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断罪の神の無慈悲と盲目
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ざわざわと、不安げな騒めきが耳に届く。ケツァルコアトルは思わず目を向けてから、そうしてしまったことを後悔した。見たくもない姿を目にしてしまったから。
何も見ないように目隠しをしたその青年神は、神官らに導かれて神殿へ戻っていくところらしかった。その神が振りまいている夜明け前のような寒気が流れてきて、足を伝い上って心臓を冷やす。
忌まわしいあの青年神の幾つもの顔のうちの一つ。その姿を取りイツトラコリウキと呼ばれる時、その神格は罪人を処罰する「折檻の神」となる。
忌まわしいその役目を果たして、神殿へ戻ってきたのだろう。何も見えていないくせに淀みない足取りで、その神はすたすたと通り過ぎていく。
哀れな咎人を冷酷に、残酷に打ち据えて、罪を嘆き許しを乞う声に片耳さえも貸さず。そうしてただ冷徹に罰を下しただろう神は、石のように無感動な横顔を見せている。
だがケツァルコアトルが目を背けようとした時、それは起こった。見えてでもいるように、その神がふと足を止めて。真っ直ぐにこちらを振り返って。
淫らに、その神は笑った。
「っ!?」
息を飲んだのが聞こえてしまったのだろうか。また笑みを深めたその神が、ふいと顔を前に向けた。もう振り返りもせずに神殿へと帰っていく。ケツァルコアトルの胸の中で激しく脈打つ心臓の音など、聞こえてもいないように。
淫蕩なあの笑み。忌々しい思いで見送るケツァルコアトルの存在に明らかに気付いていて、誘い込もうとしていた表情。それは、見慣れたくもないのに見慣れてしまったものだった。
あの忌まわしい神はいつも、許しも得ずに気儘にケツァルコアトルの神殿に忍び込んでは好き放題に快楽を貪って。淫らな悦楽にだらしなく顔を蕩して、甘えた声を漏らして、熱と悦に揺らぐ瞳を虚ろに光らせて。
ケツァルコアトルとしてもそんな横暴を許してやりたくはないから、自分の上で浅ましく腰を振るその淫売を引き倒して組み敷いて鳴かせてやることもある。浅ましいその神を悦ばせるだけだと知っていても、そうせずにはいられない。
『あ、ぁ……、も、っと』
淫らにねだる声が耳に蘇って。淫蕩な笑みがまた瞼にちらついて。物欲しげに絡みついてくる内部の熱さを、思い出して。
ざわりと、暗い欲が蠢いた。
見咎められることなく辿り着いた奥の間で、その神は身につけていた装飾を外している最中らしかった。神官達も他の誰の姿も、そこにはない。
声を掛ける前に気配で気付いたのか、その神が振り返る。その目元には、まだ目隠しがされていた。
「誰だ」
思わぬ誰何にケツァルコアトルは目を瞠った。無視されたとでも勘違いをしたか、その青年神が苛立たしげに眉を寄せる。いつからか身につけていた傲慢な口調で質してくる。
「誰だ、と尋ねている」
どうやら本当にケツァルコアトルだと気づいていないらしいその神の様子。不満をありありと浮かべて返答を待つその姿を眺めながら、苛立ちがわき起こるのをケツァルコアトルは感じた。
本当にこの浅ましい神は、そこに居るのがケツァルコアトルだと気付かずに誘惑したのか。誰に対してでも、あんな淫らな行いを、色目を使うような真似を、しているのか。誰彼構わず誘い、惑わし、寝床に引き摺り込んでいるのか。
裏切られた、などとは思いもしない。約束など何も交わしていないし、この淫売がケツァルコアトルだけで満足する筈もないことはとうに知っていた。どこで誰を咥え込んでいようと、構ってやるようなことではない。
なのに何故か、不快な思いが拭えない。それはもしかしたら、誰でも良いとばかりに振り撒かれた誘惑に乗せられてしまった自分自身への苛立ちでもあるのかもしれなかった。
答えないこちらに焦れたのか、青年神が一層眉を寄せた。苛立たしげな表情で、目隠しを外そうと手を持ち上げる。
ケツァルコアトルは咄嗟に踏み込んで、青年神の傍に立った。目隠しを解こうとしているその神の腕を、何も言わないまま掴む。そして、そのまま引き寄せた。
「っ……」
