アルカトラズの花束

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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アルカトラズの花束【前編】

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 肩を叩かれて私は覚醒した。顔を上げると、灰色の制服と制帽に赤いネクタイを締めた男が立っている。彼は私に懐中電灯を差し出しながら言った。
「交代の時間だよ」
 ああ、そうだった。
 ここは洋上の監獄、「監獄島」アルカトラズ。私はその鍵を守る看守だ。
「ありがとう。行ってくるよ」
 懐中電灯を受け取りながら立ち上がる。一緒に行動するもう一人の同僚は、すでに準備を終えてドアのところで立っていた。
「気をつけてな」
 部屋に残る同僚に頷きを返し、私たちは明るく照らされた部屋から闇の中へと足を踏み入れた。照明の落とされた廊下を歩き、独房の立ち並ぶエリアへ足を踏み入れる。
 独房の群れは三階建てになっている。まずは一階から、房の一つ一つを懐中電灯で照らしながら確認していく。居るべき者たちがそこにいるか、脱走者がいないか、確かめていく。
 一階からは見上げるようになる高い位置には、監房を取り巻いて、ガン・ギャラリーと呼ぶ通路がある。武器を携えた同僚が巡回しているのが下からも見えた。向こうもこちらに気づいて、互いにちょっと制帽を上げて挨拶を交わした。
 闇の中を、懐中電灯の小さな明かりを頼りに歩いていく。明かりの届かない前方は闇に飲み込まれ、独房の群れは永遠にでも続いているようだった。自分と同僚の、二人分の足音がかすかに響く。囚人たちの寝息といびきが大気に満ちている。静かな闇のなかを、私も同僚も押し黙ったまま歩いていた。
 囚人たちは大人しく、割り当てられた独房の中で眠っている。皆等しく同じ造りの粗末な寝台の上で、ある者はちょうどよく収まって、別の者は窮屈そうに、誰もが眠っている。悪夢にうなされている者もいる。何か楽しい夢を見ているのか、うっすらと微笑んでいる者もいる。十人十色の寝姿が、独房の一つ一つに収まっていた。そうして、いくつの独房を通り過ぎただろう。
「動くな、AZ24601!」
 出し抜けに大音声が響き、私はびくっとして顔を上げた。頭上のガン・ギャラリーから、厳しい表情をした同僚の看守たちが私を見下ろしている。その手の銃は、なぜか私へと向けられていた。
「え?」
 訳が分からず、私はうろたえて周りを見回した。そばを歩いていたはずの同僚は、いつの間にか影も形もなくなっていた。代わりに、私の逃げ道をふさぐように、前方からも後方からも懐中電灯を手にした看守たちがやってくる。懐中電灯のまばゆい光が私を照らし出す。逆光となっている看守たちの顔は見えない。
「みんな、どうしたの?」
 問いかけても、誰も答えてはくれない。いつの間にか囚人たちの寝息も聞こえなくなっている。張り詰めていく空気が私を押しつぶそうとする。立ちつくす私に、再び頭上から声が降ってきた。
「抵抗するな。諦めて自分の房に戻るんだ」
 そんなことを言われたところで、私に自分の独房などない。私は看守であって、囚人ではないのだから。
「私は看守です!」
「違う、お前は脱獄囚だ!」
 殆ど悲鳴に近い声で抗議しても、返事はにべもなかった。どう釈明すればいいのかと視線を落として、私は息を呑んだ。
 いつの間にか私は、灰色の看守の制服ではなく縞模様の囚人服をまとっていた。手にしていた懐中電灯も、いつ手放したのかなくなっている。頭に手をやっても、そこに制帽はない。私は混乱した。
 私は看守ではなかったのか? ならば、私は何者だ?
 私は、誰だ?
「抵抗するのか?」
 混乱して立ち竦んだままの私に業を煮やしたのか、苛立った声が降ってきた。手の届かないガン・ギャラリーで、ゆっくりと引き金が引かれる。それを、私はなすすべもなく見上げていた。

