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夢魔の約束・1
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規則正しい足音が廊下をやってくる。それに気付いて書類から顔を上げながら、パリ警視庁「保安警察」こと一般保安部のポール・カズヌーヴ警視は来訪者が誰なのかを予測していた。果たして半開きにしていた扉の向こうに立ったのは、カズヌーヴの予想通りの相手だった。
「カズヌーヴさん、失礼しても?」
「ああ、アグノエル君。どうぞ」
友好的に微笑んで促しても、刑事部のジョルジュ・アグノエル警部はやはり顔色ひとつ変えなかった。氷の彫像にも似た年下の同僚はただ常の無表情のまま僅かに顎を引き、迷いのない足取りでカズヌーヴの事務室に入ってくる。
敵ではないが、長々と会話したい相手でもない。だから失礼にならないように努めながらもさっさと追い返そうと、カズヌーヴはアグノエルが口を開く前に話を切り出した。
「例の資料だろう? そこにまとめてあるよ」
「痛み入ります」
まるで感謝の念を感じさせない声音で淡々と答えたアグノエルが、カズヌーヴが指し示した紙の束を机から取り上げる。もう用はないとばかりに出て行こうとするアグノエルをカズヌーヴは見るともなしに見送り、出て行く前に振り向いたアグノエルの目と視線を交わした。冷淡な蔑みが、ちらりと氷の色の瞳に浮かぶのが見えた。
「失礼いたしました」
慇懃だがやはり冷ややかな声音でそれだけ言い残し、アグノエルは来た時と同じく乱れのない歩調で立ち去っていった。小さくなっていく足音を聞きながら、カズヌーヴは思わず苦笑いしてしまう。最初に顔を合わせた時から全く変わらないアグノエルの冷淡な態度が、カズヌーヴにはいっそ面白くさえ思えた。
カズヌーヴは投獄された経歴を持つ前科者であり、そして同時に正式な資格を持つ警察官だ。その一般的には「奇妙」な来歴は、彼の属する保安警察の中ではそれほど珍しがられるものでもない。
ここパリから遠く離れた寒村の小作人の子として生まれたカズヌーヴは生まれてすぐに母親を、物心つく前に父親を亡くし、その時には既に結婚していた姉によって育てられた。歳の離れた姉はカズヌーヴを育てることが負担であるという態度を隠さなかったが、彼には他に頼る者がなかった。
カズヌーヴが「一人前に」働ける年齢になる頃、一家の拠り所であった義兄が病に倒れ、すぐに他界した。それ以来はカズヌーヴが一家の稼ぎ手となったが、瓦解は思いがけず早く訪れた。
姉夫婦には六人の子供があった。食べさせなければならない口は多く、働き手はカズヌーヴと姉の二人しかいない。追い打ちをかけるように旱魃が村を襲った。カズヌーヴと姉が必死で耕した畑は実りをつけないまま、長く暗い冬が降り立った。
その日の暮らしさえも成り立たない極貧の生活に耐えかねて、カズヌーヴは小さな盗みを重ねた。それらの罪はやがて露見し、捕縛された彼は四年の懲役を言い渡されてブレスト徒刑場に送られた。カズヌーヴが二六歳の時だった。
冷たい雨に閉ざされたその地獄からの脱走を企てることも、カズヌーヴにはできたのだろう。実際に脱獄に走る囚人仲間も幾人もいた。だが、カズヌーヴはそうしなかった。
脱獄に失敗すれば刑期は延びる。逃げ出した囚人達はすぐに捕まって連れ戻されてくる。四年という月日は長いが、永遠ではない。その三つの事実を考え合わせ、カズヌーヴは「模範囚」であることを自分に課した。
徒刑場には囚人のための学校があり、それまでは自分の名を書くことしか知らなかったカズヌーヴも読み書きと計算を習い覚えた。カズヌーヴは覚えたての文字を組み合わせて姉に何度も手紙を書き送り、必ず帰るから耐えてくれと繰り返し伝えた。返事は一度も届かなかった。
やがて四年の刑は明けようとしたが、釈放されるカズヌーヴには行く宛てが無かった。姉とその子らのもとに帰ることを、彼は既に諦めていた。一家の消息は途絶えており、金を送ることさえできなかった。
カズヌーヴに手を差し伸べる者が現れなければ、彼は遅かれ早かれ社会の最底辺に横たわる闇に呑まれていったのだろう。だが模範囚として刑期を務め上げ、出所していこうとするカズヌーヴは、思いがけなかった提案を受けた。
「パリで警察の密偵にならないか? 悪い話ではないと思うがな」
獄中で他の囚人達とも「まあまあ上手くやって」いたカズヌーヴには、様々な犯罪やその手口についての知識があった。パリ警視庁には組織設立に関わった「偉大なる大悪党」フランソワ・ヴィドックの打ち立てた耀かしい前例が既にあり、彼と同様に警察に身を置くようになった密偵は既に幾人もいた。カズヌーヴもその道を辿ることに誰からの反対も出る筈はなく、彼自身も異論のあろう筈もなかった。
パリ警察のために犯罪者達の間に紛れたカズヌーヴは、その暗く澱んだ場所からたくさんの秘密を探り当てた。それらの品質も頻度も、他の密偵達とは比べ物にならないほどのものだった。彼が密偵から「足を洗い」、他の密偵達を統率する側となったのは、彼が四三歳の時だった。
警部アグノエルの来歴を、カズヌーヴはあまり知らない。個人的なことを話すような間柄では元よりないし、そもそもにして尋ねるほどの興味もない。だからカズヌーヴが知っているのは、アグノエルがどこか地方の町の出身であり、その出自は相当に貧しかったらしいということだけだった。
噂によれば、彼はどこかの町で警官職に付いていたが、パリに潜伏したと見られた逃亡犯を探し出す応援のためにある時呼び出されたのだという。そして彼はパリで「他の警官達も驚くほどの」活躍を見せ、あっさりとその犯罪者を逮捕してみせた。その働きは警視総監の耳にまで届くほどのものであり、アグノエルはそのままパリ付きとなったのだという。
だがその「もっともらしい」噂の他にもっと小さな声で囁かれている噂も、カズヌーヴは耳にしていた。その陰湿な内容に眉を顰めながらも、意識の片隅には残してあった。
曰く、アグノエルがパリ付きとなったのは、警視庁上層部の「誰か」が彼を「見染めた」からなのだという。その「誰か」が自分の手の届くところに彼を置きたがったからこそ、アグノエルは半ば強引な人事異動によってパリに置かれたのだと。
同性間の性交渉は罪に当たるが、存在しないわけではない。特に娯楽のない徒刑場では半ば公然と行われていたそれにカズヌーヴ自身は全く興味がなかったが、知識としては知っている。
アグノエルのような抜き身のナイフにも似た気配を発散させている男を「どうこう」したいなどとはカズヌーヴ自身は少しも思わないが、それをしたいと望む者は少なくないのだろうことも分かっていた。アグノエルは確かに、時折はっとするほど美しく見える男だった。
艶かしいだとか色っぽいだとか、そうした形容の似合う男ではない。むしろそうした色事の気配を全て切り捨てたようなあまりにも清らかな「美しさ」を、アグノエルは持っている。
触れた手が凍りつくような氷像の美、誰も踏み荒らすことのできない断崖の新雪の美。そうした硬質で冷徹な気配を、アグノエルは確かに持っている。
アグノエルはカズヌーヴに対して、慇懃だが冷ややかな態度を決して崩さない。カズヌーヴもアグノエルを、わざわざ歩み寄る必要のある相手だとは全く思っていなかった。
カズヌーヴが取り仕切っている保安警察はアグノエルの属する刑事部の下に置かれながらもほとんど独立した権限を持ち、建物自体も分けられている。そのこともあって両組織の人員は互いに敵愾心を持っているが、アグノエルのあまりにも冷淡な態度の理由はきっとそれだけではない。その理由も、カズヌーヴにはおおよそ察しがついていた。
