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薄暗がりに星の歌を聴く
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27-1.愚蒙なることの幸福と罪
会いたくもないし、名前さえ耳に入れたくない。だからケツァルコアトルとしてはその神の姿が現れない事に清々していたし、誰かに尋ねてみる事さえもしなかった。自分の耳にまでもとうとう届いてしまった時には、その噂は誰もが知るほどの公然の秘密だったらしい。
なるほど随分とのぼせ上がっている様子だと呆れながら、その不運で愚かな神から目を逸らした。あの淫蕩で放逸な神に目をつけられたのは憐れむべきことかもしれないが、その誘惑にうかうかと乗ったのは落ち度でしかない。
あの淫らで気紛れな神はきっとまたすぐに、この新しい「お気に入り」にも飽きるだろう。ごくあっさりと追い払い、二度と目もくれないのだろう。これまでの振る舞いから見てもそれは火を見るより明らかなのに、なぜ自分だけは違うと自惚れることができるのか。なぜ、そこまで愚かしくなれるのか。
呆れの息を漏らし、関わりたくもないと背を向ける。だが歩き出そうとしたまさにその時、聞きたくもない声は耳に届いた。
「こんなところにいたのか」
珍しく昼間に歩き回っていたらしいその神の、ごく気軽であっさりとした口調。それに答える声は情けなく上擦っていて、吃りがちで、聞き苦しいことこの上ない。
思わず振り返ってしまったケツァルコアトルに、現れたばかりのその神はちらりと目を向けた。何も言わずに、僅かな間だけ嘲りの笑みを浮かべる。だがその視線を向かい合う神に辿られるよりも早く、その目はまた目の前の相手に戻った。
無駄に整った顔にこれ見よがしに浮かぶ、いかにも無害そうな笑み。明らかにケツァルコアトルへの当て付けである、甘い笑顔。苛立ってやるのは相手の思う壺だと分かっていても、胸を不快が満たすことをケツァルコアトルは止められなかった。
熱に浮かされた瞳が食い入るように見つめるのを、その傲慢な神はごく当然のように受け止める。淫らな欲望を抑え切れずにいるその視線を、拒むことなく甘受する。ただただその姿が不快で、忌まわしくて、今度こそケツァルコアトルは振り返らずに歩き出した。
気味の悪いほど柔らかな声が、背後で何かを唆していた。
他者の気配に目を開けながら、どうせまたあの神なのだろうとケツァルコアトルには半ば確信があった。果たして、やはり予期した通りの姿がそこにあった。
「何だ」
「言わねば分からぬほどには、貴様とて愚かではあるまい?」
笑みを含んだ挑発の声には、淫らな艶が滴るように込められている。渋々身を起こしながら、ケツァルコアトルは闇の中で不吉に光る両眼をちらりと見返した。
淫猥な期待を宿し、妖しく光るその瞳。音も立てずに歩み寄ってきたその神は、ケツァルコアトルの寝床の傍へ来るとしなやかな動作で腰を下ろした。そよりと動いた空気に頬を撫でられることも不快で、ケツァルコアトルはつい眉を寄せる。
分からないし分かりたくもない、早く出て行ってくれ。そう吐き捨てて突き放すこともできた筈なのに、どうしてそうしなかったのだろう。後になって考えてみても、ケツァルコアトルには自分の行いの理由が全く思い出せなかった。
ただ何も言わずに手を伸ばし、淫らな目をしてこちらを眺めているその神を床に組み敷いた。その上にゆっくりと覆い被さり、物も言わずにその装束に手を掛けた。
抗う気配さえ見せないその神はやはり何も言わずに、満足げに笑みを浮かべた。
抵抗ひとつしないその神の肌を暴き、奥まった場所を指で探る。そこがまだ熱く潤みを帯びている事を確かめ、蔑みと呆れをまた新たにした。
相手は大方、あの愚かで憐れな「お気に入り」だろう。もう飽きが来始めているのか、その神だけでは到底足りなかったのか。どうあれこの淫蕩な神は、その淫らな熱も冷めやらぬままにケツァルコアトルを訪れているのだ。
「この淫乱」
胸を満たす侮蔑のままに吐き捨てても、その神は傷付いた顔ひとつ見せない。そよ風ほども揺らいだ様子を見せない。その神は臆しもせず、恥じ入ることさえせず、ただ嘲るように笑った。
「その淫乱を相手に盛っている貴様は、何だ?」
傷付きもしない不遜さに、しゃあしゃあとこちらを詰るばかりの身勝手さに、怒りがいや増す。響きもしない言葉をかけてやることにさえもはや嫌気が差して、ケツァルコアトルは何も言わずにその淫らな場所に自身を埋め込んだ。
「っ、ぅ、……っ!」
「苦しそうだね」
漏れる苦鳴を何の感慨もなく聞き捨てて、無感動な声で吐き捨てて、容赦なく腰を進めていく。投げ出されたままの手が苦しげに床を引っ掻くのがちらりと見えたが、ケツァルコアトルには何の関係もないことだ。
熱く狭い場所はきゅうきゅうと絡みついてきて、淫らに蠢いて、奥へ奥へとケツァルコアトルを誘い込もうとする。招かれるがままに全てを納め切って、ケツァルコアトルはゆるゆると息を吐いた。