声を上げようとする唇に噛みつく。半ば開いていた唇に舌をねじ込む。舌を噛まれないように顎を押さえつけながら、その舌を絡め取った。
「っ、ぅ……」
僅かな呻きが聞こえたが、構ってやるようなことではない。強引に舌を絡ませながら、その体を床に組み敷いた。
こちらが誰なのかさえ気付いていないくせに、その神はやはり嫌がらなかった。抵抗らしい抵抗はせず、なすがままになっている。
どこまでも快楽に貪欲なその様に呆れながら、手を動かした。脚を開かせ、熱く狭い場所を申し訳程度には慣らしてやり、そしてその内側に身を沈めた。
「ぁ、あ……っ!」
喉を逸らし、歓喜の声を上げる青年神。その声音にまた苛立ちながら、少し乱暴に腰を動かした。だが開かれ慣れた体には痛みさえ快感に変わるのか、また甘えた声が上がる。
こちらがケツァルコアトルだとさえ、分かっていないくせに。相手が誰であっても構わず、脚を開いて乱れ善がるくせに。
思わず詰ってやろうとしたが、すんでのところで声を飲む。こちらの正体など、教えてやる義理もないことだ。誰に犯されているのかも分からないまま、少しは不安を覚えればいい。
そう決めて乱暴なほどの激しさで揺さぶってやっても、その神には堪えた様子さえない。ただただ甘い声を漏らし、感に耐えない様子で身悶える、その淫乱な神。
見えないことで一層感じるのか、常よりも敏感に震え、悶え、応える肢体。また苛立って、もっと酷く攻め立ててやろうとして、腰を掴み直した時。
「良い加減に、答えてくれても、良いだろう」
そう、甘えた声がねだった。目隠しを透かして気配を探ろうとするように、そのかんばせは真っ直ぐにケツァルコアトルに向けられている。
自ら目隠しを外そうとするたびにその手首を掴んで咎めてやったから、もう外そうともしない。床に投げ出されていたその手が動いて、腰を捕まえているケツァルコアトルの手首をなぞった。
「お前の、名を呼びたい。教えても、くれないのか」
快感に吐息を乱して、頰を上気させて。甘い声でその神はねだる。けれどそんなことで絆されたりはしない。逆に不快感が燃え上がって、何も言わずにまた腰を突き上げた。
「ひ、ぁ!?」
仰け反った青年神の喉から甘い悲鳴が溢れる。そんなことには構わず、ケツァルコアトルは一層激しく繰り返し突き上げ、乱暴なほどの強さで攻め立てた。
「あ、ぁ、あ……」
突き上げ揺さぶってやる度に、開きっぱなしの青年神の唇から漏れる声。蕩け切ったその表情。苛立ちと憤りに劣情を煽られ、ケツァルコアトルは殆ど我を忘れて腰を突き動かした。
も、っと。見下ろす先で、唇が声もなく囁いた。
床でぐったりと手足を投げ出しているその神は、気をやっているのか何も言わない。ケツァルコアトルも口を噤んだまま、装束を直して身支度を整えた。
淫らなこの神の振る舞いには慣れているのか、神官達が様子を見にやってくることさえなかった。帰り際に見つかりさえしなければ、この神には誰に犯されたのかさえ分からないままだろう。そう考えて、少し気分が良くなった。
『名を呼びたい』
甘えたその声は、その甘ったるい言葉は、単なる空虚な偽りだ。何とか自分を犯している相手を見定めようとしたこの神の、苦し紛れの策略だ。それに引っ掛からなかったことは、一つの勝利と呼べるかもしれない。そう考えることは気分を浮上させた。
だが何も言わずに立ち去ろうとした時、背後の気配が身動いだ。気怠げに寝返りを打つ音。そして。
「次は、もっと私を楽しませることだな。ケツァルコアトル」
「っ!る」
笑みを含んで投げかけられた声に、ケツァルコアトルは弾かれたように振り向く。横たわったままこちらに体を向けているその神は、馬鹿にした笑みを唇に浮かべていた。
いつから、気付かれていたのか。どの時点で、どの振る舞いのせいで。あるいは、最初から分かっていて空惚けていたのか。
問い質すこともできずにケツァルコアトルが立ち竦んでいると、その神は気怠げに身を起こした。煩しげに目隠しを外し、眩しそうに瞬きをする。そして、真っ直ぐにケツァルコアトルを見て、また笑った。
「何だ。まだ足りないか」
「っ!?」
嘲るように笑われ、ケツァルコアトルはやっと我に返った。言い返すこともできずに、今度こそその部屋を飛び出す。愉快そうな含み笑いが、追いかけてきて背中を打った。
