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いびつの神の飼うケモノ
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あの風の神はいつだって全てを持っていた。ひどく苦々しい思いでショロトルはそれを思い出していた。
この自分の片割れである存在、善良で気高い風の神。ケツァルコアトルという名のその神は、ショロトルの手に入らない何もかもをいつだって当たり前のように持っていた。
同時に二つが生まれ落ちるのは異様で異常な事だと、不吉な奇形だと疎まれ蔑まれるこの世界で、ショロトルとケツァルコアトルは時を同じくして生まれ落ちた。けれど最初からケツァルコアトルとショロトルとでは何もかもが違っていた。
ケツァルコアトルは生まれてすぐに風の神としての能力を示したから、さして間を置かずに周りの神々にちやほやされ始めた。いつの間にか「雨の神々の露払い」としての立場まで勝ち得たあの神は、いろんな奴らにいつも呼び出されもてはやされていた。鳥たちまでもあの神が一声呼べば飛んできて、望まれる通りに並んで歌った。
ショロトルはといえば、どんな力があるかもなかなか明らかにならなくて、役立たずと陰日向で罵られた。獣も鳥もショロトルを怖がり、嫌がり、いつも逃げていった。じきに明らかになった能力も歪みと不幸を撒き散らすだけのものだったから、神々さえもショロトルを避けるようになった。
自分の能力が分かる頃には、ショロトル自身もその方が良いと思っていた。あけすけに罵り、蔑み、疎んじてきた奴らなどとは、今更馴れ合うつもりもない。だから他の神々とはどうしても必要な時以外は関わらないようにして、不愉快な奴らなど視界にも入れずに、暮らしていた。
他の神々とは距離を置いて、それでもショロトルを不快にさせる者には相応の痛みを与えてやって。恐怖と嫌悪の眼差しを受けては、その臆病を蔑み嘲笑ってやって。けれど、そうやって気ままに傲慢に振る舞いながらも、ずっと付き纏っている苦々しさは拭えなかった。
完全なのは、全てを持っているのは、いつだって兄弟神の方で。不完全で何も持たないのは、いつもショロトルで。初めから、ずっとそうだった。
何も自分のモノではない。自分は何も持っていない。いつも胸に巣食っていた、そんな想い。それは僻みでさえなく、純然たる事実だった。
その卑屈な感情を表に出さないように気を付けながらも、ショロトルはずっとあの風の神のことが妬ましかったし、その神が隙を見せれば何でもいいから奪い取ってやろうと、ずっと狙っていた。
そうやってずっとずっと、ご清潔な兄弟神の隙を窺って、機が熟すのを待ち続けて。ある時にやっと、一つだけ奪った。その神が欲しがっていた、けれどまだその神のモノではなかった、一柱の小さな神を。怯えきってショロトルの兄弟神の腕の中に縮こまっていた、その弱々しい神を。
自身も気づかないままに、ケツァルコアトルはそのちっぽけな神のことを、喉から手が出るほど欲しがっていたから。だというのに、お綺麗な仮面が汚れるのが怖さに、手を伸ばすこともできずにいたから。それがショロトルには手に取るように読めたから、いけ好かない兄弟神の鼻先から、そいつを奪い取ってやったのだ。
ケツァルコアトルの欲しがっているモノだと、知っていたからだろう。真っ青になって震えている貧相なガキなど本来ならばショロトルの趣味ではないのに、そいつを犯すのは堪らない心地がした。やっと忌々しい兄弟神を出し抜いたから、やっとその神から奪えたから。
怒り狂った兄弟神に怒鳴りこまれても、それで争いになって負けて殺されるかと思うほど叩きのめされても、一向に構わなかった。善良ぶっている兄弟神がそのひ弱な神に手を出すのを躊躇うほどの傷を、この手で刻んでやったことを、はっきりと知っていたから。
そのちっぽけな神を探し出して脅してやって奴隷のように扱っていた時も、とても気分が良かった。決して相容れない兄弟神がずっと気にしているそいつを、奴の知らないところで好きなだけ甚振ってやるのは。だから、とうとう兄弟神に見つかって奴隷を手放さざるを得なくなった時は、少しだけ残念だった。
けれど何より、そのひ弱な神が自分からショロトルに飼われた時の最高な気分は、忘れられない。あの時の、ケツァルコアトルの愕然とした顔は見ものだった。
その小さな神が負っているだろう傷を労って、その心を慰めて、そいつに慕われて、いつか遠い未来にはそいつから求められるなんて都合のいい幻想を、きっとケツァルコアトルは我知らず抱いていたのだろう。そんな下衆な下心は、あの善良ぶった兄弟神は決して認めなかったけれど。初めからそんなものなどなかったような顔を、最初から最後まで貫いていたけれど。
けれど、偽善的な兄弟神の身勝手な妄想は実現しなかった。そいつは、ケモノみたいな小さなその神は、ショロトルに飼われることを選んだのだから。
従順で淫らな、ショロトルだけのケモノ。かなり生意気なところはあったけれど、綺麗な顔をしていて、快楽に素直で、そして自分からショロトルを選んだ。ケツァルコアトルではなく、他の誰でもなく、ショロトルを。
それが案外気に入って、思ったより悪くない気分で、そいつを奴隷にしていた時よりもずっと愉快なほどで。だからショロトルは、そいつを可愛がってやった。甘やかしてやった。蜜と乳をたっぷり与えるようなとびきりの甘さで、それこそ蝶よ花よと愛でてやった。
