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名付け得ぬ花の鮮やかに

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 会いたいと思った。気が付くと、足が向いていた。
 神殿に続く道を踏み締めながらショロトルはつい溜息を漏らしていた。何を言えばいいのかも分からない。どんな顔をして声をかければいいのかも分からない。けれど、今すぐ回れ右をして自分の神殿に駆け戻る気にもなれない。
 何か特段の用事や急ぎの話があるというわけではない。何の用もない。なのに何故、のこのこと来てしまったのか。会いに行こうとしているそいつは、美しい夜の神は、どう考えたって忙しくしている筈なのに。そんなことくらい、ショロトルも最初から知っているのに。
 祭礼の宴会を司る神でもある美しい夜の神は、祭りの日が近づくと昼間も起きて何やら準備をしている。三日後に迫った大祭の準備で、今は特に慌ただしくしていることだろう。
 忙しくしているときに押しかけられたところで、そいつだって迷惑なだけだ。そんなことはショロトルだって分かっている。会いに来るにしても、祭りが終わってからにするべきだのも。
 けれど不意に、会いたくなったのだ。何とは無しにそいつのことを思い出して、祭りが近いから今日はもう起きているかなとふと思って。そうしたら、今すぐに会いたくなって、いてもたってもいられなくなったのだ。
 顔が見たいと、声を聞きたいと、何故だか思ってしまったのだ。自分を諌める暇もなく、気がつけばそいつの神殿が見えるところまで来てしまっていたのだ。
 何と言い訳しようか。『近くを通ったから』なんて嘘は、聡いあの神には必ずばれる。あの神はきっと気付いたということをショロトルに気付かせないようにしてくれるのだろうけれど、ばれていると分かっている嘘を貫くのは居心地が悪いのだ。
 かと言って、『お前に会いたくなった』『顔を見たくなった』『声を聞きたくなった』なんて甘ったるい言葉は、みっともなくて到底言えない。それが偽らざる本心だという事実は動かせなくても、もう少し格好の付く言い訳を探してしまう。
 上手い言い訳が見つからないままに、神殿に辿り着いてしまった。もう一度溜息を吐いて顔を上げたとき、遅まきながらそれに気付く。
 入口の脇には、武器の手入れをしている戦士がいた。何回か顔を合わせているが、用もないから話したこともない。今日も、こいつになんて用はない。ないのだが、そんな場所にいられては気付かれずに通り抜けることもできない。
 気配に気付いて顔を上げたその戦士は、驚いた顔になりさっと立ち上がった。どんな態度を取るかべきか迷っているような顔をして、結局そいつは何も言わずに少し簡略な礼をした。
「入るぞ」
 元よりこの戦士に振りまくような愛想など持ち合わせていないが、今は居心地の悪い思いも相まってぶっきらぼうに言い捨てることしかできない。ここに来てしまった自分のことが、後ろめたくて堪らない。
 会いに来た相手に迷惑がられるだろうから、ではない。そいつは、この戦士が仕える主神は、迷惑な顔一つせずショロトルを迎えてくれると知っているからだ。ショロトルがどんなにそいつの邪魔をしても、ショロトルがどれほど自分勝手な都合でそいつを振り回しても、そいつはさも心から嬉しいような顔をしてショロトルを迎えるからだ。
 それを知っているからなのかもしれない。目障りな戦士はあからさまに嫌そうな顔を見せた。だが何も言わずに、大人しくショロトルに道を譲る。ショロトルももう何も言わず、さっさとそいつの脇を通り過ぎた。
 神殿はやはり大祭の準備で慌ただしいらしく、神官達が忙しそうに動き回り、部屋から部屋へ出入りしていた。ショロトルはこちらに気付いて慌てたように礼をする神官達には目もくれず、足早に部屋を抜けていった。
 いくつかの部屋を通り過ぎたところで、思いがけずそいつが奥の間から出て来ているのを見て思わず立ち止まる。この神殿の主神、ショロトルが訪ねて来た相手。
 起きているだろうとは思っていた。だから来たくなって、来てしまった。けれど予期していたより少しだけ早くその姿を見てしまうと、まだ心の準備ができていなかったことに気付かされてしまう。
 そいつは神官の一人に手伝わせながら、何か作業をしていた。床に大きな布を広げて、その上に様々な花だとか薬草だとか、煙草の葉だとか、テオナナカトルや他の幾種類もの茸だとか、そんな色々な物を並べていた。それらの幾つかを選んで束ね合わせたり、同じ壺に入れ直したり、ショロトルには分からない複雑なことをしていた。
 言葉に迷うショロトルが声をかけなくても、そいつはすぐにこちらに気付いた。少し驚いたような顔をして、それからふんわりと笑う。
「ショロトル。どうした?」
「用ないと、来ちゃ悪りいのかよ」
 どんな態度を取るべきか決めかねていたから、ついそんな喧嘩腰の口調になってしまう。本当にどうして来てしまったのかと、また悔やみながら。
 つっけんどんなショロトルの態度も、不意の訪問も、邪魔をされたことも、そいつは気にした様子もない。また柔らかく笑って、ごく自然な調子でそいつは答えた。
「まさか。お前に会えて嬉しい」
 嘘吐き。
 口走りそうになった言葉を噛み殺した。知ってか知らずかそいつはただ笑い、立ち上がってこちらに歩み寄ってくる。心得ているらしい神官は既に、広げていた品々を手早く片付け始めていた。
 すぐ目の前まで来たその神に何か言わなければいけない気がして、けれど言葉が見つからなくて。結局ショロトルは何も言わずに、握りしめていた花を夜の神の胸に押しつけた。
「やる」
 ぶっきらぼうに言いながら気恥ずかしくなる。似合わないことをしているのは、自分でも分かっているのだ。
 花なんて、気にかけたこともない。摘もうと思ったことさえもなかった。名前さえ知らない、こんな植物なんて。
 だけど、似合うと思ったのだ。この夜の神は、とても美しいから。
 目を瞠っているそいつの胸に、ぐいぐいと花を押し付ける。なんだか居心地が悪くて、殆ど睨みつけ流ようにしながら。
 早く受けとれよなどと、また喧嘩腰の言葉を吐いてしまいそうになる。だがその前に、瞬きをしたそいつがふうわりと綺麗に笑った。
