上 下
31 / 45

十字路の闘士に下る褒賞

しおりを挟む
 その神は夜の十字路に姿を現し給うと、古くより言い伝えられていた。人も神も唆し誘惑する艶美なる夜の御神は、強き戦士を迷いなく見出し給い、夜闇に紛れてその御姿を現され、そして闘いを挑み給うのだと。
 信じていなかったわけではない。だが、自分には縁無きことと考えていた。自分は未熟で弱い戦士ではないという自負はあれど、畏怖と崇拝を集めるその強き神に、その尊く曇りなき瞳に、見出されるほどの者ではまだないと。いつかその栄誉に浴する日がくるのではないかなどとは、夢見ることさえおこがましいと。
 だから。忘れようもないその夜に十字路に降り立ち給うた美しきその御姿に、自分の目を疑い、呼吸さえ忘れた。凛としていながらどこか甘やかに響いたその御声は、今も耳に残っている。
『私と闘え』

 聴き慣れない足音が奥からやってくるのが聞こえて、振り返る。嫌な予感は的中した。
 いつの間に、どこから、図々しくも入り込んだのか。風の神は、当たり前のような顔をして奥から出てきた。こちらに気付くと、わざとらしくにこやかに笑う。
「お邪魔したね」
 嫌みなほど親しげで明るい、風の神の笑顔。何も言わずに、ただ黙礼した。
 取るに足りない一介の戦士のことなど、そよ風ほども気にかけていないのだろう。風の神はもうこちらのことなど忘れたように、すたすたと神殿を出て行った。厭わしいほどに明るい太陽の下、べったりとした濃い影を引き連れて。
 それを見送って、身を翻した。なるべく落ち着いた足取りで、だがつい早足で、奥へ向かう。
 その部屋の入り口の脇で膝をついた。この角度からは見えない寝床で横になっておられるだろう主神へ、努めて平静な声を装いながら声を発した。
「我が神。失礼しても宜しいでしょうか?」
「……構わない」
 少し掠れる返答に、見えてはおられないと知りつつも頭を下げてから立ち上がる。そしてその神聖な部屋の内へと、足を踏み入れた。
 部屋に満ちる空気に、あの独特の香を感じる。濃厚で濃密なこの気配は、間違えようもない。
 ああ、やはり、また。
 苛立ちが胸に湧くのを押さえつけながら、億劫げにこちらに目を向け給う主神に歩み寄った。寝床の脇に膝をつき、努めて気を鎮めながら口を開く。
「我が神……」
「聞きたくない」
 機先を制する御声には、不承不承口を閉じることしかできない。少しだけ意地悪く笑み給う主神の様子を、失礼にならないように気を配りながら確かめた。
 気怠げだが満足げな表情。まだしっとりと潤みを帯びた瞳。しなやかな御肩には血を滲ませる噛み傷。曝け出されている御肌のそこここには、やはり噛み傷と鬱血の痕。
 つい下肢にも向けそうになる、不埒な視線を引き剥がした。主神の目を見つめることはできずにさりげなく目を逸らしながら、当たり障りのない言葉を選ぶ。
「……水をお持ち致します」
 平静を装った声でそう言い置いて、また頭を下げる。だが立ち上がりかけたまさにその時、装束の端を引き給う御手を感じた。
 つい目を向けてしまったのは、その瞳を見てしまったのは、失策だった。毒々しいほどに艶やかなその眼差しに、絡めとられる。
「足りない」
 甘えた響きのその御声は、ご自身の魅力を明らかに熟知している。その甘美な誘いを辞退できるような、そんな自分であったなら。
 溜息を堪えながら、寝床の傍に戻る。満足げに笑み給う瞳をもう直視してしまわないようにしながら、その蠱惑的な肢体に覆いかぶさっていった。
 
