは思っていなかったカズヌーヴは少しだけ動揺したが、余裕のありげに笑って見せた。そして、皮肉げな笑みを深めたアグノエルが何か言う前にさらに続ける。
「それに君は、『下』の方が慣れてるんじゃないかな? 前回も随分と慣れた様子だった」
「くだらんことばかりを覚えている頭だな。まあ、もっと他のことに頭を使える男ならば、徒刑場送りにはそもそもなるまい」
カズヌーヴが投げ返した挑発に、アグノエルもまた取り合わなかった。また気軽な調子で挑発を返されるので、カズヌーヴも気軽に笑って答える。
「言ってくれるね。自分で私を追い出しておいて」
「だから訊いてやったろう、居心地はどうだと」
ふんと鼻で笑ったアグノエルは、だがそろそろ言葉遊びに飽きているらしかった。しなやかな動作で寝台の向こう側へ降りる。そして、見守っていたカズヌーヴにあっさりと命じた。
「座れ」
「うん?」
「早くしろ」
思いがけない命令を怪訝に思いながら、カズヌーヴは言われるがままに寝台に腰を下ろした。もし万一アグノエルがカズヌーヴを「抱こう」としてもすぐに応戦できるように、最大限の注意を払いながらではあったが。
カズヌーヴの警戒には頓着しない様子で、寝台を回ってきたアグノエルはカズヌーヴの足元に膝をついた。カズヌーヴの着ているくたびれた囚人服から、迷いなくカズヌーヴの雄を引き出す。冷たく乾いた手だった。
「……アグノエル?」
「黙れ。大人しくしていろ」
面倒臭そうな調子で命じたアグノエルが、カズヌーヴの中心に顔を寄せる。そして躊躇いもせず、カズヌーヴの分身を口に含んだ。
「な、アグノエル!?」
アグノエルの思いがけない行動に、カズヌーヴは思わずうろたえて声を上げる。だがアグノエルは不機嫌そうな一瞥をよこしただけで、また目を伏せて口淫に戻っていった。
熱い口腔に包み込まれ、舌を絡められ、指で刺激され、軽く歯を立てられ吸い上げられる。その直接的な快感に、カズヌーヴは思わず呻きを漏らした。
禁欲的な常の佇まいからは意外なほどに、アグノエルの口淫は巧みだった。そのことに驚く余裕もない。強すぎる快感があっさりと思考を奪い去っていく。何も考えずに手を伸ばしてアグノエルの髪に触れると、煩わしげに振り払われた。
「ん……っ、ふ……」
「っ……アグノエル……」
見る間に力強く育ったカズヌーヴの雄に呼吸を阻害されているアグノエルの、少し苦しげな吐息。それにさえ熱を煽られ、カズヌーヴの欲は否応無しに昂っていく。
ぴちゃ、くちゅ、と湿った音。伏せがちなアグノエルの目元に睫毛が落とす影。大きく口を開けてカズヌーヴの欲望を咥え込んでいるアグノエルの姿は醜怪でありながらどこか清らかで、辱めに耐える殉教者を思わせた。
また苦しそうに息を漏らしたアグノエルが、おもむろに顔を離そうとする。カズヌーヴは思わず手を伸ばし、離れようとするアグノエルの頭を鷲掴みにした。驚いたように震えるそれを自分の腰に押し付けながら、腰を突き上げる。そして、アグノエルの口腔に精を吐き出した。
「っ、……!」
「う……っ」
低く呻きながら、カズヌーヴはアグノエルの顔を一層強く引き寄せた。寸の間抗おうとしたアグノエルが、諦めたのかすぐに大人しくなる。そしてアグノエルは、喉を動かしてカズヌーヴの精を嚥下し始めた。
こく、こく、と細い喉が動く。力を抜いたカズヌーヴの掌の下で、アグノエルはゆっくりとカズヌーヴの腰から顔を離した。一度達したもののまだ力を失っていないカズヌーヴの欲の印がずるりと姿を現す。その醜悪な眺めにカズヌーヴはうろたえ、思わず目を逸らした。
