蛇と鏡の誰そ彼刻

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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紅く巡る血汐に宿りしは

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 ショロトルが神殿の最奥の部屋に足を踏み入れると、夜の神は気怠げに顔を上げた。驚いた様子もなく、興味も感慨も全くなさそうに、腰を下ろしたままでショロトルを見上げる。
 冷たいほど整ったそのかんばせには、幾筋ものまだ治りきらない切り傷。両の手には包帯が巻かれているが、その下にも醜いあの傷が生々しく残っていることだろう。
 それも当然だ。そうした傷を刻み残して行った風の神がこの国を立ち去ってから、まだ日は浅い。そう考えていると、やはり気怠げな声が掛けられた。
「今日は何だ」
 怯えた様子も見せず、ただ面倒臭そうに夜の神は言った。生意気なその態度を咎めてやっても良かったが、今日の本題はそんなことではない。
 ショロトルは黙ったまま足を進め、夜の神の前に立った。やはり何も言わずに見下ろしていると、その神が僅かに眉を顰める。
「用があるならば、早く言え」
 沈黙に耐えかねたように、夜の神がまた口を開く。けれどやはりショロトルは何も言わずに、ゆっくりと腰を落とした。その神の前に膝をつき、覆い被さるように顔を覗き込む。
 警戒した顔の夜の神が体を離そうとするが、手首を掴んでその場に留める。もう片方の手で、その神の頰に走る治りかけの傷に触れた。
 ゆっくりと傷をなぞると、痛むのか眉根が小さく寄せられる。堪りかねたように夜の神はショロトルの手を振り払って、尖った声を上げた。
「おい。何のつもりだ」
「お前、あいつのモノになりたいのか?」
 詰問には答えずにこちらの問いをぶつけると、相手が虚を突かれたように目を見開く。「あいつ」というのが誰のことかなど、言うまでもなく伝わっているだろう。
 言葉に迷うように、切れ長の瞳が僅かに揺れた。躊躇うように小さく震えた唇が、その場凌ぎのためだけの言葉を漏らした。
「何を、言っている」
「答えろよ」
 誤魔化されてなどやる気はないから、冷たく切り捨てて答えを急かす。身動きも忘れているらしい夜の神の手首をもう一度掴み、その手に絡みつく包帯の上から軽く傷を押す。
 頰の傷に触れた時よりも強い痛みだろうに、夜の神は声も立てなかった。殆ど茫然とした様子で、その神はショロトルの目を見上げていた。互いに何も言わないままに、永遠のような沈黙が通り過ぎた。
 だがやがて、ふいとその神は視線を逸らした。ショロトルが顎に手をかけて振り向かせるより早く、きっぱりとした声音で言う。
「先程から、何の話だ。何を言いたいのか分からない」
 その声音はひどく自然で、殆どいつも通りのように聞こえた。半ば確信しているショロトルでさえも騙されてしまいそうな、完璧な口調だった。
 それでもショロトルが騙されなかったのは、その神自身のせいだ。そいつ自身が、我知らず答えを明かしていたからだ。
 きっと無意識の行動なのだろう。ショロトルが掴んでいる夜の神の手の指が、もう一方の手に触れた。慈しむような、愛おしむような、甘やかな動きで、そっと包帯をなぞった。
 それが、そいつの本当の答えだった。
 まだ治り切っていない、醜い傷。あの風の神の置き土産。そんな手付きでそんな傷に触れることが、何よりもの証だった。
 胸の暗い焔が、勢いを増す。それを抑える必要も、どこにもない。
「……。何だ」
 不穏な気配に気付いたのか、夜の神がまたこちらに顔を向ける。そいつの手首を掴んでいる手に、我知らず力が籠るのを感じた。
「っ、おい!」
「許さねえ」
 漏れ出た声は、地を這うように低かった。そいつは臆した顔ひとつしなかったが、驚いたように手を振り解こうとする。
 許さず一層強く手首を掴み、ぐいと引き寄せた。もう片方の手で、そいつの頰の傷に爪を立てる。生温い血がぬるりと流れ出て、指先に絡み付いた。