「ありがとう」
 この時期によく見つけたな、例年はもう少し遅く咲く花なのだが。同じ綺麗な笑顔のままで言いながら、そいつは花を受け取ってくれた。僅かに指先が触れ合って、ほんの微かに心臓が揺らぐ。
 手の中の花を見たそいつは、また嬉しげに笑った。すんなりとしたその指が、慈しむような優しさで花弁に触れる。
 その指先から、星のような光がふわっと舞った。それがあまりに綺麗だから、ショロトルは思わず目を瞠ってしまう。
 光はすぐに散り散りになって消えて、後には何も変わっていないように見える花が残る。けれどそいつは、満足げに笑った。
「これで、私の命がある限り、この花は枯れない」
 嬉しそうな声がむず痒くて、屈託のない笑顔が眩しくて。だからつい、目を逸らした。ぼそぼそと呟く。
「そこまで、しなくても」
「お前がくれたものを粗末に出来るものか」
 当然のように言うそいつに苛立つ。そんな気もないくせにと、単なる礼儀でそうしているだけの癖にと。
 苛立って。困らせてやりたくなって。だからつい、口が滑った。
「お前のそーゆーとこ、好き」
 何も考えずに言ってしまってから、我に返り悔やんだ。けれど、もう、取り消せない。吐いてしまった言葉は、取り戻せない。
 そいつは驚いたような顔をして、少し目を瞠って。それから、少し切なそうに、笑った。
「ありがとう」
 綺麗だけれど悲しげなその笑顔につきんと胸が痛む。それは罪悪感なのかもしれないし、嫉妬なのかもしれない感情。
 きっとこいつは、ごく自然に笑っているつもりでいる。無理に笑っているという事実に、こいつ自身はきっと気づいていない。こんなにも不自然で切ない笑顔を作っておいて、こいつだけがそれを知らない。
 ショロトルが投げつけてしまった重たくて不必要な感情を、こいつはありがとうなんて言葉ではぐらかして。けれど、こいつには誤魔化しているつもりもないんだろう。しっかりと受け止めて、正しく返したつもりでいるんだろう。
 手放しで喜んではもらえない理由を、『私も好きだ』だとかそんな言葉は決して返ってこない理由を、ショロトルは知っている。なのについ口走ってしまうのだから、馬鹿なのはショロトルの方だ。
 このちっぽけな痛みにも、もう慣れた。慣れたのだ、とっくに。だから、別に痛くなどない。そう自分に言い聞かせ、できるだけ何でもなさそうな声で話を変えた。
「これ、なんて花だ?」
 押し付けた花を指差して尋ねる。話題など何でもよかった。何気ない、何でもない、取るに足らないような言葉であれば。
 けれど不意を突かれた顔をして反射的に答えてくれようとしたそいつがふとまた瞳を翳らせた。それをショロトルが怪訝に思う前にじわっと笑う。その笑顔はやはり少し苦くて切なそうだった。
「名前で縛ることに、意味があるか?」
 努めて何でもないようにしていると、それがよく分かるその声。けれど滲んでいる、苦い痛み。だからショロトルも、何でもないような声で答えるしかなかった。
「別に。名前なんて、何でもいーし」
 興味もないような声で言いながら、ちりっとした痛みをまた感じた。その感情にも、名前など必要ない。名前なんて、ないほうがいい。名付けてしまえば、それは実態を持ってしまうから。
 ショロトルとの関係にもきっと、こいつは名前なんて付けたくないんだろう。そんな分かりきった事実から目を逸らすために、切なそうな目をして笑うそいつの気を逸らさせるために、ショロトルはそいつの腕に触った。不意を突かれた顔をするそいつに、可愛げのないオネダリをする。
「なあ。膝貸して?」
「何?」
 虚を突かれているそいつの腕を掴んで、軽く引いた。抗わずに少し身を寄せてくれるそいつに、理由になっていない理由を告げる。 
「昼寝する」
 自分で言ってしまってから、気恥ずかしくなる。誰かの膝枕で寝るなんて、そんなことはしたこともされたこともない。そんな甘えた、胸焼けのしそうなことは。でもそれはとても気恥ずかしいということを我慢すれば、とても良い気分でもあるんだろうと思えた。
 断ってくれてもいいと、断ってくれた方がいいと思いながら、返事を待つ。けれどこいつが断ったりしないのも、ショロトルは知っている。
 事実、ぱちぱちと瞬きをしたそいつはじわっと苦笑した。悲しさや切なさが混ざり込んでいない、少し呆れたような苦笑い。ほんの少し安堵した。
「硬いぞ」
「いーんだよ」
 また苦笑して、けれどそれ以上何も言わずにそいつは窓からの光の当たらない場所を選んで座ってくれた。だからショロトルも、その膝を枕にして床に体を投げ出した。
 片付けを済ませた神官はいつの間にか退出していたから、部屋には他に誰もいない。遠くで神官達が立ち働いている足音をぼんやりと聞きながら、ショロトルはそいつの顔を見上げた。そいつも視線を受け止めて、微笑んでくれた。
 本当に綺麗な顔をしている。思慮深い瞳も、整った顔立ちも、豊かで滑らかな髪も、どこを取ってもこいつは綺麗だ。顔だけではない。体付きもしなやかに均整が取れていて、姿勢も良くて、声もよく響いて、頭が良くて色んなことを知っていて。
 創造の日に永遠に失われた片足の他には傷も欠点も何もない、とても美しい神。ぼんやりと見惚れながら、自分のことが惨めに思えた。
 追放されたあいつの不完全な片割れでしかないショロトルなどとは、本当はこいつは釣り合う存在ではない。ショロトルなどの手に入るような相手ではない。こいつはこんなにも美しくて、賢くて、優れているのだから。こいつだって、ショロトルのことなど本当は望んでない。
 けれどこいつは、まるでショロトルのモノのように振舞って、ショロトルがねだることを何でも叶えてくれる。ショロトルがうっかり勘違いしてしまいそうになるくらいに、残酷なほどに、完璧なその態度。なぜなら、それが約束だから。
 後ろめたさが胸を締め付けて、つい目を逸らした。そいつは知ってか知らずか小さく笑い、ショロトルの髪の生え際に触れてくれた。
 指の長い手が、髪を撫でてくれる。その指は温かくて、優しくて、気持ちが良い。胸の奥がじわっと暖かくなって、その暖かさはやはり後ろめたくて。心地良いのに、同じくらいに居心地が悪い思いがして。