 自分の悲鳴で目が覚めた。
 白い天井が目に入る。見慣れた照明器具が目に映る。起き上がって、全身の息を吐き切るほど深く息を吐く。髪をかきあげると、冷や汗が指に絡みついた。
 時計を見ると、目覚まし時計の鳴る三十分前を指していた。二度寝しようかとも思ったが、最悪な目覚めのおかげで眠気は悪夢の中に置き去りにされていた。諦めてベッドを出る。
 私は先日友人とアメリカのカリフォルニア州へ旅行して、監獄島アルカトラズを見学した。その印象が自覚した以上に強かったのか、私はこのところ監獄の夢ばかりを見ている。
 冷静に考えれば、女性看守のいなかったというアルカトラズに、女の私が看守として勤務するはずはないのだ。だが、夢はそんな知識も理性的な判断も軽々と超越してしまう。
 同じ旅行の記憶を夢に見るなら、同じく見物してきたサンフランシスコの街並みだとか、博物館だとか美術館だとか、丸一日を費やして遊んだカリフォルニアズ・グレート・アメリカという遊園地だとかの夢の方がずっといいのに、なぜか私の脳は、楽しくもない監獄の夢ばかりを生産する。自分の脳の働きに自分で嫌気がさす。もっとも、カリフォルニア旅行の前に毎晩見ていた悪夢よりはだいぶましだが。
 私はため息をつきながら朝食の支度をし、食卓についた。サラダと食パンをかじり、牛乳を飲む。アルカトラズの食事の方がまだましかもしれないメニューだったが、いつもこんなものだ。
 食事と片付けを済ませ、少し早めに家を出ることにした。服を着替え、化粧をし、荷物をざっとチェックして立ち上がる。部屋をくるりと見回すと、ある一点にどうしても目がいく。今週末のデートで恋人に渡す予定のお土産が、まだ机の片隅を占拠している。その中には、アルカトラズで買ってきた、囚人たちの使っていたのと同じ形と素材のカップもある。そこから目を背けながら、私は家を出た。

 また、監獄の夢を見た。私は懐中電灯を手に、一人アルカトラズの監房を見回っていた。
 かつん。かつん。私の足音だけが響いている。監獄は静まり返っていた。
 通り過ぎるどの独房にも、囚人たちの姿はなかった。ただ、粗末な寝台の上に、一輪ずつ花が転がっていた。ダリアや薔薇や百合や向日葵のような、華やかな花は一輪もなかった。かすみ草だとか菫だとか、その他にももっと地味な、私が名前を知らないような花々ばかりが寝台の上に横たわっていた。
 かつん。かつん。
 やがて一つの独房の前で、私は足を止めた。その独房の中には、私の恋人がいた。
 彼は寝台に腰掛けて本を読んでいた。私に気づいてはいるのだろうが、顔を上げることはしなかった。それでも、私は構わなかった。
 鍵は私の手の中にある。彼はどこにも行けない。私の許可なしには、彼は独房から出ることさえ叶わない。
 ここは二人きりの場所。鍵は私のもの。その事にどうしようもなく嬉しくなって、私は微笑んだ。
「また見に来るよ」
 私が声をかけると、彼は初めて顔を上げた。にっこりと笑って、「ああ、待ってるよ」と応える。彼に笑顔を返して、私は見回りに戻った。
 かつん。かつん。
 彼のいた独房を過ぎてしまうと、また花が転がっている独房が続く。粗末な花を、これで何本見ただろう。幾つかの独房には、囚人の描いたらしい絵が飾ってあった。上手か下手かはさておいて、妙に胸に迫ってくる絵だった。
 かつん。かつん。
 永遠にも続いているような独房の群れを、一つ一つ見回っていく。何気なく顔を上げて行く手を見て、私は息を呑んだ。行く手にある、一つの独房の扉が開きっぱなしになっていた。
 慌てて駆け寄り、24601番の表示のあるその独房の中を覗き込む。中には誰もいなかった。乱れた寝台の上には花びらの一枚も落ちていなかった。扉を見ると、無理に力ずくでこじ開けたように歪んでいる。周りを見回しても、もちろん逃げ出した囚人の姿はない。
 いつの間にか、私と同じ制服を着た看守が私のそばに立っていた。厳しい顔つきで、こじ開けられた扉を見ている。その巌のような顔を見上げていると、ふと看守は私を見た。厳しい表情のままで口を開く。
「お前の見回り中にいなくなった。お前の責任だ」
 そうかもしれない。私は反論できず、黙って頷いた。それを見て、看守はますます顔を険しくした。
 私は看守に背を向けて、また独房を覗き込んだ。私物も花びらもない殺風景な独房を見回していると、背中に硬いものが押し付けられた。
「お前が代わりに入るんだ」
 銃口が私の背を押した。私は大人しく従った。
 独房の中へ足を踏み入れると、背後でがちゃりと扉が閉まる。埃っぽい、黴臭い空気が鼻腔に忍び込んでくる。
 暗く低い天井を見上げた。コンクリートの天井が迫ってくるようだった。くらりと眩暈のようなものを感じて、私は目を閉じた。

