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壱の櫛

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 汗やいろんなものでべたつく体にも、どろどろと溢れ落ちる液体の感触にも、とうの昔に慣れた。重い体を引きずるようにして起き上がる。
「っ……」
 散々に責め立てられた腰が鈍く痛み、呻きを噛み殺した。長い時間開かされたままだった脚が、甘噛みというには強すぎる力で吸われ噛まれた無数の傷が、ぴりぴりと痛みを訴えている。けれど、そんなことにいちいち構ってはいられない。
 おざなりに体を拭いて、脱ぎ捨てられていた着物を引っ掛けて、湯浴みの支度を始める。解いたままの髪が肌にまとわりついてきても、それを手で払うことさえもが今は億劫だった。
 早起きな「あの子」が目を覚ますより前に、淫らな夜の名残を全て洗い流してしまわなくてはならない。幼く清らかな魂から、この身の穢れを遠ざけておくために。
 こんな場所でこんなことをして生きている自分の元にいるというだけで、「あの子」は充分すぎるほどに酷な生を強いられているのだから。だからせめて、避けられる汚れや痛みはその美しい魂に決して降りかかることがないように。いつか自由で広い空へ飛び立つべき「あの子」が、不必要な重荷などは何も背負わずに済むように。
 ここに、こんな汚辱に塗れた場所に、「あの子」がひと時でも居なければならないことが、あるべきでない間違いなのだから。あの美しい魂は、こんなところで朽ち果てていいものではないのだから。「あの子」は、自分とは何もかもが違うのだから。
 甘え媚びて、心にもない言葉を並べて、薄っぺらい笑みで偽って、自分はここで生き、そして消える。それ以外の生き方など知らない、できるはずもない。ここでしか自分は生きられない。
 自分が夢見ることもできなかった広い世界へ、その明るい未来へと、愛し子を送り出せたならば。それが叶ったならばこの汚辱に塗れた魂も、きっと少しは価値があったことになる。それ以上のことは、望まない。
 諦めさえもない凪いだ心持ちのまま、床入りの前に外していた櫛や簪を黙々と拾い集めていく。だがその手がつい止まってしまった。手の中の櫛にじっと目を注ぐ。大切に手入れしているつもりでいても、年月に相応の傷みは刻まれてしまっているそれ。
 もう二度と訪れない人からの贈り物。その中に秘められた言葉遊びが叶う日は、今となっては決してこない。
 未練がましい自分に呆れても、どうしてもまだ手放せない。忘れることができない。忘れられる時など、きっと永遠に来ない。
 一度強く目を閉じてから、手にしたままだった櫛を袖に落とし込む。そして捨てきれない未練を振り払うように、乱れた褥をわざと踏みつけながら戸口へ向かった。
 顔にほつれかかる髪を何の気なしに払いのけたとき、自分のものではない手がそれをしてくれたときのことをふと思い出した。その指の熱さが、声が、微笑みが、鮮やかに蘇ってきた。
 彼は、次はいつ訪れてくれるのだろう。あと幾夜を超えたならば、彼にまた逢えるのだろう。
 なんの約束もしていないくせに、たとえ約束を交わしたところでそれを無邪気に信じられはしないくせに、再訪を当たり前のことのように信じ期待している。愚かしい自分を自覚して一人苦笑し、そして床部屋を後にした。

 紙問屋但馬屋はどうやら、町内では上から数えたほうが早い程度には羽ぶりのいい大店でもあったらしい。もっと幼い頃には特段意識していなかったその事実を、今は誰に言い含められるまでもなく感じとっている。それは十一歳を数えて跡取りとしての自覚が少しずつ強まってきたことに関係するのだろうかと他人事のように考えながら、但馬屋の「坊ちゃん」である茜太は店を出て歩き出した。