 視線のやり場に困って、うろうろと目をさまよわせる。そして髪を撫でてくれているのとは逆の手に、目を吸い寄せられた。ショロトルが押し付けたあの花をまだ手にしたままの、そのすんなりした指先。アコクトリの花にも似た綺麗な色をした、形の良い爪。
 その手に、指先に、触れたいような気がして。けれどそんな権利がショロトルにあるとも思えなくて。困って、どうしようもなくなって、部屋の出入り口の方に目を向けておくことにした。
 相変わらず忙しく立ち働いている神官達が行き交う。そいつらに混じって時々通り過ぎるあの目障りな戦士は、通るたびに嫌そうにショロトルを睨んでくる。それで少しだけ、溜飲が下がった。

 いつの間にか、うとうとと眠ってしまっていたらしかった。まだぼんやりした意識で、瞼は開けないままに気配を探る。
 枕にしたままの膝の感触。そいつはとっくに脚が痛くなってるんだろうなと思って、じんわりした申し訳なさを感じた。
 ショロトルが目を覚ましたことに気づいていないのか、夜の神は何も言わない。身じろぎもしない。そいつも座ったまま寝てるんだろうかと思いながら、ショロトルは目を開けた。
 夕方の光に赤く染められている部屋。ショロトルが眠りに落ちる前にはなかった小さな壺がひとつ、誰かに持って来させたのかすぐ近くに置かれている。ショロトルが押し付けたあの花は、その壺に品良く挿してあった。
 ちっぽけで頼りない、その花。細いその茎からすると不自然に思えるほどの力強さで、それは胸を張るようにして壺に収まっていた。ぼんやりとそれを眺めながら、つい邪推をしてしまう。
 堂々とした姿は、もしかしたらそれを受け取った夜の神がまた魔術でも掛けたからなのかもしれない。枯れないようにするばかりではなく、一人で立っていられる強さまでも、あの綺麗な指は与えたのかもしれない。ショロトルには思いもかけないほど色々な事柄に、細やかに気を回してくれる奴だから。
 まだショロトルの目覚めに気付いていないらしいそいつは、どうしているのだろう。やはり寝ているんだろうか。それなら起こしたくないなと思いながら、目だけ動かしてそっとそいつを窺う。
 そして、見てしまった。赤い光に照らされた綺麗な顔に浮かんでいる、切なそうなその表情を。祈るような、その眼差しを。
 切なそうに見上げる先に何があるのかなど、見なくても分かる。分かりきっている。
 空にあるのは宵の明星。傲慢に輝く、あの夕星。刺し貫くような凶暴なその光を、そいつはこんなに近くにいるショロトルが目覚めたことにすら気づかないで、見つめている。
 遠く遠く、心を彼方に遊ばせて。夢見るように、祈るように。そいつは身じろぎもせずに、あの風の神の星を見上げていた。どこにいるとも知れないショロトルの兄弟神の面影を、夢見ていた。
 堪らなくなって、思わず手を伸ばしてそいつの手首を掴む。そいつははっとしたようにこちらに目を戻して、そして微笑んだ。 
「起きたのか」
 少しだけぎこちない笑顔。何でもなさそうな声。けれどその水底に、苦痛の影がはっきりと感じ取れる。いつもは上手に隠されてショロトルに気づかせようともしないその苦しみが、今は見える場所まで浮かび上がっている。
 何も言えず、ショロトルはもぞもぞと起き上がった。そいつと向かい合うように座り直す。
 掴んだままの手首を、何故か離したくなくて。捕まえたままでそいつの顔に顔を寄せて、口付けをしようかと少し迷って。けれど結局、鼻先に唇を押し付けて離れた。
 目を閉じて受け止めてくれたそいつは、ショロトルが離れるとゆっくりと目を開けた。静かなその瞳にはまだ苦痛の翳りが見えて、けれどそれは押し沈められようとしている。ショロトルには手の届かない深みへ。その心の奥底の、誰にも踏み荒らさせない秘密の場所へ。
 それはショロトルへの配慮でもあるけれど、こいつの狡猾な自衛でもある。こいつは、その苦痛を「癒される」ことも、慰撫されることも、全く望んでいないのだから。
 その痛みを失うことを、こいつは何よりも恐れ怖がっているから。強くて賢くて勇敢なこいつがたった一つだけ恐れるのが、その痛みが無くなってしまうことだから。
 だからこいつはその痛みが消えてしまわないようにと、心の傷口に何度でも爪を立て、瘡蓋を剥がし、いつまでもその傷が生々しく血を流し続けるようにし続けている。繰り返し繰り返し自ら傷を抉り、その痛みにやっと安心したように笑う。
 ショロトルに何もかもを明け渡したような顔をしながら、こいつはショロトルが踏み込んでいくことを許さない。ショロトルのモノのような振る舞いと優しい笑顔の仮面でショロトルに接しながらも、ショロトルの伸ばす手をするりと躱し、決して傷には触れさせない。
 あいつだけが、二度と戻らないあの風の神だけが。こいつが抱きしめて隠して守ろうとしている塞がらない傷に、触れることを許されるのだから。
 ショロトルは衝動的に、掴んだままだった手首をぐいと引き寄せた。驚いた顔をする夜の神に、その見開かれた目に、残酷なオネダリをする。 
「俺のことも、誘惑してよ」
 言ってしまったのは殆ど無意識だった。ショロトルを前にしてあいつのことばかり考えているこいつが、ショロトルのモノのように振る舞うくせにショロトルに心を許さないこいつが、ショロトルをうまく欺いているつもりのこいつが、憎らしいような思いがしたから。傷付けてやりたいような、癒えない傷を刻んでやりたいような、残酷な衝動に突き動かされた。
 だが、すぐに我に帰る。深く自分を嫌悪する。
 こいつはショロトルのモノではない。こいつが望んでるのはショロトルではない。こいつの心を踏み躙ってこいつを弄んでこいつを傷付ける権利なんて、ショロトルには本当はない。
 なのに心ない言葉をショロトルが打ち消すよりも、僅かに早くそれは起こった。瞬きをした夜の神が眩暈のするほど綺麗に笑う。そのあまりにも美しくてあまりにも完璧な笑顔にショロトルは息を飲んだ。
 指の長い手がそっとショロトルの頰に触れる。真っ直ぐに目を覗き込まれた。そして、蜜のように甘い声が耳に届く。
「お前が欲しい。ショロトル」
 嘘吐き。
「お前に満たされたい」
 嘘つき。
「いつでも、何でも、どのようにでも。お前の好きにしてくれて良いのだから」
 うそつき。詰る事もできずに、唇を噛んだ。