何のことはない。叩き上げの刑事であり、自他に対して厳格な性格をしているアグノエルは、犯罪者上がりであるカズヌーヴを軽蔑しているのだ。それが唯一にして絶対の、彼なりの理由なのだろう。
そうと知っていても、カズヌーヴにはどうするつもりもなかった。過去を変えることは誰にもできない。さほど関わりを持たずに日々を過ごせる程度の間柄であるアグノエルに対して理解や同情を求める必要もないし、アグノエルがそれらをカズヌーヴに投げかけるとも全く思えない。二人の歩む道は隔たっており、そのことにも何の不都合もない。
これからもアグノエルと自分は、必要最低限の関わりしか持たずに仕事を続け、どちらかが職を辞すれば縁は切れるのだろう。カズヌーヴは、疑いもなくそう信じていた。
* * *
目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。
驚いて思わず身を起こしたカズヌーヴは、周りを見回して飛び上がりそうになった。身を横たえていた寝台がぎしっと軋む音。だが隣で眠っていたその男アグノエルは、まだ目を覚まさない。
慌てて着衣を確認するが、乱れはない。眠っているアグノエルもきちんと衣服を身につけている。そのことに少しだけ胸を撫で下ろし、カズヌーヴはそろそろと寝台を降りた。
改めて部屋を見回して、思わず眉根を寄せた。見覚えの全くない部屋だった。向こうの壁には一枚の扉。窓はなく、調度類もほとんどない。あるのは今はアグノエルだけが眠っている大きな寝台、小さな脇机、そしてその上に置かれている小瓶だけだった。
どうして自分がここにいるのか、いつの間にここにやってきたのか、あるいは連れてこられたのか、何もカズヌーヴには分からない。だが、分からないことばかりのままにはしていられない。まずは現状を把握しようと、カズヌーヴは扉に向かって歩き出した。
寝台の軋みに、その脇で考えに耽っていたカズヌーヴは我に返った。少し迷ってから、目覚めたアグノエルがすぐにはカズヌーヴを見つけないだろう場所に立ち位置を変える。きっと驚きを見せるだろうアグノエルに対して、カズヌーヴは少しでも優位に話を運びたかった。
目を開けたアグノエルは、まだ覚めきらない様子でぼんやりと部屋を見回した。意外に寝起きは悪いのかもしれない。現実逃避のようにそう考えながら、カズヌーヴは起きあがろうとするアグノエルの顔を覗き込んだ。
「目が覚めたかい?」
「っ!?」
思いがけなかったらしいアグノエルが息を呑む。少しでも驚いた顔をしているこの男を見たのは初めてだとカズヌーヴが考えていると、意表を突かれていたらしいアグノエルが半信半疑らしい声で呼びかけてきた。
「……カズヌーヴ、さん?」
「気分はどうかな?」
ひとまず礼儀として尋ねると、困惑げな色を微かに浮かべていたアグノエルがまたその表情を濃くした。言葉に迷うように数秒置いて、答えてくる。
「……問題ありません」
「そうか」
返事をしながら起き上がったアグノエルに、その動作の滑らかさに、カズヌーヴも胸を撫で下ろす。状況はまだ何も進展していないが、悪化もしていない。どう話を切り出そうかと考えていたカズヌーヴに、今度は部屋を見回したアグノエルが尋ねてきた。
「……この、部屋は?」
「私にも分からないんだ。家で休んでいた筈なのに、気付いたらここに居てね」
事実を述べると、アグノエルの眉が微かにしかめられた。彼も半ば予想はしていたのだろうが、何の役にも立たないカズヌーヴの返答が不快だったのだろう。その表情のままに寝台を降りた彼の目が扉に向けられるので、カズヌーヴは先んじて伝えた。
「君が起きる前に少し確かめたけれど、扉はびくともしなかった。……力には自信があるのだけれどね」
「……そうですか」
扉を指差しながら事実を述べると、まだ眉を寄せているアグノエルはそれだけ答えた。何か考え込んでいるようにも見えるその態度を怪訝に思いながらも、他に言葉を見つけられないカズヌーヴは「それ」を伝えることにした。
「それと……」
「それと?」
言いかけると、まだ眉を寄せているアグノエルがその表情のまま目を向けてくる。氷色の瞳が探るように見つめてくる。思わず目を逸らしながら、カズヌーヴはやっとそれを伝えた。
「扉に、妙な貼り紙が」
「貼り紙?」
鸚鵡返しに答えたアグノエルの声がどこか不自然な響きを帯びていたように感じ、カズヌーヴは視線を戻した。だがその時には既にアグノエルは扉に向かって歩き出していたから、カズヌーヴはその背中を見送る他ない。
急かす必要も、先延ばしにする必要も、共にない。アグノエルもあと二秒もせずに、それを読み取るだろう。無機質な、印刷されたような文字で、黒々と書かれていた短い一文を。
『セックスしないと出られない部屋』
アグノエルはどんな反応を示すだろう。常は落ち着き払っている彼も、少しでもうろたえ、困惑を見せるのか。あるいはそれ以上に、こちらが驚くほどに狼狽し慌てるのか。彼がどんな態度に出てもいいようにと、カズヌーヴが幾つかの場合を想定していた時だった。
「……?」
肌に触れる空気が変わったように感じて、カズヌーヴは顔を上げた。空気を一変させた本人であろうもう一人に、怪訝に思いながら声をかける。
「アグノエル君?」
カズヌーヴの呼びかけに、扉の前に立ち尽くしていたアグノエルはゆっくりと振り返った。その表情には、カズヌーヴが予想していた怒りや羞恥や戸惑いは全くなかった。そのことにカズヌーヴは少しばかり驚かされる。
表情のない、アグノエルの氷色の瞳。温度のない眼差しが確かめるように、あるいは品定めするように、カズヌーヴを見る。そしてふいと目を逸らして、アグノエルはつかつかと寝台に歩み寄った。
「……アグノエル君?」
「……手短かに済ませましょう」
怪訝に思いながらもう一度呼ぶと、淡々とした声が投げ返される。その真意を確かめる暇もなかった。
寝台の脇に立ったアグノエルが、躊躇いもせずに服を脱ぎ出した。思ってもみなかった彼の行動に、カズヌーヴは慌てふためく。
「ア、アグノエル君!?」
「……」
狼狽したカズヌーヴが声を上げても、押し黙ったままのアグノエルは答えなかった。黙りこくったままクラヴァットを引き抜き、ジレを脱ぎ捨て、シャツのボタンに手を掛ける。するすると全てを脱ぎ去ったアグノエルは、そこに至ってようやくまたカズヌーヴに視線をよこした。薄い唇が動く。
「私も貴方も忙しい。早く終わらせるに越したことはないでしょう」
感情のない瞳で言い捨てたアグノエルが、どこか無造作な態度で寝台に腰掛けた。カズヌーヴの目を見据えて唇だけで笑む。
「……どちらが、お好みですか?」
「どちら、とは……?」
アグノエルの何も纏わない下肢から努めて意識を逸らしながら、カズヌーヴはようやくそれだけを尋ねた。目を逸らしたいのに、背を向けたいのに、それができない。アグノエルに絡め取られた視線を、引き剥がせない。
見透かしたように、アグノエルは薄っぺらい笑みを少しだけ深めた。意図して軽薄に響かせていると分かる声で説明を付け加える。
「あなたが私を抱くか、私があなたを抱くか、どちらか一つでしょう。……ああ、もう結構。承りました」
カズヌーヴの動揺を見透かしたらしいアグノエルが薄く笑う。そして彼はカズヌーヴの目を見据えたまま、見せつけるように脇机から小瓶を取り上げた。やはりカズヌーヴから目を離さないままに、自分の手にその中身を垂らす。薔薇の香りがふわりと漂った。
香油を絡ませた指を、アグノエルがこれ見よがしにゆっくりと下肢に運んだ。そして、その動きをつい目で追ってしまったカズヌーヴが我に返るより早く、その指は彼自身の後孔に無造作に差し入れられる。
「っ!?」
「は……っ、ふふ、しばし、お待ちを……」
