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櫛仕舞
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その夜の橘伍はなかなか訪れない眠りを待つことにも飽きて、目を瞑ることもやめて天井の節目を数えていた。起き出して本でも読みたいところだったが、店がもっとも慌ただしい時分である今は、どこにいても邪魔になるだけだと分かっていた。
また寝返りを打ったとき、その二つの名前は耳に飛び込んできた。遠くで何気なく交わされたはずの声が、はっきりと耳に届いた。
ーー但馬屋さまがお付きに
ーー梗花さまに、早く
最初から訪れてもいなかった眠気などは跳ね除ける必要もない。橘伍は衣擦れ一つ立てずに布団も部屋も抜け出し、そしてやはりかたりとも音を立てることなく天井裏に入り込んだ。
悪辣でがめつかったあの親族をして「売り飛ばそうにも買い手がつかない悪童」と匙を投げさせたのは、何も気質だけの問題ではない。その頃の橘伍は我ながら本当に手のつけられない、誰の手にも負えない、まさしく獣のような子供だった。
気に入らないことをされそうになれば拳も足も爪も歯も全てを使って暴れ回るから、どうこうできる者などいなかった。無理に連れて行かれた先でどれほど固く閉じ込められても一刻もあれば逃げ出してしまうものだから、買い手はいずれ必ず怒鳴り込んできて揉めに揉めた。
縄で括られてもするりと縄抜けして、鍵などは落ちている木片なり何なりで音も立てずにこじ開けて、天井裏だの床下だのを平気で潜り抜けて、どこへでも隠れ潜んでどこからでもあっさりと抜け出してしまう。そうした全ては橘伍にとっては教えられることもなく生まれつき当然にできていたから、もちろん当然にそうしていた。そして今も、機会が訪れないからわざわざやらないというだけであって、その全ての動作はいつでも易々とこなせるのだ。
鼠よりも静かに天井裏を移動して、ここに違いないと見定めた座敷を節穴から覗き込む。勘は今日も橘伍を裏切らず、折しも通されたばかりらしいその男は、橘伍が見定めようとしたまさにその人物だった。相手から見られることも他の誰かに見咎められることもなく、橘伍は人知れずその男を、紙問屋但馬屋の主人を、茜太の父親を見た。
似ている親子だな、というのが率直な感想だった。面差しが、雰囲気が、確かに茜太と似通っているのが、天井裏からも見てとれた。
「梗花もすぐに参りますので」
廊下から伝えて頭を下げたらしい二階廻しが襖を閉めようとする。その隙間を通すように、但馬屋主人が声をかけた。
「急ぐには及ばない、とお伝えしてほしい」
思わず歯噛みしそうになったのを堪えて、橘伍は音を立てずに元来た道を引き返し始めた。急ぐには及ばないなどと優しげに客から伝えられたところで、はいそうですかとちんたら支度をする陰間なぞいない。桔也がすぐにでも真下を通りかかってしまうかもと、焦りを覚えながら橘伍は静かに急いだ。
橘伍以上に聡くて勘も鋭い桔也ならば、僅かな気配を辿って息を潜めている橘伍に気づいてしまうかも知れない。だからその前に、気取られる前に、部屋へ戻らなくては。
それは真実でありながら言い訳でもあるとは、橘伍自身が知っている。本当は、ただ見たくないのだと。
ようやく最初に通り抜けた羽目板が見えてきて、胸を撫で下ろす。だがまさにその時、聞いてしまった。
まだ遠いはずの桔也の声を、橘伍の鋭い耳は拾い上げてしまった。いつもと同じ温度の、あまりにも平然とした、他の誰よりも耳に馴染んだ、聞き間違えるはずなどない父の声を。
「ーーを。それと、床部屋の用意も」
そこからどうやって部屋に戻ったのかさえ覚えていない。気がつけば橘伍は、布団に入り込むことも忘れて畳に座り込んでいた。
どす黒い感情が胸の底で蠢いている。襲いかかる相手を持たないそれを押さえ込むように、橘伍はほとんど無意識に強く拳を握っていた。爪が掌に食い込む痛みさえも今は遠い。
思った通りだった。あの男も、但馬屋主人も、茜太の父親である男も、「そいつら」の同類。金を積んで桔也を買う下劣な男たちの一人。
きっと、その数えきれない連中のうちではマシな部類の人品の男ではあるのだろう。そのことは垣間見た身なりや所作からも、そして桔也や竹衛門や他の者たちの言葉や態度からも窺えた。
けれどそんな事は橘伍にとっては何の意味もなさない。桔也を踏み躙っているというその唯一最大の罪だけで、但馬屋主人を含めたその全ての連中は、橘伍にとっては心底許し難い相手なのだから。
地獄に落ちろなどという言葉では、この胸を塗り潰す憎しみを薄めるにも生ぬるい。この手で八つに引き裂いて、その一つ一つを八つの地獄に投げ込んでやりたい。この手で、この爪で、そうしてやりたい。
ゆっくりと開いて見下ろした掌は、己の爪に裂かれて血を滲ませている。何の感慨もなくそれを見下ろして、そして爪を赤く染めている血を舐めとる。鉄錆の味。
あの男の血も、同じ味がするのだろうか。
但馬屋主人の顔を知った夜に自ら刻んだ傷はまだ消えることなく、橘伍の手に残っている。いや、消えることを橘伍自身が許さずに、消え始める前にまた自ら抉ることを繰り返していた。何お意味もないと知っていても、自分を抑えられずにいた。
最初に傷に気付いた笹乃介にはその場で口止めしたことでしばらくはかろうじて隠せていたが、桔也にも今朝ついに見咎められて痛ましげな顔をさせてしまった。治るまではずっと心配させてしまうから、また傷口をこじ開けることは橘伍にもさすがにできない。その傷が最初についた原因と時期については「いつどうしてついたのかも分からない、覚えてない」と言い張って押し通した。
貼り薬や包帯は邪魔になるから嫌だとごねて拒んだものの塗り薬だけは塗られてしまったから、治りも昨日までよりは早くなってしまうのだろう。そのことさえも苛立たしいように思えて、橘伍は薬でべたつく手をまた握りしめた。
今すぐに誰かが喧嘩でもふっかけてきてくれたなら、存分に憂さ晴らしができるのに。荒んだ思いで小石を踏み潰した時、場違いなほどに邪気のない声に呼ばれた。
「あ、橘伍ー!」
「……」
顔を向けるよりも早く、駆け寄ってきていた茜太はもう橘伍目の前にたどり着いていて呑気に笑っている。今日も筆のお使いですかと屈託なく尋ねられ、面倒だという態度を隠さずに顎を引いた。
何かにつけてこの町内へたびたび使いに出されるようになったのは、「友だち」と会って話をすることを桔也が橘伍に望んでいるからだ。それと分かっていても、今はただひたすらに眼前の小柄な少年が煩わしく厭わしい。舌打ちを堪えて、橘伍は短く尋ねた。
「……妹は」
「乳母やと一緒に、お琴の先生にご挨拶しに行ってます。通いはじめるのは月が替わってからですが」
「……」
尋ねたことへ相槌を打つことすら億劫で、無言でまた目を逸らす。そのまま、相手を視界から追い出したまま、また別のことを尋ねた。
「……他に、つるむ相手もいねーのか、お前」
「居なくはないですけど、橘伍と話してる方が楽しいです」
「……あっそ」
何を言われても癪に触る、その声が苛立ちを呼び起こす。早く笹乃介が戻ってこないか、いっそ自分も中に入って茜太を撒いてしまおうか。考えながらちらりと蝋燭屋の看板を見上げた時、茜太が先ほどまでとは違う声を出した。
「……薬の匂い? 橘伍、どこかケガしてるんですか?」
「……手」
誤魔化すことも億劫で短く答えながら組んでいた腕を解き、掌を広げて見せる。そうすれば知っている年齢よりも幼く見える茜太は、その印象を一層強めている大きな目を零れ落ちそうに見開いた。
「え、どうしたんですか、これ!?」
「……知るかよ。爪が伸びてたんだろ」
「痛そうです……お大事に」