 煙吐く鏡は、嘘ばかり。虚言を弄して煙に巻いて、騙して欺いて。
 心にもない嘘をこんなにも甘い声で語るこいつのことが、殆ど憎らしくさえあって。けれどそれは、間違いなくショロトルがさせていることで。その嘘を喜んでいるショロトルも、その嘘に甘えてしまいたいと願っているショロトルも、確かに居て。
「好きに、して、いーのか?」
 だから思わず、口走っていた。自分の声とも思えない頼りない声。夜の神は変わらない綺麗な笑顔でショロトルの目を見つめて答えた。
「お前になら、何をされてもいい」
 その声は本当に優しくて、愛おしげな響きさえあって。けれどその心はショロトルになんて向いていないと、ショロトルは知っている。こいつも、知られていることに気付いている。けれどこいつは、何食わぬ顔で嘘を吐く。
 甘い声で甘い嘘を吐く、嘘吐きな鏡。その嘘はショロトルばかりではなくこいつのことも傷付けていて、こいつは嘘を吐く度に確かに苦しんでいて。けれどその苦痛をショロトルの手の届かない場所に隠し、しまいこんでいる。
 唐突に理解した。こいつは傷付きたいのだ。癒えて欲しくない大切な傷口を、けれど抗いようのない力で風化していくその裂傷を、もっと深々と抉りたいのだ。その為にはショロトルのモノのように振る舞うのは、ショロトルを誘惑するのは、ショロトルに体を明け渡すのは、こいつにとってちょうど良い手立てなのだ。
 ショロトルの目を見つめて、見つめ返して、優しく微笑みながら。ショロトルの我儘やオネダリを一つ一つ丁寧に叶えてくれながら。その眼はいつだって、あの風の神だけを見つめているのだ。
 灼けつくような怒りがほんの一瞬胸に燃え上がって、けれどすぐに霧散する。そのことを責める権利なんて、ショロトルにはない。こいつがあの風の神に焦がれているのを知っていながら、こいつを傷付けていると知っていながら、こいつを手放すことなんて思いもよらないショロトルには。
 始めたのも、望んでいるのも、ショロトルの方。他でもないこの自分が、自分が望む通りの仮面をこいつに被らせ、こいつを自分が望む通りに踊らせている。
 何も言えなくなって、他にどうしようもなくて。ショロトルは何も言わずに、綺麗に笑うそいつを抱きしめた。
 しなやかな腕が、するりと背中に回される。甘えるように、肩に顔をすり寄せられる。ショロトルは何も言えないまま、夜の神の髪の香りを呼吸した。

 奥の間へ歩いていく間も、既に整えられていた寝床にそいつを押し倒す時も、ショロトルは何も言えなかった。そいつも何も言わなかった。
 何かを言ってくれたら、何かを言えたら、もしかしたら止まれたのかもしれない。踏み止まることを思い出せたのかもしれない。
 けれどそいつは何も言わなかったし、ショロトルも何も言えなかった。だからまた溺れていくことしかできない。
 寝床の上でそいつの装束に手をかけると、そいつもショロトルの着ているものに手を伸ばしてきた。そんな事はしなくて良いと言ってやろうとして、けれどこいつもそうしたがっているような気がして、結局何も言えなくなった。
 互いに何も言わずに装束を脱がせ合って、纏わりつく布を払い除けて。横たわる綺麗な体に触れようとして、また躊躇った。
 数えきれないほど何度も何度も、好き勝手に貪った体。好き放題に弄んで嬲って甚振って、痛めつけて犯して、犯して犯して犯して。
 今となっては、そんな風に扱うことなど到底できない。壊してしまいそうで、汚してしまいそうで、触れることすら躊躇ってしまう。こんなにも、触れたいと願っているのに。
 こいつを傷付け、こいつの尊厳を踏み躙り、こいつに涙を流させる行為は、どんな小さなことも絶対にしたくない。それを当たり前のように繰り返した自分のことが、許せない。
 叶うなら手の届かない過去へ駆け戻って、自分自身を刺し殺してやりたい。こいつにショロトルが付けた数えきれない傷をなかったことにできるなら、両眼でも心臓でも全てを差し出すのに。
 そうできたなら、ショロトルの罪を消せたなら、こいつはあの風の神を忘れてくれるんだろうか。ショロトルに傷付けられたことが一度もなかったなら、こいつはショロトル自身を見て、ショロトル自身のために笑ってくれたのだろうか。そんな詮無い「もしも」のあまりの美しさに、唇を噛んだ時だった。
 少し冷たい指で肩をなぞられて、はっと我に帰る。反射的に目を向けた先で、しっとりと艶めいた瞳に絡めとられた。
「くれないのか」
 甘えた声は、潤みを帯びた眼は、滴るような艶と媚を含んでいて。本当にこいつに望まれているような、そうすることがこいつの望みであるかのような、そんな錯覚に囚われる。その馬鹿げた妄想を、振り払う前に。
「ショロトル」
 蜜のような声に呼ばれると、もう駄目だった。

 ショロトルがどれだけこいつを傷付けても、こいつはあの風の神のことしか考えられないのだろう。こいつにとってはどんな傷も、ショロトルの兄弟神を思い出すためのよすがでしかないのだろう。
 切れ切れの甘い声を漏らすそいつを揺さぶりながら、ショロトルはぼんやりと考えた。考えたくもないのに、考えずにはいられなかった。
 快感の波は絶えず押し寄せて思考を洗い取って行くのに、頭の芯だけはやけに冷めている。だから狂いきれない、溺れきれない。罪悪感から、虚無感から、自由になれない。
 肩に爪を立てられている、甘い痛み。その小さな傷から毒が染み込むように、きりきりと心臓が痛む。その毒はこいつではなくショロトルの中にあるものだとも、本当は知っている。
 この綺麗な指が本当に縋りたいのはショロトルではなくてあの風の神なのだと、その厳然とした事実は忘れたくても忘れられない。こいつがどんなに上手にそれを隠してくれても、ショロトル自身がそれを片時も忘れられずにいるのだから。
 嫉妬が胸を焼き焦がして、兄弟神のことが妬ましくて気が狂いそうで。けれど虚しい諦めが絶えず胸を吹き抜け、その暗い焔を吹き消している。だから、我を忘れてこいつを詰るなどという残酷な真似は、かろうじてせずに済んでいる。
 こいつを責めることなどできない。ショロトルにそんな資格はない。こんなにもショロトルの望みを叶えてくれるこいつを、痛々しいほどに健気な気遣いでショロトルに接してくれるこいつを、ショロトルが責めるなど。