その神は目を閉じて震えているが、その唇は苦しげな呼気を漏らしているが、構ってやるほどのことは何もない。だからケツァルコアトルは何も気にかけてやることなく、どことなく細さを感じさせる腰を掴み直して律動を開始した。
「ぁ、ぐ、っ……、……!」
「煩いな。」
君が望んだことだろう。冷酷な声で吐き捨てながら、容赦無く腰を突き上げる。その度に組み敷いた体はびくびくと跳ね上がり、苦しげな声が零れ落ちる。
その事に、その声の響きに、ケツァルコアトルは暗い満足を覚えた。もっとその声を出させようと、一層激しく腰を揺さぶった。
けれど激しく攻め立てれば攻め立てるほど、苦しげに乱れる吐息が甘く熱く蕩けていく。無駄に整った作りのかんばせから、苦痛の影が薄れていく。熱く柔らかな場所は貪欲に快感を欲しがり、一層淫らに絡みついてくる。その感触に一層熱を煽られながら、不快な思いがまたじわりと滲んだ。
傷を刻んでやりたいのに、苦しむ顔が見たいのに、どうしてそれさえできない。どうすれば苦しませてやれる。残忍で悪辣な数々の振る舞いを、どうすれば咎めてやれる。苛立ちは膨れ上がって、熱に浮かされる頭蓋を埋め尽くして、もう他のことは考えられない。
どうすればいいと考えを巡らせて、目が吸い寄せられたのはその神の肩口だった。普段は装束に隠れるだろうその場所に、ぽつんと主張する一点の紅。それを刻んだであろう愚かしい神の愚鈍な眼差しを思い出した時、妙案が頭に閃いた。
「っぁ!」
肩口に顔を寄せ、容赦無い力でその所有印に歯を立ててやる。びくんと体を震わせたその神が、やっと気付いたようにもがこうとする。だが、もう遅い。ゆっくりと顔を離したケツァルコアトルは、くっきりと咲いている自分自身の歯型に深い満足を覚えた。
「ぁ、な、に……」
「お気に入りの彼に、見咎められるかもしれないね?」
優しい声で教えてやりながら、歯型を指先でなぞる。まだ生々しい傷に触れられる感触に、その神が小さく息を詰める。同じ場所に軽く爪を立ててやりながら、楽しく夢想した。
愚蒙で愚昧なあの神も、この噛み傷を目にすれば目を覚ますだろう。こんなにも淫乱で放逸な神などと関わりを持つのはあまりにも無益で無駄なことだと、身に染みるだろう。憤慨と軽蔑をこの淫らな神にぶつけて、少しでも傷付けてやるがいい。その愉快な空想に満足しながら、甘く甘く囁いてやった。
「淫乱な君には、よく似合いだよ」
「っぅ」
反論を待たずにまた腰の動きを再開すると、体の下で声が上がる。戸惑いながらも甘さを隠し切れずにいる、その声音。繰り返す律動にまた甘い響きを増していく声音も、今は不快ではない。
この夜が明けた時、この神は自身の放埒と堕落の報いを受ける筈だから。ケツァルコアトル自身が、その当然の未来を決定付けてやったから。その事実に満足を噛みしめながら、ケツァルコアトルは淫らな嬌声が耳を汚すことを楽しんだ。
また珍しく昼間から出てきたのは、しかもこんな場所で堂々と逢引をしているのは、間違いなくケツァルコアトルへの当て付けだ。よく分かっていても、ケツァルコアトルは不快にならずにはいられなかった。
上手く言い包められたのか、或いはケツァルコアトルが見て取った以上に「躾」が行き届いていたのか。あまりにも愚昧な神はまだ、淫らな神に心奪われているらしい。
狂気じみた熱と下劣な獣欲を隠しもしないその眼差しを、淫蕩な神は当然のように受け止め、受け入れている。それどころか、妖艶とも呼べそうな眼差しを気紛れに投げかけ、殊更優しげな笑みまでも浮かべる。
少しでも苛立ちを露わにすれば、ましてや非難の声を一声でも上げてやりなどすれば、相手の思う壺だ。分かっているから、ケツァルコアトルは何も言わずに背を向けてその場を立ち去った。
気味の悪いほど優しげで甘い声が、背後で何かを唆している。耳に入れる価値もないその響きを追い払うように、ケツァルコアトルは足を早めた。それでも、同じ声がまた記憶の底から浮かび上がってくる。
『随分と愚鈍でちゃちな刃だな、ケツァルコアトル』
すっかり元通りに整えた装束の上から噛み傷をなぞり、嘲笑った声。夜の闇に満たされた部屋の中でも、そのかんばせに浮かんでいるだろう嘲りの笑みはありありと読み取れた。
『貴様の付けた程度の傷では、何も変わらない。変わるのは、私がそれを望んだ時だ』
嘲笑を置き土産に軽やかに立ち去った、その淫らな神。忌々しい事に、その捨て台詞は正鵠を射たものだった。分かりたくもないのに、それが分かってしまった。
淫蕩で放逸なその神が終わりを望まない限り、愚直で愚蒙な神はいつまででもその姿を追い求め、歩んだ地面まで拝まんばかりだろう。その唇に唆されれば、どんな悪徳にも身を落とすだろう。やり場のない嫌悪と憤懣に、ケツァルコアトルはまた息を吐いた。
あのような淫乱で悪辣極まる神にうかうかと誑かされるなど、甘い誘惑に乗せられて堕落するなど、同情の余地さえない愚かさだ。呆れを新たにした時、記憶の水底からまた囁きが聞こえた。
『その淫乱を相手に盛っている貴様は、何だ?』
耳に蘇ったその声に、そのあまりの不条理さに、また憤りが胸を焼き焦がす。やり場のない怒りを、努めて鎮めようとした。