そいつが生意気な口を聞いても、爪を立て牙を剥いてきても、赦すべきではない手酷さで噛み付いてきても、ショロトルは何もかもを許してやった。そいつが咎めを受けないことに味を占めてどんどん図に乗っていくのを、ますますつけ上がっていくのを、ショロトルは大目に見てやった。
欲張りなそいつが欲しがるものも、ショロトルは何でも与えてやった。快楽も、形あるモノも、知識も、策謀も、技術も、何もかもを。果てには太陽の座にさえ昇り詰め、世界を創るほどの強さと賢しさを、遂にはそいつが身につけるまでに。
太陽の座にいっときでも昇ったそいつはますます生意気になったけれど、傲慢だと陰口を叩かれるほどにまでなったけれど、それでもそいつはショロトルの従順なケモノのままだった。大人びた口聞きをするようになっても、勿体ぶった言葉や回りくどい言い回しを好むようになっても、そいつは変わらずある面では素直な面を残していた。特に快楽にはとてもとても素直で、淫らで、オネダリが上手かった。
キモチイイことに味を占めたそいつはいつからか、他の神や時には民までもを誘ったり寝床に引きずり込んだりするようになった。そのことにもショロトルは気づいていたけれど、さほど強くは咎めないで許してやった。悪い外遊びを覚えたそいつを、ショロトルは叱りさえしなかった。そうする必要も感じていなかった。
そいつは結局のところ、常にショロトルのモノなのだから。どんなに生意気で傲慢で偉ぶった態度を取ったところで、どこで誰に色目を使っていたとて、結局はショロトルのところに帰ってくるのが当然だと、ショロトルもそいつも分かっていたから。
事実、そいつはちゃんと帰ってきていた。どこでつまみ食いをしても、誰を咥え込んでも。結局はショロトルの元に帰ってきて、変わらない甘い声でせがみ、悶え、鳴いた。
そいつが使い分けるどんな声音も。そいつの無駄に綺麗な顔に浮かび上がるどんな表情も。ショロトルは、他の誰よりもよく知っている。
何か押し通したいオネダリがある時の、とびきりでわざとらしい笑顔。生意気な嘲笑、甘えた顔。拗ねた顔、不機嫌な顔。悪巧みをしている顔、誰かの不幸を愉しんでいる顔。善がっている顔、イく時の顔、イった直後の蕩け切った顔、満足して眠っている顔。他の誰よりも、あんな風の神などよりも遥かに、ショロトルはそいつのことをよく知っている。
あの風の神などではなく、ショロトルが。誰よりも、そいつの近くにいたのだ。
それどころかあの風の神は、確かにそいつに嫌われていたのだ。それも当然だ、そいつが死に物狂いで望んだ場所からそいつを引き摺り落としたのは、他でもなくその神なのだから。
それは善良ぶった兄弟神なりの流儀では正しい考えがあってしたことなのだろうが、玉座から追い落とされたそいつにとっては、悪辣な辱めでしかなかったのだろう。だからそいつはそれ以来、あの風の神のことを許した日などないのだろう。その神はショロトルの兄弟神に、事あるごとに嫌がらせをするようにもなった。
そいつは、あの風の神が傷つくことを心から楽しんでいる様子だった。風の神が苦しむのを、そいつはとても喜んだ。そしていけ好かない兄弟神が苦しむのは、ショロトルとしても気分の良いことでもあった。
だから、彼のケモノが偽善的な風の神に体を差し出すことさえ、ショロトルは許してやった。それが何よりも兄弟神の傷を抉ると、ショロトルは知っていたから。ケモノの方ではそんなことは露知らずに、ただ敵対する風の神の苦しむ顔見たさに、そしてただキモチイイことだけを求めて、やっていたようだけれど。
良い子ぶっている風の神も勿論、苦しめられて黙っているような大人しい神では元よりない。だから風の神の方でも、あんなにも欲しがっていたそいつの事を嫌うようになっていった。なのにそいつを抱くのをやめなかったのだから、風の神の方もかなり倫理観には問題のある神ではあるのだ。そこにはきっと、自身さえ気づいていなかった未練だとか、捨てきれない執着だとか、そういったくだらないものがあったのだろう。
ケモノのようなあの神とあの風の神は、ショロトルが見ている限りはずっと、お互いのことが嫌いだった。互いを疎んじて、事あるごとに対立して、憎み合ってさえいた。けれど互いの体は気に入っていたのか、ただ体の関係だけをずっと続けていた。民が何世代も何世代も生まれては死んでいく、長い長い長い間。
もちろんキモチイイことが大好きなそいつがあの風の神とだけで満足するはずもないから、そいつはしょっちゅう他にも色んな神や民とも寝ていた。そしてその中には当然、ショロトルも入っていた。
そいつは最初からずっと変わらず、ショロトルの従順なケモノなのだから。だからショロトルが誘えばそいつはいつだって喜んで脚を開いたし、そいつからショロトルにねだることも数えきれないほどあった。
ショロトルによって手名づけられた、淫らで従順なケモノ。単に飼い殺されるのが嫌いだというだけで、そいつの飼い主は常にショロトルだった。そいつはあんな偽善的な風の神のモノなどでは絶対になくて、確かにショロトルのモノだった。
それがいつの間に変わっていたのか、なんて。知りたくもないのだ。
微かな兆候は、もしかしたらあったのかもしれない。そいつが手当たり次第に誘っては食い散らかすことをいつの間にかやめていたことには、そいつからショロトルにねだることもなくなってきたことには、ショロトルも気付いてはいた。
けれどそうなってもショロトルが誘えば拒んだりはしなかったから、ショロトルが気にかけてやるようなことでもないと思っていた。時として気が乗らなそうな生意気な態度を取ることはあっても、結局はそいつはショロトルを受け入れていた。