「っ、何……」
「俺から逃げられるとでも、思ったのか?」
 低く低く問い掛けながらも、もうそいつの返事などどうでも良かった。そいつがどんな嘘で真実を誤魔化そうとしても、そいつがどんな言い訳をしようとも、聞く耳を持ってやるつもりなどもうなかった。
「何を、言っている。放せ!」
 憤りの混じる声を上げて、夜の神は自由な腕で殴りかかろうとしてきた。その手も捕まえて動きを封じ、同時にのし掛かるようにして体重を掛ける。予期していなかったらしいそいつは、あっけなくショロトルに組み敷かれた。
 背中か頭を床に打ちつけたらしいそいつが、小さく声を漏らす。そんなことには構わず、ショロトルは寸の間抵抗を忘れたその神の手首を捕らえ、頭上に一纏めに押さえつけた。
 緩みかけていた包帯を更に緩め、隙間にもう一方の手を潜らせ、そして締め上げる。夜の神が我に返ったときにはもう、そいつの手首は戒められていた。
「何をす……っ」
「逃がすとでも、思ってんのか?」
 憤りの声を遮り、露わになった手の醜い傷に強く爪を立てる。肉に爪が食い込む生々しい感触と、指を汚す血のぬめり。
 夜の神が短い苦痛の声を漏らすのをどこか遠くに聞きながら、ショロトルはそいつの装束に手を掛けた。

 夜の神はひどく反抗してきたから、何度も殴り付け傷を抉って咎めてやらなければならなかった。けれどそいつは痛みに顔を歪めこそすれ、抵抗をやめることを決してしなかった。
 衣服を剥ぎ取った体をいつもならば慣らしてやるけれど、今日はそんなことをしてやる必要はない。これは、飼い主を忘れた愚かなケモノへの罰でしかないのだから。
 だから一切の容赦をせず、ショロトルはそいつの内側へと押し入った。そいつの内部が裂け、血を流すのを感じる。苦痛の声を噛み殺したそいつが、それでも反抗的な言葉を絞り出す。
「っや、め……抜け、……っ」
「黙れよ」
 冷たく言い捨てたショロトルは、生意気な態度への仕置きにまた傷を抉ってやることにした。そいつの血で汚されている指で、手の傷口ををこじ開けてやる。
 そいつの苦痛の呻き。またどくりと溢れ出す血の、生ぬるくぬるつく感触。纏わり付く血の香が、一層濃くなる。傷口に指をねじ込んでやると、流石に耐え切れないのか苦痛の声が上がった。
「ぐ、ぁ」
 苦しげに漏らされる声は、ショロトルの胸の暗い焔を吹き消しなどしない。激痛に歪む顔を見下ろしていても、満足はちっとも感じられない。憎悪に似た感情は燃え上がり心臓を焦がすばかりで、宥めることさえできない。
 傷口からゆっくりと指を引き抜いてやると、また苦しげな声が漏らされる。生温かでべたつく血の感触が、指に絡みついている。血を溢れさせるそいつの傷と赤く汚された自分の手を、ショロトルは何の感慨もなく眺めた。
 赤く染まった自分の指を舐めると、塩辛い味がした。それは海の水の味によく似ていた。あの風の神がそれを踏み越えて立ち去っていった、最果てまで続く水の味に。
 そうだ、あの風の神は既にこの地を去ったのだ。遠く遠く、永久に追放されたのだ。今ここで苦痛に震えている夜の神自身の手で追い払われ、二度と帰ってはこないのだ。
 だというのに愚かな夜の神は、今なお風の神の面影を恋い慕っている。二度とこの土地へ戻れる筈もない風の神が、いつか必ず帰ってくると夢見ている。帰ってくる筈もない風の神がもう一度この神殿を訪れて、その腕で抱きしめてくれると、愚鈍に信じている。
 だからショロトルは、その愚かしい夢を叩き潰してやらなくてはならない。風の神は二度と戻っては来ないという現実を、この愚昧な神に説き伏せてやらなくてはならない。そうしなければこのケモノはいつまでも、自分がショロトルのモノだということを忘れたままなのだから。
 夜の神の血に汚されたままの手でそいつの腰を掴んでやると、苦しげに目を閉じていたそいつがはっと目を開けた。何をされるのかが、分かったのだろう。
「やめ、ろ……!」
「うるせえ」
 冷たく吐き捨て、力無く抵抗しようとするそいつの頰をまた殴る。そしてショロトルは、愚昧な夜の神の体を犯し始めた。