 目を開けると、白い天井が目に入る。それがコンクリート製でないことを不思議に思った。数秒経って、漸くアルカトラズは夢でしかなかったことに気づく。
 時計を見ると目覚まし時計の鳴る五分前だった。ちょうどいいのでそのまま起き上がり、顔を洗って朝食の支度をする。朝食をもそもそと口に入れながら、私は自分の見続けている監獄の夢を振り返った。
 その夢の一因となっているであろう本について考えを馳せた。旅行に際して、飛行機の中での暇つぶしに選んで持参したのが、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』の第一巻だった。十九世紀のフランスの物語であるその本に出てくる監獄はアルカトラズとはだいぶ状況が違うのだろうが、海のそばの監獄という共通項が私にその本を手に取らせた。
 主人公ジャン・バルジャンの初めの囚人番号は、24601号だ。だからだろう、私の監獄の夢には、24601という数字が繰り返し出てくる。
 パンを一つ盗んだ罪で投獄され、脱獄を繰り返したために十九年の長きにわたって服役した男。釈放直後の荒んだ心を司教の慈悲によってほどかれた、善良な人間たらんと発起した男。彼も、あの夢のアルカトラズのどこかに収監されているのだろうか。それとも、もう脱獄なり出獄なりした後なのだろうか。
 どちらでもよかった。私はジャン・バルジャンにはそこまで興味はない。
 私はジャン・バルジャンよりも、彼を執拗に追いかける「敵役」ジャベール警部が好きだ。融通の利かない、法の正義を愚直なまでに信じる、人間味を捨てようとするところが却って人間らしいような、不器用で誠実な彼の生き様が好きだ。
 私はそんなに真っ直ぐには生きられないから。迷い悩んだ挙句に筋の通らない選択をしてしまうから。信念など持たず、ただ漫然と生きているだけだから。
 物語『レ・ミゼラブル』について、ジャベール警部について考えると、いつの間にか翻って自分の生き方について考えている私がいる。私が信じているものとはなんなのだろう。私は自分の人生で何をしたいのだろう。私はどう生きていきたいのだろう。私は何を大切にしているのだろう。私は、私は、私は。
 考えながらふと時計を見て、私は危うく皿をひっくり返しそうになった。考えにふけっていたせいで、出勤時間が迫っている。私は慌てて立ち上がり、身支度を始めた。

 久しぶりに、アルカトラズの出てこない夢を見た。何度も何度も見ている、見たくもない夢を見た。
 今日はカリフォルニアから戻って以来、最初のデートだ。お土産の品々も忘れずに鞄に入っている。
 恋人が乗ってくる電車が遅れているというので、待ち合わせた駅の改札のそばにあるコーヒーショップに入って待つことにした。注文するための列に並びながら、その旨をメールで連絡する。
 カフェオレを受け取って空いていたテーブルに座る。熱い薄茶色の液体に砂糖を流し込み、ぐるぐると搔き回す。熱くてうっすらと甘い液体を一口飲む。まだまだ熱い。
 カップをテーブルに戻し、また機械的にぐるぐると搔きまわし始めた。考えはまた、昨夜見た夢へ飛んでいく。もう見たくもない夢に。二度と見たくなかった夢に。
 夢は願望を映す鏡だという。無意識の中で望んでいることや、逆に実現してほしくないと恐れていることが、夢として立ち現れてくるのだという。ならば私の見る夢は、どちらなのだろう。あの夢は私の望みなのか、恐れなのか。私にはわからない。
 カフェオレを前に考えに耽っていると、テーブルに影が差した。顔を上げるのとほぼ同時に、声が降ってくる。
「お待たせ」
 見上げれば、恋人が笑っていた。ばつの悪そうなその笑顔に笑いかえしながら、ちくりと罪悪感に似た感情が胸を刺すのを感じる。
 ゆうべ、あんたを殺す夢を見たんだよ。言わない言葉を、冷めたカフェオレと一緒に流し込んだ。
 恋人を殺す夢を見たのは、昨夜が初めてではない。もう何度も何度も、私は夢の中で彼を殺している。
 絞殺か、刺殺か、撲殺か、もっと別の方法でだったのか。それは分からない。気がつくと私は、息絶えた彼のしかばねを前に立ち尽くしているのだ。
 喪失感。罪悪感。哀しみ。絶望。それらと同時に、私はまぎれもない歓喜を感じている。これで彼はもうどこにも行けないと。私から離れることはないと。彼がその命の最後に私を見ていたから、彼の魂は永遠に私のものだと。
 彼を閉じ込めてしまう夢を見たこともある。彼がもう私から離れないように。
 彼の足を切り落としてしまう夢を見たこともある。彼がもうどこにも行けないように。
 彼の腕を切り捨ててしまう夢を見たこともある。彼がもう私以外の人に触れないように。
 彼の目を潰してしまう夢を見たこともある。彼がもう私しか見ないように。
 夢は段々とエスカレートしていって、ついには私は夢の中で、夜毎彼を殺してしまうようになった。アルカトラズの夢を見始めるまでずっと、私は毎晩恋人を殺し続けていた。もしかしたら軽度の神経症だったのかも知れない。
 悪夢の名残を頭から振り払い、飲み干したカフェオレのカップをトレイに乗せて立ち上がる。指定の場所へそれらを片付けて、私と恋人は店を出た。