 茜太自身もかつて世話になった寺子屋に、四月ほど前からは茜太の妹が通っている。師範への届け物がてら妹を連れ帰り、その道中の菓子屋で饅頭を買い求めてくることが、本日の茜太に課された役目だった。
 その饅頭はまず仏壇に供えられ、そして傷む前には茜太や妹や店の小僧たちに分け与えられるだろう。その頃合いを見定めて分配するのはいつもと同じ古株の下女なのだろうから、彼女が目に入れても痛くないとばかりに可愛がっている妹は今回も一番最初に選ばせてもらうのだろう。茜太が物心つく前に内儀ーー茜太の母が他界している但馬屋では、それがお決まりの流れだった。
 後添えを貰わないのかと人に尋ねられている父を茜太はこれまでに何度か見かけているが、それでもなお父がまだ男寡でいるということは、父としては後妻を探す必要をさほど感じていないのだろう。茜太や妹や古株の奉公人たちとしても、父自身が強く望んでいないのならば誰かが強制することではないという点で考えが一致している。
 その父もいつか良縁に恵まれたならば、後添えとなる人を迎え入れるのだろうか。それはどんな人だろうか。父が添う人だからきっと、とても美しくてとても聡明な人なのだろう。そんなことを考えながら茜太は角を曲がって、そして思わず息を呑んだ。
 少し先の呉服屋の前に、人待ち顔で立っている少年がいる。歳の頃は茜太より一つ二つ年上と見えるが、彼の方からすれば小柄で年少に見られがちの茜太は実際よりも年下に見えるかもしれない。見かけない顔だから近隣の者ではなく、どこか別の町内から使いに出されてきたのだろう。
 小僧奉公の者が着るにしては上等の生地の着物。華奢とまでは言えないがやや線の細い体つき。前髪が落ちかかる額に、少しきつめの印象を与える切れ長の目元。横顔だからこそはっきりと分かる通った鼻筋と、涼しげな目鼻立ち。その姿は凛と咲く桔梗の花を思わせた。
 きれいだと思った。少女ではなく少年なのだと、はっきり理解していてもなお。
 視界の隅に入ったまま動かない茜太を怪訝に思ったのかもしれない。その少年が不意にこちらを振り向いた。視線が真っ直ぐに交わる。
「……なんか用?」
「あ……えっと」
 ぶっきらぼうな口調、ほとんど睨むような強さの視線。それを不快に思うよりもまず純粋に驚いて、それからようやく茜太も自覚する。
 礼を失したやり方で見ていたのは茜太のほうだ。じろじろと見られたことでこの少年が不快になっても、その感情のままに睨みつけられても、それは茜太が文句を言うことではまったくない。そうと気付いて、茜太は素直に謝った。
「不躾に見てすみません。この辺りで見ない顔だな、と」
「……使い走りで来てるだけだ」
 納得したのかしていないのかも分からない口調で短く言った少年はゆっくりと視線だけ動かし、茜太を品定めしているらしい。どうやらそれが彼なりの「返礼」のようだと理解して、茜太はおとなしくその視線を受け入れることにした。そうしながら茜太も、今度はできる限り不躾にならないように相手を見ていた。
 険しい眼差しや凄みのある美しさのためばかりではない何か圧倒的な迫力が、細身でさえあるこの少年にはあった。茜太と同様にそれを感じ取っているからだろう、余所者を見ると絡むのが常の悪童やその子分たちもこの少年にだけは口出しできずにいるらしく、今は遠巻きにこちらを窺っている。
 やがて「仕返し」にも飽きたらしい少年が、不意に興味を失ったように体の向きを呉服屋の方へ戻そうとする。だがちょうどその時、場違いなほど明るい声が響いた。
「兄さまー!」
 茜太の妹ーー正しくは亡くなった叔母夫婦の遺児である従妹のお染が、向こうからちょこちょこと駆けてくる。迎えにいく途中だったことをやっと思い出して慌てた茜太のところにすぐに辿り着いたお染は、思わずその姿を目で追ってしまっていたらしい少年を見て首を傾げる。
「兄さまのお友だちですの? はじめまして!」
「……違うし、名前も知らねえよ」
「あ、茜太です」
「お染ですわ!」