「……」
心配そうに言ってよこす茜太は、今日の橘伍のいつにもましてそっけない態度を傷の痛みで不機嫌だったのだとでも勝手に納得したようだった。橘伍が組み直した腕に隠した掌を、まだ心配そうにちらちらと窺っている。その様子がひどく癪に触った。
こいつも結局は、その父親と同じ。あの男が橘伍の父を見るのと同じ目で、こいつは橘伍を見ている。本人は自覚してもいないらしいそれを、向けられている橘伍ははっきりと感じ取っている。
その醜い感情を、まだ自分自身でさえ分かっていないらしいそれを、今ここで名付けてやろうか。尊敬してやまないらしい父親の別の顔を、その浅ましい本性を教えてやろうか。
桔也があの手この手を尽くして橘伍を色事から遠ざけようとしたところで、その全てを掻い潜って密かに見覚えるのは橘伍には造作もないことだった。それが父の想いを裏切ることだと知っていても、橘伍はいずれ有効な武器となるはずのそれに手を伸ばさずにはいられなかった。それを、密かに研ぎ澄ましていた毒牙を、今ここで試してみようか。
ほんの少しでいい、色を乗せた仕草をしてみせれば、思わせぶりな流し目でもくれてやれば、こんな世間知らずのガキなど容易く手玉に取れる。そしてそれはすぐにその父親の知るところとなって、その男と桔也との間柄に亀裂を入れることだろう。
ほとんど実行へと傾きかけていたその考えを、橘伍はその一歩だけ手前で握り潰して捨てた。その先で必ず直面するはずの桔也の悲しみを、この手の傷を悲しんでくれたよりもずっと深くその心を傷つけると分かっているそれを、引き起こす勇気を持てなかった。
結局のところ、父を悲しませることなど、橘伍にできる筈がないのだ。爪を立てないようにまた拳を握りしめた時、黙り込んでいる橘伍からまだ離れずにいた茜太が弾んだ声を上げた。
「あ、父上!」
「っ!?」
思わず息を呑み、弾かれたように振り向く。低めの身長に応じて短い足で駆けていく茜太を、嬉しげに飛びつく息子を軽く受け止める男を、橘伍は呆然と見ていた。
息子の頭を撫でた但馬屋主人がこちらに顔を向ける。小さく息を呑んで、橘伍は何気ない態度を取り繕いながら頭を下げた。
「……はじめまして」
「君が橘伍くんか。いつも息子や娘と仲良くしてくれて、ありがとう」
「……いえ」
茜太やお染や笹乃介に対してもぶっきらぼうな態度を貫いていた橘伍の態度を、少なくとも茜太はまだ不審がる様子はない。その茜太が少し気掛かりそうに父親と橘伍を見比べているのは、おそらく橘伍の住まいのことか何かを父親にはあえて伏せていたのだろう。心配そうな視線を受け止めることをわざとしない橘伍に、憎たらしいほどに悠然とした但馬屋主人が思いがけない言葉をかけた。
「君に会えたら尋ねたいと、ずっと思っていた。うちの店で、商いを学んでみる気はないだろうか?」
「……え?」
驚いた声を漏らしたのは橘伍ではなく茜太だったが、橘伍も同じほどに驚いていた。そして、その思いがけない提案の先にあるはずの未来を反射的に描いていた。
この町内でも相当に裕福な大店である、紙問屋但馬屋。望んでも容易くは受け入れられないだろうその店での小僧奉公を、他ならぬ主人が橘伍へ打診してきている。
橘伍の年齢であればそれは遅すぎるものでは決してないし、奉公をはじめてしまえば自分の才覚ならばすぐに認められるだろうことも、数年のうちには手代として重用されるだろうことも、自惚れではない正確な予測として分かっている。そして、その道はもしかしたらもっとずっと先まで伸びているかもしれないことも。
それはきっと、桔也が橘伍に望んでいる未来にとても近いもの。そして、橘伍自身は望もうとも思わないもの。それを噛み締めて、小さく息をして、橘伍は男の表情を細心の注意で確かめながら口を開いた。
「……なんで、俺に、それを?」
「そうだな。息子からいつも君の話を聞いているし、息子の人を見る目を信じているから、だろうか」
穏やかな口調に、橘伍は嘘の響きを聞き取った。まだ語られていない、但馬屋主人が語ろうとしていない本音があると、橘伍の鋭い勘が警告している。それを見定めようとした時、唐突に直感し理解した。
数歩先の距離に立っているこの男は「知っている」のだと。茜太がわざと父に伏せた内容も、それ以上のことまでも。その手で繰り返し蹂躙している桔也が、今ここにいる橘伍の父であることを。
胸の底に押し沈めていたどす黒い憎悪が瞬く間に膨れ上がり、胸を覆い尽くす。その昏い感情のままに、ほとんど考える余裕さえもなく、橘伍は口走っていた。
「……もう一つの理由、当てて見せましょうか。俺が梗花の子飼いだから、ですね?」
「っ!」
息を呑んだのは、思わずと言った様子で後ろから肩を掴んできたのは、藍兵衛でも茜太でもなかった。その手の感触や力の強さで、そこにいるのがいつの間にか戻ってきていた笹乃介なのだと橘伍は悟る。だから橘伍はわざわざ振り返る事などせずに、真っ直ぐに藍兵衛に視線を注いでいた。
橘伍がある程度のことを「知って」いると、藍兵衛も知った。その上で、藍兵衛はどう出るか。どんなに小さな嘘や誤魔化しも見逃すまいと見据える橘伍の視線を平然と受け止めて、但馬屋主人はどこまでも穏やかな口調であっさりと認めた。
「それもある。君のお父上のことを、私もとても尊敬し、そして信頼しているからね」
「っ……!」
あまりの言い草に、怒りで目が眩んだ。殴り掛かりたい衝動を抑えて、強く地面を踏みしめる。
尊敬と信頼を向けているなどと嘯きながら、金を積んで桔也の体を開かせている男。桔也の想いになどちっとも興味を持っていない、桔也を蹂躙することしか知らない、どこまでも下劣な男。どうしてこんな奴がのうのうと生きている。どうしてこんな奴やその同類が享楽を貪るために、桔也や花たちは踏み躙られ続ける。どうして、どうして、どうして。
ぶつけてやりたい憎悪をようやく飲み下し、橘伍はもう敵意を隠すことなく相手の目を睨みつけた。呪うように、刻み込むように、ゆっくりと言葉を押し出す。
「……父や楼主に、話してみます」
「そうしてもらえるかな。近いうちに、私も直接お話しをしに行こう」
「……!」
二度と父に近寄るなと怒鳴りつけたい衝動を飲み込み、橘伍はただ乱暴な礼をして背を向けた。何も言わずに影のように寄り添ってくれる笹乃介の足音。
「……橘伍?」
戸惑ったように呼びかけてくる茜太の声がした気がしたが、振り返らなかった。
できる限り平然と歩いていた橘伍の足はいつか早足になり、気づけばほとんど走っていた。暖簾を跳ね除けるように浜岡屋へと飛び込み、勢いに驚いている奉公人たちに謝る余裕もなく、竹衛門がいつも帳面を確かめているあの部屋に向かう。誰に教えられるまでもなく、桔也もそこにいる筈だと確信していた。
入室の可否を尋ねもせず飛び込んだ橘伍に驚いたのは竹衛門だけだった。あまりにもいつも通りの様子の桔也が、穏やかに見上げ尋ねてくる。
「そんなに慌てて、どうした? 橘伍」
「……っ」
何から言えばいいのかも分からなくなり、橘伍は立ち竦んだ。動くこともできない橘伍と穏やかに橘伍の返答を待っている桔也を困惑顔の竹衛門が交互に見て、そしておそらくは橘伍の肩越しに笹乃介の目を見る。そしてまた橘伍に目を向けてきた。
笹乃介も竹衛門も桔也も、口を挟むことも急かすこともなく橘伍の言葉を待っている。そのことを理解して、少しだけ感情が落ち着き始めるのを橘伍は感じた。
ゆっくりと息をして、そしてその場に正座する。深く頭を下げて、顔を上げて、姿勢を正す。桔也と竹衛門を順番に見て、もう一度桔也に目を向けて、そして口を開いた。
「……失礼しました。お二人に、聞いていただきたい、話が」
「ああ、もちろん」
「ゆっくりでいいよ。話してごらん」
「……」