 胸の内側を焼き焦がす暗い焔は、ひどく冷たい。冷え冷えとした感情で、ショロトルは夜の神を見下ろしていた。
 抗えば酷い目に遭うととっくに分かっているだろうに、夜の神は全く恭順を示さなかった。苦痛のためか力無い抵抗など簡単に押さえつけて、その度に殴りつけ傷を抉ってやって、ショロトルは繰り返しそいつを犯した。
 血を流し続ける手の傷や裂けているだろう内側が痛むのか、夜の神は珍しくも快感を拾い上げきれずにいるようだった。その吐息はいつまでも苦痛に震え、何度殴りつけても端正さを失わない顔も痛苦に彩られている。
 夜の神が声を上げて神官でも側仕えの戦士でも呼び寄せれば、そいつらは必ずショロトルを邪魔立てするだろう。勿論ショロトルがそれに従ってやる道理はないから、一思いに邪魔者の息の根を止めてやり、また夜の神への罰を下し続けるだろう。
 それと知っているからか、無駄な抵抗をやめない夜の神は極力声を上げないようにしているらしかった。お優しいことだと呆れながら、ショロトルは容赦無く彼のケモノを甚振り続けた。
 抱き慣れた体を犯していれば体は昂り、何度でも熱を吐き出す。けれど頭の中も胸の内も、夜明け前のように冷えきっている。冷たく夜の神を見下ろしながら、ショロトルはもう一度尋ねてやった。
「思い出せたかよ? お前が、誰のモノなのか」
 問いかけながら、蒼白な頰を指でなぞってやる。苦痛のためか、それとも血を流しすぎているためか、触れた肌はひどく冷たかった。ショロトルを咥え込んでいる場所の熱い潤みとは対照的に、冷たく乾いた感触だった。
 だが愚鈍な夜の神は、燃えるような怒りを目に宿して睨み上げてきた。指に噛み付かれそうになるので、その前にまた殴りつけてやる。苦痛の声を噛み殺したそいつは、それでも激しい声を絞り出した。
「私、は、誰の、モノでも……っ」
「黙れ」
 もう一度殴りつけてまた容赦無く腰を突き上げる。夜の神は苦しげに息を飲み、きつく睨み上げてきた。
 部屋には、粘りつくような血の匂いが漂っていた。

 どれほど犯しても、何度殴りつけ傷を抉っても、夜の神は屈服せず、抵抗を諦めなかった。その強情さにほとほと呆れながら、ショロトルは一切の容赦無く夜の神を犯し甚振り続けた。ショロトルこそがその主なのだということを、風の神のモノになどなれる筈もないのだということを、彼のケモノに分からせるために。
 帰るべき場所さえ忘れた愚かなこのケモノに、ショロトルは道を教えてやらねばならないのだから。どこを遊び歩いても必ずショロトルの元に戻らねばならないことを、こいつに思い出させなければならないのだから。戻るべき家を忘れて遠く彷徨い出た愚かしいこいつには、罰が必要なのだから。
 だからショロトルはこの愚かな神に、痛みという刺青を手ずから刻んでやるのだ。二度と忘れないように、もう決して忘れられないように。
 だというのに愚かしい夜の神は、いつまでも強情に反抗し続け、当然思い出すべき真実から目を背け続ける。もう一度傷を抉ってやるべきかと手を伸ばしかけた時、ショロトルは妙案を思いついた。
 そうだ。それがいい。そうすべきだ。そうしなければならない。そうでもしなければ、愚かなこいつは決して理解しないだろうから。
 その為には、刃が要る。隙を見せないようにしながら見回すと、手近なところにイツトリのナイフが落ちているのが見えた。ショロトルの持ち物ではないから、組み敷いている相手の物だろう。
「っ、ぐ」
 身を乗り出してナイフを拾い上げると、夜の神が苦しげに呻いた。また内部が痛んだのかもしれない。だがそんなことは、ショロトルが構ってやる程の事柄ではない。
「な、にを……」
「うるせえ」
 苦しげに押し出される声を冷たく切り捨てて、ナイフの先で頰を浅く切り裂いてやる。蒼白な肌に一筋の赤い線が走り、また新たな血の滴が溢れ出し、風の神の付けていった傷を赤く濡らした。
 ナイフを持ち直し、ショロトルは少し身を乗り出した。一纏めに戒めている夜の神の手首を掴み、床に押さえつける。