逃げるように自分の神殿に戻るまで、ケツァルコアトルは立ち止まることもできなかった。
走ったせいだけではない激しさで脈動している心臓。深呼吸をして鼓動を鎮めることさえ思いつかず、震える手足で立ち尽くした。
『まだ足りないか』
馬鹿にして笑った声。あまりにも不躾で卑猥な侮辱。憤ることもできたのに、なぜ自分は逃げ出してしまったのか。
あんなにも善がり、乱れておきながら、平然とケツァルコアトルを嘲ってみせたあの神。侮辱に抗議することさえ思い付かずに、逃げ出してしまった自分。やっと追いついてきた苛立ちは、両者へのものだった。
看過し難い誹謗も、それをうかうかと受け止めてしまった自分も、許されるべきではない。自分はあの中傷に、断固として立ち向かうべきだったのだ。冷たい蔑みを投げ返してやるべきだったのだ。迂闊にもそれができなかったのは、確かに自分の落ち度だ。
会いたくもないあの神とも、いずれはまた顔を合わせざるを得ない。その時は必ず、冷ややかな軽蔑で応えてやらなくてはならない。それがあの淫らな神には相応しいのだから。
深く心に刻み、ケツァルコアトルは装束を解き始めた。
○プチ解説
イツトラコリウキ神
「曲がった黒曜石のナイフ」と言う意味のお名前です。イツラコリウキ神またはイツトラコリウキ=イシュキミリ神と呼ばれることもあります。
テスカトリポカ神(=作中の「青年神」)と同一視された、石と寒気を司る神です。夜明け前の冷え込みはこの神がもたらしていると考えられていました。
アステカ社会の伝統的な刑罰が「石打の刑」だったことから、「石」と「折檻」は近しい概念でした。この紙も、「折檻の神」としての側面の強い神様です。
盲目もしくは目隠しされた姿で描かれる神様で、作中では後者を踏襲しました。
ややこしいので書き入れなかったエピソードですが、この神は「トラウィスカルパンテクウトリ神が太陽神の傲慢に憤慨して攻撃したけれど逆襲されたことで変化した姿」とも言われます。
一方でトラウィスカルパンテクウトリ神はケツァルコアトル神と同一視される神様なので、全部繋げると不思議なことになりますね。
(出典:メアリ・ミラー、カール・タウべ編『マヤ・アステカ神話宗教事典』東洋書林)
何も見ないように目隠しをしたその青年神は、神官らに導かれて神殿へ戻っていくところらしかった。その神が振りまいている夜明け前のような寒気が流れてきて、足を伝い上って心臓を冷やす。
忌まわしいあの青年神の幾つもの顔のうちの一つ。その姿を取りイツトラコリウキと呼ばれる時、その神格は罪人を処罰する「折檻の神」となる。
忌まわしいその役目を果たして、神殿へ戻ってきたのだろう。何も見えていないくせに淀みない足取りで、その神はすたすたと通り過ぎていく。
哀れな咎人を冷酷に、残酷に打ち据えて、罪を嘆き許しを乞う声に片耳さえも貸さず。そうしてただ冷徹に罰を下しただろう神は、石のように無感動な横顔を見せている。
だがケツァルコアトルが目を背けようとした時、それは起こった。見えてでもいるように、その神がふと足を止めて。真っ直ぐにこちらを振り返って。
淫らに、その神は笑った。
「っ!?」
息を飲んだのが聞こえてしまったのだろうか。また笑みを深めたその神が、ふいと顔を前に向けた。もう振り返りもせずに神殿へと帰っていく。ケツァルコアトルの胸の中で激しく脈打つ心臓の音など、聞こえてもいないように。
淫蕩なあの笑み。忌々しい思いで見送るケツァルコアトルの存在に明らかに気付いていて、誘い込もうとしていた表情。それは、見慣れたくもないのに見慣れてしまったものだった。
あの忌まわしい神はいつも、許しも得ずに気儘にケツァルコアトルの神殿に忍び込んでは好き放題に快楽を貪って。淫らな悦楽にだらしなく顔を蕩して、甘えた声を漏らして、熱と悦に揺らぐ瞳を虚ろに光らせて。
ケツァルコアトルとしてもそんな横暴を許してやりたくはないから、自分の上で浅ましく腰を振るその淫売を引き倒して組み敷いて鳴かせてやることもある。浅ましいその神を悦ばせるだけだと知っていても、そうせずにはいられない。
『あ、ぁ……、も、っと』
