蛇と鏡の誰そ彼刻

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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おしまいの日に風は吹く

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 温かい手に抱き起こされて、ぼやけていたショロトルの意識は浮かび上がった。
 重い瞼を持ち上げると、まず目に入ったのは夜の神の泣き顔だった。その表情を不思議に思う。さっきまで走馬灯のように見ていた夢では、こいつは笑ってくれていたのに。
 目を開けると全身の痛みが押し寄せてくるけれど、忘れかけていた温度も少しだけ分かるようになった。抱き寄せてくれている夜の神の胸も、滴り落ちてくる涙も、温かい。
 ほろほろと零れる、水晶のようにきらきらする涙。拭ってやりたいけれど体が動かないので、仕方なく口で言うしかなかった。
「泣くなよ」
 力無い声と一緒に、少し血を吐いた。唇に残った血を、震えている指先が拭ってくれる。その指も、やはり温かい。それとも自分が冷たいんだろうか、とやっと気づいた。
 ついでに気づいたのは、何でこいつが此処にいるんだろうという疑問。軍神でもあるこいつは、民があの侵略者どもと戦っているこいつ自身の戦場にいる筈なのに。ショロトルなんかに、構っていられる立場ではないのに。
 分からないけれど、その温度は心地良い。つい顔をすり寄せながら、もっと格好の付く別れにしたかったなあと頭の隅で思う。
 あの羽の生えた奴らに、無様に打ち負かされて。こんなにぼろぼろで、腹には穴が開いて、ろくに動くこともできなくなって地に打ち捨てられて。こんな有様では、見窄らしいにも程がある。
 お互いの戦場に出る前に別れの挨拶を交わした時の、少しでも凛々しく堂々とした姿だけ、記憶に留めて置いて欲しかったのに。こいつの中に残していく面影は、最後の最後くらいは、雄々しく美しくありたかったのに。
 けれどやはり、また会えたことが嬉しくて。見送ってもらえるのは、幸福で。温かな胸の温度が肌に沁み込んで、止まりかけの心臓を暖める。
 唇にぼやけた笑みが浮かんだのを、そいつはどう解釈したんだろうか。一層つらそうな顔をしてぼろぼろ泣き出すので、申し訳なくなってしまう。
「泣くな、って」
 また血を吐きながら、力無く言い聞かせる。また血を拭ってくれる、温かい指。あの名前も知らない花に魔術を掛けてくれた時も、僅かに触れ合ったその指は同じ温かさだったろうか。もう、思い出せない。
 頭が働かなくて、靄がかかったようで。言葉は捕まえる前に、すり抜けて零れ落ちて消えていく。それでも何とか、伝えなければいけない言葉を霧の底から拾い上げることができた。
「あいつが、帰ってくるんだから。もう、泣かなくて、いーんだ」
 途切れ途切れに告げた言葉は、確かに届いたのだろう。そいつがはっと目を見開く。抱き起こしてくれている腕が震えたのが感じられる。
 それでももう、この心臓は切なく震えたりしない。無意味な嫉妬に締め付けられたりしない。けれどその瞳に喜びが浮かぶのを見ていられるほどショロトルは強くないから、そっと目を逸らした。力の入らない声で、呟く。
「だから。泣くなよ、もう」
 ショロトルには、確かに分かるのだ。なぜなら、ショロトルとあの風の神は対だから。どんなに深く互いを憎んでも、どれほど強くその存在を厭うても、その事実は決して動かせないから。
 あいつは今まさに、風に乗って飛ぶようにして、ここへ、この帝国へ、こいつの元へ、帰って来ている。消えかけているショロトルの薄ぼんやりした意識でも、それがはっきりと感じ取れる。
 長く長くこの国を留守にした風の神。気が遠くなるほど長い間、こいつを独りにしていた、薄情な神。あいつがやっと帰ってくるのだから、こいつはもう泣かなくていいのだ。こいつは笑って、あいつを迎えに行くべきなのだ。ここで消えて行こうとしているショロトルのことなど此処に置き去りにして、二度と振り返ることもなく。
 あの侵略者どもを見た民が、あいつが帰ってきたんだと騒いだ時。そいつの一行が日に日に近づいてくると、風より早く噂が届いていた頃。こいつの心も騒いでいたのが、ショロトルにはよく分かった。
 きっと違うのだろうと、聡いこいつには朧げに分かっていたのだろう。あの奇怪な軍勢のやり口は、ショロトルの兄弟神のものとは似て非なるものだった。伝え聞くその姿も、連れている得体の知れない獣や手下たちも、あいつの好みそうなものではなかった。
 それでも、もしかしてと、本当かもしれないと、淡く期待して。それならどうして会いに来てくれないんだと、焦がれていたのは自分だけなのかと、深く傷付いて。
 けれどこいつは、何も言わなかった。何でもないような顔をして、平静を装って、ショロトルが訪ねていけば変わらない笑顔で迎えてくれた。その何でもなさそうな態度が逆に痛々しいだなんて、ショロトルは言えなかった。
 けれどやがて、こいつははっきりと見定めた。遅くはなったけれど、民もやがて真実を悟った。残酷で痛ましいその事実を。
 あれはあいつではないんだと。追い出すべき、ただの敵なんだと。それが、唯一の答えだった。
 それがどれほど大きな絶望をこいつにもたらしたのか、ショロトルには想像することもできない。薄く淡い期待は打ち砕かれ、恋焦がれた夢は生き絶えた。それでもショロトルの前では、夜の神は決して泣かなかった。
 
