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つらら

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 私が名前を勝手に決めたその夜以来、私が窓と向き合っていると絲羅はいつの間にやらやって来ては私の視界に入るところでじっとしているようになった。私はその姿を見ながら食事や晩酌をし、つらつらと愚痴を零す。私の頭の中の絲羅はそれにのんびりと相槌を打つ。それが習慣となりつつあった。
 それからしばらく経った、一切の欠損のない真円を描く見事な満月の夜のことだった。おあつらえ向きに空には雲の一片もなくて、月見にはもってこいの夜だった。
 ガラス戸の前に座卓を置き、缶チューハイを用意し、つまみにミックスナッツとチーズを適当に皿に盛って、私は月と向かい合うように座布団に腰を下ろした。
 缶を傾けているとあの蜘蛛が、絲羅がまたするするとやって来てベランダの柵の上に落ち着いた。その影のような姿を眺めながら、私は気軽に口を開いた。 
「ねえ絲羅、ちょっと聞いてよー。今日の電話ですっごい理不尽に怒られてさぁ」
 用件自体が要するにクレームだったのだが、とにかく言葉尻をいちいち捕らえていちゃもんをつけてくる相手だった。途中からはひたすら言葉遣いについて謝罪させられていた記憶しかない。
「『そのご相談に関しましては』って言うと『ご相談じゃない、ご確認だ!』だし、『申し訳ありません、だと? 申し訳ございません、だろうが!』だし、『大体その敬語は何だ!』だし、しまいには『お前みたいな馬鹿なガキが日本語を乱してるんだ!』って言い出すしさあ。あんたは日本語博士ですかっての」
 もやついていた感情を吐き出して、缶チューハイをぐいっと呷る。私のぼやきに頭の中の絲羅はのんびりと答えた。
『まあ、気にしないほうがいいよー。あのおじさん、今朝また髪の毛がごっそり抜けちゃってイライラしてたんだよー』
「そうなの? ざまあみろって感じー。って、どうせでたらめでしょ?」
『でたらめじゃないよ、本当だよー』
 私が電話の相手の頭髪の具合まで知るわけもないのだが、そうだと思い込めば少し溜飲が下がった。そう思っていると、頭の中の絲羅がさらに言葉を続けた。
『だって、物識り訳知り絲羅ちゃんだもーん。何でも知ってるんだよ、私は』
「でも知らんぷりなんでしょお?」
『細かいことは気にしなーい』
 夢の中で絲羅が歌っていた歌の全体像は私にも他の誰にも知る由もないが、「物識り 訳知り 知らんぷり」のフレーズは頭に残っている。メロディは忘れてしまったが、その言葉だけが妙にはっきりと残っている。
「っていうか、なんでただの蜘蛛が物識り訳知りなのさ?」
『ただの蜘蛛じゃないもん。「蟲毒」の虫を食べたから、私は凄いんだよ』
「へー」
 あの「蟲毒」というまじないは本来ならば憎い相手を毒殺するためのものだった気がするが、まあいい。自分で食べれば自分に力がつくのかもしれない、私は食べたくないが。私はそんなことを考えながら缶チューハイを飲み干した。
「んじゃ、もう寝るね。付き合ってくれてありがと、絲羅」
『なんだあ、もう終わり? 夜は楽しいんだよー?』
「夜行性と一緒にすんなっての。私は明日も朝からお・し・ご・と。おやすみ、絲羅」
『うん、おやすみー』
 そんな会話を頭の中の絲羅と交わして、私はすっきりした気分で眠りについた。

 社会人として粛々と生きていると、自棄酒でもしないとやっていられない夜が時にはある。今夜がまさにそうだった。靴を蹴飛ばすように脱ぎ、私は足音も荒く部屋へ踏み込んだ。
 夕飯を作る気にもなれない。今夜のメニューは生野菜各種にチーズとナッツ、それに缶ビールと缶チューハイ数本ずつと、退社時から決定済みだ。栄養バランスとか健康とか、そんなことを気にしていられない夜が人間にはある。
 野菜をざくざくと親の敵のように切り刻む。ベビーチーズを冷蔵庫から掴み出す。ナッツを皿にぶちまける。それらを座卓に用意し、乱暴にカーテンとガラス戸を開けた。