 横たわる美しい肢体に、そっと唇を寄せようとする。だが、主神は嫌がって身を捩り給うた。
「そんな事はいい。早く」
「……は」
 苛立ってはいないが焦れておられる御声に、頷いて従った。逆らうなど、思いもよらない。主神の御言葉は絶対なのだから。
 だが残念なような思いが、胸の奥で少しだけ嘆きの声を上げる。そんな自分を戒めた。
 甘いその御肌をくまなく愛する触れ方が許される日もある、それは確かだ。だが今日は主神がそれを厭い給うのだから、自分はそれに従うまでだ。主神の望み給うことを望まれる通りにこなすことこそが、自分の果たすべき義務なのだから。
 なのにどうしても、諦めの悪いことにも、目を向けてしまう。主神の御肩に刻み付けられた、忌まわしいその噛み傷に。
 あの風の神が残した忌々しい残滓を、痕跡を、塗り潰してしまえたなら。そんなおこがましい、身の程知らずな望みが、胸を貫いた。
 妄念を振り払うように、主神の脚の間に手を伸ばした。秘められた場所を指で探る。熱く柔らかなその場所はまだ濡れていて、ちりりと胸が焼けつくのを感じた。
 馬鹿な事を考えるな。そう自分を叱りつけ、柔らかに息づいている場所に指を埋め込んだ。
 んん、と甘い御声を漏らす主神の表情を確かめながら、ゆっくりと指を沈めていく。僅かの苦痛も与えないために、ただ快楽だけを捧げるために。
 傲慢な風の神に踏み荒らされたばかりのその場所は、吸い付くように指に絡みついてくる。誘い入れるように蠢き、奥へ奥へと導く。
 誘い入れられるようなその感触に、つい思い出してしまう。その神聖な場所に迎え入れられる、目も眩む激烈な快感を。凜と美しい主神のかんばせが快楽に蕩ける、何よりも美しい光景を。花弁のような唇から漏れる、熱い吐息の甘さを。
 邪な期待から必死で意識を引き剥がしながら、努めて丁重な動きで主神の内側を暴いていく。だがそうすると、指に絡みついてくる粘つく感触に嫌でも意識が向いてしまう。あの忌々しい風の神の、淫らな残滓に。
 それを一滴残さず掻き出してしまえたなら、どんなに良いだろう。我が物顔でこの主神を汚している痕跡も残滓も、全て拭い去って塗り潰してしまえたなら。
 けれど、この主神はそんなことは望み給わない。そんな身勝手な真似は許されない。だから努めて平静を装いながら、尚もゆっくりと指を動かす。
 主神は半ば目を閉じ、侵入する指を受け入れ給うている。僅かに乱れる呼吸に苦痛の影がないことを確かめながら、ゆっくりとその内側を探った。
 風の神に押し開かれたばかりのその場所は、本当は指で慣らす必要もないのだろう。けれど主神が許し給う限りは、こうしたいのだ。万が一にも、この主神に痛みを与えてはいけないから。
 だが、主神は良い加減に焦れてしまわれたらしい。長い睫毛に縁取られた瞼が震え、少し不機嫌を滲ませた瞳に見上げられた。吸い込まれそうな、深遠なその色。
「もう、良かろう。早くしろ」
「は」
 主神の御命令に背くことはできない。目礼して指を抜く。だが身体をずらしたところで、はたとそれに気づいた。
 半ば勃ち上がり、淫らな液体を溢れさせている、この身の不埒な部分。けれどこの主神が気に入り給うような大きさと硬さにまでは、まだ育ちきっていない。主神もそれに気付き給うたのか、少し面白がっているような御声がかけられた。
「何だ、まだなのか」
「面目次第もございません、我が神」
 頭を下げると、ふふふと甘く笑い給う御声が聞こえた。主神はどうやら、御機嫌が悪くはおられないらしい。それはとても喜ばしいことなのだが、少し意地の悪いところのある主神が何を言い出すだろうと身構える。果たして、伏せていた目を挙げて窺った先で、主神は。
「触ってやろうか」
 意地の悪い光を目に宿し給いて、形の良い唇に蠱惑的な笑みを乗せ給いて。蜜のような声で囁き給うた主神に、眩暈を覚えた。
 我を忘れて、その甘美な囁きに乗ってしまいたくなる。だが何とか理性を繋ぎとめて、出せる限り落ち着いた声で答えた。
「御手を煩わせるわけには参りません、我が神」
 その神聖で美しい御手を、自分のようなつまらない存在のために汚させるわけにはいかない。たとえこの主神が、それを許し給うとしても。
 この身も魂も全存在も何もかもはこの主神のものではあるが、この貴い主神は自分ごときのものでは決してないのだ。自分などの手の届く存在ではないのだ。だから決して踏み越えてはならない一線は、厳然として存在する。たとえこの主神自身が許し給うとしても、この主神が御自ら望み給うとしても。
 その決意は、主神にも伝わったのだろう。つまらなそうな表情になられた主神は、ふいと目を逸らし給うた。