 また、監獄の夢を見た。
 私は同僚の看守と共に、アルカトラズの監房を見回っていた。独房の群れはひっそりと静まり返って、かたりとも音を立てない。自分の足音さえ聞こえない。
 私と同僚は何も言わず、闇の中を歩いていた。独房の中を懐中電灯で照らすと、寝台の上にはやはり粗末な花が一輪載っていた。次の独房もそうだった。また次の独房も、そのまた次の独房も。花を閉じ込めた独房が、延々と続いていた。
 私は何も言わない。同僚も何も言わない。やがて、永遠に続くかと思われた独房の群れの一番端に突き当たった。そこで方向転換をして、来た道を戻り始める。独房の列の中ほどにある通路から、別の列へ移るためだ。
 半歩先を歩いている同僚の背中を見るともなしに眺めていると、不意に同僚が立ち止まった。慌てて私も立ち止まる。
「どうしたの?」
 私の質問に、同僚は無言で懐中電灯を閃かせた。その光の軌跡を目で追って、私は瞬いた。
 一つの独房の扉が開いていた。それが脱獄の痕跡なら大問題だが、私はそれが空の房であることを知っていた。同僚だって知っているはずだ。同僚が何を言いたいのか、私にはわからなかった。
「さあ、入れ」
 同僚の声に振り返ると、彼は厳しい表情で頷いた。その表情に、私はすとんと納得した。
 そうだ。私はここに収監されるのだ。私がそれを望んだから。私が自ら望んだから。
 私は懐中電灯を同僚だった男に渡すと、独房の扉を潜った。私の背後で扉が閉まる。外から鍵が掛けられる、重い音がこだました。私が粗末な寝台に腰掛けると、それを見守っていた看守が口を開いた。
「じゃあな」
 一言だけ言って、返事を待たずに背を向ける。足音と懐中電灯の光が遠ざかっていく。静寂と闇が私を訪れた。

 目を開けると、白い天井と見慣れた照明器具が目に入る。薄闇に閉ざされていないことに違和感を覚えてから、ようやくアルカトラズで収監されたのは夢だったことを思い出した。
 恋人を殺す夢ではなくアルカトラズの夢だったことに、私は安堵した。嫌な夢には違いないが、後者の方が私には断然ましだ。恋人を殺すなど夢でもおぞましいから、ではない。それが私の密かな願望なのだと、本当は私自身が知っているからだ。いつか私はあの夢を現実にしてしまうかもしれないと、誰よりも私が知っているからだ。
 私の恋人はある種の博愛主義者と言える。そう言えば聞こえはいいが、要するに浮気性なのだ。
 私とのデート中にも、道行く女の子に目移りする。他の女の子とデートもする。合コンにも行く。家に連れ込んでいた女の子と私が鉢合わせになったことも、両手の数では足りなくなりそうだ。
 その度ごとにもう別れようと思い、なのにいつの間にかその決意はうやむやにされてしまう。懲りない彼にも、諦めの悪い私にも、私はほとほとうんざりしている。
 恋人同士とは、互いに互いの独占権を主張できる関係のはずだ。少なくとも、私はそう理解していた。恋人とは私のものである男を指すのであり、私はその男のものなのだと。
 けれど彼を見ていると、その確信が揺らいでいく。少なくとも、私は彼のものであるのに対して、彼は私のものであるとはとても言えない。そんな彼を殺す夢を、私は繰り返し繰り返し見ている。
 彼を殺す夢の手触りは、いつだって残酷なほどリアルだ。私にはそれが夢なのか現実なのか、目覚めるまで判断がつかない。
 悪夢は、また彼が浮気をしたという場面から始まる。私は現実と同じように彼を責め、彼も現実と同じようにのらりくらりと謝る。私はかっとなって、はさみだとか包丁だとか花瓶だとか、手近で身近な凶器を振り上げてしまう。そして場面は飛び、気がつけば私は息耐えた彼のしかばねを前に立ちすくんでいるのだ。
 私は目覚めるまで罪の意識とようやく彼を独占できたという歓喜に震え、目覚めてはそんなおぞましい夢を見た自分におののく。それを、一時期は毎晩繰り返していた。
 もしかしたら私はいつか、夢だと思って現実に彼を殺してしまうかもしれない。それが一番怖かった。