橘伍の、橘伍自身の言葉を、待ってくれている二人の大人。いまは視界の外にいる笹乃介も、橘伍の思いと言葉を尊重して口を挟まずに見守ってくれている。場違いにも安堵に似た感情が胸に滲むのを感じながら、橘伍は言葉を押し出した。
「……商いを学びに来ないか、って。但馬屋さん、が」
「……え!?」
驚いた声を上げた竹衛門とは対照的に、桔也は落ち着き払っていた。桔也はただ少し目を細めて、「そうか」と呟いた。
桔也のその短い相槌は、さまざまなことを橘伍に伝えた。橘伍が桔也の願いに背いて拾い集めた知識があることを、それがどれほどの範囲に散らばっているものなのかを、橘伍の吐き出した言葉から桔也も正確に理解したことを。
「橘伍は、但馬屋さんの店や商いをどう思う?」
理解を経た上で、桔也は変わらない穏やかさで尋ねてきた。橘伍は寸の間言葉を探し出せなくなり、逆に切り返した。
「……親父は、どーなんだよ」
「橘伍の考えが知りたい」
柔らかいが有無を言わせない桔也の声に、本音を吐露しないわけにはいかないことを橘伍も悟る。もう一度迷って、そしてずっと言えずにいた本心を吐き出した。
「商いのことは、分からない、けど。……あんな大きい店、したくてもそうそう奉公させてもらえるもんじゃない。良い話なんだろうな、とは、思う」
「そうか」
「……だけど。親父と一緒にじゃないと、外の暮らしなんて要らない。でも、……親父を囲おうとする奴なんて、みんな嫌いだ」
「……橘伍」
「っ、分かってる!」
宥めようとする口調の桔也が何を言うのかなんて分かりきっているから、橘伍は叫ぶように遮った。膝の上で強く拳を握りしめる。塗られた薬でぬめる掌へ爪が食い込む痛み。
分かっている、分かっている。誰かの囲われ者になること以外に、桔也が外で暮らせる道などないと。こんな場所に、こんな苦界に居続けることの方がずっと、桔也を緩やかに苦しめるのだと。
分かっていても、どうしても飲み込むことができない。許せない、許すことなどできない。桔也を踏み躙る全てのものたちが、そして桔也の枷にしかなれない自分自身が。
本当はずっと前から分かっていた。自分なんかいなければ、自分なんかを引き受けてさえいなければ、桔也はこんなにも苦しんではいない。桔也を縛り付けて痛みを与えているのはあの下劣な男たちばかりではなくて、自分も同じなのだ。
「……橘伍」
柔らかな声でまた呼んで、桔也がそっと肩に触れてきた。少し冷たいその手の温度と重み。その美しい顔には今きっと、困ったような笑みが浮かんでいる。
答えることも顔を上げることもできず、橘伍は強く目を閉じ手を握りしめた。誰も何も言えない、重苦しくのしかかる空気が部屋に満ちていた。
「……楼主、梗花さん」
長く息苦しい沈黙を破ったのは、いつのまにか部屋の外に来ていたらしい二階廻しの声だった。橘伍の肩に触れたままの桔也の手が僅かに動いて、彼が二階廻しに目を向けて視線だけで言葉を促したらしいことが橘伍にも伝わる。少し言葉に迷ったらしい二階廻しは、彼らしくもないおどおどした調子で用件を述べた。
「あの……但馬屋さんご一家がお見えです。梗花さんと橘伍と、お話しをされたいそうです」
「!?」
橘伍が思わず振り向いた拍子に、桔也の手はその肩から滑り落ちていた。何をおいても確認するべきだが、するにはあまりにも恐ろしいことが、ここに一つある。けれど、それを確かめる勇気があるのは、この部屋どころか花街中でもおそらく一人だけだ。誰も何も言えない中で、何も言わずにゆったりと姿勢を戻した桔也が、あまりにもいつも通りな口調でそれを質した。
「……ご一家?」
「そのう……お子さん二人が、ご一緒です」
二階廻しがとうとうそれを明確にしてしまった途端に部屋の空気が冷えたことを、ほぼ全員が肌で感じた。もしかするとそれは部屋の中だけではなく、浜岡屋の全体にさえ及んだかもしれない。その酷寒の中心である桔也を除く誰もが、はっきりとそれを感じたのかもしれなかった。
輝くばかりに麗しい笑みで、桔也が何も言わずに橘伍に視線で尋ねてくる。橘伍は思わず目を逸らしながら答えた。
「……兄貴が、俺の一つ下。妹はその二つ下」
「ありがとう」
美しい笑みのまま答えた桔也が不意に立ち上がった。どこまでもいつも通りの優雅さでさっさと部屋を出ていく。迷いのないその足取りを呆然と見送ってしまってから、橘伍も慌てて後を追いかけた。
わざわざ言葉で確かめるまでもない。桔也は、ものすごく、怒っている。その理由も、浜岡屋の誰もが知っている。
桔也は子どもというものにどこまでも甘く、その存在をあまりにも清らかなものとして信じている。その彼にしてみれば子どもを、それも数歳とは言え橘伍よりも年若い年齢の子らを花街に同行させるなどというのは、言語道断の所業なのだ。
奉公人や「子」らはみな桔也の冷ややかな激怒の気配に恐れをなして隠れ震えているらしい。誰にも出くわすことなく桔也は迷いのない足取りで二階に上がり、そして彼の部屋の襖を声もかけずに引き開けた。
前触れもなく音を立てて開かれた襖に、父親と並んで座っていた茜太とお染が飛び上がらんばかりに驚く。だが但馬屋主人だけは平然とした様子で微動だにしなかった。やはり口を開かないまま座敷に踏み込んだ桔也はつかつかと藍兵衛に歩み寄り、その眼前に仁王立ちになって冷ややかに彼を見下ろすと、時そこに至ってようやく冷たい声を放った。
「言いたいことは色々あるがな。子連れでこんなところに来るなんてどういう了見だ、但馬屋さん?」
「いつものように『藍兵衛』と呼んで欲しいものだが」
「質問に答えろよ」
「君が名を呼んでくれるなら」
「答えろ、藍兵衛」
「家族になりたいと思っている相手に、家族を紹介しないわけにはいかない」
恐れもしなければ悪びれるつもりもないらしい但馬屋主人に、藍兵衛という名であるらしいその男に、桔也の静かな怒りは一層激しくなったらしい。ますます冷たく刺々しくなった声を投げつける。
「花街に年端も行かない子を連れ込むような頭の茹だった男に、私が身請けされるとでも? 見くびられたものだな」
「うちの店に出向いて欲しいと何度も言っているのに、手形を受け取ってもくれないのは君だろう、桔也」
飄々としてさえいる藍兵衛に桔也は一層苛立ったらしいが、その前にかろうじて勇気を振り絞ったらしい竹衛門がそっと口を挟んだ。誰の何の助けにもならない内容ではあったが。
「桔也、ひとまず座っては……」
「……親父」
橘伍も思わず呼びかけて、桔也の袖を少し引く。それで少し我に返ったらしい桔也は橘伍を振り向いて困ったように少し考える。だが竹衛門へと顔を向けたときには、またあまりにも麗しい笑みを貼り付けていた。
「座布団」
「……はい」
笑顔で命じる桔也の迫力に負けて、竹衛門は反論もできずに但馬屋ご一行の向かいに座布団を二枚並べる。その一枚に美しい所作で座した桔也は、橘伍もその隣に腰を下ろすとまた怖い笑顔で口火を切った。入り口の近くに控えておくことにしたらしい竹衛門と笹乃介は当然のように黙殺される。
「私が頷かないからと、先に橘伍を抱き込もうとするなんてな。そんな下衆だったとはついぞ気付かなかったよ、『藍兵衛』」
「どんな手でも使う。君を手に入れるためなら」
呼びかけに威圧を込めた桔也に、藍兵衛はやはり微塵も臆さない。それにまた苛立ったらしい桔也が口を開こうとしたが、藍兵衛がもう一度口を開く方が早かった。
「誰にも君を渡したくない」
「はあ? 何の寝言だ」
「君も、君の家族も、……櫛の主への君の想いも、全て受け止める」
「っ!?」
息を呑んだのは橘伍と竹衛門だけではなかった。誰よりも強い衝撃を受けたらしい桔也は数瞬言葉を失ったが、やっとの思いで体勢を立て直したらしい。動揺を押し隠そうとしている口調で低く凄む。