違う、違う。自分は、あの淫売に僅かの間だけ狂わされただけだ。あの淫奔な神が、あの手この手で自分を狂わせているからだ。自分が望んだことではないし、今後も決して望んだりなどしない。自分は、あんな淫乱を必要としたことなど一度もない。
そう自分に言い聞かせようとするのに、それは自明であり確固たる事実なのに。残酷な声が忍び寄り責め立てようとするのを、ケツァルコアトルははっきりと感じた。
ケツァルコアトルとてあの愚かしい神と同じように、誑かされ唆されているだけではないかと。あの愚蒙な神と全く同じように、淫らな神が吹き奏でる笛の音に踊らされているのではないかと。冷ややかに詰るその声を追い払うように、ケツァルコアトルは大きく首を横に振った。
そんな筈はない。自分はあの愚昧な神などとは全く違うのだ。あの淫乱な神に狂わされる僅かな時間があっても、すぐに正気を取り戻している。淫らな神の意のままに踊らされたりなどしない。そう、必死で自分に言い聞かせるのに。
夜闇を透かし見た淫らな笑みは、いつまでも瞼にちらついて離れなかった。
27-2.夜咲く花を暮れ刻に訪う
このところ、あの淫奔な神が現れない。ふと気づいて、ケツァルコアトルは思わず考え込んだ。
会いたい相手ではないのだから構いはしない。あの忌まわしい姿を見せないならば、それに越したことはない。それは分かり切ったことなのだ。
だが、姿が見えず噂も聞かないというのは、かえって不気味でもある。また何か悪辣な企みを巡らせているのかもしれない。たまたま目に止まってしまった不運な犠牲者を弄び、甚振ることを楽しんでいるのかもしれない。そう考え始めると、どうにも気になって仕方がなかった。
だから仕方なく、ケツァルコアトルはその神の神殿に出向いてやることにしたのだ。
日暮れの務めを終えてから向かえば、夜闇に紛れて悪徳を振りまくあの神はちょうど起き出す頃だろう。そう判断して神殿を訪れた。
行き交う神官達の一人に取り継がせ、少しだけ待たされてから奥へと通された。彼らの主神とケツァルコアトルとの長きにわたる不仲をよく知っている神官達は不安そうにしていたが、主神に伝えずに追い返すわけにもいかなかったらしい。
「お邪魔するよ」
声をかけて足を踏み入れると、寝具の上で気怠げに座っているその神が視線をよこした。髪と装束は整えられているものの、まだ眠りから覚めきらないその様子。
足を進めながら、どんな言葉を投げかけるべきかと今更になって迷う。嘲笑も敵意も見せないこんな寝ぼけた姿に、こちらから先に挑発的な言葉を投げかけるのも躊躇われる。かと言って、優しい言葉など交わす間柄では元よりない。
言葉を探しながら見下ろすケツァルコアトルを見上げ、その神はゆっくりと瞬きをした。暗がりの中で煌めくその瞳に、思わず見入ってしまいそうになる。寸でのところで気付いたケツァルコアトルが慌てて目を逸らすと、くすくすと笑う声がした。
「何だ、用件は夜這いか?」
「っ!?」
あっさりした声音に肩が震えるのが分かる。反射的に戻した視線の先で、その神は悪びれた様子もなく微笑んでいた。無邪気と呼べそうなほどの仕草で軽く首を傾げ、重ねて問いかけてくる。
「何だ。違うのか。」
当たり前だ、そんな筈はないだろう、君と一緒にしないでくれ。そう言い返したいのに、言葉が出てこない。体の奥底で罪深い熱が蠢くのを感じ、ケツァルコアトルは激しく動揺した。
違う、違う。自分はそんなことのために来たわけではない。そんな恥知らずな行いのために、ここを訪れたわけではない。胸の中で必死に反論する声はあまりにも弱々しく、ひと吹きの風にも掻き消されそうだった。
余裕の笑みを浮かべてこちらを見上げている、無駄に整った顔立ち。それが淫らに紅潮し蕩けるさまが、目の前にちらついて誘惑しようとする。その唇がもっともっとと快感をせがむ声が、耳の奥で鳴り響いている。
立ち竦むケツァルコアトルをどう思ったのか、目の前の神はふと吐息だけで笑った。ごく自然な様子で目を逸らす。それでやっと、ケツァルコアトルは止めていた呼吸を思い出した。
「まあ、何でもいい。今夜は退屈していた」
飲むものを用意させる、付き合え。気軽に言いながら、その神はしなやかな仕草で立ち上がった。その滑らかな皮膚と筋肉の柔軟な蠢きさえもひどく艶かしく見えて、目を逸せない。
傍を通り抜けて行こうとするその神から、ふわりと甘い香りが香った気がした。衣服に焚き込められ染み付いた香だろうか。何か、花か薬草だろうか。
それを確かめたいと思ったわけではなかった。ただ反射的に手が伸び、通り過ぎようとする神の腕を掴んでいた。
「っ」
驚いたように振り返ろうとするその神に何も言わせず、ケツァルコアトル自身も何も言わず、無言で床に組み敷いた。その体にのしかかり、やや性急な手付きで装束を解き払う。
困惑げだったその神が、ふと吐息だけで笑った。黙らせる前に、はっきりと嘲りの籠もった声が投げかけられる。
「何だ、図星ではないか」
煩いと咎める代わりに、装束を取り除けて露わにした肩口に噛み付く。その痛みにか息を飲んだその神は、また切れ切れに笑った。