いつからか、そいつが自分の寝所に入らせるのは限られた者だけになっていた。ショロトルと、あの風の神と、何が良いのかそいつに気に入られて側仕えをし始めた一人の戦士と。
けれどやはり、ショロトルはちっとも気にしなかった。散々色んな奴を食い散らかして飽きがきたんだろうと軽く考えて、そんなそいつを好きな時に抱ける自分に少しの優越感さえも持っていた。
お前の飼い主は俺なんだと、決して忘れるなと。そうわざわざ言い聞かせてやる必要さえ、少しも感じていなかった。そいつもよく分かっている筈だと、忘れたりする筈がないと、その時までは思っていた。
あの風の神が追放された、その時までは。確かにそのケモノは、ショロトルのモノの筈だったのだ。
風の神が追放され夜明け前に国を出て行った日、その後ろ姿を照らした同じ太陽が地の果てに堕ちる頃。そんな折にショロトルが夜の神の様子を見に行ったことに、深い意味などなかった。
追放された風の神が立ち去る前の最後の時間の幾らかをそいつの神殿で過ごしたことは、どんなに耳の遅い神でも知っているほどの話だった。その風の神がそいつと敵対しながらも続けていた関係も、ずっと昔から公然の秘密でもあった。
だから国中で誰も彼もが、最後の夜にそいつの神殿で起こっただろうことについて、口さがない噂をしていた。その騒がしさといえば、他の神々と距離を置いているショロトルの耳にも、聞こうとせずとも聞こえてくるほどだった。
だからショロトルがそいつの神殿に足を向けたのは、本当に何の意味もないことなのだ。嫌でも耳に入るそいつの名前を聞いていたら抱きたくなった、というだけのことだ。そのついでに晴れて二度と顔を見ずに済むようになったいけ好かない兄弟神の様子を聞いてみようと、追い出される間際にどんな無様な顔をしていたのかを聞き出して笑ってやろうと、そんな理由でしかなかった。
そいつの神殿が少しざわついているようには感じられたが、目障りな戦士が随分と殺気立っていることにもはっきりと気付いたが、ショロトルは気にせずそいつの居る奥へと踏み込んだ。ショロトルの邪魔をすればありったけの不幸を背負わされると知っている神官どもは、不安げな目でちらちらとこちらを窺いがらも、決してショロトルの邪魔をしなかった。
戦士だけは敵意さえ含んだ警戒的な目であけすけにショロトルを睨んでいたから、その無礼の代償を与えてやろうかという気にも少しだけなりかけた。けれどショロトルや追放された風の神が来た時には何も邪魔するなと主神自ら命じられているらしいその戦士は、何も手出しも口出しもしてこなかった。だから礼儀を弁えない戦士のことも仕方なく見逃してやり、ショロトルはその戦士の主神の前に立った。
足を踏み入れた奥の間で、その神はもう起きていた。気配に気付いて面倒臭そうな顔で振り返ったそいつに、その思いがけない様子に、ショロトルは少しだけ驚いた。
その日のそいつは全身が傷だらけで、手には穴まで開いていて。戦場から戻ったばかりの満身創痍の戦士の方がよほどましなほど、その時のそいつは酷い有様だった。
考えるまでもなくあの風の神の置き土産だろうと、善良ぶったあいつが随分と手酷い真似をしたものだと。ショロトルでさえ半ば呆れたが、残酷で残忍なのはどっちもどっちだ。偽善的な風の神も流石に堪忍袋の尾が切れたのだろうと、簡単に考えただけだった。
『ひでえ格好してんな』
『煩い、帰れ』
呆れ混じれにショロトルが笑ってやると、そいつは不機嫌を装った声で可愛くない事を言った。それが上辺だけなのは分かったけれど、理由までは分からなかった。興味もないから、気にもしなかったけれど。
そんな瑣末なことより大事なのは、ショロトルが欲求を満たすことだ。だから顔を背けているそいつを振り向かせて、ショロトルはにっこりと笑いかけてやった。
『何だ』
『抱かせろよ』
そいつがショロトルを拒むことなど、滅多にないから。水を向けてやればいつだって、そいつは喜んでショロトルに脚を開いていたから。だからその時も、当たり前のようにそう促してやった。そうするのが、そいつとショロトルには当然なのだから。
けれどその時ばかりは、違った。そいつは素っ気なくショロトルの胸を押し返し、淡々と言い捨てた。
『気が乗らない』
『はあ?』
そいつがショロトルを拒むなんて本当に珍しいことだから、以前にそんなことがあったのかさえも思い出せないほどだったから、ショロトルはつい不意を突かれてしまった。思わず緩んだ手を振り払って、そいつはまた顔を背けた。
『何なんだよ?』
『今日はそんな気分ではない。日を改めろ。気が向けば相手をしてやる』
取りつく島もない態度でショロトルを追い払おうとするそいつの生意気さに、力尽くで捩じ伏せてやろうかとも少し考えた。その場で組み伏せて、無理やり犯してやっても良かった。そうしてやるのが当然なほどの、滅多にないほどに無礼な態度だった。
けれどその時は、どうしてもすぐさまそいつを犯したいほどの欲求はなくて、嫌がって暴れるだろうそいつを黙らせるのも面倒臭くて。だから仕方なく、ショロトルは譲歩してやる事にした。
『仕方ねえな。次は許さねえからな』
『お前の許しなど必要ない。
どこまでも生意気なそいつの口調は、いつも通りのものだった。何かを隠したがっているような、何か秘密を抱え込んでいる様子でもなかった。だからショロトルは何も思わず、憎らしい言い草も聞き流してやった。
ショロトルが背を向けて出口の方に向かった時、そいつが微かに息を吐いたのが聞こえた。けれどショロトルはやはり気にしなかったし、何も思わなかった。何か意味があるとも、考えもしなかった。