 こいつは確かに、ショロトルのことを大切にしてくれている。こいつなりの誠実さでショロトルに向き合い、ショロトルに尽くそうとしてくれている。あんなにも残酷にこいつを踏み躙り続けたショロトルにはあまりにも勿体ないほどの厚意が、確かにショロトルに向けられている。それは確かなことで、疑う余地もないことだ。
 こいつの心の一部分は、確かにショロトルのために割かれている。こいつは確かに、今のこいつが持てる限り最大限の「愛情」を、ショロトルに注いでくれている。それがショロトルの欲しい形の感情ではないからと言って、こいつを責めるなどお門違いなのだ。
 分かってはいても、胸の痛みは誤魔化しきれない。こいつには全く悪意がないからこそ、余計にたちが悪い。
 ショロトルがどれだけこいつを大切にしたいと願っても、この手がどれだけ丁寧にこいつに触れても、こいつにとっては痛みでしかないのと同じように。こいつの優しさが、こいつの思い遣りが、ショロトルを苦しめ傷つける。
「ショロト、ル……」
「ぁ……」
 重く渦巻く思考の連鎖からショロトルを掬い上げたのは、甘く掠れる声だった。はっと我に帰って、そいつの目を見下ろす。
 熱っぽいとろっとした目をしたそいつは、やはり微笑んでいた。甘えた声で、いかにも安心してショロトルに全てを預け切っているような口調で、甘ったるくねだる。
「もっと、激しいのがいい。お前に、滅茶苦茶にされたい」
「っ……!」
 甘えと媚をたっぷりと含んだ声でねだられて、背筋が凍った。あまりにも淫猥で淫蕩なその言葉と口調に、ではない。そうさせているのは、それを言わせているのは、ショロトル自身なのだと分かってしまったからだ。
 風の神への嫉妬とこいつへの執着が渦巻くショロトルの胸の内を。堂々巡りの思考から抜け出したくて、けれど自分では抜け出せずにいる、ショロトルの頭の中を。こいつはきっと、はっきりと見通している。そこからひとときでも自由になりたくて、なのに自力では自由になれないショロトルのことまでも。
 だからショロトルを僅かな間だけでも逃がしてくれるために、こいつは自分を犠牲にする。自分の体を使って快楽に溺れて何もかも忘れてしまえと、ショロトルを唆す。それで傷付くのは、こいつ自身なのに。
 分かっていても、こいつを傷付けるだけだと知っていても。その誘惑は、あまりにも蠱惑的で魅力的だった。我を忘れて、こいつを労ることをやめて、その誘いに飛び乗ってしまいたいほどに。
 そのオネダリを真に受けたフリをして、こいつが欲しがるから仕方なく与えてやるのだというような顔で。そうやって深く深く快楽に溺れるなら、何も考えなくて済むのだろう。あの風の神のことも、優しく嘘吐きな夜の神が大切にしている傷のことも。
 欲しがったのはこいつで、与えたのはショロトルだと。もしもこいつとショロトルの両者がそんな風に振る舞うなら、それは真実になるのだろうか。たとえ、それが嘘でしかないことを両者共が明らかに知っていたとしても。
 少なくともこいつは、それが嘘だったなどとは口が裂けても言わないのだろう。だからショロトルからその嘘を暴く機会も永遠に訪れない。ショロトルはまたこいつに傷を刻み付けたと自覚しながら、それを謝る機会すらも持てない。
 分かっていても、他に選択肢がないことに本当は気付いている。早いか遅いかの違いだけだ。今そのオネダリを聞き入れなかったとしても、遅かれ早かれショロトルはそうせざるを得なくなる。そうしなければ、ショロトルは決して満足できない。
 だから考えることをやめて、乱暴なほどの強さで腰を突き上げた。断りもなくそうされたそいつは、背を逸らせて甘い高い声を上げる。
「あ、ぁあ……っ!」
 感極まったような声を上げるそいつを、容赦なく揺さぶる。そいつは声にならない声を漏らし、無意識のようにまたショロトルの肩に爪を食い込ませた。甘い毒が一層深く染み込む。けれど、もう構わない。
 何も考えないために、何も考えさせないために。忘れるために、忘れさせるために。乱暴なほどの激しさで目の前の体に溺れる。明け渡される体を貪る。無意味だと知っていても、そうせずにはいられない。
 考えずに済むのは、忘れられるのは、こいつにも考えさせずに済むのは、今だけだ。事が終わればショロトルは嫌でも思い出すし、こいつはいつだってあの風の神のことを考えていて、あいつが戻る日を夢見ている。
 けれど、今だけでも忘れてしまいたいのだ。こいつを手に入れたような錯覚に酔い、いつも心臓に爪を立てている醜い嫉妬から今だけは自由になりたいのだ。そうしなければ、絶望に気が触れてしまいそうなのだ。
 何も言わず、何も言わせず、ただ溺れる。切れ切れの甘い声が、肩に爪を立てられる甘い痛みが、ショロトルの下で身悶えるそいつの全てが。よくできた強いオクトリの酩酊のような心地良さで、ショロトルを狂わせていく。
 闇雲に快楽を追いながら、つい目を吸い寄せられてしまう。甘い声を漏らす、形の良いその唇に。
 その甘さを、柔らかさを、もう一度だけ知りたいと希って。そうしようとしてもこいつは決して拒まないという確信もあって。けれどそれはこいつを深く深く傷付けると、ショロトルはよく知っていて。ショロトルが付けるその傷は、こいつの大切なあの傷をこいつが望まない形で上書きしてしまうのだとも、分かっていて。
 だから、できない。こんなにも強く深く願っているけれど、手を伸ばす事はできない。触れてはならない、不可侵の領域。
 こいつが大切に守っているその傷は、癒えることのないように絶えず爪を立てて血を流させているその傷は、ショロトルが不用意に触れて良いものではない。ショロトルが歪めたり塗り替えたりして良いものではない。もしもショロトルが無理にその傷に触ったなら、こいつの心はきっと引き裂かれ砕け散ってしまう。だからそれは、やってはいけないこと。
 けれど、本当は分かっている。ショロトルはとっくに、本当は踏み込んではいけないほど深くまで踏み込んで、踏み荒らして、こいつを踏み躙っている。本当はもっと手前で立ち止まるべきだったのに、本当はこんなに深くまで入り込んではいけなかったのに。こいつが許してくれるのに甘えて、傲慢に入り込んで、好き勝手に、好き放題に、こいつを荒らし尽くしている。
