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肆の櫛
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同じ部屋の奉公人たちが起き出せば橘伍も自然と目覚め、彼らに混じって起き上がる。今朝ももちろんそうだった。
「きぃ、おはよー」
「おはよ、笹兄」
顔を洗って朝餉に向かうとき、ちょうど二階から降りてきた笹乃介に声をかけられた。何の気なしに挨拶を返して通り過ぎようとしたが、その前に伝えられた伝言に思わず足が止まる。
「あ、そうそう。きぃに頼みたい用があるから、朝餉の後で部屋に来て欲しいって桔也さんが」
「……分かった」
伝えられた内容を噛み締めながら答えた橘伍が歩みを再開すると、笹乃介もさっさと自分の仕事に戻っていく。一気に暗く重たくなった胸を自覚しながら、橘伍はできる限り自然な顔を取り繕った。
笹乃介の口振りからして、今朝は朝餉を取らないつもりであるらしい桔也。売り子がそうする理由などは、わざわざ言葉にしないだけで花街の誰もが知っている。要はしつこい客に夜通し犯されて動こうにも動けず、食事も喉を通らないのだ。
一番の売れっ子として自室も与えられている桔也は食事のためにわざわざ部屋を移ることはなく、膳は彼の部屋に運び入れられる。まだ橘伍が幼かった頃にはその部屋で桔也に食事の作法を習いながら食事をするのが日課だったし、その頃の父は橘伍の目を気にしてか朝餉を抜いたことなど一度もなかったとも橘伍は記憶している。だが橘伍自身が言い出して若い「子」や奉公人に混ざって食事を取るようになって随分と経っている今は、桔也が朝餉を取らないことは頻繁ではないにしろ珍しいことでもなくなっている。
気がかりそうに自分を窺っている幾つもの視線をあえて受け止めようとせずに橘伍は座り、手を合わせて食事を始めようとする。だが隣に座っていた「子」が迷いながらも話しかけてこようとする気配があったので、相手が言葉を探している隙に橘伍はわざとそっけなく告げた。
「……橘伍」
「気にしてないし、しなくていい」
先んじて言い切ると、相手はまだ物言いたげながらも口を閉じた。店で最も年若い「子」の彼は橘伍よりも二つしか年長ではないくせにいつも妙に兄貴ぶろうとしてくるから、今朝もまた何か案じるような言葉でもかけたかったのだろう。
そんな風に変に気を回されるよりも、時に無頓着すぎるところもある笹乃介のような態度でいてくれた方が、橘伍にとってはよほどいいのに。溜息を飲み込んで橘伍は汁椀を取り上げ、その中身をほとんど一気に飲み下した。
味も分からない朝餉を無理に掻き込み、橘伍は二階に上がった。閉ざされた襖の前で声をかける前に、足音か何かで気づいていたらしい桔也が室内から襖を開く。
「おはよう、橘伍」
「……おはよ」
「よく眠れたかい?」
「ん」
良かったと笑う桔也に招き入れられるままに室内に足を踏み入れる。自分がここで朝餉をとっていた頃ともほとんど変わり映えしていない部屋だと、今更のように思う。それはきっと現実を直視したくないための考えなのだとは、橘伍自身が分かっている。
気怠そうな様子を隠しきれずに文机の前に座っている桔也だが、夜明け前には湯浴みを済ませたらしい姿からは夜の気配はすでに洗い落とされている。けれどその髪がまだ解かれたままだから、橘伍の胸にはまた昏い感情が忍び寄ってくる。
日中は邪魔にならぬようにまとめていることが多い髪を肩に流しているのは客の愛咬の跡を隠したいときなのだと、橘伍はずっと前から知っている。そして自分がそうと知っていることを桔也に悟らせないために、細心の注意を払っている。
「……用があるって、聞いたけど」
「ああ」