何の気なしに、それを尋ねたのにも。何ひとつ、意味なんてなかったのだ。
『あいつ、なんか言ってたか?』
『……別に』
たった一瞬の間を不自然に思ったわけではなかった。ただ何とはなしに、特に理由はなく、ショロトルはそいつを振り返ってみた。だから、見てしまったのだ。
嬉しそうに、幸福そうに。そいつは、淡く淡く、笑っていた。まだそこに居たショロトルではなく、その手の醜い傷に目を向けて。
その笑みを目にした途端に、もう二度と感じなくて済むはずだった焼け付くような感情が胸を焼き焦がした。その感情の名前など、知りたくもない。そんな感情など、名付けたくもない。
そんな顔は知らない。お前は俺の前で、そんな目をして、笑った事は一度もない。そんな声を、どこか遠くに聞いた。
我に返るとショロトルは、そいつの傷だらけの体を床に組み敷いていた。そいつは痛みに顔を歪めながら、押さえ込む手の下で往生際悪くもがいていた。
『っ、やめろ、疲れている』
『うるせえ』
嫌だとか痛いとか、そんな声を聞いたような気もする。覚えていない。気にも留めなかったし、気にかけてやるような気分じゃなかった。
気が付けばそいつは、傷口からまた新しい血を流しながらぐったりとしていて。ショロトルはといえば、そいつの中に散々出してやったはずなのに、まだ胸に居座っている不愉快な気分を持て余していた。
そいつは嫌がって暴れたのか、言うことを聞かせるために殴ったり首を締めたりしたような痕も至る所に増えていた。ひょっとして殺しちまったかな、と呼吸を確かめてみればちゃんと生きていたから、そのまま床に置き捨てて帰った。
自分の神殿に帰っても気分が荒んでいたから、オクトリを浴びるように飲んだ。だというのに気分は下降する一方で、不可解な苛立ちは膨れ上がる一方だった。
今から戻って気絶している体をまた犯してやろうか、とさえ思った。思い直したのには、気遣いとか遠慮とかそういったものは全く関与していない。
そいつはとっくに神官どもやあの無礼な戦士に見つかって騒ぎになっているだろうと、なのに誰も怒鳴り込みに来ないのはそいつももう目を覚まして止めているのだろうと、気付いたからだ。周りで目を光らせているだろう連中を蹴散らすのも、目を覚ましているそいつをもう一度捩じ伏せるのも、できなくはないが面倒だった。
何でこんなに苛つくんだ、一体何だってんだ、と舌打ちして。その時ショロトルの頭に浮かび上がったのは、追放されたばかりの風の神の顔だった。
取り澄ました、お綺麗な、ケガレの全てをショロトルに押し付けて自分ばかりが光の中にいた、ショロトルの片割れ。善良で気高い風の神。
あの偽善的な兄弟神が、ショロトルに飼われるケモノに残していった傷。生意気にもショロトルを拒んだそのケモノの、淡い淡いあの笑み。思い出すと、また焼け付くような激情に目が眩んだ。
あれは、あの眼差しは、確かに恋慕の瞳だった。そのケモノは間違いなく、その手で罠に嵌めて永遠に追放したばかりの風の神のことを、恋い慕っていた。
ショロトルの手に入らない全てを持っていた、忌々しい風の神。澄ました顔でショロトルの手の届かない何もかもを享受していた、厭わしいばかりの兄弟神。ずっと昔から妬ましくて、目障りで、嫉妬に胸を掻き毟られ続けた。
ショロトルはあの風の神のことが、ずっと大嫌いだった。ずっとずっと、ショロトルは兄弟神を憎んでいた。
やっとの思いで、たった一つを奪ったのに。奪えたと、思っていたのに。あのケモノはショロトルと同じくらい深く強く、あの風の神を憎んでいた筈なのに。ショロトルはずっと、そう信じさせられていたのに。
だというのに。ショロトルがあの風の神から奪ってやった、自分のモノとしてあんなに甘やかして可愛がってやったそいつは、そのケモノは、事もあろうに。あいつを、あいつへ、あいつに、あいつの。
お前まで、あいつを望むのか。確かに俺のモノだった、お前まで。答える者のない問いかけが、胸の中でぐるぐると回る。
何もかもを失い追放されてもなお、あの風の神は、決して相容れない片割れは、ショロトルから奪い続ける。いつまでも、いつまでも。
確かにショロトルのモノだった、ずっと昔からショロトルのモノだった、今後もいつまででもショロトルだけのモノであるべき、そいつまで。風の神は、この手から奪い去っていく。
自分の手には、何も残らない。この手が掴めるものは何もない。そんな虚無的な思いが、胸に生まれそうになった。
だが、虚しい諦めに支配されるよりも、僅かに早く。それを凌駕する怒りと憎しみが急速に胸に芽生え、育ち、伸び上がるのを、ショロトルははっきりと感じた。
許さない。許すべきではない。
どす黒い感情が、胸の奥で蠢く。それは押し殺したり消し去ったりする必要もない当然の感情だから、ショロトルはそれが膨れ上がって胸を覆い尽くしていくのに任せた。
奪うというのなら、奪い返すまでだ。ショロトルが自分のモノを奪われて黙って見過ごすような神ではないことを、あの風の神に教えてやらなくてはならないのだから。
あのケモノにも、思い出させてやらなくてはいけない。二度と忘れられないように刻んでやらなくてはならない。そいつはショロトルのモノだということを。そのケモノの飼い主はショロトルであって、あの風の神なんかでは絶対にないということを。どれだけ恋い慕っても、どれほど強く願っても、そのケモノは決してケツァルコアトルのモノになど慣れないということを。
だから、罰してやらなくては。そう心に決めて、どうしてやろうかと案を練る為に、ショロトルは目を閉じた。