こちらに嘲笑をぶつける割に、その神は抵抗ひとつしない。従順に明け渡される体を暴き立てて、ケツァルコアトルはその内側に身を沈めた。
「ぁ、ん、あぁ……!」
「国中に聞こえるよ」
尤も、この神が淫乱で放逸であることは国中の誰もが知っていることだ。今更驚く者はない。きっとこの神自身も、誰に知られようとも気に掛けさえしていないのだろう。
侮蔑の念を新たにしながら、一応は冷たい声で忠告してやった。けれどそれさえも、聞こえているのか定かではない。
その神はただ快感に身悶え、甘えた嬌声を漏らし、感に耐えないというようにきつく目を閉じている。法悦に滲んだ涙で縁取られている睫毛を見下ろしながら、胸のどこかでケツァルコアトルは安堵していた。
瞼の下に隠されている瞳を、見なくて済むのは良いことだ。その不吉な眼に、どんな淫らな魔術を掛けられるとも知れないから。誑かされ誘惑されて、夜明けの光の中で深く自分を嫌悪する羽目にもなりかねないから。
安堵を覚えながら、手の中の腰を掴み直した。しっかりと男らしい作りなのに、どこかほっそりとした印象も与えるそれ。ケツァルコアトルのその動きで次に与えられるべき悦楽の気配を嗅ぎ取ったらしい体の下の神は、切なげに吐息を漏らして身を震わせた。
「ぁ、あ、……!」
何も言わずに腰を突き上げると、その神は背筋を震わせて嬌声を漏らした。構わず何度も何度も腰を叩きつけると、感極まったように声にならない声を漏らす。
熱い内壁は狂おしく絡みついて、一層奥へ奥へとケツァルコアトルを招き入れようとする。より深みへ、より罪深い堕落へと、ケツァルコアトルを誘おうとする。我を忘れて行為に耽ってしまわないように、ケツァルコアトルは自分を戒めようと努力した。
ふと、見下ろす先で濡れて光る睫毛が震えた。それに気付いたケツァルコアトルは、はっとして手を伸ばしその目元を覆ってしまおうとした。だが、少しだけ遅すぎた。
ゆるりと開いたその目に真っ直ぐに見つめられて、ケツァルコアトルは呼吸さえ失った。熱と悦に蕩けているのに、奇妙な光を失わないその瞳。妙に冴え冴えと光るその両眼は、夜空にも似た煌めきと底知れなさを持ってケツァルコアトルを射抜いた。
声も出ないケツァルコアトルを見上げ、その瞳は婉然と微笑んだ。毒々しいような、清らかなような、ぞっとするほどの艶やかな笑みで、その美しいかんばせを彩った。
花弁のように赤い唇を、赤い赤い舌がちろりと舐めて。ゆっくりと伸ばされたしなやかな腕が、甘えるようにケツァルコアトルの首筋に絡みついて。首筋を熱く甘い吐息がなぞって、耳に同じ温度の息遣いが吹き込まれて。
「……もっと」
「っ!?」
蜜のような声音で請われて、ケツァルコアトルの背筋を強烈な快感が駆け抜ける。甘えるように軽く耳朶に歯を立ててきたその神は、同じ甘い甘い声音でくすくすと笑った。そしてその声は、また。
「お前が欲しい」
「っ……!」
駄目押しのように吹き込まれた囁きが、頭蓋の中に僅かに残っていた理性さえ吹き消してしまう。もう何も考えられず、ケツァルコアトルは腕の中の体を貪るように求め始めた。
もう、何を考える余裕もなかった。侮蔑も軽蔑も憎悪も憤懣も何もかもを忘れて、彼方へ置き去りにして、ただ目の前の体に溺れる。獣のような荒々しさで、快感を追い求める。
切れ切れに笑う声が、聞こえている気がした。それに構う余裕さえも、もはや残されていなかった。
自分の振る舞いを思い出すだに、顔から火が出る思いがする。いたたまれない思いで、ケツァルコアトルは俯き加減に歩いた。
曙の野には他の誰の姿もない。それだけが救いで、このまま神殿に帰り着くまで誰にも会いたくないと心から願って。なのに、その神は思いがけない場所にいた。
「っ」
「何だ、貴様か」
悪びれもしないその神は、何の気紛れか夜明けの空を眺めていたらしい。妙な出来心など起こさずに、さっさと自分の神殿に戻ればいいものを。そうすれば、ケツァルコアトルはこんな厭わしい姿を目にせずに済んだものを。
ぶつけてやる言葉さえ見付からず、黙って目を背けた。何も言わずにまた歩き出す。背中でその神が嘲りの笑いを漏らしても、振り返ることはしない。なのに。
「欲しくなれば、またいつでも来るがいい。いつでも迎えてやろうさ」
「……!」
たっぷりと嘲笑の込められた声に、あまりの侮辱に、思わず振り返ってしまう。怒鳴りつけてやろうとした声を飲んでしまったのは、確かにケツァルコアトルの失策だった。
淫らな眼差しに不意を突かれた。侮蔑と誘惑の入り混じる笑みが、妙に妖艶な色香を漂わせていた。声も出ないケツァルコアトルにその神は一層笑みを深めて、それからふと目を逸らした。
もう興味もなさげに、また空に目を向ける横顔。束の間食い入るように見つめてしまってから、ケツァルコアトルははっと我に返った。もう決して振り返らずに、足早にその場を後にする。
胸の中で激しく脈打つ心臓。抑えきれないざわめき。それが嫌悪と憤慨のためだけであったら、どんなに良かっただろう。けれど自分は確かに、あの妖しい瞳に淫らな魔術をかけられて、逃れることもできないのだ。
今夜も自分はあの神の神殿を訪れるのだろう、そうせずにはいられないのだろう。自覚と諦念にケツァルコアトルは深い息を漏らした。