「……あんたなんか願い下げだ、と、私が言ったら?」
「考えを変えてもらえるまで、通い続け口説き続ける」
「まさしく小人閑居してって奴だな。金と刻はもっと有効に使え」
「君がなるべく早く頷いてくれるとありがたい」
刺々しい言葉を吐くうちに少し平静を取り戻したらしい桔也、最初から自分の調子を全く崩さない藍兵衛。お互いに歩み寄る気がこれっぽっちもないだろう二人の、噛み合っているようでどこまでも噛み合わずに続いているやり取り。これは随分と長く続くのだろうと、橘伍が腹を括った時だった。
「あのう」
場違いなほど明るくのどかな声をあげたのは、茜太の横にちょこんと座っているお染だった。無邪気そのものの表情で父親と桔也を交互に見て、橘伍と茜太のことも見比べて、そしてことんと首を傾げてまた桔也を見る。
「わたくし、よく分からないのですけれど。つまり、桔也さまが新しいお母さまになられるんですのよね? で、橘伍さんも兄さまになられるんですわね?」
思ってた以上に図太いな、こいつ。場違いにも感心しそうになった橘伍の横で、桔也は優しくお染を言い含めようとした。その美しい顔には藍兵衛に向けるのとは全く違う、穏やかそのものの笑みが載っている。
「お嬢さん。悪いけれど、『お母さま』にはならないな。それに……」
「でも、ご一緒に暮らせるのでしょう? 家族になってくださるんでしょう?」
「そうだな」
「おい、私がいつ頷いた」
さも当然のように頷いた藍兵衛には、すかさず桔也の視線と言葉が矢のように突き刺さる。だがお染はそれを気にしたそぶりもなく、明るい笑顔で小さな手のひらを打ち合わせた。
「まあ、やっぱりそうですのね! 嬉しいですわ! どうぞよろしくお願いいたします、桔也さま、橘伍兄さま!」
「いや……」
「『お母さま』でも問題はないと思うが」
「藍兵衛は黙れ」
平然と口を挟んだ藍兵衛に凄んでから、桔也は再びお染に向き合って言い含めようとしたらしい。だがその前に、ただ一人嬉しそうなお染が明るい声を上げた。
「難しいお話は、わたくしよく分かりませんけれど。でも、お二人がとても仲良しなのは分かりますわ!」
「……………は?」
あまりにも思いがけなかったらしい桔也が、彼らしくないほどの気の抜けた声を漏らす。自分の言葉の効果など全く分かっていないらしいお染の柔らかそうな髪を、藍兵衛の手がよしよしと撫でた。
「よく分かっている。さすがは私の娘だ」
「はあい!」
褒められて嬉しそうなお染の頭に手を置いたまま、藍兵衛がまた桔也に体を向ける。そしてどこまでも平然とした口調で、さも当たり前のような態度で、聞き分けのない子供を言い含めるような調子で言葉をかけた。
「桔也。君が頷いてくれされすれば八方丸く収まると思うのだが、どうだろうか」
俺と茜太はどうなんだよ。橘伍が思わず心の中で上げたその指摘は力がなく、ぼやきに近いものだった。そのことに橘伍は自ら驚き、そして同時に納得してもいた。
桔也さえ頷けばまあ自分も構わないかなとでもいうような、諦めともまた違う感情が胸の中で芽生え始めている。それはきっと茜太も同じなのだろうと、橘伍はなんとなく感じ取っていた。
だって、お染の言う通りだから。反論の余地もなく、それは明白な事実だから。
桔也も確かに、藍兵衛のことを好いている。藍兵衛から向けられる慕情を、桔也は受け入れている。その桔也がこれまで藍兵衛を拒んでいた理由だったのはほぼ間違いなく橘伍の感情のためで、その橘伍が現在の心境に至った今は、もう桔也には藍兵衛を遠ざける理由など本当はない筈なのだ。だが、一度怒髪天をつく勢いで藍兵衛に噛みついた桔也としては、半ば意地になり引くに引けなくなっている面も大いにあるかもしれない。
つまるところ、この状況はもはや単なる痴話喧嘩なのではないか。そう思い至ってしまうと、急に疲れが押し寄せてきた。
なんとなく茜太に目を向けると彼も橘伍の方を見ていた。視線を交わして、互いに同じ心境であるらしいことを理解する。二人がほとんど同時に少しだけ肩を落としたとき、また藍兵衛が口を開いた。
「君を怒らせると知っていて子どもたちも連れてきたことは、確かに私の落ち度だ。心から謝罪し、二度と繰り返さないことを君に誓う。その上で、君自身の答えを知りたい」
「……。……あんたのそういうところが、ほんと大っ嫌いだよ」
半ば投げやりな調子の声で呟いて、桔也が不意に足を崩した。態とらしいほど太々しい態度で崩れ座りになり、じとりと藍兵衛を睨む。
「……私は、退屈するのも嫌いなんだ。ただの囲われ者になってやる気は毛頭ない」
「というと?」
「あんたの店の商いに、首も突っ込むし口出しもさせてもらう。それを聞き入れるかどうかはあんたに決めさせてやるが、私を蚊帳の外には置かせない」
「願ったりだな。君はとても頭が回るから、心強い」
それでいいのかよ。橘伍がなんとか飲み込んだ心の声など知る由もない藍兵衛は平然としたものだ。そればかりか一層信じがたい内容を平然と話し続ける。
「まだ先の話にはなるが。いずれ今の番頭に暖簾分けを、とは常々考えていたところだ。彼の後には、君がうちの番頭になってもらえないだろうか」
「馬鹿か? ずっと勤めてくれている手代たちをなんだと思ってる。降ってわいた私がいきなり番頭になるなんて、誰が納得するんだ」
「君がそれだけの器だと示してくれれば、何も問題ない。うちの店にはそういう気質の者しかいないからな」
「それが本当なら随分とおめでたいことだ。主人が主人なら奉公人も奉公人だな」
「君に褒めてもらえて光栄だ」
「……あの」
半ば忘れられていた竹衛門が口を挟む。藍兵衛と桔也が同時に振り返り、前者は淡々と、桔也は威圧的に聞き返す。
「何でしょうか」
「何だ?」
「……その相談は、今ここでする必要はない、んじゃないか、と……そろそろ店を開ける支度も、あります、ので……」
「ふむ。確かに、今日はそろそろ失礼した方がよさそうだな。では」
「おい。何を当たり前のように、私と橘伍まで連れて帰ろうとしてる」
「来てくれるのだろう?」
「身請けにはそれなりの段取りがある。今日はさっさと失せろ。暗くなるまでにお子さんたちと家に帰り付かなかったら、お前になんて身請けされてやらないからな」
「それは困るな」
どこまで本気か分からない調子の藍兵衛を尻目に、茜太は妹を促して順調に帰り支度を整えている。あいつ思ったより良い兄貴だし案外しっかりしてんだな、などと橘伍が思っていると、ちょこちょことやってきたお染が満面の笑みで手を握ってきた。
「お待ちしてますわね、橘伍兄さま! 早くお引越ししていらしてくださいね!」
「……はいはい」
つい苦笑している自分をどこか遠くに自覚しながら、小さく熱い手に握られているのとは別の手をなんとなく動かしていた。自分の服で掌の薬を拭ってから、お染の小さな頭をわしわしと撫でてみる。その感触はあまり悪い気のするものではなくて、また少し笑えた。
兄貴になるのも、悪くはないかもな。
また寝返りを打ったとき、その二つの名前は耳に飛び込んできた。遠くで何気なく交わされたはずの声が、はっきりと耳に届いた。
ーー但馬屋さまがお付きに
ーー梗花さまに、早く
最初から訪れてもいなかった眠気などは跳ね除ける必要もない。橘伍は衣擦れ一つ立てずに布団も部屋も抜け出し、そしてやはりかたりとも音を立てることなく天井裏に入り込んだ。
悪辣でがめつかったあの親族をして「売り飛ばそうにも買い手がつかない悪童」と匙を投げさせたのは、何も気質だけの問題ではない。その頃の橘伍は我ながら本当に手のつけられない、誰の手にも負えない、まさしく獣のような子供だった。
気に入らないことをされそうになれば拳も足も爪も歯も全てを使って暴れ回るから、どうこうできる者などいなかった。無理に連れて行かれた先でどれほど固く閉じ込められても一刻もあれば逃げ出してしまうものだから、買い手はいずれ必ず怒鳴り込んできて揉めに揉めた。