瞼の裏にまた浮かんだのは、手の傷に目を向けて笑うそのケモノの表情だった。焼け付く感情に胸を焦がしながら、もう一度決意を新たにする。
お前は、お前だけは、俺のモノだ。
この自分の片割れである存在、善良で気高い風の神。ケツァルコアトルという名のその神は、ショロトルの手に入らない何もかもをいつだって当たり前のように持っていた。
同時に二つが生まれ落ちるのは異様で異常な事だと、不吉な奇形だと疎まれ蔑まれるこの世界で、ショロトルとケツァルコアトルは時を同じくして生まれ落ちた。けれど最初からケツァルコアトルとショロトルとでは何もかもが違っていた。
ケツァルコアトルは生まれてすぐに風の神としての能力を示したから、さして間を置かずに周りの神々にちやほやされ始めた。いつの間にか「雨の神々の露払い」としての立場まで勝ち得たあの神は、いろんな奴らにいつも呼び出されもてはやされていた。鳥たちまでもあの神が一声呼べば飛んできて、望まれる通りに並んで歌った。
ショロトルはといえば、どんな力があるかもなかなか明らかにならなくて、役立たずと陰日向で罵られた。獣も鳥もショロトルを怖がり、嫌がり、いつも逃げていった。じきに明らかになった能力も歪みと不幸を撒き散らすだけのものだったから、神々さえもショロトルを避けるようになった。
自分の能力が分かる頃には、ショロトル自身もその方が良いと思っていた。あけすけに罵り、蔑み、疎んじてきた奴らなどとは、今更馴れ合うつもりもない。だから他の神々とはどうしても必要な時以外は関わらないようにして、不愉快な奴らなど視界にも入れずに、暮らしていた。
他の神々とは距離を置いて、それでもショロトルを不快にさせる者には相応の痛みを与えてやって。恐怖と嫌悪の眼差しを受けては、その臆病を蔑み嘲笑ってやって。けれど、そうやって気ままに傲慢に振る舞いながらも、ずっと付き纏っている苦々しさは拭えなかった。
完全なのは、全てを持っているのは、いつだって兄弟神の方で。不完全で何も持たないのは、いつもショロトルで。初めから、ずっとそうだった。
何も自分のモノではない。自分は何も持っていない。いつも胸に巣食っていた、そんな想い。それは僻みでさえなく、純然たる事実だった。
その卑屈な感情を表に出さないように気を付けながらも、ショロトルはずっとあの風の神のことが妬ましかったし、その神が隙を見せれば何でもいいから奪い取ってやろうと、ずっと狙っていた。
そうやってずっとずっと、ご清潔な兄弟神の隙を窺って、機が熟すのを待ち続けて。ある時にやっと、一つだけ奪った。その神が欲しがっていた、けれどまだその神のモノではなかった、一柱の小さな神を。怯えきってショロトルの兄弟神の腕の中に縮こまっていた、その弱々しい神を。
自身も気づかないままに、ケツァルコアトルはそのちっぽけな神のことを、喉から手が出るほど欲しがっていたから。だというのに、お綺麗な仮面が汚れるのが怖さに、手を伸ばすこともできずにいたから。それがショロトルには手に取るように読めたから、いけ好かない兄弟神の鼻先から、そいつを奪い取ってやったのだ。
ケツァルコアトルの欲しがっているモノだと、知っていたからだろう。真っ青になって震えている貧相なガキなど本来ならばショロトルの趣味ではないのに、そいつを犯すのは堪らない心地がした。やっと忌々しい兄弟神を出し抜いたから、やっとその神から奪えたから。
怒り狂った兄弟神に怒鳴りこまれても、それで争いになって負けて殺されるかと思うほど叩きのめされても、一向に構わなかった。善良ぶっている兄弟神がそのひ弱な神に手を出すのを躊躇うほどの傷を、この手で刻んでやったことを、はっきりと知っていたから。
そのちっぽけな神を探し出して脅してやって奴隷のように扱っていた時も、とても気分が良かった。決して相容れない兄弟神がずっと気にしているそいつを、奴の知らないところで好きなだけ甚振ってやるのは。だから、とうとう兄弟神に見つかって奴隷を手放さざるを得なくなった時は、少しだけ残念だった。
けれど何より、そのひ弱な神が自分からショロトルに飼われた時の最高な気分は、忘れられない。あの時の、ケツァルコアトルの愕然とした顔は見ものだった。
その小さな神が負っているだろう傷を労って、その心を慰めて、そいつに慕われて、いつか遠い未来にはそいつから求められるなんて都合のいい幻想を、きっとケツァルコアトルは我知らず抱いていたのだろう。そんな下衆な下心は、あの善良ぶった兄弟神は決して認めなかったけれど。初めからそんなものなどなかったような顔を、最初から最後まで貫いていたけれど。
けれど、偽善的な兄弟神の身勝手な妄想は実現しなかった。そいつは、ケモノみたいな小さなその神は、ショロトルに飼われることを選んだのだから。
従順で淫らな、ショロトルだけのケモノ。かなり生意気なところはあったけれど、綺麗な顔をしていて、快楽に素直で、そして自分からショロトルを選んだ。ケツァルコアトルではなく、他の誰でもなく、ショロトルを。
それが案外気に入って、思ったより悪くない気分で、そいつを奴隷にしていた時よりもずっと愉快なほどで。だからショロトルは、そいつを可愛がってやった。甘やかしてやった。蜜と乳をたっぷり与えるようなとびきりの甘さで、それこそ蝶よ花よと愛でてやった。
そいつが生意気な口を聞いても、爪を立て牙を剥いてきても、赦すべきではない手酷さで噛み付いてきても、ショロトルは何もかもを許してやった。そいつが咎めを受けないことに味を占めてどんどん図に乗っていくのを、ますますつけ上がっていくのを、ショロトルは大目に見てやった。