「ならば、早くしろ」
「は。失礼致します」
 そっけない御命令に、再度頭を下げる。非礼を詫びながら自分の欲望に手を添えた。やや性急に、荒っぽいほどの手付きで扱き始める。
 直接的な刺激に飢えていたそれは、たちまちの内に角度を変え、先走る液体を流し始める。体が熱くなる。呼吸が荒くなっていく。
 思わず目を閉じながら殆ど無意識に、主神の御肩に顔を寄せていた。咎め立てを受けないのを良いことに、その御肌の甘美な香りを呼吸する。
 微かな汗の香りが興奮を掻き立てる。舌を差し出してその玉の肌に這わせたなら、きっと舌の蕩けるような甘さなのだろう。
 辛うじて残った理性で自分を押し留めながら、尚も手を動かす。甘い汗の香に半ば恍惚としながら、無意識に思い描いたのは主神の御姿だった。
 勇壮な武装を解き、壮麗な装束を脱ぎ捨て、美しいその肢体を曝け出して。その美しいかんばせを上気させて、宝玉の瞳をしっとりと潤ませて。その澄んだ眼はまっすぐにこの自分に、自分ただ一人に、注がれて。
『……ーー』
 花弁のごとき唇が、この自分の名を呼ぶ。その妙なる響きの幻に、頭の芯が甘く痺れた。
 願うことが許されるならば、何度でもその御声に呼ばれたい。その神聖な唇に、その美しい御声に、何度でも。その度に指を、腕を、脚を、一本一本切り落とされることになろうとも、構わないほどに。
 飢えに似た欲情に煽られて、渇きに似た欲望に突き動かされて。殆ど無我夢中で自分を追い上げていた、その時。
「お前一人で、果てるつもりか?」
 笑いを含んだ御声に、はっと我に帰る。慌てて目を開け、身を起こした。
 美しい唇は、面白がるように笑み給いている。胸を撫で下ろしながら、恭しく目を伏せた。
「非礼をどうかお許しください、我が神」
 謝罪を唇に乗せると、主神は笑い声を立て給うた。少し意地の悪い瞳に、真っ直ぐに見つめられる。
「私の事など、忘れていたか?」
「ゆめゆめ、そのような事は」
 どうだかな、と主神が笑い給う。平静を装いながら、背筋を伝う冷たい汗に気付いた。これ以上に追及を受けるのは、少しまずいのだ。だが美しき主神は、残酷なほどに無邪気だった。
「どんな女だ」
「は……」
 やや唐突な問い掛けに、返答に迷う。誤魔化す事もないだろうと笑い給うた主神が、意地の悪い眼で問いを重ね給うた。
「幼馴染か、巫女か、娼婦か? 残してきた妻が恋しくなったか? どんな姿の、どんな声の女だ。いつもその女のことを考えながら抜いているのか?」
「まさか……」
 咄嗟に否定が口を突く。そんな畏れ多い真似が、できよう筈もない。尊く神聖な存在を、崇敬すべきこの主神を、下劣で淫らな妄想で穢すなど。そんな事は、思いも寄らない。
 だが自分はたった今、正にその罪悪を犯しそうになったのだ。そのことに遅まきながら気づいて、ぞっと背筋が寒くなる。
「どうだかな」
 幸いにも主神は、自分を揶揄うことに飽きて下さったらしい。今度はしっとりとした艶やかな眼をして、じっと眼を覗き込み給う。その美しい御指に、誘うように腕をなぞられた。
「準備は、できたのだろう?」
「は。お待たせを致しました」
 頭を下げると、主神は機嫌良く笑い給いて少し体をずらされた。無言の御要求に従い、そのすんなりと美しい脚を抱え上げる。張り詰めて濡れそぼっている欲望の塊を、秘められた場所に押し当てた。
「早く」
 こちらが何か言葉を発する前に、主神の妙なる声は甘く命じ給うた。その甘美な響きに、妖艶な眼差しに、つい生唾を飲む。言葉さえ忘れてしまう。
 蜜のような御声、とろりとした瞳。深淵へと招き給う甘やかなその御声は、何よりも美しい響きでこの魂を震わせる。
 甘く甘くこの心臓を絡めとり、理性を痺れさせ、心を惑わし。抗い難い強さで、この心を魅惑し魅了する。
 いざないの先には一筋の光も射さない暗く昏い闇が満ちているのを、自分は確かに知っている。そこには希望など、砂粒ひとつほども落ちてはいない。遥か遠い星屑の微かな光さえも見えない、真の闇。
 けれどその闇は温かで、思考を蕩かす甘い香りが漂っていて。それは紡いだばかりの綿のような柔らかな優しさで、自分を包み込むのだ。
 だから、その招きに抗えない。踏み止まれない。いざなわれるがままに、闇の奥底へと沈んでゆくことしかできない。
 闇の水底で私が狂い死んだならば、その骸を胸に抱いて笑ってくれますか、我が神よ。そんな妄言が、口を突きそうになった。
 一度目を閉じて、妄念を振り払って。また目を開けて、どんな貴重な宝玉よりも美しい瞳を見つめて。
 そして、崇敬する神の内へと。深く深く、沈み込んだ。
 