深い絶望に囚われながら、否定しきれない熱の疼きを確かに感じていた。
会いたくもないし、名前さえ耳に入れたくない。だからケツァルコアトルとしてはその神の姿が現れない事に清々していたし、誰かに尋ねてみる事さえもしなかった。自分の耳にまでもとうとう届いてしまった時には、その噂は誰もが知るほどの公然の秘密だったらしい。
なるほど随分とのぼせ上がっている様子だと呆れながら、その不運で愚かな神から目を逸らした。あの淫蕩で放逸な神に目をつけられたのは憐れむべきことかもしれないが、その誘惑にうかうかと乗ったのは落ち度でしかない。
あの淫らで気紛れな神はきっとまたすぐに、この新しい「お気に入り」にも飽きるだろう。ごくあっさりと追い払い、二度と目もくれないのだろう。これまでの振る舞いから見てもそれは火を見るより明らかなのに、なぜ自分だけは違うと自惚れることができるのか。なぜ、そこまで愚かしくなれるのか。
呆れの息を漏らし、関わりたくもないと背を向ける。だが歩き出そうとしたまさにその時、聞きたくもない声は耳に届いた。
「こんなところにいたのか」
珍しく昼間に歩き回っていたらしいその神の、ごく気軽であっさりとした口調。それに答える声は情けなく上擦っていて、吃りがちで、聞き苦しいことこの上ない。
思わず振り返ってしまったケツァルコアトルに、現れたばかりのその神はちらりと目を向けた。何も言わずに、僅かな間だけ嘲りの笑みを浮かべる。だがその視線を向かい合う神に辿られるよりも早く、その目はまた目の前の相手に戻った。
無駄に整った顔にこれ見よがしに浮かぶ、いかにも無害そうな笑み。明らかにケツァルコアトルへの当て付けである、甘い笑顔。苛立ってやるのは相手の思う壺だと分かっていても、胸を不快が満たすことをケツァルコアトルは止められなかった。
熱に浮かされた瞳が食い入るように見つめるのを、その傲慢な神はごく当然のように受け止める。淫らな欲望を抑え切れずにいるその視線を、拒むことなく甘受する。ただただその姿が不快で、忌まわしくて、今度こそケツァルコアトルは振り返らずに歩き出した。
気味の悪いほど柔らかな声が、背後で何かを唆していた。
他者の気配に目を開けながら、どうせまたあの神なのだろうとケツァルコアトルには半ば確信があった。果たして、やはり予期した通りの姿がそこにあった。
「何だ」
「言わねば分からぬほどには、貴様とて愚かではあるまい?」
笑みを含んだ挑発の声には、淫らな艶が滴るように込められている。渋々身を起こしながら、ケツァルコアトルは闇の中で不吉に光る両眼をちらりと見返した。
淫猥な期待を宿し、妖しく光るその瞳。音も立てずに歩み寄ってきたその神は、ケツァルコアトルの寝床の傍へ来るとしなやかな動作で腰を下ろした。そよりと動いた空気に頬を撫でられることも不快で、ケツァルコアトルはつい眉を寄せる。
分からないし分かりたくもない、早く出て行ってくれ。そう吐き捨てて突き放すこともできた筈なのに、どうしてそうしなかったのだろう。後になって考えてみても、ケツァルコアトルには自分の行いの理由が全く思い出せなかった。
ただ何も言わずに手を伸ばし、淫らな目をしてこちらを眺めているその神を床に組み敷いた。その上にゆっくりと覆い被さり、物も言わずにその装束に手を掛けた。
抗う気配さえ見せないその神はやはり何も言わずに、満足げに笑みを浮かべた。
抵抗ひとつしないその神の肌を暴き、奥まった場所を指で探る。そこがまだ熱く潤みを帯びている事を確かめ、蔑みと呆れをまた新たにした。
相手は大方、あの愚かで憐れな「お気に入り」だろう。もう飽きが来始めているのか、その神だけでは到底足りなかったのか。どうあれこの淫蕩な神は、その淫らな熱も冷めやらぬままにケツァルコアトルを訪れているのだ。
「この淫乱」
胸を満たす侮蔑のままに吐き捨てても、その神は傷付いた顔ひとつ見せない。そよ風ほども揺らいだ様子を見せない。その神は臆しもせず、恥じ入ることさえせず、ただ嘲るように笑った。
「その淫乱を相手に盛っている貴様は、何だ?」
傷付きもしない不遜さに、しゃあしゃあとこちらを詰るばかりの身勝手さに、怒りがいや増す。響きもしない言葉をかけてやることにさえもはや嫌気が差して、ケツァルコアトルは何も言わずにその淫らな場所に自身を埋め込んだ。
「っ、ぅ、……っ!」
「苦しそうだね」
漏れる苦鳴を何の感慨もなく聞き捨てて、無感動な声で吐き捨てて、容赦なく腰を進めていく。投げ出されたままの手が苦しげに床を引っ掻くのがちらりと見えたが、ケツァルコアトルには何の関係もないことだ。
熱く狭い場所はきゅうきゅうと絡みついてきて、淫らに蠢いて、奥へ奥へとケツァルコアトルを誘い込もうとする。招かれるがままに全てを納め切って、ケツァルコアトルはゆるゆると息を吐いた。
その神は目を閉じて震えているが、その唇は苦しげな呼気を漏らしているが、構ってやるほどのことは何もない。だからケツァルコアトルは何も気にかけてやることなく、どことなく細さを感じさせる腰を掴み直して律動を開始した。