欲張りなそいつが欲しがるものも、ショロトルは何でも与えてやった。快楽も、形あるモノも、知識も、策謀も、技術も、何もかもを。果てには太陽の座にさえ昇り詰め、世界を創るほどの強さと賢しさを、遂にはそいつが身につけるまでに。
太陽の座にいっときでも昇ったそいつはますます生意気になったけれど、傲慢だと陰口を叩かれるほどにまでなったけれど、それでもそいつはショロトルの従順なケモノのままだった。大人びた口聞きをするようになっても、勿体ぶった言葉や回りくどい言い回しを好むようになっても、そいつは変わらずある面では素直な面を残していた。特に快楽にはとてもとても素直で、淫らで、オネダリが上手かった。
キモチイイことに味を占めたそいつはいつからか、他の神や時には民までもを誘ったり寝床に引きずり込んだりするようになった。そのことにもショロトルは気づいていたけれど、さほど強くは咎めないで許してやった。悪い外遊びを覚えたそいつを、ショロトルは叱りさえしなかった。そうする必要も感じていなかった。
そいつは結局のところ、常にショロトルのモノなのだから。どんなに生意気で傲慢で偉ぶった態度を取ったところで、どこで誰に色目を使っていたとて、結局はショロトルのところに帰ってくるのが当然だと、ショロトルもそいつも分かっていたから。
事実、そいつはちゃんと帰ってきていた。どこでつまみ食いをしても、誰を咥え込んでも。結局はショロトルの元に帰ってきて、変わらない甘い声でせがみ、悶え、鳴いた。
そいつが使い分けるどんな声音も。そいつの無駄に綺麗な顔に浮かび上がるどんな表情も。ショロトルは、他の誰よりもよく知っている。
何か押し通したいオネダリがある時の、とびきりでわざとらしい笑顔。生意気な嘲笑、甘えた顔。拗ねた顔、不機嫌な顔。悪巧みをしている顔、誰かの不幸を愉しんでいる顔。善がっている顔、イく時の顔、イった直後の蕩け切った顔、満足して眠っている顔。他の誰よりも、あんな風の神などよりも遥かに、ショロトルはそいつのことをよく知っている。
あの風の神などではなく、ショロトルが。誰よりも、そいつの近くにいたのだ。
それどころかあの風の神は、確かにそいつに嫌われていたのだ。それも当然だ、そいつが死に物狂いで望んだ場所からそいつを引き摺り落としたのは、他でもなくその神なのだから。
それは善良ぶった兄弟神なりの流儀では正しい考えがあってしたことなのだろうが、玉座から追い落とされたそいつにとっては、悪辣な辱めでしかなかったのだろう。だからそいつはそれ以来、あの風の神のことを許した日などないのだろう。その神はショロトルの兄弟神に、事あるごとに嫌がらせをするようにもなった。
そいつは、あの風の神が傷つくことを心から楽しんでいる様子だった。風の神が苦しむのを、そいつはとても喜んだ。そしていけ好かない兄弟神が苦しむのは、ショロトルとしても気分の良いことでもあった。
だから、彼のケモノが偽善的な風の神に体を差し出すことさえ、ショロトルは許してやった。それが何よりも兄弟神の傷を抉ると、ショロトルは知っていたから。ケモノの方ではそんなことは露知らずに、ただ敵対する風の神の苦しむ顔見たさに、そしてただキモチイイことだけを求めて、やっていたようだけれど。
良い子ぶっている風の神も勿論、苦しめられて黙っているような大人しい神では元よりない。だから風の神の方でも、あんなにも欲しがっていたそいつの事を嫌うようになっていった。なのにそいつを抱くのをやめなかったのだから、風の神の方もかなり倫理観には問題のある神ではあるのだ。そこにはきっと、自身さえ気づいていなかった未練だとか、捨てきれない執着だとか、そういったくだらないものがあったのだろう。
ケモノのようなあの神とあの風の神は、ショロトルが見ている限りはずっと、お互いのことが嫌いだった。互いを疎んじて、事あるごとに対立して、憎み合ってさえいた。けれど互いの体は気に入っていたのか、ただ体の関係だけをずっと続けていた。民が何世代も何世代も生まれては死んでいく、長い長い長い間。
もちろんキモチイイことが大好きなそいつがあの風の神とだけで満足するはずもないから、そいつはしょっちゅう他にも色んな神や民とも寝ていた。そしてその中には当然、ショロトルも入っていた。
そいつは最初からずっと変わらず、ショロトルの従順なケモノなのだから。だからショロトルが誘えばそいつはいつだって喜んで脚を開いたし、そいつからショロトルにねだることも数えきれないほどあった。
ショロトルによって手名づけられた、淫らで従順なケモノ。単に飼い殺されるのが嫌いだというだけで、そいつの飼い主は常にショロトルだった。そいつはあんな偽善的な風の神のモノなどでは絶対になくて、確かにショロトルのモノだった。
それがいつの間に変わっていたのか、なんて。知りたくもないのだ。
微かな兆候は、もしかしたらあったのかもしれない。そいつが手当たり次第に誘っては食い散らかすことをいつの間にかやめていたことには、そいつからショロトルにねだることもなくなってきたことには、ショロトルも気付いてはいた。
けれどそうなってもショロトルが誘えば拒んだりはしなかったから、ショロトルが気にかけてやるようなことでもないと思っていた。時として気が乗らなそうな生意気な態度を取ることはあっても、結局はそいつはショロトルを受け入れていた。
いつからか、そいつが自分の寝所に入らせるのは限られた者だけになっていた。ショロトルと、あの風の神と、何が良いのかそいつに気に入られて側仕えをし始めた一人の戦士と。
