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参の櫛

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「梗花さん、文が届いてますよ」
「ありがとう」
 桔也の意を汲んでくれている店の者たちはいつも、届けられた文の主の名を語ることはせずに折り畳まれた紙を手渡してくれる。礼を言って受け取ったそれを、桔也は一瞥もせずに袂にしまい込んだ。楼主の竹衛門に伝える用を抱えている今は、どうせ緊急ではないだろう文など後回しで構わない。
 無事に捕まえた竹衛門といくつかの相談をすませて、一旦部屋へ戻ろうかという途中で若い「子」に呼び止められた。乞われるままに彼の舞を少しだけ助言しているとどこからか他の「子」らも一人二人と集まってきて、すぐに部屋に入りきらないほどの人数になる。部屋の前を通りかかった二階廻しは足も止めず、呆れ返った顔で言い捨てていった。
「だから言ったじゃないですか」
 ひと通り舞や三味線への助言を終えた桔也が再びの自由を得た時には、最初に呼び止められてから半刻近くが経っていた。思ったより掛かったなあと考えながら自室に戻ったところで袂で紙の音がして、まだ開いてさえいなかった文の存在をそこに至りようやく思い出す。
 袂から取り出したそれは几帳面に折り畳まれたままでも、随分と上質な紙であることが手触りでわかる。こんなに良い紙に書いてよこすとはどこの誰からのどんな用向きかと何の気なしに広げて、桔也は思わず息を呑んだ。
 末尾に書かれているはずの名を確かめるまでもない。いつのまにか見覚えてしまった筆の跡は、その主をはっきりと桔也に思い起こさせてしまう。深みのある低い声の響きを、火傷しそうな指の温度を、抱き込まれる胸板の厚みを、唇を合わせる時の少しかさつく感触を、絡めあう舌の蜜のような味を。
『桔也』
「……っ」
 焦がされるような低い声が耳の奥に蘇り、体の奥がぞくりと震える。足の力が抜けそうになったのをやっとの思いで立て直し、ほとんど無意識に手の中の紙を握りしめた。よほどの伝手でもなければ手に入れることは困難だろう、驚くほど上質の手触りの紙。けれど差出人が分かった今ではなんの不思議もない。
 そうだ、あの男ならこれほど上等の紙だって容易く手に入れられるだろう。逆にあの男以外の誰が、これほどの紙をこんなくだらない文のために浪費できるという。その程度のことはこの手触りだけで察することもできたはずなのに、なぜ自分は筆跡をこの目で見るまで気づかなかったのか。
 それとも無意識に、思い描くことを避けたのか。淡い期待を裏切られるのを恐れるあまりに。
 粗忽な、もしくは臆病な自分を桔也は笑おうとして、それにさえ失敗する。頭の中は読み取ったばかりの文字列に埋め尽くされていて、他のことを考えることすらもできない。
『今夜逢いに行く。無沙汰をしてすまなかった』
「は……ぁ」
 なんとか胸を落ち着けようと吐いた息は自分でも分かるほどの甘さと熱を帯びていて、完全に裏目に出たと気づいた時には既に遅い。目眩さえ覚えて、桔也はへたり込むように畳に腰を落とした。
 熱を持つ頬に触れながら目を向けた窓の外では、まだ随分と高いところにある陽がこれみよがしな輝きを振り撒いている。それが傾き始めるまでにも、闇が訪れて「今夜」と呼べる時間が始まるのにも、まだ二刻は悠にあるだろう。
 夜が待ち遠しいだなどとは、もう二度と思いたくなかったのに。この期に及んで浅ましい期待をしている自分を、知りたくなんてなかったのに。
