蛇と鏡の誰そ彼刻

水笛流羽(みずぶえ・るう)

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乙女は降りて再び還らじ

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 胸を苛む、後悔の鋭利な刃。心臓を刺し貫かれるような痛みに、ケツァルコアトルは歯を食いしばった。
 二度と戻らない、決してこの手に帰らない、マヤウェルと呼ばれていた乙女神。それはまさしくケツァルコアトル自身のせいで、他の何者にも責任を問うことのできない咎で。だからもはや、自責の念に苛まれながら座り込んでいることしかできずにいる。
 その乙女神を選んだことにもっと確実で正当な理由があったならば、こんなにも胸は痛まなかったかもしれない。本当は乙女神自身に心惹かれたのではないと、自覚しているからこんなにも苦しい。罪悪感の炎は、胸を焼き焦がして病まない。
 乙女神の無垢な笑顔が、もはや思い出せない程に穢された面影に似ていた気がした、だなんて。そんなあまりにもくだらない理由で、ケツァルコアトルはその女神を求めてしまったのだ。
 共に地上に降りようと誘ったケツァルコアトルに、美しく清らかな乙女神は微笑んで頷いてくれた。優しい笑顔で、この手を取ってくれた。その手の温もりに、救われたような気がした。
 手に手を取り合って、共に天を降りた。乙女神を庇護していたその祖母神ツィツィミトルの目を盗み、眠りの隙をついてこっそりと抜け出して。誰にも見咎められないように周囲を窺いながら、遠く遠く逃げのびた。
 ここまで来れば見付かるまいと、ここでならば心安らかに暮らせると。そう安心して立ち止まると、麗しの乙女神はまた微笑んでくれた。
 抱き締めた体の柔らかさを、温かさを、細さを、この腕ははっきりと覚えている。豊かな髪の優しい香りまで、鮮やかに思い描ける。
 互いの想いを確かめ合った、夢のような甘く優しいひと時。そしてケツァルコアトルと乙女神は、枝を絡み合わせた二本の樹に姿を変えた。決して離れないように、いつまでもその地に根を下ろして暮らせるようにと。
 だが、凶暴で執念深い祖母神を侮っていたのかもしれない。執念深く追いかけてきたその恐ろしい女神はとうとう姿を現し、樹に姿を変えた二神を見つけ出してしまった。総身の震えるような、あの怒りの叫び。
 その祖母神が最愛の孫神を害することはよもやあるまいと、ケツァルコアトルにはそんな侮りまでもあったのかもしれない。少しでもその恐ろしい事態を予期できていたならば、身動きの取れない樹木になど変じたりはしなかった。
 憤怒に燃える祖母神が、大切に守り続けた孫神を粉々に打ち砕いて眷属に喰わせるなどと。予想することさえ、ケツァルコアトルにはできなかったのだ。それはあまりにも大きすぎる落ち度で、取り返しのつかない過ちだった。
 もしかしたらこの手が届いたかもしれない、あまりにも近い場所で。ケツァルコアトルの見ている前で。愛する女神であったその樹はばらばらに引き裂かれ、喰われ、消え失せた。
 まだ怒りを収めきれずにいた、あの凶悪な祖母神。眷属に付き従われて天に戻っていきながら、その暗く邪悪な目は確かにケツァルコアトルを見やった。変化を解くことも忘れて呆然としている様を、確かに嘲笑った。
 悪鬼達の姿さえ見えなくなってから、ケツァルコアトルはようやく我に返った。元の姿に戻り、乙女神の樹があった場所へと震える足で駆け寄った。けれど、もう全ては終わっていると知っていた。
 引きちぎられ引き裂かれ砕け散った、なよやかに美しかったその樹。後にはただ、乙女神の骨だけが散らばっていた。
 白い骨をひとつひとつ大切に拾い上げながら、涙さえ出なかった。暗く深い絶望に打ちのめされ、ケツァルコアトルは呆然と立ち尽くした。