 名乗ったからには当然に相手も名前を教えてくれるはずだとの無邪気な期待で、お染は一心に少年を見つめている。その視線にひるんだ様子を見せた少年はやがて根負けしたらしく、目を逸らして仕方なさげに名乗った。
「……橘伍」
「橘伍さんですのね! 橘伍さんは近頃お引っ越ししてこられたんですの?」
「……使いで来ただけだ。住んでない」
「そうですのね! おうちはどちら?」
「……」
 無邪気にぽんぽんと質問を重ねるお染に仕方なさげに淡々と答えていた橘伍が思わずと言った様子で詰まる。だが微妙な様子を感じとっていないらしいお染が返事を待っているのを見て、また少し迷ってから短く答えた。
「……花街。浜岡屋」
「……!」
 茜太が思わず息を呑んでしまったのが伝わったのか、橘伍の眼差しがまた一層きつくなる。軽蔑するならしろと言わんばかりの、挑むような眼差しだった。
 橘伍自身が売られた身ならば、門の外への使いに出されるはずはない。おそらく彼の親が花街の者なのだ。その人が売られる花なのか、それとも花たちの世話をする側の者なのかは、茜太には分からないけれど。
 蔑むつもりなどないと伝えたくて、けれど何を言っても嘘くさくなる気がして、茜太はなかなか言葉を探し出せない。張り詰めた空気を破ったのは、お染の明るい声だった。
「お花がたくさん咲いているんですの? だから橘伍さんもお花みたいにおきれいなんですのね!」
「…………は?」
 思わずと言った様子で橘伍が気の抜けた声を漏らす。茜太もつい、ぽかんとして妹と橘伍を見比べた。
 完全な無邪気さで言い放ったお染を橘伍はまじまじと見て、そして彼女がどこまでも真面目に言ったのだと悟ったらしい。思わずと言った様子で、橘伍はごく小さく笑った。毒のない、本当に自然に溢れたらしい、花のような笑顔だった。
「……ものを知らねえチビだな。花なんか咲いてねえよ」
「そうですの? じゃあどんな?」
「兄貴に聞けよ」
「兄さま?」
「……そのうちに」
「はあい!」
 無邪気な妹に説明する言葉を持たない茜太が苦肉の策で誤魔化すと、妹は素直な返事をする。茜太が困っているのが面白いらしい橘伍は、今は意地悪く笑ってこちらを見ている。その人の悪い笑みが、やはりどうしようもなくきれいなものと茜太には見えた。
 出し抜けに呉服屋の暖簾が揺れて、また新たな見慣れない人物が姿を現した。まだ少年ぽさの抜けきらないその若い男は迷いなく橘伍に歩み寄りながら、警戒した目つきでこちらを見る。
 元服してそれほど経っていないだろうその若者はどちらかと言えば背丈の低い方だが、体格はしっかりしていて腕力がありそうだった。着物は橘伍のそれと同じく上等の部類に入るもの。若者は敵意と警戒を隠さない目つきで茜太をじろりと見て、その視線を動かさないままに橘伍に尋ねる。
「きぃ、お待たせ。……友だち?」
「初めて会った」
「でももうお友だちですわ!」
「そりゃどーも」
「……そう」
 若者は屈託のないお染への警戒は早々に解いたらしいが、茜太を見る目は相変わらず敵意を隠さない。威圧するようにまた数秒茜太を見据えて、そして橘伍を振り向く。
「用は済んだから帰ろう。遅くなるとみんな心配するよ」
「ん」
 短く返事をした橘伍が、もう未練もなさげにこちらに背を向けて歩き出す。その背中に、茜太は思わず言葉をかけていた。
「また、この辺りに来ますか?」
「さあ?」
 振り向きもせずに投げ返された返答で、少なくとも橘伍自身には用を作ってまでここへ来るつもりは一切ないことが分かってしまう。そのことに思いがけないほど落胆した茜太の耳に、お染の明るい声が響いた。
「お気をつけてー! またお話ししましょうねー!」
「……」
 橘伍は歩みを緩めることすらしなかったが、背を向けたままひらりと手を振ってよこした。大きく手を振って見送るお染を、振り向くこともしないままに彼はきっと見透かしているのだろう。橘伍と若者の姿が角を曲がって消えてから、茜太は妹に手を差し出した。
「……帰ろうか、お染」