苦しげな息を吐きながら、アグノエルは笑って呟いた。その指が慎ましい窄みを暴いていくのを、カズヌーヴは目を逸らすことも忘れて食い入るように見つめる。
香油で濡れた人差し指で自身の秘所を探っていたアグノエルが、小さく呼吸を整える声。そしてためらいのない様子で、中指が同じ場所に潜り込む。
「ん……っ、は、ぁ……」
努めて呼吸を繰り返しているらしい、アグノエルの濡れた吐息。くちゅ、ぬちゅ、と湿った音がカズヌーヴの耳を犯す。あまりにも背徳的で淫靡な光景から、カズヌーヴは視線を逸らすことができない。
「ふ、ぁ、っん……!」
切れ切れに喘ぎを漏らすアグノエルは、いつの間にか四本に増えた指で彼の後孔を苛んでいる。呆然とそれを見つめたカズヌーヴは、ようやく視線を背けることを思い出した。
「っ、す、すまない!」
慌てて背中を向け、震える息を吐く。燃えるように体が熱を帯びているのを感じる。淫らな熱が、腹の奥底でわだかまっている。思わず自分の肘を掴んだカズヌーヴの耳に、アグノエルの笑い声が届いた。
「……来て、くださらないのですか……?」
「っ!?」
思わず振り返ってしまってから、そうしたことを後悔する。淫らな光を灯して光るアグノエルの眼に、また視線を絡め取られたから。
もうカズヌーヴは、アグノエルから目を逸らせない。それを見透かしたようにアグノエルはまた笑い、そして甘やかな声で囁くように言った。
「早く……もう、待てない」
ゆっくりと、アグノエルの指が後孔から引き抜かれる。ぬるりと光るその指が、今度は自身の膝を無造作に掴んだ。そしてカズヌーヴに見せつけるように、いや、まさしくカズヌーヴに見せつけるために、その長い脚が大きく開かれる。
ぽってりと薄赤く腫れた窄みは、物欲しげにひくついている。早く征服されたいとばかりに収縮して、カズヌーヴの蹂躙を待ち侘びている。食い入るようにその場所を見つめていた自分をカズヌーヴは戒めようとしたが、間に合わなかった。
「カズヌーヴさん」
甘やかな声が、偽りに塗れた名前を呼ぶ。その響きが、あっけなく理性を崩壊させた。
夢遊病者のように、カズヌーヴはふらふらとアグノエルに歩み寄っていた。氷の色の瞳を冷たく光らせて口元だけで笑っていたアグノエルの前に立つ。アグノエルは満足げに笑みを深め、少しだけ目を細めた。
カズヌーヴが腰を屈めて口付けようとすると、唇だけで笑っているアグノエルの表情が僅かに揺れた。だが怪訝に思ったカズヌーヴが尋ねる前に、彼はまた口元に笑みを貼り付ける。その唇が動いた。
「お気遣いは無用です。ただ『セックス』に付き合ってくだされば」
澱みのない口調で言いきったアグノエルの手が、カズヌーヴの襟を掴んで引き寄せる。抗わずに身を寄せると、薄い唇がカズヌーヴの顎の下に押し当てられた。
やんわりと薄い皮膚を甘噛みされ、同じ場所を舌が這う。驚くほど熱い舌先だった。その濡れた感触に、カズヌーヴの腰の奥の劣情がまた一層燃え上がる。
「アグノエル……」
呼びかけた声は欲情に掠れていた。それをカズヌーヴが恥じるより早く、ゆっくりと顔を離したアグノエルが見上げてくる。そしてアグノエルは、淫らに笑った。
「あなたが欲しい」
甘やかに囁いたアグノエルの腕が、するりとカズヌーヴの首筋に絡みつく。そしてそのまま、アグノエルは仰向けに倒れ込んだ。咄嗟に寝台に手をついたカズヌーヴを見上げて、アグノエルがまた笑う。形の良い唇が、吐息だけで囁いた。
「抱いてください。カズヌーヴさん」
背徳だ、恥ずべきことだ、神に背く行いだ。そう訴えていた理性の声さえ、もう聞こえない。
アグノエルの痴態に煽られたその場所は、カズヌーヴの欲望は、痛いほどに張り詰めて自分を主張している。性急に衣服を脱ぎ捨てたカズヌーヴは、淫らな笑みを浮かべてそれを見守っていたアグノエルに再度覆い被さった。興奮に掠れる声で囁きかける。
「挿れるよ」
「早く……」
甘える響きのある声で答えたアグノエルが、また首に腕を絡めてくる。耳元にアグノエルの顔が寄せられ、耳朶をやや強く甘噛みされる。その感触に身震いしてから、カズヌーヴはアグノエルの内に踏み込んだ。
「っ、……!」
「息をして」
思わずと言った様子で息を詰めたアグノエルに囁きかけ、その髪を撫でる。震えながら小さく頷いたアグノエルが細く息を吸う気配。その髪に口付けながら、カズヌーヴはゆっくりと腰を進めた。
かたかたと震えている大きな体を抱きしめ、狭く熱い場所に強引に割り入っていく。異物に怯えて閉じようとする体を、容赦なく暴いていく。ようやく全てを納め切る頃には、二人とも息が上がっていた。
「っ……、っ、ぁ……」
「は……大丈夫、か?」
苦しげな声を漏らしているアグノエルに囁きかけ、顔を覗き込もうとする。嫌がってカズヌーヴの肩に顔を隠そうとするのを許さず、無理に引き剥がしてその目を覗き込んだ。
ぼやけた瞳に苦痛を浮かべるアグノエルは、言葉なく微かに頷いた。憐れみを誘う筈のその様子にまた欲情を深めている自分に気付き、カズヌーヴは動揺する。それを見透かしたように、苦しげな浅い呼吸を繰り返しているアグノエルの唇に小さな笑みが浮かんだ。
「……もう、大丈夫です。早く……」
明らかに無理をしている声音で、けれど甘えと媚をたっぷりと乗せた声で、アグノエルがそうねだった。また肩口に顔を寄せられ、熱い舌に耳を舐られる。その感触にまた身震いして、カズヌーヴはためらいながらアグノエルの腰を掴んだ。
「……つらくなったら、言ってくれ」
「はい」
アグノエルの声に滲んだ嘲るような響きが、返事の早さが、少し気に掛かった。けれどもう、カズヌーヴも耐えきれなかった。
「っ、……!」
「息をするんだ」
カズヌーヴがゆっくりと腰を使い始めると、腕の中のアグノエルの体がはっきりと強張った。息を詰める気配に気付いたカズヌーヴが掠れる声で諭すと、アグノエルが微かに頷く。
できる限り穏やかに抽送しても、アグノエルの体は強張りを解かない。苦しげに乱れる呼吸、聞き漏らしそうに微かな苦痛の声。
「痛く、ないかい?」
囁きかけながら、カズヌーヴは自分を嫌悪した。浅ましい自分の本音を、はっきりと感じ取ってしまったから。
痛くない筈がない。苦しくない筈がない。こんなものは、アグノエルにとっては苦痛と屈辱しかない行為の筈だ。分かっているのに尋ねてしまったのは、否定してほしかったからに違いなかった。
「問題、ありませ……っ、から、早く……!」
カズヌーヴの浅ましい本音を見透かしていない筈はないのに、アグノエルの苦しげな返答には迷いがなかった。その従順とも取れる答えに、カズヌーヴの胸はまた罪悪感に締め付けられる。
早く終わりにしたいと。早く済ませて、この忌まわしい部屋を後にしたいと。きっとそれだけを願って、アグノエルは耐えている。ならばできる限り早く望みを叶えてやること以外に、カズヌーヴにできることはない。
そう決めて、腰の動きを再開しようとする。だがふと気に掛かって、カズヌーヴの肩にしがみつくようにして顔を隠しているアグノエルの顔を上げさせた。
「っ」
「顔を見せて」
抗おうとしたアグノエルも、カズヌーヴの囁くような命令で諦めたらしかった。せめてもの抵抗のように目を閉じて、僅かに顔を背ける。だがカズヌーヴが腰の動きを再開すると、その整ったかんばせにははっきりと苦痛の影がよぎった。
「っ、ぁ……は、っ……!」
苦しげな声、苦悶の表情。きつく目を閉じて、アグノエルは耐えている。胸の中では確かに軽蔑しているに違いないカズヌーヴにその体を差し出して、痛苦と屈辱を必死で堪えている。あまりにも従順で、いじらしくさえあるその態度。
憐れみのような感情が、カズヌーヴの胸にせり上がった。抱きしめていたわってやりたいような、そんなにまでして耐えなくともいいのだと言い諭してやりたいような、そんな想いが胸を貫く。けれどアグノエルも、そんなことは望んでいない。前科者を彼は愛さない。