 天に持ち帰ることはできない。あの邪悪な祖母神とその眷族に、もう近付けたくはない。だから、その砕けた骨は民が耕している畑に植えることにした。
 やがて生えてくるだろう植物は、民を喜ばせ楽しませることだろう。民は乙女神だった植物を大切に扱い、役立てるだろう。その考えはケツァルコアトルの傷を癒しはしなかったが、その他にできることなどありはしなかった。

 場違いに軽やかな足音に、物思いから覚める。のろのろと顔を上げるとほぼ同時に、その神は無遠慮に入ってきた。
「落ち込んでるのか。笑える顔だな」
 許しも得ずに踏み込んできた忌まわしい青年神が、嘲笑を浮かべて揶揄する。出ていけと怒鳴りつける気力もなく、ケツァルコアトルはその姿から目を逸らした。
「何の用だ」
「随分だな。心配して慰めに来てやったのに」
 気軽に吐かれた「心配」という一語が、ほんの僅かに胸を揺さぶる。遠い遠い輝きの残光が、胸の奥底で儚く揺れる。けれとすぐに、その煌めきは散り果てた。
 あの少年神はもう居ない。二度と戻っては来ない。決してこの手は届かない。
 他ならぬこの邪悪な青年神自身が、あの伸びやかに美しかった少年神の息の根を止めてしまったのだから。ツィツィミトルが大切に守っていた孫神を殺し喰らったのと同じ邪悪な残酷さで、あの少年神は失われたのだから。
「失せろ」
「追い出せばいいだろ、力尽くで」
 吐き捨てた拒絶をそよ風ほどにも気に掛けない青年神は、当然のような顔をして座り込んでしまう。そしてケツァルコアトルの顔を覗き込んできて、場違いなほど美しく笑った。
「可哀想にな、あの女神」
 微塵も同情などしていないと分かる口調で、忌々しいその神は笑う。だがその声音に苛立ったケツァルコアトルが何かを言い返す前に、邪悪ない青年神はまた口を開いた。
「ずっと天に居れば、何も変わったりしなかったのに。お前に唆されて、お前に誘惑されて。お前を信じて、遠く遠く着いて行って」
 軽やかな口調は、責め立てるような強さを含んではいない。そのあっけらかんとした言葉が、ぐさぐさと胸に突き刺さる。
 言い返すこともできない。反論のしようがない。それは確かに、真実なのだから。この自分が、全てを取り返しのつかないほどに変えてしまったのだから。
 何も言えずに、奥歯を噛み締めて俯く。その耳に、軽やかな声がまた滑り込んできた。
「なのに、お前に見捨てられて」
「っ……」
 聞き捨てならない言葉に、はっと顔を上げる。にやにやと笑っている青年神に、やっとの思いで抗議した。
「見捨ててなど、いない」
「そう思うのか?」
 鼻で笑う青年神は、やはり意地悪く笑っている。その笑顔には乙女神の微笑の柔らかさも、あの少年神の笑みの輝きも、ほんの僅かも宿っていなかった。
 なのにその憎らしいほど整った顔立ちは、失われた美しい笑顔と地続きでもあって、あの輝く面影を失っていなくて。そのことにケツァルコアトルはひどく動揺し、動揺した自分自身を嫌悪して。そして、自分の内側へと向いていた非難の声が、耐え難いほどの慚愧の念が、矛先を変えるのを感じた。
 胸を苛んでいた自責の念が、忌まわしい青年神への憎悪にすり替わる。この悪辣な神さえ居なければ良かったのだと、囁く声が聞こえた気がした。
 そうだ、全ての元凶は、諸悪の根源は、この邪悪な青年神なのだ。この唾棄すべき神さえ居なければ、自分は乙女神の無垢な笑顔に胸を温められこそすれ、その全てを我がものとしたいなどとはきっと考えなかった。乙女神を遠くから見守るだけで満足し、天から連れ出そうなどと考えはしなかった。
 そんな愚かな考えをしてしまったのは、失われ穢された遠い遠い笑顔があったからだ。あの少年神のきらきら輝く笑顔を、この邪な青年神自身が完膚なきまでに貶め、汚してしまったせいだ。あの喪失の苦痛に、守れなかったという自責に、また責め立てられることがもう堪え難かったからだ。