ぶっきらぼうに促すと、それでやっと思い出したかのように桔也が文机から紙を拾い上げる。どうやら注文書らしいそれを慣れた手つきで畳みながら、桔也は気軽な様子で言った。
「糸屋への使いを頼みたいんだ。笹乃介くんも楼主の用事で同じ辺りに行くようだから、二人で行ってきてほしい。笹乃介くんには伝えてあるから」
「分かった」
「頼んだよ」
微笑んだ桔也にまた何気ない話題を投げかけられる前に出て行こうと、橘伍は早足にならないように注意しながら部屋を出る。けれど階段を降りて行っても、笹乃介を目で探しながらも、目敏く見とめてしまったそれがいつまでもちらついて離れなかった。
文机の隅に載せられていた、見覚えのあるあの櫛。桔梗の柄が施された、古びてはいるが繊細で美しい品物。それは橘伍が知る限り毎日と言って良いほどの頻繁さで、桔也の絹のような髪を飾っている。
櫛に秘められた言葉遊びを、橘伍も知っている。橘伍がそれを知っているなどとは、きっと桔也の方では気づいていないけれど。
男が誰かに宛てて贈る櫛に込められるのは、「苦しくても、しんどくても、お前となら暮らしていける」などという甘ったるい意味。単なる語呂合わせでしかないはずのそれが花街に咲く者たちにとってはどれほど甘い夢なのか、贈り主が本当に知ることなどあるはずもない。
もう随分と前に誰かが桔也に贈ったものだろうことは、尋ねるまでもなく分かる。そして桔也が今なおここに居るということは、甘言は櫛がこんなにも古びるほどの時を経てもまだ叶えられていないのだ。
なのにどうして桔也はあんなにも優しい、そしてあんなにも愛おしそうな仕草で、あの櫛を扱うのだろう。どうして片時も身から離したくないと言わんばかりの様子で、桔也はあの櫛を身につけ続けているのだろう。
それほどまでに桔也が想う相手ならばもしかしたら、自分もその存在を受け入れることができたのかもしれない。けれどあの櫛に刻まれた年月の爪痕は、桔也に櫛と夢を贈った男にはその夢を叶えるつもりはもはやないのだと無言で示している。
それが誰なのか分かりさえしたなら、地の果てまでも追いかけてこの手で八つ裂きにしてやるのに。今も自分の中にある獣のような魂は、それを成し遂げることを躊躇ったりしないのに。やり場のない思いで握りしめた拳の中では、爪が己の掌を傷つけていた。
馴染みの呉服屋が注文伺いにきたらしい。階下の華やいだ空気からそれを感じとりながら桔也が部屋で寛いでいると、薄く予想していた気配が近づいてきて半ば開けていた襖から中を覗き込んだ。
「桔也、元気だった?」
「やあ、姐さん」
華やかな美貌を惜しみなく輝かせるその女人を桔也は気軽に招き入れ、座布団を勧める。礼を言って座る彼女の所作はもうずっと前に花街にいた頃から変わらず、流れるように優雅だった。
別の見世の者である桔也を幼い頃から弟のように可愛がってくれていた彼女は笹乃介が引き取られてくるよりも少し前に花街を去っている。当時から羽ぶりの良かった呉服屋の男寡に身請けされてその内儀となった彼女は生来の明るい気性もあってすぐに店にも町にも溶け込み、今や人望熱い美人女将として店を切り盛りしている。一男一女の子宝にも恵まれた、その子らも母親譲りの華やかな容貌とさっぱりした気性で町内の人気者だ、とは花街までも届いている評判だった。その呉服屋美人女将はといえばやはり優雅な仕草で少し膝を崩し、そして桔也を見ていたずらに笑う。
「聞いたわよお。あなた、また但馬屋さんを袖にしたんですって?」
「……姐さん」
「橘伍ちゃんなら、さっき笹乃介ちゃんとお使いに行くのを見たわ。大丈夫」
何気なく紡がれた名前を桔也が視線で咎めると、美女は優雅な仕草で肩をすくめる。彼女にもこちらの意を汲んでくれるつもりはあるらしいことをその言葉で確かめて、桔也は小さく息を吐いた。