 その動作で、ショロトルの意図を察したのだろう。夜の神ははっと怯えた目をして、一層激しく暴れ出した。迸るような声を上げる。
「嫌だ!」
 死に物狂いでもがく夜の神を易々と押さえ付け、ショロトルは冷たく笑ってやった。ショロトルにはやめる気など全くないことが、それでそいつにも分かっただろう。夜の神の瞳に、哀願に似た色が過ぎった。
 けれどそれに応じてやる理由など、ショロトルは何ひとつ持っていない。だからショロトルは全く構わずナイフを握り直して、夜の神の両の手を深々と刺し貫いた。あの風の神の置き土産の傷を、塗り潰すように。
「っ、ーー!」
 声にならない悲鳴が迸る。きつく閉じられた瞳から、ぼたぼたと涙が落ちる。ショロトルはやはり構うことをせずに、ナイフを進めた。
 迸る血の赤色。血の濃い匂い。
 ナイフの切っ先が硬い物に当たった。手の骨だろうか。それを軽く抉ってやってから、一度ナイフを抜いてやることにした。
 わざとゆっくりと、ナイフを引き抜く。夜の神は苦しげに呻き、涙の溜まった目で睨み上げてきた。憎悪の燃えるその目をまっすぐに見下ろして、ショロトルは冷たく嘲笑ってやる。
「ざまあねえな」
 これでいい。これで、あの風の神に繋がるものなど、もう何一つとして残っていない。夜の神がショロトルの忌々しい兄弟神のことを思い起こすよすがになるものなど、もう何も。
 そのことに深い満足を覚え、ショロトルは優しく微笑んでやった。戒めた手首を押さえつけていた手を離して、頰の真新しい傷をなぞってやる。
「これで、分かったな?」
 いくらこの夜の神が愚かでも、分かった筈だ。あんな風の神のことなど恋い慕っていても、何の意味もないことが。自身は最初から変わらずショロトルのモノであり、それは決して動かないことが。骨身に染みて、分かった筈だ。
 噎せ返るような血の匂いに包まれ、ショロトルは深く満足していた。血の匂いに酔ったような陶酔感と、これで全ては丸く収まるという充足感で、満たされていた。その甘やかな心持ちのまま、ショロトルは優しく微笑みかけてやった。
 だというのに、苦痛の涙を浮かべる夜の神は思いがけない激しさでショロトルの手を振り払った。憎しみに燃え立つ目をして吐き捨てる。
「私は、お前の思い通りになど、ならない」
 苦痛の涙を浮かべながら、激しい瞳は揺るがない。あまりにも愚昧で頑迷なその態度に呆れながら、ちらりと疑問を感じた。
 風の神に繋がる全てを断ち切ってやったというのに、この夜の神は何故ここまで強情でいられる。何故その眼は、敵意の光を消さない。
 その両眼を抉り出してやったならば、あるいは屈服するのか。二度と何も見られなくなったならば、愚かなこの夜の神もくだらない夢を見ることをやめるのか。
 その耳があの風の神の声の残響でも聞いているのならば、削ぎ落としてやるのが良いか。その指が風の神の肌の温度を覚えているのならば、指を一本一本切り落としてやるのが良いか。
 いっそその全てをやってみようかとナイフを持ち直した時、もっと良いことを思い付いた。そんな些末な部分を断ち落としてやるよりも、最も根源的なものを抉り出してやるのが良いのだと。
 忌むべき風の神の記憶は、まだ、ここに。夜の神の胸の中に、どくどくと鼓動する心臓の中に。生命の主幹であるその臓器に、その記憶は確かに守られてのだろう。
 ならば、それも抉り出してやらなければならない。そうしなければこの愚かな神は、自分が誰のモノなのかを思い出せないままなのだろうから。
 血でぬめるナイフを持ち直し、夜の神が暴れないように手首を押さえつけ直す。ショロトルの意図は分からずとも、また「何か」をされることは、夜の神にも分かったのだろう。険しく睨み上げてくる瞳が、わずかに揺れた。
「何、を」
「黙れ」
 絞り出される声を冷たく切り捨てて、ショロトルは夜の神の左胸にナイフを滑らせた。赤い線が走り、血の滴が溢れ、血の匂いがまた僅かに濃くなる。
「何を、する」
「黙れ、っつってんだろ」
 冷たく言い捨てて、ぬめるナイフの柄を握り直す。そしてショロトルは迷わず、夜の神の胸に刃を突き立てた。