だからカズヌーヴは何も言わずに、黙って手を伸ばしてアグノエルの中心を擦り上げた。途端に、組み敷いた体がびくんと跳ねる。
「ぁ、な、にを……!」
「君も気持ち良くならないと、セックスじゃないだろう」
うろたえたアグノエルの声を、意識的に強めた語調で撥ねつけた。顔を上げたアグノエルは、はっきりと狼狽を眼に宿して首を横に振った。
「い、やです……!」
「我慢して」
そっけなく言い捨てながら、尚もアグノエルの熱を扱き上げる。喉の奥で悲鳴を漏らしたアグノエルが、無意識のように肩に爪を立ててきた。小さな痛みが一層カズヌーヴの熱を煽り立てる。
劣情を刺激するたびに、アグノエルの体がほどけていく。カズヌーヴに対して開かれ、明け渡されていく。感動に似た想いに胸を熱くして、カズヌーヴは夢中でアグノエルを求めた。
「ぃや、嫌です、カ、ズ……!」
「あと少しだから」
宥めながら先走りを塗り込めるようにしてやり、腰の動きを激しくする。切れ切れなアグノエルの呼吸、触れ合う肌の燃えるような温度。
互いに限界が近いのが分かる。嫌々と首を振るアグノエルを強く抱きしめて、宥めるようにその額に口付けを落としながら、カズヌーヴは腰の動きを速めた。
忙しなくなっていく呼吸、獣めいた吐息。そしてほぼ同時に、絶頂を極めた。
「っ、――!」
「う……っ、アグノエル……!」
アグノエルの声にならない悲鳴。背中を丸めるようにして達した彼の、快感よりも苦悩に塗りつぶされた表情。腹をしとどに濡らしていく熱い飛沫を感じながら、カズヌーヴはアグノエルの中に欲望を注ぎ込んだ。
息を弾ませながら、カズヌーヴはぐったりと寝台に沈むアグノエルを見下ろした。虚ろに虚空へ向けられた氷色の眼。つうっと一筋溢れた涙は快感のためか、それとも屈辱のゆえか。半ば開いて呼吸を繰り返す唇の、果実のような鮮やかな色。
目に焼き付くその赤色に、カズヌーヴはほとんど無意識に顔を寄せて口付けようとした。だが、ゆるく首を逸らして拒まれた。
寝台を降りて衣服を身に着けながら、カズヌーヴはちらりとアグノエルを振り返った。
のろのろとした動きで寝台の上に起き上がってから、アグノエルは身じろぎ一つしない。俯き背けた顔、乱れた髪。逞しくさえあるその白い肩が、今だけはひどく儚く心細げに見えた。
だからつい、体が動いていた。ふしだらに床に投げ捨てられたままだった彼のシャツを拾い上げて、歩み寄っていた。
「風邪を引くよ」
白い肩にシャツを被せて囁く。ゆるりと顔を上げたアグノエルは、皮肉げな笑みを形作った。
「……お気遣い、痛み入ります」
他人行儀な態度。慇懃だが冷ややかな拒絶。それはいつもアグノエルの態度と大差のないものの筈なのに、何故か胸がちくりと痛んだ。
君にとっては何でもないのか、体を繋ぐことなど、体を明け渡すことなど。思わず、そう問い詰めてやりたくなる。
だがカズヌーヴが心無い言葉でなじってしまう前に、アグノエルはまた顔を背けてしまった。色のない指がシーツを握りしめる。
「……一人に、していただけますか」
また俯いてシーツを引き寄せながら、掠れた声が呟いた。その態度で、カズヌーヴもようやく理解する。
何でもない筈がなかった。アグノエルは深く傷ついている。何とも思っていなそうな態度を取り繕うことで、彼は彼自身を守ろうとしているのだ。
分かってやれなかった自分を反省しながら、カズヌーヴは身支度を再開した。きっと今のアグノエルにとっては顔も見たくない相手だろう自分が、いつまでも居座ってはいられないから。
だが一つだけ、アグノエルに言っておきたいことがカズヌーヴにはあった。言わずに立ち去ることのできない言葉があった。だから衣服を纏い終えたカズヌーヴはもう一度寝台に歩み寄り、気配に顔を上げたアグノエルの目を覗き込んだ。
「……カズヌーヴさん?」
「約束してくれ。必ずこの部屋から出て、また私と会ってくれると」
怪訝そうに呼びかけてきたアグノエルに、そう囁きかける。その約束を結んでくれるまでは立ち去らないと、意志を視線に込めた。
アグノエルは義務を投げ出すような男ではないと、職務に誇りを持っている人だと、カズヌーヴはよく知っている。けれどこの部屋で行われた辱めが彼の自尊心を打ち砕いてしまってはいないかと、職務への誇りさえも失わせてはいないかと、カズヌーヴは不安だった。
不思議そうな顔で、アグノエルは瞬いた。あどけないとさえ呼べそうな色をした薄氷色の瞳が、きょとんとカズヌーヴを見上げる。そして、アグノエルは綺麗に笑った。
「お約束しましょう」
「……約束だよ」
「必ず」
迷いのない口調で結んでくれた約束に、カズヌーヴはまだ不安を残しながらも引き下がらざるを得なかった。未練に似た思いを持て余しながら、アグノエルの手にそっとキスを落とす。そしてゆっくりと立ち上がり、カズヌーヴは部屋を出た。
* * *
目を開けると、見慣れた自室の天井が視界に移った。そのことに安堵しながら、カズヌーヴは身を起こす。
体を動かしてみても違和感はない。懐中時計を確かめると、普段目覚める時間よりも少し早かった。ならば早めに出勤しようと決めて身支度を始めながら、カズヌーヴの心は昨夜の夢へと舞い戻っていく。
淫らで奇妙な夢のことは、隅々まで覚えている。この腕に抱いたアグノエルの肌の温度も、その体の切なげな震えも、苦しげな吐息も、ありありと思い出せる。ただの夢にしてはあまりにも生々しい感触が、カズヌーヴの体に染み付いていた。
身支度をしながら肩や背中を確かめても、アグノエルに爪を立てられた傷は全く存在しない。そのことに落胆している自分に気付き、カズヌーヴは動揺した。
朝食を済ませて家を出た。名前も知らないパリの民衆とすれ違いながら警察署の方へと向かう。普段の朝と何も変わらないだった。
だが、カズヌーヴが何事もなく保安警察の建物に辿り着いて胸を撫で下ろしていた時、その男は現れた。夜勤だったらしいアグノエルが戸口に姿を現し、朝の光に目を細める。そして、カズヌーヴに気付いたらしかった。
「……っ!」
「……カズヌーヴさん」
低い声で呼んだアグノエルが、ためらう様子もなく歩み寄ってくる。思わず後退りそうになったカズヌーヴには頓着しない様子で近づいてきて、アグノエルは軽い礼をした。
顔を上げたアグノエルが僅かに表情を揺らすのが、カズヌーヴには見えた。それは軽蔑だったろうか、羞恥や屈辱だったろうか。
「何か」
「あ……いや」
あまりにも「いつも通り」なアグノエルの態度に困惑しながら、カズヌーヴは言葉を濁した。何を言えばいいのか分からない。あの「淫夢」のことを確かめたいが、こんな往来でする話ではないだろう。
「……約束、を」
「……約束?」
苦し紛れにカズヌーヴが差し出した語句に、アグノエルは何の反応も示さなかった。眉ひとつ動かさずに、なんのことか分からないとばかりに呟く声。そのことに衝撃を受けている自分にこそ打ちのめされながら、カズヌーヴは努めて自然な笑顔を取り繕った。
「……いや。私の勘違いだ。すまない」
「左様ですか」
やはり表情も変えないアグノエルに挨拶をして、カズヌーヴはそそくさとその場を離れた。探るように絡みついてくる視線を背中に感じる。
ようやく慣れ親しんだ事務室に逃げ込んだカズヌーヴは、思わず震える息を吐いた。当然のことだと自分に言い聞かせようとする。
アグノエルが「覚えていない」のも当たり前だ。あれはただの夢、単なる幻。現実のアグノエルとは何の関係もない。朝露と共に、全ては消えたのだ。そのことは、こんなにも分かっているのだ。なのにアグノエルの肌の温度を、カズヌーヴの手はまだ覚えていた。