桔也も驚くほどに賢く聡い橘伍は、一度見聞きしたものを忘れることがほとんどない。その上に頭の回転も早くて勘も鋭く働くものだから、どれほど小さな「手がかり」さえもその目耳に入れることはできないのだ。但馬屋の兄妹との間に友情が育っているという今では、尚のこと。
友人の父親が桔也の客だなどとは、身請けまで言い出すほどにのぼせ上がっているなどとは、橘伍には決して悟られてはいけない。親しい友人を作る機会すらもあまり持てない橘伍から数少ない友人を奪い取ることなど、できようもない。胸に刻み直してから桔也は気を取り直すことを決め、しばらくの間は「姐さん」との取り止めのない会話を楽しんだ。
「……ん、下も片付いたみたいね。じゃあ、また」
「ああ、訪ねてくれてありがとう」
「いいえ、久しぶりにあなたの顔が見れて嬉しかったわ、可愛い子」
とうに彼女の背丈を追い越している桔也に幼かった頃と同じ口ぶりで笑い、優雅に立ち上がった美女は部屋を出て行こうとする。だがふと立ち止まって振り向いた。
「ああ、そうそう。今夜にでも、中里屋さんのご隠居さんがお見えになるみたいよ」
「ここに?」
「もちろんよお。うちのお鈴があちらのお孫さんから聞いた話だから、確かよ」
桔也は会えるはずもない愛娘の名を、誇しげな笑みで美女が語る。話題となったその少女たちが同い年で同じ師匠から花を習ってもいる遊び仲間だということは、桔也も聞き知っていた。
「それじゃあ、橘伍ちゃんにもよろしくね」
「伝えておくよ」
呉服屋の一行が去っていくのを遠く聞きながら桔也はいくつかの書き物をして、そしてそれを携えて楼主を探しに向かった。不躾な但馬屋主人とは違って「締め出した」者たちへの気遣いも忘れないあの粋な老人が早晩訪れるというならば、それはそれでまた異なる準備もあるのだ。
「やっぱり来たな」
「太客相手に大概じゃのー、桔也さんや」
「その呼び方はやめろ。それに、仕事もさせない奴が太客ぶるな」
太客に応対するにしてはあんまりな桔也の言動を、からからと笑う木綿問屋中里屋の隠居は咎めない。桔也としてもその老人を太客などとは全く思っていないし、取り澄まして迎えるべき相手とさえ思った試しもない。大袈裟に溜息を吐いて見せる桔也に、老人は生意気な末息子でも見るような目を向ける。
「そう言ってくれるな。手に負えん馬鹿息子の嫁にきてもらうはずだったお人には、さしもの儂も手は出せんわなあ」
「陰間が嫁になれるわけがあるか。囲われるだけだろう」
「同じことじゃろ」
「全然違う」
「違わんよ」
やんわりとした声音で断言され、桔也はつい言葉に詰まる。その桔也をまっすぐに見て、老人は驚くほど優しい目をして言った。
「あいつはお前さんを、嫁として貰うつもりじゃったよ」
「……」
できもしないことを語った愚かな男。何か軽い言葉で流そうとして、声さえ出せずに失敗した。胸が痛む。涙がこぼれそうになる。震えた息を強引に鎮めた。
叶わなかった、そしてもう二度と叶わない夢になど、意味はない。一度だけ強く目を閉じて、強引に話題を変えた。
「……お春さん、幾つになった?」
「十じゃのう」
「へえ、もうそんな年頃か」
すんなりと老人の孫娘の名を吐き出してしまった自分に驚くことさえしない。寝物語のように飽きるほど聞かされていたそれを、会ったことも会えるはずもない少女の名前を、忘れられるはずもない。
やっとずり這いを始めた愛娘がいかに愛らしいかといった話を、それはそれは嬉しそうに語りきかせてきた男。そのあまりにも悪びれない態度に、嫉妬することさえできなかった自分。その声が、眼差しが、指の温度が、腕の力が、好きだった。
あの時は二度と戻らないままに、桔也の思いを置き去りにしたままに、少女はすくすくと育ち老人は老いを重ねていく。それを悲しみとは、桔也は思おうともしていない。