けれどやはり、ショロトルはちっとも気にしなかった。散々色んな奴を食い散らかして飽きがきたんだろうと軽く考えて、そんなそいつを好きな時に抱ける自分に少しの優越感さえも持っていた。
お前の飼い主は俺なんだと、決して忘れるなと。そうわざわざ言い聞かせてやる必要さえ、少しも感じていなかった。そいつもよく分かっている筈だと、忘れたりする筈がないと、その時までは思っていた。
あの風の神が追放された、その時までは。確かにそのケモノは、ショロトルのモノの筈だったのだ。
風の神が追放され夜明け前に国を出て行った日、その後ろ姿を照らした同じ太陽が地の果てに堕ちる頃。そんな折にショロトルが夜の神の様子を見に行ったことに、深い意味などなかった。
追放された風の神が立ち去る前の最後の時間の幾らかをそいつの神殿で過ごしたことは、どんなに耳の遅い神でも知っているほどの話だった。その風の神がそいつと敵対しながらも続けていた関係も、ずっと昔から公然の秘密でもあった。
だから国中で誰も彼もが、最後の夜にそいつの神殿で起こっただろうことについて、口さがない噂をしていた。その騒がしさといえば、他の神々と距離を置いているショロトルの耳にも、聞こうとせずとも聞こえてくるほどだった。
だからショロトルがそいつの神殿に足を向けたのは、本当に何の意味もないことなのだ。嫌でも耳に入るそいつの名前を聞いていたら抱きたくなった、というだけのことだ。そのついでに晴れて二度と顔を見ずに済むようになったいけ好かない兄弟神の様子を聞いてみようと、追い出される間際にどんな無様な顔をしていたのかを聞き出して笑ってやろうと、そんな理由でしかなかった。
そいつの神殿が少しざわついているようには感じられたが、目障りな戦士が随分と殺気立っていることにもはっきりと気付いたが、ショロトルは気にせずそいつの居る奥へと踏み込んだ。ショロトルの邪魔をすればありったけの不幸を背負わされると知っている神官どもは、不安げな目でちらちらとこちらを窺いがらも、決してショロトルの邪魔をしなかった。
戦士だけは敵意さえ含んだ警戒的な目であけすけにショロトルを睨んでいたから、その無礼の代償を与えてやろうかという気にも少しだけなりかけた。けれどショロトルや追放された風の神が来た時には何も邪魔するなと主神自ら命じられているらしいその戦士は、何も手出しも口出しもしてこなかった。だから礼儀を弁えない戦士のことも仕方なく見逃してやり、ショロトルはその戦士の主神の前に立った。
足を踏み入れた奥の間で、その神はもう起きていた。気配に気付いて面倒臭そうな顔で振り返ったそいつに、その思いがけない様子に、ショロトルは少しだけ驚いた。
その日のそいつは全身が傷だらけで、手には穴まで開いていて。戦場から戻ったばかりの満身創痍の戦士の方がよほどましなほど、その時のそいつは酷い有様だった。
考えるまでもなくあの風の神の置き土産だろうと、善良ぶったあいつが随分と手酷い真似をしたものだと。ショロトルでさえ半ば呆れたが、残酷で残忍なのはどっちもどっちだ。偽善的な風の神も流石に堪忍袋の尾が切れたのだろうと、簡単に考えただけだった。
『ひでえ格好してんな』
『煩い、帰れ』
呆れ混じれにショロトルが笑ってやると、そいつは不機嫌を装った声で可愛くない事を言った。それが上辺だけなのは分かったけれど、理由までは分からなかった。興味もないから、気にもしなかったけれど。
そんな瑣末なことより大事なのは、ショロトルが欲求を満たすことだ。だから顔を背けているそいつを振り向かせて、ショロトルはにっこりと笑いかけてやった。
『何だ』
『抱かせろよ』
そいつがショロトルを拒むことなど、滅多にないから。水を向けてやればいつだって、そいつは喜んでショロトルに脚を開いていたから。だからその時も、当たり前のようにそう促してやった。そうするのが、そいつとショロトルには当然なのだから。
けれどその時ばかりは、違った。そいつは素っ気なくショロトルの胸を押し返し、淡々と言い捨てた。
『気が乗らない』
『はあ?』
そいつがショロトルを拒むなんて本当に珍しいことだから、以前にそんなことがあったのかさえも思い出せないほどだったから、ショロトルはつい不意を突かれてしまった。思わず緩んだ手を振り払って、そいつはまた顔を背けた。
『何なんだよ?』
『今日はそんな気分ではない。日を改めろ。気が向けば相手をしてやる』
取りつく島もない態度でショロトルを追い払おうとするそいつの生意気さに、力尽くで捩じ伏せてやろうかとも少し考えた。その場で組み伏せて、無理やり犯してやっても良かった。そうしてやるのが当然なほどの、滅多にないほどに無礼な態度だった。
けれどその時は、どうしてもすぐさまそいつを犯したいほどの欲求はなくて、嫌がって暴れるだろうそいつを黙らせるのも面倒臭くて。だから仕方なく、ショロトルは譲歩してやる事にした。
『仕方ねえな。次は許さねえからな』
『お前の許しなど必要ない。
どこまでも生意気なそいつの口調は、いつも通りのものだった。何かを隠したがっているような、何か秘密を抱え込んでいる様子でもなかった。だからショロトルは何も思わず、憎らしい言い草も聞き流してやった。
ショロトルが背を向けて出口の方に向かった時、そいつが微かに息を吐いたのが聞こえた。けれどショロトルはやはり気にしなかったし、何も思わなかった。何か意味があるとも、考えもしなかった。
何の気なしに、それを尋ねたのにも。何ひとつ、意味なんてなかったのだ。
『あいつ、なんか言ってたか?』
『……別に』
たった一瞬の間を不自然に思ったわけではなかった。ただ何とはなしに、特に理由はなく、ショロトルはそいつを振り返ってみた。だから、見てしまったのだ。