その僅か一週間後にカズヌーヴは「あまりにも法を逸脱した」捜査手法を何者かに告発され、職を失い裁判にかけられることとなった。
・参考資料(パリ警視庁の組織)
鹿島茂『失われたパリの復元 バルザックの時代の街を歩く』新潮社、2017年
「カズヌーヴさん、失礼しても?」
「ああ、アグノエル君。どうぞ」
友好的に微笑んで促しても、刑事部のジョルジュ・アグノエル警部はやはり顔色ひとつ変えなかった。氷の彫像にも似た年下の同僚はただ常の無表情のまま僅かに顎を引き、迷いのない足取りでカズヌーヴの事務室に入ってくる。
敵ではないが、長々と会話したい相手でもない。だから失礼にならないように努めながらもさっさと追い返そうと、カズヌーヴはアグノエルが口を開く前に話を切り出した。
「例の資料だろう? そこにまとめてあるよ」
「痛み入ります」
まるで感謝の念を感じさせない声音で淡々と答えたアグノエルが、カズヌーヴが指し示した紙の束を机から取り上げる。もう用はないとばかりに出て行こうとするアグノエルをカズヌーヴは見るともなしに見送り、出て行く前に振り向いたアグノエルの目と視線を交わした。冷淡な蔑みが、ちらりと氷の色の瞳に浮かぶのが見えた。
「失礼いたしました」
慇懃だがやはり冷ややかな声音でそれだけ言い残し、アグノエルは来た時と同じく乱れのない歩調で立ち去っていった。小さくなっていく足音を聞きながら、カズヌーヴは思わず苦笑いしてしまう。最初に顔を合わせた時から全く変わらないアグノエルの冷淡な態度が、カズヌーヴにはいっそ面白くさえ思えた。
カズヌーヴは投獄された経歴を持つ前科者であり、そして同時に正式な資格を持つ警察官だ。その一般的には「奇妙」な来歴は、彼の属する保安警察の中ではそれほど珍しがられるものでもない。
ここパリから遠く離れた寒村の小作人の子として生まれたカズヌーヴは生まれてすぐに母親を、物心つく前に父親を亡くし、その時には既に結婚していた姉によって育てられた。歳の離れた姉はカズヌーヴを育てることが負担であるという態度を隠さなかったが、彼には他に頼る者がなかった。
カズヌーヴが「一人前に」働ける年齢になる頃、一家の拠り所であった義兄が病に倒れ、すぐに他界した。それ以来はカズヌーヴが一家の稼ぎ手となったが、瓦解は思いがけず早く訪れた。
姉夫婦には六人の子供があった。食べさせなければならない口は多く、働き手はカズヌーヴと姉の二人しかいない。追い打ちをかけるように旱魃が村を襲った。カズヌーヴと姉が必死で耕した畑は実りをつけないまま、長く暗い冬が降り立った。
その日の暮らしさえも成り立たない極貧の生活に耐えかねて、カズヌーヴは小さな盗みを重ねた。それらの罪はやがて露見し、捕縛された彼は四年の懲役を言い渡されてブレスト徒刑場に送られた。カズヌーヴが二六歳の時だった。
冷たい雨に閉ざされたその地獄からの脱走を企てることも、カズヌーヴにはできたのだろう。実際に脱獄に走る囚人仲間も幾人もいた。だが、カズヌーヴはそうしなかった。
脱獄に失敗すれば刑期は延びる。逃げ出した囚人達はすぐに捕まって連れ戻されてくる。四年という月日は長いが、永遠ではない。その三つの事実を考え合わせ、カズヌーヴは「模範囚」であることを自分に課した。
徒刑場には囚人のための学校があり、それまでは自分の名を書くことしか知らなかったカズヌーヴも読み書きと計算を習い覚えた。カズヌーヴは覚えたての文字を組み合わせて姉に何度も手紙を書き送り、必ず帰るから耐えてくれと繰り返し伝えた。返事は一度も届かなかった。
やがて四年の刑は明けようとしたが、釈放されるカズヌーヴには行く宛てが無かった。姉とその子らのもとに帰ることを、彼は既に諦めていた。一家の消息は途絶えており、金を送ることさえできなかった。
カズヌーヴに手を差し伸べる者が現れなければ、彼は遅かれ早かれ社会の最底辺に横たわる闇に呑まれていったのだろう。だが模範囚として刑期を務め上げ、出所していこうとするカズヌーヴは、思いがけなかった提案を受けた。
「パリで警察の密偵にならないか? 悪い話ではないと思うがな」
獄中で他の囚人達とも「まあまあ上手くやって」いたカズヌーヴには、様々な犯罪やその手口についての知識があった。パリ警視庁には組織設立に関わった「偉大なる大悪党」フランソワ・ヴィドックの打ち立てた耀かしい前例が既にあり、彼と同様に警察に身を置くようになった密偵は既に幾人もいた。カズヌーヴもその道を辿ることに誰からの反対も出る筈はなく、彼自身も異論のあろう筈もなかった。
パリ警察のために犯罪者達の間に紛れたカズヌーヴは、その暗く澱んだ場所からたくさんの秘密を探り当てた。それらの品質も頻度も、他の密偵達とは比べ物にならないほどのものだった。彼が密偵から「足を洗い」、他の密偵達を統率する側となったのは、彼が四三歳の時だった。
警部アグノエルの来歴を、カズヌーヴはあまり知らない。個人的なことを話すような間柄では元よりないし、そもそもにして尋ねるほどの興味もない。だからカズヌーヴが知っているのは、アグノエルがどこか地方の町の出身であり、その出自は相当に貧しかったらしいということだけだった。
噂によれば、彼はどこかの町で警官職に付いていたが、パリに潜伏したと見られた逃亡犯を探し出す応援のためにある時呼び出されたのだという。そして彼はパリで「他の警官達も驚くほどの」活躍を見せ、あっさりとその犯罪者を逮捕してみせた。その働きは警視総監の耳にまで届くほどのものであり、アグノエルはそのままパリ付きとなったのだという。
だがその「もっともらしい」噂の他にもっと小さな声で囁かれている噂も、カズヌーヴは耳にしていた。その陰湿な内容に眉を顰めながらも、意識の片隅には残してあった。
曰く、アグノエルがパリ付きとなったのは、警視庁上層部の「誰か」が彼を「見染めた」からなのだという。その「誰か」が自分の手の届くところに彼を置きたがったからこそ、アグノエルは半ば強引な人事異動によってパリに置かれたのだと。
同性間の性交渉は罪に当たるが、存在しないわけではない。特に娯楽のない徒刑場では半ば公然と行われていたそれにカズヌーヴ自身は全く興味がなかったが、知識としては知っている。
アグノエルのような抜き身のナイフにも似た気配を発散させている男を「どうこう」したいなどとはカズヌーヴ自身は少しも思わないが、それをしたいと望む者は少なくないのだろうことも分かっていた。アグノエルは確かに、時折はっとするほど美しく見える男だった。
艶かしいだとか色っぽいだとか、そうした形容の似合う男ではない。むしろそうした色事の気配を全て切り捨てたようなあまりにも清らかな「美しさ」を、アグノエルは持っている。
触れた手が凍りつくような氷像の美、誰も踏み荒らすことのできない断崖の新雪の美。そうした硬質で冷徹な気配を、アグノエルは確かに持っている。
アグノエルはカズヌーヴに対して、慇懃だが冷ややかな態度を決して崩さない。カズヌーヴもアグノエルを、わざわざ歩み寄る必要のある相手だとは全く思っていなかった。
カズヌーヴが取り仕切っている保安警察はアグノエルの属する刑事部の下に置かれながらもほとんど独立した権限を持ち、建物自体も分けられている。そのこともあって両組織の人員は互いに敵愾心を持っているが、アグノエルのあまりにも冷淡な態度の理由はきっとそれだけではない。その理由も、カズヌーヴにはおおよそ察しがついていた。
何のことはない。叩き上げの刑事であり、自他に対して厳格な性格をしているアグノエルは、犯罪者上がりであるカズヌーヴを軽蔑しているのだ。それが唯一にして絶対の、彼なりの理由なのだろう。