 もうそれが習い性になっているのか、絲羅はもうそこにいた。座卓の前にどかりと座り込みながら、私は開口一番まくし立てた。
「絲羅ぁ、ちょっと聞いてよ! 今日ねぇ、先輩がすっげー嫌な態度だったの!」
『荒れてるねえ』
 頭の中の絲羅は実にのんびりとコメントする。それには構わず、私は力任せにビールのプルタブを引き開けた。一口煽って、そしてまたまくし立てる。
「どーしても確認必要な案件があったから質問しようとしたら『今忙しいんだけど?』って! たとえそうでも言う? 普通!」
『あんまり言わないねえ』
 ビールと記憶が舌に苦い。チーズの包装をべりべりと破き、二口で食べる。それをビールで流し込んで、缶を座卓にたたきつけるように置いた。
「『こんなのもいちいち聞かなきゃ分からないの?』って先輩としてどーよ? 初めて見る案件なのに、聞かずにできるかってーの!」
『そうだねえ』
「聞かなかったら聞かなかったで、『何で初めてなのに相談しないでやっちゃうの?』って後から言うんだ、絶対!」
『そうかもねえ』
 一通り吐き出し終えて、私はふうっと長く息を吐いた。ナッツに手を伸ばしてぽりぽりと食べる。
『少しはすっきりした?』
 ビールを飲み干して次の缶に手を伸ばしていると、頭の中の絲羅が問いかけてきた。少し考えて答える。
「まあ、だいぶね。聞いてくれてありがとう」
『ならよかった』
 頭の中の絲羅は言ってそうのほほんと笑った。そしてさらに続ける。
『まあ許してあげなよ。あの人いま、プライベートでごちゃごちゃしてるんだよー』
「だからって私に当たんないでほしいよ、全く」
 野菜をぼりぼりかじりながら、ぶつぶつと呟く。チューハイに手を伸ばしながら、何の気なしに問いかけた。
「っていうか、あの先輩に何があるって?」
『妊娠が分かって、ばたばた結婚の用意してるんだよー』
 突拍子もない言葉がいきなり飛び出し、私は危うくチューハイを噴出しそうになった。あわてて絲羅を見るが、当蜘蛛はそ知らぬ様子でのんびりと柵を上がったり降りたりしている。
「ちょっとちょっと、いきなり何言い出すの。大体なんでそんなことが分かんの?」
『だって、物識り訳知り絲羅ちゃんだもん』
「……はいはい」
 とぼけた台詞に苦笑する。私は帰宅時とは比べ物にならないほど落ち着いた気分で、最後のチューハイを飲み干した。
 
 絲羅との会話は、もはや私の日課となっている。私は夕食を摂ったり晩酌をしたりしながら、絲羅にその日の出来事や愚痴をつらつらと語る。絲羅は私の頭の中で返事をしながら、そこにじっとしていたり柵を上り下りしたりしている。そんな日々が続くようになり、私は毎晩気分良く眠れるようになっていった。
 つらつら吐き出していた愚痴も雑談も尽きた私がぼんやりと絲羅を眺めていると、影のようなその姿は不意にベランダの柵を上り始めた。釣られて目で追うと、上りつめた絲羅の向こうの夜空が目に入る。
 薄くて細切れの雲が空全体に広がり、所々から星々が顔を出している。それは繊細なレース織の布を何枚も広げたようにも見えた。
「ねー、あれもあんたが織ったの? 見せびらかしてんのー?」
 からかうように問いかけてみたが、珍しく絲羅からの返事はなかった。まあ、私が思いつかなかっただけなのだが。私がぼやっと眺めていると、綱渡りをする軽業師のように軽やかな足取りの絲羅は自分の巣の方へと歩き始めた。
 糸を引かれた操り人形のように、私はいつの間にか立ち上がっていた。ベランダへのガラス戸を開けて、裸足のまま外へ出る。打ちっぱなしのコンクリートのベランダはざらりと冷たい感触で私を受け止めた。
 私が出てくるのを待っていたように、絲羅は移動の速度を速めた。するするすると柵を伝い、壁を伝い、自分の巣のほうへと上っていく。なんとなくその姿を視線で追って、私は目を瞠った。
 絲羅の巣がかかっているはずの場所には、あの繊細で大きな巣は影も形もなかった。代わりのように、巣のあるべき場所からは真っ白な縄梯子が垂れ下がっている。それはマンションの屋根を突き抜けて、ずっと上まで伸びているようだった。
 私がぽかんと見上げている間にも、絲羅は彼女の巣の代わりにそこにある縄梯子に辿り着いていた。そしてするすると縄梯子を上っていって、すぐにその小さな姿は見えなくなった。