『何を望む?』
 まだ信じられずに、身動きもできずにいた自分に、神は甘く問い給うた。それでようやく我に帰った。
 その神のしなやかに鍛え上げられた、だが細さをも感じさせる体。自分はまだその美しい肢体を地面に組み敷いていたのだとやっと気付き、慌てて離れた。跪き、深く首を垂れ、みっともなく震えてしまう声で、許しを請うた。
『大変なご無礼をお許しください、我が神』
『何だ、何を恐れる』
 本気で向かって来なくては、面白くないだろう。笑みを含む御声はやはりどこか甘美で、楽しげですらあって。人間風情に組み敷かれたことも、その神は一向に気にかけておられないらしかった。
 立ち上がり給うた神が装束の砂を払っておられる音を、顔を上げることができずに聞いていた。ふ、と笑い給うた神が、滑らかな足取りで歩み寄ってこられる気配。そしてその指が、伏せたままの頭に触れ給うた。
『面を上げよ』
 命じる御声はやはり甘く柔らかく、けれど有無を言わせない響きがあり。恐れ慄きながら顔を上げて見上げた先で、神は微笑みを浮かべておられた。
 その笑みの何と麗しく、美しく、輝かしかったことだろうか。呼吸すら忘れ愚鈍に見上げていると、神はまた笑い声を上げ給うた。
『早くせねば、夜が明けるぞ』
『は……』
 言われて、やっと気付く。この神は朝日の昇る前に、またその御姿を隠し給うのだということを。この神に奇跡的に見出され、御言葉に胸を震わせることができるのは、この儚いひと夜の幻でしかないのだと。この全ては、夢と消えるのだと。
 嫌だ。
 自分の内側で声が叫んだ時、求めるべき褒賞が見えた。不遜にもこの神を打ち負かしてしまった者に許される、その身に余る栄誉を。勝者の望みを一つだけ何なりと叶え給うという、この神の結び給うた御約束を。
 また深く深く頭を下げ、そしてもう一度顔を上げた。不意のことに驚いた表情を浮かべておられる神の、その美しいかんばせへと、請願を唇に乗せた。
『御側に傅き御仕えすることを、私めに御許し頂きたい』