「はーい!」
 妹の熱くて小さい手を握り、寄り道はせずに店へ戻る。帰り着いて下女に尋ねられるまで、菓子屋に寄らなかったことを思い出すことはなかった。

 良い着物を身につけた余所者のガキなど悪童やならず者の格好の獲物だとは、橘伍自身にもよく分かっている。橘伍が自分一人での門の外への使いを任されるのは、今回付き添ってくれたーー正確には彼自身の使いのついでに橘伍の使い先にも周ることを快諾してくれた笹乃介と同じ年頃になってからのことだろう。そう冷静に考えながら、橘伍は笹乃介の後に続いて陰間茶屋「浜岡屋」の暖簾をくぐった。
 履物を脱ぎながら、尋ねても良さそうな相手を目で探す。だが橘伍が声をかけるよりも早く、拭き掃除をしていた若い衆が求める答えを教えてくれた。
「梗花さまなら、楼主の部屋だ」
「ありがと」
 礼を言って板の間へ上がり、脱いだ草履をさっと片付けて奥へと歩き出す。そして迷うことなく教えられた部屋へ辿り着くと、開いていた襖から中を覗き込んだ。
 玄関先での声や近づく足音で、とっくに気づかれていたのだろう。楼主の竹衛門の横から同じ帳面を覗き込んでいた橘伍の父ーー店では「梗花」と呼ばれる桔也は、橘伍が声をかける前に振り返って微笑んだ。
「おかえり、橘伍」
「……ただいま」
「笹乃介くんもありがとう。すまなかったね、わざわざ寄り道をしてもらって」
「いいえー」
 のんびりと答えた笹乃介が腕に抱えていた包みを彼の養父である竹衛門に渡しに行くので、橘伍も自分が筆屋で預かってきた包みを手渡すために桔也に近づく。ありがとうと笑って受け取った父の指先は、いつもと同じく少し冷えた温度をしていた。
 今の桔也は客の前に出る時の艶やかで煌びやかな着物や一分の隙もない所作とは全く違う、ごく気楽で簡単な装いで寛いでいる。女人のようになよやかな姿とはとても言えない、はっきりと男性だと分かる姿、そして声。肌は日焼けこそあまりしていないが人並みの色をしていて、雪のような白さには程遠い。けれどその全てを飛び越えてなお桔也は花街にひしめく粒揃いの美男美女らの誰よりも、そして息子である橘伍にも分かるほど、輝くばかりに美しかった。
 とうが立ちすぎているなどというありきたりな謗りも、その姿を一目見れば口が裂けても吐けまい。重ねた年齢もが色香となって匂い立つ、纏う全てを抗いがたい魅力として使いこなしている、存在の全てが美しい人こそが桔也だった。
 見目の麗しさだけでなく三味線や舞といった芸事のどれにおいても、桔也は花街の誰よりも、それどころかそこいらの師匠などよりも抜きん出て優れている。所作ひとつとっても品よく優美で、小さな身じろぎひとつ、わずかな瞬きひとつでころりと相手を惚れ込ませることも容易い。おまけに頭の回りも早くて教養も広く深いものだから、徒然話に興じているだけであっという間に夜が明けると言ってただ会話を楽しむために通ってくる客さえもある。
 だが浜岡屋の至宝、花という花が羞らい萎れんばかりの美しさと巷で囁かれる当人はと言えば、今この場では至ってのんびりしたものだ。受け取った包みは改めもせずに文机に置いて、寛いだ様子で息子に話しかける。
「あの辺りに行ってもらうのは初めてだね。何か、面白いことはあったかい?」
「……別に」
「紙問屋のご兄妹と立ち話してました」
「……あー」
 そういえばそんなこともあったと、橘伍も笹乃介の添えた言葉でようやく思い出す。どこの者かなどとは興味がなくて尋ねもしなかったが、わざわざ話しかけてきた物好きは他にいない。それよりも、あの兄妹がどこの家の者か把握していたらしい笹乃介に素直に感心した。
「あの町で紙というと、但馬屋さんかな」
「はい」
「総領息子さんは橘伍と同じくらいだそうだね。どんな話を?」
「……別に、話ってほどは。つーか、もっとガキに見えた」
「あれだけ背が低いとねえ」
「そうなんだね」
 ふふふ、と桔也が笑いを零す。柔らかいその声を聞きながら、橘伍は努めてなんでもない口調で言葉を投げた。きっと桔也は、それを喜ぶから。