 声にならない絶叫が、部屋を満たした。

 激痛に歪む、無駄に整っている夜の神の顔。見下ろしながら、ショロトルはゆっくりゆっくり刃を動かした。苦しげに上下する胸を、切り開いていく。
 もはや声も出ないらしい夜の神は、隙間風のような細い息を漏らすばかりだった。半ば閉じた瞼の下で、瞳は虚ろにぼたぼたと涙を流している。押さえつけている手の下で、びくびくと反射のように力なく揺れる手首。
 もう夜の神に暴れる元気がないことを確かめて、ショロトルはナイフを引き抜いた。びく、とまた震えた夜の神の体が、ぐったりと力無く床に沈む。蒼白な頰をまた涙が伝い落ち、血と涙でとっくにべたべたに汚れている顔をまた汚した。
 虚ろな視線が向けられた気がしたが、その眼は何も見ていないようだった。激痛に朦朧として、何も考えられないのだろう。これで終わった筈がないことに、言われずとも気付いても良いだろうに。
 ショロトルは何も言わずに床にナイフを置き、空いた手を夜の神の胸の傷口に突っ込んだ。押さえつけている体がまたびくんと跳ね上がり、夜の神の押し殺しきれない悲鳴が耳を汚す。
 先ほどの絶叫や今の悲鳴で、そろそろ呼ばれずとも誰かが飛んでくるかもしれない。ならば、さっさと済ませてやるのが良さそうだ。血の匂いに浮かされる頭で考え、ショロトルは手を動かした。
 傷口をこじ開け、肉を掻き分け、骨を押し除けて、深く手を突き入れていく。びくびくと跳ねる体を押さえつけ直した時、目指すそれが視界に映った。
 どくどくと脈打つ、赤い紅い心臓。生命の臓器が、そこに鼓動していた。
 神々が地上での命を捨てたときに、あの風の神もまたこの臓器に触れたのだ。あの忌々しい手が、ショロトルが今しているようにこの夜の神の胸を切り開き、こうして傷口をこじ開け、この肉を掻き分け、この骨を押し除けて、この心臓を掴み出したのだ。
 そのことを思い出すと、思いがけないほど新鮮な憎悪がショロトルの胸を焼き焦がした。衝動に任せて心臓を掴み出してしまいそうになる手を何とか押し留めて、ショロトルは優しく尋ねてやった。
「やめて欲しいか?」
 柔らかな声で囁いてやると、夜の神の瞳に弱々しい光が揺れた。理解できているのかは定かではないが、聞こえてはいるのだろう。ショロトルは努めて穏やかな声を作り、優しく言い含めてやった。
「やめて欲しいなら、言えよ。お前が、誰のモノなのか」
 たった一言、それを言いさえすれば良い。そうすればショロトルはすぐにその心臓から手を離してやり、傷を優しく労ってやり、そして優しく抱擁してやるのだから。寛大にもすべての裏切りを許してやる用意が、ショロトルにはあるのだから。
 だからこの愚かな夜の神は、早くショロトルに屈するべきなのだ。そうすれば、すべてがまた元どおりに、丸く収まるのだから。それは火を見るより明らかなことなのだから。
 だというのに虚ろで弱々しかった夜の神の目に、ふと頑なな光が宿った。色を失った唇をきつく噛みしめ、顔を背けてしまう。あまりにも強情なその態度に、ショロトルはかっとなった。
「っ、ぅ……」
 激情に任せてその心臓を鷲掴みにしてやると、夜の神は苦痛の呻きを漏らした。反射的に閉じられた目蓋を持ち上げる力も既にないのか、涙に濡れた睫毛が震えている。
「……そんなに、あいつが良いのかよ?」
 押し出した声は、地を這うように低かった。ショロトルの激昂はまざまざと伝わっているだろうに、夜の神はやはり答えない。
 絶え絶えの呼吸。止めどなく溢れる血液。開いたままの傷口から、命が零れ落ちていく。手に纏わりつく血の感触にそれを感じながら、ショロトルは怒りに任せて言葉を叩きつけた。
「なら、泣けよ。嫌がれよ。あいつを呼べよ。助けに来てもくれない、お前になんて目もくれない、お前のことなんて救いもしない、あのお綺麗な偽善者を!」
 分からないのなら、知らしめてやらねばならない。噛み砕いて教えてやらなくてはならない。叶いもしない甘ったるい夢に酔って帰るべき場所を忘れた愚かなケモノに、冷徹な真実を突きつけてやらなくてはならない。そうしなければ、ショロトルは彼のモノを取り戻せないのだから。
