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貴重の石は鳥より出ずる

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 随行の戦士達に細波のようなざわめきが広がるので、さてはまた奴だなと思う。果たして現れたのはその神だった。
「何の用だ、テスカトリポカ」
「随分な挨拶だな、ウィツィロポチトリ」
 言葉の半分も気にかけた様子のない夜の神が気軽に笑う。無駄に整っている顔はそうした嫌味の無さそうな笑みを浮かべていると本当に美しいから、ウィツィロポチトリに付き従っている戦士達がまたざわつくのも無理のないことではある。だが、かといって容認できることでは全くない。
 気紛れなこの神がわざわざやって来る用件など、決まっている。言葉を交わすのも億劫なので、さっさと追い払うことにした。
「いつもの話だろう。好きにしろ」
「話が早くて助かる」
 満足げに笑うその神には、いいからさっさと行ってしまえと毒突きたくもなる。うっかりしてそんな言葉を吐いてしまえばこの捻くれた神はいつまでも付き纏ってくると知っているから、ウィツィロポチトリは大げさな溜息で気を紛らわせた。
 見透かしているようにその神はまた笑い、すいとその視線を流した。固唾を飲んで様子を窺っている戦士達を眺め渡す。
 ぞっとするほど艶めくその瞳を向けられた不運な戦士達が息を飲むのが、はっきりと耳に届く。ウィツィロポチトリは呆れの息を吐きながら、無駄とは知りつつも釘を刺した。
「おい、俺の戦士どもを誑かすなよ」
「何だ、私も軍神だぞ」
 悪びれもせずに笑う見目麗しい戦神の目に留まる戦士は、幸いにもここには居なかったらしい。それ以上の悪ふざけはせずに、その神は未練もなさげに背を向けた。
 遠ざかるその姿を、戦士達はいつまでも目で追っている。魂を抜かれたような様子にほとほと呆れながら、ウィツィロポチトリは強めた語調で命じた。
「ぐずぐずするな、行くぞ」
 号令し、自分もさっさと歩き出す。そうすれば慌てた戦士達が追いついてきて、すぐに足音がまた揃い始める。まだ未練げな乱れが少し混じってはいるが、そのうち諦めもつくだろう。
 今は天頂で待つシワテテオ達に、この戦士達の魂を迎えさせなくては。それが太陽神ウィツィロポチトリの役目なのだから。


「我が神、失礼しても宜しいでしょうか?」
「ああ」
 許可を下された御声に、見えてはおられないと知りつつも頭を下げる。御所望と言い付かった花を持ち直して足を踏み入れる。主神は黄昏の光の雪崩れ込む窓辺で、腰を下ろしておられた。
 中途半端に持ち上げられたその御手を寸の間訝しく思って、そして漸く気付く。その御手の少し先で、その美しい御指に戯れるように、宝石に似た小鳥が中空に羽ばたいていた。
「気になるか」
 くす、と笑い給う御声に、はっと我に返る。こちらに顔を向けられた主神は、柔らかで静かな声で呼び給うた。
「もっと近くに来るが良い。逃げはせぬ」
「……失礼いたします」
 躊躇ったが、できるだけ静かに足を運びながら主神とその鳥に近付いた。主神の御指に戯れていたその蜂鳥は円らな瞳でちらりとこちらを見て、羽音を立てながら主神の御肩の方へと飛び上がって、その御耳の傍で数秒間羽ばたきをした。
 その羽音に御耳を傾け給うた主神が、笑みを深めて何事か呟き給う。蜂鳥は一声だけ囀ると、また主神の御手の先へと戻った。
「我が神。その、鳥は……」
「ウィツィロポチトリには話を通した。こいつは私の預かりだ」
 やはりそうなのか。感慨のような驚嘆のような思いを新たにしながら、もう一度小鳥に目を向けた。主神の美しい御顔を真っ直ぐに見上げる小鳥は、こちらには目もくれない。
 蜂鳥は戦場に斃れた戦士の魂。太陽神ウィツィロポチトリに随行して空を旅した勇敢な魂は、任が明ければ地上の小鳥に生まれ変わる。勤勉で雄々しいその魂は二度目の地上で宝石のような鮮やかな翼を得て、花々の間を飛び回り甘美な蜜を味わって、美しく輝く命を謳歌することを許される。
 戦神でもあられるこの尊き主神はもしかすると、かつて戦士であったこの小鳥をその曇りなき瞳に止めておられたのかもしれない。その勇壮な戦い振りに、勇猛な活躍に、威風堂々たる姿に、何かを感じておられたのかもしれない。
 尋ねることもできずに、ただ美しい御指に戯れる小鳥を見つめる。吐息だけで、主神は笑い給うた。同じ声が、呟くように囁き給う。
「然程長くはない。こいつの命が、もう終わるからな」
 主神の静かな御声が結ばれるとほぼ同時に、力尽きたように小鳥は羽ばたきをやめた。あっと声を上げそうになる。
 落下する小さな体を、主神の御手がそっと受け給うた。優しい掌に包み込まれた蜂鳥は、僅かに首をもたげて主神を見上げた。主神もそっと目を細め給いて、その御手をそっと御顔に寄せ給うた。
 囁くように、蜂鳥が啼く。懇願にも似た、希求にも似た、切なげな響き。
 目を細めて耳を傾け給うていた主神は、小さく頷き給うた。それに安心したのか、蜂鳥はもう一声だけ小さく鳴いて、嘴を閉じた。小さな頭を主神の御指の付け根に乗せるようにして、目を瞑る。
 小鳥はその命を終えたのだろうかと見守っていると、主神は空いていた御手でその生き物を優しく撫で給うた。優しいその指先に命を吹き込まれたように、また蜂鳥が目を開ける。小さな頭をもう一度もたげ、主神の美しい御顔を見上げようとする。主神はまた吐息だけで笑い給いて、小鳥を抱く掌にそっとかんばせを寄せ給うて。
 神聖な唇が艶やかな翼にそっと触れて、そして離れる。声も出せずに、それを見つめていた。