 本当はショロトルは、こうしてこいつを抱いたりしてはいけないのだ。その鼻先に口付けたりも、その膝を貸してくれとねだったりも、用もないのに訪ねることすら、本当はしてはいけないのだ。そうしたことは本当は、今どこに居るとも知れない風の神だけに許されていることなのだから。
 なのにショロトルはこいつの優しい嘘に甘えて、図に乗って、どこまでもどこまでもこいつに侵入する。こいつは決してショロトルを拒まないと分かっていて、その優しさの上に胡座をかいている。そのことで同時にショロトル自身も傷付くけれど、そうしないではいられない。
 自分の醜さに、自分がこいつに刻みつけている傷のあまりのむごさに、胸を刺し貫かれるような痛みが走った。犯し続けている罪の重さに、気が狂いそうになった。
 こいつを苦しめるだけの、ショロトルも結局はショロトル自身を傷つけているだけの、こんな行為。互いに深く酷く傷付くばかりで、終わった後には傷と絶望と罪の意識しか残らない。
 何の意味もない。こんなことをしても、何も変わらない。こいつの心がショロトルを向く日なんて永遠に来ない。こいつの心は、あの風の神のものなのだから。
 もういいと、もう終わりにしようと、あと少しで言えたのに。言葉が、口を突きそうになったのに。
 見透かしたように、そいつは閉じていた目を開けた。蕩けているのに澄んだ光を失わないその瞳が、じっとショロトルを見つめる。
 その美しさに、ショロトルは声を失ってしまう。喉元まで出かかっていた言葉が迷子になる。その一瞬の隙にそいつは綺麗に笑った。
「もっと」
 喘ぎ交じりにねだる、甘い声。けれどそこには感情なんて乗っていないのだろう。心にもない、ただショロトルを喜ばせるためだけの言葉でしかないのだろう。
 いいや、もしかしたらこいつは望んでいるのかもしれない。もっと傷付くために、大切で愛しい傷をもっともっと深く抉るために。あいつのことを、あいつを恋い慕う心を、思い出すために、忘れないために。
 分からない。もう何も分からない。何が本当で何が嘘なのか。何が真実なのか、何が虚構なのか。煙る鏡が映し出す鏡映は、歪みぼやけて像を結ばない。
 もしかしたら、こいつ自身にも分からないのかもしれない。ショロトルの望む鏡像ばかりを映し続けた暗い鏡は、自分を偽り続けたその石の鏡は、どんな姿になりたいのかさえもはや思い出せなくなっているのかもしれない。
「何も言うな」
 だから、それしか言えなかった。もう、他に言える言葉がなかった。
 言わなくていい、なんて。そんな言葉では、こいつはやめようとしないから。ショロトルが見ないふりをしているショロトルの願望を、この鏡は殆ど反射的に拾い上げて、映し出して、ショロトルの望む像だけを結ぼうとするから。そんな悲しいことをさせないためには、強い言葉で禁止するしかない。
 僅かに瞳を揺らしたこいつは、きっと気付いている。何もかも見透かしている。それが本当は、こいつではなくショロトルのための命令であることまで。悲しい嘘を吐かせ続ける罪悪感にショロトルが耐えられなくなっていて、けれどその嘘がなくてはショロトルはもはや耐えきれなくて、どうしようもなくて、口先だけで禁じながらもその嘘を貫くことを強いている事まで。身勝手で卑怯なショロトルの何もかもを、こいつはきっと見通している。
 けれどそいつは何も言わずに、ただ綺麗に笑った。しなやかなその腕は、甘えるようにショロトルの首に絡みついてきた。
 抱き返しながら、ついまた考えてしまう。今だけはショロトルの腕の中にいるこいつの心を捕らえて離さない、あの風の神のことを。
 あいつは今頃、どこで何をしているのだろう。こんなにもあいつを恋い慕っているこいつを、気が狂いそうにあいつに焦がれているこいつを、此処に独りで置き去りにしたままに。どこで、何を考えているのだろう。
 ショロトルはあいつの話をしない。こいつも、あいつの名前さえ口に出さない。あいつのことなんて忘れたような顔をして、あいつなんて元からいなかったように振舞って、何食わぬ態度でショロトルとこいつは過ごしている。
 何の約束も交渉もしてはいないけれど、確かにそれは決まり事だった。決して破ってはならない、ショロトルとこいつの規律だった。
 その禁忌を犯しまったら、きっと全ては終わってしまう。取り返しのつかないことになる。二度と元には戻れなくなる。分かっているから、そこへ踏み込むことを恐れている。ショロトルも、こいつも、それは同じ。
 なのに、その禁域に踏み込みたいような気がした。こいつに尋ねたい、尋ねるわけにはいかない言葉が、後から後から湧き上がって今にも溢れそうだった。
 あいつが用もないのに訪ねてきたなら、こいつはどんな顔をするのだろう。あいつが似合わない花なんて持ってきたら、こいつは何を言うのだろう。あいつが「膝を貸して」などと我儘を言ったら、そのままこいつの膝を枕に眠り始めたら、こいつはどうするのだろう。あいつが、あいつが、あいつが。
 あいつはきっと、誘惑されたいなんて言い出してこいつを困らせたりしない。そんなことは、する必要さえもないから。きっとこいつの方からもあいつのことを欲しがって、甘えて、ねだるのだろう。
 あいつはきっと、こいつに嘘なんて吐かせなくていいのだろう。こいつの切ない笑顔なんて、ぎこちない微笑みなんて、悲しい苦笑いなんて、何も見なくて済むのだろう。
 あいつの前でなら、こいつはきっと本当のことしか言わずに済むから。あいつの前でなら、こいつは心から笑ったり、怒ったり、拗ねたり、そんな色んな顔ができるから。
 あいつに花の名前を聞かれたら、こいつは素直に教えてやるのだろうか。それとも意地悪く笑って、『自分で見付ければいい』とでも突き放すのだろうか。
 あいつとの関係を、こいつは何と名付けるのだろう。あいつと、どんな関係になりたいのだろう。
 問えない、決して尋ねてはいけない問い掛け。嚙み殺しながら、ショロトルは窓の外にちらりと目を向けた。とっぷりと日の暮れた、暗い空を。
 いつの間にか、傲慢に明るいあの夕星は空から消えていた。それでこいつがようやく自由に息ができるようになったことにも、本当はちゃんと気付いてる。あの星が空にいる間は、怯えを隠しきれない眼をしていたことにも。