だが俯いたアグノエルが小さくむせこむので、カズヌーヴもようやく我に返る。なんということをしたのかと、やっと自分の行動に理解が追いついてきた。
「す、すまない、大丈夫か!?」
慌てて顔を上げさせようとするが、俯いて口元を拭っているアグノエルは嫌がった。おろおろとその髪を撫でながら、カズヌーヴは言葉を探す。
「本当にすまないことをした。だが、何も、飲んでくれなくとも……」
「……黙れ」
やっと顔を上げてくれたアグノエルの機嫌の悪い唸り声。同じく不機嫌な薄氷色の目がじろりと睨み上げてきた。
「馬鹿が。何のために勃たせたと思っている」
「あ……その」
「役立たずが」
吐き捨てたアグノエルが立ち上がった。カズヌーヴの肩を押して仰向けにさせようとするが、びくともしなかったカズヌーヴに不満げな顔をする。そのアグノエルの腰を抱き寄せ、カズヌーヴはひどく申し訳ないような思いで提案した。
「……扉がもう開いてはいないか、確かめてみるかい?」
「……『セックス』をしろとの指示なのだろう。この程度で開くものか」
面倒臭そうにアグノエルが切り捨てるので、カズヌーヴはまた申し訳ない気分になる。アグノエルの腹に顔を押し付けると「離れろ、気色の悪い」と冷たく言われてしまう。
「……もういい。黙って大人しくしていろ」
言い捨てたアグノエルがカズヌーヴから離れて、思いがけないほど迷いない様子で服を脱ぎ始めた。その様子にカズヌーヴは少し不意を突かれる。だが「忙しい」アグノエルにはおそらく、早くこの部屋から出て取り掛かりたい仕事でもあるのだろう。
カズヌーヴがそんなことを考えていると、服を脱ぎ捨てたアグノエルが寝台に戻ってきた。何故かカズヌーヴから離れてシーツに座る。そして目で追ったカズヌーヴを睨みつけ、「見るな」と吐き捨てた。
「どうして?」
「私は見せ物ではない。貴様の穢らわしい目で必要以上に見られることも不快だ。……他にも理由が必要か?」
「……つれないな」
「黙れ」
人馴れしない猫のような態度に苦笑して、カズヌーヴは望まれた通り背を向けてやる。しばらくカズヌーヴの背中を睨んでいたらしいアグノエルが小さく息を吐く声。そしてまたしばらくの間の後、思いがけないほど甘やかな声が耳に届いた。
「……っ、ん……」
「っ!?」
「……見るなと、言っている」
思わず振り向いたカズヌーヴは、薄く涙を浮かべる目に睨まれて慌ててまた背を向け直す。だが、見てしまった光景はくっきりと脳裏に焼き付いていた。
すんなりと長い脚の間で動いていたアグノエルの手。きっとあの熱く狭い場所に指を差し入れて、慣らそうとしていた動き。その秘められた場所に押し包まれる快感が蘇り、思わず喉が鳴った。その間も、アグノエルは手を休めてはいないらしかった。
「ん……っ、は、ぁ……」
アグノエルの悩ましい吐息、湿った水音。聴覚からの刺激がカズヌーヴを否応無しに昂らせる。腰の奥で罪深い欲が疼く。あの薔薇の香油の香りがしていた。
堪らなくなって、カズヌーヴは静かにアグノエルへと向き直った。半ば目を閉じて作業に没頭しているアグノエルは、まだ気づかない。だが音を立てないように近付いたカズヌーヴの落とす影で、彼もやっと気付いたらしかった。
「っ、見るな、と……」
「手伝ってあげるよ」
文句も聞かずに宣言して、カズヌーヴはアグノエルの脚の間に手を伸ばした。突然のことに驚いているらしいアグノエルの秘所に指を滑らせる。そしてアグノエル自身の指を咥え込んでいるその場所に、おもむろに自分の指を差し入れた。