 部屋には、主神の静かな寝息が満ちている。寝床の脇の床に腰を下ろし、その安らかな呼吸を聞いていた。
 明り取りの窓の向こうには、傾きつつある太陽がころりと転がる空。散り散りの雲の切れ端が、群れを逸れた獣のように悄然と浮かんでいた。
 魂を焼き焦がすような獣欲もすっかり醒めて、燃え立つように熱を帯びた体も今は冷えて。僅かな寒気と凍るような虚脱感が胸を突いて、思わず自分の二の腕を掴んだ。
 自分は本来、ここにこうして留まるべきではない。言いつけられた用が済めばすぐに辞するべきだ。分かっては、いるのだ。
 けれどこの主神は、目覚めた時に相手が居ないのを嫌がり給うから。枕を交わした相手を放り出して居なくなるとは不実な男だと、いつか散々に責められたから。
 だから主神が目覚め給うまでは、この神聖な部屋を辞することはできない。主神自ら下された御命令に背くことなど、思いも寄らない。
 だが本当は、分かっている。それは言い訳でしかないという事に。
 自分はただ、この主神の御傍に傅きたいのだ。許されるならば常に付き従い、その美しい御姿を目に映し、その妙なる御声を聴いていたいのだ。
 ついまた、目を向けてしまう。寝床に眠り給う、仕えるべき主神に。
 あどけなくさえある、美しい寝顔。端正なかんばせは安らかで、静かな呼吸は穏やかで。そこに苦痛や悪夢の影がないことに、安堵する。
『ぁ、あ、……っ!』
 花のような唇が漏らした掠れる御声を思い出すだけで、体の奥で情欲の炎が燃える。罪深い欲望を払い除けながら、それに眼を留めた。
 晒け出されているしっかりした御肩の辺りにまだ残っている、風の神が刻んだ噛み跡。そしてそれを塗り潰すように咲く、赤い赤い鬱血の痕。自分が畏れ多くも刻みつけてしまった、傲慢な印。
 総身が震えるほど罪深い、決して抱くべからざる欲を、自分はこの主神に対して抱いてしまったのだ。そしてそれを、よりにもよって主神自身に見せつけてしまったのだ。
 それは許されざる罪業で、その場で四肢を切り落とされ石で打ち殺されるのが相応しいほどの、行われるべきではなかった罪悪で。けれど主神は、あっさりとそれを許し給うた。
 自分は許されるべきでない存在なのだ。主神は自分などを許し給うべきではないのだ。こんなにも罪深い情欲を、殆ど独占欲に近い傲慢な欲望を、深く崇敬する神に向けるような不埒な男は、決して。
 どす黒く凶暴な衝動に突き動かされ、玉のごとき御肌に自分の痕を残した。何の言い訳も立たない、釈明の余地もない、その罪深い行為。
 何かを許されたような錯覚にとらわれたわけではなかった。ただ、無我夢中だった。我を忘れて美しい肢体を貪りながら、風の神の傲慢な噛み傷がちらちらと主張しているようで、癇に障ったのだ。
『っ、……』
 驚いたように、主神が息を飲み給うた御声。それで我に返った。
 自分は、一体何を。この、貴き存在に対して。
 だが狼狽えるより、身を離し寝床を転がり落ちて深々と頭を垂れるより、一瞬早く。蕩けた眼差しをした主神は、甘い甘い御声を上げ給うた。
『もっと』
『我が神……』
『良い』
 釈明さえお許しにならずに、その美しい御腕はするりと首筋に絡みついて。やんわりと引き寄せられて、じっと目を覗き込まれて。蕩けているのに輝きを失わない瞳に、捕らわれた。
『良いから、もっと』
 自分は許されるべきではないと、しでかしてしまった事は水に流せるものではないと、知っていた。なのにこの弱い弱い心は、つい主神の寛大さに甘えてしまったのだ。
 ざわめく心臓を抱えたまま、止めていた腰の動きをまた再開した。満足げな喘ぎを漏らし給うた主神は、うっとりとした表情でその律動に身を委ね給うた。その美しく蠱惑的な御姿に、眩暈を覚えた。
 またも我を忘れて快楽を貪ってしまいそうになる自分を抑えながら、主神を悦ばせるために動き続けた。丁重に、丁寧に、けれどつい少しだけ乱暴に。
『あ、ぁ、あ、そこ……っ』
 喉を反らせて甘い御声を漏らし給うた主神。感極まったようなその御声。胸を揺さぶられて、泣き出したいほどの感動に胸が震えて、抱くべからざる望みがまた浮かび上がりそうになって。動くことをやめないままに、目を閉じた。
 その唇の甘さを知りたい、などと。思うことさえ、自分にはおこがましいのだから。