「ぁ、ぐ、っ……、……!」
「煩いな。」
君が望んだことだろう。冷酷な声で吐き捨てながら、容赦無く腰を突き上げる。その度に組み敷いた体はびくびくと跳ね上がり、苦しげな声が零れ落ちる。
その事に、その声の響きに、ケツァルコアトルは暗い満足を覚えた。もっとその声を出させようと、一層激しく腰を揺さぶった。
けれど激しく攻め立てれば攻め立てるほど、苦しげに乱れる吐息が甘く熱く蕩けていく。無駄に整った作りのかんばせから、苦痛の影が薄れていく。熱く柔らかな場所は貪欲に快感を欲しがり、一層淫らに絡みついてくる。その感触に一層熱を煽られながら、不快な思いがまたじわりと滲んだ。
傷を刻んでやりたいのに、苦しむ顔が見たいのに、どうしてそれさえできない。どうすれば苦しませてやれる。残忍で悪辣な数々の振る舞いを、どうすれば咎めてやれる。苛立ちは膨れ上がって、熱に浮かされる頭蓋を埋め尽くして、もう他のことは考えられない。
どうすればいいと考えを巡らせて、目が吸い寄せられたのはその神の肩口だった。普段は装束に隠れるだろうその場所に、ぽつんと主張する一点の紅。それを刻んだであろう愚かしい神の愚鈍な眼差しを思い出した時、妙案が頭に閃いた。
「っぁ!」
肩口に顔を寄せ、容赦無い力でその所有印に歯を立ててやる。びくんと体を震わせたその神が、やっと気付いたようにもがこうとする。だが、もう遅い。ゆっくりと顔を離したケツァルコアトルは、くっきりと咲いている自分自身の歯型に深い満足を覚えた。
「ぁ、な、に……」
「お気に入りの彼に、見咎められるかもしれないね?」
優しい声で教えてやりながら、歯型を指先でなぞる。まだ生々しい傷に触れられる感触に、その神が小さく息を詰める。同じ場所に軽く爪を立ててやりながら、楽しく夢想した。
愚蒙で愚昧なあの神も、この噛み傷を目にすれば目を覚ますだろう。こんなにも淫乱で放逸な神などと関わりを持つのはあまりにも無益で無駄なことだと、身に染みるだろう。憤慨と軽蔑をこの淫らな神にぶつけて、少しでも傷付けてやるがいい。その愉快な空想に満足しながら、甘く甘く囁いてやった。
「淫乱な君には、よく似合いだよ」
「っぅ」
反論を待たずにまた腰の動きを再開すると、体の下で声が上がる。戸惑いながらも甘さを隠し切れずにいる、その声音。繰り返す律動にまた甘い響きを増していく声音も、今は不快ではない。
この夜が明けた時、この神は自身の放埒と堕落の報いを受ける筈だから。ケツァルコアトル自身が、その当然の未来を決定付けてやったから。その事実に満足を噛みしめながら、ケツァルコアトルは淫らな嬌声が耳を汚すことを楽しんだ。
また珍しく昼間から出てきたのは、しかもこんな場所で堂々と逢引をしているのは、間違いなくケツァルコアトルへの当て付けだ。よく分かっていても、ケツァルコアトルは不快にならずにはいられなかった。
上手く言い包められたのか、或いはケツァルコアトルが見て取った以上に「躾」が行き届いていたのか。あまりにも愚昧な神はまだ、淫らな神に心奪われているらしい。
狂気じみた熱と下劣な獣欲を隠しもしないその眼差しを、淫蕩な神は当然のように受け止め、受け入れている。それどころか、妖艶とも呼べそうな眼差しを気紛れに投げかけ、殊更優しげな笑みまでも浮かべる。
少しでも苛立ちを露わにすれば、ましてや非難の声を一声でも上げてやりなどすれば、相手の思う壺だ。分かっているから、ケツァルコアトルは何も言わずに背を向けてその場を立ち去った。
気味の悪いほど優しげで甘い声が、背後で何かを唆している。耳に入れる価値もないその響きを追い払うように、ケツァルコアトルは足を早めた。それでも、同じ声がまた記憶の底から浮かび上がってくる。
『随分と愚鈍でちゃちな刃だな、ケツァルコアトル』
すっかり元通りに整えた装束の上から噛み傷をなぞり、嘲笑った声。夜の闇に満たされた部屋の中でも、そのかんばせに浮かんでいるだろう嘲りの笑みはありありと読み取れた。
『貴様の付けた程度の傷では、何も変わらない。変わるのは、私がそれを望んだ時だ』
嘲笑を置き土産に軽やかに立ち去った、その淫らな神。忌々しい事に、その捨て台詞は正鵠を射たものだった。分かりたくもないのに、それが分かってしまった。
淫蕩で放逸なその神が終わりを望まない限り、愚直で愚蒙な神はいつまででもその姿を追い求め、歩んだ地面まで拝まんばかりだろう。その唇に唆されれば、どんな悪徳にも身を落とすだろう。やり場のない嫌悪と憤懣に、ケツァルコアトルはまた息を吐いた。
あのような淫乱で悪辣極まる神にうかうかと誑かされるなど、甘い誘惑に乗せられて堕落するなど、同情の余地さえない愚かさだ。呆れを新たにした時、記憶の水底からまた囁きが聞こえた。
『その淫乱を相手に盛っている貴様は、何だ?』
耳に蘇ったその声に、そのあまりの不条理さに、また憤りが胸を焼き焦がす。やり場のない怒りを、努めて鎮めようとした。
違う、違う。自分は、あの淫売に僅かの間だけ狂わされただけだ。あの淫奔な神が、あの手この手で自分を狂わせているからだ。自分が望んだことではないし、今後も決して望んだりなどしない。自分は、あんな淫乱を必要としたことなど一度もない。