そろそろ来るだろうと思っていた足音がやってきて、開いた襖から顔を見せたのはやはり橘伍だった。礼儀正しく頭を下げて入ってきた息子は襖を閉めた途端、立ち上がる前からすでに気軽すぎる声を上げている。
「爺さん、久しぶりじゃん。また髪減った?」
「おー橘伍、元気そうじゃのー。また背が伸びたか?」
「伸びるに決まってんだろ、育ち盛り舐めんな」
随分と無礼な橘伍の軽口を全く気に留めない老人が嬉しげな声をあげ、橘伍もまた軽く言葉を返す。
運んできた徳利を老人の膳に置いた橘伍はそのまま平然と腰を据えて、断りもなく膳の料理を摘む。それを客である老人が咎めるどころか目を細めて見ているのだから、桔也もわざわざ口を挟まない。他の「子」らでもいればその手前もあり叱らないわけにはいかない振る舞いだが、自称「太客」のこの老人自身が最初から彼らを締め出しているし、なにより橘伍自身も他の者がいれば彼らに遠慮して完全無欠な振る舞いしかしなくなってしまう。
自身の孫娘と近い年頃の橘伍を、この老人はもう一人の孫とでも思っているような節がある。それが彼自身の息子と桔也との間にかつてはあった「仲」と繋がりのある感情なのかを、桔也はわざわざ質そうとも思わない。尋ねたところで何の意味もないことだから。
「なんか面白い話ないの、爺さん」
「ふむ、何が良いかのう」
橘伍にせがまれた老人はやはり孫に相対するような顔をしていて、橘伍もまるで祖父に甘えて纏わりつくような態度で寛いででいる。それを眩しいと微かに思って、そしてこの景色がなぜ成り立っているのかを思い出して、桔也は胸の中で自嘲した。
この老人が桔也を「そんな目」で決して見ようとしない人物だからこそ、橘伍はこんなにも目に見えて心を許している。もしも「あの男」がこの場に居たなら、「あの男」と桔也が共に過ごしていた時間を少しでも橘伍が知っていたなら、橘伍はいま無邪気に話をねだっているこの老人にさえ心を開いてはいなかっただろう。
「……爺さん、眠いの?」
「うむ……いや……」
橘伍の声で物思いから覚め、桔也もそちらに目を向けた。明らかに眠たげな老人を自分の目でも確かめて、指摘した橘伍本人も眠たそうだとも同時に見てとる。なので、老人が口を開く前にわざとらしいほどに呆れた口調で言い捨てた。
「眠いなら無理するなよ、ご老体。庚申でもないのに」
「何を生意気な、ジジイ扱いする気か!?」
「だって爺さんじゃん……」
「橘伍まで!?」
「……良いから寝てしまえよ。私も眠りたいし、橘伍に夜更かしもさせたくない」
呆れたふりをして言いながら、桔也は部屋の隅に用意されていた寝具をさっさと敷きのべる。三人分のそれを手際よく用意して、不満顔の老人は無視して先に息子を招く。
「布団にお入り。灯りもすぐに落とすから」
「……ガキ扱いすんな」
不満そうに言いながらも素直に布団に潜り込む橘伍に続いて、老人も渋々布団へとやってくる。二人が布団にくるまったのを確かめて灯りを落とし、桔也も空いていた出入り口に一番近い布団に入った。
やがて穏やかな二つの寝息が聞こえ始めても、桔也自身にはまだ眠りが訪れない。小さく息を吐いて、音を立てないように懐にしまった櫛を探る。桔梗の模様を確かめるように指で繰り返し辿りながら、桔也は天井の節目を何度も目でなぞっていた。
「きぃ、おはよー」
「おはよ、笹兄」
顔を洗って朝餉に向かうとき、ちょうど二階から降りてきた笹乃介に声をかけられた。何の気なしに挨拶を返して通り過ぎようとしたが、その前に伝えられた伝言に思わず足が止まる。
「あ、そうそう。きぃに頼みたい用があるから、朝餉の後で部屋に来て欲しいって桔也さんが」
「……分かった」
伝えられた内容を噛み締めながら答えた橘伍が歩みを再開すると、笹乃介もさっさと自分の仕事に戻っていく。一気に暗く重たくなった胸を自覚しながら、橘伍はできる限り自然な顔を取り繕った。