 それもこれも、あの男が文なんて寄越すからだ、必要もないのに予告などしてくるからだ。八つ当たりと知りながら胸の中で毒づいて、桔也は元通りに畳んだ文を袂の奥深くへと隠し込む。そして文にあった内容の裏だけは取っておこうと、ようよう力が戻った足で部屋を後にした。

 無沙汰を詫びるつもりで逢いにきてみれば当人は別の客と朝までよろしくやっている最中だったなどとなれば、笑うに笑えぬとんだ茶番である。おまけに訪う相手がこの花街にさえも二度は咲かぬ艶花と名高い浜岡屋の梗花とあっては、それは十分に起こり得る愁嘆場とさえ言える。だから先んじて楼主に対しても売れっ子との一夜を願い出る文を書き送っておいたのは、不躾ではあるかもしれないが好手でもあったのではないだろうか。
 現に自分が案内されてくる間もこの座敷で一人梗花を待っている今も、梗花の今宵が埋まっていることを聞かされた男らの落胆の声は幾度も聞こえてきている。そのことを特段の優越感もない単なる事実としてつらつら考えながら、紙問屋但馬屋の主人である藍兵衛はまだ手をつけていない膳を目で確かめた。梗花はどうやら油の少ないさっぱりとした味を好むようだ、と頭の隅に書き留める。
 どちらかと言えば「堅物」として齢を重ねてきた藍兵衛は座敷遊びにはさほど親しんでおらず、『梗花との一夜を借り受けたい。料理や酒は梗花が好むものを。奏者舞手は不要』などという注文がどの程度不躾に当たるのかは実は彼自身分かっていない。だがたとえ花街の慣習に照らしての非礼には当たらないとしても、店一番の売れっ子「だけ」が目当てだと臆面もなく明らかにするのは下心を隠しもしないという点で随分と野暮な振る舞いなのだろうし、その梗花について座敷に上がるはずだった若い者たちには恨まれても文句を言えない所業なのではないだろうか。
 数え切れないほどあっただろう言いたい言葉をぐっと飲み込んでくれたらしい楼主の表情を思い出し、彼にも後日菓子折りでも送るべきかと考え巡らせる。梗花自身にも後朝の文を、そしてまた数日のうちには何か小さな贈り物を届けさせるつもりなのだから、その使いの者に持たせれば良いだろう。そんなことを藍兵衛がつらつらと考えていた時、襖の向こうに気配が立った。
 音もなく開いた襖の向こうには、待ち侘びた美しい姿がある。礼をして入室してきた梗花がどこか他人行儀な様子でいることに藍兵衛はすぐに気づいたが、ひとまず何よりも伝えたかった言葉を最初に伝えることにした。
「会いたかった、梗花」
「ほう? それにしては随分と長く顔を見せてくださらなかったものですね、但馬屋さん?」
 名前ではなく屋号で呼びかけてくることといい、素振り以上に他人行儀な口振りといい、梗花は最初に藍兵衛が見てとったよりも大分ご立腹らしい。それを裏付けるように、いつ見ても目を奪われる優雅な動作で梗花が座したのは些か藍兵衛から遠すぎる位置だったし、その姿勢も表情もわざとらしいほどに整い澄ましこんでいる。
「悪かった」
「何のことやら」
 選んでみた言葉は一顧だにされずに叩き落とされる。ちらりとこちらに向けられた綺麗な目は興味を失ったと言わんばかりのつれなさですぐさま逸らされてしまい、藍兵衛は寂しい思いでまた言葉を探した。
「寂しがらせただろうか」
「は? 誰が、誰を? あまりお自惚れになりませぬよう」
 今度は不機嫌を隠すことなくぎろりと睨まれ、そしてつんと顔ごと背けられてしまう。気位の高い彼に対しては逆撫でするばかりの言葉だったようだが、逆鱗に触れるというほどのものではなかった点では僥倖だろう。
「失礼なことを言ってすまない。……どうか、機嫌を直してもらえないだろうか」
「何のお話でしょうか」
「梗花」
 にべもない態度に困り果てる思いで呼びかけても、梗花はやはりとりつく島もない。藍兵衛の方を見ようとさえしてくれないままに、麗人は滑らかに語り始めた。