 まるでそれが当然のことのように、私はいつのまにか縄梯子に歩み寄ってそれを掴み、一番下の段に足をかけていた。絹糸で編んだような、柔らかな手触りだった。
 見上げてみると、ずっとずっと上にぽつんと黄色みがかった白く丸い光が見えた。それはこの抜け道の出口にも、ちょうどいまはビルの群れに隠れてベランダからは見えない月が満ちきっている時の姿にも見えた。
 一つ深呼吸をし、私は縄梯子を上り始めた。数段上がると早くもベランダは見えなくなる。縄梯子を取り巻いている壁をちょいと触ってみると、コンクリートのようなざらついた感触が手に残った。
『…… 糸 連ね …』
 縄梯子を上っていくうちに、聞き覚えのある歌が聞こえた。いつかの夢で聞いた、絲羅の歌声が。その声に誘われるように、私は縄梯子を上る手足を早めた
『……り ぐる ぐる 糸 たぐり
 ほろり ほろ ほろ 糸 ほどく』
 歌声は徐々にはっきりし、大きくなってくる。それにつれて行く手に見える光も夜空の月ほどの大きさからピンポン球大へ、そしてバスケットボール大へと大きくなっていった。
 縄梯子を上り詰めた先にはマンホールくらいの穴があった。そこからモグラのように顔を出してみる。
 まず目に入ったのは、白い色だった。上ってきた縄梯子と同じように真っ白なレース織の布だった。それが床に敷き詰められ、頭上からも垂れ下がり、視界を真っ白に染めている。
 遥か高いところからは、カーテンのような無数のレース織が数え切れないほどに垂れ下がっている。歌声は確かに、その幾重もの織物たちの向こうから聞こえてきていた。
 私は穴から這い出して立ち上がり、服の埃を払った。そして歌声のほうへと歩き出す。
 垂れ下がるレース織を掻き分けながら歩いていくと、歌に混じって「とんとん、からり」とでも言うような音も聞こえてくるようになった。
『糸し糸しと 言う心』
 とんとん、からり。
『戀に目隠し 角隠し』
 とん、からり。
「都都逸じゃん」
 私は思わずツッコミを入れた。「戀という字を分解すれば 糸し糸しと言う心」。それは学生時代に授業で習った、有名な都都逸だ。
 私の指摘に『よく知ってるねえ』とのほほんと笑うべき絲羅はここには居ない。だから、私の独り言に応える者もない。少し寂しく思いながら私が次のレース織をめくると、不意に視界が開けた。
 そこは八角形の空間だった。いままでくぐってきたようなレース織の布でぐるりと周囲を取り囲まれている、真っ白で柔らかな空間だった。
 八角形の部屋の中央では、一人の少女が機織りをしていた。とんとんからりと機を織りながら、あまり上手ではないがとても楽しげに、少女は歌を歌っていた。
 私が立ち尽くしていると、少女は機織りの手を止めて振り返った。私のほうへ顔を向けて、にっこりと親しげに笑う。
「遅かったねえ。方向音痴?」
 のほほんとした口調もさらりとした毒舌も、その少女は絲羅そのものだった。いつかの夢に出てきたのと同じ黒とエメラルドグリーンの幾何学模様のスカートを履いて、あの夜の夢と同じように機織機の前に腰掛けて、絲羅は気軽な様子で笑っていた。だから、私も気軽に答えることができた。
「案内もしないで、よく言うよ」
「一本道なのに、案内のしようもないでしょー」
 絲羅はあっさりした口調でそう答えて立ち上がった。部屋の一角に私を誘い、そこにあったローテーブルと椅子を示す。
 座ってみると、テーブルも椅子も部屋を構成するのと同じレース織だけでできているようだった。上ってきた縄梯子と同じ、柔らかくて滑らかな手触りをしていた。向き合って座ってにこにこしている絲羅を見ながら、私はふと心配になった。
 蜘蛛は益虫だが、日本昔話ではおもに悪役だ。ここに私を招きいれたのは、私を殺して食べてしまうためではなかろうか。そう思い至った私は率直に聞いてみることにした。
「絲羅、妖怪? ひょっとして私を食べちゃうつもりじゃないの?」
「やだなあ、家主で恩人で名付け親だよ? 騙したり食べたりするほど、私は鬼じゃないよー」
「ならいいけど」