淫らにねだる声が耳に蘇って。淫蕩な笑みがまた瞼にちらついて。物欲しげに絡みついてくる内部の熱さを、思い出して。
ざわりと、暗い欲が蠢いた。
見咎められることなく辿り着いた奥の間で、その神は身につけていた装飾を外している最中らしかった。神官達も他の誰の姿も、そこにはない。
声を掛ける前に気配で気付いたのか、その神が振り返る。その目元には、まだ目隠しがされていた。
「誰だ」
思わぬ誰何にケツァルコアトルは目を瞠った。無視されたとでも勘違いをしたか、その青年神が苛立たしげに眉を寄せる。いつからか身につけていた傲慢な口調で質してくる。
「誰だ、と尋ねている」
どうやら本当にケツァルコアトルだと気づいていないらしいその神の様子。不満をありありと浮かべて返答を待つその姿を眺めながら、苛立ちがわき起こるのをケツァルコアトルは感じた。
本当にこの浅ましい神は、そこに居るのがケツァルコアトルだと気付かずに誘惑したのか。誰に対してでも、あんな淫らな行いを、色目を使うような真似を、しているのか。誰彼構わず誘い、惑わし、寝床に引き摺り込んでいるのか。
裏切られた、などとは思いもしない。約束など何も交わしていないし、この淫売がケツァルコアトルだけで満足する筈もないことはとうに知っていた。どこで誰を咥え込んでいようと、構ってやるようなことではない。
なのに何故か、不快な思いが拭えない。それはもしかしたら、誰でも良いとばかりに振り撒かれた誘惑に乗せられてしまった自分自身への苛立ちでもあるのかもしれなかった。
答えないこちらに焦れたのか、青年神が一層眉を寄せた。苛立たしげな表情で、目隠しを外そうと手を持ち上げる。
ケツァルコアトルは咄嗟に踏み込んで、青年神の傍に立った。目隠しを解こうとしているその神の腕を、何も言わないまま掴む。そして、そのまま引き寄せた。
「っ……」
声を上げようとする唇に噛みつく。半ば開いていた唇に舌をねじ込む。舌を噛まれないように顎を押さえつけながら、その舌を絡め取った。
「っ、ぅ……」
僅かな呻きが聞こえたが、構ってやるようなことではない。強引に舌を絡ませながら、その体を床に組み敷いた。
こちらが誰なのかさえ気付いていないくせに、その神はやはり嫌がらなかった。抵抗らしい抵抗はせず、なすがままになっている。
どこまでも快楽に貪欲なその様に呆れながら、手を動かした。脚を開かせ、熱く狭い場所を申し訳程度には慣らしてやり、そしてその内側に身を沈めた。
「ぁ、あ……っ!」
喉を逸らし、歓喜の声を上げる青年神。その声音にまた苛立ちながら、少し乱暴に腰を動かした。だが開かれ慣れた体には痛みさえ快感に変わるのか、また甘えた声が上がる。
こちらがケツァルコアトルだとさえ、分かっていないくせに。相手が誰であっても構わず、脚を開いて乱れ善がるくせに。
思わず詰ってやろうとしたが、すんでのところで声を飲む。こちらの正体など、教えてやる義理もないことだ。誰に犯されているのかも分からないまま、少しは不安を覚えればいい。
そう決めて乱暴なほどの激しさで揺さぶってやっても、その神には堪えた様子さえない。ただただ甘い声を漏らし、感に耐えない様子で身悶える、その淫乱な神。
見えないことで一層感じるのか、常よりも敏感に震え、悶え、応える肢体。また苛立って、もっと酷く攻め立ててやろうとして、腰を掴み直した時。
「良い加減に、答えてくれても、良いだろう」
そう、甘えた声がねだった。目隠しを透かして気配を探ろうとするように、そのかんばせは真っ直ぐにケツァルコアトルに向けられている。
自ら目隠しを外そうとするたびにその手首を掴んで咎めてやったから、もう外そうともしない。床に投げ出されていたその手が動いて、腰を捕まえているケツァルコアトルの手首をなぞった。
「お前の、名を呼びたい。教えても、くれないのか」
快感に吐息を乱して、頰を上気させて。甘い声でその神はねだる。けれどそんなことで絆されたりはしない。逆に不快感が燃え上がって、何も言わずにまた腰を突き上げた。
「ひ、ぁ!?」
仰け反った青年神の喉から甘い悲鳴が溢れる。そんなことには構わず、ケツァルコアトルは一層激しく繰り返し突き上げ、乱暴なほどの強さで攻め立てた。