 慈しむように、主神は蜂鳥に眼差しを注ぎ給うている。その美しい横顔を、立ち尽くして見つめていた。
「気になるようだな。こいつが」
「……は」
 投げかけられた御声が自分に向けられていることに、一拍遅れて気付く。僅かに狼狽して少しだけ目線を逸らしながら、言葉を探した。
「……とても、強き戦士だったのでしょう」
「お前と同じくらいにな」
 さらりと投げられた御声に、つい顔を上げて美しいかんばせを凝視する。蜂鳥も力なく閉じていた目を開け、首を持ち上げるのが見えた。
 抗議するように、蜂鳥が少し強い声で囀る。主神は喉の奥で笑い給うた。
「妬くな。お前とて、とても強い戦士だったさ」
 だがこいつも強いのだ。手合わせができればさぞ面白かったろうな。くすくすと笑い給う主神の笑声には意地の悪い響きはなくて、ただただ柔らかで、愛おしげですらあって。その美しい響きに毒気をも抜かれてしまうのは、自分も小鳥も同じだったのかもしれない。
 不満げに主神の御顔を見上げていた蜂鳥が、ゆっくりと瞬きをする。小さな小さな声で、最後の吐息を吐き切るような声音で、微かに囀る。それを聞き取り給うた主神が目を細め給うて、もう一度その翼に唇を落とし給うて。
 その唇が離れたとき、指の長い美しい掌には、宝石がころりと転がっているだけだった。
「我が神……」
「……ああ」
 つい呼びかけると、どこか茫洋としたような響きが返される。つい口を閉じるとほぼ同時に、主神はゆっくりと立ち上がり給い、そしてこちらに目を向け給うた。ゆっくりと、美しいかんばせに艶やかな笑みが広がる。
「……花はそこに。後ほど確かめる」
「は。」
 御指示に従い、ずっと握り締めていた花は示された窓辺に置く。振り返ると、主神はまた腰を下ろし給うていた。鳥が変じた宝玉を確かめ給うていたその瞳が、ふとこちらに向けられる。我に返って非礼を詫びるより先に、そのかんばせにはまた美しい笑みが広がった。
「見るか、お前も」
「……は」
 辞退することもできたのだろうが、思いもよらなかった。ただ差し招かれるがままに歩み寄り、しなやかな御指に握られている宝玉に目を落とす。ちらちらと色を変える宝石は、妖しく揺らめいて目を射抜いた。
 その「蜂鳥の石」を幾つも綴った飾りが主神の御姿を彩っていることには、かねてより気付いてはいた。つい視線を流した先ではやはりその同じ石が、ちらちらと揺らめいて存在を主張している。
「その石は、みな……」
「ああ」
 あっさりと答え給うた主神は、愛おしむような手付きでその飾りに触れ給うた。ちくりと胸を刺した感情は嫉妬にも似ていたが、その棘よりも遥かに強く激しい憧憬が胸を揺さぶるのを確かに感じた。
 自分も、いつか。今まさに姿を変じた、つい先ほどまでは小鳥だった宝石と同じように。
 この美しい御指に戯れて、この優しい御手に抱き取られて。この麗しのかんばせを見上げながら、この甘い唇に触れられながら。そしてこの輝くような御姿を、砕け散るその時まで彩るのだ。
 それはなんと美しい、身に余る程の栄誉だろう。あまりの感動に、体を震わせた時。
「お前は駄目だ」
「っ!?」
 見透かしたように告げられた言葉に、夢想から覚める。弾かれるように主神のかんばせに目を向けた。
 何故ですと、口走りそうになる。その不敬な言葉を飲み込んだのは、自制を思い出したからではなかった。
 こちらに目を向け給うていた主神の、ひどく切なそうな眼差しが。唇だけに浮かんだ、悲しげな微笑が。それ以上の追求を、躊躇わせた。
「我が神……」
「お前には言わぬ」
 話を打ち切るように告げられた御言葉に、口を閉じることしかできない。何を言えば良いのか分からないまま、礼をして立ち去ろうとする。だが、静かな御声に呼び止められた。
「何か……」
「欲しい」
 短いその御言葉に、静かで囁くような御声に、背筋が震えるのを感じる。その奥底に秘められた温度に、熱と艶を帯びた響きに、魂を揺さぶられるのを感じた。
 ぎこちなく振り返ると、主神はゆっくりと立ち上がり給うていた。何も仰ることなく、整えられていた寝床に足を向け給う。こちらに背を向け給うたまま、その御手はゆっくりと装束を解き始め給うていた。
 闇の忍び寄る部屋に響く、衣擦れの音。装束が床に滑り落ちる。露わになる滑らかな御背中がひどく近いと思った時には、この腕はその御姿を抱きしめていた。