笹乃介の口振りからして、今朝は朝餉を取らないつもりであるらしい桔也。売り子がそうする理由などは、わざわざ言葉にしないだけで花街の誰もが知っている。要はしつこい客に夜通し犯されて動こうにも動けず、食事も喉を通らないのだ。
一番の売れっ子として自室も与えられている桔也は食事のためにわざわざ部屋を移ることはなく、膳は彼の部屋に運び入れられる。まだ橘伍が幼かった頃にはその部屋で桔也に食事の作法を習いながら食事をするのが日課だったし、その頃の父は橘伍の目を気にしてか朝餉を抜いたことなど一度もなかったとも橘伍は記憶している。だが橘伍自身が言い出して若い「子」や奉公人に混ざって食事を取るようになって随分と経っている今は、桔也が朝餉を取らないことは頻繁ではないにしろ珍しいことでもなくなっている。
気がかりそうに自分を窺っている幾つもの視線をあえて受け止めようとせずに橘伍は座り、手を合わせて食事を始めようとする。だが隣に座っていた「子」が迷いながらも話しかけてこようとする気配があったので、相手が言葉を探している隙に橘伍はわざとそっけなく告げた。
「……橘伍」
「気にしてないし、しなくていい」
先んじて言い切ると、相手はまだ物言いたげながらも口を閉じた。店で最も年若い「子」の彼は橘伍よりも二つしか年長ではないくせにいつも妙に兄貴ぶろうとしてくるから、今朝もまた何か案じるような言葉でもかけたかったのだろう。
そんな風に変に気を回されるよりも、時に無頓着すぎるところもある笹乃介のような態度でいてくれた方が、橘伍にとってはよほどいいのに。溜息を飲み込んで橘伍は汁椀を取り上げ、その中身をほとんど一気に飲み下した。
味も分からない朝餉を無理に掻き込み、橘伍は二階に上がった。閉ざされた襖の前で声をかける前に、足音か何かで気づいていたらしい桔也が室内から襖を開く。
「おはよう、橘伍」
「……おはよ」
「よく眠れたかい?」
「ん」
良かったと笑う桔也に招き入れられるままに室内に足を踏み入れる。自分がここで朝餉をとっていた頃ともほとんど変わり映えしていない部屋だと、今更のように思う。それはきっと現実を直視したくないための考えなのだとは、橘伍自身が分かっている。
気怠そうな様子を隠しきれずに文机の前に座っている桔也だが、夜明け前には湯浴みを済ませたらしい姿からは夜の気配はすでに洗い落とされている。けれどその髪がまだ解かれたままだから、橘伍の胸にはまた昏い感情が忍び寄ってくる。
日中は邪魔にならぬようにまとめていることが多い髪を肩に流しているのは客の愛咬の跡を隠したいときなのだと、橘伍はずっと前から知っている。そして自分がそうと知っていることを桔也に悟らせないために、細心の注意を払っている。
「……用があるって、聞いたけど」
「ああ」
ぶっきらぼうに促すと、それでやっと思い出したかのように桔也が文机から紙を拾い上げる。どうやら注文書らしいそれを慣れた手つきで畳みながら、桔也は気軽な様子で言った。
「糸屋への使いを頼みたいんだ。笹乃介くんも楼主の用事で同じ辺りに行くようだから、二人で行ってきてほしい。笹乃介くんには伝えてあるから」
「分かった」
「頼んだよ」
微笑んだ桔也にまた何気ない話題を投げかけられる前に出て行こうと、橘伍は早足にならないように注意しながら部屋を出る。けれど階段を降りて行っても、笹乃介を目で探しながらも、目敏く見とめてしまったそれがいつまでもちらついて離れなかった。
文机の隅に載せられていた、見覚えのあるあの櫛。桔梗の柄が施された、古びてはいるが繊細で美しい品物。それは橘伍が知る限り毎日と言って良いほどの頻繁さで、桔也の絹のような髪を飾っている。