「……妹の方が、これでもう友だちだー、とかなんとか」
「……そうか」
 そんな橘伍にとってはつまらないことで、こちらが驚かされるほど嬉しそうに、桔也がとても綺麗に微笑む。その理由が分かってしまうからこそ、橘伍は逆に小さく波立つ胸を感じる。それを誤魔化すように、橘伍はさしたる興味もない帳面に目を向けた。父の字ではないなと思いながら見るともなしに視線で辿る。
 早くから桔也によって仕込まれた橘伍の読み書き算盤の腕前は、そこいらの町人の子などよりも余程上のものだと自負している。まだ知らない物事を新たに知ることは嫌いではないから、普段から本もよく読んでいる。橘伍の読書習慣を桔也が喜んでくれる理由も、知っている。
 桔也が橘伍に望んでいる未来は言葉にされずとも、橘伍自身にも朧げながら見えている。その実現のために桔也が手を尽くし心を砕いてくれていることも、理解している。それを橘伍自身は全く望んでいないことを、伝えられずにいるだけで。
『あんたと一緒に行けないなら、外の暮らしになんて何の面白みもない』
 桔也を悲しませるだけと知っている本心は胸の奥に押し込んで、橘伍は努めて何気なく顔を上げた。何か手伝いがあるかと尋ねようにして、ふと竹衛門の様子が気に掛かった。
 どこか気遣わしげに、物言いたげに、桔也へと向けられている竹衛門の眼差し。だがその意図をここで、桔也の前で尋ねても良いものかと橘伍が迷ううちに、その桔也が柔らかに声をかけてくる。
「橘伍?」
「……や。なんか用ある?」
「そうだね……」
 ちらりと窓の外を確かめた桔也は、もう一度橘伍を見て微笑んだ。ごく気軽な様子で提案される。
「日暮れにはまだ刻があるね。外で遊んでおいで」
「……」
 町人の子であれば小僧奉公に出されて朝から晩まで駆けずり回っている年頃の息子に対して、明るいうちは遊んでこいとは何だ。そう文句を言いたいのを橘伍はぐっと堪える。こんなのはいつものことだ、文句を並べたところで無駄だ。
 橘伍とて奉公人に混じって手伝いをさせてもらうことも時にはあるし、先ほど笹乃介の付き添いを得ての使いに出されたことも小僧の仕事と思えば妥当なものではあるだろう。だが、いやその使い走りの直後だからこそ、今また橘伍に用をさせるつもりが桔也にはないのだろう。楼主である竹衛門にもそれに異を唱えるつもりがないらしいから、橘伍が彼らを翻意させることはまずできないと見て良い。
 この二人に無断でこっそりと掃除なりなんなりをしようとしてもすぐさまバレて体よく追い払われることは、とっくに知っている。だから仕方なく、橘伍は言いたい文句の全てを飲み込んで別の言葉を告げた。
「……裏で本読んでる。なんかあったら呼んで」
「ああ、ありがとう」
 ささやかな反抗で宣言して、父の微笑みに背を向けて部屋を出る。閉めた襖の向こうでかさりと音がしたのは、きっと父がようやく筆を確かめる気になったのだろう。一緒に部屋を出た笹乃介とはそこで分かれて、まずは玄関の方へと一人で戻り始めた。
 玄関周りでは戻った時よりも随分と慌ただしい様子で、店を開ける準備をする者たちが動き回っている。だが橘伍が少し足を止めて様子を窺っていただけで、若い衆の一人から揶揄混じりの声が飛んできた。
「橘伍は遊んでろって言われたんだろー? んなとこ居てもさせられる用はねえよ、邪魔だ邪魔。ほら行った行った」
「…‥遊ばねーよ。本読んでるから、なんかあったらすぐ声かけろよな」
「はいはい」
 年長者に対するにはあまりにも敬意に欠ける口調で橘伍が言い返しても、相手も慣れたもので意に介した様子すらない。既に半ば背を向けてひらひらと手だけ振ってよこす青年にそれ以上の憎まれ口を叩く気も失せて、橘伍はまた歩き出した。