「ぃ……!」
「痛くはないだろう? 慣れてるんだから」
上がった苦痛の声には構わず、さらに深く指を埋め込む。だがはっきりと苦痛に顔を歪めたアグノエルに思わぬ強さで胸を押された。涙を浮かべた彼が訴える。
「痛、い、やめ……!」
「アグノエル?」
思いがけない抵抗に面食らう。だがアグノエルが切れ切れに吐き出した言葉で、遅まきながら理由を悟った。
「せめて、濡らせ、馬鹿が……!」
「っ、す、すまない!」
「痛……!」
慌てたカズヌーヴが指を引き抜くと、その刺激にまたアグノエルの苦痛の声が上がる。だがカズヌーヴが謝罪の言葉を探している間に、喘ぐように呼吸したアグノエルは少しの余裕を取り戻したらしい。何度か呼吸を整えたアグノエルが、薄く涙を浮かべている目でカズヌーヴを睨んだ。
「……する気が、あるならば、早くやれ」
「……もう、痛くしないようにするよ」
「当然だ」
吐き捨てたアグノエルが指を抜くので、カズヌーヴは香油の瓶を拾って中身を手に垂らした。香油を絡ませた指を、アグノエルの中にゆっくりと埋め込む。できる限り穏やかに指を動かしながら尋ねる。
「痛くないね?」
「早く、済ませろ、馬鹿が……」
力無い罵倒に少し安堵しながら、カズヌーヴは努めて丁寧にアグノエルの秘所を解きほぐした。眉根を寄せて目を閉じているアグノエルの表情を確かめながら、また指を増やす。抜き差しし、掻き回し、慎重に拡げてみる。
「……も、う、いい」
「アグノエル」
「……早く、済ませろ」
掠れる声でアグノエルが言うので、カズヌーヴも気掛かりに感じながら指を抜くほかない。今更のように慌ただしく服を脱ぎ捨てるカズヌーヴをちらりと見たアグノエルは、何も言わずに寝台に伏せた。のろのろと尻を持ち上げ、四つ這いのような姿勢になる。
その背中に覆いかぶさろうとして、カズヌーヴはまた僅かにためらった。見透かしたように、顔を伏せていたアグノエルがじろりと睨み上げてくる。
「早くしろ」
「アグノエル」
「時間の無駄だ」
切り捨てるように言ったアグノエルが、また顔を伏せてしまう。反論も宥める言葉も見つけられなかったカズヌーヴはもう何も言えなくなって、黙ってアグノエルの腰を掴んだ。そして小さく息を整え、ぐっと割り入る。
「っ……!」
苦しげな呻きを漏らして、アグノエルが背筋を震わせた。顔を伏せている彼の表情は分からないが、強張った肩や背中が彼の苦痛をありありと伝えている。それでもカズヌーヴは、止まることはもうできなかった。
アグノエルが「早く済ませろ」と言うからだ。望んだのは彼の方だ。自分はもっとゆっくりと事を運ぼうと努力したのだ。胸の中でそう言い訳をしながらも、カズヌーヴは腰を進める動きを止めることができない。淫らに震えて絡みついてくる粘膜に、抗えない。
全身から拒絶を迸らせているアグノエルの様子とは裏腹に、彼の内側は確かにカズヌーヴの侵入を歓迎していた。熱く柔らかな場所は悦びに震えながらカズヌーヴを受け入れ、奥へ奥へと誘い込んでいた。すぐにでも達してしまいそうな自分を努めて鎮めながらカズヌーヴは腰を進め、そしてアグノエルの中に全てを埋め込んだ。
「っ、は……アグノエル」
「ぁ……っ、……」
「大丈夫か?」
興奮に掠れる声で囁きかけながら、カズヌーヴはアグノエルの背中に体を寄せた。体重をかけないようにしながら肌を寄せ、俯いたままのアグノエルの後頭部や耳にキスをする。だが、絞り出された返答は冷淡だった。
「は、やく、済ませろ……」
「君は、そればかりだな」