 正直に答えているのかは知れたものではないが、今のところは信じておくことにした。だが、ならばなんで招かれたのかが分かりかねる。
「何か悩んでるでしょ?」
「……、……」
 私の疑問を見透かしたように、絲羅は自分から質問をぶつけてきた。不意を突かれた私はつい黙り込む。
 悩みはあった、このところずっと。窓辺では、外に向かっては、ましてや人間相手には、吐き出せない悩みが胸の底にあった。
 この白くて滑らかで柔らかい空間でなら、のんびりと微笑む絲羅にだけなら、話せる気がした。だから、私は口を開いた。
「……最近、彼氏から、ますます連絡遅くてさ」
 心の距離が開いていくようで不安だった。メールも電話も私からばかり。彼氏からのレスポンスはもどかしいほど遅くて少ない。会いたいと言ってみても理由をつけて断られる回数が増えている。そしてたまのデートでも、相手は妙に上の空だった。妙にそわそわとして、落ち着きがなかった。
 学生時代から五年近く付き合ってきて、こんなことは初めてだった。以前はもっとまめに連絡をくれた、以前はもっとまめに会っていた。以前はもっと、私を見てくれていた。
 メールを、電話を待ちわびながら、心の片隅ではいつも怖れている。今度こそ「友達に戻ろう」と書かれていはしないかと。次の瞬間に「別れよう」の言葉が飛び出さないかと。
「もう、駄目なのかなあ」
 しずくのように言葉が零れた。涙が零れ落ちそうになった。けれどその前に、絲羅の声が耳に届いた。
「大丈夫」
 絲羅の言葉に思わず顔を上げると、絲羅は微笑んでいた。外見は私よりずっと年下の小娘なのに、その笑顔だけは母親、あるいは祖母のようだった。
「大丈夫だから、三日待って。次のデートまで」
 絲羅はそれだけ言って、微笑んで口を閉ざした。いやに具体的な言葉に驚きながら、私はつい指摘する。
「……三日後に、予定ないけど」
「あれー、ネタバレしちゃったあ」
 指摘すると、絲羅は少し困ったように笑った。そんな笑顔は初めて見たと思ってから、まだ二度目の対面だと、しかも前回は夢でしかなかったと、私は思い出す。
「……ん。まあ、信じるよ」
 絲羅は知らんぷりはしても、嘘は吐かないから。たとえそのすべてが私の頭の中の出来事だとしても。
 答えた私が立ち上がると絲羅も立った。そうして向かい合ってみると私の胸の辺りまでしか身長がない。見かけは本当に小娘だ。
「帰るなら、そこからが早く着くよー」
 絲羅が指差した先のレース織をめくると、そこには滑り台があった。やはり真っ白いレース織でできていて、果てを見通せないほど長く遠く伸びている。
 促されるままに滑り降りようとして、私はためらった。腰の後ろで手を組んで見守っている絲羅を振り向き、問いかける。
「また会える?」
「さあ、どうだろうねえ」
 物識り訳知りのくせに空とぼけた返事に苦笑して、私は滑り台に飛び込んだ。
 
 ごんっと音がして、頭に鈍痛が走った。
「あだっ!」
 側頭部をさすりながら身を起こし、周りを見回して状況を把握しようとする。私は座卓に頬杖をついたままでいつの間にか眠りに落ちていたらしい。頬杖が崩れて横様に転び、頭をしたたかに打って眼が覚めたようだった。
 ベランダのほうを見やると、絲羅はまだそこにいた。ベランダの柵の上から、私を見ていた。そして私の「帰宅」を見届けたかのように、絲羅はするすると自分の巣のほうへ戻っていった。きっと本当は、私が転んだ音で驚いただけなのだろうけれど。
「おやすみ、絲羅。お招きありがとね」
 そう声をかけて、私はガラス戸を閉めた。
 歯磨きをしながら携帯電話を見ていると、珍しく彼氏からメールが届いた。タイミングのよさに驚きながら開封する。
『土曜日空いてる?』
 メールの内容はそれだけだった。土曜日と言うと三日後だ。絲羅の予言が的中したなと思いながら、私は返信を入力し始めた。
『空いてるよ。どこ行く?』
 
「久しぶり」
 開口一番に努めて気軽に私がそう言うと、彼氏はちょっとばつが悪そうに笑った。
「悪かったよ」
「別にー」
 土曜日の動物園は人が多い。それでもやはり、久しぶりのデートは嬉しく楽しかった。