「呼べよ! きっと地の果てからだって飛んできてくれるだろうさ、お前に少しでも気があるんならな! あいつが本当にお前を欲しがってるなら、すぐにでも!」
 来る筈がない。現れる筈がない。あの、利己的で欺瞞に満ちた神が。保身のことしか考えない、あの偽善的な神が。そんなあまりにも自明のことが、何故この愚かな神には分からないのだ。
「見ろよ、あいつは帰ってきやしねえ! お前がどうなろうがお構いなしだ! これでもまだ、あいつのオキニイリのつもりでいんのかよ? どんだけ都合良い夢見てんだよ!」
 突きつけてやらなければならないのだ。絶望させて、すべての希望を打ち砕いて、泣くこと以外忘れるほどに。
 そうすれば、この愚かな神にだって分かるだろう。あんな取るに足らない、二度と戻らない神になど焦がれても、何の意味もないと。ショロトルのモノに戻った方が、ずっと、いつまでも、幸せだと。
 絶望の涙を拭ってやるから。優しく抱きしめてやるから。蜜よりも甘くて歯の浮くような睦言を、星の数より多く囁いてやるから。冷たい闇に閉ざされた心に、温かな希望を注いでやるから。
 だから、早く思い出すがいい。自分にはショロトルしかいないということを。こいつが欲しがっていいのは、ショロトルだけだということを。
 思い出せ。早く。
 肩で息をしながら、ショロトルは夜の神を見下ろしていた。今にも途絶えそうなその吐息に、耳を傾けていた。 
 消え入りそうな呼吸。色を失った唇。けれどその唇は、何も言わない。どこまでも強情で愚かな、夜の神は。
 早く思い出せ。思い出せ。さもないと、この手は、本当に、その心臓を。
 もっと傷を広げてやるべきか。そうすればこの愚かな神にも、残酷な真実を理解できるだろうか。
 そうしてやろうと、またナイフを拾い上げる。だがその時、ちらりと自分に違和感を覚えた。
 勿体ぶったことなど、これ以上する必要があるのだろうか。ひと思いに、刺し貫いてしまえばいいのではないのか。なのに何故、ショロトルにはそれができないのだろう。
 いいや、違う。できないわけではないのだ。できるのだ、当然だ。ただ、ショロトルが夜の神に時間を与えてやっているだけだ。そいつが正しい道を選ぶのを、寛大にも待ってやっているというだけだ。
 そうだ、勿論できるのだ。しようと思えば、すぐにでも。けれどショロトルは、そいつ自身が過ちに気付くのを待ってやっているのだ。
 だがぐったりと床に沈む夜の神は、睫毛を震わせ細い息を漏らすばかりで、何も答えようとしない。ショロトルがこんなにも広い心を示してやっているというのに、応じようとしない。
 たった一言、言えばいいのだ。嘘でも、本心でなくとも、一言だけで済むのだ。なのに、愚かで強情な神は、何も言わない。
 こんなにも強情で愚かな神に、哀れみなどかけてやる意味もない。もう見限れば良い。ひと思いに心臓を貫いてやれば良い。
 だが最後にもう一度だけ、機会を与えてやろう。そう考えたショロトルがナイフを握り直した、まさにその時だった。
 力無く閉じられていた夜の神の瞳が、不意に開いて。真っ直ぐな瞳に、射抜かれた。
「っ!?」
 思いがけない強い光を宿した眼に、つい不意を突かれてしまう。ショロトルが言葉を見つけるより早く、色を失った唇が開いた。
「憐れだな」
 投げかけられた声は弱々しくはあったが、思いのほかに強く響いた。大地に根ざして空を貫く山にも似た、揺るぎない響きがそこにあった。
 けほ、と夜の神が咳き込んだ。弱々しく血を吐き出す。蒼白な唇と頬に、点々と赤色が飛び散った。それでもやはり、続けられた声は揺るぎなかった。
「そんなにも、兄弟神が、妬ましいか」
 小さいけれどはっきりした、その声。あまりにも明瞭に耳に届いたそれを、ショロトルは理解できなかった。
 けれどじわじわと、理解が追いついてきて。放たれた言葉が真実を射抜いたことに気付かされて、ショロトルは激しく動揺した。