思わず苦笑しながら身を起こし、汗に滑る手でアグノエルの腰を掴み直す。思わずといった様子で小さく身を震わせたアグノエルに、カズヌーヴは宣言した。
「動くぞ」
「早く、しろと……っ、――!」
返事を待たずに抽送を開始すると、アグノエルが声を噛み殺した。シーツに噛み付いて声を殺しているのか、それきり声が聞こえなくなる。それを残念に思いながら、カズヌーヴは容赦なくアグノエルを揺さぶった。
ぎりぎりまで引き抜いては突き刺し、突き上げ、深々と貫く。肉のぶつかり合う音、熱く絡みついてくる粘膜の感触。押し殺されるアグノエルの切れ切れの喘ぎが耳に心地良い。
また一層深く貫くたびに、アグノエルの白い背中がはっきりと震える。短く苦しげな吐息が、カズヌーヴの律動と共に押し出される。その呼吸に聞くとはなしに耳を傾けながら、カズヌーヴはほとんど夢中になって快楽を追った。だが、ふと、それに気付いた。
関節の色が白くなるほど力の入ったアグノエルの指が、耐えるようにシーツを握りしめている。それに気付いたとき、カズヌーヴの胸は奇妙な感情に埋め尽くされた。その感情は憐れみにも、愛おしさにも似ていた。
何か言葉をかけなければいけないような気がして、けれど言葉が見つからない。何も言えずに背骨の上にキスをすると、触れる唇の下で綺麗に並んだ骨が震えた。
アグノエルの背中に身を寄せたまま、尚も腰を揺さぶり立てる。そうしながら、カズヌーヴは手を伸ばしてアグノエルの口元を探った。
「っ!」
「声を聞かせてくれ」
囁きながら口を開けさせようとしても、アグノエルはカズヌーヴの手を嫌がった。むずかる幼子のように首を振って、カズヌーヴの手から逃れようとする。そうもされては、カズヌーヴも意地になろうというものだ。
どうしてやろうかと少し考え、そしてカズヌーヴはもう一方の手をアグノエルの下肢に伸ばした。気付かれる前にアグノエルの中心を探りあて、そして握り込む。
「ひ、ぁ!?」
「やっと声を出したな」
思わずと言った様子で声を上げたアグノエルに笑って指摘しながら、その口が閉じる前に指をねじ込む。慌てた様子で口を閉じようとするのを許さず、無理にアグノエルの口をこじ開ける。そうしながら、一旦休止していた腰の動きを再開した。
「ふ、ぁ、ゃ、めろ……っ!」
「何を言っているのか分からないな。もっと可愛い声で鳴いてくれないのか?」
不明瞭な抗議を笑って聞き流し、なおも腰を揺さぶる。強引に口を閉じようとするアグノエルの歯が指に食い込む痛みさえ、堪らなく胸に甘い。差し入れた指で悪戯にアグノエルの口腔を探りながら、カズヌーヴは喉の奥で笑った。
熱く濡れたアグノエルの口の中の感触を指先で楽しむ。柔らかな頬の内側をつつき、整然と並んだ歯の列に指を滑らせる。舌を軽く引っ掻いてやると、声を抑えられずにいるアグノエルがまた声を漏らした。
アグノエルが飲み込めずにいる唾液がカズヌーヴの手を伝って滴り落ちる。その生ぬるい感触にさえまた昂っている自分を感じながら、カズヌーヴはアグノエルの腰を掴み直した。強く引きつけながら囁きかける。
「出すぞ」
「っ、……、……!」
宣言に、アグノエルの背中がまたびりりと震えた。それを返事と解釈し、カズヌーヴは腰の動きを一層激しくする。そして一際大きく腰を叩きつけながら、アグノエルの中に欲望を吐き出した。
その刺激で達したらしいアグノエルの声にならない悲鳴。アグノエルの腹の下から、シーツに白濁が広がっていく。がくがくと震えるアグノエルの体を、カズヌーヴは一層強く引き寄せた。
長く息を吐いたアグノエルが、ぐったりとシーツに身を投げた。