 けれど、ショロトルは自分を抑えきれなかったのだ。あの風の神の星に、見せびらかしてやりたかったのだ。こいつがそれを嫌がることを、こんなにも知ってるのに。ショロトルには、そんなことをする資格はないのに。
 残酷で身勝手なショロトルを、こいつは憎んでくれていい。ショロトルの四肢を引き千切り、腹を裂き、目を抉り耳を切り落とし鼻を削いで、気の済むようにショロトルを壊してくれていい。なのにこいつはショロトルに自分を壊させ、ショロトルが何をしても全てを許して受け入れるばかり。
 こいつは何もかもを許してくれるから、嫌な顔さえせずに全てを受け止めるから。だからショロトルは、こいつに謝罪することさえできない。罪を償う機会さえ与えられないショロトルは、罪悪感に押し潰されそうになりながらこいつを求め続けるほかない。
 目を閉じてショロトルを受け入れているこいつは、ショロトルに抱かれながら何を考えているのだろう。本当はいつもあいつのことだけを考えていたいその心で、ほんの少しでも、ショロトルのことを考えてくれているだろうか。
 堪らなくなって、思わずその瞼に唇を寄せた。瞼の下でゆるりと動く眼球を感じながら、囁く。
「目、開けて」
 自分の声とも思えない、切なく掠れる声。それを気恥ずかしく思うより早く、ショロトルが我に返るより前に、こいつはいつだってショロトルの望みを叶えてくれる。
 睫毛を震わせて、そいつはゆっくりと目を開けた。その綺麗な目に、ショロトルを映してくれた。その美しさに、息をするのも忘れそうになる。
 揺らぐ瞳はあまりにも深くて、吸い込まれそうだった。その水底に飲み込まれ、眠るように呼吸も鼓動も終えることができたならば、それはきっととても幸せなことなんだろうと思えた。
「呼んでよ。」
 殆ど何も考えず、そうねだっていた。あの綺麗な声に呼ばれたいと衝動が胸を揺さぶって、無意識に口走っていた。
 ぼやけた瞳に、光が揺れる。その澄んだ光に、ショロトルももう少しで理性を取り戻せそうだったのに。こいつはショロトルのモノではないことを、こいつはショロトルのモノにならないことを、思い出せそうだったのに。
 けれどやはりその前に、こいつは綺麗に微笑んだ。綺麗な目にショロトルを映して、囁いた。
「ショロトル」
 吐息のような声に呼ばれて、その甘い響きに我を忘れた。伝えるべきではない言葉がこみ上げて、せり上がってくる。
「好きだ」
 気付けば口走っていた。伝えるべきではない、伝えてはいけない、その言葉を。決して口に出すまいと、胸の奥深くに押し沈めて閉じ込めていた感情を。
 綺麗な目が見開かれる。驚いたようにその唇が震える。けれどもう止まらない、止まれない。
 駄目なのに。駄目なのに。言葉が溢れて止まらない。隠し続けなければいけなかった想いが、溢れ出て抑えきれない。
「なあ、好きだよ。お前が好き」
 愛してるとは口走らなかったのが、ぎりぎりの自制だった。それだけは、言ってはいけない。こいつにはとっくにばれていると知っていても、言葉にしてはいけない。この感情を愛と名付けてしまえば、それは実在するものになってショロトルとこいつにのしかかるから。
 愛してくれなんて、あいつのことを忘れてくれなんて、そんな大それた我儘は言わないから。蝶も美しいけれど蜂鳥も好きだとか、花は赤色も黄色も好きだとか、そんなくらいの感情で構わないから。
 だから。こいつの中にもショロトルがこいつに向けているのと同種の感情がほんの僅かでもあるんだと、今だけは信じさせてほしい。ほんの一瞬だけ、錯覚させてほしい。勘違いなんて、しないから。
 それがどんなに無茶で残酷な望みかも、本当は分かっている。だから、理性をかき集めて何とか口を噤んだ。唇を噛み締める。
 こいつはどうなのだ。こいつはショロトルのことを、少しでも好きなのか。そんな残酷な問い掛けを、これ以上はしてしまわないように。きつくきつく、血の味の滲むほど強く、ショロトルは唇を噛んだ。
 返事を聞くのが怖くて、目を見てしまうのが怖くて。顔を隠すように、その肩に顔を押し付けた。しっかりしているのにどことなしに儚さを感じさせる体を、きつく抱きしめる。
 ほんの僅かな間、沈黙が降りた。永遠にも似た数瞬の後、腕の中のそいつが小さく身じろいだ。
 温かな指が髪に差し入れられて、泣き出したいほどの優しさでそっと頭を撫でられる。吐息のような声が幽く囁いた。
「好きだよ。ショロトル」

 水の底から浮かび上がるように、ゆるゆると目が覚めていく。深く沈んでいた意識が、浮かび上がり始める。
 とろとろと眠りと目覚めの間を揺れ動きながら、無意識に腕に力を込めようとした。腕の中にいる筈のそいつを、その温かな身体を、抱きしめようとした。
 けれど腕の中は空っぽで、それに気付いて少しはっきりと目が覚める。同時に思い出した。そいつを抱きしめていたのは、夢の中でだけだったことを。そいつはショロトルのモノなんかではないという、明快な真実を。
 抱きしめて眠ることも、きっとそいつは許してくれる。ショロトルの好きなようにさせてくれるし、嬉しがっているような顔をしてくれるし、安心して甘えるような仕草を見せてくれる。ショロトルが目覚めるまでショロトルの腕の中で過ごして、自分からは決して振りほどいたりしない。
 それが分かっているから、そんな完璧で悲しい演技なんてさせたくないから。ショロトルは、そいつを腕に抱いて眠ったことは一度もない。
 目を閉じたまま、気配を探る。静まり返った夜の空気が満ちている。そして、手を伸ばしさえすれば届きそうな距離に、まだそいつがいるのも感じ取れた。
 身動きはせずに、音を立てずに、目だけを開けてみる。そいつに目を向ける。暗い部屋の中で影のように見えるそいつは、隣で身を起こしていた。
 夜明けは遠い。太陽は地底の死者の国を彷徨い歩いていて、まだ地上へは戻らない。頼りない月と星の明かりだけがぼんやりと影を浮かび上がらせる部屋の中で、そいつは物思いをしているようだった。
 もう痕さえ残っていないあの醜い傷のあった手に、愛おしそうに触れる。夢見るように、祈るように。ショロトルが押し付けた花に魔術を掛けた時と同じ、優しく慈しむようなその手付き。ちくりと痛みが胸を刺したが、虚ろな諦めがその棘を抜き取って捨ててくれる。