「……ん」
 微かな御声に、はっと物思いから覚める。反射的に座り直し、寝床に目を向けた。
 秀麗な眉を微かに寄せ給いて、主神が小さく身動ぎ給う。何かを探すように寝床の上を滑っている、指の長い美しいその御手。そして宝玉の瞳が、顔を覗かせ給うた。
 何処か茫洋とした瞳が、ぼんやりと彷徨い給う。その珠玉がやがて、こちらに目を止め給うた。その眼を覗き込み、囁くように問う。
「ご気分はいかがでしょうか、我が神」
「……ん」
 眠たげに瞬きをされている瞳を見つめながら、その表情を確かめる。苦痛の影が今の所は見えないことに胸を撫で下ろしながら、度重なる非礼を深く詫びた。
「大変申し訳ない事を致しました。どうかお許しを」
「……何故、お前が、謝る」
 ぼんやりとした御声で呟き給うた主神は、眠気を散らすようにゆっくりと瞬きをされた。それもなかなか功を奏さない御様子で、美しい瞳はぼんやりと自分に向けられている。
 まだ夢現の瞳は深く深く、吸い込まれそうで。誘い込まれるままに、沈んで行きたくなる。
 未練を振り切るように、目を伏せた。丁重に礼をし、暇を乞う。
「お目覚めになられましたならば、私めは、これにて」
 主神が眠りから覚め給うた以上、自分が此処に留まる理由は何一つない。居座ることを許される理由は、どこにも存在しない。だからすぐに立ち去らなければならない。これ以上、不埒な望みが沸き起こる前に。
「失礼致します、我が神」
 首を垂れたまま告げて、そして身を起こした。またその美しき瞳に絡め取られてしまわないようにさりげなく眼を逸らしながら、立ち上がろうとする。だが。
「っ、」
 思うより強い力で腕を掴まれた。何を思う前に、寝床に引き込まれる。しなやかな腕が体に回される。どくりと跳ねる心臓を沈めながら、恐る恐るその御顔を窺った。
「我が神……」
「行くな」
 思わぬ御言葉に虚を突かれる。まだ眠たげな顔をされている主神は、不機嫌を露わにした瞳で見つめ給うた。何処か拗ねたような、その幼い表情。 
「次の夜が来るまで、此処に居ろ」
 美しい唇が命じた御言葉に、束の間理解が追いつかなかった。だが数秒経って、やっと理解する。慌てて言葉を探した。
「そのような非礼は……」
「命令だ」
 やや強い語調での仰せに、思わず口を噤む。もう一度言葉を探す前に、主神はこちらの胸にその御顔を寄せてこられた。打って変わって小さな、殆ど聞き取れないほどの御声が、呟き給う。
「お前の胸で眠りたい」
 指の長い美しい御手に、装束を掴まれる。その御手を失礼にならないように振り解く言い訳を考えている間に、主神は眼を閉じてしまわれた。
 すうっと眠りに落ちていかれた、畏敬し崇拝する主神。その美しいかんばせに、束の間見惚れた。
 眠りのあいだ無防備になるのは、人も神も同じだ。この強く賢い主神であっても、それは変わらない。なのにこの主神は、こんな自分の前であっさりと警戒を解かれ、こんなにも安心したような表情で眠りに落ち給う。
 その清らかな信頼に、深く胸を揺さぶられる。何を捨て何を犠牲にしてもその神聖な感情に応えなければならないと、決意を新たにする。
 その美しい信頼に驕ってはならない。ただ粛々と、分を弁えて、望まれることを望まれる通りに着実にこなさねばならない。そう自分に言い聞かせながらも、つい魔が差して。
 しなやかなその御体に、そっと腕を回した。少しだけ身を寄せて、豊かで美しい御髪に唇を寄せる。そのまま目を閉じ、甘やかな御髪の香に酔った。 