 無垢で美しいものがまた輝きを失うことに、ケツァルコアトルはもう耐えられなかった。あの少年神の煌めきが失われたように、乙女神の清浄な微笑みまでもがいつか絶え果てることを、もう見過ごせなかった。どんな災いも及ばない遠い処へと連れ出して、この手で守ってやりたかった。
 だから自分は乙女神を誘って共に天を降り、そして乙女神を永遠に失った。それは元を正せば、この邪悪な青年神があの美しい少年神の息の根を止めてしまったせいなのだ。この忌むべき神さえ居なければ、麗しの乙女神も伸びやかな少年神も、いつまでも幸福だったのだ。
 そう思い当たってしまうと、もう激情を抑えられなかった。笑いながらこちらを眺めている、残忍な青年神へと手を伸ばす。避けようともしないその神を、乱暴に床へと組み敷いた。
 抵抗さえしない青年神を、どう痛め付けてやろうか。どんな痛みならば、この性悪の神に少しでも堪えるか。考えるよりも早く、嘲りの声が吐かれた。
「言い返せないから殴るのか? 無様だな」
「黙れ!」
 かっと怒りが燃えて怒鳴りつけても、余裕の笑みは揺らがない。見下ろされながら見下したように笑うその顔はやはり憎たらしいほどに整っていて、二度と手の届かない美しい輝きを一層醜く塗り潰そうとする。
 怒りに目が眩んで、ケツァルコアトルは思わずその神の首に手を掛けていた。渾身の力を込めて、少しだけ細さを感じさせる首を絞める。見下ろす先で、整ったその顔が苦痛に歪んだ。
 手の中で喉仏が苦しげに動く。形の良い唇がわななき、震える。
 それでもその神は、やはり抵抗さえしない。呼吸さえままならない苦痛に喘ぎながら、見下した笑いを消すこともしない。
 かっとなって、また手の力を強くする。ぐぅ、と苦しげな呻きが聞こえた気がした。視界の端で、床に投げ出されたままの手指がびくりと引き攣る。何とも思わずにそれを見過ごして、一層強く絞めてやろうとした時だった。
 わななく唇が、満足げに笑った。
 はっと、我に返った。咄嗟に手を離す。半ば呆然としながら、激しく打ち始めた心臓を感じた。
 私は、一体何を。
 半ば放心して、体の下で噎せ返っているその神を見下ろす。ようやく呼吸を許された青年神は、苦しげに咳き込んで目に涙を浮かべている。だがその目は確かに、嘲笑を浮かべてケツァルコアトルを侮蔑していた。
 苦しげに噎せこみながら、尚も嘲るように笑う青年神。今まさに殺されようとしたというのに、今尚身動きを封じられているというのに、その嘲りの笑みは揺らぎさえしない。その得体の知れない薄気味悪さにぞっとした時、やっと言葉を取り戻したらしい唇ははっきりと告げた。
「惨めな奴」
「っ!?」
「己の弱さを暴かれるのが、そんなにも怖いのか」
 息を飲むと、畳み掛けるように投げ掛けられる言葉。にやにやと嘲笑っているその顔から目を離せないまま、ケツァルコアトルは声も出なかった。
 そうだ。本当は分かっている。誰よりも自分が理解している。取り返しのつかない事をしてしまったのは、確かにケツァルコアトル自身なのだ。
 どんな理由があったとしても、乙女神に目を奪われたのは自分自身で。乙女神を誘い出したのも、あの土地で立ち止まったのも、樹に変化することを提案したのも、ケツァルコアトルで。乙女神が引き裂かれ喰い滅ぼされるのを助けられなかったのも、ケツァルコアトル自身で。
 判断を誤った。力が足りなかった。それは確かにケツァルコアトルの弱さであり、罪なのだ。他の何者にも、その責を問うことなどできないのだ。誤った決断の最も根源的な要因はこの青年神だが、決断を下したのはケツァルコアトルなのだから。
 何も言えなくなって、歯を食いしばって俯く。と、いかにも優しげに頬に触れる手を感じた。
「憐れだな、弱いって」