 二度と戻らない兄弟神。永遠にこの地を追われた敗者。恥辱に塗れて追放されたのはケツァルコアトルで、この国に今も残っているのはショロトルで。だから本当は、もうあんな奴を妬んだりしなくても良い筈なのだ。
 なのにショロトルの胸には、今でもあの兄弟神への抑えきれない嫉妬がある。灼けつくような劣等感が、拭いきれない敗北感が、今でもこの胸を苛んでいる。
 長い長い長い間、あの忌々しい兄弟神は「持てる者」で、ショロトルは「持たざる者」だった。そのあまりにも長く大きかった差異が、今でもショロトルの自尊心を痛めつけている。
 絶望に近い虚無感が手足に絡み付こうとする。それを必死で振り払い、やっとの思いで、憤りを呼び起こした。
 こんな愚かな神に、何が分かる。ショロトルとあの忌々しい兄弟神の何が、こんな奴に。
 ショロトルがこうして苦しんでいることも、この不遜な夜の神のせいだというのに。こいつが、この愚かなケモノが、自分の飼い主がショロトルであることを忘れて、二度と戻らない風の神に恋焦がれたりするから、全ては狂い始めたのに。
 こんなにも愚昧で恩を知らない神に、これ以上の慈悲をかけてやる必要はどこにもない。だからこの手の中の刃で、その赤い紅い心臓を貫いてやればいい。そう決めてショロトルがナイフを握り直した、その時だった。
「殺すならば、殺せば良い。私は決して、お前のものにはならない」
 凛とした声に射抜かれたその刹那。刃が手から零れ落ちるのを感じた。
「ぁ」
 言葉が出ない。意味のない声だけが口から漏れた。
 どうして、どうして。疑問の奔流だけが渦巻いて、言葉にならない。
 どうして殺せない。どうしてできない。どうして自分は、どうしてこの手は。
 どうしてこいつが。どうしてこいつまで。どうして、あの風の神なんかに。どうして、ショロトルではなくて。
 こいつは、こいつだけは、ショロトルのモノなのに。そうでなければならないのに。
 なのにこの神が望むのは、よりにもよってあの風の神で。命さえ惜しまないほど、この神はあの風の神に焦がれていて。ショロトルのモノだった、ずっとずっとそう信じていたこいつは、ショロトルの手を離れようとする。
 そんなのは嫌だ。胸の中で、感情が吠え立てる。
 こいつは今までもこれからも永遠に、ショロトルのモノなのだ。そうでなければならないのだ。そうであることが、当然なのだ。
 だから、忌々しい兄弟神になど決して渡さない。あいつのモノになんて、絶対にならせない。逃げるというなら殺してやる。
 そう、固く固く決意しているのに。手を伸ばせば届く場所にはそのための刃も今も落ちていて、すぐさまそれを実行することもできるのに。
 けれど殺してしまったら、こいつの声も体も温度も笑顔も何もかも、どこにも存在しなくなる。記憶の中で、ただ色褪せていく。手の届かない場所で壊れ崩れ、散り散りになり、消えていく。
『ショロトル』
 自分を呼ぶ、こいつの声を思い出す。その響きが既に朧ろげになっていることに今更気付いて、ショロトルはぞっとした。
 きっと、ずっとずっと前から、あんなにもショロトルを呼んだ筈の声の記憶さえ幽かになるほど昔から。こいつはあの風の神に惚れてしまって、そいつのモノになりたいと願っていて。だからこいつは、ショロトルの名前を呼ばなくなっていたのだろう。
 ただ、ショロトルが気付かなかっただけで。こいつはショロトルのモノなんだと、いつまでもそれは変わらないと、ショロトルが勝手に自惚れていただけで。
 それは許し難いことだ。許すべきではない裏切りだ。だからこいつの心臓なんて、今すぐにずたずたに引き裂いてやるべきなのだ。そうしてやるのが、ショロトルの当然の権利なのだ。そうされるのが、こいつに相応しい報いなのだ。
 なのに、できない。失うなんて、耐えられない。
 どうすればいい。
 どうしようもない。静かな声が、胸の奥で呟いた。
 どうにもならない。どうすることもできない。こいつの心は既に、あの風の神に持ち去られているのだから。二度と戻ることのないショロトルの兄弟神は、こいつの甘く柔らかな思いを連れて遠く旅立ったのだから。