そうと知っていても、カズヌーヴにはどうするつもりもなかった。過去を変えることは誰にもできない。さほど関わりを持たずに日々を過ごせる程度の間柄であるアグノエルに対して理解や同情を求める必要もないし、アグノエルがそれらをカズヌーヴに投げかけるとも全く思えない。二人の歩む道は隔たっており、そのことにも何の不都合もない。
これからもアグノエルと自分は、必要最低限の関わりしか持たずに仕事を続け、どちらかが職を辞すれば縁は切れるのだろう。カズヌーヴは、疑いもなくそう信じていた。
* * *
目を覚ますと、見知らぬ部屋にいた。
驚いて思わず身を起こしたカズヌーヴは、周りを見回して飛び上がりそうになった。身を横たえていた寝台がぎしっと軋む音。だが隣で眠っていたその男アグノエルは、まだ目を覚まさない。
慌てて着衣を確認するが、乱れはない。眠っているアグノエルもきちんと衣服を身につけている。そのことに少しだけ胸を撫で下ろし、カズヌーヴはそろそろと寝台を降りた。
改めて部屋を見回して、思わず眉根を寄せた。見覚えの全くない部屋だった。向こうの壁には一枚の扉。窓はなく、調度類もほとんどない。あるのは今はアグノエルだけが眠っている大きな寝台、小さな脇机、そしてその上に置かれている小瓶だけだった。
どうして自分がここにいるのか、いつの間にここにやってきたのか、あるいは連れてこられたのか、何もカズヌーヴには分からない。だが、分からないことばかりのままにはしていられない。まずは現状を把握しようと、カズヌーヴは扉に向かって歩き出した。
寝台の軋みに、その脇で考えに耽っていたカズヌーヴは我に返った。少し迷ってから、目覚めたアグノエルがすぐにはカズヌーヴを見つけないだろう場所に立ち位置を変える。きっと驚きを見せるだろうアグノエルに対して、カズヌーヴは少しでも優位に話を運びたかった。
目を開けたアグノエルは、まだ覚めきらない様子でぼんやりと部屋を見回した。意外に寝起きは悪いのかもしれない。現実逃避のようにそう考えながら、カズヌーヴは起きあがろうとするアグノエルの顔を覗き込んだ。
「目が覚めたかい?」
「っ!?」
思いがけなかったらしいアグノエルが息を呑む。少しでも驚いた顔をしているこの男を見たのは初めてだとカズヌーヴが考えていると、意表を突かれていたらしいアグノエルが半信半疑らしい声で呼びかけてきた。
「……カズヌーヴ、さん?」
「気分はどうかな?」
ひとまず礼儀として尋ねると、困惑げな色を微かに浮かべていたアグノエルがまたその表情を濃くした。言葉に迷うように数秒置いて、答えてくる。
「……問題ありません」
「そうか」
返事をしながら起き上がったアグノエルに、その動作の滑らかさに、カズヌーヴも胸を撫で下ろす。状況はまだ何も進展していないが、悪化もしていない。どう話を切り出そうかと考えていたカズヌーヴに、今度は部屋を見回したアグノエルが尋ねてきた。
「……この、部屋は?」
「私にも分からないんだ。家で休んでいた筈なのに、気付いたらここに居てね」
事実を述べると、アグノエルの眉が微かにしかめられた。彼も半ば予想はしていたのだろうが、何の役にも立たないカズヌーヴの返答が不快だったのだろう。その表情のままに寝台を降りた彼の目が扉に向けられるので、カズヌーヴは先んじて伝えた。
「君が起きる前に少し確かめたけれど、扉はびくともしなかった。……力には自信があるのだけれどね」
「……そうですか」
扉を指差しながら事実を述べると、まだ眉を寄せているアグノエルはそれだけ答えた。何か考え込んでいるようにも見えるその態度を怪訝に思いながらも、他に言葉を見つけられないカズヌーヴは「それ」を伝えることにした。
「それと……」
「それと?」
言いかけると、まだ眉を寄せているアグノエルがその表情のまま目を向けてくる。氷色の瞳が探るように見つめてくる。思わず目を逸らしながら、カズヌーヴはやっとそれを伝えた。
「扉に、妙な貼り紙が」
「貼り紙?」
鸚鵡返しに答えたアグノエルの声がどこか不自然な響きを帯びていたように感じ、カズヌーヴは視線を戻した。だがその時には既にアグノエルは扉に向かって歩き出していたから、カズヌーヴはその背中を見送る他ない。
急かす必要も、先延ばしにする必要も、共にない。アグノエルもあと二秒もせずに、それを読み取るだろう。無機質な、印刷されたような文字で、黒々と書かれていた短い一文を。
『セックスしないと出られない部屋』
アグノエルはどんな反応を示すだろう。常は落ち着き払っている彼も、少しでもうろたえ、困惑を見せるのか。あるいはそれ以上に、こちらが驚くほどに狼狽し慌てるのか。彼がどんな態度に出てもいいようにと、カズヌーヴが幾つかの場合を想定していた時だった。
「……?」
肌に触れる空気が変わったように感じて、カズヌーヴは顔を上げた。空気を一変させた本人であろうもう一人に、怪訝に思いながら声をかける。
「アグノエル君?」
カズヌーヴの呼びかけに、扉の前に立ち尽くしていたアグノエルはゆっくりと振り返った。その表情には、カズヌーヴが予想していた怒りや羞恥や戸惑いは全くなかった。そのことにカズヌーヴは少しばかり驚かされる。
表情のない、アグノエルの氷色の瞳。温度のない眼差しが確かめるように、あるいは品定めするように、カズヌーヴを見る。そしてふいと目を逸らして、アグノエルはつかつかと寝台に歩み寄った。
「……アグノエル君?」
「……手短かに済ませましょう」
怪訝に思いながらもう一度呼ぶと、淡々とした声が投げ返される。その真意を確かめる暇もなかった。
寝台の脇に立ったアグノエルが、躊躇いもせずに服を脱ぎ出した。思ってもみなかった彼の行動に、カズヌーヴは慌てふためく。
「ア、アグノエル君!?」
「……」
狼狽したカズヌーヴが声を上げても、押し黙ったままのアグノエルは答えなかった。黙りこくったままクラヴァットを引き抜き、ジレを脱ぎ捨て、シャツのボタンに手を掛ける。するすると全てを脱ぎ去ったアグノエルは、そこに至ってようやくまたカズヌーヴに視線をよこした。薄い唇が動く。
「私も貴方も忙しい。早く終わらせるに越したことはないでしょう」
感情のない瞳で言い捨てたアグノエルが、どこか無造作な態度で寝台に腰掛けた。カズヌーヴの目を見据えて唇だけで笑む。
「……どちらが、お好みですか?」
「どちら、とは……?」
アグノエルの何も纏わない下肢から努めて意識を逸らしながら、カズヌーヴはようやくそれだけを尋ねた。目を逸らしたいのに、背を向けたいのに、それができない。アグノエルに絡め取られた視線を、引き剥がせない。
見透かしたように、アグノエルは薄っぺらい笑みを少しだけ深めた。意図して軽薄に響かせていると分かる声で説明を付け加える。
「あなたが私を抱くか、私があなたを抱くか、どちらか一つでしょう。……ああ、もう結構。承りました」
カズヌーヴの動揺を見透かしたらしいアグノエルが薄く笑う。そして彼はカズヌーヴの目を見据えたまま、見せつけるように脇机から小瓶を取り上げた。やはりカズヌーヴから目を離さないままに、自分の手にその中身を垂らす。薔薇の香りがふわりと漂った。
香油を絡ませた指を、アグノエルがこれ見よがしにゆっくりと下肢に運んだ。そして、その動きをつい目で追ってしまったカズヌーヴが我に返るより早く、その指は彼自身の後孔に無造作に差し入れられる。
「っ!?」
「は……っ、ふふ、しばし、お待ちを……」
苦しげな息を吐きながら、アグノエルは笑って呟いた。その指が慎ましい窄みを暴いていくのを、カズヌーヴは目を逸らすことも忘れて食い入るように見つめる。
香油で濡れた人差し指で自身の秘所を探っていたアグノエルが、小さく呼吸を整える声。そしてためらいのない様子で、中指が同じ場所に潜り込む。
「ん……っ、は、ぁ……」