 蜜のような声が、柔らかに囁く。その甘やかな響きに、僅かに胸を揺さぶられる。ゆっくりと顔を上げながら、また同じ響きを聞いた。
「大切に思うものを、何も守れない。何もかもが、その手から零れ落ちる。欲しかったものが全て失われていくのを、黙って見ていることしかできない」
「っ……」
 優しく優しく囁かれる言葉が、まだ塞がらない胸の傷に染み込む。温かな指は、慈しみにも似た優しさで頬をなぞる。柔らかな光を宿した瞳から、目を逸らせない。
「可哀想に。つらかっただろうな」
 柔らかに囁きかけながら、温かな手がそっとケツァルコアトルを引き寄せる。抗うことも忘れてなすがままになっていると、眉間にそっと唇を当てられて。
「慰めてやろうか」
 邪気のない笑みで、その神が優しく囁く。温かい掌がケツァルコアトルの首筋を滑り、肩をなぞる。その手つきで、「慰め」がどういう類のものなのかが分かった。
 それは犯すべからざる罪だと、胸の奥の声が訴える。乗るべきではない誘いだと、その手を振り払ってこの神を追い払うべきだと、声は必死に叫ぶ。けれど、その声は朧で弱々しい。
 罪深い行いだと分かっていても。あの乙女神への残酷な裏切りでも。他に選べる道がないことも、はっきりと分かっている。
 その淫らで不道徳な慰めを受け入れなければ、自責の炎に焼き滅ぼされそうなのだ。耐え難い後悔が胸を責め苛み、その痛みに気が狂いそうなのだ。
 痛苦から、僅かの間でも逃れたくて。己の罪から目を背けたくて。罪を塗り重ねるだけと知っていても、どうすることもできなくて。
 だから、ゆっくりと自ら身を屈めて。優しげに微笑む唇に己の唇を重ねることの他には、ケツァルコアトルにできる何事もなかった。

 私は何をしているのだろう。熱に浮かされる頭の片隅で、声が嘆く。打ち消したくて一層強く腰を動かすと、体の下の青年神がまた甘えた声を上げた。
「ぁ、あ、そこ……!」
 もっと、と蕩け切った声がねだる。その厭わしい響きに苛立って、手を伸ばして相手の口を塞いだ。
「黙るんだ」
 吐き捨てると、ゆるりと見上げてくる瞳。熱に揺らぐその眼がじんわりと笑う。その笑みに何を思う前に、口を塞いでやっている手をべっとりと舐められた。
「っ!?」
 舌の熱く濡れた感触に怖気が走り、反射的に手を引く。満足げに笑った青年神が、見せつけるように自分の唇を舐めて、笑いながら告げた。
「お前の肩、噛んでいいなら、黙ってあげる」
 甘えた声で囁きながら、熱い指先がゆっくりと肩をなぞる。淫らなその手付きに、また腰の奥の熱が燃え上がる。答えかねていると、青年神がふふふと笑った。
「やだ?」
 お前が嫌なら、いいけど。嘯く青年神は、ケツァルコアトルに他の選択肢を与えるつもりなど全くないのだろう。甘ったるい淫らな声を延々聞かされるのが嫌ならば肩に歯を立てさせろと、蕩けた瞳は残酷に迫る。
 仕方なくその口元に肩を寄せてやると、青年神は嬉々として噛み付いてきた。小さく硬い歯が皮膚に食い込む。じわりと広がる痛みに眉根を寄せながら、ケツァルコアトルは腰の動きを再開することにした。
「ふ、……ぅ、んんぅ……っ」
「っ、う……!」
 肩口で零れる喘ぎを努めて聞かないようにしながら、快感の呻きを堪える。そうしながら、自分の失敗に気付いた。
 肩を噛ませてやっていると嫌でも距離が近付いて、汗ばむ肌と肌が触れ合って。耳の近くでは甘えた喘ぎが絶え間なく零されて。本来ならば関わりたくもないこの青年神の存在を、否でも応でも強く感じてしまう。
 だが無理に引き剥がせばまた、聞きたくもない声を延々と聞かされるのだ。それを聞かないためには、この感触を我慢しなければならないのだ。そう自分に言い聞かせ、一層のめり込むために腰の動きを激しくした。
「ふ、ぅん……」