 しわしわの皮膚の象を見て、ライオンの寝顔を見て、空を見上げているキリンを見上げて、ゆったりした時間の流れる爬虫類館を通り抜けて、園内のカフェテリアで昼食を摂って、とことこ走り回っているシマウマを見て、思い思いに鳴き交わす声が響く鳥類ケージを巡って、ふれあい動物園でハリネズミの赤ちゃんを抱く。そうしながらもずっと、彼氏はやはりどこかそわそわしていた。
 動物園を回り終えると、早くも夕方だった。これで終わりでなければいいと、小さな祈りを込めながら尋ねる。
「夕飯どうする?」
「予約してるんだ」
 珍しいこともあるものだと思いながら、彼氏が予約したというレストランへ移動する。着いてみると、普段利用する店より何ランクも上の高級そうな店だった。彼氏が受付で名前を告げればすぐに席に通され、ややして洗練された身のこなしをするウエイターが注文をとりに来る。
 静かで落ち着いた音楽の流れている店内で、周囲に遠慮するようにぽつりぽつりと会話をする。けれど不意に、彼氏がとても真剣な眼をした。
『別れよう』
『友達に戻ろう』
『しばらく距離を置こう』
 頭の中で響くそうした不吉な幻聴の数々を追い払い、私は彼氏の目をまっすぐ見た。絲羅の母親めいた笑顔を頭に思い浮かべ、相手の言葉を待つ。
 大丈夫。だって、絲羅が大丈夫だと言ったから。自分にそう言い聞かせる私に、彼氏は見たこともないほど真剣な眼差しをして、言った。
「俺と結婚してください」
 
「ねー、聞いてよ絲羅ぁ。私プロポーズされちゃったぁ」
『うん、知ってるよ?』
 報告しがいのない絲羅に苦笑が零れる。グラスワインを傾けながら、「ちょっとは驚いてくれない?」と思わずぼやいた。
『だって、物識り訳知り絲羅ちゃんだもん』
「そこは知らんぷりしてよー」
 苦笑しながらグラスにワインを注ぎ足す。レストランでも飲んできたが、なんだか飲み足りない気分だった。
 彼氏いわく、最近そわそわしていたのは全て、プロポーズの段取りで頭がいっぱいだったせいだそうだ。メールや電話が減ったのも同じ理由らしい。それで私が不安がっているとは毛ほども気づいていなかったそうだ。
 実に鈍くさい男だが、仕方ない。そんな彼氏を最後まで見抜けなかった上に、プロポーズされたことが泣くほど嬉しかった私には、きっとお似合いだから。
 これは後日の話になるが、身内以外で最初に婚約の報告をした相手となる上司は『え、君も?』と口を滑らせた。その言葉でピンと来て、私は聞いてみた。
『ひょっとして、雁田先輩もですか?』
『そうだよ。本人に聞いた?』
『いえ、まだ聞いてませんけど、勘で』
 絲羅の予言はここでも的中していたことになる。さすがは物識り訳知りを豪語するだけある。
 だが今はプロポーズの夜に話を戻そう。なんとなく私が黙っていると、珍しく絲羅から言葉を発した。やはりのんびりした口調だった。
『お別れだねえ』
「……そーなんだよね」
 そう。今すぐにではないが、私は近いうちに必ず絲羅と別れなければならない。まさかこの狭いマンションで結婚生活を営むわけにもいかないから、私は引っ越さざるを得ない。彼氏から婚約者に格上げになった、これから配偶者となるべき人と一緒に暮らせる広さのある、まだ見ぬ新たな居場所へと。
「ねー、一緒に来ない? 絲羅」
『私はいいけど、婚約者さんがよくないよー。あの人、虫苦手だもん』
「まじか、知らなかった」
 それは困った。それでは絲羅を新居に連れて行っても、ベランダに巣を張った途端にその巣を壊される羽目になる。いや、下手をすれば手を下すのは泣き付かれた私の役目だ。
『まあ、いいじゃない。そのうちまた、どっかで会うよー』
「そうかなあ」
『会えるってー』
 世界の広さを知ってか知らずか、絲羅の言葉はのんきなものだ。私は呆れながら笑った。
「じゃあ、一時の別れってことだね」
『そういうことー』
「それじゃ、そのときはまた宜しく」
『こちらこそ』
 私はにやっと笑ってワインを飲み干し、グラスを絲羅に向けて翳す。グラス越しに見る絲羅の姿に、のんびり屋の少女の笑顔が重なった気がした。
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