 独房の中で私は目を覚ました。簡素な寝台の上で身を起こす。薄暗い独房を見渡した。
 洗面台。トイレ。からっぽの棚。作り付けの小さなテーブルと椅子。いま腰掛けている寝台。それが私の世界の全てだった。
 アルカトラズでは食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられ、それ以外の全ては特典とみなされる。模範囚には仕事や面会や運動や映画や図書館利用の権利が付与されるが、私にはそれらがない。それでも私は満足だった。
 これ以上に、ここにある以上に、欲しいものなどなかった。私は罰せられるためにここにいるのだから。二度と罪を犯さないために、反省を体に染み込ませるためにここに入ったのだから。権利も自由も私には必要ない。ただ、義務と束縛があればいい。
 こつ、こつ。静寂に足音が混じった。こちらへ徐々に近づいてくる。看守の見回りだろう。私はそちらへ顔を向けた。
 闇を脱ぎ捨てるようにして現れたその看守は、私の恋人だった。
「やあ」
「こんばんは」
 鉄格子を挟んで、挨拶を交わす。彼は場違いなほど明るく微笑んでいた。その笑顔を見ていると、平穏に凪いでいた私の心にわずかにさざ波が立った。
 この世で一番近しいはずの彼が、こんなに近くにいるのにとても遠い。思わず鉄格子の間から伸ばした手に、彼は見向きもしなかった。気づいてもいなかったのかもしれない。
 この鉄格子の外、私の目も手も届かない場所で、彼は他の女の子と睦まじくしているかもしれない。その想像が私を苦しめ、私の中の凶暴な衝動を剥き出しにする。鉄格子にすがりついて彼を責め立てそうな自分を、わずかに残された矜持で押さえ込んだ。
 彼は私の苦悩など知らない様子で、「また来るよ」と笑って巡回に戻って行った。私は手を引っ込め、その背中を見送ることしかできなかった。
 彼はこの檻の外にいる。私はどうあがいても、看守である彼に手出しはできない。仕方がない。私が自ら望んだことだから。
 哀しみと焦燥と安堵の入り混じった思いで、私は溜息をついた。それから気を取り直して、深呼吸をして、独房を見回す。娯楽になるようなものなど何もない、殺風景な部屋。罪を犯した私には似つかわしい部屋。
 ここにいれば、私が罪を犯す事はない。私はここにいる限り、二度と罪を繰り返さないで済むのだ。その事にひどく安心した。
 光も喧騒も温もりも、遥かに遠い。薄暗い、静かに冷え切った独房の中で、私は確かに満ち足りていた。

 目を開けると、暗い天井と見慣れた照明器具が目に入る。まだ朝の遠い夜中に、なぜか目が覚めてしまったようだった。
 起き上がって部屋を見回す。薄闇の中で見回す狭いアパートは、どこか独房に似ている。私を外界から隔絶する檻に似ている。
 アルカトラズの監房は全てが独房となっていた。「個室」が与えられるのは刑務所としては贅沢なことだったらしく、自らアルカトラズへの移転を希望する囚人もいたという。
 理由は違えど、夢の中の私も自ら望んでアルカトラズに収監された。自ら懲役刑を望んだ。閉じ込められることを望んだ。
 枕に頭を戻し、私は目を閉じた。眠気が遠巻きに私を覗き込んでいるのを感じる。
 夢の中の私は罪を犯した。私はそれを知っていて、二度とその罪を繰り返さないことを望んで、自ら檻に囚われた。
 私の罪とは何なのか。それはきっと、恋人を殺してしまったことだ。何度も何度も、夢の中で彼を殺したことだ。
 夢の中で犯した罪だから、夢の中で償うしかない。それがわかっているから、夢の中の私は望んでアルカトラズに収監された。もう二度と彼を殺したくないから。もう二度と彼を殺す夢など見たくないから。自分の醜い願望を突きつけられるのが嫌だから。そんなひどくエゴイスティックな理由で、私は。
 いつの間にか忍び寄ってきていた眠気が、私の意識を飲み込んだ。そのまま朝まで、私は夢のない眠りを揺蕩った。
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