「何をおっしゃりたいのかさっぱり分かりかねます。海が荒れに荒れて上方からの船荷が随分と長く滞った挙句、最近になって相次ぎ到着し湊が大層賑やかになったとの噂はこの界隈にも届いております。それがあまりにも間の悪いことには武蔵の紙や奥州の紙が相次ぎ届くにまで重なったとあっては、天下に聞こえた紙問屋但馬屋のやり手の旦那様と手練れの奉公人ご一同といえども荷捌きにはそれはそれは難儀をなさったことでしょう。誰が聞いたとて深く深く同情はいたせど、身勝手に怒りを覚えることなどはとてもとても」
 立板に水の流暢さで言い切った桔也が、また貝の頑なさで口を閉じてしまう。どう語っても言い訳になるからと黙っておくつもりだった無沙汰の理由を完全に言い当てられてしまえば、藍兵衛は思わず苦笑するほかなかった。
 こんなにも聡明で、こんなにも美しくて、そしてこんなにも愛らしい様子で拗ねても見せる人。その魅力に抗える男など、いや人間など、この世に存在するだろうか。少なくとも藍兵衛はとてもそのような聖にはなれない。甘く胸に満ちる思いを味わいながら、藍兵衛はもう一度呼びかけた。
「梗花。……桔也」
 彼自身の名前で試しに呼びかけてみても、桔也はやはりつんとした態度をやめてはくれない。ただ背けていた顔を少しだけこちらに戻して、ちらりと藍兵衛を見てはくれた。
 わざとらしい不満の色を見せている桔也は、彼が見せかけたがっているとおりに藍兵衛の無沙汰を拗ねているわけではないのだろう。どうやらそれとは異なる何か理由で、桔也は藍兵衛に対して随分と臍を曲げてしまっているらしかった。
「悪かった」
「何のことやら、と先ほどから申し上げていますが」
 口先だけの謝罪を重ねたところで、当然またにべもなく切り返されて終わる。予想していた藍兵衛は胸の中で苦笑し、そしてあえてゆっくりとした口調で言葉を重ねた。不貞腐れて黙り込んだ幼い妹をあの手この手で宥めようとした遠い日の心持ちを、何とはなしに思い起こしながら。
「私が君の気を悪くさせてしまった、ということは野暮な私にも分かる。とても申し訳ないことに、その理由はまだ分からないのだが。差し支えなければ、私の何が君を不快にさせたのか、教えてくれないだろうか」
「……何だ、それ」
 呆れたように呟いた桔也が少しだけ笑う。わざとらしい色が少しも混ざっていない、本当にただ自然とこぼれたらしい笑みだった。
 少し思案げな顔をした桔也が、やがてゆっくりと瞬きをする。そして藍兵衛をひたりと見据えて、意地悪く笑った。
「差し支えがある。だから、教えてやらない」
「……桔也」
「その名前も、こんなに明るい部屋で呼んで良いとは一度も言ってない」
 言葉遣いもやっと常と同じ気楽なものに戻してくれたという点では少しだけ先へ進んだのだろうが、相変わらず麗人のご立腹の理由は分かっていない。後学のために何とか聞き出しておきたいものだと藍兵衛が考えていると、ゆったりと桔也が身動いだ。
 僅かながらご機嫌を直してくれたらしい桔也がほんの少しにじり寄ってきてくれるので、藍兵衛が手を伸ばせばその頬に触れられるほどの距離までようやく至る。暗に許されたように思って藍兵衛が伸ばした手を、桔也は嫌がらなかった。
「会いたかった、本当に。君に会えず寂しかったのは私の方だ、梗花」
「……ふん」
 鼻で笑いながらも、桔也は頬に触れる藍兵衛の掌をまだ跳ねつけない。拒絶のそぶりが少しでも見えれば即座に手を離そうと肝に銘じながら、藍兵衛は少しだけ指先を遊ばせてみた。
「…‥くすぐったい」
「すまない」
「やめていいとも言ってない」
 引き戻そうとした藍兵衛の手を言葉ひとつで止めた桔也は吐息だけで笑い、また少しにじり寄ってきてくれた。その表情を確かめながら、藍兵衛はまた少しずつ指を動かしてみる。