努めて呼吸を繰り返しているらしい、アグノエルの濡れた吐息。くちゅ、ぬちゅ、と湿った音がカズヌーヴの耳を犯す。あまりにも背徳的で淫靡な光景から、カズヌーヴは視線を逸らすことができない。
「ふ、ぁ、っん……!」
切れ切れに喘ぎを漏らすアグノエルは、いつの間にか四本に増えた指で彼の後孔を苛んでいる。呆然とそれを見つめたカズヌーヴは、ようやく視線を背けることを思い出した。
「っ、す、すまない!」
慌てて背中を向け、震える息を吐く。燃えるように体が熱を帯びているのを感じる。淫らな熱が、腹の奥底でわだかまっている。思わず自分の肘を掴んだカズヌーヴの耳に、アグノエルの笑い声が届いた。
「……来て、くださらないのですか……?」
「っ!?」
思わず振り返ってしまってから、そうしたことを後悔する。淫らな光を灯して光るアグノエルの眼に、また視線を絡め取られたから。
もうカズヌーヴは、アグノエルから目を逸らせない。それを見透かしたようにアグノエルはまた笑い、そして甘やかな声で囁くように言った。
「早く……もう、待てない」
ゆっくりと、アグノエルの指が後孔から引き抜かれる。ぬるりと光るその指が、今度は自身の膝を無造作に掴んだ。そしてカズヌーヴに見せつけるように、いや、まさしくカズヌーヴに見せつけるために、その長い脚が大きく開かれる。
ぽってりと薄赤く腫れた窄みは、物欲しげにひくついている。早く征服されたいとばかりに収縮して、カズヌーヴの蹂躙を待ち侘びている。食い入るようにその場所を見つめていた自分をカズヌーヴは戒めようとしたが、間に合わなかった。
「カズヌーヴさん」
甘やかな声が、偽りに塗れた名前を呼ぶ。その響きが、あっけなく理性を崩壊させた。
夢遊病者のように、カズヌーヴはふらふらとアグノエルに歩み寄っていた。氷の色の瞳を冷たく光らせて口元だけで笑っていたアグノエルの前に立つ。アグノエルは満足げに笑みを深め、少しだけ目を細めた。
カズヌーヴが腰を屈めて口付けようとすると、唇だけで笑っているアグノエルの表情が僅かに揺れた。だが怪訝に思ったカズヌーヴが尋ねる前に、彼はまた口元に笑みを貼り付ける。その唇が動いた。
「お気遣いは無用です。ただ『セックス』に付き合ってくだされば」
澱みのない口調で言いきったアグノエルの手が、カズヌーヴの襟を掴んで引き寄せる。抗わずに身を寄せると、薄い唇がカズヌーヴの顎の下に押し当てられた。
やんわりと薄い皮膚を甘噛みされ、同じ場所を舌が這う。驚くほど熱い舌先だった。その濡れた感触に、カズヌーヴの腰の奥の劣情がまた一層燃え上がる。
「アグノエル……」
呼びかけた声は欲情に掠れていた。それをカズヌーヴが恥じるより早く、ゆっくりと顔を離したアグノエルが見上げてくる。そしてアグノエルは、淫らに笑った。
「あなたが欲しい」
甘やかに囁いたアグノエルの腕が、するりとカズヌーヴの首筋に絡みつく。そしてそのまま、アグノエルは仰向けに倒れ込んだ。咄嗟に寝台に手をついたカズヌーヴを見上げて、アグノエルがまた笑う。形の良い唇が、吐息だけで囁いた。
「抱いてください。カズヌーヴさん」
背徳だ、恥ずべきことだ、神に背く行いだ。そう訴えていた理性の声さえ、もう聞こえない。
アグノエルの痴態に煽られたその場所は、カズヌーヴの欲望は、痛いほどに張り詰めて自分を主張している。性急に衣服を脱ぎ捨てたカズヌーヴは、淫らな笑みを浮かべてそれを見守っていたアグノエルに再度覆い被さった。興奮に掠れる声で囁きかける。
「挿れるよ」
「早く……」
甘える響きのある声で答えたアグノエルが、また首に腕を絡めてくる。耳元にアグノエルの顔が寄せられ、耳朶をやや強く甘噛みされる。その感触に身震いしてから、カズヌーヴはアグノエルの内に踏み込んだ。
「っ、……!」
「息をして」
思わずと言った様子で息を詰めたアグノエルに囁きかけ、その髪を撫でる。震えながら小さく頷いたアグノエルが細く息を吸う気配。その髪に口付けながら、カズヌーヴはゆっくりと腰を進めた。
かたかたと震えている大きな体を抱きしめ、狭く熱い場所に強引に割り入っていく。異物に怯えて閉じようとする体を、容赦なく暴いていく。ようやく全てを納め切る頃には、二人とも息が上がっていた。
「っ……、っ、ぁ……」
「は……大丈夫、か?」
苦しげな声を漏らしているアグノエルに囁きかけ、顔を覗き込もうとする。嫌がってカズヌーヴの肩に顔を隠そうとするのを許さず、無理に引き剥がしてその目を覗き込んだ。
ぼやけた瞳に苦痛を浮かべるアグノエルは、言葉なく微かに頷いた。憐れみを誘う筈のその様子にまた欲情を深めている自分に気付き、カズヌーヴは動揺する。それを見透かしたように、苦しげな浅い呼吸を繰り返しているアグノエルの唇に小さな笑みが浮かんだ。
「……もう、大丈夫です。早く……」
明らかに無理をしている声音で、けれど甘えと媚をたっぷりと乗せた声で、アグノエルがそうねだった。また肩口に顔を寄せられ、熱い舌に耳を舐られる。その感触にまた身震いして、カズヌーヴはためらいながらアグノエルの腰を掴んだ。
「……つらくなったら、言ってくれ」
「はい」
アグノエルの声に滲んだ嘲るような響きが、返事の早さが、少し気に掛かった。けれどもう、カズヌーヴも耐えきれなかった。
「っ、……!」
「息をするんだ」
カズヌーヴがゆっくりと腰を使い始めると、腕の中のアグノエルの体がはっきりと強張った。息を詰める気配に気付いたカズヌーヴが掠れる声で諭すと、アグノエルが微かに頷く。
できる限り穏やかに抽送しても、アグノエルの体は強張りを解かない。苦しげに乱れる呼吸、聞き漏らしそうに微かな苦痛の声。
「痛く、ないかい?」
囁きかけながら、カズヌーヴは自分を嫌悪した。浅ましい自分の本音を、はっきりと感じ取ってしまったから。
痛くない筈がない。苦しくない筈がない。こんなものは、アグノエルにとっては苦痛と屈辱しかない行為の筈だ。分かっているのに尋ねてしまったのは、否定してほしかったからに違いなかった。
「問題、ありませ……っ、から、早く……!」
カズヌーヴの浅ましい本音を見透かしていない筈はないのに、アグノエルの苦しげな返答には迷いがなかった。その従順とも取れる答えに、カズヌーヴの胸はまた罪悪感に締め付けられる。
早く終わりにしたいと。早く済ませて、この忌まわしい部屋を後にしたいと。きっとそれだけを願って、アグノエルは耐えている。ならばできる限り早く望みを叶えてやること以外に、カズヌーヴにできることはない。
そう決めて、腰の動きを再開しようとする。だがふと気に掛かって、カズヌーヴの肩にしがみつくようにして顔を隠しているアグノエルの顔を上げさせた。
「っ」
「顔を見せて」
抗おうとしたアグノエルも、カズヌーヴの囁くような命令で諦めたらしかった。せめてもの抵抗のように目を閉じて、僅かに顔を背ける。だがカズヌーヴが腰の動きを再開すると、その整ったかんばせにははっきりと苦痛の影がよぎった。
「っ、ぁ……は、っ……!」
苦しげな声、苦悶の表情。きつく目を閉じて、アグノエルは耐えている。胸の中では確かに軽蔑しているに違いないカズヌーヴにその体を差し出して、痛苦と屈辱を必死で堪えている。あまりにも従順で、いじらしくさえあるその態度。
憐れみのような感情が、カズヌーヴの胸にせり上がった。抱きしめていたわってやりたいような、そんなにまでして耐えなくともいいのだと言い諭してやりたいような、そんな想いが胸を貫く。けれどアグノエルも、そんなことは望んでいない。前科者を彼は愛さない。
だからカズヌーヴは何も言わずに、黙って手を伸ばしてアグノエルの中心を擦り上げた。途端に、組み敷いた体がびくんと跳ねる。
「ぁ、な、にを……!」
「君も気持ち良くならないと、セックスじゃないだろう」