縄で括られてもするりと縄抜けして、鍵などは落ちている木片なり何なりで音も立てずにこじ開けて、天井裏だの床下だのを平気で潜り抜けて、どこへでも隠れ潜んでどこからでもあっさりと抜け出してしまう。そうした全ては橘伍にとっては教えられることもなく生まれつき当然にできていたから、もちろん当然にそうしていた。そして今も、機会が訪れないからわざわざやらないというだけであって、その全ての動作はいつでも易々とこなせるのだ。
鼠よりも静かに天井裏を移動して、ここに違いないと見定めた座敷を節穴から覗き込む。勘は今日も橘伍を裏切らず、折しも通されたばかりらしいその男は、橘伍が見定めようとしたまさにその人物だった。相手から見られることも他の誰かに見咎められることもなく、橘伍は人知れずその男を、紙問屋但馬屋の主人を、茜太の父親を見た。
似ている親子だな、というのが率直な感想だった。面差しが、雰囲気が、確かに茜太と似通っているのが、天井裏からも見てとれた。
「梗花もすぐに参りますので」
廊下から伝えて頭を下げたらしい二階廻しが襖を閉めようとする。その隙間を通すように、但馬屋主人が声をかけた。
「急ぐには及ばない、とお伝えしてほしい」
思わず歯噛みしそうになったのを堪えて、橘伍は音を立てずに元来た道を引き返し始めた。急ぐには及ばないなどと優しげに客から伝えられたところで、はいそうですかとちんたら支度をする陰間なぞいない。桔也がすぐにでも真下を通りかかってしまうかもと、焦りを覚えながら橘伍は静かに急いだ。
橘伍以上に聡くて勘も鋭い桔也ならば、僅かな気配を辿って息を潜めている橘伍に気づいてしまうかも知れない。だからその前に、気取られる前に、部屋へ戻らなくては。
それは真実でありながら言い訳でもあるとは、橘伍自身が知っている。本当は、ただ見たくないのだと。
ようやく最初に通り抜けた羽目板が見えてきて、胸を撫で下ろす。だがまさにその時、聞いてしまった。
まだ遠いはずの桔也の声を、橘伍の鋭い耳は拾い上げてしまった。いつもと同じ温度の、あまりにも平然とした、他の誰よりも耳に馴染んだ、聞き間違えるはずなどない父の声を。
「ーーを。それと、床部屋の用意も」
そこからどうやって部屋に戻ったのかさえ覚えていない。気がつけば橘伍は、布団に入り込むことも忘れて畳に座り込んでいた。
どす黒い感情が胸の底で蠢いている。襲いかかる相手を持たないそれを押さえ込むように、橘伍はほとんど無意識に強く拳を握っていた。爪が掌に食い込む痛みさえも今は遠い。
思った通りだった。あの男も、但馬屋主人も、茜太の父親である男も、「そいつら」の同類。金を積んで桔也を買う下劣な男たちの一人。
きっと、その数えきれない連中のうちではマシな部類の人品の男ではあるのだろう。そのことは垣間見た身なりや所作からも、そして桔也や竹衛門や他の者たちの言葉や態度からも窺えた。
けれどそんな事は橘伍にとっては何の意味もなさない。桔也を踏み躙っているというその唯一最大の罪だけで、但馬屋主人を含めたその全ての連中は、橘伍にとっては心底許し難い相手なのだから。
地獄に落ちろなどという言葉では、この胸を塗り潰す憎しみを薄めるにも生ぬるい。この手で八つに引き裂いて、その一つ一つを八つの地獄に投げ込んでやりたい。この手で、この爪で、そうしてやりたい。
ゆっくりと開いて見下ろした掌は、己の爪に裂かれて血を滲ませている。何の感慨もなくそれを見下ろして、そして爪を赤く染めている血を舐めとる。鉄錆の味。
あの男の血も、同じ味がするのだろうか。
但馬屋主人の顔を知った夜に自ら刻んだ傷はまだ消えることなく、橘伍の手に残っている。いや、消えることを橘伍自身が許さずに、消え始める前にまた自ら抉ることを繰り返していた。何お意味もないと知っていても、自分を抑えられずにいた。
最初に傷に気付いた笹乃介にはその場で口止めしたことでしばらくはかろうじて隠せていたが、桔也にも今朝ついに見咎められて痛ましげな顔をさせてしまった。治るまではずっと心配させてしまうから、また傷口をこじ開けることは橘伍にもさすがにできない。その傷が最初についた原因と時期については「いつどうしてついたのかも分からない、覚えてない」と言い張って押し通した。
貼り薬や包帯は邪魔になるから嫌だとごねて拒んだものの塗り薬だけは塗られてしまったから、治りも昨日までよりは早くなってしまうのだろう。そのことさえも苛立たしいように思えて、橘伍は薬でべたつく手をまた握りしめた。
今すぐに誰かが喧嘩でもふっかけてきてくれたなら、存分に憂さ晴らしができるのに。荒んだ思いで小石を踏み潰した時、場違いなほどに邪気のない声に呼ばれた。
「あ、橘伍ー!」
「……」
顔を向けるよりも早く、駆け寄ってきていた茜太はもう橘伍目の前にたどり着いていて呑気に笑っている。今日も筆のお使いですかと屈託なく尋ねられ、面倒だという態度を隠さずに顎を引いた。
何かにつけてこの町内へたびたび使いに出されるようになったのは、「友だち」と会って話をすることを桔也が橘伍に望んでいるからだ。それと分かっていても、今はただひたすらに眼前の小柄な少年が煩わしく厭わしい。舌打ちを堪えて、橘伍は短く尋ねた。
「……妹は」
「乳母やと一緒に、お琴の先生にご挨拶しに行ってます。通いはじめるのは月が替わってからですが」
「……」
尋ねたことへ相槌を打つことすら億劫で、無言でまた目を逸らす。そのまま、相手を視界から追い出したまま、また別のことを尋ねた。
「……他に、つるむ相手もいねーのか、お前」
「居なくはないですけど、橘伍と話してる方が楽しいです」
「……あっそ」
何を言われても癪に触る、その声が苛立ちを呼び起こす。早く笹乃介が戻ってこないか、いっそ自分も中に入って茜太を撒いてしまおうか。考えながらちらりと蝋燭屋の看板を見上げた時、茜太が先ほどまでとは違う声を出した。
「……薬の匂い? 橘伍、どこかケガしてるんですか?」
「……手」
誤魔化すことも億劫で短く答えながら組んでいた腕を解き、掌を広げて見せる。そうすれば知っている年齢よりも幼く見える茜太は、その印象を一層強めている大きな目を零れ落ちそうに見開いた。
「え、どうしたんですか、これ!?」
「……知るかよ。爪が伸びてたんだろ」
「痛そうです……お大事に」
「……」
心配そうに言ってよこす茜太は、今日の橘伍のいつにもましてそっけない態度を傷の痛みで不機嫌だったのだとでも勝手に納得したようだった。橘伍が組み直した腕に隠した掌を、まだ心配そうにちらちらと窺っている。その様子がひどく癪に触った。
こいつも結局は、その父親と同じ。あの男が橘伍の父を見るのと同じ目で、こいつは橘伍を見ている。本人は自覚してもいないらしいそれを、向けられている橘伍ははっきりと感じ取っている。
その醜い感情を、まだ自分自身でさえ分かっていないらしいそれを、今ここで名付けてやろうか。尊敬してやまないらしい父親の別の顔を、その浅ましい本性を教えてやろうか。
桔也があの手この手を尽くして橘伍を色事から遠ざけようとしたところで、その全てを掻い潜って密かに見覚えるのは橘伍には造作もないことだった。それが父の想いを裏切ることだと知っていても、橘伍はいずれ有効な武器となるはずのそれに手を伸ばさずにはいられなかった。それを、密かに研ぎ澄ましていた毒牙を、今ここで試してみようか。
ほんの少しでいい、色を乗せた仕草をしてみせれば、思わせぶりな流し目でもくれてやれば、こんな世間知らずのガキなど容易く手玉に取れる。そしてそれはすぐにその父親の知るところとなって、その男と桔也との間柄に亀裂を入れることだろう。