 少し目を細めた桔也が小さく首を傾け、藍兵衛の掌に頬を預けるようにする。その動作で零れ落ちた一筋の髪を払ってやるためにもう一方の手で触れようとした時、いつのまにかそれができる距離まで来てくれていた桔也に気づく。
「……あの紙、どこの?」
「ああ、越前のものだ。気に入ってもらえただろうか」
 反射的に答えてから、それが正しく相手の意図を汲んだ答えだったとは限らないと思い当たる。だが確かめる前に、桔也は笑みを含んだ吐息で返事をくれた。
「まあまあ、かな。手触りも色も、悪くない」
「よかった」
 気軽にそう答えてしまってから、桔也の先ほどまでの不機嫌の理由だったかもしれない事柄に藍兵衛はようやく思い至った。何よりもまずそれを謝るべきだったと悔やみながら口を開く。
「またしばらく無沙汰をしてしまう時には、必ず……」
 言い終える前に少し冷たい指が伸びてきて、藍兵衛の言葉を押し留める。思わず言葉を飲み込んでしまった藍兵衛の目をまっすぐに見つめて、桔也は意地悪く笑い囁いた。
「私はやっと、少しは機嫌が直ってきているんだ。この期に及んで、振り出しに戻してなどくれるなよ」
 あれほど遠くに思えた桔也はいつのまにか、膝同士が触れ合うほど近くにいた。

 やっと隣に来てくれた桔也が完全に「許して」くれたのかは藍兵衛では読み取りようがないが、その桔也も今は少なくともつんけんした素振りはやめて藍兵衛との会話に興じてくれている。そのことにひとまず胸を撫で下ろして、藍兵衛自身も取り留めのない話を楽しんでいた。聡明な桔也との会話は今夜も時間を忘れさせるほどに楽しく実り豊かで、刻は巡り夜は音もなく更けていく。
「……今ここで、他の花の話か。どこまでも野暮な男だな」
 今夜の座敷に上がり損ねた若い「子」らについて水を向けてみると、桔也は鼻で笑いながらもあっさりと教えてくれた。やはり拗ねていた、覚えたばかりの新しい曲や舞を披露し損ねて不満そうだった、と言う。
「それは、悪いことをした」
「全くだ。詫びの菓子は楼主なんかよりもあの子らに送るんだな。金平糖と落雁がいい」
「君も食べてくれるだろうか」
「私が甘いものでいちいちはしゃぐ年頃に見えるか? まあ、毒味くらいならしてやってもいい」
「毒など入れない」
「どうだかな」
 鼻で笑った桔也が手にしていた猪口を膳に戻す。空いていたそれに注ぎ足そうと藍兵衛は徳利に手を伸ばしたが、その前に横から伸びてきた桔也の手に指を絡め取られた。
「梗花?」
「……しない気か?」
「うん?」
 あえて言葉を省いているらしい物言いに、汲みかれなかった藍兵衛は愚直に問い返す。「朴念仁が」と甘くなじった桔也がまた少し身を寄せてきて、その衣服に焚き染められているらしい上質の香がふわりと藍兵衛の鼻先を掠めた。
「良い香りだな。君によく似合う」
「……それをわざとで言えるような男じゃないのは、知ってるけどな。まだるっこしいんだよ、良い加減に」
 思ったままに呟いた藍兵衛を咎めるように、絡ませたままの指を少し強く握られる。そしてまた少し身を寄せてきた桔也は、藍兵衛の手を捉えているのとは逆の手をそっと藍兵衛の腿の上に置いた。
「もう一度聞く。……してくれない気か?」
 囁くように尋ねながら、桔也のしなやかな指が柔らかく藍兵衛の腿をなぞる。その感触に思わず息を呑んで、藍兵衛はようやく理解した。
「……梗花」
「そっちじゃない。…‥でも、ここでもない」
 謎をかけるように囁いて、桔也がまた身を寄せてくる。そして動くことも忘れている藍兵衛の耳に顔を寄せてきて、蜜のような声で囁きかけた。
「……呼んでよ。もっと暗いところで、もっと近くで」