うろたえたアグノエルの声を、意識的に強めた語調で撥ねつけた。顔を上げたアグノエルは、はっきりと狼狽を眼に宿して首を横に振った。
「い、やです……!」
「我慢して」
そっけなく言い捨てながら、尚もアグノエルの熱を扱き上げる。喉の奥で悲鳴を漏らしたアグノエルが、無意識のように肩に爪を立ててきた。小さな痛みが一層カズヌーヴの熱を煽り立てる。
劣情を刺激するたびに、アグノエルの体がほどけていく。カズヌーヴに対して開かれ、明け渡されていく。感動に似た想いに胸を熱くして、カズヌーヴは夢中でアグノエルを求めた。
「ぃや、嫌です、カ、ズ……!」
「あと少しだから」
宥めながら先走りを塗り込めるようにしてやり、腰の動きを激しくする。切れ切れなアグノエルの呼吸、触れ合う肌の燃えるような温度。
互いに限界が近いのが分かる。嫌々と首を振るアグノエルを強く抱きしめて、宥めるようにその額に口付けを落としながら、カズヌーヴは腰の動きを速めた。
忙しなくなっていく呼吸、獣めいた吐息。そしてほぼ同時に、絶頂を極めた。
「っ、――!」
「う……っ、アグノエル……!」
アグノエルの声にならない悲鳴。背中を丸めるようにして達した彼の、快感よりも苦悩に塗りつぶされた表情。腹をしとどに濡らしていく熱い飛沫を感じながら、カズヌーヴはアグノエルの中に欲望を注ぎ込んだ。
息を弾ませながら、カズヌーヴはぐったりと寝台に沈むアグノエルを見下ろした。虚ろに虚空へ向けられた氷色の眼。つうっと一筋溢れた涙は快感のためか、それとも屈辱のゆえか。半ば開いて呼吸を繰り返す唇の、果実のような鮮やかな色。
目に焼き付くその赤色に、カズヌーヴはほとんど無意識に顔を寄せて口付けようとした。だが、ゆるく首を逸らして拒まれた。
寝台を降りて衣服を身に着けながら、カズヌーヴはちらりとアグノエルを振り返った。
のろのろとした動きで寝台の上に起き上がってから、アグノエルは身じろぎ一つしない。俯き背けた顔、乱れた髪。逞しくさえあるその白い肩が、今だけはひどく儚く心細げに見えた。
だからつい、体が動いていた。ふしだらに床に投げ捨てられたままだった彼のシャツを拾い上げて、歩み寄っていた。
「風邪を引くよ」
白い肩にシャツを被せて囁く。ゆるりと顔を上げたアグノエルは、皮肉げな笑みを形作った。
「……お気遣い、痛み入ります」
他人行儀な態度。慇懃だが冷ややかな拒絶。それはいつもアグノエルの態度と大差のないものの筈なのに、何故か胸がちくりと痛んだ。
君にとっては何でもないのか、体を繋ぐことなど、体を明け渡すことなど。思わず、そう問い詰めてやりたくなる。
だがカズヌーヴが心無い言葉でなじってしまう前に、アグノエルはまた顔を背けてしまった。色のない指がシーツを握りしめる。
「……一人に、していただけますか」
また俯いてシーツを引き寄せながら、掠れた声が呟いた。その態度で、カズヌーヴもようやく理解する。
何でもない筈がなかった。アグノエルは深く傷ついている。何とも思っていなそうな態度を取り繕うことで、彼は彼自身を守ろうとしているのだ。
分かってやれなかった自分を反省しながら、カズヌーヴは身支度を再開した。きっと今のアグノエルにとっては顔も見たくない相手だろう自分が、いつまでも居座ってはいられないから。
だが一つだけ、アグノエルに言っておきたいことがカズヌーヴにはあった。言わずに立ち去ることのできない言葉があった。だから衣服を纏い終えたカズヌーヴはもう一度寝台に歩み寄り、気配に顔を上げたアグノエルの目を覗き込んだ。
「……カズヌーヴさん?」
「約束してくれ。必ずこの部屋から出て、また私と会ってくれると」
怪訝そうに呼びかけてきたアグノエルに、そう囁きかける。その約束を結んでくれるまでは立ち去らないと、意志を視線に込めた。
アグノエルは義務を投げ出すような男ではないと、職務に誇りを持っている人だと、カズヌーヴはよく知っている。けれどこの部屋で行われた辱めが彼の自尊心を打ち砕いてしまってはいないかと、職務への誇りさえも失わせてはいないかと、カズヌーヴは不安だった。
不思議そうな顔で、アグノエルは瞬いた。あどけないとさえ呼べそうな色をした薄氷色の瞳が、きょとんとカズヌーヴを見上げる。そして、アグノエルは綺麗に笑った。
「お約束しましょう」
「……約束だよ」
「必ず」
迷いのない口調で結んでくれた約束に、カズヌーヴはまだ不安を残しながらも引き下がらざるを得なかった。未練に似た思いを持て余しながら、アグノエルの手にそっとキスを落とす。そしてゆっくりと立ち上がり、カズヌーヴは部屋を出た。
* * *
目を開けると、見慣れた自室の天井が視界に移った。そのことに安堵しながら、カズヌーヴは身を起こす。
体を動かしてみても違和感はない。懐中時計を確かめると、普段目覚める時間よりも少し早かった。ならば早めに出勤しようと決めて身支度を始めながら、カズヌーヴの心は昨夜の夢へと舞い戻っていく。
淫らで奇妙な夢のことは、隅々まで覚えている。この腕に抱いたアグノエルの肌の温度も、その体の切なげな震えも、苦しげな吐息も、ありありと思い出せる。ただの夢にしてはあまりにも生々しい感触が、カズヌーヴの体に染み付いていた。
身支度をしながら肩や背中を確かめても、アグノエルに爪を立てられた傷は全く存在しない。そのことに落胆している自分に気付き、カズヌーヴは動揺した。
朝食を済ませて家を出た。名前も知らないパリの民衆とすれ違いながら警察署の方へと向かう。普段の朝と何も変わらないだった。
だが、カズヌーヴが何事もなく保安警察の建物に辿り着いて胸を撫で下ろしていた時、その男は現れた。夜勤だったらしいアグノエルが戸口に姿を現し、朝の光に目を細める。そして、カズヌーヴに気付いたらしかった。
「……っ!」
「……カズヌーヴさん」
低い声で呼んだアグノエルが、ためらう様子もなく歩み寄ってくる。思わず後退りそうになったカズヌーヴには頓着しない様子で近づいてきて、アグノエルは軽い礼をした。
顔を上げたアグノエルが僅かに表情を揺らすのが、カズヌーヴには見えた。それは軽蔑だったろうか、羞恥や屈辱だったろうか。
「何か」
「あ……いや」
あまりにも「いつも通り」なアグノエルの態度に困惑しながら、カズヌーヴは言葉を濁した。何を言えばいいのか分からない。あの「淫夢」のことを確かめたいが、こんな往来でする話ではないだろう。
「……約束、を」
「……約束?」
苦し紛れにカズヌーヴが差し出した語句に、アグノエルは何の反応も示さなかった。眉ひとつ動かさずに、なんのことか分からないとばかりに呟く声。そのことに衝撃を受けている自分にこそ打ちのめされながら、カズヌーヴは努めて自然な笑顔を取り繕った。
「……いや。私の勘違いだ。すまない」
「左様ですか」
やはり表情も変えないアグノエルに挨拶をして、カズヌーヴはそそくさとその場を離れた。探るように絡みついてくる視線を背中に感じる。
ようやく慣れ親しんだ事務室に逃げ込んだカズヌーヴは、思わず震える息を吐いた。当然のことだと自分に言い聞かせようとする。
アグノエルが「覚えていない」のも当たり前だ。あれはただの夢、単なる幻。現実のアグノエルとは何の関係もない。朝露と共に、全ては消えたのだ。そのことは、こんなにも分かっているのだ。なのにアグノエルの肌の温度を、カズヌーヴの手はまだ覚えていた。
その僅か一週間後にカズヌーヴは「あまりにも法を逸脱した」捜査手法を何者かに告発され、職を失い裁判にかけられることとなった。
・参考資料(パリ警視庁の組織)
鹿島茂『失われたパリの復元 バルザックの時代の街を歩く』新潮社、2017年
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