ほとんど実行へと傾きかけていたその考えを、橘伍はその一歩だけ手前で握り潰して捨てた。その先で必ず直面するはずの桔也の悲しみを、この手の傷を悲しんでくれたよりもずっと深くその心を傷つけると分かっているそれを、引き起こす勇気を持てなかった。
結局のところ、父を悲しませることなど、橘伍にできる筈がないのだ。爪を立てないようにまた拳を握りしめた時、黙り込んでいる橘伍からまだ離れずにいた茜太が弾んだ声を上げた。
「あ、父上!」
「っ!?」
思わず息を呑み、弾かれたように振り向く。低めの身長に応じて短い足で駆けていく茜太を、嬉しげに飛びつく息子を軽く受け止める男を、橘伍は呆然と見ていた。
息子の頭を撫でた但馬屋主人がこちらに顔を向ける。小さく息を呑んで、橘伍は何気ない態度を取り繕いながら頭を下げた。
「……はじめまして」
「君が橘伍くんか。いつも息子や娘と仲良くしてくれて、ありがとう」
「……いえ」
茜太やお染や笹乃介に対してもぶっきらぼうな態度を貫いていた橘伍の態度を、少なくとも茜太はまだ不審がる様子はない。その茜太が少し気掛かりそうに父親と橘伍を見比べているのは、おそらく橘伍の住まいのことか何かを父親にはあえて伏せていたのだろう。心配そうな視線を受け止めることをわざとしない橘伍に、憎たらしいほどに悠然とした但馬屋主人が思いがけない言葉をかけた。
「君に会えたら尋ねたいと、ずっと思っていた。うちの店で、商いを学んでみる気はないだろうか?」
「……え?」
驚いた声を漏らしたのは橘伍ではなく茜太だったが、橘伍も同じほどに驚いていた。そして、その思いがけない提案の先にあるはずの未来を反射的に描いていた。
この町内でも相当に裕福な大店である、紙問屋但馬屋。望んでも容易くは受け入れられないだろうその店での小僧奉公を、他ならぬ主人が橘伍へ打診してきている。
橘伍の年齢であればそれは遅すぎるものでは決してないし、奉公をはじめてしまえば自分の才覚ならばすぐに認められるだろうことも、数年のうちには手代として重用されるだろうことも、自惚れではない正確な予測として分かっている。そして、その道はもしかしたらもっとずっと先まで伸びているかもしれないことも。
それはきっと、桔也が橘伍に望んでいる未来にとても近いもの。そして、橘伍自身は望もうとも思わないもの。それを噛み締めて、小さく息をして、橘伍は男の表情を細心の注意で確かめながら口を開いた。
「……なんで、俺に、それを?」
「そうだな。息子からいつも君の話を聞いているし、息子の人を見る目を信じているから、だろうか」
穏やかな口調に、橘伍は嘘の響きを聞き取った。まだ語られていない、但馬屋主人が語ろうとしていない本音があると、橘伍の鋭い勘が警告している。それを見定めようとした時、唐突に直感し理解した。
数歩先の距離に立っているこの男は「知っている」のだと。茜太がわざと父に伏せた内容も、それ以上のことまでも。その手で繰り返し蹂躙している桔也が、今ここにいる橘伍の父であることを。
胸の底に押し沈めていたどす黒い憎悪が瞬く間に膨れ上がり、胸を覆い尽くす。その昏い感情のままに、ほとんど考える余裕さえもなく、橘伍は口走っていた。
「……もう一つの理由、当てて見せましょうか。俺が梗花の子飼いだから、ですね?」
「っ!」
息を呑んだのは、思わずと言った様子で後ろから肩を掴んできたのは、藍兵衛でも茜太でもなかった。その手の感触や力の強さで、そこにいるのがいつの間にか戻ってきていた笹乃介なのだと橘伍は悟る。だから橘伍はわざわざ振り返る事などせずに、真っ直ぐに藍兵衛に視線を注いでいた。
橘伍がある程度のことを「知って」いると、藍兵衛も知った。その上で、藍兵衛はどう出るか。どんなに小さな嘘や誤魔化しも見逃すまいと見据える橘伍の視線を平然と受け止めて、但馬屋主人はどこまでも穏やかな口調であっさりと認めた。
「それもある。君のお父上のことを、私もとても尊敬し、そして信頼しているからね」
「っ……!」
あまりの言い草に、怒りで目が眩んだ。殴り掛かりたい衝動を抑えて、強く地面を踏みしめる。
尊敬と信頼を向けているなどと嘯きながら、金を積んで桔也の体を開かせている男。桔也の想いになどちっとも興味を持っていない、桔也を蹂躙することしか知らない、どこまでも下劣な男。どうしてこんな奴がのうのうと生きている。どうしてこんな奴やその同類が享楽を貪るために、桔也や花たちは踏み躙られ続ける。どうして、どうして、どうして。
ぶつけてやりたい憎悪をようやく飲み下し、橘伍はもう敵意を隠すことなく相手の目を睨みつけた。呪うように、刻み込むように、ゆっくりと言葉を押し出す。
「……父や楼主に、話してみます」
「そうしてもらえるかな。近いうちに、私も直接お話しをしに行こう」
「……!」
二度と父に近寄るなと怒鳴りつけたい衝動を飲み込み、橘伍はただ乱暴な礼をして背を向けた。何も言わずに影のように寄り添ってくれる笹乃介の足音。
「……橘伍?」
戸惑ったように呼びかけてくる茜太の声がした気がしたが、振り返らなかった。
できる限り平然と歩いていた橘伍の足はいつか早足になり、気づけばほとんど走っていた。暖簾を跳ね除けるように浜岡屋へと飛び込み、勢いに驚いている奉公人たちに謝る余裕もなく、竹衛門がいつも帳面を確かめているあの部屋に向かう。誰に教えられるまでもなく、桔也もそこにいる筈だと確信していた。
入室の可否を尋ねもせず飛び込んだ橘伍に驚いたのは竹衛門だけだった。あまりにもいつも通りの様子の桔也が、穏やかに見上げ尋ねてくる。
「そんなに慌てて、どうした? 橘伍」
「……っ」
何から言えばいいのかも分からなくなり、橘伍は立ち竦んだ。動くこともできない橘伍と穏やかに橘伍の返答を待っている桔也を困惑顔の竹衛門が交互に見て、そしておそらくは橘伍の肩越しに笹乃介の目を見る。そしてまた橘伍に目を向けてきた。
笹乃介も竹衛門も桔也も、口を挟むことも急かすこともなく橘伍の言葉を待っている。そのことを理解して、少しだけ感情が落ち着き始めるのを橘伍は感じた。
ゆっくりと息をして、そしてその場に正座する。深く頭を下げて、顔を上げて、姿勢を正す。桔也と竹衛門を順番に見て、もう一度桔也に目を向けて、そして口を開いた。
「……失礼しました。お二人に、聞いていただきたい、話が」
「ああ、もちろん」
「ゆっくりでいいよ。話してごらん」
「……」
橘伍の、橘伍自身の言葉を、待ってくれている二人の大人。いまは視界の外にいる笹乃介も、橘伍の思いと言葉を尊重して口を挟まずに見守ってくれている。場違いにも安堵に似た感情が胸に滲むのを感じながら、橘伍は言葉を押し出した。
「……商いを学びに来ないか、って。但馬屋さん、が」
「……え!?」
驚いた声を上げた竹衛門とは対照的に、桔也は落ち着き払っていた。桔也はただ少し目を細めて、「そうか」と呟いた。
桔也のその短い相槌は、さまざまなことを橘伍に伝えた。橘伍が桔也の願いに背いて拾い集めた知識があることを、それがどれほどの範囲に散らばっているものなのかを、橘伍の吐き出した言葉から桔也も正確に理解したことを。
「橘伍は、但馬屋さんの店や商いをどう思う?」
理解を経た上で、桔也は変わらない穏やかさで尋ねてきた。橘伍は寸の間言葉を探し出せなくなり、逆に切り返した。
「……親父は、どーなんだよ」
「橘伍の考えが知りたい」
柔らかいが有無を言わせない桔也の声に、本音を吐露しないわけにはいかないことを橘伍も悟る。もう一度迷って、そしてずっと言えずにいた本心を吐き出した。
「商いのことは、分からない、けど。……あんな大きい店、したくてもそうそう奉公させてもらえるもんじゃない。良い話なんだろうな、とは、思う」
「そうか」