 甘く呻いた青年神が、背中に縋り付いてくる。爪で背を引っ掻かれる小さな痛み。それすらも淫らな快感を煽って、ケツァルコアトルは歯を食いしばった。
 乱暴なほどの動きで快楽を追う。青年神のことなど気にかける必要はないから、ただ自分の快感だけを追い求める。こんな穢らわしい神など壊れてしまえばいいと、この手で壊してしまいたいと、願いながら。
 けれど細いようで頑丈な体は壊れさえしない。すんなりとした肢体は淫らな悦びに打ち震え、身悶える。内側の柔らかな肉はケツァルコアトルに絡み付いて、一層奥へ奥へと誘い込もうとする。
 苛立ちに突き動かされ、乱暴に奥深くを抉った。組み敷いている体がくぐもった悲鳴を上げ、肩に一層強く歯を立ててくる。背中に爪を立てられる、小さく鋭い痛み。それがまた生まれるべきではない熱を呼び起こして、居ても立ってもいられなくなる。
 何か言ってやるべきだというような、そんな気がした。自分ばかりがこんなにも苦しんで傷つくのは不公平だと、この青年神のことも傷付けてやりたいと、そんな残酷な思いが胸を貫いた。
 けれどどんな言葉をぶつけてやっても、この性悪の青年神には何ひとつ響きはしないだろう。ただ嘲りの笑みを浮かべ、投げつけた以上の言葉を投げ返して寄越すだけだろう。易々と想像できる結末にまた苛立って、ケツァルコアトルは何も言わずに唇を噛んだ。
 この残忍で残酷な神は、何ものにも傷つくことなどないのだろう。何をされても何を言われても、不遜に笑って一顧だにしないのだろう。ケツァルコアトルが何を言ったところで、その胸には引っ掻き傷すら刻むことはできないのだろう。
 それは強さなどではなく、図太さだとか無恥だとか、そういった部類のものでしかない。恥知らずなその魂は軽蔑されるべきものであり、羨むべきものでは決してない。分かっているのに、ケツァルコアトルはそれが羨ましいような気がした。
 これほど厚顔無恥にしゃあしゃあといられたならば、きっと楽になれるのだろう。厚かましく身勝手な振る舞いを貫けるならば、自責の声さえ聞こえなくなるのだろう。慚愧の念に胸を焼き焦がされる思いも、二度と感じなくて済むのだろう。それはなんと心安らかで、気楽な暮らしだろうか。
 それは憧れるべき在り方ではないと、憧れたとて自分の手には入らないものだと、ケツァルコアトルにも分かっている。それはケツァルコアトルの魂とは、決して相容れない在り方なのだから。
 己を律することに誇りを持っているケツァルコアトルは、決してこの残酷で自堕落な青年神のようにはなれない。そのような在り方に身を落とすことはできない。少しの間は己を誤魔化すことができても、いつかどこかで罪悪感に追い付かれる。遠ざけていた全ての自罰感情に追い詰められるその激痛は、今感じている苦痛の比ではないのだ。
 だからどうしようもない。どうにもならない。できるのは、何も考えられないほどの快楽にのめり込んで、自責の声を聞かないようにすることだけだ。
 だからケツァルコアトルは、そうする他なかった。

 まだ治りきっていない肩の噛み傷が、ちりちりと痛む。思わず眉を寄せ、さりげなく装束を直した。その淫らな傷を、誰か他の神に見咎められるのは耐え難い。
『傷になってる。痛かった?』
 悪いとは全く思っていない様子で、笑いながら肩の傷を撫でてきた青年神。その感触に怖気が走り、手を振り払って冷たく吐き捨てた。
『早く出ていってくれないか』
『冷たい奴だな。枕を交わした相手に』
 しゃあしゃあと詰りながらもその時にはもう、気紛れな青年神はケツァルコアトルを甚振ることに飽きていた様子だった。未練もなさげに身を起こし、打ち捨てられていた装束に手を伸ばした姿。
 すんなりした脚を、ケツァルコアトルの吐き出した精がどろりと伝い落ちる。その光景に狼狽して目を背けると、見透かしたような笑い声が聞こえた。
『自分でやったくせに、見たくもない? ほんと、冷たい奴』