「……大丈夫か?」
「……黙れ」
気遣っても、痛ましく掠れる声は刺々しい言葉しか投げ返してこない。労ってやるべきか、そうしないことが「優しさ」となるかとカズヌーヴは迷ったが、結局は意地の悪い調子を選んでアグノエルの弱みを指摘することにした。
「中に出されてイくなんて、女の子のようだね。やはり君には『女役』の方が向いているようだ」
「……黙れ」
面倒臭そうに呟くアグノエルの声には羞らいの響きさえない。それをつまらなく思うと同時にまた意地の悪い感情を刺激されて、カズヌーヴは再度毒を含んだ言葉を投げつける。
「図星かな? こんな情けない体で私を抱こうなどと、よく言えたものだね。さっきのように、雌犬のように腰を振ってよがり狂っている方が、ずっとお似合いだ」
「……不粋な男だ。少しは口を閉じられんのか」
やはり面倒臭そうに答えたアグノエルが、おそらくは彼自身の唾液でべたべたになっていた口元を拭ってから、やっとカズヌーヴを振り返った。久しぶりにその顔を覗き込んで、カズヌーヴは胸を打たれる。
絶頂の余韻にか、アグノエルの精一杯険しくしているらしい顔はまだ甘やかに蕩けていた。赤く色付いた唇、ぽうっと上気した頬。しっとりと潤んだ瞳が不満げにカズヌーヴを睨み上げている。
「アグノエル……」
「退け」
冷ややかな声で遮ったアグノエルが身を捩り、そっけなくカズヌーヴの胸を押し返した。思わず怯むと、その間にアグノエルがさっさと身を剥がしてしまう。
未練もなさげに寝台を降りようとするアグノエルをカズヌーヴは束の間呆然と見ていたが、何を考える前にその腕を掴んでいた。引き戻して組み敷く。
「……何だ」
「まだ、良いだろう?」
「……何?」
迷惑そうに尋ねたアグノエルは、カズヌーヴの言葉に眉根を寄せた。そんな様子には構わず、カズヌーヴは再度アグノエルの脚を開かせながら囁きかける。
「溜まっているんだよ、君のお陰でね。……だから、私の気が済むまで、付き合ってもらうよ」
「……猿め」
面倒くさそうに悪態を吐いたアグノエルは、カズヌーヴの予想に反して抵抗らしい抵抗をしなかった。不機嫌に睨み上げてきながらそっけなく言う。
「……するならば、早くやれ。私は貴様と違って忙しい」
「そうさせてもらうよ」
わざと親しげに微笑みかけて頬を撫でると、嫌そうに顔を背けられる。つれない猫の反抗に似た態度にカズヌーヴは笑い、そしてアグノエルの体に沈み込んだ。
* * *
冷たく固い寝棚で、カズヌーヴは目を覚ました。朝の遠い真夜中の気配が、暗い部屋に重苦しく立ち込めていた。
他の囚人達のいびき、遠く響いている看守の足音。耳を澄ませながら、カズヌーヴは目の前に自分の手をかざしてみた。窓からの乏しい星明かりの中で目を凝らす。
アグノエルの口をこじ開けて強く歯を立てられた筈の手には、その歯列の跡など全く残っていなかった。そのことに、自分でも驚くほどに落胆する。
それも当然なのだ、と自分に言い聞かせようとする。全ては夢、朝の光とともに儚く消える幻。分かっていた、最初から。
けれど、期待してしまったのだ。夢の中のアグノエルは、「前回」のことを覚えていたから。パリでのあの淫夢と、この夜のそれは確かに地続きであったから。
忘れてしまえ、朝までにもう一眠りしろと、自分に再度言い聞かせる。けれどアグノエルの口腔の熱さを、カズヌーヴの手ははっきりと覚えている。思わず手を握り締めた。
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