 熱を含ませた囁きを吹き込まれて、とうに茹っている頭蓋の中はきっともう溶け崩れてしまっている。それが証しに、もう藍兵衛は何も考えられない。吐息が混ざるほど間近にいる美しい人のことの他には、もはや何も。
「…‥桔也」
「ここでもない、って、言ってるだろう。……でも、まあ、可としてやるよ」
 熱に掠れる声で呼びかけると、麗しの花はまた蜜の声で囁く。三日月の形をして笑む艶やかな唇に、藍兵衛は触れるだけの口付けをした。

 既に用意されていた床部屋で、今度は深く求め合う口付けを繰り返す。手探りに互いの帯を解きあい、肌を探り当ててその温度に触れる。
 もどかしげに着物を脱ぎ落とした桔也が、藍兵衛の着物の中に滑り込ませた手で背中にしがみついてくる。記憶と違わず冷たいその指も、今は熱を灯し始めているのが感じられる。確かめるように背骨を辿るその指の温度が、藍兵衛の腰の奥の熱を一層重くした。
「ん……っ」
 桔也自身が「支度」をしてくれた場所を藍兵衛が指先で確かめると、桔也は甘く呻いた。びくりと震えたその指先に背中を緩く引っかかれて、痺れにも似た興奮がじんと広がる。
「は、やく……」
 吐息でねだる唇にもう一度口付けを落とし、そしてゆっくりと割り入った。思わずと入った様子で息を詰まらせたその唇を繰り返し啄みながら、少しずつ熱を押し進めていく。ようやく全てが収まった時には互いに息が上がっていた。
「苦しくは、ないか?」
「……へ、いき、だ」
 顔に乱れかかる髪を払ってやりながら藍兵衛が囁くと、苦しげに震える声が強がる。けれど桔也の苦痛が少しでも収まるまで待とうとする藍兵衛を許さないのは、いつも他でもない桔也だった。
 震える息を吐いて、耐えるようにとしていた目を開けた桔也が見上げてくる。動こうとしない藍兵衛を濡れた瞳でひたと見据え、そして吐息で笑う。力の入らないだろう腕を重たげに動かして藍兵衛の二の腕に触れながら、桔也は苦しげに掠れる声で甘く呟いた。
「……誰に、物、言ってる」
「……」
 男を咥え込むのが仕事の陰間に。金を積まれれば誰にでも足を開く男娼に。そんな意味をはっきりと含ませながら、桔也の口調にも態度にも自暴自棄や自己憐憫の色は全くない。ただ単に、事実として、桔也はそれを受け入れている。
 己を卑下する意味を含ませた言葉を息をするような自然さで吐き出して、そのことに自ら傷つくことさえしない。憐憫を向けられることなど、自分自身を含めた誰からも許さない。痛々しいほどに、桔也の魂はまっすぐで靭い。
「……」
「く、ぅ」
 もう何も言わせたくなくて、藍兵衛は桔也の唇を口付けで塞いだ。切なく震える吐息を感じながら、努めてゆっくりと腰を動かし始める。
 寄せ合う肌が汗に滑る。熱く絡みついてくる内側のうねり。熱を帯びながらもまだ苦しげな桔也の吐息に耳を傾けながら藍兵衛は努めて自制しようとしていたのだが、そのことがどうやら麗しの花の機嫌を損ねてしまったらしかった。
 熱っぽい潤んだ瞳で睨んできた桔也が、咎めるように藍兵衛の上腕にごく軽く爪を立ててくる。だが藍兵衛があえて取り合わずにいると一層不満そうな目をして今度はもう少し強く爪を立て、そしてその手を褥に投げ出してしまった。
「触れていてもらえるほうが、嬉しいのだが」
「……」
 藍兵衛が促しても桔也は拗ねたような目で睨んでくるばかりで口を噤んで答えてくれない。だがその瞳が不意に、悪戯を思いついたように煌めいた。
 褥に落ちていた指の長い美しい手がゆるく動いて、見せつけるような緩やかさで彼自身の下腹を撫でる。その場所を深々と犯している藍兵衛の熱を、愛おしむように。
 清らかな手の淫蕩な動きに思わず目を奪われた藍兵衛の耳に、苦しげだが甘やかな笑い声が届いた。その同じ手が、再びぬるりと蠢く。