 そいつがふと振り返ろうとしたので、その前にショロトルはもう一度目を閉じた。まだ泥のように眠っているというふりをして、何も見ていないというふりをして、死んだように横になっていた。
 そいつが、吐息だけで苦笑する気配。きっと寝たふりはばれているし、ばれたとショロトルが知っている事にも気付かれている。けれどそいつは何も言わないから、ショロトルも何も言わなくて済んだ。
 微かな布擦れの音をさせながら、そいつはショロトルの隣にまた横たわった。何事もなかったようにショロトルの隣に収まったそいつの豊かな髪が、ほんの微かにショロトルの肌をなぞった。
 幻のような髪の香りが揺れて、どうしようもなくそいつの温度が恋しくて堪らなくなって。だから、やってはいけない筈のことをしてしまった。
 寝ぼけているふりをして、ショロトルはその体を抱き寄せた。何も言わずに、その髪に顔を寄せる。そいつも、何も言わなかった。ショロトルの好きなようにさせてくれた。 
 求めればきっと、全てをくれる。こいつはきっと、何も拒まない。その確信がある。こいつはショロトルが何をしても許してくれるし、ショロトルが何かを欲しがれば全てを与えてくれるのだろう。
 だからこの何もかもは、ショロトルが勝手にしていることだ。こいつのせいなんかでは絶対になくて、全てショロトル自身の都合で。
 口付けようとすると、僅かに怯えた顔をする。だからつい、場所を変えて鼻の頭や頬やどこかに唇を寄せてしまう。
 愛してると言われたいのだと、ねだればきっと叶えてくれる。本当に愛おしそうな声で、ショロトルを騙してくれる。けれどきっとほんの一瞬だけ悲しい目をするんだろうと思うと、そんな残酷なオネダリは喉に引っかかって出て行かなくなる。
 言いたいけれど、言えない言葉。どうしても、言えない。こんなにも望んでいるのに。こんなにも、欲しくて堪らないのに。
『あいつにしてやりたいこと、俺にもしてよ』
 こいつはあの風の神にどんな顔で笑うのだろう。あいつに何を言うんだろう。あいつに、何をしてやりたいのだろう。
 口付け合うとか、手と手を触れ合わせるとか、指を絡ませ合うとか、そんな甘くて優しいものでなくたっていい。散々待たせやがったあいつを怒鳴りつけてやりたいでも、他にも色々と気に食わないからぶん殴ってやりたいでも、何だっていい。
 あいつだけが、こいつの自然で素直な感情に出会うことができる。ショロトルには綺麗で優しい仮面しか見せてくれないこいつは、あいつにだけは素顔で向かい合い、素直な言葉をぶつけるのだろう。
 ショロトルは決して兄弟神にはなれない、その代わりにさえなれない。不完全な片割れでしかないショロトルが夜の神にしてやれることなんて何もない。こいつはショロトルを望まない。
 こいつはきっとショロトルと顔を合わせる度にあいつのことを思い出していて、恋しさに気が狂いそうな思いをしていて。なのにそんなことはおくびにも出さずに、ショロトルに微笑んでくれる。その綺麗で優しい笑顔はショロトルの胸を高鳴らせながら、ショロトルの心臓に棘を突き立てる。
 そんな顔で笑うなと、もう無理に笑わなくていいと。そう口走りそうになっては、言葉を飲み込む。こいつは困ったように笑うだけだと、分かっているから。その笑顔の仮面はショロトルがこいつに強いているものであるのと同時に、こいつの心を守る防具でもあるのが分かるから。
 こいつの素直な感情を知りたいと願うのは、ショロトルの身勝手でしかない。こいつの為になんて全くならない、こいつの苦痛でしかない、残酷で独善的な我儘。
 笑顔の仮面で表情を隠して、ショロトルの望む通りに踊って見せることで、こいつはやっとの思いで自分を守っている。ショロトルが願っている鏡像を映し続けることで、煙る鏡はかろうじて自分を保っている。その仮面を無理に引き剥がせば、無理に違う像を映し出させようとすれば、こいつはきっと砕け散ってしまう。
 だからどんなに願っても、その笑顔がどんなに痛々しくても、やめさせることなんてショロトルにはできない。こいつに苦しい舞踏を強いているのを知りながら、いつまでも楽器を鳴らし続けることしかできない。
 朝が来ればショロトルはこいつと別れて、自分の神殿に戻って。けれどきっとまたすぐに、こいつに会いたくて居ても立ってもいられなくなって。その時もまたショロトルは、性懲りもなく花を握りしめてこいつを訪れるのだろう。
 こいつは遠からぬその日もきっと、会えて嬉しいと言って笑うのだろう。ショロトルが押し付ける花を、さも嬉しそうに受け取るのだろう。その温かな指で不滅の魔術を花に施して、幸福そうな顔をして笑うのだろう。
 けれどショロトルはもう二度と、こいつに花の名前なんて尋ねないだろう。花を名前で縛ることは二度としようとはしないのだろう。ショロトルとこいつの曖昧で歪んだ関係に名前を与えないように、ショロトルがこいつに向けている身勝手で重たい感情に名前を付けないように。
 名前はただ困らせるばかりのものだと、知っているから。名前のない花を、ショロトルは贈ろう。

◯プチ解説
・宴の神
オマカトル神(Omacatl「二本の葦」)というテスカトリポカ神の化身の一つが、宴の神です。
宴を開くにあたってはきちんとこの神様をお祀りしておかないと、宴の料理の中に毛を入れてむせさせるのだそうです。

・アステカの宴会
アステカでは儀礼や祭事に伴って宴会が催されており、招かれた客人は煙草と花束を渡されてそれで首筋などを拭いて身を清めていたそうです。
テオナナカトル(「神の肉」:幻覚作用のある茸、マジックマッシュルーム)も深夜に一部の客が使用して、その酩酊の中で見た幻を他の人々に語っていたとのことです。
(取り寄せ中の本に詳しく書いてあるらしいので、この解説は書き直すかもしれません)

・アコクトリ
Acoctoli「水笛」はダリアのことです。茎が空洞で笛のようなのでそう呼ばれ、神聖な花として庭などで栽培されてもいた花だそうです。
ちなみにアステカの地域が原産の花としては、他にもコスモス、ダリア、ポインセチア、チューベローズ(月下香)などがあります。
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