 我ながら「可愛げのない不遜なガキ」な橘伍を、父の桔也だけでなく花街中の誰も彼もがやたらめったら甘やかしてくる。少しでも下心の透けて見える相手は他の者によって即座に叩きだされてしまうから、本当にただの「生意気なところが可愛い末っ子」と扱われるばかりだった。
 どいつもこいつもとぼやくような悪態を胸の内で吐きながら橘伍は寝起きしている雑居部屋に立ち寄り、自分の行李から読み差しの古本を抜き取った。その足で裏口近くの狭い一室に入り、窓の下に座り込む。完全な空き部屋ではなく一応は物置として使われている部屋だが、この時期にこの部屋から出し入れする品はなかった筈だ。もし邪魔になるようならば自分が場所を移れば良い。
 店一番の「売れっ子」でもある桔也には人気と実績のある他の「花」たちと同様に彼自身のための部屋があり、まだ幼かった時分には橘伍も父と共にその部屋で過ごすことが多かった。だが八つになって少しした頃に橘伍自身が言い出して必要以上に父の部屋に入り浸ることをしなくなった。今は年若い奉公人たちの数名と雑魚寝している部屋に多くはない私物も管理し、暇な時には今しているようにできる限り邪魔にならない物陰で過ごすようになっている。見習いでも何でもない自分にはそれがまず妥当な落とし所だと、橘伍自身は思っていた。
 目印に挟んでいた紙片を頼りに本を開き、昨日までに読み終えた箇所の先を読み込もうと文字を追う。だがまったく頭に入らないのが自分でも分かる。その理由も、胸に引っかかって読書に没入させないものがなんなのかも、橘伍自身が分かっていた。
「……」
 本を開いたまま、橘伍は窓の外へ目を向けた。青く晴れわたって雲ひとつない空。ここからは見えなくとも確かに空高く輝いている太陽。
 まだ天の高みにあるあの陽も、あと一刻もすれば傾き落ちる。夕闇は音も立てずに忍び寄る。今日もまた忌まわしいばかりの夜は花街を襲い、花たちは残忍に食い散らされる。
 誰が好き好んで己を売り物にするだろうか。他に一つでも道があったならば、どうしてこんな苦界へとその身を落とすだろうか。望んでこの街に居る者などいない、こんな生き地獄を自ら望んだものなど誰ひとりとしていない。花と見まごう美しさの者たちは、笑顔の仮面に血の涙を隠して今宵も奏で踊る。
 そんなことも分からずに、いや、分かっていてなお気に止めもせずに、艶やかな夢を見たがる下劣な男たちは今夜も花街に流れ込んでくるのだろう。昨夜までと同じように、そしてこれから先も変わることなどなく。
 いっそ夜が来る前に、あの天がひび割れ砕け落ちてしまえばいいのに。呪うような思いで、橘伍は憎らしいほどに晴れた空を睨みつけていた。

「ぁ……ん、っ」
 わざとらしくない程度に喘いでみせた桔也に、客は気をよくしたらしい。また一層鼻息を荒くして腰を振り立ててくるので、後はそれに応えて適度に喘いでいれば今夜もやりすごせるだろう。
 小さく安堵しながら、絡めとられている指をごくやんわりと握り返す。途端に同じ指を折れそうなほど強く握られ、その痛みに思わず顔を顰めそうになる。だがなんとかやり過ごして、苦鳴の代わりに甘え声を漏らして見せた。
「ん……はぁ、ぁ……」
「ああ、梗花、梗花……随分と、良さそうだなあ……」
「ぁ、良い、です、きもちぃ……っ」
 思った通りの節穴だったらしい相手の目に胸を撫で下ろしながら、桔也は心にもない言葉を甘く吐き出す。嘘を吐くことに慣れ切った唇は、躊躇うことなどとうの昔に忘れている。
「梗花、ああ、梗花……可愛い花、私の花……!」
「は、ぁ、だん、なさま……っ」
 だんなさま、だんなさま。甘えた声で呼ぶ相手の本来の名前などは、覚えるつもりさえも桔也には最初からない。呼ばせたければまた教えてくるに決まっているから、わざわざ覚える必要のあることではない。
 喘ぎ身悶えるふりをしながら、望みもしない熱に深く身を落としながら、桔也は今夜もまた朧にたった一つを願っていた。早く朝になれば良いのに、と。
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