「あ、ぁ、あ……」
突き上げ揺さぶってやる度に、開きっぱなしの青年神の唇から漏れる声。蕩け切ったその表情。苛立ちと憤りに劣情を煽られ、ケツァルコアトルは殆ど我を忘れて腰を突き動かした。
も、っと。見下ろす先で、唇が声もなく囁いた。
床でぐったりと手足を投げ出しているその神は、気をやっているのか何も言わない。ケツァルコアトルも口を噤んだまま、装束を直して身支度を整えた。
淫らなこの神の振る舞いには慣れているのか、神官達が様子を見にやってくることさえなかった。帰り際に見つかりさえしなければ、この神には誰に犯されたのかさえ分からないままだろう。そう考えて、少し気分が良くなった。
『名を呼びたい』
甘えたその声は、その甘ったるい言葉は、単なる空虚な偽りだ。何とか自分を犯している相手を見定めようとしたこの神の、苦し紛れの策略だ。それに引っ掛からなかったことは、一つの勝利と呼べるかもしれない。そう考えることは気分を浮上させた。
だが何も言わずに立ち去ろうとした時、背後の気配が身動いだ。気怠げに寝返りを打つ音。そして。
「次は、もっと私を楽しませることだな。ケツァルコアトル」
「っ!る」
笑みを含んで投げかけられた声に、ケツァルコアトルは弾かれたように振り向く。横たわったままこちらに体を向けているその神は、馬鹿にした笑みを唇に浮かべていた。
いつから、気付かれていたのか。どの時点で、どの振る舞いのせいで。あるいは、最初から分かっていて空惚けていたのか。
問い質すこともできずにケツァルコアトルが立ち竦んでいると、その神は気怠げに身を起こした。煩しげに目隠しを外し、眩しそうに瞬きをする。そして、真っ直ぐにケツァルコアトルを見て、また笑った。
「何だ。まだ足りないか」
「っ!?」
嘲るように笑われ、ケツァルコアトルはやっと我に返った。言い返すこともできずに、今度こそその部屋を飛び出す。愉快そうな含み笑いが、追いかけてきて背中を打った。
逃げるように自分の神殿に戻るまで、ケツァルコアトルは立ち止まることもできなかった。
走ったせいだけではない激しさで脈動している心臓。深呼吸をして鼓動を鎮めることさえ思いつかず、震える手足で立ち尽くした。
『まだ足りないか』
馬鹿にして笑った声。あまりにも不躾で卑猥な侮辱。憤ることもできたのに、なぜ自分は逃げ出してしまったのか。
あんなにも善がり、乱れておきながら、平然とケツァルコアトルを嘲ってみせたあの神。侮辱に抗議することさえ思い付かずに、逃げ出してしまった自分。やっと追いついてきた苛立ちは、両者へのものだった。
看過し難い誹謗も、それをうかうかと受け止めてしまった自分も、許されるべきではない。自分はあの中傷に、断固として立ち向かうべきだったのだ。冷たい蔑みを投げ返してやるべきだったのだ。迂闊にもそれができなかったのは、確かに自分の落ち度だ。
会いたくもないあの神とも、いずれはまた顔を合わせざるを得ない。その時は必ず、冷ややかな軽蔑で応えてやらなくてはならない。それがあの淫らな神には相応しいのだから。
深く心に刻み、ケツァルコアトルは装束を解き始めた。
○プチ解説
イツトラコリウキ神
「曲がった黒曜石のナイフ」と言う意味のお名前です。イツラコリウキ神またはイツトラコリウキ=イシュキミリ神と呼ばれることもあります。
テスカトリポカ神(=作中の「青年神」)と同一視された、石と寒気を司る神です。夜明け前の冷え込みはこの神がもたらしていると考えられていました。
アステカ社会の伝統的な刑罰が「石打の刑」だったことから、「石」と「折檻」は近しい概念でした。この紙も、「折檻の神」としての側面の強い神様です。
盲目もしくは目隠しされた姿で描かれる神様で、作中では後者を踏襲しました。
ややこしいので書き入れなかったエピソードですが、この神は「トラウィスカルパンテクウトリ神が太陽神の傲慢に憤慨して攻撃したけれど逆襲されたことで変化した姿」とも言われます。
一方でトラウィスカルパンテクウトリ神はケツァルコアトル神と同一視される神様なので、全部繋げると不思議なことになりますね。
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