 あの風の神に見せつけてやりながらこいつを犯したあの時は、まだこいつはショロトルの兄弟神のことなど歯牙にもかけていなかった。風の神が見ていようがいまいが気にも止めず、ショロトルが与えてやる痛みと快感を貪って、ショロトルだけに意識を向けて、ショロトルだけを目に映して、甘えた声で何度もショロトルを呼んで。
 いつの間に、こんなにも遠くに行ってしまったのだろう。二度と手の届かないほど隔たるまで、どうしてショロトルは気づけなかったのだろう。
 これは、ショロトルの咎なのか。この夜の神は自分のモノだと、いつまでも変わらずショロトルだけのケモノだと、ショロトルが自惚れていたから。その驕りに慢心して夜の神の心など気にもかけずにいたから、失うまで気づけずにいたのか。
 冷たい絶望が手足の力を奪っていく。目の前が闇に閉ざされるような感覚に、我知らずきつく目を閉じた時だった。
 冷たい指が、頬に触れた。
 驚いて目を開けると、こちらを見上げている夜の神と目が合った。困ったように眉根を下げた、その表情。
 そんな顔は初めて見る。ぼんやりと思った時、色のない唇が動くのが見えた。
「お前のものになることは、できないけれど。なったようには、振る舞うと、約束する」
「……え?」
 何を言われたのか分からず、間の抜けた声が漏れる。それをどう解釈したのか、夜の神は一層困ったような表情を深め、はっきりとした囁きをもう一度押し出した。
「この帝国が、滅びる日まで。お前のもののように、振る舞うから」
 滅びの日。それは明日なのかもしれず、もっとずっと先かもしれない、定めの話だ。
 いつか襲い来る終わりの日、大地の身震いは世界を壊す。民が神々の教えを破ったならば、彼らが太陽のために犠牲を捧げることを怠ったならば、空は割れ落ち、大地は裂け砕け、星の怪物達が地上に舞い降りる。
 その日まで。いつとも知れないその時まで、こいつは「ショロトルのモノ」のように振る舞うと言う。その胸には風の神への甘い想いを抱えたままに。
 そんなものは欲しくないと、偽りも憐みも不要だと、言い返してやりたかった。ショロトルはそんなふうに扱われるほど落ちぶれてはいないのだから、誇り高き一柱の神なのだから。
 なのにショロトルの手は、意志とは裏腹に動いてしまった。夜の神の体を、抱きしめてしまった。血の多くを失ったせいか、ひどく冷たい体。
 数えきれないほど繰り返し繰り返し抱いた、この体。ちっぽけだった頃からよく許しも得ずに踏み込んできて、それが当たり前のように寝床に潜り込んできて、満足げで安らかな寝息を立てていた、生意気な神。ちょこちょこと横にくっついてきては、「あれは何」「これは何」と質問攻めにしてきた声。
 その温度に、響きに、自分はずっと救われていたのだ。不意にその事実に気づいて、ショロトルは愕然とした。
 神々にさえ疎まれる、歪みと不吉を振りまく、ショロトルという存在。誰よりも近しい筈の兄弟神とも反目し合い、互いを忌み嫌って、全てを遠ざけて、ずっと孤独に過ごしていた。
 けれどこの神だけは、決してショロトルを恐れなかった。ずかずかとショロトルの家にも内側にも踏み込んできて、他の神々には長らく見せずにいた腹黒い面もショロトルにだけは隠さずに見せて、甘い声でショロトルに快楽をねだって、いつもショロトルの一番近くにいた。
 だからショロトルはずっと、この神は自分のモノなのだと思っていた。永遠に自分のモノだと、他の誰かのモノになどなる筈がないと、自惚れていた。それが勘違いでしかないなどとは、疑いもせずに。
 のろのろと顔を上げ、夜の神の顔を覗き込んだ。そいつは、真っ直ぐに見返してきた。
 半ば呆然と見下ろしていると、視界が不意にぐにゃりと歪んだ。驚いていると、歪む視界の中で夜の神が困ったような顔をする。
「もう、泣くな」
 囁かれた言葉を怪訝に思う。ショロトルは泣いてなどいない。泣いたりなどしない。泣く理由など、ショロトルには何もない。だから、そう言い返そうとしたのに。
 出てきたのは、嗚咽だけだった。
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