櫛に秘められた言葉遊びを、橘伍も知っている。橘伍がそれを知っているなどとは、きっと桔也の方では気づいていないけれど。
男が誰かに宛てて贈る櫛に込められるのは、「苦しくても、しんどくても、お前となら暮らしていける」などという甘ったるい意味。単なる語呂合わせでしかないはずのそれが花街に咲く者たちにとってはどれほど甘い夢なのか、贈り主が本当に知ることなどあるはずもない。
もう随分と前に誰かが桔也に贈ったものだろうことは、尋ねるまでもなく分かる。そして桔也が今なおここに居るということは、甘言は櫛がこんなにも古びるほどの時を経てもまだ叶えられていないのだ。
なのにどうして桔也はあんなにも優しい、そしてあんなにも愛おしそうな仕草で、あの櫛を扱うのだろう。どうして片時も身から離したくないと言わんばかりの様子で、桔也はあの櫛を身につけ続けているのだろう。
それほどまでに桔也が想う相手ならばもしかしたら、自分もその存在を受け入れることができたのかもしれない。けれどあの櫛に刻まれた年月の爪痕は、桔也に櫛と夢を贈った男にはその夢を叶えるつもりはもはやないのだと無言で示している。
それが誰なのか分かりさえしたなら、地の果てまでも追いかけてこの手で八つ裂きにしてやるのに。今も自分の中にある獣のような魂は、それを成し遂げることを躊躇ったりしないのに。やり場のない思いで握りしめた拳の中では、爪が己の掌を傷つけていた。
馴染みの呉服屋が注文伺いにきたらしい。階下の華やいだ空気からそれを感じとりながら桔也が部屋で寛いでいると、薄く予想していた気配が近づいてきて半ば開けていた襖から中を覗き込んだ。
「桔也、元気だった?」
「やあ、姐さん」
華やかな美貌を惜しみなく輝かせるその女人を桔也は気軽に招き入れ、座布団を勧める。礼を言って座る彼女の所作はもうずっと前に花街にいた頃から変わらず、流れるように優雅だった。
別の見世の者である桔也を幼い頃から弟のように可愛がってくれていた彼女は笹乃介が引き取られてくるよりも少し前に花街を去っている。当時から羽ぶりの良かった呉服屋の男寡に身請けされてその内儀となった彼女は生来の明るい気性もあってすぐに店にも町にも溶け込み、今や人望熱い美人女将として店を切り盛りしている。一男一女の子宝にも恵まれた、その子らも母親譲りの華やかな容貌とさっぱりした気性で町内の人気者だ、とは花街までも届いている評判だった。その呉服屋美人女将はといえばやはり優雅な仕草で少し膝を崩し、そして桔也を見ていたずらに笑う。
「聞いたわよお。あなた、また但馬屋さんを袖にしたんですって?」
「……姐さん」
「橘伍ちゃんなら、さっき笹乃介ちゃんとお使いに行くのを見たわ。大丈夫」
何気なく紡がれた名前を桔也が視線で咎めると、美女は優雅な仕草で肩をすくめる。彼女にもこちらの意を汲んでくれるつもりはあるらしいことをその言葉で確かめて、桔也は小さく息を吐いた。
桔也も驚くほどに賢く聡い橘伍は、一度見聞きしたものを忘れることがほとんどない。その上に頭の回転も早くて勘も鋭く働くものだから、どれほど小さな「手がかり」さえもその目耳に入れることはできないのだ。但馬屋の兄妹との間に友情が育っているという今では、尚のこと。
友人の父親が桔也の客だなどとは、身請けまで言い出すほどにのぼせ上がっているなどとは、橘伍には決して悟られてはいけない。親しい友人を作る機会すらもあまり持てない橘伍から数少ない友人を奪い取ることなど、できようもない。胸に刻み直してから桔也は気を取り直すことを決め、しばらくの間は「姐さん」との取り止めのない会話を楽しんだ。
「……ん、下も片付いたみたいね。じゃあ、また」
「ああ、訪ねてくれてありがとう」
「いいえ、久しぶりにあなたの顔が見れて嬉しかったわ、可愛い子」