 民が真実に気づくのは、少しだけ遅すぎたのかもしれない。いつか遠い日に約束されていた「滅び」は、思いがけない形で帝国に襲いかかった。
 こいつに何かを約束していたのかもしれない、あの風の神。あいつが帰りつかないままに、あいつの愛した国と民は滅びていく。
 けれど、こいつとあいつを再会させるだけのいとまならばある筈だ。なければ作るべきなのだ。こいつはあんなにも、ショロトルの兄弟神を待ち焦がれていたのだから。
 だからこいつはいますぐに、ショロトルをここに置き捨てて海へと走っていくべきだ。あいつを迎えて、あいつと言葉を交わして、もし叶うならばあいつとどこか美しい場所へ旅立つべきだ。滅びていく者など、こいつはもう見捨てるべきなのだ。
 なのに。
「いやだ」
「……え?」
 震える声が呟いて、ぼやけていたショロトルの意識が少しだけ引き戻される。目を戻した先で、夜の神はひどく切なそうな顔をして、まだ泣いていた。 
 何故。どうして。あいつが帰ってくるのに、だからこいつはもう独りではないのに。なのになんで、こいつはまだ泣くのだ。不思議に思って尋ねようとしたとき、そいつは震える唇を開いた。
「お前が、いなくなるのは、いやだ」
 泣き濡れた声、ひどく切なげな響き。紡がれた言葉は耳を疑うほどに優しくてショロトルには相応しくないほどのものだったから、聞き間違いかとショロトルは思ってしまった。きっと自分の願望が作り出した、幻の響きなのだと。
 けれど尋ねる前にに、そいつが、一層苦しげに泣き出した。ぼろぼろと水晶のような涙を零しながら、痛いほどの強さでショロトルを抱きしめる。繋ぎ止めるように、引き戻そうとするように。
「置いて、いくな」
 涙に濡れたその声が、訴えられた言葉が、ショロトルの回らない頭に、止まりかけの心臓に、染み込んでくる。朧に浮かび上がったのは、申し訳なさと甘やかな歓喜だった。
 ショロトルがいなくなることを、こいつが惜しんでくれること。こいつの胸の中に、ショロトルの居場所が与えられていたこと。それがどうしようもなく嬉しくて、願いを叶えてやれないことがとても残念だった。
「ごめん」
 だから、謝罪することしかショロトルにはできない。ショロトルにはもう、どうすることもできないから。こいつの涙ながらの願いを叶えてやることさえ、もうできないから。
 最初から最後まで、泣かせてばかり。傷付けて、苦しませて、悲しませるばかり。幸せになってほしいと願うことすら烏滸がましいのかもしれない。
「忘れて、いーから」
 だから、こんな酷い奴のことなど早く忘れてくれればいい。そしてどうか、どうか、幸せになってくれればいい。
 どこか自由で広い、遠い空の下で。誰にも、何にも、縛られ引き裂かれることのない場所で。待ち続けた、待ち焦がれた、あの風の神とともに。
 とうとう相容れないままに終わった兄弟神のことを思い出しても、もうショロトルの胸は憎悪や嫉妬に苦しめられることもない。あいつがこいつを幸せにしなければ、決して許してやるものかとは思うけれど。
 けれど夜の神は、悲しげに泣くことをやまだめない。繋ぎ止めようとするように、強く抱きしめてくれる腕。恵みの雨のような優しさで落ちてくる涙。切なげに嗚咽する声。
 そいつがあまりに優しいから、ショロトルには相応しくないほどの必死さで惜しんでくれるから。だから、我儘を言いたくなってしまった。
「あいつのもの、ひとつでいーから。分けてよ」
 また血を吐きながら、呟くように乞う。しゃくりあげていた声が、驚いたように止まった。
 これが最後だから。もう、こいつとあの風の神の間に割り込むことはしないから。だから、あいつのものになるべき優しい感情のひとひらだけでも、分け与えてはくれないだろうか。
 それが分不相応な願いであることも分かっていたのに、言ってはいけない言葉だと知っていたのに。漏らしてしまったその我儘を、夜の神はやはり叶えてくれた。 
 そっと唇に落とされたのは、涙の味のする口付け。ずっと欲しかった、夢見て焦がれていたそれは、薄れゆく意識でも分かるほどに温かかった。
 温かで、優しくて、甘くて。その柔らかな感触が、禁句を閉じ込めていた檻さえ壊してしまった。
「愛してる」
 零れ落ちてしまった、言ってはいけない筈の言葉。打ち消す力さえももう残されていない。醜く重たい置き土産を残してしまったと悔やんだ時、その声は降ってきた。
「愛している、ショロトル」
 二つも貰って、いいのかな。朧にそう思ったのを最後に、ショロトルの意識は闇に沈んだ。
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