「……だけど。親父と一緒にじゃないと、外の暮らしなんて要らない。でも、……親父を囲おうとする奴なんて、みんな嫌いだ」
「……橘伍」
「っ、分かってる!」
宥めようとする口調の桔也が何を言うのかなんて分かりきっているから、橘伍は叫ぶように遮った。膝の上で強く拳を握りしめる。塗られた薬でぬめる掌へ爪が食い込む痛み。
分かっている、分かっている。誰かの囲われ者になること以外に、桔也が外で暮らせる道などないと。こんな場所に、こんな苦界に居続けることの方がずっと、桔也を緩やかに苦しめるのだと。
分かっていても、どうしても飲み込むことができない。許せない、許すことなどできない。桔也を踏み躙る全てのものたちが、そして桔也の枷にしかなれない自分自身が。
本当はずっと前から分かっていた。自分なんかいなければ、自分なんかを引き受けてさえいなければ、桔也はこんなにも苦しんではいない。桔也を縛り付けて痛みを与えているのはあの下劣な男たちばかりではなくて、自分も同じなのだ。
「……橘伍」
柔らかな声でまた呼んで、桔也がそっと肩に触れてきた。少し冷たいその手の温度と重み。その美しい顔には今きっと、困ったような笑みが浮かんでいる。
答えることも顔を上げることもできず、橘伍は強く目を閉じ手を握りしめた。誰も何も言えない、重苦しくのしかかる空気が部屋に満ちていた。
「……楼主、梗花さん」
長く息苦しい沈黙を破ったのは、いつのまにか部屋の外に来ていたらしい二階廻しの声だった。橘伍の肩に触れたままの桔也の手が僅かに動いて、彼が二階廻しに目を向けて視線だけで言葉を促したらしいことが橘伍にも伝わる。少し言葉に迷ったらしい二階廻しは、彼らしくもないおどおどした調子で用件を述べた。
「あの……但馬屋さんご一家がお見えです。梗花さんと橘伍と、お話しをされたいそうです」
「!?」
橘伍が思わず振り向いた拍子に、桔也の手はその肩から滑り落ちていた。何をおいても確認するべきだが、するにはあまりにも恐ろしいことが、ここに一つある。けれど、それを確かめる勇気があるのは、この部屋どころか花街中でもおそらく一人だけだ。誰も何も言えない中で、何も言わずにゆったりと姿勢を戻した桔也が、あまりにもいつも通りな口調でそれを質した。
「……ご一家?」
「そのう……お子さん二人が、ご一緒です」
二階廻しがとうとうそれを明確にしてしまった途端に部屋の空気が冷えたことを、ほぼ全員が肌で感じた。もしかするとそれは部屋の中だけではなく、浜岡屋の全体にさえ及んだかもしれない。その酷寒の中心である桔也を除く誰もが、はっきりとそれを感じたのかもしれなかった。
輝くばかりに麗しい笑みで、桔也が何も言わずに橘伍に視線で尋ねてくる。橘伍は思わず目を逸らしながら答えた。
「……兄貴が、俺の一つ下。妹はその二つ下」
「ありがとう」
美しい笑みのまま答えた桔也が不意に立ち上がった。どこまでもいつも通りの優雅さでさっさと部屋を出ていく。迷いのないその足取りを呆然と見送ってしまってから、橘伍も慌てて後を追いかけた。
わざわざ言葉で確かめるまでもない。桔也は、ものすごく、怒っている。その理由も、浜岡屋の誰もが知っている。
桔也は子どもというものにどこまでも甘く、その存在をあまりにも清らかなものとして信じている。その彼にしてみれば子どもを、それも数歳とは言え橘伍よりも年若い年齢の子らを花街に同行させるなどというのは、言語道断の所業なのだ。
奉公人や「子」らはみな桔也の冷ややかな激怒の気配に恐れをなして隠れ震えているらしい。誰にも出くわすことなく桔也は迷いのない足取りで二階に上がり、そして彼の部屋の襖を声もかけずに引き開けた。
前触れもなく音を立てて開かれた襖に、父親と並んで座っていた茜太とお染が飛び上がらんばかりに驚く。だが但馬屋主人だけは平然とした様子で微動だにしなかった。やはり口を開かないまま座敷に踏み込んだ桔也はつかつかと藍兵衛に歩み寄り、その眼前に仁王立ちになって冷ややかに彼を見下ろすと、時そこに至ってようやく冷たい声を放った。
「言いたいことは色々あるがな。子連れでこんなところに来るなんてどういう了見だ、但馬屋さん?」
「いつものように『藍兵衛』と呼んで欲しいものだが」
「質問に答えろよ」
「君が名を呼んでくれるなら」
「答えろ、藍兵衛」
「家族になりたいと思っている相手に、家族を紹介しないわけにはいかない」
恐れもしなければ悪びれるつもりもないらしい但馬屋主人に、藍兵衛という名であるらしいその男に、桔也の静かな怒りは一層激しくなったらしい。ますます冷たく刺々しくなった声を投げつける。
「花街に年端も行かない子を連れ込むような頭の茹だった男に、私が身請けされるとでも? 見くびられたものだな」
「うちの店に出向いて欲しいと何度も言っているのに、手形を受け取ってもくれないのは君だろう、桔也」
飄々としてさえいる藍兵衛に桔也は一層苛立ったらしいが、その前にかろうじて勇気を振り絞ったらしい竹衛門がそっと口を挟んだ。誰の何の助けにもならない内容ではあったが。
「桔也、ひとまず座っては……」
「……親父」
橘伍も思わず呼びかけて、桔也の袖を少し引く。それで少し我に返ったらしい桔也は橘伍を振り向いて困ったように少し考える。だが竹衛門へと顔を向けたときには、またあまりにも麗しい笑みを貼り付けていた。
「座布団」
「……はい」
笑顔で命じる桔也の迫力に負けて、竹衛門は反論もできずに但馬屋ご一行の向かいに座布団を二枚並べる。その一枚に美しい所作で座した桔也は、橘伍もその隣に腰を下ろすとまた怖い笑顔で口火を切った。入り口の近くに控えておくことにしたらしい竹衛門と笹乃介は当然のように黙殺される。
「私が頷かないからと、先に橘伍を抱き込もうとするなんてな。そんな下衆だったとはついぞ気付かなかったよ、『藍兵衛』」
「どんな手でも使う。君を手に入れるためなら」
呼びかけに威圧を込めた桔也に、藍兵衛はやはり微塵も臆さない。それにまた苛立ったらしい桔也が口を開こうとしたが、藍兵衛がもう一度口を開く方が早かった。
「誰にも君を渡したくない」
「はあ? 何の寝言だ」
「君も、君の家族も、……櫛の主への君の想いも、全て受け止める」
「っ!?」
息を呑んだのは橘伍と竹衛門だけではなかった。誰よりも強い衝撃を受けたらしい桔也は数瞬言葉を失ったが、やっとの思いで体勢を立て直したらしい。動揺を押し隠そうとしている口調で低く凄む。
「……あんたなんか願い下げだ、と、私が言ったら?」
「考えを変えてもらえるまで、通い続け口説き続ける」
「まさしく小人閑居してって奴だな。金と刻はもっと有効に使え」
「君がなるべく早く頷いてくれるとありがたい」
刺々しい言葉を吐くうちに少し平静を取り戻したらしい桔也、最初から自分の調子を全く崩さない藍兵衛。お互いに歩み寄る気がこれっぽっちもないだろう二人の、噛み合っているようでどこまでも噛み合わずに続いているやり取り。これは随分と長く続くのだろうと、橘伍が腹を括った時だった。
「あのう」
場違いなほど明るくのどかな声をあげたのは、茜太の横にちょこんと座っているお染だった。無邪気そのものの表情で父親と桔也を交互に見て、橘伍と茜太のことも見比べて、そしてことんと首を傾げてまた桔也を見る。
「わたくし、よく分からないのですけれど。つまり、桔也さまが新しいお母さまになられるんですのよね? で、橘伍さんも兄さまになられるんですわね?」
思ってた以上に図太いな、こいつ。場違いにも感心しそうになった橘伍の横で、桔也は優しくお染を言い含めようとした。その美しい顔には藍兵衛に向けるのとは全く違う、穏やかそのものの笑みが載っている。
「お嬢さん。悪いけれど、『お母さま』にはならないな。それに……」
「でも、ご一緒に暮らせるのでしょう? 家族になってくださるんでしょう?」