とうに彼女の背丈を追い越している桔也に幼かった頃と同じ口ぶりで笑い、優雅に立ち上がった美女は部屋を出て行こうとする。だがふと立ち止まって振り向いた。
「ああ、そうそう。今夜にでも、中里屋さんのご隠居さんがお見えになるみたいよ」
「ここに?」
「もちろんよお。うちのお鈴があちらのお孫さんから聞いた話だから、確かよ」
桔也は会えるはずもない愛娘の名を、誇しげな笑みで美女が語る。話題となったその少女たちが同い年で同じ師匠から花を習ってもいる遊び仲間だということは、桔也も聞き知っていた。
「それじゃあ、橘伍ちゃんにもよろしくね」
「伝えておくよ」
呉服屋の一行が去っていくのを遠く聞きながら桔也はいくつかの書き物をして、そしてそれを携えて楼主を探しに向かった。不躾な但馬屋主人とは違って「締め出した」者たちへの気遣いも忘れないあの粋な老人が早晩訪れるというならば、それはそれでまた異なる準備もあるのだ。
「やっぱり来たな」
「太客相手に大概じゃのー、桔也さんや」
「その呼び方はやめろ。それに、仕事もさせない奴が太客ぶるな」
太客に応対するにしてはあんまりな桔也の言動を、からからと笑う木綿問屋中里屋の隠居は咎めない。桔也としてもその老人を太客などとは全く思っていないし、取り澄まして迎えるべき相手とさえ思った試しもない。大袈裟に溜息を吐いて見せる桔也に、老人は生意気な末息子でも見るような目を向ける。
「そう言ってくれるな。手に負えん馬鹿息子の嫁にきてもらうはずだったお人には、さしもの儂も手は出せんわなあ」
「陰間が嫁になれるわけがあるか。囲われるだけだろう」
「同じことじゃろ」
「全然違う」
「違わんよ」
やんわりとした声音で断言され、桔也はつい言葉に詰まる。その桔也をまっすぐに見て、老人は驚くほど優しい目をして言った。
「あいつはお前さんを、嫁として貰うつもりじゃったよ」
「……」
できもしないことを語った愚かな男。何か軽い言葉で流そうとして、声さえ出せずに失敗した。胸が痛む。涙がこぼれそうになる。震えた息を強引に鎮めた。
叶わなかった、そしてもう二度と叶わない夢になど、意味はない。一度だけ強く目を閉じて、強引に話題を変えた。
「……お春さん、幾つになった?」
「十じゃのう」
「へえ、もうそんな年頃か」
すんなりと老人の孫娘の名を吐き出してしまった自分に驚くことさえしない。寝物語のように飽きるほど聞かされていたそれを、会ったことも会えるはずもない少女の名前を、忘れられるはずもない。
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そろそろ来るだろうと思っていた足音がやってきて、開いた襖から顔を見せたのはやはり橘伍だった。礼儀正しく頭を下げて入ってきた息子は襖を閉めた途端、立ち上がる前からすでに気軽すぎる声を上げている。
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「おー橘伍、元気そうじゃのー。また背が伸びたか?」
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運んできた徳利を老人の膳に置いた橘伍はそのまま平然と腰を据えて、断りもなく膳の料理を摘む。それを客である老人が咎めるどころか目を細めて見ているのだから、桔也もわざわざ口を挟まない。他の「子」らでもいればその手前もあり叱らないわけにはいかない振る舞いだが、自称「太客」のこの老人自身が最初から彼らを締め出しているし、なにより橘伍自身も他の者がいれば彼らに遠慮して完全無欠な振る舞いしかしなくなってしまう。
自身の孫娘と近い年頃の橘伍を、この老人はもう一人の孫とでも思っているような節がある。それが彼自身の息子と桔也との間にかつてはあった「仲」と繋がりのある感情なのかを、桔也はわざわざ質そうとも思わない。尋ねたところで何の意味もないことだから。