「……なあ、分かる? あんたの、ここまで、入ってる」
「……っ」
 淫らな蜜のような声で囁かれ、焦げ付くような劣情に目が眩む。やっとの思いで自制を引き戻し、藍兵衛は努めて平静な声で諭そうとした。
「あまり、煽らないでくれ」
「……ふ。煽られて、くれるのか?」
 面白がるように目を細めて囁く桔也の声はやはり甘く淫らな響きで、藍兵衛の胸を激しく揺さぶる。自分自身の美しさも色香も魅力も何もかも知り尽くしているくせにそれを藍兵衛自身の言葉で認めさせようとする、傲慢で意地の悪い艶花。
 その意に逆らうことなど藍兵衛には到底できない、あえて背こうなどとは思うことすらできない。眩暈を覚えながら、藍兵衛は熱に浮かされるように囁きかけた。
「煽られてばかりだ。君の身動ぎの、君の言葉の一つ一つに、君の全てに」
「……ふん」
 情けなく膝を折る藍兵衛の言葉を、桔也は当然とばかりに鼻で笑った。尚も意地悪な目をして甘い声で命じる。
「まだ、足りない。もっと私に、夢中になれよ」
 愛らしい命令は随分と無茶なものだ。甘い目眩のあまりに反論さえできないまま、自分が何を言っているのかさえもほとんど自覚できないまま、藍兵衛は譫言のように答えていた。
「とうに、君に夢中だ。もうずっと前から、君しか見えていない」
 桔也の何気ない視線の揺れにさえ、彼の指先の微かな動きにさえ、藍兵衛は目を奪われ魂そのものを揺さぶられる。桔也が何か望みを口に出してくれたならば、藍兵衛は何を投げ捨ててもそれを叶えてしまうのだろう。だというのに、分かりきっているはずのそれを知らないような顔をして、桔也はまだ藍兵衛の惚れ込み方が足りないと甘くなじる。
 それともまさか桔也は、本当に分かっていないのか。藍兵衛がどれほど深く桔也に溺れているのか、桔也という存在がどれほど強く藍兵衛を惹き寄せ捕らえているのか。
 こんなにも藍兵衛は桔也に狂わされ酔わされていて、余所見などできるはずがない、恐れをなして逃げることさえとうの昔にできなくなってしまっている。だというのに、美しく傲慢な花は蕩けるように笑って甘く命じた。
「だぁめ。もっと、堕ちてこい」
 甘く甘く囁いて、戯れるような柔らかさで耳朶に噛み付いてくる。甘やかな毒を注ぎ込まれるような感覚に目眩を覚えた。思わず興奮に震えた藍兵衛の背中にその美しい手を滑らせて、桔也は毒の蜜をたっぷりと含んだ声で重ねて命ずる。
「夢中だというならその身で証せ。なりふり構わず私を求めてみせろ。そうしたら、信じてやるかもな」

 淫らな水音が、熱っぽい呼気が、薄暗い部屋に満ちている。苦しげだった桔也の吐息もいつのまにかほどけて、切なげにほろりほろりと零れては落ちる。
 近づく限界を感じて熱く絡みつく場所から抜け出そうとした藍兵衛を、首に縋りついていた桔也の腕が引き留めようとする。熱っぽく濡れた声が淫らにねだる。
「中、に、欲しい」
「君が、辛いだろう」
「大丈夫、だから。欲しい」
 聞く耳を持たない桔也を藍兵衛は宥めようとしたが、肌をすり寄せてきた桔也が耳元に顔を寄せてくるほうが早かった。甘噛みと呼ぶには少し強い力で耳を噛まれ、囁きを吹き込まれる。
「……全部、ちょうだい? 藍兵衛」
「……っ!」
 鋭いが甘い痛みにか、舌足らずに呼びかける甘い声にか。焼き焦がされるような興奮から覚めた時には、藍兵衛は既に桔也の内側で吐精していた。
「……っ、すまない」
「……、……」
 ほぼ同時に上り詰めていたらしい桔也は言葉もなく、ぐったりと目を閉じて褥に沈んでいる。声も出せずにいるらしい彼は、藍兵衛の謝罪にただ淡く微笑んだ。
 桔也が望んでくれたとはいえ、その体に負担を強いてしまった自分を藍兵衛は深く恥じた。今夜の秘め事はもうこれきりにして、あとは朝まで寄り添って横になっていようと密かに心に決める。だが、それをさせてくれないのもまた腕の中の美しい花なのだ。