嬉しそうに、幸福そうに。そいつは、淡く淡く、笑っていた。まだそこに居たショロトルではなく、その手の醜い傷に目を向けて。
その笑みを目にした途端に、もう二度と感じなくて済むはずだった焼け付くような感情が胸を焼き焦がした。その感情の名前など、知りたくもない。そんな感情など、名付けたくもない。
そんな顔は知らない。お前は俺の前で、そんな目をして、笑った事は一度もない。そんな声を、どこか遠くに聞いた。
我に返るとショロトルは、そいつの傷だらけの体を床に組み敷いていた。そいつは痛みに顔を歪めながら、押さえ込む手の下で往生際悪くもがいていた。
『っ、やめろ、疲れている』
『うるせえ』
嫌だとか痛いとか、そんな声を聞いたような気もする。覚えていない。気にも留めなかったし、気にかけてやるような気分じゃなかった。
気が付けばそいつは、傷口からまた新しい血を流しながらぐったりとしていて。ショロトルはといえば、そいつの中に散々出してやったはずなのに、まだ胸に居座っている不愉快な気分を持て余していた。
そいつは嫌がって暴れたのか、言うことを聞かせるために殴ったり首を締めたりしたような痕も至る所に増えていた。ひょっとして殺しちまったかな、と呼吸を確かめてみればちゃんと生きていたから、そのまま床に置き捨てて帰った。
自分の神殿に帰っても気分が荒んでいたから、オクトリを浴びるように飲んだ。だというのに気分は下降する一方で、不可解な苛立ちは膨れ上がる一方だった。
今から戻って気絶している体をまた犯してやろうか、とさえ思った。思い直したのには、気遣いとか遠慮とかそういったものは全く関与していない。
そいつはとっくに神官どもやあの無礼な戦士に見つかって騒ぎになっているだろうと、なのに誰も怒鳴り込みに来ないのはそいつももう目を覚まして止めているのだろうと、気付いたからだ。周りで目を光らせているだろう連中を蹴散らすのも、目を覚ましているそいつをもう一度捩じ伏せるのも、できなくはないが面倒だった。
何でこんなに苛つくんだ、一体何だってんだ、と舌打ちして。その時ショロトルの頭に浮かび上がったのは、追放されたばかりの風の神の顔だった。
取り澄ました、お綺麗な、ケガレの全てをショロトルに押し付けて自分ばかりが光の中にいた、ショロトルの片割れ。善良で気高い風の神。
あの偽善的な兄弟神が、ショロトルに飼われるケモノに残していった傷。生意気にもショロトルを拒んだそのケモノの、淡い淡いあの笑み。思い出すと、また焼け付くような激情に目が眩んだ。
あれは、あの眼差しは、確かに恋慕の瞳だった。そのケモノは間違いなく、その手で罠に嵌めて永遠に追放したばかりの風の神のことを、恋い慕っていた。
ショロトルの手に入らない全てを持っていた、忌々しい風の神。澄ました顔でショロトルの手の届かない何もかもを享受していた、厭わしいばかりの兄弟神。ずっと昔から妬ましくて、目障りで、嫉妬に胸を掻き毟られ続けた。
ショロトルはあの風の神のことが、ずっと大嫌いだった。ずっとずっと、ショロトルは兄弟神を憎んでいた。
やっとの思いで、たった一つを奪ったのに。奪えたと、思っていたのに。あのケモノはショロトルと同じくらい深く強く、あの風の神を憎んでいた筈なのに。ショロトルはずっと、そう信じさせられていたのに。
だというのに。ショロトルがあの風の神から奪ってやった、自分のモノとしてあんなに甘やかして可愛がってやったそいつは、そのケモノは、事もあろうに。あいつを、あいつへ、あいつに、あいつの。
お前まで、あいつを望むのか。確かに俺のモノだった、お前まで。答える者のない問いかけが、胸の中でぐるぐると回る。
何もかもを失い追放されてもなお、あの風の神は、決して相容れない片割れは、ショロトルから奪い続ける。いつまでも、いつまでも。
確かにショロトルのモノだった、ずっと昔からショロトルのモノだった、今後もいつまででもショロトルだけのモノであるべき、そいつまで。風の神は、この手から奪い去っていく。
自分の手には、何も残らない。この手が掴めるものは何もない。そんな虚無的な思いが、胸に生まれそうになった。
だが、虚しい諦めに支配されるよりも、僅かに早く。それを凌駕する怒りと憎しみが急速に胸に芽生え、育ち、伸び上がるのを、ショロトルははっきりと感じた。
許さない。許すべきではない。
どす黒い感情が、胸の奥で蠢く。それは押し殺したり消し去ったりする必要もない当然の感情だから、ショロトルはそれが膨れ上がって胸を覆い尽くしていくのに任せた。
奪うというのなら、奪い返すまでだ。ショロトルが自分のモノを奪われて黙って見過ごすような神ではないことを、あの風の神に教えてやらなくてはならないのだから。
あのケモノにも、思い出させてやらなくてはいけない。二度と忘れられないように刻んでやらなくてはならない。そいつはショロトルのモノだということを。そのケモノの飼い主はショロトルであって、あの風の神なんかでは絶対にないということを。どれだけ恋い慕っても、どれほど強く願っても、そのケモノは決してケツァルコアトルのモノになど慣れないということを。
だから、罰してやらなくては。そう心に決めて、どうしてやろうかと案を練る為に、ショロトルは目を閉じた。
瞼の裏にまた浮かんだのは、手の傷に目を向けて笑うそのケモノの表情だった。焼け付く感情に胸を焦がしながら、もう一度決意を新たにする。
お前は、お前だけは、俺のモノだ。
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