「なんか面白い話ないの、爺さん」
「ふむ、何が良いかのう」
橘伍にせがまれた老人はやはり孫に相対するような顔をしていて、橘伍もまるで祖父に甘えて纏わりつくような態度で寛いででいる。それを眩しいと微かに思って、そしてこの景色がなぜ成り立っているのかを思い出して、桔也は胸の中で自嘲した。
この老人が桔也を「そんな目」で決して見ようとしない人物だからこそ、橘伍はこんなにも目に見えて心を許している。もしも「あの男」がこの場に居たなら、「あの男」と桔也が共に過ごしていた時間を少しでも橘伍が知っていたなら、橘伍はいま無邪気に話をねだっているこの老人にさえ心を開いてはいなかっただろう。
「……爺さん、眠いの?」
「うむ……いや……」
橘伍の声で物思いから覚め、桔也もそちらに目を向けた。明らかに眠たげな老人を自分の目でも確かめて、指摘した橘伍本人も眠たそうだとも同時に見てとる。なので、老人が口を開く前にわざとらしいほどに呆れた口調で言い捨てた。
「眠いなら無理するなよ、ご老体。庚申でもないのに」
「何を生意気な、ジジイ扱いする気か!?」
「だって爺さんじゃん……」
「橘伍まで!?」
「……良いから寝てしまえよ。私も眠りたいし、橘伍に夜更かしもさせたくない」
呆れたふりをして言いながら、桔也は部屋の隅に用意されていた寝具をさっさと敷きのべる。三人分のそれを手際よく用意して、不満顔の老人は無視して先に息子を招く。
「布団にお入り。灯りもすぐに落とすから」
「……ガキ扱いすんな」
不満そうに言いながらも素直に布団に潜り込む橘伍に続いて、老人も渋々布団へとやってくる。二人が布団にくるまったのを確かめて灯りを落とし、桔也も空いていた出入り口に一番近い布団に入った。
やがて穏やかな二つの寝息が聞こえ始めても、桔也自身にはまだ眠りが訪れない。小さく息を吐いて、音を立てないように懐にしまった櫛を探る。桔梗の模様を確かめるように指で繰り返し辿りながら、桔也は天井の節目を何度も目でなぞっていた。
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家賃は折半。しかし毎日終電ギリギリまで仕事がある健斗は洗濯も炊事も祐樹に任せっきりになりがちだった。罪悪感に駆られるも、疲弊しきってボロボロの体では家事をすることができない日々。社会人として自立できていない焦燥感、日々の疲れ。体にも心にも余裕がなくなった健斗はある日おねしょをしてしまう。手伝おうとした祐樹に当たり散らしてしまい、喧嘩になってしまい、それが張り詰めていた糸を切るきっかけになったのか、その日の夜、帰宅した健斗は玄関から動けなくなってしまい…?
その、梔子の匂ひは
花町 シュガー
BL
『貴方だけを、好いております。』
一途 × 一途健気
〈和孝 × 伊都(梔子)〉
幼き日の約束をずっと憶えている者同士の話。
梔子の花言葉=喜びを運ぶ・とても幸せです
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※「それは、キラキラ光る宝箱」とは?
花町が書いた短編をまとめるハッシュタグです。
お手すきの際に覗いていただけますと幸いです。
菊松と兵衛
七海美桜
BL
陰間茶屋「松葉屋」で働く菊松は、そろそろ引退を考えていた。そんな折、怪我をしてしまった菊松は馴染みである兵衛に自分の代わりの少年を紹介する。そうして、静かに去ろうとしていたのだが…。※一部性的表現を暗喩している箇所はありますので閲覧にはお気を付けください。
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