そう自分に言い聞かせようとするのに、それは自明であり確固たる事実なのに。残酷な声が忍び寄り責め立てようとするのを、ケツァルコアトルははっきりと感じた。
ケツァルコアトルとてあの愚かしい神と同じように、誑かされ唆されているだけではないかと。あの愚蒙な神と全く同じように、淫らな神が吹き奏でる笛の音に踊らされているのではないかと。冷ややかに詰るその声を追い払うように、ケツァルコアトルは大きく首を横に振った。
そんな筈はない。自分はあの愚昧な神などとは全く違うのだ。あの淫乱な神に狂わされる僅かな時間があっても、すぐに正気を取り戻している。淫らな神の意のままに踊らされたりなどしない。そう、必死で自分に言い聞かせるのに。
夜闇を透かし見た淫らな笑みは、いつまでも瞼にちらついて離れなかった。
27-2.夜咲く花を暮れ刻に訪う
このところ、あの淫奔な神が現れない。ふと気づいて、ケツァルコアトルは思わず考え込んだ。
会いたい相手ではないのだから構いはしない。あの忌まわしい姿を見せないならば、それに越したことはない。それは分かり切ったことなのだ。
だが、姿が見えず噂も聞かないというのは、かえって不気味でもある。また何か悪辣な企みを巡らせているのかもしれない。たまたま目に止まってしまった不運な犠牲者を弄び、甚振ることを楽しんでいるのかもしれない。そう考え始めると、どうにも気になって仕方がなかった。
だから仕方なく、ケツァルコアトルはその神の神殿に出向いてやることにしたのだ。
日暮れの務めを終えてから向かえば、夜闇に紛れて悪徳を振りまくあの神はちょうど起き出す頃だろう。そう判断して神殿を訪れた。
行き交う神官達の一人に取り継がせ、少しだけ待たされてから奥へと通された。彼らの主神とケツァルコアトルとの長きにわたる不仲をよく知っている神官達は不安そうにしていたが、主神に伝えずに追い返すわけにもいかなかったらしい。
「お邪魔するよ」
声をかけて足を踏み入れると、寝具の上で気怠げに座っているその神が視線をよこした。髪と装束は整えられているものの、まだ眠りから覚めきらないその様子。
足を進めながら、どんな言葉を投げかけるべきかと今更になって迷う。嘲笑も敵意も見せないこんな寝ぼけた姿に、こちらから先に挑発的な言葉を投げかけるのも躊躇われる。かと言って、優しい言葉など交わす間柄では元よりない。
言葉を探しながら見下ろすケツァルコアトルを見上げ、その神はゆっくりと瞬きをした。暗がりの中で煌めくその瞳に、思わず見入ってしまいそうになる。寸でのところで気付いたケツァルコアトルが慌てて目を逸らすと、くすくすと笑う声がした。
「何だ、用件は夜這いか?」
「っ!?」
あっさりした声音に肩が震えるのが分かる。反射的に戻した視線の先で、その神は悪びれた様子もなく微笑んでいた。無邪気と呼べそうなほどの仕草で軽く首を傾げ、重ねて問いかけてくる。
「何だ。違うのか。」
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違う、違う。自分はそんなことのために来たわけではない。そんな恥知らずな行いのために、ここを訪れたわけではない。胸の中で必死に反論する声はあまりにも弱々しく、ひと吹きの風にも掻き消されそうだった。
余裕の笑みを浮かべてこちらを見上げている、無駄に整った顔立ち。それが淫らに紅潮し蕩けるさまが、目の前にちらついて誘惑しようとする。その唇がもっともっとと快感をせがむ声が、耳の奥で鳴り響いている。
立ち竦むケツァルコアトルをどう思ったのか、目の前の神はふと吐息だけで笑った。ごく自然な様子で目を逸らす。それでやっと、ケツァルコアトルは止めていた呼吸を思い出した。
「まあ、何でもいい。今夜は退屈していた」
飲むものを用意させる、付き合え。気軽に言いながら、その神はしなやかな仕草で立ち上がった。その滑らかな皮膚と筋肉の柔軟な蠢きさえもひどく艶かしく見えて、目を逸せない。
傍を通り抜けて行こうとするその神から、ふわりと甘い香りが香った気がした。衣服に焚き込められ染み付いた香だろうか。何か、花か薬草だろうか。
それを確かめたいと思ったわけではなかった。ただ反射的に手が伸び、通り過ぎようとする神の腕を掴んでいた。
「っ」
驚いたように振り返ろうとするその神に何も言わせず、ケツァルコアトル自身も何も言わず、無言で床に組み敷いた。その体にのしかかり、やや性急な手付きで装束を解き払う。
困惑げだったその神が、ふと吐息だけで笑った。黙らせる前に、はっきりと嘲りの籠もった声が投げかけられる。
「何だ、図星ではないか」
煩いと咎める代わりに、装束を取り除けて露わにした肩口に噛み付く。その痛みにか息を飲んだその神は、また切れ切れに笑った。
こちらに嘲笑をぶつける割に、その神は抵抗ひとつしない。従順に明け渡される体を暴き立てて、ケツァルコアトルはその内側に身を沈めた。
「ぁ、ん、あぁ……!」
「国中に聞こえるよ」
尤も、この神が淫乱で放逸であることは国中の誰もが知っていることだ。今更驚く者はない。きっとこの神自身も、誰に知られようとも気に掛けさえしていないのだろう。