 馬鹿にした笑い声にも、反論さえできない。何も言えずに歯を食いしばる。またくすくすと笑った青年神は、それ以上は言葉を重ねずに身支度を始めた。
 腰衣を巻いて、トリマトリを結んで、装飾品を身に付けて、髪を結い直して。澄ました顔で身形を整えた青年神は、ケツァルコアトルを振り返って気軽に笑った。
『じゃあね』
『早く出ていってくれ』
『ほんと冷たい奴。あんなにがっついてたくせに』
 くすくすと笑いながら、青年神が迷いのない足取りで戸口へ向かう。だが立ち去る前に、ふと振り返って、残酷に美しい笑みを見せた。
『僕に誘惑されたから自分は悪くないって、お前は思ってるんだろ。でも、誘惑に乗ったのはお前だからな』
『っ!?」
 思いがけない侮辱に息を飲む。ケツァルコアトルが反論を思い出す前に、青年神はさっさと姿を消していた。残されたケツァルコアトルには、やり場のない怒りに震えることしかできなかった。
 何という、穢らわしく図々しい侮辱だろう。惑わし貶めようと意図して淫らな挑発をした者が、された者を嘲るなど。そんなことが、許される筈もない。
 だが憤りながらも、その言葉が刻み残していった傷に気づかないわけにはいかなかった。その言葉がほんの僅かだけ真実を射抜いていることを、無視することはできなかった。
 その誘惑に乗らないことも、ケツァルコアトルにはできたのだ。淫らな誘いを振り払い、罪深い行いをせずに、ただ追い出すこともできたのだ。そうしなかったのは、確かにケツァルコアトル自身なのだ。
 それがどんなものであるかを知っていて、ケツァルコアトルは青年神の「慰め」を求めてしまった。自責の声からひと時だけ逃れるために、淫らな快楽を貪ることを選んだ。青年神の残酷な惑わしがあったとは言え、確かにケツァルコアトル自身が選択し決断したのだ。
 過ちの始まりはどこだったのだろう。何がいけなかったのだろう。青年神の誘いに乗せられたこと、青年神の挑発に乗ってしまったこと。乙女神を守れなかったこと、乙女神を誘い出してしまったこと、乙女神に心惹かれたこと。それとももしかしたら、あの少年神を守りきれなかったことなのだろうか。
 何が始まりだったのかさえ、もはや分からない。ひとつだけ確かなのは、乙女神は二度と天にもこの腕にも戻らないということだけ。あの無垢な微笑みは、二度と手に入らないということだけ。遠い遠い少年神の笑顔に、決して手が届かないのと同じように。
 また肩の傷が痛んで、ほぼ無意識に装束を手繰り寄せて傷を隠す。装束越しに触れた指の下で、傷はまた生々しい痛みを訴えた。

◯プチ解説
・マヤウェル女神(Mayahuel)
 ケツァルコアトル神と駆け落ちしたマヤウェル女神の骨から生えてきた植物はマゲイ(竜舌蘭)です。この植物から作る伝統的なお酒が、既にずっと登場させているオクトリ(プルケ)です。
 アステカ社会ではお酒に酩酊して「醜態を晒す」のは重い罪とされたので、実は上流階級の人はあまり飲まなかったそうです。とはいえ広く普及した飲み物でもあったので、「お酒で身を持ち崩して全財産を失った飲んだくれの貴族」も多くいたそうです。

・ツィツィミトル女神と眷属
 ツィツィミトル女神(Tzitzimitl)は星や夜を司る女神で、助産婦や経産婦に崇拝されていたと同時に、太陽と敵対して日蝕の原因を作ってもいるとされて恐れられていたそうです。「ツィツィミトル」の複数形の形でもあるツィツィミメ(Tzitzimime)がこの女神の眷属で、星々の怪物です。
 「第五の太陽の時代」は大地震で終わると信じられていましたが、その際にツィツィミメたちが空から降りてきて、人間を襲って世界を滅ぼすとされていました。
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