 ようやく少し呼吸が落ち着いたらしい桔也が、熱っぽい息を吐いて小さく身じろぐ。そして藍兵衛の子種を溢れんばかりに注ぎ込まれた薄い腹を、美しいその手で愛おしそうに撫でた。
「……っ!」
 我が身を焼き焦すような劣情に眩暈がする。桔也の内を穿ったままだった欲が力を取り戻してしまう。大きく身を震わせた桔也が甘い悲鳴を漏らした。
「ひぅ、っ」
「……君が、煽るから」
 興奮に掠れる声はほとんど獣の唸りに近い。淫獣の言い訳でしかないそんな言葉を吐いてしまった自分を恥じることさえ、藍兵衛にはもはやできない。ただ熱に浮かされるままに、藍兵衛はやっと息が落ち着いたばかりの桔也をまた攻め立て始めた。
 声にならない悲鳴を漏らした桔也が縋り付いてくる。きちんと切り揃えられた爪が強く肩に食い込む、鋭くて甘い痛み。その刺激にさえ、藍兵衛はまた目の眩む思いがする。
「あ、ぁ……!」
 晒け出される白い喉に唇を寄せ、震える肌を柔く食む。桔也は声にならない声で切なげに啼いた。
 もう言葉もなく、何も考えられないまま、ただ求める。自分と桔也を高みへと追い立てていく。それを嫌がることなく受け入れてくれている桔也のことが、狂おしいほどに愛おしい。
 声にならない声が、藍兵衛の名を呼んだ。

 ようやく熱が収まり我を取り戻した藍兵衛の謝罪を、桔也は聞こうとさえしなかった。答える価値もないとばかりに聞き流して、そんなことよりも藍兵衛の腕を枕によこせと甘く掠れる声でねだってくる。そして流されるままに藍兵衛がさし出した腕に形の良い頭を預けると、小さくあくびを漏らした。
「無理をさせて、本当にすまなかった」
「……」
 何か言いたげな愛らしい不満の眼差しで桔也はまた睨んできたが、どうやら言い返すことも面倒な気分らしい。疲労を払うようにゆっくりと瞬きをして「何か話して」と眠たげな声でねだった。
「何の話がいいだろうか」
「……何でも。花や風のことでも、紙や船荷のことでも」
「そうだな……」
 可愛らしい我儘に思わず唇が緩んでしまえば、見透かした桔也は不満そうに藍兵衛の腕に軽く爪を立ててくる。痛みとも呼べないその感触にまた微笑んでしまいそうになりながら、藍兵衛は思いつくままに話し始めた。
 風向きが変わったから遅れていた船もようよう着くだろうと思った日のこと、その二日後に入ってきた船の大きさや形。荷捌きで詰め切りになっていた間に湊で咲いて散った花の色。つらつらと藍兵衛が語る話を、少し眠たげな桔也は時折相槌を挟みながら聞いてくれる。嫌がられるかもしれないと知りながら、藍兵衛は努めてさりげなく桔也に尋ね返してみた。
「……君の息子は、どうしているだろうか」
「……」
 藍兵衛が内心恐れたような強い拒絶はなかったが、桔也はすぐに答えることもしなかった。藍兵衛の意図を探るように目を覗き込んでくる。だが少しして、目を逸らさないまま答えた。
「……新しい友だちが、できたって」
「そうか。良かった」
 言葉少なに教えてくれた桔也に胸を撫で下ろし、藍兵衛はそっと手を伸ばして桔也の頬に触れた。零れ落ちていた一筋の髪を耳にかけてやる。それを拒まなかった桔也はやはり、じっと藍兵衛の目を見つめ続けていた。
 桔也は自分を抱く男には、一目たりとも「息子」を見せようとはしない。そのことが却って、藍兵衛自身はみたことがないその少年の姿を浮き彫りにしている。勝手に像を結んでしまいそうな連想をあえて払いのけ、藍兵衛はまたさりげなく尋ねた。
「使いに出した先でのことだろうか。どの辺りの?」