侮蔑の念を新たにしながら、一応は冷たい声で忠告してやった。けれどそれさえも、聞こえているのか定かではない。
その神はただ快感に身悶え、甘えた嬌声を漏らし、感に耐えないというようにきつく目を閉じている。法悦に滲んだ涙で縁取られている睫毛を見下ろしながら、胸のどこかでケツァルコアトルは安堵していた。
瞼の下に隠されている瞳を、見なくて済むのは良いことだ。その不吉な眼に、どんな淫らな魔術を掛けられるとも知れないから。誑かされ誘惑されて、夜明けの光の中で深く自分を嫌悪する羽目にもなりかねないから。
安堵を覚えながら、手の中の腰を掴み直した。しっかりと男らしい作りなのに、どこかほっそりとした印象も与えるそれ。ケツァルコアトルのその動きで次に与えられるべき悦楽の気配を嗅ぎ取ったらしい体の下の神は、切なげに吐息を漏らして身を震わせた。
「ぁ、あ、……!」
何も言わずに腰を突き上げると、その神は背筋を震わせて嬌声を漏らした。構わず何度も何度も腰を叩きつけると、感極まったように声にならない声を漏らす。
熱い内壁は狂おしく絡みついて、一層奥へ奥へとケツァルコアトルを招き入れようとする。より深みへ、より罪深い堕落へと、ケツァルコアトルを誘おうとする。我を忘れて行為に耽ってしまわないように、ケツァルコアトルは自分を戒めようと努力した。
ふと、見下ろす先で濡れて光る睫毛が震えた。それに気付いたケツァルコアトルは、はっとして手を伸ばしその目元を覆ってしまおうとした。だが、少しだけ遅すぎた。
ゆるりと開いたその目に真っ直ぐに見つめられて、ケツァルコアトルは呼吸さえ失った。熱と悦に蕩けているのに、奇妙な光を失わないその瞳。妙に冴え冴えと光るその両眼は、夜空にも似た煌めきと底知れなさを持ってケツァルコアトルを射抜いた。
声も出ないケツァルコアトルを見上げ、その瞳は婉然と微笑んだ。毒々しいような、清らかなような、ぞっとするほどの艶やかな笑みで、その美しいかんばせを彩った。
花弁のように赤い唇を、赤い赤い舌がちろりと舐めて。ゆっくりと伸ばされたしなやかな腕が、甘えるようにケツァルコアトルの首筋に絡みついて。首筋を熱く甘い吐息がなぞって、耳に同じ温度の息遣いが吹き込まれて。
「……もっと」
「っ!?」
蜜のような声音で請われて、ケツァルコアトルの背筋を強烈な快感が駆け抜ける。甘えるように軽く耳朶に歯を立ててきたその神は、同じ甘い甘い声音でくすくすと笑った。そしてその声は、また。
「お前が欲しい」
「っ……!」
駄目押しのように吹き込まれた囁きが、頭蓋の中に僅かに残っていた理性さえ吹き消してしまう。もう何も考えられず、ケツァルコアトルは腕の中の体を貪るように求め始めた。
もう、何を考える余裕もなかった。侮蔑も軽蔑も憎悪も憤懣も何もかもを忘れて、彼方へ置き去りにして、ただ目の前の体に溺れる。獣のような荒々しさで、快感を追い求める。
切れ切れに笑う声が、聞こえている気がした。それに構う余裕さえも、もはや残されていなかった。
自分の振る舞いを思い出すだに、顔から火が出る思いがする。いたたまれない思いで、ケツァルコアトルは俯き加減に歩いた。
曙の野には他の誰の姿もない。それだけが救いで、このまま神殿に帰り着くまで誰にも会いたくないと心から願って。なのに、その神は思いがけない場所にいた。
「っ」
「何だ、貴様か」
悪びれもしないその神は、何の気紛れか夜明けの空を眺めていたらしい。妙な出来心など起こさずに、さっさと自分の神殿に戻ればいいものを。そうすれば、ケツァルコアトルはこんな厭わしい姿を目にせずに済んだものを。
ぶつけてやる言葉さえ見付からず、黙って目を背けた。何も言わずにまた歩き出す。背中でその神が嘲りの笑いを漏らしても、振り返ることはしない。なのに。
「欲しくなれば、またいつでも来るがいい。いつでも迎えてやろうさ」
「……!」
たっぷりと嘲笑の込められた声に、あまりの侮辱に、思わず振り返ってしまう。怒鳴りつけてやろうとした声を飲んでしまったのは、確かにケツァルコアトルの失策だった。
淫らな眼差しに不意を突かれた。侮蔑と誘惑の入り混じる笑みが、妙に妖艶な色香を漂わせていた。声も出ないケツァルコアトルにその神は一層笑みを深めて、それからふと目を逸らした。
もう興味もなさげに、また空に目を向ける横顔。束の間食い入るように見つめてしまってから、ケツァルコアトルははっと我に返った。もう決して振り返らずに、足早にその場を後にする。
胸の中で激しく脈打つ心臓。抑えきれないざわめき。それが嫌悪と憤慨のためだけであったら、どんなに良かっただろう。けれど自分は確かに、あの妖しい瞳に淫らな魔術をかけられて、逃れることもできないのだ。
今夜も自分はあの神の神殿を訪れるのだろう、そうせずにはいられないのだろう。自覚と諦念にケツァルコアトルは深い息を漏らした。
深い絶望に囚われながら、否定しきれない熱の疼きを確かに感じていた。
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