 妻も子もあるのだろうと、闇に閉ざされた十字路で主神は言われた。そんな望みはやめておけと、主神は仰せになった。他の望みを考えろ、褒賞を手に家族の元へ帰れと、主神は諭し給うた。その御言葉を聞き入れなかったことを、後悔などしない。
 それがしきたりとはいえ、当然の定まりごとだとはいえ、想い合ってもいない「妻」との暮らしは苦痛でしかなかった。自分に似たところのまるでない子供にも、愛着を感じたことは一度もなかった。家に戻りたくないばかりに自ら進んで戦場へ、また次の戦場へと赴いて、死に場所を探し求めるようにして生きてきた。
 その暮らしにまた帰っていくなど、この神の美しい面影だけに焦がれて生きていくなど、耐えられなかった。
 決意はきっと、主神にもお見えになったのだろう。秀麗な眉を寄せていた主神は、ふと苦笑を漏らして、仰せになった。
『妙な男だな』
 呆れたように笑い給うたそのかんばせは、やはりあまりにも美しかった。

 ついうとうとと、眠ってしまっていたらしい。
 腕の中にあった温もりが離れていく。反射的に引き寄せようとしてしまう前に、思いも掛けない優しい手付きでそっと瞼を撫でられるのを感じた。
 まだ覚め切らない意識で、漠然と理解する。主神は今、自分と言葉を交わすことを望み給わないのだ。
 だから目を開けることはせず、そのまま身を横たえていた。自分が覚醒したことに主神は確かに気付いておられるし、自分も主神が気付き給うていると分かっている。けれどこの儀礼が、今は必要なのだ。
 ふ、と主神の笑みの気配。少し温度の低い御指が褒めるように頬の線をなぞり給うて、そして離れていかれる。幻のようなその甘い感触を、噛み締めた。
 微かな布擦れの音、身動ぎの気配。だが主神の慕わしい気配は、そのまままた動きを止め給うた。怪訝に思って、そっと薄眼を開ける。そして、見てしまった。
 宵の薄らとした闇の中で、主神は身を起こし給うていた。その美しい瞳は、窓の向こうの空で傲慢に光る夕星を見つめておられた。宵の明星を、あの風の神の星を。
 きっとそれは、無意識のことなのだろう。その美しい御指で御肩の傷をなぞり給うて、主神は淡く淡く微笑み給う。愛おしそうに、嬉しそうに。その表情に、抱くべきでない感情がまたざわつくのを感じた。
 そんな表情でこの主神が想われる相手など、自分は他に知らない。他のどんな神も、どの神官も、民を統べる王も、他のどの者も、誰一人として主神にこんな表情はさせない。
 この自分も決して、その相手にはなれない。望む事すら、おこがましいけれど。
 なのにあの忌々しい風の神は、この主神にこんな表情で、こんな眼差しで、想われている事に気付きもしないのだ。にも関わらず、あの風の神はこの主神の美しい御体に、我が物顔で傷を刻むのだ。何度でも、何度でも。
 しなやかで優美な御体に、増えていく傷。治っては、または治る前にでも、あの風の神は次々に新しい傷を刻み付ける。約束もせずにふらりと現れては好き勝手に貪り、傷付けて帰っていくばかり。
 主神は、それを咎め給うことさえなさらない。けれど風の神のあずかり知らぬところで、主神はこうして愛おしげに笑みを浮かべておられるのだ。美しい御体を穢す醜い傷をなぞり給うては、馨しい花を贈られた乙女のように微笑み給うのだ。
 あの風の神の、何処が良いのです。決して問えないその言葉を、また噛み殺した。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

優しいおにいちゃんが実はとっても怖い魔王さまだった話

BL / 連載中 24h.ポイント:809pt お気に入り:2,793

事故つがいの夫が俺を離さない!【本編完結】

BL / 完結 24h.ポイント:624pt お気に入り:1,936

青い月にサヨナラは言わない

BL / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:44

天底ノ箱庭 白南風

BL / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:31

世界は淫魔に支配されましたが、聖女の息子は屈せない

BL / 完結 24h.ポイント:156pt お気に入り:248

半魔の竜騎士は、辺境伯に執着される

BL / 連載中 24h.ポイント:1,050pt お気に入り:8,858

ちびヨメは氷血の辺境伯に溺愛される

BL / 連載中 24h.ポイント:42,600pt お気に入り:5,394

悪戯な運命の女神は、無慈悲な【運命の糸】を紡ぐ

BL / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:186

買った天使に手が出せない

BL / 連載中 24h.ポイント:227pt お気に入り:4,602

処理中です...