「ん、ぁ、あぁ、……っ」
 仰反る喉へと唇を寄せると、薄い皮膚が唇の下で震える。甘い吐息が「もっと」と囁き給うのが聞こえた。
 視界の端で、蜂鳥の石の飾りが揺れる。ちらちらと揺れる光が、目に焼き付く。
 熱い御手に、頬を包まれた。導かれるままに顔を上げると、熱っぽく潤んだ美しい瞳に絡め取られる。透き通るようなその眼が、じんわりと笑み給うて。
 重ねた唇は、蜜のように甘かった。

「我が神」
「……まだ、駄目だ」
 甘く掠れる御声に、こちらの腕を掴んでおられる御手に、身動きを封じられて。ぎこちなく体を落ち着け直すと、主神は眠たげな御声で笑い給うた。
 胸に擦り寄せられるかんばせに、さらりと触れる豊かな御髪の感触に、胸が高鳴ってしまいそうになる。身の程知らずなこの腕が、その美しい御体を抱きしめてしまいそうになる。努めて意識を逸らしていると、主神が小さくあくびをされるのが耳に届いた。
「お休みに、なられますか」
「……ん」
 曖昧な御声に目を向けた時、主神の御耳が左胸に押し当てられた。じっと御耳を澄まされていた主神が、囁くように仰せになった。
「動いているな」
「……は」
 何をお答えすれば良いのか分からず、ただ曖昧に相槌を打つ。主神は苦笑のような声を漏らされて、ゆっくりとこの背中に御腕を回されて。
「……お前が、宝石になどなったら」
「……は」
「……私は、身に着けてなどやらない。この手で叩き割ってくれる」
 思いがけない御言葉に声を飲む。背中に回される御腕に力がこもって、胸に美しいかんばせが押しつけられて。
「嫌なら、お前は、そのままで居ろ」
 その御声がひどく切なげに響いて、何も言えなくなる。思わず手が動いて、そのしなやかな御体を抱き締めていた。強くかき抱いて、目を閉じて、豊かで艶やかな御髪に唇を寄せる。
 神々の御国に迎え入れられてはいても、神ならぬこの身にはいずれ滅びが訪れるのだろう。この魂はいずれ散り果てるのだろう。それは当然のことだから、何も怖れはしないけれど。
 いつか、この美しい主神に付き従うことができなくなる日が来る。そのことだけは、ひどく残念だった。


*プチ解説
・ウィツィロポチトリ神とシワテテオ
ウィツィロポチトリ神(Huitzilopochtli)は、アステカの部族神で太陽神で戦いの神です。「小さき神は獣と戯る」にお名前だけご登場のコアトリクエ女神から生まれた神です。
お名前は「左(南)(opochtli)の蜂鳥(huitzilin)」または「蜂鳥の左」といった意味です。作中にもありますが蜂鳥は戦死した戦士の魂と考えられていました。蜂鳥という種自体も、小さくて可愛いですが気性の荒めな鳥だそうです。
このウィツィロポチトリ神が、アステカの民を彼らが首都に定めたテノチティトランへと導いたとされています。

・シワテテオ
太陽の運行についてアステカでは、太陽つまりウィツィロポチトリ神は日の出から正午までは戦死した戦士たちの魂を引き連れて空を渡り、正午に彼らの魂をお産で亡くなった女性たちの魂「シワテテオ」に迎えさせ、正午から日没まではそのシワテテオに付き添われるという天空の旅を毎日しているのだと考えられていました。
このシワテテオは西方にある天国「シンカルコ(トウモロコシの家」)に住んでいて、お産で亡くなるのと同じく最も名誉ある死に方だと考えられていた「戦死」をした戦士の魂を同じく西方にある戦死者のための天国に運ぶ役割を担っていました。
ちなみに「夜の間の太陽は地底の死者の国を旅していて、地上に呼び戻すためには生贄を捧げなくてはならない」というのがアステカの世界観です。

・蜂鳥の石(huitzitziltecpatl):オパール
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