「そうだな」
「おい、私がいつ頷いた」
さも当然のように頷いた藍兵衛には、すかさず桔也の視線と言葉が矢のように突き刺さる。だがお染はそれを気にしたそぶりもなく、明るい笑顔で小さな手のひらを打ち合わせた。
「まあ、やっぱりそうですのね! 嬉しいですわ! どうぞよろしくお願いいたします、桔也さま、橘伍兄さま!」
「いや……」
「『お母さま』でも問題はないと思うが」
「藍兵衛は黙れ」
平然と口を挟んだ藍兵衛に凄んでから、桔也は再びお染に向き合って言い含めようとしたらしい。だがその前に、ただ一人嬉しそうなお染が明るい声を上げた。
「難しいお話は、わたくしよく分かりませんけれど。でも、お二人がとても仲良しなのは分かりますわ!」
「……………は?」
あまりにも思いがけなかったらしい桔也が、彼らしくないほどの気の抜けた声を漏らす。自分の言葉の効果など全く分かっていないらしいお染の柔らかそうな髪を、藍兵衛の手がよしよしと撫でた。
「よく分かっている。さすがは私の娘だ」
「はあい!」
褒められて嬉しそうなお染の頭に手を置いたまま、藍兵衛がまた桔也に体を向ける。そしてどこまでも平然とした口調で、さも当たり前のような態度で、聞き分けのない子供を言い含めるような調子で言葉をかけた。
「桔也。君が頷いてくれされすれば八方丸く収まると思うのだが、どうだろうか」
俺と茜太はどうなんだよ。橘伍が思わず心の中で上げたその指摘は力がなく、ぼやきに近いものだった。そのことに橘伍は自ら驚き、そして同時に納得してもいた。
桔也さえ頷けばまあ自分も構わないかなとでもいうような、諦めともまた違う感情が胸の中で芽生え始めている。それはきっと茜太も同じなのだろうと、橘伍はなんとなく感じ取っていた。
だって、お染の言う通りだから。反論の余地もなく、それは明白な事実だから。
桔也も確かに、藍兵衛のことを好いている。藍兵衛から向けられる慕情を、桔也は受け入れている。その桔也がこれまで藍兵衛を拒んでいた理由だったのはほぼ間違いなく橘伍の感情のためで、その橘伍が現在の心境に至った今は、もう桔也には藍兵衛を遠ざける理由など本当はない筈なのだ。だが、一度怒髪天をつく勢いで藍兵衛に噛みついた桔也としては、半ば意地になり引くに引けなくなっている面も大いにあるかもしれない。
つまるところ、この状況はもはや単なる痴話喧嘩なのではないか。そう思い至ってしまうと、急に疲れが押し寄せてきた。
なんとなく茜太に目を向けると彼も橘伍の方を見ていた。視線を交わして、互いに同じ心境であるらしいことを理解する。二人がほとんど同時に少しだけ肩を落としたとき、また藍兵衛が口を開いた。
「君を怒らせると知っていて子どもたちも連れてきたことは、確かに私の落ち度だ。心から謝罪し、二度と繰り返さないことを君に誓う。その上で、君自身の答えを知りたい」
「……。……あんたのそういうところが、ほんと大っ嫌いだよ」
半ば投げやりな調子の声で呟いて、桔也が不意に足を崩した。態とらしいほど太々しい態度で崩れ座りになり、じとりと藍兵衛を睨む。
「……私は、退屈するのも嫌いなんだ。ただの囲われ者になってやる気は毛頭ない」
「というと?」
「あんたの店の商いに、首も突っ込むし口出しもさせてもらう。それを聞き入れるかどうかはあんたに決めさせてやるが、私を蚊帳の外には置かせない」
「願ったりだな。君はとても頭が回るから、心強い」
それでいいのかよ。橘伍がなんとか飲み込んだ心の声など知る由もない藍兵衛は平然としたものだ。そればかりか一層信じがたい内容を平然と話し続ける。
「まだ先の話にはなるが。いずれ今の番頭に暖簾分けを、とは常々考えていたところだ。彼の後には、君がうちの番頭になってもらえないだろうか」
「馬鹿か? ずっと勤めてくれている手代たちをなんだと思ってる。降ってわいた私がいきなり番頭になるなんて、誰が納得するんだ」
「君がそれだけの器だと示してくれれば、何も問題ない。うちの店にはそういう気質の者しかいないからな」
「それが本当なら随分とおめでたいことだ。主人が主人なら奉公人も奉公人だな」
「君に褒めてもらえて光栄だ」
「……あの」
半ば忘れられていた竹衛門が口を挟む。藍兵衛と桔也が同時に振り返り、前者は淡々と、桔也は威圧的に聞き返す。
「何でしょうか」
「何だ?」
「……その相談は、今ここでする必要はない、んじゃないか、と……そろそろ店を開ける支度も、あります、ので……」
「ふむ。確かに、今日はそろそろ失礼した方がよさそうだな。では」
「おい。何を当たり前のように、私と橘伍まで連れて帰ろうとしてる」
「来てくれるのだろう?」
「身請けにはそれなりの段取りがある。今日はさっさと失せろ。暗くなるまでにお子さんたちと家に帰り付かなかったら、お前になんて身請けされてやらないからな」
「それは困るな」
どこまで本気か分からない調子の藍兵衛を尻目に、茜太は妹を促して順調に帰り支度を整えている。あいつ思ったより良い兄貴だし案外しっかりしてんだな、などと橘伍が思っていると、ちょこちょことやってきたお染が満面の笑みで手を握ってきた。
「お待ちしてますわね、橘伍兄さま! 早くお引越ししていらしてくださいね!」
「……はいはい」
つい苦笑している自分をどこか遠くに自覚しながら、小さく熱い手に握られているのとは別の手をなんとなく動かしていた。自分の服で掌の薬を拭ってから、お染の小さな頭をわしわしと撫でてみる。その感触はあまり悪い気のするものではなくて、また少し笑えた。
兄貴になるのも、悪くはないかもな。
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魔物退治に出かけた兵団長カヒトは、仕留めたはずの魔物に紋を刻まれた。
紋に促されるままに発情し、尻が濡れるカヒト。
幼馴染であり魔導士のリアノから、淫紋なのではないかと言われ、リアノに片恋をしているカヒトは、紋を理由に彼を求める。
ひそかにカヒトを想っていたリアノも、彼の気持ちを知らぬまま、紋のせいにしてカヒトを愛撫する。
互いに魔物が刻んだ紋を理由に、相手を求めるふたり。
しかし、子どもができるかもしれないと、リアノはいくら求められ、欲していたとしても、最後の一線だけは越えない。
カヒトはそれがとても不満で――。
子持ちの俺が外堀を埋められて医者の嫁になった話
椿木ガラシャ
BL
――一児を育てながら看護師として働いている朝居千影は、医者である大宮敬吾に関係を迫られていた。拒む千影をよそに、段々と外堀を埋めていく大宮…。
果たして千影は大宮の手から逃れることができるのか。
6000字の軽い話でハッピーエンドです。
pixivにも題名違い、ムーンライトにも投稿しています。
その、梔子の匂ひは
花町 シュガー
BL
『貴方だけを、好いております。』
一途 × 一途健気
〈和孝 × 伊都(梔子)〉
幼き日の約束をずっと憶えている者同士の話。
梔子の花言葉=喜びを運ぶ・とても幸せです
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※「それは、キラキラ光る宝箱」とは?
花町が書いた短編をまとめるハッシュタグです。
お手すきの際に覗いていただけますと幸いです。
菊松と兵衛
七海美桜
BL
陰間茶屋「松葉屋」で働く菊松は、そろそろ引退を考えていた。そんな折、怪我をしてしまった菊松は馴染みである兵衛に自分の代わりの少年を紹介する。そうして、静かに去ろうとしていたのだが…。※一部性的表現を暗喩している箇所はありますので閲覧にはお気を付けください。
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