 花街の近隣の子どもならばとうに全員と顔見知りだろうから、そうと考えるのが藍兵衛にとっては自然だった。桔也の方も、それを重ねて問われることも最初からわかっていただろう。やはり何の感情も見せない桔也は藍兵衛の目をじっと見つめ、ややして呟くように答えた。
「……あんたの、息子と、娘」
「……」
 感情の載っていない返答に、その思いがけない内容に、藍兵衛は思わず目を瞠る。同時に頭の隅で記憶がつながり合うのを感じた。
 半月近く前だっただろうか、夕餉の席で娘が嬉しそうに報告してきた話があった。新しいお友だちができた、お花のようにとてもきれいな人で、次にまた会えるのが楽しみだ、と囀っていた愛らしい声。そして、妹の言葉を補足する言葉を挟みながらもどこかそわそわとした様子だった息子の姿。
 胸の奥を駆け抜けた小さなざわめきを、藍兵衛は握り潰した。代わりに、随分と強引だと自覚しながら話題を変える。
「桔也。私に、君を身請けさせてくれないだろうか?」
「……」
 唐突な藍兵衛の申し出にも、桔也は驚いた様子さえ見せない。眉ひとつ動かさないその様子に、また今夜も受け入れてはもらえないようだと藍兵衛にも分かってしまう。そしてそれは、落胆するほどのことでさえない。
 もう数えきれないほど繰り返し、藍兵衛は桔也にそれを願い出ては断られ続けている。それでもまだ諦められない。諦めることなど到底できない。祈るように、藍兵衛は言葉を重ねた。
「君の息子も一緒に。二人とも、私の、私たちの家族として。……考えてもらえないだろうか」
「……」
 やはり答えない桔也の微かに揺れた瞳に、淡い期待が藍兵衛の胸を掠める。けれどすぐ、桔也は静かに目を伏せてしまった。
「桔也……」
「聞きたくない」
 きっぱりと遮られてつい口を閉じてしまう。その間隙さえ埋めるように桔也は顔を寄せてきて、藍兵衛に触れるだけの口付けをした。
「もう一回、しよう?」
 切なそうに笑ってねだられては、もう何も言えはしない。その悲しげな瞳をきっと桔也は自覚していないから、なおさら。
 そしてまた、溶けるような熱に溺れていく。本当に欲しいものには手が届かないままに。

「君に何か、贈り物をしたい。何なら喜んでもらえるだろうか」
「……自分で、考えろよ。本人に聞く奴が、あるか」
 朝の気配が近づいてくる暗い部屋で尋ねた藍兵衛を、その腕の中でおとなしくしてくれていた桔也は気だるいが剣のない声でいなした。それもそうかと納得しながら、藍兵衛はもう一度桔也の体を抱き直す。寝乱れてもなお艶やかな桔也の髪の流れを指先で整えてみながら、藍兵衛は何の気なしに提案した。
「櫛はどうだろうか」
 それは、本当にごく軽い気持ちで告げた言葉だった。贈るならば役立ててもらえるもの、できれば気が向いた時だけでも身につけてもらえるものがいい。そう考えて、指に触れる美しい髪の手触りから連想して、試しに行ってみたと言うだけのことだった。
 薄闇の中にも分かるほどの確かさで、桔也の瞳がすうっと翳りを帯びた。その異変に驚き、藍兵衛は思わず手を止める。
「……桔也?」
「嫌だ」
 思いがけない強さの拒絶は、理由を尋ねることさえ藍兵衛に許さない。自分の態度が不自然なものになってしまったことを遅れて自覚したらしい桔也が僅かに動揺を見せる。けれど咄嗟に取り繕うこともできなかったらしく、桔也はただ目を伏せて呟いた。
「……櫛以外なら、何でもいい」
「……分かった」
 無理に問うことはせず、藍兵衛はただ了承を伝えて桔也の髪にまた触れる。桔也はやはりその手を拒まないが、その気配は先ほどまでよりも強張っていて、声もなく藍兵衛をを拒絶している。そのままもう会話もなく、夜明けと共に藍兵衛は浜岡屋を後にした。
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